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日本における中国語の教育について①

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日本における中国語の教育について①

漏 富榮・杜 英起

はじめに

 ここ数年、中国は、目覚しい経済発展を遂げ、GDPが世界の第六位に踊り出た。ファッ クス、テレビ、冷蔵庫などが世界の約半分のシェアを占めるようになり、世界の製造工場 として、その地位が確立されつつある。こうしたことを背景に、中国語の学習ブームが世 界的に起こっている。中日新聞(2002年6月10日)によると、韓国の名門である韓国外 国語大学では、大学が創立して以来の最高の入学競争率を創ったのも、大学全体でのトッ プ成績を出したのも、また今年就職難の中でも最高の就職率を示したのも、大学の26学 科の中での中国語学科であるという。

 一方、日本でも、中国の安い労働力を求めると同時に、中国の大きな市場を獲得するた めに、中国に進出する企業がここ数年急増してきている。生産拠点の移動がもっとも困難 だとされている日本の自動車産業も、生産を大幅に中国へ移すようになった。しかも、日 本への逆輸入よりは中国市場での販売を目的とするところが多いようである。巨大な人口 を抱え、巨大な市場を有する中国は、投資家にとってすでに魅力的な存在となってきてい る。こうした情勢の中で、中国語のできる人材を求める企業も当然多くなってきている。

よって、日本でも中国語の学習者は、増加していく傾向にあると予想される。従って、中 国語教育も新たな局面に立ち向かっている。つまり、日本における中国語の教育は、いか にすれば、この新たな局面に順応できるかという議論が必要となってくる。

 中国語の教育者として常に問い続けていることは、おそらく「もっとも効果的な中国語 教育とは何であろうか」、「もっともよい中国語の教材とは何であろうか」、また「教育の目 標はどこに設定すればもっとも適切であろうか」といった質問だと思われる。しかし、ど んなに議論を重ねていても、統一した見解を得るのが困難であろう。なぜならば、教育の 対象が違うと回答がもちろん違ってくるし、教育の目的が異なると、回答も当然異なって くるのであろう。また教育の環境が変わると、教育方法も教材も当然変わってくる。とい うよりも、教育方法や教材を変えないといけなくなる。ゆえに、特定の環境に適している 教授法や教材は、必ずしも違った環境にも適するとは限らない。要するに、もっとも効果 的な中国語教育は不変的なものではない。すばらしい教材や教授法は、特定の教育環境、

特定の学習者、特定の教育目標に適してはじめて言えるものである。これは、どんなにす ばらしい種でも、その土地の質にあわないと立派な食物が取れないのと同じことであり、

中国語教育のみならず、すべての第2言語教育に言えることである。

 本論では、主として、日本の大学における中国語の教育について考えるが、検討の焦点

は、現在使用されている中国語の教材に置かれる。現在、日本の大学で使われている中国

語のテキストは、およそ2種類に分けられる。ひとつは中国の大陸で開発されたものであ

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り、いまひとっは日本の大学の先生や中国語教育の関係者によって開発されたものである。

紙面の関係で、本論では前者についてのみ議論し、後者については別の機会で検討する予 定である。本論を通して、日本の大学生を対象とする中国語の一般教育に使う教材のある べき姿を議論する話題を提供することができればと期待している。

本論

 ここ数年、中国の大陸では、中国語を学習 している留学生は年々増えている。中国国家 対外漢語教育弁公室の統計によると、中国大陸で中国語を学習している留学生は1973年 では383名しかいなかったが、今は毎年50000人以上いるという(2002年)。よって、多 くの大学では対外漢語教育に力を入れるようになり、教材の開発も積極的に進められてい る。しかも、語学の学習を目的とする教材、中国文化の紹介を目的とする教材、さらに初 級、中級、上級というように学習者のレベルに合わせて開発されている教材、そして短期 留学生用の教材や大学本科生用の教材など、学習の期間や学習の目的を視野に入れて作ら れている教材がたくさん出回っている。教材の内容もますます精錬され、種類もますます 細分化されてきた。そうした教材を取ってみると分かるように、どれもこれも中国大陸の 対外漢語教育者の長年の経験と努力の結果である。中にはすばらしい教材がたくさんあり、

