• 検索結果がありません。

記号化された消費行動と社会的交換佐 藤 典 子

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "記号化された消費行動と社会的交換佐 藤 典 子"

Copied!
16
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

<論文(社会心理学・社会学)>

記号化された消費行動と社会的交換

佐 藤 典 子  要旨

 今日、必要性や有効性など、道具的機能によってのみモノが選択され、消費 されることはあるのだろうか。必要なものはすべて手に入れた後の消費は何を 基準になされているのか。しばしば、私たちは、その消費したモノを他者に呈 示するのだが、それは、社会的・文化的にどのような意義があるのか。高度消 費社会を迎えたといわれ、消費そのものが記号化し先鋭化される中で、消費が もたらすコミュニケーション機能について論じた。

キーワード

誇示的消費 他者指向型の性格 社会的交換 記号化 社会資本 象徴資本

はじめに

 流行や新たなライフスタイルの提示によって、多くのモノが生産され、消費 されている。消費が低迷している、あるいは、格差社会の到来が叫ばれても、

たとえば、「大人買い」「自分にごほうび」「限定品」「一点モノ」といっては、

すでに持っているものであっても、あるいは、生活に直接必要でないものでも 私たちは購入する。それは、なぜか。

 私たちの行動は、すべて、「態度となって表われる」と社会心理学では考え るのだが、その態度を決定する、あるいは、左右するのは、「心の動き」その ものである。すでにあるものを買う、買うことで自分を表現する、このような ことが起きているのだとすれば、こうした「心」のありかた、すなわち、「心理」

が消費行動を左右していると言える。では、このような心の動きは、なぜ見ら れるのか。消費行動を分析したさまざまな研究を歴史的に振り返りながら現代

(2)

の消費行動の意味について考察したい。

1.消費行動と社会的性格

(1)誇示的消費

 人は、モノを、それがもたらす具体的な有用性や使用価値にゆえにのみ消 費するのではなく、モノを消費する人間の地位や経済力を表わす社会的指標と なっていることをヴェブレンは、『有閑階級の理論』(1911=61)において論じ た。19世紀後半から20世紀にかけてのアメリカは、産業が拡大し、企業合同が 繰り返され、大量生産と大衆消費社会がまもなく到来しようとする時代であっ た。ヴェブレンは、19世紀末のアメリカの有閑階級と呼ばれ、働かずとも生活 できる資産を持って、日々、暇をもてあまして社交や娯楽にふける階級の者た ちが、浪費することを目的とした消費を繰り返し、それによって、社会的権威 を獲得しようとする行動を、有閑階級による消費行動を「誇示的消費」という 概念で説明しようとした。彼らは、「余計な」「無駄な」ものを消費すること によって、自らの威信を高めると信じる彼らの消費の特徴を示している。こう したモノの「間接的・第二次的効用」が消費の主要な動機付けとなる。誇示的 消費に向かう人々の行動は、物質的窮乏でもなく、モノそのものの有用性でも なく、モノの所有、消費がもたらす社会的地位の「差異的比較」であり、それ によって、他人を凌駕しなければならないのである。こうして仲間の賞賛や羨 望を得たいというヴェブレンのいう「差別的比較の習慣」こそが、この誇示的 消費行動の目的である。それゆえ、この消費によって得られるものは、しばし ば、「金のかかった不便さ」であることも特徴的であり、安価であることや便 利さは個々では問題にならない。他者といかに差異を見出し、ブルデューの言 うように卓越化するか、というようにそのことに血道をあげるのである。

 やがて、市場経済が社会に浸透することによって大衆消費社会が到来すると、

こうした心性は、有閑階級を夢見る他の階級にも広がりを見せる。心の動き

(3)

を態度でどのように示すかは、行動によって他者から見ることができるように なるのだが、それを意識して行動した場合、社会心理学では、「自己呈示」と いう概念で示すことができる。「自己呈示」とは、他者から肯定的なイメージ、

