学習者の跡を追って
――吉田松陰の獄中での学び――
椎 名 愼太郎 はじめに
本稿は、昨年書いた「学習者としての藤森栄一」に続いて、過去の学習者の学びの 跡をたどるものである。実は、今回の論稿の当初の構想では、吉田松陰のほか、大杉 栄、河上肇など同じように獄中で学びを深めた人々、さらには、獄に囚われて初めて 学ぶことに目覚めた石川一雄、永山則夫といった人々の学びの跡を概観することを考 えていた。だが、最初に文献を読み始めた吉田松陰のところで、思いがけず足を止め ることになってしまった。これには二つの理由がある。
第一の理由は、私自身の認識不足を白状することになるのだが、吉田松陰という人 物の奥の深さ、人間像の多面性にたじろいだのである。私のこれまでの理解では、松 陰は、幕末の尊皇攘夷運動の支柱となる考え方を確立して、彼の死後に激化する倒幕 運動の思想的出発点に位置する人物であった。これも松陰の人物像の一側面ではある のだが、本論で述べる通り、彼の中には外国から積極的に学ぶ必要性が明確に理解さ れていたし、彼の唱えた「攘夷」は、言葉通りの単純な外国人排斥ではなく、幕末と いう時代に日本という形成途上の国家の中で、しかも、外圧に屈してずるずる開国に 追いこまれて行く幕府官僚に対する批判としての政治的発言でしかなかった。また、
明治憲法下の日本で忠君愛国のシンボルとされたのは、彼の思想を誤解ないし曲解す
そうもうくっ き
るもので、彼が短い一生の最終段階で到達した「草莽崛起論」で彼が主張したのは、
忠実に体制に従うどころか、下級武士以下のさまざまな人々が起す革命であり、平等 主義である。
第二の理由は、吉田松陰という人物の人間形成における獄中での学び、とりわけ野 山獄での教育と学習のもつ重要な意味に気づいたことである。歴史にもしはないのだ が、敢えて、松陰が野山獄に入ることがなかったと仮定したら、松陰が安政の大獄の 中で処刑されるところまでは過激化しなかったかも知れないし、また、草莽崛起論に 思想を発展させることがなかったのではないかと思う。その意味で、彼の獄中での学 びとそこでのさまざまな経験は、一度きちんとトレースしておく必要があると改めて 感じている。
吉田松陰については、きわめて多くの文献が存在する。本稿を草するにあたって、
その相当数にあたる必要はあるのだが、現在の自分がおかれている境遇からして、完
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全を期することは望めないことも確かである。限られた文献をよく読みこむことで、
これに代えることを選ばざるを得なかった。
なお、小文が発表される2015年のNHK大河ドラマは、偶々吉田松陰の妹杉文を主 人公としているが、小文の想をねりはじめたのは2014年初夏からであり、全く関係が ないことを付言しておく。以下、本文中では敬称を略させていただく。
1 吉田松陰の生きた時代と彼の生涯の概観
(1)幕末という時代
吉田松陰の生涯と、特に自宅幽閉を含む獄中での学習の意義を考える前提として、
彼が思想形成をした時代、ここでは私なりに「幕末前期」と呼んでおくが、その時代 から開始する幕末の歴史の流れをまとめておきたい。松陰・吉田寅次郎が生まれたの は1830(天保元)年。ペリーの艦隊が江戸湾に現れて幕末という時代が開始した頃、
彼は20代前半であった。もっとも、松陰が江戸で処刑された時に、未だ満30歳直前で あったから、文字通り彼は幕末前期を駆け抜けたことになる。
私がFM甲府で続けている「教えて椎名先生」のコーナーで、幕末の15年間を4期 に分けておおよその流れを説明したことがあった(1)。
第1期は1853(嘉永6)年から桜田門外の変で井伊大老が暗殺された1860(万延元)
年あたりまで。この時期は、幕府内で伝統を守る守旧派と幕政改革を唱える開明派が 対立していた。両派の対立は天璋院篤姫が嫁いだ病弱な13代将軍家定の後継をめぐる 対立でもあった。最終的には、守旧派が開明派を抑えて、ずるずると外交交渉を進め て開国を呑まされることになる。これに対して攘夷派が猛烈に反発、攘夷原理主義者 である水戸の徳川斉昭らが井伊大老を詰問するが、大老は逆に反発したメンバーを謹 慎させ、攘夷を主張した各地のリーダーを逮捕・処刑する(安政の大獄)。そして、こ れに反発した水戸浪士が大老を襲うことになる。
第2期は井伊大老の後継になった安藤信正が進めた公武合体の動きとこれに反発す る攘夷派が京都の朝廷を中心に策動を繰り返し、攘夷派の「勤皇の志士」が暗殺など の直接行動を京都はじめ各地で起こした時期。幕府はもはや朝廷を無視できなくな り、皇女和宮を14代家茂に嫁がせて公武合体を具体化する。諸藩の中で独り原理主義 的に攘夷を唱える長州は攘夷急進派の公家と朝廷内の実権把握を狙うが、逆に薩摩・
会津が公武合体派の公家と共に実権を握り、天皇の意向もあって急進派公家は京都か ら追放される。
第3期は1863(文久3)年夏ごろからで、幕末内戦の序章にさしかかる。長州はタ テマエだけ攘夷を唱える各藩に先んじて1863年5月下旬に馬関海峡を通過している外
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国船を砲撃、単独攘夷を決行する。さらに、長州は1864(元治元)年の7月に失地回 復をめざして京都で軍事行動を起こすが、逆に薩摩などの勢力に敗れて朝敵とされて しまう(蛤御門の変)。
1863年7月に、生麦事件の報復で英国軍艦が薩摩を攻撃、薩摩は外国の段違いの力 を実感した。攘夷を決行した長州も1864年になって外国軍艦に逆襲され、砲台を占拠 されるなど、武力では諸外国に対抗できないことを実感させられ、急速に方針を開国 に転換する。この「実感」が日本の将来に関する両藩の行動を最終的に一致させるこ とになる。
第一次長州戦争の勝利で、幕府は以前の権威を取り戻したと錯覚、中断していた参 勤交代や大名妻子江戸在府の旧制度を復活させ、諸藩の反発を買う。さらに、第二次 長州戦争を仕掛けたが、事態は大きく変化していた。長州内部では松陰の弟子である 高杉晋作や桂小五郎などの改革派が旧勢力に取って代わり、軍も庶民を編成した「奇 兵隊」が前面に出てきた。さらに、薩長同盟で、薩摩を経由して軍艦と鉄砲を多数購 入、軍事力が格段に進歩していた。第二次長州戦争で幕府軍は大敗を喫する。