すばらしい教育の効果が挙がっている。しかし、そうしたすばらしい教材をそのまま日本 で使用したら、どうであろうか。中国の大陸と同じようなすばらしい教育の効果が挙げら れるのであろうか。向こうの教材をそのまま日本の大学で使うと、恐らく、いくっかの問 題点が生じてくると考えられる。以下、本文の内容と文法の説明というふたつの側面から、

中国の教材をそのまま日本で使用するときの問題点を検討していく。

、本文の内容について

本文の内容に関しては主として下記の問題点が感じられる。

①中国で中国語の授業を毎日受けている長期留学生を対象とするものが多いので、難易  度のばらつきは小さい。

 たとえば、《漢語系列閲読》第一冊(北京語言文化大学出版社)は、全部20単元から 構成され、1単元には4っの文章が含まれる。各単元の文章の長さは、それぞれ平均で 344文字、474文字、438文字、457文字、374文字、470文字、446文字、411文字、

470文字、327文字、376文字、437文字、391文字、384文字、424文字、443文字、

456文字、481文字、472文字と255文字である。中国では半年分の教材として使われ ているようであるが、日本では同じ教科書を利用する授業が基本的に週に一回しかない ため、2年間使用することになる。しかし、日本の大学で集中して学習できる期間は、

入学してからの3年間しかないので、難易度のばらつきをより大きく開かないと、中国 語をマスターすることが困難である。勿論、文字数だけでは難易度の判断ができないか

もしれないが、しかし同じ学生に中国語を2年間も教えていれば、文章の文字数を徐々

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に増やして長文の講読もできるように心がけて教えることが必要である。

②日本の大学生の置かれた環境からかけ離れた内容なので、学習したものを活用するこ  とが難しい。

 せっかく学習した内容は使えない。っまり教科書の内容は日本の大学生の日常生活か らかけ離れているので、日常会話の場でそれを復習する機会がない。復習する機会がな いので、すぐ忘れてしまう。このようにして悪循環に陥ってしまい、学習の意欲が損な われてしまう。そして学習への動機付けは低下することになる。

 上にも述べたように、確かに最近中国では第2言語としての中国語の教材はおおく開 発され、内容も非常に豊富になってきている。中には中国の風俗習慣を紹介するものも あれば、中国の現代社会や中国人の生活の様子、また中国人の価値観などを紹介するも のもある。さらに大学の生活や大学の環境などを紹介するものもある。それは語学の学 習だけでなく、中国の社会文化や中国人の生活様式などを理解するのに非常に役立って いる。中国で第2言語として中国語を学習している学習者にそういった内容を語学の教 材にして教えるのが非常に有益である。なぜなら、かれらがそういった内容を中国です

ぐ活用できるだけでなく、中国の社会に適応するためにも役立つからである。まさに、

一石二鳥である。

 しかし、日本で中国語を学習している大学生にそういう内容を語学の教材として教え たら、どうであろうか。向こうと同じような教育効果が期待できるのであろうか。それ を検討するために、まず中国の社会文化などを紹介する教材の内容を見てみよう。たと えば、上にも触れた《漢語系列閲読》第一冊の20単元のそれぞれの本文の内容を紹介 すると、右記の通り:「泣年」(年越し)、「世界人口正在老化」(世界人口の老齢化)、「独 生子女」(一人っ子)、「婚礼的変迂」(結婚式の変遷)、「送礼新吋尚」(贈り物の新しい 風潮)、「服装与色彩」(服装と色彩)、「中国菜」(中華料理)、「換AI工作、換介活法」(仕 事を変え、生活様式を変える)、「教育的年限」(教育の年限)、「光速的測定」(光速の測 定)、「実」(泣く)、「R温升高以后」(気温の上昇後)、「流星」(流れ星)、「奥迄会」(オ リンピック)、「中国的侍統戒居山(中国の伝統劇)、「生志旅游」(自然満喫旅行)、「梅花」