社会的承認、物質的な報酬などを得るために、自己に関する情報を他者に伝達 することを言う。そこには、非言語コミュニケーションも含まれ、他者への言 語以外の働きかけも意味を持つと考えられる。そこで、消費行動も自己呈示の 一つ、自己表現の一つと考えることができるのである。それでは、なぜ、この ように他者の目を意識した行動を取るのか、パーソナリティ研究からも消費行 動の変遷について考えてみたい。

(2)他者指向型の性格

 法律家から法学教授となり、やがて社会学研究を行なったリースマンは、所 属する社会の状況に適応するように、第1次集団である、家族によるしつけ、

教育などによって、「社会的性格」ともいうべきあり方を習得すると考えた。

社会的性格とは、フロムの社会心理学研究である『自由からの逃走』(1941=

51)の中で記された概念である。フロムは、「どのような社会でも、それがう まく機能するためには、その成員が、その社会、あるいはその社会のなかでの 特定の階層の一員としてなすべき行為をしたくなるような性格を身につけてい なければならない」と述べたが、この考え方からリースマンは、社会的性格は、

一人一人の個人の特性ではなく、社会の側が個人に要請していく周囲の世界へ の「同調性の様式」があると分析した。それゆえ、社会の変化によって、この 社会的性格も変化すると考え、さまざまな時代の状況に応じて、『孤独な群集』

(1950=64)の中で3つに類型化する。

 その一つは、「伝統志向型」と呼び、前近代の伝統的社会においては、その 地方における慣習、しきたりや風習などを重んじ、忠実に順応しようとする性 格である。二つ目は、産業革命以降、近代化に伴って出現する社会的性格で「内 部指向型」である。近代化における混沌とした大きな変化の時代においても、

(4)

自己のとるべき道は自己によって決断され、自己の信念によって価値観を築き 上げ、それに従って行動する性格である。自己の方針が揺らがない彼らを「ジャ イロスコープ(羅針盤)型人間」ということもある。三つ目は、大衆消費社会 において、他者の動向や嗜好を絶えず気にかけ、自己の行動をそれに合わせて いこうとする性格類型であり、対人関係をいかに保つかによって自己のあり方 を規定していくという特徴がある「他人指向型」である。資本主義の成熟した 時代においては、前述の通り、生きていくために、最低限のものをいかに手に 入れるかということに専心する必要はなくなった。しかし、その代わりに、他 者からどのような眼で見られるかということを意識して、自己の態度を決める。

それは、消費行動においても同じで、雑誌やテレビ、現代では、インターネッ トなどをはじめ、多くのマスメディアに影響されている。彼らは、「レーダー 人間」とも言われ、常にアンテナを張り巡らせていることが特徴である。自分 が置き去りにされているのではないかと絶えず、不安になり、他者の承認を強 く望んでいる。自己の存在理由が他者からの承認そのものだといっても過言で はない。ここで言う「他者への関心」というのは、自己への関心の裏返しであ り、他者が自己をどう思っているか=自己はいかなるものであるのかという答 えを他者に求めているに過ぎない。個人にとって最も影響力のある他者である 仲間の中で、人は、「出すぎてはいけないが、といって『無能』や『価値がない』

といったレッテルを貼られても困る」と考える。その人間関係の中でリースマ ンが考える最も望ましい態度は「敵対的協力」というものだった。仲間と楽し く時間を過ごす一方で、時には、相手に判定を下す陪審員としての側面も持ち 合わせ、二重の役割をお互い持つのだという。そのとき、仲間内、社会心理学 で言うところの「内集団」では、共通の趣味を持っているのだが、それは、個 人的に興味があるからというよりも、その内集団の凝集性を高めるための装置 として、不可欠なものである。とりわけ、消費行動においても、他者の目を気 にすることは、避けられず、ヴェブレンが言うような他者から抜きん出ること を最大の目標にした消費ではなく、「一番人気のある商品は、大多数の人々に

(5)