第4期は倒幕が主題となる。1867(慶応3)年、薩長は武力で幕府を倒す方針であ るのに対して、土佐は竜馬が前藩主山内容堂を動かして平和的政権交代を主張、これ が一旦実現したのが1867年10月14日の大政奉還である。しかし、将軍慶喜は自分が朝 廷の下で組織される連合政権の盟主になり、政治運営は従来通りと考えていた。これ を読んだ薩長は「倒幕の密勅」を出させて、あくまでも武力倒幕にこだわる。そして、
1868(慶応4)年1月鳥羽伏見の戦争から錦の御旗を先頭に新政府軍が江戸に向かう。
江戸無血開城は4月だった。ここで倒幕という「革命」は終るのだが、内戦は会津戦 争などさらに続いた。ここで、幕末の内戦を経て起きた維新をどのように評価するの かという問題があるが、私は渡辺京二に従って、下級武士が中心になってそれまでの 旧体制を覆した革命であると考えたい(2)。
以上の4期のうち、松陰が生きていたのは第1期だけで、しかも、安政の大獄の中 で処刑されて生涯を終えるのだが、彼の影響は死後にも歴然として残っている。ま ず、諸藩の中で長州藩だけが独り原理主義的に攘夷を唱えていたこと。もちろん、前 述のように、松陰の「攘夷」は決して原理主義ではなく、開国をせざるをえないこと は理解しながら倒幕の大義として攘夷を唱えていたのだが。そして、松陰の弟子であ る高杉晋作が農民らによる「奇兵隊」などの諸隊を編成し、幕府軍を破ったことは、
松陰の言う「草莽崛起」の実践であった。「草莽」とは草深い地方に在る者を意味し、
「崛起」とは、「決起」と同意ながら、より険しく、禁じられていることに決然と立 ち向かう革命的決起であると寺尾五郎は解説している(3)。
−7−
(2)吉田松陰の生涯
これについては多くの文献がすでに存在するので、本稿と関連する限りで簡略に紹 介しておきたい。奈良本辰也は松陰の人生を次の4時期に分けている(4)。
① 彼が兵学師範の吉田家に入ってその家学を中心に学者としての道をまっしぐらに 歩んだ時期。
② 彼がその家学と封建的詰込み主義の教育の矛盾に悩んで一切を振捨て、政治的な 実践の中に彼の情熱を見出そうとする時期。
③ 政治に失敗して獄中に学者としての生活を再確認する時期。
④ そのようにして得られた学問の結果が、彼に社会的な実践を強調し、彼をその政 治の渦巻きに捲き込んで行く時期。そしてその終末としての処刑。
以下、彼の短い一生を田中彰の著書の記述を柱に略述してみる。
青年前期までは比較的平穏だが、彼の少年期からの英才が輝いた時期である。長州 藩士杉百合之助の次男として生まれ、その後山鹿流兵学師範の吉田家に養子となり、
叔父玉木文之進らに助けられて兵学修行に励んだ。11歳の時に藩主毛利敬親の前で
『武教全書』を講じた。その後も勉学に精励するが、時代は平穏な学びを許さなかっ た(5)。
1849(嘉永2)年、20歳のときに、海防の現実を学ぶために松陰は長州の海岸を巡 視し、翌年には許可を得て九州を巡遊している。政治的実践への第一歩であった。平 戸にとどまること50余日、長崎も20日余り。120余日にわたるこの九州行の大半以上 をこれらの地で彼は送っている。そこは鎖国日本が世界の息吹を感じうる唯一の窓で あった。各地で松陰はしかるべき人物と面会し、彼らが所有している文献を借りては 筆写するなどしている(6)。
あ さ か ごんさい
1851(嘉永4)年、兵学研究のために藩主に従って東行した。江戸で安積艮斎、山 鹿素水、佐久間象山らに学ぶ(7)。その年の12月、松陰は藩の正式の許可を得ないまま に東北旅行に旅立つ。許可は受けていたが、藩士が旅をするときの過書手形(旅のた めの身分証明書)が出ていないことが出立直前に分った。しかし、松陰は友人との約 束を重んじてそのまま旅に出る。このあたり、司馬遼太郎は「少年じみている」(8)と 評しているが、たしかに、それは当たっているようだ。そして、亡命の罪で士籍を削 られ、世禄も奪われた。山鹿流軍学師範の肩書きも返上した。だが、この松陰に藩は 父百合之助の「育」(はぐくみ=被保護者)という武士としての最低限の身分を与え、
さらに藩主の内意で10年間の他国遊学が許された。自由に内外を飛びまわりたい松陰 にとってはまたとない機会であった。この時が1853(嘉永6)年1月、ペリーの艦隊 が江戸湾に現れる直前だった(9)。
松陰は1月末に萩を出立して、途中知名の学者を訪問しながら、5月に江戸に入っ
−8−
た。6月4日に松陰は艦隊が江戸湾に現れた事実を知る。すぐに浦賀にかけつけて、
望遠鏡で「賊艦」を観察する。胸のうちには翌年実行する秘密の計画が既にあった が、警戒厳重でこの時ははたせずに終る。ペリー艦隊が浦賀を去ってから1ヵ月後に ロシアのプチャーチンが率いる軍艦4隻が長崎に来航したことを知ると、松陰はこれ を追って長崎にかけつけるが、着いた時にはすでにロシア艦隊の姿はなかった。松陰 は、6ヵ月後の再訪を約束して去ったペリー艦隊を江戸で待った。
1854(嘉永7)年1月にペリー艦隊が再び江戸湾に現れると、松陰は直前に弟子と なった金子重之輔と二人で密航計画を実行する。3月初旬に艦隊が下田に停泊してい る時だった。しかし、計画はあえなく挫折、米側兵士に浜に送り返される。二人は正 直に名乗り出て下田奉行所に捕らえられ、江戸に送られる(10)。
この後の松陰に対する幕府の処分と長州藩の扱い、そして、野山獄での受刑と杉家 での蟄居、そして松下村塾での教育と倒幕へ向けた弟子達を介した策動、そして安政 の大獄に列しての刑死は、後に述べる通りである。
2 吉田松陰をどのような人物と理解するか
(1)忠君愛国のシンボル
吉田松陰は多面的な人物である。そこには、とくに野山獄に入れられて以来の大き な思想的、実践的変化がそうさせている点もあるのだが、同時に、幕末から維新とい う時代に与えた大きな思想的影響から、彼の人物像について一種のフレームアップが なされたことをおさえておく必要があるだろう。