(梅の花)、「小相声」(ミニ漫才)、「太白酒」(太白酒について)、「天『預根」(天気予 報)という内容である。各タイトルの日本語訳から分かるように、日本の大学生にとっ ては、興味の持てる内容とは言いがたい。しかも日本の大学生の生活からかけ離れてい るので、このような内容を習ったとしてもそれを日本で話題にすることは極少ない。話 題にする場がなければ復習する機会が失われることになるので、習った内容をマスター するのが困難だと思われる。

 る㊨癒●習者には覚烈こづS丙容となら云しまう○

 中国での長期留学生を対象とする教材にはこのような現象がよく見られるが、中国で

の短期留学生を対象とする教材にもこのような現象が見かけられる。たとえば、《説漢

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語》短期漢語教材(北京語言文化大学出版社)の本文を見てみる、下記の内容となって

いる。

     A:休睡得真香明,我飽歩都ゴ回来了,休迷不起来?

     B:弥怠砂醒我,剛オ我迩在倣夢腸。

     A・倣的他埜?

     B:多蒐我在路上走,忽然又是打雷文是囚屯, 峰峰呼 下起雨来:了。

     A:以后呪?

     B:以后就是休把我砂醒了。

     A:麺三八点工,弥也該醒毎。

     B:今天是周末,起来蜜没事几。

     A:噌伯去香山聴,pl itt− tu叶蚕紅才。

     B:外面天『忽久祥?和昨天≒祥冷咀?

     A:今天有太阻,比昨天暖和一点几。

     B:薩天『預根鏡,今天多云特明,有小雨。

     A:我看不会下雨的,要不弥出去看看,今天可能是寮薙得的好天『。

     B:万一下雨,在山上躰都3波地方駅。

     A:那亥我伯就帯±雨傘昭。下点几雨,楓叶注雨三淋,那残漂亮呪!

     B:那就走ロ巴,我イ1]縛多穿点舞衣服,山上夙大,挺冷的。

     A:ボ泣,現在休最好先倣一件事。

     B:什久事?

     A:弓上起床。

 上記した内容から分かるように、中国人にとっては極普通の会話であるが、しかし日 本人の学生に教えようとすると、網線のかけてあるところは、すべて説明する必要のあ るところである。筆者は、毎年学生を引率して短期留学(一ヶ月)に中国へ行くが、留 学先ではこの教科書が使われている。しかし参加者の9割は中国語の学習経験を1年間

しか持っていない1年生であるので、網線のかかっている表現の大部分は、まだ学習し ていないのである。

 この教科書は、20課から構成されているので、4週間留学の教科書として一番使い易 いそうである。というのは、一日1課で計算すると、ちょうど一ヶ月で完了できるから である。確かに、一週間は5日間あるので、一ヶ月で一冊の教科書を完成させることは、

非常にうれしいことである。教師としても「教えた!」という充実感と達成感を味わう ことができる。しかし、ここの使い易いというのは、あくまでも教師側の見方であり、

イコール学習し易いということではない。教え易いことと学習しやすいこととは、違う 次元のことである。

 このような内容は、学習者側から見ると、どのように映るのであろう。果たして学習

しやすいと思われるものであろうか。いや、恐らく「とても分からない」とか、「なん

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で中国語はこんなに難しいのだろう」とか、「なんでひとつの 都 なのに、こんなに いろんな意味があるのだろう」などと思ってしまうのであろう。そう思われても当然で ある。どんなに頭のいい人でも、こんなにたくさんの文法事項を一緒に与えてしまうと、

頭がパンクしてしまい、パニック状態に陥ってしまうと考えられる。その結果、学習へ の自信を喪失してしまい、学習の意欲を失ってしまう。学習者たちに中国語の学習を持 続させるためには、興味を持たせなければならないし、達成感を味わわせなければなら ない。それを可能にする要素はいろいろあるが、中には、特に分かり易さ・学習し易さ と覚え易さが大事だと思う。私たち教育者は、教える内容を考えるとき、そのような工 夫が不可欠だと考えている。たとえば、上記の本文の中の 倣的什久夢? という短文は 学生にとっては非常に理解し難い。なぜなら、その文を 傲 (する;見る)、 的 (の)、

什IA (何;どんな) 夢 (夢)と一単語ずつ分解して理解しようと思っても何の意 味かは分からないからである。しかし、もしその文に 是 (だ)を入れると、 倣的是.