よって使われている商品」であるとして、結果的に、ヒットする→皆が持つ→

流行する、という循環をもたらす。しばしば、ファッション誌で「この服を着 て差をつけよう」と特集されるファッションが、実は、大勢の人に消費されて いるスタイルであるといった矛盾にしばしば気が付かないことと似ている。あ るいは、気が付かないフリをして、仲間内から逸脱しないように注意している のかもしれない。つまり、それが、今、ヒットしているからといってそれが不 変のヒットではないことを皆知っている。次は何がくるか、「レーダー」を張 り巡らせているのである。また、その消費の対象である欲望が自分固有のもの なのか、他者の影響によるものなのか、その境界があいまいであることも一つ の特徴であろう。

 また、リースマンが分析を行なったのは、「内部指向型」人間から「他者指向型」

人間へと多くの人々の社会的性格が変化する過程で、第二次大戦後のアメリカ において、大都市の中産階級、それも若い世代に浸透しつつあるこの性格をもっ た人々の増加がみられた。リースマンは、「この型の性格がアメリカ全体のヘ ゲモニーをとることは、現在の傾向から見て時間の問題である」とし、いずれ、

産業化が飽和段階に達した国々でも同じことが起こるであろうと分析した。

2.社会的交換理論

 こうして、現代人のパーソナリティの特徴は、社会的性格が他者指向型へと 変化してきたことが一つ挙げられるであろう。では、他者指向型のパーソナリ ティでは、どのような行動すなわち、心の動きがあるのであろうか。

 他者指向型のパーソナリティでは、多かれ少なかれ、「他者のまなざし」が 行動の基準となる。そうした場合、他者のまなざしを意識して行なわれる行動 とは、自己を犠牲とする場合も少なくない。しかし、そこでは、全くの無私に よって行なわれるばかりではなく、むしろ、愛他的な行動を取ることによって、

有形無形であれ、評価を得たいという感情が存在する。そして、自分が行なっ た他者のための行動によって評価を得るということは、社会心理学で言うとこ

(6)

ろの社会的交換の一つと説明されるが、社会的交換とは、対人関係におけるさ まざまな交換を包括する概念で、経済的交換も含む。ここでは、その仕組みを 整理してみたい。

 

(1)社会的交換とは

 社会的交換によって説明されるのは、個人や集団の間の関係、すなわち、対 人的相互作用を物質的、精神的、社会的資源の交換としてとらえることで、交 換当事者の報酬とコストの観点から分析し、対人魅力や対人関係の満足度、権 力関係などである。経済的交換との違いは、その交換される財の多様性にある。

たとえば、金品などの物質だけではなく、目に見えない愛情、賞賛などの心理 的財や地位、名声といった社会的財、サービスや情報、満足感などの量的にも 質的にも測定しがたいものが含まれる。

 人類学者のレヴィ=ストロースは、フランス人がレストランで相席になった とき、お互いの注文したワインをお互いのグラスに注ぎ合う習慣があることを 例に挙げ、「同じワイン、同じグラスである以上、経済的に損得はないのだが、

相席になった以上、お互いの関係を無視したり、といって、何らかの関係を構 築するわけにも行かず、そのような緊張関係を緩和する方法として、ワインを 注ぎ合うことによって、社会関係の空白を回避することができる」としている。

言ってみれば、一期一会の関係ではあるのだが、仮の友好関係をにわかに作る ことによって無難に食事をすることができる。一見、損も得もないワインの交 換によって、社会的交換が成立していると見ることができる。

 また、社会心理学では、U.G.フォアとE.B.フォア(1976)が、交換財を個 別性と具体性の2次元に分類している。個別性とは、それが、何にあるいは誰 によってもたらされたか(財の与え手)、具体性とは、財が具体的な形態を持 つ程度である。たとえば、地位や名誉などは、具体性は乏しい。愛情のやり取 りなど個別性が高い財に関しては、交換がその場で終了せず、友人関係や恋愛 関係のように長期にわたって継続される。具体性が乏しい財に関しても同じよ