田中彰『吉田松陰―変転する人物像』(11)は松陰の人物像が時代により大きく変化し てきたことを主題とする著作である。田中によれば、1893(明治26)年に評伝『吉田 松陰』を書いた徳富蘇峰は、松陰について「革命家」という評価をしていたが、帝国 主義の気運が横溢する中で、これを「憂国忠君」の体制の人物と大きく変え、1908(明 治41)年には初版を絶版にして、内容を大幅に変更した改訂版を刊行している。
この改訂版が出た直後に開催された帝国教育会主催の松陰没後50年の記念大会で は、当時の政界、財界、学界の名士が居並んでおり、井上哲次郎、徳富蘇峰、嘉納治 五郎らが追頌演説をしている。この演説会の記録が1909(明治42)年に『吉田松陰』
として刊行されているが、その「序」の中で、帝国教育会長・従三位・勲一等・男爵 の教育行政家辻新次は、松陰の獄中での学びを次のように憂国忠君に直結させてい る。以下、田中の著作から引用する(12)。
(前略)「先生夙に大義を明にし、名兮を正すを以て任となし。獄に投せらると家に 幽せらるるとを問わず、日夕講論怠らす、人心を鼓舞作興し、後進を誘掖すること極
−9−
り しょけいしゅう
めて剴切なり。是に於て吏胥繋 囚の徒も亦奮然として道に進む者あるに至れりと云 う。蓋し先生の志業終始一貫、憂国忠君の事に非るはなし」。(後略)
これを現代語で要約してみると、次のようなことであろう。
「松陰は以前から大義を明らかにすることを任務としていたが、獄舎にいても、家に 幽閉されていても、一日中教えることに励み、弟子達の啓発に努めてきた。それに よって、獄卒も同囚の人々も正しい道に進むことになった。そんなわけで、松陰のし たことは、終始一貫国を憂い、(天皇に)忠節を尽くすことであった」。
松陰を「憂国忠君」のシンボルにしたのは、日清戦争後の日本社会のイデオロギー であり、徳富蘇峰もこれに従って「革命家」という評価を取り下げている。だが、こ れは松陰の語るところを正解しないものである。松陰の主著と言うべき『講孟余話』
で、孟子の暴君放伐論に関連して、孟子において統治者を選び、廃する「天」にあた るものをわが国について「天つ日嗣」としている。だが、そこで言われる「天つ日嗣」
は明治時代に統治者として君臨し、政治家に利用されたような存在ではない。河上徹 太郎によれば、孟子のいう「天」が抽象化された民意であるのと同じだと松陰は言っ ている(13)。
「蓋シ天モト心ナシ、民心ヲ以テ心トス。視聴アルニ非ズ、民の視聴ヲ以テ視聴ト ス。凡ソ人ハ気ヲ得テ形トシ、天地ノ理ヲ得テ心トス。コレ人心ヲ以テ天心トスルノ 義ナリ。」
河上はこれに続いて次のように言う。「これが字義通り『民の声は神の声』である。
と同時に、天子も天下を私することが出来ないといい切っているのであって、ここに 孟子の人格主義と宇宙観、松陰の国民道徳と民生論が手際よく要約されているのであ る。つまり、二人とも個人主義者で民主主義者であることが、字面の上にまでよく現 れている。孟子と松陰の『天』がそういったものの象徴だといっても、決していい過 ぎではないのである」(14)。
ただし、松陰の思想はときに強調点を変えるところがあり、忠君愛国と解釈される 余地がなかったとはいえない。旧制中学でよく暗誦させられたという「士規七則」
は、野山獄に入って間もなくの1855(安政2)年に甥の玉木彦介に元服祝いとして与 えた教訓であるが、そこには「凡そ、皇国に生れては、よろしく宇内に尊きゆえんを 知るべし。けだし、皇朝は万葉統一にして、邦国の士夫世々禄位を襲ぐ。人君民を養 いて、もって祖業を続ぎたまい、臣民君に忠してもって父志を継ぐ。君臣一体、忠孝 一致、ただわが国をしかりとなす」(15)といった、忠君を勧める教えもなされている。
ただし、これはまだ松陰が倒幕へと思想を転換させる前、しかも草莽崛起論を公言し 始めるはるか前のことであることに注意しておく必要がある。彼は、刑死直前の1859
(安政6)年に至るまで、当時の階級的秩序の内部での変革を考え続けていたのであ り、その階級的秩序感に枠付けされた論理で少年を諭しているにすぎない。
−10−
(2)徳富蘇峰の松陰「革命家」論
以上のように吉田松陰の人物像は日清戦争を契機とする排外主義、愛国主義の大き な流れの中で、大きく変化する。この変化を体現しているのが、徳富蘇峰である。彼 は、1893(明治26)年の『吉田松陰』初版では、松陰を「革命家」と描いたが(16)、翌 年7月の日清戦争開戦後の国論の体制翼賛化の中でこの評価を「憂国忠君」の人と変 える。ついには1908(明治41)年になって、初版を絶版とし、内容を大幅に書き換え た改訂版を刊行する(17)。これには長州出身の乃木希典の慫慂や、松陰直弟子の野村 靖(内相などを歴任)の詳しい批判があったとされるが(18)、徳富自身が平民主義者か ら帝国主義イデオローグに急旋回したことに理由があるだろう(19)。
では、徳富の松陰革命家論とはどのようなものであるか。彼によれば、革命家には 三種ある。序幕に登場するのは予言者(宗教革命におけるエラスムス、英国革命における ミルトン、フランス革命におけるモンテスキューやヴォルテール)である。この人物は「手 の人にあらず、眼の人、実行の人にあらず、理想の人」である。次に登場するのが第 二種の革命家で、「眼に見る所、直ちに手にも行うの人」である。第三種の革命家が、
建設的革命家であり、クロムウェル、ナポレオンなどが例とされている。そして、蘇 峰は吉田松陰を第二種の「革命家」と位置づける。そして、明治維新における人物像 をこの三種の革命家にあてはめて、「眼の人として横井(小楠)、佐久間(象山)に譲 り、手の人として大久保(利通)、木戸(孝允)に譲る。而して彼が維新革命史上、一 頭地を抽んずる所以のものは、要するに見る所直ちに行わんと欲するがためにあらず や」(20)。蘇峰が、考え付いたことを直ぐに実行する人と評していることは重要である。
この革命家としての一面を徳富蘇峰は、獄中における多動として描いている。獄中 から出した書簡にも、「獄中は多閑の地に候所、読書に取りかかり候えば、かえって 多忙に苦しみ申し候」と書いてある通りである(21)。
(3)過激者という評価