什久夢? (見たのはどんな夢ですか)になるので、かなり理解しやすい文になる。

 本文の内容についてまとめて言うと、1)学生が活用しやすいように学生の生活や趣味 などを考慮し、学生にとって身近な材料を内容にすること;2)文章の難易度のばらつき を適切に開くこと;3)同じ文法事項や文型を同じ本文に繰り返して出現させること;4)

初段階では不規則な短文をできるだけ避け、理解し易いような短文にすること;の4点 に留意する必要があると思われる。

 もちろん、中国語を学習する以上、中国語だけでなく、中国の文化習慣や中国の社会 事情などを理解する必要もあるし、それを語学の授業で教えられれば、一石二鳥だと思 う。しかし、その効果は、毎日に中国語の授業があり、しかも中国の文化習慣を身近に 触れることのできるという前提が必要である。週に2、3回しか中国語の授業がなく、

普段中国の文化習慣に触れる機会もなく、話題に上ることも少ない日本では、一石二鳥 という効果が期待できるどころか、むしろ生活からかけ離れた内容であるがゆえに、中 国文化の理解も中途半端になる上、大事な中国語の学習もつまらなく感じてしまう恐れ はある。ゆえに、中国の文化習慣や中国の社会事情などは、中国語の授業で教えること を極力避け、「比較文化論」や「中国の社会事情」などの講義で紹介することを薦める。

二、文法の説明について

 中国における外国人を対象とする中国語教育に使われている教材は、ほとんど専門の学 者によって開発されたものであるので、長年の教育経験を土台にしてできたものである。

中にはすばらしいものが多く、文法も見事に説明されている。しかし、その文法について の説明を日本での中国語教育にそのまま使用すると、以下の問題点が感じられる。

①教材の製作者は言語学者であるので、文法について言語学の観点から学問的に説明する  ものが多い。

  中国語の研究者を目指すのではなく、一般教養として中国語を学習している日本の大

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学生にとっては、学問的な説明は比較的理解しにくいのではないかと思われる。たとえ ば、ある短期留学用の教材では、中国語の 了 と 泣 について、以下のように説明 している。ただし、訳文は筆者が付け加えたものである。

  双悟劫司没有 吋 的分別,只有 志 的分別。功志助河 了 、 泣 放在功洞后 分別表示 完成志 和 経詮志 ,二者是不同的。

 訳文:中国語の動詞には「時制」がなく、「態」しかない。動態助詞である 了 と 辻    は、それぞれ動詞の後に置かれ、「完成態」と「経験態」を表すものであるので、

   二者は同じではない。

形悉方面・訳文:形態σ面につ込てi

 1.対 劫司+了 和 功詞+泣 表示否定都用 没(有) ,但 了 在否定形式中不再 保留, 泣 在否定形式中保留。

 訳文: 劫司+了 と 劫司+泣 のいずれも、否定するとき 没 か 没有 を使う。

    しかし、否定形のとき、 了 は残らないが、 泣 はそのまま残る。

 学了一一没(有)学   学泣一一没(有)学辻

2.劫河重畳吋中同可以加 了 ,不可以加 泣 。

 訳文:動詞を重ねるとき、真ん中に 了 を入れられるが、 泣 は入れられない。

 学了学(×学辻学)    試了拭(×i式泣試)

意叉嚢面

1. 劫司+了 表示完成,与辻去没有必然的朕系。可以用干泣去,也可以用干現在和將

来。

 訳文: 劫司+了 は、完成を表し、過去と必然的な関係はないが、過去に用いること     ができるほか、現在にも未来にも用いることができる。

 (1)昨天我伯看了那介屯影。(表完成,指N去)