(7)

うなことが言えると述べている。また、相互依存性の理論を構築したJ.W.ティ ボーとH.H.ケリー(1959)によれば、相互作用の結果に正の成分(報酬)と 負の成分(コスト)があるとすると、実際の結果が比較水準(CL)を越える 関係に満足を感じ、選択比較水準(CLalt)を越える関係を継続させようとする。

交換過程の説明要因として重視されることは、勢力と公正規範であるが、勢力 は、その関係への依存度によって決まり、公正規範は、その社会の持つ常識に よって設定され、絶対的な基準はなく、文化依存度が高いといえる。その関係 における依存度が高い者は勢力が弱く、交換条件次第で相手に譲歩することに なり、また、交換条件は公正規範に従う傾向があることを社会心理学の実験か ら導き出している。社会的交換は、目に見えるだけの損得ではなく、このよう にさまざまな戦略に基づいて行なわれていることがわかるであろう。

 

(2)お返しはどうするか――交換の互恵性

 人類学者のA.W.グールドナーは、「他者から行為や援助を与えられたら、そ の他者に同程度の価値のあるお返しをしなければならない」という互恵規範が 多くの社会に存在することを指摘した。財を与えた者は、そのコストを負うの だが、そのコストを進んで負うことによって、社会関係は、スムーズに構築さ れる。しかし、負うだけでは、交換は成立せず、負うからには、その見返りが 求められる。見返りがあることがあらかじめ、保証されていることによって財 が提供される。そして、その量と質に合った報酬が与えられるのである。これ は、経済的財と異なって、社会的財は、その社会の文化的な背景の影響が特に 強く、ものの考え方が色濃く反映されているからである。

 では、なぜ、このような社会的交換が行われるのかといえば、社会的交換が コミュニケーションの一形態であり、非言語コミュニケーションをも包括し、

両者の関係性を深めることができるからである。いわば、社会的交換はあから さまではない感情のやり取りを内包しているとも言えるであろう。たとえば、

家事労働などは、24時間365日開いているコンビニがいたるところにあり、食

(8)

事の心配はないし、掃除は、多くの業者が参入し、スーツやコートなどの大型 衣料品を扱うクリーニング店だけでなく、下着やタオル、Tシャツといった日 常的に自宅の洗濯機で洗っていたものを、袋につめて預けると、洗濯してデリ バリーしてくれる店舗も首都圏を中心に増えている。家事は、こうして主婦が 行なう無賃労働からお金さえ支払えば、第三者の手を通してサービスを受けら れるものとなり、選択肢も増えている。しかし、たとえ、所得が十分にあった としても、家事をすべてアウトソーシングすることはそれほど多くはない。そ こには、主婦である妻なり、母なりが愛情をこめてそれら行為を行なうという 心情が外部委託することで損なわれると信じられているからだ。お金で気軽に 買えるはずのものを敢えて買わないことがあるのは、それによってある関係性 にひびが入る、あるいは、喪失、崩壊すると信じられているからだろう。とく に、現代でもジェンダーロールが根強い日本では、こうした集合意識は揺らい でおらず、これらの信念体系は家庭だけでなく、職場や学校においても見られ る。社会的交換が関係性を規定するといったこうした事例は、弁当を買ってき てしまえば、安く、おいしく食べられる食事であっても、料理が下手な妻や母 であっても、その手作りにこそ価値があると思われている。そこに価値を見出 す限りにおいて、社会的交換が愛情をもやりとり可能であり、関係性を再生産 する装置の一つとなっているとも考えられる。

3.記号を消費する:バルトからボードリヤールまで

① 分類された思想コード

 先ほど、社会的交換は非言語を用いても行なわれるとしたが、それは、どの ように行なわれるのか、本項で検証したい。

 文学批評家として知られるロラン・バルトは、著書『神話作用』(1957=72)

の中で、一つの価値観あるいは分類された思想コードについて分析した。ある 事物や現象、ひとが想起させるものが持つ意味、すなわちコードが、それが前

(9)