司馬遼太郎は、松陰とその弟子高杉晋作を描いた小説『世に棲む日々』で、吉田松 陰の人物を「過激者」と評している。「なにごとも原理にもどり、原理のなかで考え を純粋にしきってから出てくるというのが思考の癖(へき)であり、それがかれを風 変りにし、かれを思考者から行動者へ大小の飛躍をつねにさせてしまうもとになって いるらしい」(22)。
この過激者という評価はある意味で正当なものだと私も思う。実際に、弟子であり 同志である高杉晋作、久坂玄瑞らにとっても困惑するほど過激であった。1859(安政 6)年1月23日に、松陰は、その頃傾倒を深めていた明時代の儒学者李卓吾に関して 書いた文章(松陰の妹婿宛)に次の一節がある。「僕已ニ獄ニ入リ、ナホ外事ヲイフ。
−11−
コレ家ヲ出デテ家ヲ顧フニ非ズヤ。人マサニワガ言ヲ厭フモ、ワガ言ハ止マズ。コレ 人竹ヲ愛スルモ竹人ヲ厭フニ非ズヤ」(23)。
河上徹太郎によると、この頃松陰の思想謀略はますます過激になり、ために久坂玄 瑞や高杉晋作すらももて余して慎重論になり、やがて絶交を申し渡されるのである が、とにかくこの頃に松陰自身しきりに死を想うて、翌日24日には絶食の挙に出て、
翌25日両親や叔父の諌止に遇ってやめる」という経過があったほどである(24)。 ふたたび藩命で野山獄に収監された松陰に、高杉晋作、久坂玄瑞ら5名から、しば らく状況を見極めるために時期を待つという手紙が来たのが1859年正月10日であっ た(25)。1月23日付け文書は、この手紙への反応であろう。
後に盛んになる倒幕論を最初に言い出したのも松陰である。しかし、これは主張と しては「あまりに先駆的」であったと寺尾五郎は指摘している(26)。
坂本竜馬、三岡八郎(由利公正)らは、討幕運動の中でも来るべき新時代の国家経 営、経済政策など具体的新国家像を考えていた。松陰の目指したのは、改革ではなく 革命であり、体制転覆の切っ先であった。鋭いが一点集中、しかも的外れに近い。
(4)「未成の人」という評価
田中彰の語るところでは、杉浦重剛・世木鹿吉共著『吉田寅次郎』(偉人伝叢書、博 文館1915年)は「松陰の如き、未だ大舞台に出でざるかげ人たるに過ぎず、其の政治 上と教育上とに論はなく、未成の人なり」と述べている。この人物伝の語るところ、
松陰は、「比較的不利益の地位にありて、能く本来性を鼓動せるもの、正に偉と認む べきなり。されど又一方より之を見れば、其の地位を得ざりしが為に、能く本来性を
すなわち い か ん
発揮するに好処を得たるの観あり。若し松陰をして治者たらしめば、 則 如何。其の 俗論より抜くこと幾等なるべきか」とするという(27)。
これを現代語で要約するとこんな意味になろう。
「松陰はあまり恵まれた立場になかったにも関わらず、その特性を発揮することがで きたことは偉い。だが、これを他面から見ると、この地位に恵まれなかったことが、
かえって彼の特性を発揮させることになったのではないか。もしも、松陰が指導者の 地位にあったとしたら、どうであったか。当時の統治者のレベルを越えられたであろ うか」。
たしかに、この評価にもうなずくところが少なくない。頭の中で思想が次々と生ま れ、それが表出されて周囲の人間を動かすが、仮に彼自身が指導的地位に座らされた ら、あまり優れた実践は出来なかったのではないか。
(5)感化力の強烈な人
以上のような評価で、なお十分でない所がある。それは、松陰がなぜ死後も人を動
−12−
かしたかという面である。安政の大獄で処罰された代表的人物として、松岡英夫は
「幕府では岩瀬忠震、諸藩の士では橋本左内、吉田松陰」の三人を挙げる。「忠震は 幕末外交を一人で背負って立っていた男であるし、左内は勘定奉行の水野忠徳が『井 伊大老が橋本左内を殺したるの一事、もって徳川氏を亡ぼすに足れり』と喝破したほ どの人物、松陰については井伊大老にしても(長野)主膳にしても理解を超える人物 であったろう。松陰は志士とか革命家というより、人に対する感化力の強烈な人物 で、教育者といったほうがよい。直弼や主膳とは別の世界から出てきたような人であ る。別の世界から出てきた人ともいえるし、別の世界のために用意された人物の一人 といったほうがよいだろう」と松岡は言う(28)。
3 松陰の獄中での学習
(1)入獄の理由と経過
1854(嘉永7)年3月に松陰は世界を自分の目で見るために下田港に碇泊中のアメ リカ軍艦に乗り込んで出国しようとして失敗、自首して捕らえられ、江戸の獄を経 て、蟄居の刑を受けて郷里の萩にある野山獄に入れられた。
幕府の裁決は、死を覚悟した行動にしては意外に軽いもので、「一途に御国の御為 を存じ仕り、成し候旨は申し立て候えども、右体重き御国禁を犯し候段、不届につ き、父杉百合之助に引渡し在所において蟄居を申付くる」というものであった(29)。 本当であれば父の家で蟄居すべきところ、幕府の意向を慮った長州藩は、杉家からの 申し出による借牢ということで野山獄に収容した。実際の費用は藩で負担したようだ が、蟄居に代えて身柄を牢獄で預かるという形であった。当時はこんな入牢もあった のだ。したがって、囚人ながら、かなり自由に過ごせる面があったらしい。
野山獄読書記によると、1854(嘉永7)年10月24日から12月末日までに読んだ本は 106冊、1855(安政2)年1年間で488冊、1856(安政3)年は505冊に及ぶ。当時の和 綴じ本であるから、現在の本とはそのまま対比できないが、重要な部分は全部抜書き をして、その抜書きが相当量に及んだ。それが松陰神社に残されているが、これを印 刷すると500頁ほどの本4冊分になるという(30)。
松陰を突き動かした学習意欲は、彼が生きた時代を離れては考えられないが、獄中
さつ き
で孟子を講じた講義録である『講孟余話』(当初の題は『講孟箚記』)にはその心境がこ のように綴られている。
こつこつ し し
「朝起きてより夜寝ぬるまで、兀々孜々として且つ読み且つ抄し、或は感じて泣 き、或は喜びて躍り、自ら已むことを能はず。此の楽しみ中々比較すべきものあるを 覚えず」(31)。「読み且つ抄し」と記されているのは、彼が読んでは抜書きをしていた
−13−
ことを意味する。
(2)野山獄について
