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(1)

近 世 所 領 配 置 考

― 播 磨 国 を 事 例 と し て ―

郡   山   志   保

はじめに

  本稿は播磨国を事例に幕府による所領配置の特色について検討するものである。

  播磨国は畿内の近国地域に位置し、幕府領、大名領、旗本領、飛地領(役知含む)、寺社領といわゆる非領国地域特有の領地が混在した地域である。八木哲浩氏は畿内近国の中でも大坂周辺の所領配置と構成を具体的に再検討した結果、畿内近国の所領配置は分散錯綜・領主交替の激しい地域であるとの安岡重明氏の非領国論 )1

(を批判し、畿内近国は幕府領国であると論じた。 (2)この八木氏の提示した幕府領国論は一連の畿内近国論の中でも特に領主変遷に着目した最初の論文であった。その後、横田冬彦「「非領国」における譜代大名」 (3)、三宅正浩「近世初期譜代大名論―軍事編成と所領配置―」 (4)、岩城卓二「畿内近国論」 (5)などにより畿内の所領配置が論じられてきた。播磨国の所領配置については八木哲浩執筆『兵庫県史』 (6)で概要が明らかにされている。横田氏は非領国論を幕藩政治史へ結びつける媒介として譜代大名を取り上げ、上方譜代大名の幕府役職就任や譜代大名がいつ配置されたか、転封と定着の問題など、タイプ別に分けて譜代大名を分析している。譜代大名の基礎的事実の再検討という点では評価できるが、横田氏も課題にあげているように、全体の所領構造が明らかになっていない。また、三宅氏は大坂の陣の組編成と所領配置・規模が関連していることを明らかにし、軍事的観点から近世初期の所領配置の形成過程について分析している。三宅氏が取り上げたのは近世初期における大名の所領配置で、徳川幕府がどの地域にどの大名を配置するのかという、幕府にとっ

(2)

て政権を確立安定させていくための非常に重要な施策である。しかし、近世初期以降も大名の配置替えはおこなわれており、大名の定着をみるのは十八世紀である。加えて大名だけでなく、御三卿、旗本、そして飛地領や幕府領も含めて広域的で多様な所領配置を検討する必要があろう。岩城氏は所領配置に特化した研究ではないが、畿内近国大名の性格や役割を通して幕府全国支配における畿内近国の位置、大名からみた畿内近国論について検討している。一方、講談社『日本の歴史』や吉川弘文館発行の通史物などでは所領配置について必ず触れられている。 (7)しかし、関ヶ原戦後から秀忠・家光時代の江戸時代初期における所領配置の記述はあるが、その後領主が定着をみる一七〇〇年代の配置についてまでは触れられていない。また、飛地領に限ってではあるが、泉正人氏は「関東飛地領の基礎的考察」 (8)において関八州に存在した飛地領を持った藩・大名家の成立事由や分布地域について考察をおこない、その特徴や傾向などについて明らかにしている。本稿とは目的は違うが分析手法が似ている。

  このように畿内近国の所領配置についての先行研究は、近世初期の所領配置に止まっている点、および旗本領や大名の飛地、そして幕府領も含めた所領配置について述べられていない点など問題点もある。

  さて筆者は以前、近江国を事例に所領配置について検討をおこなった。 (9)先行研究では大坂周辺、特に摂津国と河内国に注目して研究がなされてきたが、畿内の近国(上方八ヶ国のうち五畿内を除く近江国・丹波国・播磨国)については分析が及んでいなかった。そこで筆者は畿内の近国に位置する近江国に近世を通して所領を有していたのはどの大名家であり、どの藩であったのか、所領構成を確認し、配置の特色について検討した。その結果、近江国を本拠地とした藩は譜代大名の配置率が高く、近江国に飛地(役知含む)を持った藩は、北は陸奥国から南は日向国まで四十八の藩、大名家では延べ六十家を確認し、そのうちおよそ八割が譜代大名で占められていたことを指摘した。転封の多い譜代大名が領主交替の激しい畿内近国地域に領地が与えられることは周知の通りであるが幕府は近江国に譜代大名を配置して安定した領主支配を担わせ、かつ譜代大名に役知だけではなく、飛地領として近江国の領地を宛がっていたことがわかった。そこで次に五畿内の東に位置する近江国に対し、同じ畿内近国として西に位置する播磨国