面に出ている限りは気が付かない、そのものの別の側面を想起するように促し た。たとえば、日本人にとって、コメ、オランダ人にとって牛乳、イギリス人 にとって紅茶、フランス人にとってワインがもたらす、その文化にとってトー テム的な飲食物が存在する。それらがその文化を持つ人々にもたらす幸福感こ そが、「神話作用」なのである。バルトが神話と言っているのは、マスメディ アや芸術、世間の「常識」が日々私たちにもたらす、現実についてのある観念 や事物の感覚の仕方である。フランス人にとって、ワインはさまざまな神話を 持っている。ワインそのものやワインを飲むことに関するさまざまなフランス の民謡やことわざ、文学、映画の1シーンがあるが、それらのディスクールや 構図の中で示され、それは、フランス人なら誰もが知っているのだが、その普 遍性そのものが、フランス人にとってあるワインに対する態度として画一性を 要求するという。よって、ワインを悪く言う、あるいは、ワインを飲まない人 は、フランス人として不適格なものとしてその集団から白い目で見られる。歴 史的あるいは文化的にたまたまフランスにはワインがもたらされ、その生活と 共にワインがあっただけであるのに、それは、「自然」で「自明」のこととなる。

このような認知の様子とそれによる決まりきった態度のあり方が神話作用とバ ルトは述べている。バルトはやがて記号論を展開していくのであるが、そこに おいても自明性がもつ静かな、しかし、確実な暴力性というものに目を向けて いる。記号は、単に記号として存在するのではなく、記号の意味を理解し、交 換する人の存在によって意味を持つ。その中で、一見、暴力や権力と無縁に見 える日常のさまざまなものが持つ力について、同様に目を向け、さらに分析を 先鋭化させたボードリヤールについて次に見ていきたい。

② 記号の消費

 ウェーバーによれば、近代は、「生産と消費」が明瞭に分離した時代、すなわち、

消費が生産の論理とは異なる文脈で論じられるようになった。社会学者ボード リヤールが『消費社会の神話と構造』(1970=75)などの著作の中で論じたよ

(10)

うな「記号の消費」と「消費の社会化」を特徴とする社会の出現である。物自 体の象徴的な交換から消費者のコミュニケーションの中に象徴性が含まれ、モ ノは消費する側のさまざまな関係性においてその意味を変える。そして、大量 消費時代を迎え、商品が実際の使用価値を持つものとしてだけでなく、記号と して出現するようになったのである。象徴的意味を持つモノは、社会関係を形 成するメディア(媒体)として働き、消費は、コミュニケーションとしての社 会的交換であるという意味において社会的である。このことが、「消費の社会化」

を示している。マクルーハンは「メディアはメッセージ」であるとして、メディ ア自体がもつメッセージ性に早くから着目したが、さまざまなモノが記号とし ての意味を発するにつれ、その傾向は加速した。

 ボードリヤールによれば、現代資本主義の問題は、大量生産を可能にしたも のの、無限の生産力とそれが生産する生産物を売りさばかなければならないと いう矛盾の間にあるという。必要性が満たされ、消費者の欲求が満足されても、

生産し、販売しなくてはならない。そのときに有効なディスポジティフ(装置)

として何が有効なのか常に考えなくてはならない。たとえば、携帯電話が普及 した後で、そこに付加される、デジタルカメラやメールの機能だけでなく、ワ ンセグ対応機器であるか、海外でそのまま使えるか、はたまた、パソコンと同 じ機能がついていて、あたかも、電話機能が付いた小型パソコンとも言うべき 機種が登場した。本来の電話の機能としては過剰な部分において、電話を「再 記号化」し、電話としての使用価値や機能とは異なる部分で別の記号的な価値 を付与して生産することへ変化していく。また、記号などで表わしたほうが詳 細に明らかにされている以上に、メッセージ性が強く、「分かる人にはわかる」