ここで、松陰が短い人生の重要な一部を過ごした野山獄について、説明しておきた い。野山獄は、元は藩の物頭野山清右衛門の屋敷であったが、1645(正保2)年に東 隣の藩士岩倉孫兵衛が酒に狂って(遺恨との説もある)清右衛門を襲って殺害した。藩 庁は孫兵衛を斬首の刑に処し、両人の屋敷を没収、野山邸は士分の者の獄舎、岩倉邸 は庶民の獄舎とした。それ以来、「野山獄」、「岩倉獄」と呼ばれている。野山獄は南 北両房からなり、北房のうしろに処刑場があった。吉田松陰の国禁を犯した罪につい て幕府の定めた処分は、「父杉百合之助に引渡し在所において蟄居」というものであっ たから、長州藩の処置はこれに反する、より過酷なものであった。入獄は1854(嘉永 7)年10月24日、過酷に過ぎるとの批判によって、幕府裁決の通り杉家に移されたの は翌年12月15日であった(32)。
しかし、ここで過ごした日々は学習者吉田松陰にとって極めて重要な期間であり、
その後の思想的変化にも大きな影響をもったと私は考えている。また、ここで女囚高 須久子と遇ったことは、後に見るように彼の思想の新たな地平を開く意味を持ってい た。
4 獄中で学び、考えたことの意義
(1)松陰にとっての学習の意味
野山獄に入った松陰は、失意で学習を放擲するどころか、いつ出獄できるか分らな いで荒れすさんでいる同房者に学ぶことを提案し、俳諧に通じている吉村善作、河野 数馬を中心に句会を開く一方、1855(安政2)年6月から11月まで34回にわたって孟 子の講義を行った。孟子の講義は出獄後に松下村塾でも続けられ、やがて『講孟余 話』としてまとめられた。獄中で学ぶことの意味を松陰は次のように語っている。以 下は、原典を岩橋文吉が現代語に直したものを一部だけ私なりに加工したものを引用 する。
「今しばらく諸君と獄中で学問する意味を考えてみよう。通俗の考えでは、もはや 囚われの奴隷になったからには再び世の中に出たり、太陽を見る希望がなくなった。
懸命に勉強して学問が出来上がったとしてもなんの利益があろうか、などという。こ れは損得本位の考え方(利の説)である。道義の考え方はそうではない。人の心が生 まれながら与えられている天性や事柄の真理からみて、当然なことを一つとして為さ ないことはない。人と生まれて人の生きる正しい道を知らない。臣として、子とし
−14−
て、また武士として、そのあり方の正しい道を知らない。なんと最大の恥ではない か。もしこれを恥じる心があるなら、書を読み、道を学ぶよりほかに方法がない。そ していくらかの道を知ることになれば心からの喜びではないだろうか。『朝に道を聞 きて夕に死すとも可なり』というのはこれである」(33)。
この孔子の「朝に道を聞き」云々は、松陰が最初に獄に囚われた下田で、獄中でも 学ぶ意味について弟子金子重之輔にした話だと司馬遼太郎は『世に棲む日々』で書い ている(34)。
松陰には、激しく動く時代状況に情報を求め、議論を交わす「動」の側面に対して、
「静」の側面があった。「それは、読書であり、自省であり、獄中であり、さらには 松下村塾という場での講義であり、討論であり、教育であった」(35)。
(2)諌幕から倒幕へ
松陰は、杉家に蟄居中に態度を変えた。当初、彼は「天子に請うて幕府を討つこと は不可である。大敵が外にあるいま、国内あいせめぐときではない。諸侯と心を合せ て幕府を諌め、強国にするはかりごともなすべきである。藩主を通じて幕府をいさ め、きき入れないとき、はじめて藩主をおしたてて倒幕にのり出す」と言っていた(周 防の勤王僧月性への手紙)。これに反論したのは浄土真宗本願寺派の僧黙霖であった。
蟄居中の松陰に会うわけにいかず、黙霖は手紙で松陰に意見した。「幕府の政治は覇 道にほかならず、わが国を古の朝廷政治の王道にもどさねばならない。今の幕府は放 伐すべきである。……われわれのなすべきことは、一生でかなわねば、二世、三世を かけても、王政復古をはかることである」(36)。
この黙霖の直言は、あくまでも言論のレベルで幕府を倒すということで、後の松陰 が行うような直接行動は示唆していない。しかし、既成秩序の中で事を進めようとし ていた松陰は、黙霖に降参してしまう(37)。あるいは、その後の松陰の行動(といって も、彼は蟄居中で弟子達や同調者に指示するだけだが)は黙霖の考えをはるかに越えてい たのかも知れない。
このような経過をとって、幕府が日米通商条約を勅許なしに締結する事態に、松陰
ただなか しげとみ
は直接行動を計画するようになる。「『狡猾』水野土佐守忠央の暗殺後、大原三位重徳 の長門下向を勧めた大原西下策、梅田雲浜らのとらわれていた伏見の獄の破壊策、老
ま な べ あきかつ
中間部詮勝の要撃策、伏見要駕策(これは、倒幕のために、1859(安政6)年3月5日、
藩主慶親が参勤のために東下するのをさいわい、駕籠を伏見で停めて京都に入らせ、三条実美、
大原三位ら倒幕派の公卿と会わせて、京都で旗挙げさせようという計画である(38)。)等々―。
だが、それはいずれも失敗に終る」(39)。
みな計画倒れに終ったことについて、徳永は、「それは、一面からみれば、現実離 れした無鉄砲な衝動的な行為のためかも知れない」とする(40)。
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事実、間部要撃策になると、あまりに過激で無謀な松陰の計画に周囲も敬遠気味で あった(41)。ふたたび藩命で野山獄に収監された松陰に、高杉晋作、久坂玄瑞ら5名 から、しばらく状況を見極めるために時期を待つという手紙が来たのは、前述の通り である(42)。
(3)松陰の本音としての開国論
松陰の下獄と幽閉は1854(嘉永7)年から5年に及んだ。野山獄を出て松下村塾で 弟子たちを教えたのが1年余り。その間にも、幕府のずるずるとした開国策は進んで いく。松陰から見れば、これは政策という言葉に値する一貫性をもったものではな く、外国の圧力に押され目前の事態を収めるという極めて許しがたい措置であった。
松陰は、井伊直弼が大老に就任して、条約調印をいったん白紙に戻したことが伝えら れると、『愚論』、『続愚論』を書いて、梁川星巌を通じて藩主慶親に届けている。こ れを見ると、松陰が「単純な攘夷論者でなく、むしろ開国論者であったこと」が分 る(43)。松陰は次のように書いている。