(3)

の所領配置はどうであったのかについても検討しておきたいと筆者は考えた。

  本稿では播磨国にいつ・どこに・どの領主が配置され、いかなる経緯で飛地領や役知を拝領したのか、幕府領、旗本領、御三卿領を含めて所領構成を確認し、播磨国の所領配置の特色を検討する。そのうえで同じ近国である近江国の特色と比較・検討を試みたい。

第一章  播磨国に本拠地を置いた領主   本章では、播磨国の所領配置についての先行研究を踏まえつつ、播磨国を本拠地とした藩・大名家、旗本について、入封・転封の経緯(領主変遷)など再確認し、所領配置の特徴について検討をおこなう。

(1)池田家による播磨国支配

  播磨国の所領配置のはじまりは、池田輝政による播磨国一国五十二万石支配である。まず、播磨国一国を領有した池田輝政とその後の池田家の分割支配について触れておきたい。

  関ヶ原合戦ののち、慶長五年(一六〇〇)に池田輝政が播磨国五十二万石の領主として入封した。池田輝政は徳川家康の二女督姫を後添いとして迎え入れ、忠継・忠雄・輝澄・政綱・輝興が生まれた。輝政はこの五人の男子のほか、先妻糸子との間に長男の利隆を儲けている。さて、輝政の一国支配であった播磨国は輝政死後、池田家の分割支配となった。宍粟郡・佐用郡・赤穂郡は未亡人良正院(督姫)の化粧料とされ、上記三郡を除く四十二万石は長男利隆が領有した。良正院の没後、宍粟郡(山崎藩)は輝澄に、赤穂郡(赤穂藩)は政綱に、佐用郡(平福藩)は輝興に与えられた。こうして播磨国では池田輝政の息子たちによる分割支配がはじまったのである。

(4)

(2)分割支配後の所領配置   元和二年(一六一六)に利隆が三十三歳の若さで亡くなったあと、利隆が領有していた四十二万石は利隆の嫡子光政が継いだが、姫路城を中心とした要衝の地である播磨の支配は九歳の光政には荷が重いとのことから、光政は因幡・伯耆国の鳥取藩三十二万石へ転封となった。そして、前述のとおり、山崎藩・赤穂藩・平福藩にはそれぞれ輝政の息子が大名として入封しており、その他の地域にはさまざまな領主が幕府により配置されたのである。

  本節では【表①】をとおして、播磨国に本拠地を置いた領主について確認(幕府が江戸時代を通じてどの大名家を播磨国に配置したのかを確認)し、領主変遷を概観した上で所領配置の特色について検討する。【表①】は播磨国を本拠地とした藩・大名家の一覧である。藩主名・前任地(播磨国移封前の藩名と石高)・家格・播磨国移封後の石高・立藩もしくは藩主就任期間・領地(郡)・他国の飛地領の有無・播磨国の領地を拝領した経緯・後任地(播磨国から転封した先の藩名と石高)を表にしたものである。なお【表①】は『寛政重修諸家譜』 )(1

(、『近畿藩史大事典』 )((

(を基に作成した。以下【表①】に即して播磨国を本拠地にした領主について、確認していく。

①  三草藩(【表①】の1)

  三草藩主である丹羽家は織田信長・信雄、徳川家康に仕え、近世初期は美濃国岩村藩二万石を領する譜代大名であった。藩主氏音のとき、藩政改革において家臣が私欲を挟み、徒党を結んだため、家臣三十人余が処罰された。その咎を受け、藩主氏音は減知の上、越後国高柳藩へ転封となった。そして氏音の跡、薫氏が家督を継いだ。薫氏は元文四年(一七三九)に大坂定番に任じられ、領地は越後国から河内国・播磨国・美作国に替地となった。 )(1

(そのときの播磨国の所領が三草藩の本拠地となる加東郡ほか加西郡・多可郡・美嚢郡であった。その後、寛保二年(一七四二)に転封となり、三草藩の初代藩主となった。要するに大坂定番の替地の一部が本拠地となったのである。三草藩は丹羽氏が入封し、立藩した後、明治に至るまで領主変遷はなかった。

(5)

②  小野藩(【表①】の2)