という隠蔽性と限定性をもたらすということも重要な点である。

4.ブルデューの資本概念

 経済学で言うところの生産関連ないし、生活関連の物的インフラストラク チャーといった形として目に見える資本である「社会的(共通)資本」ではな

(11)

く、社会学で言う「社会(関係)資本」は、人間関係の中で規定される概念で ある。お金に換算できる経済資本ではないが価値があると認められるものやこ とは、しばしば、象徴的な形でその価値を表す。例えば、社会学者のブルデュー は「ああ、あの人なら知っているよ」というパーティなどの会話においては、

それは、単にその人が知己であるという事実だけではなく、パーティの会話に 出てくるようなひとかどの人を知っている自分の価値を高める働きをしている ことを示す。「コネ」や「人脈」と呼ばれ、個人間や組織間での社会的ネットワー クに埋め込まれたかのような資源を「社会(関係)資本」というが、その「社 会(関係)資本」は、それだけが存在するのではなく、人間関係の中で初めて 機能するということが特徴である。それは、個人や組織が所有する資本なので はなくて、AとBがつながることによって生じる、いわば、有機的連帯の中で こそ意味をもつ。

① 象徴資本と「場」の理論 

 また、ブルデューは、社会資本だけでなく、目に見えないが、貨幣同様に評 価され、価値のあるものと認められるものとして、文化資本を挙げている。

例えば、それは、学歴や身につけた作法、所作など決まった尺度で測れるもの ではないが、社会の中で価値のあるものとされるものをこう呼んだ。そして、

社会資本と文化資本の不可視の資本を併せて、象徴資本と定義した。これらす べての資本は、一方が増えると他方が増えるという相乗効果を持った資本であ る。例えば、SSM調査(社会階層と社会移動全国調査) などでも分かるよう に、高学歴取得者は、高収入の職に就き、再生産過程においては、その子もま た、高い学歴を持ち、専門性が高いなどといった高収入の職を得られる。いわ ゆる、日本には、「お受験」というものがあるが、それは、子供が賢いだけで なく、その学校に通わせるための経済資本がなくてはならない。また、お受験 は、子供の知能だけではなく、気質や校風に合致するかなどの資質が問われる。

そのためには、学校ごとに要求されるテストや面接の課題に沿った問題を知り、

(12)

その対策を立てなければならない。そこで、専用の塾や家庭教師が必要となる のだが、それは、お金を払えばいいというのではなく、だれだれの紹介という 社会資本を必要とする。そうでなければ、そこにアクセスすることはできない。

最小限の資源で最大の利益を望むとすれば、お受験に必要な社会資本は自分自 身の経験で調達することができる。つまり、自分が卒業生であるという文化資 本を持つことが最も近道なのである。経済資本を得るものは、社会資本を得る だけでなく、文化資本も得るという果てしない連鎖によって富を得る。

 

② ハビトゥスとプラティックで表されるもの

 ブルデューが強調するのは、ただ、ネットワークの中で、社会資本が共有され、

使用され、例えば、地域づくりなどを有機的に行うといった肯定的な文脈では なく、むしろ、特定の人にしか、それが与えられておらず、不平等が促進され ていることである。しかも、そのことは、表立って論じられることもなく、持っ ている人がさらに持ち続けるという事実としてしか受け取られていない。そし て、また、このように一部の人しか気付いていないという、その隠蔽性によっ て、こうした社会資本の価値が一層高まるという効果をもたらしていることを 指摘している。

 そして、ブルデューの資本概念の特徴は、資本をこれ見よがしに見せること は、品格が劣っている行為とみなされ、その資本を所有していてもその効果を 本質的に持たないとみなすことである。たとえば、にわかに金持ちになったい わゆる成金が、それを購入する段になって、お金を出せば買えることばかりで はないことに気が付くことと似ている。たとえば、高級な料亭に出入りするこ とやお茶屋遊びは、お金を持っていればできるわけではなく、「一見さんお断り」