「鎖国の説は一時は無事でありますが、宴安姑息の徒が喜ぶところでありまして、始 終遠大の大計ではございません。一国に居つくのと天下に跋渉するのとは、人の智愚 老逸、近く日本国内でも懸絶するところで、いわんや四海においておやであります。
どうか大艦を建造し、公卿より列侯以下万国を航海し、知見を開き、富国強兵の大策 をうちたてるようにして頂きたいのであります。……外国の事情を知らずして、いた ずらに海岸を守り貧窮に苦しむのは、まことに大失策でありまして、イギリス、フラ ンスなどの小国でさえ万里の遠海へわたり人を制しておるのは、みなみな航海の益で ございます。ここのところに早くご着眼なさらなければ、おぼつかないことでござい ます」(44)。
(4)草莽崛起論
松陰が急速に展開する政情の分析とさまざまな思考の末にたどりついたのが草莽崛 起論であった。ここに至る彼の考え方には、複数の伏線がある。
松陰を描いた論考にはあまり出てこないが、彼には唖者の弟杉敏三郎がいた。敏三 郎は障害にもかかわらず、心穏やかで家族に迷惑をかけることなく暮らしていた。松 陰はこの弟を気遣い、自由に動けていた間は、しばしば神仏にその平癒を祈念してい た。その眼差しは弱い者、差別される者へのそれへと広がったと田中彰は言ってい る(45)。
その眼差しの先に見えたのが、被差別身分の者たちであった。そこには後に見るよ うに、野山獄で出会った女囚高須久子の生き方から受けた影響が大きいが、松陰はそ れ以前から、当時異人とされていたアイヌの人々を「今は則ち平民と異るなし」とす
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る考え方をもっていた(46)。松陰は、安藤昌益や司馬江漢らと同じく、江戸時代には 少数派だった平等主義者であった(47)。
寺尾五郎の解説するところでは、松陰は、諌幕から倒幕へ考え方を変えても、方法 論としては当時の封建制秩序を基本的には尊重しながらこれを進めることを考えてい た。尊王の藩全体を動かし、天皇の旗印の下に藩主と藩士全体が挙げて立ち上がる
「列藩勤王」が可能であると思っていた。しかし、朝廷は優柔不断であり、諸藩は大 老の一喝に日和見をきめこんでしまう。そこで、彼は「されば天下頼むべき諸侯は 至って少なく、勤王の事は思ひも寄らぬ事なり」と言うようになり(『時勢論』)、「吾 が藩当今の模様を察するに、在官在禄にては迚も真忠真孝(尊王倒幕のこと)のことは 出来申さず候。……真忠孝に志あらば一度は亡命して草莽崛起を謀らねば行け申さず 候」(佐世八十郎宛)」という心境にたちいたる(48)。この佐世八十郎宛の書簡が書かれ たのは1859(安政6)年2月段階であるが、3月20日には次のように、頼るべきは草 莽の士以外にはないと言い切るようになる。「是非事をやるには草莽でなければ人物 なし。錦衣玉食、美婦を擁し愛児を弄するが世禄の士の事業、尊攘どころでなし」(入 江杉蔵宛)(49)。
そして、遂には、天朝さえも頼みにならないと見切りをつける。「草莽崛起、豈に 他人の力を仮らんや。恐れながら天朝も幕府・吾が藩も要らぬ。ただ六尺の微躯が入 用」(野村和作宛1859年4月)(50)。
ここには自分が動けない中での「革命」が思うように進展しないもどかしさが表れ ているように読める。たしかに、その気配は読み取れる。しかし、ただ焦って八つ当 たりしているのではなく、当時は日本語に訳されていなかった「自由」に相当するオ ランダ語をナポレオンの名と共に記していることに注目したい。
「独立不羈三千年来の大日本、一朝人の羈縛を受くること、血性ある者忍ぶべけんや。
な ぽ れ おん
那波列翁を起してフレーへード(自由)を唱へねば腹悶医し難し。僕固より其の成す べからざるは知れども、昨年以来微力相応に粉骨砕身すれど一も裨益なし。徒に岸獄 に坐するを得るのみ。此の処置妄言すれば則ち族せられんなれども、今の幕府も諸侯 も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼みなし」(1859年4月7日、
北山安世宛)(51)。
文中のフレーへードはドイツ語の
Freiheit
に相当するオランダ語vrijheid
のことで あり、(自由)という注記は田中の加えたものであろう。というのは、日本でliberty
ないし
freedom
に「自由」という訳語を対応させたのは、インターネットのWikipedia
によれば、幕府外国方英語通辞の森山多吉郎あるいは福沢諭吉であるとされ、文献上 では堀達三郎編『英和対訳辞書』(1861年=文久2年)又は福沢の『西洋事情』(1866年
=慶応2年)であるという。1861年は松陰が処刑された後であり、松陰が「自由」と いう言葉を使う可能性はない。
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注目すべきは、フランス革命の英雄ナポレオンの名前を「自由」の象徴として持ち 出していることである。フランスの旧体制を打破し、西欧世界を一時席捲したナポレ オンについては、江戸時代の西洋事情通がかなり関心を示し、頼山陽は1818(文政元)
ふらんす
年の長崎での知見をもとに「仏郎王歌」なる長大な漢詩を作っている。小関三英、渡 辺崋山らもナポレオンの事跡には興味をもって紹介をしている(52)。
5 野山獄で出会った女囚から受けた影響
(1)高須久子とはいかなる女性か
松陰は野山獄で一人の女囚と出会っている。高須久子(高洲が本名であるようだが、
すでに高須姓で一般に知られているので、そのままにする)である。松陰入獄当時、松陰 25歳、これに対して久子は37歳であった(53)。松陰はこの女性との出会いから、四民
平等という思想を実感として体得したと言える。
高須久子が野山獄に入れられた理由は、多くの関係資料では明らかにされていな い。『吉田松陰全集』にも、松陰と久子が取り交わした詩歌はあるが、久子の入獄の 経緯は何も出てこないという。資料渉猟で名高い司馬遼太郎も、『世に棲む日々』で、