  訳文:昨日、私たちは、その映画を見た。(完成を表し、過去を指す)

 (2)我伯己経看了那介屯影。(表完成,指現在)

  訳文:私たちは、すでにその映画を見た。(完成を表し、現在を指す)

 (3)明天看了亀影再去北京大学。(表完成,指將来)

  訳文:明日、私たちは映画を見てから北京大学へ行く。(完成を表し、将来を指す)

  而 劫司+迂 因力表示己有的鍾詮,忌是同迂去的吋同相朕系。

  訳文:一方、 劫司+」立 は、すでに持っている経験を表しているので、常に過去の     時間と関連がある。

 (4)上次到中国来,我看泣那介屯影e(表示己有的経詮,属チ迂去)

  訳文:この前中国に来たとき、私はその映画を見たことがある。(すでにもっている      経験を表し、過去を指す)

2, 劫洞+了 所表示的劫作可能延綾到現在。

 訳文: 劫洞+了 で表している動作は、現時点までに続くことができる。

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 (5)我在北京学了丙介星期的汲i吾了。(現在述在学)

  訳文:私は北京で2週間中国語を習うようになった。(今も習っている)

 (6)区本弔我看了一半了。(現在迩在看)

  訳文:私はこの本をもう半分読んだ。(今も読んでいる)

 (7)他到了上海了。(現在述在上海)

  訳文:彼は、もう上海に着いた。(今も上海にいる)

  而 劫洞+道 所表示的劫作却不延鎮到現在。

  訳文:一方、 劫洞+迂 で表している動作は、現時点までに続くことはできない。

 (8)我在北京学泣丙介星期的汲悟。(現在己経不学了)

  訳文1私は、北京で2週間中国語を習ったことがある。(今は習っていない)

 (9)辻本弔我只看辻一半。(現在不在看)

  訳文:私は、この本を半分しか読んだことはない。(今は読んでいない)

 (10)他到辻上海。(現在不在上海)

  訳文:彼は、上海に行ったことがある。(今は上海にいない)

3. 劫司+了 表示有一定的結果。

 訳文: 功洞+了 は、一定の結果を表すことができる。

 (11)他学了況梧。(含有学会的意思)

  訳文:彼は中国語を習った。(マスターしたという意味が含まれる)

  而 劫洞+迂 則不一定。

  訳文:一方、 功司+泣 は、一定の結果を表すことはできない。

 (12)他学辻汲活。(可能学会,也可能没学会)

  訳文:彼は、中国語を習ったことがある。(マスターしているかも知れないが、マス     ターしていないかも知れない)

 (13){汲活}小吋候学N,現在都忘了,達一句也不会悦了。

  訳文:小さいとき習ったことはあるが今は全部忘れた。一語とも話せなくなった。

 上記した 了 と 泣 についての文法的な説明は、短期留学生のための教科書から 取ったものであるが、本教科書は15課から構成されている。この課の文法項目は、全 部で10項目あり、その10項目の中の1項目は上記した説明である。上の説明から分か るように、中国語の 〜了 と 〜泣 について実に丁寧に説明されている。形式のみ でなく、意味の面からも説明し、13個もの例文を使用している。このことから学習者に 分からせようという筆者の苦心が伺える。勿論学問的に見ても申し分のない説明である。

 しかし、この説明は日本人の大学生にとって果たして理解しやすいものであろうか。

恐らく素直に「はい」と答えられないのであろう。なぜならば、1課に文法等の説明が

10項目あるだけでも、学習者にとって大変な負担となるのに、その10項目の中のひと

つにっいてこれだけ説明すると、学習者の頭がパニック状態に陥ってしまう可能性は十

分にありうるからである。このような説明を読んだとき、「分かりやすい」と思う人よ

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りは、「中国語はほんとうに難しい」とか、「完成を表し、現在を指すとは何の意味か」