の原則によって、よそ者は排除される。よそ者、つまり、その「場」に相応し くない者と判断されるのである。つまり、経済資本だけで、そうした遊びの「場」

が機能しているのではなく、その消費の過程の中で、社会的・文化的な要素が 機能していることが分かる。ブルデューの考えるコスト・ベネフィットは、そ

(13)

のコスト・ベネフィットの「場」に合致するプラティックこそが、その者が持 つハビトゥスの社会的位置づけを表わす。であるからこそ、経済資本を手に入 れた者は、次に、お金では手に入れられないものをお金によって手に入れよう とする。それは、「場」の社会的上昇をもたらすからだ。とはいえ、その原理 は、隠蔽されたものであり、社会的に上位の「場」にいる者にとってさえ、ど のような仕組みでそれが運営されているのかは気付いていない。そして、それ は、気付いていないからこそ、うまく(自然に)できるという相乗効果がある のである。隠蔽された内容を言葉で表わすとすれば、上品さ、教養の深さ、し とやかさ、慎み深さ、思慮深さなど、具体的に何をどうすればそうであるとい えるのか、それを実践する(プラティック)には、まさに、そのハビトゥスを 持っていることが条件であるとしか言いようがない。

 ブルデューの指摘の重要な点は、資本は経済資本であれ、象徴資本であれ、

どのように使うかということにこそ、本来的な資本の価値があると考える点で ある。つまり、経済資本をどのようなとき、どのタイミングでいくら使うか、

ということは、どのような出自であり、教育を受け、教養を持ち、それらに応 えてきた人材であるかということを端的に表すのである。同じ経済資本を持っ ていたとしても、社会的な評価は同等にはならない。前述の文化資本がそこに 加わらなければならず、その品格や教養といった、一つの尺度では測れないも のさしによって最終的な個人が持つ資本の価値が決まるのである。つまり、ブ ルデューの言う資本概念は、隠蔽される(資本の本当の価値、仕組みが部会者 には分からない)ことによって価値の高まる象徴資本が経済資本を凌駕し、あ るいは、包括していると考えることができるであろう。そこには、その資本を 交換することによる、匿名性、特別感、つまり、選ばれし者だけが、それを所 有することができる優越感がもたらされ、記号としての資本が最大に機能を発 揮するのである。

(14)

おわりに.モノ語りの人々から「kawaii」と叫ぶ人々まで

 精神科医の大平健は、その著書『豊かさの精神病理』の中で、彼が「モノ語 りの人々」と呼ぶ人を登場させる。それは、特に、顕著な精神的疾患を持って いるわけではないのだが、自己や他者について直接語ろうとはせずに、その持 ち物やそれにまつわる評価によってのみ、人について語ることができる人のこ とを、こう呼んでいる。自己についての感情や思いを語ることは苦手だが、自 分の持つ持ち物については、饒舌に語る。服装へのこだわり、ブランド、思い 入れなどから、自己や他者について語る。このように、ブランドや自身の持ち 物へのこだわりを提示するときは、まさに、社会心理学で言うところの自己呈 示の瞬間である。そして、彼らが究極的にあこがれることは、いわゆるセレブ と呼ばれる有名芸能人や高所得者と同じものを持つことによる社会的な効果で ある。単に、かばんを所有していることを自慢しているのではない。それは、

社会資本や文化資本を所有することの表象であり、その地位にいることを端的 に示す。そこには、自分を大きく見せようとする戦略がある。そして、そのな かにいる者、すなわち、「内集団」にしか分からない記号化された消費の実態 がある。ブランド物や店の名前、こうしたものを織り交ぜた文章や時には、デ ジタルカメラでモノそのものを映し出して、効果的に演出しながらブログで自 己呈示を行ないながら、その感覚を共有するのである。

 それでは、なぜ、このような社会的交換すなわち、コミュニケーションが成 り立つのか。さまざまな事柄を記号化する意義は、すべてを語らなくても仲間 内なら分かる、いわば、「内集団」の論理を働かせるためであろう。社会学者 の荻野昌弘は、日本語の「かわいい」は、もはや世界的な共通語であり、「kawaii」