「男好きであるらしい。『罪は姦淫でございます』と、武家言葉でわるびれずにいっ た。高須久子は三十前後で後家になった。そのあと、一、二度男出入りがあったため に親類一同が協議のすえ、藩にたのんで彼女を五年の刑ということで入牢させた」
と、当時流布されていた噂をもとに書いている(54)。
高須久子の入牢の真の理由が明らかになった端緒は、当時山口県文書館員であった 布引敏雄だった。布引が毛利家文書の中にある資料を掘り出して、流布されていた噂 が真実に遠いことを明らかにした。1977(昭和52)年のことであった。したがって、
1960年代末に『世に棲む日々』を書いた司馬には参照不可能であった。これをもと に、史実を明らかにしたのが田中彰である。田中彰によると、山口県文書館に収めら れた「毛利家文書」の中に、表紙に『高洲彦次郎并母祖母共御咎一件』と書かれた分 厚い資料がある。これは毛利家に伝わる「御仕置帳」の一部であり、高須久子が藩の 取調べに対して陳述した内容が入牢の真の理由を明らかにしている。以下、田中彰の 記述に沿って、久子の入牢の経緯を確認しておきたい(55)。
久子は三百石余を知行とする高洲五郎左衛門の娘で、養子を迎えた。この夫婦の間 には女児が二人いた。しかし、1846(弘化3)年に夫である市之助が死去して久子は 寡婦になった。そこで1849(嘉永2)年久子の長女に婿をとったが、14歳の婿である 彦次郎は実家から藩校である明倫館に通うことが多かった。そのため、高洲家は久子 の母と久子、そして2人の娘という女所帯であった。上級武士の家であるから、当
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然、家族とは別に下男下女はいた。
久子は生来陽気で、三味線が好きだった。これが次第に昂じて浄瑠璃や京歌、チョ ンガレに凝るようになった。チョンガレは浪花節あるいは「ちょぼくれ」の類、当時 の「流行歌」である。そして、こうした「流行歌」などの芸能は、当時、被差別部落 民が主としてかかわっていた。三味線好きの久子が特に親しくなったのが、被差別部 落民の弥八と勇吉だった。二人はともに歌や三味線が上手だったために、久子はこれ を贔屓にして、祭礼の日などに手踊りなどをさせて、親類も見物に来ていたらしい。
しかし、これが昂じて、久子は祭礼でもない日常生活の間にもそっと二人を自宅に呼 び、茶を飲ませたり酒食を供したりするようになった。二人に心付けとして金品を与 え、二人から手土産をもらうこともあった。そして、深更に及んだ時には、夜具を用 意して泊らせることもあった。これについて、久子と弥八らの不義密通を疑う取調べ も行われたが、それについては、久子も下女も一切そういうことはなかったと証言し ている(56)。
この事実が親類に知られて、人倫に反する行いとして久子は入牢、関係者もしかる べき処分を受けたのである。ここには、幕末になって商品経済が拡大する中で身分制 度が崩れかけて来たという背景があり、これに対する支配側の引き締めとしての懲罰 という側面があるのではないかと推測される。
(2)松陰と高須久子の交流
こうして野山獄に囚われていた高須久子に、1854(嘉永7)年10月24日に入獄した 松陰は出会う。松陰はここで比較的自由に同房者と交流し、孟子を講じたりしてい る。そして、獄内では、俳句や短歌の会が開かれていた。残された作品(『詩文拾遺』)
の中に、松陰と久子との心の触れ合いを感じさせるものがあると田中はいう。田中が その証拠として挙げるのが次の松陰の和歌である(57)。
「高須未亡人に数々のいさをしをものがたりし跡にて
のりかた いみな
清らかな夏木のかげにやすらへど人ぞいふらん花に迷うと 矩方(これは松陰の諱で ある)
未亡人の贈られし発句の脇とて
かけこう
懸香のかをはらひたき我れもかなとはれてはぢる軒の風蘭 同じく
はす
一筋に風の中行く蛍かなほのかに薫る池の荷の葉」
最初に傍点を付した「いさをし」について、田中は「いさし」とするのが正しいと している(細部の考証はここでは略す)。「いさし」は「子細・仔細」の意であり、それ は「くわしい事情」、「人の感動するようなこと」、「表面に出していうことができない 事情」であろうと田中は読み解く(58)。
−19−
これは松陰が自身のこれまでを語っただけでなく、当然、久子の入牢の理由なども 聞かされたはずである。そして、松陰は久子に罪を見なかった。それが、「人は花に 迷う」と言うだろうが、松陰から見れば、久子は「清らかな夏木のかげに」やすらう 人だという評価になるのだ。
そして田中は、二人の心の通い合いを松陰が1855(安政2)年12月にいったん出獄 して親の家での謹慎になる際に久子の読んだ句(鴨立ってあと淋しさの夜明かな)、そし て、1858(安政5)年12月に再度野山獄に収監され、やがて江戸へ送られる際に久子
おうち
の読んだ句(手のとはぬ雲に樗の咲く日かな)を挙げ、さらに、松陰と久子の別れにお ける松陰の歌と句を付け加えている。
「高須うじのせんべつとありて汗ふきを送られければ 矩方 箱根山越すとき汗の出でやせん君を思ひてふき清めてん
高須うじに申しあぐるとて
ほととぎす
一声をいかで忘れん郭公 松陰 」
しぎ
少し田中の解説を要約すると、「鴨立って……」の句の「鴨」は、「鴫」と通じるの だという。鴫=子義(松陰の字)であり、鴫と読むのは余りにも直截に過ぎるという 思いから、久子は「鴨」と変えて読んだのだろうとする。「手のとわぬ」は「手の届 かぬ」という意味であり、松陰の江戸下向を知って、自分の心を読んだとする(59)。
田中が二人の心の通い合いを詳細に検証したのは、男女のプラトニック・ラヴに興 味があったからではない。松陰がその短い人生の最後に「草莽崛起」と言う、庶民を 主体とした人々が立ち上がって旧体制と身分秩序を固守する幕府を打倒するという思 想に行き着いた大きな理由が、被差別の人々とも普通に付き合う久子の生き方を知っ たことではないかという。松陰は、日清戦争勝利以後の天皇を神格化した忠君愛国、
事大主義の中で、尊王思想の面だけが強調されてきたが、彼の思想の根底には平等主 義がしっかりと流れていたのである。