  小野藩主である一柳家は美濃国出身で豊臣秀吉に仕えてきた家柄であるが、関ケ原合戦では東軍に属した。小野藩初代藩主一柳直盛は寛永十三年(一六三六)、伊予国西条藩六万八〇〇〇石を拝領した。このとき、伊予国のほか、播磨国加東郡五〇〇〇石を賜るが、加東郡の領地は次男直家に分け与えた。しかし直盛は西条の国許に赴く途中、大坂にて病死した。 )((

(そのため、直盛の遺領は三人の息子に分知され、嗣子である直重が西条藩(三万石)を継ぐことになった。そして次男の直家は父直盛が西条藩に入封が決まった際に分知されていた加東郡の領地のほか、伊予国二郡の領地合わせて二万八〇〇〇石を領し、寛永十四年(一六三七)に小野に陣屋を構えたのである。その後、直次の代、寛永二十年(一六四三)に一万石に減封された。小野藩は三草藩と同様、一柳氏が入封して立藩した後、明治に至るまで領主変遷はなかった。

③  明石藩(【表①】の3)

  明石藩初代藩主小笠原忠真の父は豊臣秀吉に仕え、その後徳川家康に仕えた人物であった。忠真の母は徳川家康嫡男信康と織田信長の娘との間に生まれた福姫である。福姫は家康の養女であり、徳川家康の孫にあたる人物である。なお忠真の正室は池田家のあとに姫路藩へ入封してきた本多忠政の娘であった。寛永九年(一六三二)忠真が豊前国小倉藩へ転封となったのち、松平(戸田)氏が明石藩へ入封した。松平家は三河国の生まれで、明石藩主となった康直は幼少時に父を亡くし、家康から「松平」を名乗ることを許された人物である。明石藩は松平康直・光重と二代続いたが、光重が美濃国加納藩へ転封となり、大久保忠職が加納藩から明石藩へ入封した。忠職の祖父は幕府の老中まで務めた大久保忠隣である。大久保忠職は慶安二年(一六四九)肥前国唐津藩へ転封となり、代わりに松平(藤井)氏が入封した。松平氏が二代続いたのち、大和国郡山へ転封となり、代わって郡山藩から本多政利が明石藩へ入封した。本多政利の家は姫路藩主であった本多家の一族である。本多政利が天和二年(一六八二)に陸奥国大久保藩へ転

(6)

【表①】播磨国に本拠地を置いた藩・大名

藩名 藩主

(代替わりの藩主名) 前任地 藩主就任期間 西暦 播磨国の領地(郡) 播磨国の領地(郡)

他国の飛地 拝領の経緯 後任地

加東 加西 多可 美嚢 加古 印南 明石 神東 神西 飾東 飾西 揖東 揖西 赤穂 宍粟 佐用

1 三草藩 丹羽薫氏~ 高柳藩1万石 1 寛保2~ 1742~ 〇 〇 〇 〇 河内国(薫氏) 寛保2美作国の領地を播磨国へ移される/延享3河内国の領地を播磨国へ移される

2 小野藩 一柳直家~ 川之江2.8万石 1 寛永13~ 1636~ 伊予国宇摩郡・

周敷郡(直家) 父の遺領を賜るにあたり播磨・伊予国で拝領

3 明石藩

小笠原忠真 松本藩8万石 10 元和3~寛永9 1617~1632 〇 〇 〇 小倉藩15万石

戸田松平康直・光重 松本藩8万石 7 寛永10~寛永16 1633~1639 加納藩7万石

大久保忠職 加納藩5万石 7 寛永16~慶安2 1639~1649 唐津藩8.3万3石

藤井松平忠国・信之 篠山藩5万20石 7 慶安2~延宝7 1649~1679 郡山藩8万石

本多政利 郡山藩6万石 6 延宝7~天和2 1679~1682 大久保藩1万石

越前松平直明~ 大野藩5万石 6 天和2~ 1682~ 美作国吉野郡

(12代将軍家斉

25男斉宣襲封)

4 姫路藩

池田輝政 52 慶長5~慶長18 1600~1613 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇

池田利隆・光政 42 慶長18~元和3 1613~1617 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 輝政死去後の分割支配 鳥取藩32万石