と思う人のほうが多いのであろう。筆者がここで述ぺたいのは、一般教養としての中国 語を教えるとき、言語学的な説明にこだわる必要はないことである。中国語の研究者を 養成するのが目的であれば話は違うが、中国語を道具として仕事をしたい学生を教えて いるのであれば、彼らに分かり易いように説明することが大事だと思う。そのため、難 解な文法用語を避けるほか、かれらの母語と関連して説明することが必要である。なぜ ならば、かれらは中国語を学習している際、意識しているにせよ、意識していないにせ よ、自分の母語である日本語を使わざるを得ないからである。たとえば、上記した例(3)

を彼らの母語である日本語と関連づけて教えると、次のように説明することができる。

   了〜再〜 は、日本語の「〜をしてから〜をする」という意味である。たとえば、

  洗了手再吃坂。(手を洗ってからご飯を食べる)

  洗蒙漂雇睡覚。(お風呂に入ってから寝る)

  下諺裸再打屯活。(授業が終わってから電話をかける)

 要するに、学習者は自分の母語の意味と関連付けて新しい言語を学習しているので、

われわれも彼らの母語と関連付けて教えたほうは教育効果が上がると思う。たとえば、

中国語の 昨天我伯看了那介屯影 と 我伯己経看了那介屯影 !を教えるとき、「前者 の 了 は過去を指すが、後者の 了 は現時点を指す」と教えたとしても、日本人の 学生はおそらく「両者の 了 の違いはどこにあるの」と思うのであろう。しかし「こ のふたつの例に出ている 了 は、皆完了を表し、日本語の過去を表す「た」と同じ意 味である」と説明すると、分かり易くなると思われる。確かに、中国語には時制がなく、

中国語の 了 はボイスを表すものであるので、言語学的に考えれば日本語の時制を表 す「た」と同じではない。しかし言語学的に教えると却って学生を困惑させるのならば、

それを止めたほうがよいのであろう。たとえ、言語学的に見ておかしくても学生にとっ て分かり易いならば、・あえて分かり易い説明を取ったほうが学生のためになると考えて いる。なぜならば、中国語の研究者を目指していない学生に「 了 は時制を表すもの ではなく、ボイスを現すものだ」と教えなければならない理由はないからである。実際 中国人のほとんどもこのことを知らないで、コミュニケーションをしているのである。

②日本人の学習者が抱えうる特有な問題点はそれほど配慮されていない。

 認知心理学研究によると、われわれ人間は、新しい知識を獲得するとき、既有の知識

から制約を受けるという。第2言語を学習するときも同じことが言える。「母語で考え

ないで、中国語で考えて中国語を勉強しなさい」というのが一番理想的であるが、残念

ながら、母語に関する知識体験がしっかり確立されている成人の学習者には、それは非

現実である。なぜならば母語が彼らの学習の道具となっているので、学習活動を行うと

き、否応なしに母語を使ってしまうからである。ゆえに、私たちもその現実に目を背く

のではなく、むしろその現実に立ち向かって、あえてかれらの母語の意味と関連づけて

教えたほうがよりよい中国語の教育に実現できよう。

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 前に日本語の教師から「なぜ中国人がお手洗いはどこですかとは言わず、どこにあり ますかと聞くのですか」と質問されたことがある。確かに日本に来てから日本語を習い 始めた中国人もそのような話をするのは、とても考えられないことである。というのは、

彼らは毎日日本で生活し、日本人から日本語を教わっているので、そのような言い方を 教わったことはないはずである。なのに、そのような言い方を口に出したのは、恐らく かれらの母語である中国語に置き換えながら日本語を学習していることに原因がある。

この例から分かるように、成人した学習者は第2言語を学習するとき、母語による影響 を多く受けるので、母語の影響による問題を抱えることになる。

 学習は、問題発見から始まると言える。問題が発見できないと、真の意味での学習は 成立しないと思われる。たとえば、われわれが「 我去北京(私は北京に行く) の否定 形は 我不去北京 であり、  不 を入れて否定文を作る」と日本人に教えても、彼 らは完全に中国語の否定表現をマスターできないのであろうか。なぜならばこのような 例で教えると、彼らに一種の誤解を与えかねないからである。っまり「中国語では動詞 の前に 不 を入れれば否定文が作れるのだ」ということである。しかし、実際に中国 語では動詞の前ではなく、 介詞 の前に 不 を入れて否定文を作る場合が多い。た とえば、 我和他一起去 (私は彼と一緒に行く)の否定文は 我和他一起奉去 ではな く、 我不和他一起去 である。しかし多くの日本人の学習者は、後者ではなく、前者 の発話をしてしまうのであろう。彼らの頭にある否定文に関する知識は、「述語で否定 する」という範疇以外にないので、その制約から彼ら自身が抜け出すことはできないか