は、「消費文化を支える論理」になっているという。「かわいい」の意味世界は、

反対語をも包含し、対立軸を融解させ、暴力の発生を封じ込める作用があると 述べている。つまり、「かわいい」は、反対の意味であるとされる「キモかわいい」

や「ブスかわいい」といった言葉でさえ、「かわいい」に転じうる可能性を持っ た言葉だというのである。そして、「かわいい」にあらゆる「ひと」や「モノ」

(15)

を取り込む作用があり、そこでは、「かわいい」と発するたびに、その内集団 にその「ひと」や「モノ」が「かわいい」ことを認知させ、その思いを共有、

交換する。

 バブルがはじけた「モノ語りの人々」の時代から10年以上経った今、日本的 経営が崩壊しつつあり、「勝ち組」「負け組」といった格差社会の出現がリア ルさを増している時代に、漠然とした不安感が記号化された消費を促進し、ま た、自分が所属する内集団からは少なくとも取り残されていないことを確認す るために、「かわいい」といった言葉で自らの気持ちを表わす。それは、ブロ グなどの日記のように絶えず更新されていなければならない。なぜなら、自己 が所属しているはずの「内集団」の定義は日々変わるからである。

 このように、社会的交換が有形であれ無形であれ、複雑化することによって、

その表現方法の一つである消費行動も変化し、社会関係構築のための戦略が、

消費行動から見て取ることができる。そして、所属する「内集団」が変わるこ とによって、その戦略も刻々と変化するのである。

〈文献〉

Barthes, R.,

Mythologies

, 1957.

Baudrillard, J.,

La socie te de consommation : ses mythes, ses structures,

1970.

Bourdieu, P.,

Le Sens pratique,

1980, Les Editions de Minuit, Paris.

Mason, R.,

The Economics of Conspicuous Consumption

,1998(鈴 木 信雄、

高哲男他訳『顕示的消費の経済学』名古屋大学出版会2000)

荻野昌弘『日仏学術交流のルネッサンス 要旨集録』日仏会館2008

Riesman, D.,

The Lonely Crowd

, 1950(加藤秀俊訳『孤独な群集』みすず書 房1964)

Veblen,T.,

The Theory of the Leisure Class : An Economic Study of Institutions

, 1911(小原敬士訳『有閑階級の理論』岩波書店1961)

  「きた」の反対は「たき」ではなくて、方角の「南」であることを知っていることも

学校教育の成果であり、文化資本の一つである。

(16)

1955年以来、10年おきに日本全国の20 ~ 69歳の人を対象にその職業キャリア、学歴、

社会的地位、さらには両親の職業、学歴など階層に関わるさまざまなデータを集めて いる。      

(さとう のりこ 本学講師)

参照

関連したドキュメント

本文に記された一切の事例、手引き、もしくは一般 的価 値、および/または本製品の用途に関する一切

〜30%,大腸 10%,食道 10%とされ る  1)   .発育進 展様式として壁内発育型,管内発育型,管外発育 型,混合型に分類されるが,小腸の

 もちろん, 「習慣的」方法の採用が所得税の消費課税化を常に意味するわけではなく,賃金が「貯 蓄」されるなら,「純資産増加」への課税が生じる

3 当社は、当社に登録された会員 ID 及びパスワードとの同一性を確認した場合、会員に

平均的な消費者像の概念について、 欧州裁判所 ( EuGH ) は、 「平均的に情報を得た、 注意力と理解力を有する平均的な消費者 ( durchschnittlich informierter,

私たちは、行政や企業だけではできない新しい価値観にもとづいた行動や新しい社会的取り

歴史的にはニュージーランドの災害対応は自然災害から軍事目的のための Civil Defence 要素を含めたものに転換され、さらに自然災害対策に再度転換がなされるといった背景が

定的に定まり具体化されたのは︑