田中は、被差別身分の人々への松陰の思いの深さを、『討賊始末』という松陰の著 作の成立を追いながら詳しく語っている(60)。これは、被差別身分であった宮番の妻 登波の仇討ちをめぐるいきさつを松陰が著作としたものである。登波の両親と弟を殺 害し、夫に重傷を与えて逃げていた枯木龍之進の事件は、12ヵ年にわたって龍之進を 日本中追い続けた登波の願いにより長州藩により逮捕され、1841(天保12)年に龍之 進が自刃に追い込まれて終った。だが、これを長州藩が藩政改革の一環として、単な る孝道・節婦の枠組に押し込めようとしたのに対して、松陰が被差別者の問題と把握 して新たな著作としたのには、そこに高須久子の生き方と通じる人間解放の根幹に関 わる問題があったからではないかと田中彰は結んでいる。
前章で引用した通り、処刑される前に江戸の獄から知人に送った手紙には、フレー ヘードという言葉で彼の思想の由来が明確に示されていた。
−20−
むすび―松陰の獄中での学びの意義
本稿は、吉田松陰という人物の獄中での学びに着目し、その意義を考えることが目 的であった。以下に、小論の論旨をまとめてむすびとしたい。
① 吉田松陰は直情径行、考えたことはすぐに行動に移す人物であった。もし、松陰 が獄に入らず、実家幽閉という処分を受けなかったならば、彼の思想の成熟はな かったであろう。動けない状態で考えたことが彼の思想を成長させたのではない か。
② 他方、外から情報提供はされるが、実際に現場に行けず、自由に他者と意見交換 も出来ないために、より思想が過激化したのではないか。奈良本辰也はこれを否定 する(61)が、私は閉ざされた中での思考が過激化を招いたという印象を持っている。
③ 女囚高須久子との出会いの持つ意味。これは、すでに述べたところであるが、久 子の被差別民との自由な付き合い方から、松陰が既に抱いていた四民平等という価 値観がされに掘り下げられ、やがて草莽崛起という革命の方法論にまで発展したの だと理解している。
④ 野山獄に借牢という形で入ったことから、その扱いは緩やかで、学ぶには格好の 環境であった。近代になると牢獄は次第に条件が悪くなり、敗戦の前年に治安維持 法違反で下獄した哲学者戸坂潤は、栄養失調と疥癬に悩まされ、腎臓を悪くし、敗 戦のわずか前、1945年8月9日に獄死している。このような劣悪な条件下では、学 ぶ最低条件がないことになる。その意味では、松陰の学びの場としての野山獄は、
皮肉な言い方ながら、恵まれた環境であったと言えよう。
注
1 2010年8月24日放送分。
2 渡辺京二「明治維新をめぐる考察」『なぜいま人類史か』葦書房1986年。
3 寺尾五郎『倒幕の思想=草莽の維新』社会評論社1990年(「思想の海へ[解放と変革]第 5巻」)260〜261頁。
4 田中彰『吉田松陰―変転する人物像』中公新書2001年(以下、「田中・2001年」と略す)
108頁、奈良本辰也『吉田松陰』岩波新書1951年34頁以下による。
5 田中彰『松陰と女囚と明治維新』NHKブックス、1991年(以下「田中・1991年」と略す)。
6 田中・1991年75頁。
7 同・76頁。
8 司馬遼太郎『世に棲む日々』(初出『週刊朝日』1969〜1970連載)引用は『司馬遼太郎全 集』1973年27巻69頁による(以下、「全集27巻」と略す)。
9 田中・1991年78頁。
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10 同・79頁。
11 注4で引用した「田中・2001年」のことである。
12 田中・2001年47頁。
13 河上徹太郎『吉田松陰―武と儒による人間像』、初出1968年、講談社文庫版2009年96〜98 頁。
14 同・99頁。
15 徳永真一郎『吉田松陰―物語と史蹟をたずねて』成美堂出版1976年115頁。
16 ワイド版岩波文庫2001年=明治26年初版による(以下、「徳富・初版」と略す)。
17 徳富猪一郎『吉田松陰』改訂版1908年民友社、直接には1917年の23版を参照した(以下、
徳富・改訂版)と略す)。
18 徳富蘇峰『吉田松陰』(ワイド版岩波文庫2001年に付された編者植手通有の解説による)
275頁。
19 田中・2001年37頁。
20 徳富・初版185頁。
21 同・188頁。
22 「全集27巻」132頁。
23 河上・前掲書270頁。
24 同・270〜271頁。
25 徳永・前掲書152〜3頁。
26 寺尾・前掲書248頁。
27 田中・2001年60頁。
28 松岡英夫『安政の大獄』中公新書2001年、205頁。
29 徳永・前掲書75頁。
30 岩橋文吉『人はなぜ勉強するのか―千秋の人吉田松陰』財団法人モラロジー研究所刊2005 年、74頁。
31 『吉田松陰全集』山口県教育会編、岩波書店1938〜1940、第3巻296〜297頁。
32 徳永・前掲書76頁。
33 岩橋・前掲書109〜110頁。
34 「全集27巻」177〜178頁。
35 田中・2001年113頁。
36 徳永・前掲書81〜2頁。
37 寺尾・前掲書269〜271頁。
38 徳永・前掲書154頁。
39 吉田・1991年82頁。
40 徳永・前掲書162頁。
41 同・143頁。
42 同・152〜3頁。
43 同・116〜117頁。
44 同・117頁。
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45 田中・2001年156頁以下。
46 同・155頁。
47 同・154頁。
48 寺尾・前掲書276〜277頁。
49 同・278頁。
50 寺尾・280頁。
51 田中・2001年20頁。
52 岩下哲典『江戸のナポレオン伝説』中公新書1999年。
53 田中・1991年154頁。
54 「全集27巻」197頁。
55 田中・1991年122〜138頁。
56 田中・1991年139頁〜140頁。
57 田中・1991年168頁。
58 同・169頁。
59 同・172〜174頁。
60 同・176頁以下。
61 奈良本・前掲書130頁。
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