  N

らである。ゆえに、われわれ教育者はそこから抜け出すための手助けをしなければなら ない。より具体的に言うと、「ここは日本語と違うのよ。動詞の前に 不 を入れるの ではなく、 和 の前に入れるのよ。なぜなら、「行く」を否定するのではなく「彼と一 緒に行く」ということを否定しているのよ」と説明することが必要である。そうすると、

彼らも頷くことであろう。要するに、われわれ教育者は、学習過程に起こった問題を解 決しなければならないが、学習過程に起こりうる問題に対する注意を学習者に喚起させ なければならない。ゆえに、中国語の教材には、そういう説明が必要なのである。しか し、中国大陸で開発された教材は、多くの国から来ている学習者を対象とするものなの で、特定の母語の影響に配慮する説明はきわめて困難である。

③学習の順序について

 第2言語として中国語を教えるとき、何から教えればよいかは、常に中国語教育者が

考え続ける問題である。今までに大陸で開発されている中国語初級の教科書を概観する

と、「判断文」、「存在文」、「形容詞述語文」、「動詞述語文」、「名詞述語文」のような順

序を取るものが多い。しかも、この順序は、中国語教育の常識として定着しているよう

である。もしこの順序から多少外れるならばそれほど問題視されないが、比較的大きく

外れると、「常識はずれ」と思われ勝ちである。しかし、私たちの日常会話の中で、 是

を述語とする「判断文」がどれだけ使われているのであろうか。私たちの会話をよく観

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察すると分かるが、「判断文」の出現頻度はとても少ないのである。私たちの中国語教 育の目的は日常の言語使用能力にあるのならば、使用頻度の少ないものから教えること は、教育の目的に違反することになる。また、子供の母語の習得順序を観察すると、 是 を述語とする「判断文」からではないことも分かる。っまり、「判断文」を言語の教育 順序の最初に持ってくることは、言語習得の自然発達の順序にも違反することになる。

 しかし、中国語の教育だけでなく、第2言語としての英語教育でも、日本語教育でも ほとんど「判断文」から教えるのはなぜであろうか。それは、おそらく言語の研究者た ちは、膨大な言語現象を解釈するとき、解釈し易いのは「判断文」であり、しかもそれ は学習しやすいのだろうという判断に繋がったと思われる。確かに「判断文」は学習し 易い文法項目であるので、学習しやすいところから教育すべきであるし、われわれ言語 教育者は、学習者にとって学習しやすいものは何であるかを考えるべきである。しかし、

それと同時に彼らに使い易いものは何であるかを考える必要もある。学習者に学習しや すく、しかも使い易い(っまり日常会話に使う頻度が高い)ものであれば、先に教える べきだと思われる。上に触れた常識に特に拘る必要はないと考えている。

 具体的な例で説明すると、中国語の 把字句 は、非常に学習の困難な文法事項とみ なされ、後の段階で教えるべきだと思われている。確かに 把字句 を使うときの制約 をすべて考えると、とても学習が困難であることが分かる。しかし、最初はそういった 制約にあえて触れないで、ただ 把〜動詞+了 を文型として教えれば、学生にとって 必ずしも理解が困難ではないと思う。たとえば、

    我堕坂了 を 把字句 に直すと、 我把破堕了 になる。

    我洗衣藤了  を 把字句 に直すと、 我把表服逸了 。

 というように、 把 を使うと、本来動詞の後に来るべき目的語を動詞の前に移動する べきことを教えると、日本人の学生なら、すぐ理解できる。なぜならば、 把字句 の ほうがより彼らの母語である日本語の構文順序に近いからである。勿論、これだけでは、

把字句 を教えるのに不十分である。なぜなら彼らはいくつかの問題点を抱える可能 性があるからである。ひとつ目は、文末にある 了 さえあれば、すべての動詞述語文

を 把字句 に替えることができると思いがちであること;ふたつ目は、どんな目的語 であっても 把字句 が使えること;三つ目、つまり一番重要な問題は、なぜ 把字句 を使わなければならないか、 把字句 の役割はどこにあるかは理解されていないこと である。勿論、どの問題点も彼らには意識されていないのである。

 そこで、われわれは、学習者に潜んでいるそれらの問題点を掘り出し、そこに意識さ せるように教える必要がある。たとえば、次のように説明することが可能であろう。つ まり、まず 把〜動詞+了 という文型の意味は、「その目的語をどう処置したか」を 説明することにあることを説明する。そして「目的語を強調する表現なので、その目的 語に何らかの変化をもたらすことができないとこの表現は使えない」ことを強調する。

その上、具体例を出してこの表現を使うときの注意点を説明する。たとえば「 我妥来

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了一本弔 (一冊の本を買ってきた)と 我走路了 (道を歩いた)という二つの文は、

動詞の後に 了 があっても 把 は使えない。なぜなら「lf冊の本」という目的語が 不特定だから強調することはできないし、「歩いた」からと言って、目的語である道に 何の変化をもたらすこともできないからだ」と説明を加えると、学生は理解できると思 う。要するに、学生に分かりやすいように説明すれば、比較的初段階でも 把字句 に 関する知識を教えることができる。しかも教える必要はあると思う。なぜなら 把字句 は日本語の動詞述語文と同じ構文順序を持っているし、日常会話に非常によく使われる からである。ただし、  把字句 に関するすべての知識を一度に教えるのではなく、

上の説明のように最初は文型として処理し、 把字句 の役割に関する大まかな知識を 与えておいて、徐々に細部に関する知識を増やしていくという工夫が必要だと思う。

総論

 まとめて述べると、われわれは言語教育を行う際、学習者の特質、学習者の抱えうる問 題点、さらに学習の環境を常に念頭に入れる必要がある。学習者の特質には、年齢、学習 歴、趣味、職業などの要素が含まれているが、そういった要素が変わると教育方法も教育 内容も変わるようにしなければならない。学習者の抱えうる問題点には、特に成人した学 習者の場合に母語によるものが多く見られることは多くの研究によって明らかにされてい る。ゆえに、われわれは、学習者に「母語で考えないで中国語を学習しなさい」と要求す るのではなく、むしろ積極的に彼らの母語と対照して、そこに潜んでいる問題点を掘り出 し、その違いを詳しく説明することによって、彼らの問題発見を促し、そして彼らの学習 の手伝いをしたほうがよりよい教育の効果が得られるのではないかと思われる。

 勿論、中国語だけを使って授業をしたほうが学生のためになるという主張もあるが、そ の主な根拠は、中国で中国語の先生たちは、ほとんど中国語しか使わずに中国語の授業を やっているが、学生の進歩はとても早いというところにある。筆者もこの主張に納得して いる。しかし毎日中国語と接触する機会があるという中国での学習環境と授業以外には中 国語と接触する機会はないという日本での学習環境の違いを念頭に入れる必要がある。つ まり、日本の大学生に対する一般教育として中国語をいかにして教えればよいかを検討す る必要がある。そこに本論の狙いがある。また本論で触れていた教科書の問題点も、あく までも日本で使うときの問題点であって、中国で使用するときの問題ではないことを断っ ておきたい。

参考文献

蔀整堂1999 中国文化 北京活言文化大学出版杜

昊叔平1995 短期双悟教材口悟中険 北京活言学院出版社

臭叔平1996 短期双活教材悦江活(日文注腎) 北京悟言学院出版社

張而螂1998 汲活系列閲旗 北京活吉文化大学出版社

参照

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