本多忠政・政朝

忠国 桑名藩10万石

福島藩15万石 15 元和3~寛永15天和2~宝永1 1617~1638

1682~1704 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 政朝二代後山崎藩1万石

忠国死去後子忠隆孝襲封なく死去し、

忠隆が村上藩5万石へ

奥平松平忠明・忠弘 郡山藩12万石 18 寛永16~慶安1 1639~1648 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 山形藩10万石

結城松平直基・直矩 直矩明矩

山形藩15万石 村上藩15万石

白河藩15万石 15 慶安1~慶安2 寛文7~天和2 寛保1~寛延1

1648~1649 1667~1682

1741~1748 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 村上藩15万石

日田藩7万石 明矩の息子が前橋藩 榊原忠次・政房

政邦・政祐・政岑 白河藩14万石

村上藩15万石 15 慶安2~寛文7宝永1~寛保1 1649~1667

1704~1741 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 政房死去→政倫村上藩15万石

政岑隠居、政岑嫡子政永高田15万石

酒井忠恭~ 前橋藩15万石 15 寛延2~ 1749~ 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇

5 福本藩 池田政直

徳潤 1 寛文3~寛文5

慶応4 1663~1665

1868 父輝済遺領を賜るにあたり播磨国で1万石拝領 交代寄合に

6 安志藩 小笠原長興~ (中津藩4万石)

兄長邕死去により

無嗣断絶 1 享保1~ 1716~ 〇 〇 〇 先祖の勤労により播磨国にて1万石拝領

7 山崎藩

池田輝澄 6 元和元~寛永17 1615~1640 〇 〇 籠居

松井松平康映 岸和田藩5万400石 6 寛永17~慶安2 1640~1649 〇 〇 浜田藩5万400石

池田恒元・政周・恒行 児島藩2.5万石 3 慶安2~延宝6 1649~1678 断絶

本多忠英~ 郡山新田藩1万石 1 延宝7~ 1679~

8 林田藩 建部政長~ 1 元和3~ 1617~

9 新宮藩 下間頼広(池田重利) 摂津にて1万石 1 元和3~寛文10 1617~1670 摂津国川辺郡 大坂の陣の働き 寛文10廃藩、旗本寄合格に

10 龍野藩

本多政朝 大喜多藩5万石 5 元和3~寛永3 1617~1626 〇 〇 美作国真島郡 延享4~美作国に替地 姫路藩15万石

小笠原長次 6 寛永3~寛永9 1626~1632 〇 〇 〇 中津藩8万石

岡部宣勝 大垣藩5万石 5 寛永10~寛永13 1633~1636 〇 〇 高槻藩5万石

京極高和 6 寛永14~万治1 1637~1658 〇 〇 〇 祖父高次の勲功 丸亀藩6万石

脇坂安政~ 飯田藩5.3万石 5.3 寛文12~ 1672~ 〇 〇 〇 美作国真島郡

(安興以降)

11 平福藩 池田輝興 1 元和1~寛永8 1617~1631 輝政死去後の分割支配 廃藩

12 三日月藩 森長俊 津山新田藩1.5万石 外 1.5 元禄10~ 1697~ 〇 〇 美作国(俊春時) 宗家森長成死去により津山藩領は幕府に収公。長俊は領地を播磨国に移される

13 赤穂藩

池田政綱・輝興 3.5 慶長20~正保2 1615~1645 輝政死去後の分割支配 断絶

浅野長直・長友・長矩 笠間藩5.35万石 5 正保2~元禄14 1645~1701 〇 〇 断絶

永井直敬 烏山藩3万石 3.3 元禄15~宝永3 1702~1706 摂津国島上郡・

島下郡、河内国

茨田郡(直敬時) 飯山藩3.3万石

森長直~ 西江原藩2万石 2 宝永3~ 1706~

(7)

【表①】播磨国に本拠地を置いた藩・大名

藩名 藩主

(代替わりの藩主名) 前任地 藩主就任期間 西暦 播磨国の領地(郡) 播磨国の領地(郡)

他国の飛地 拝領の経緯 後任地

加東 加西 多可 美嚢 加古 印南 明石 神東 神西 飾東 飾西 揖東 揖西 赤穂 宍粟 佐用

1 三草藩 丹羽薫氏~ 高柳藩1万石 1 寛保2~ 1742~ 〇 〇 〇 〇 河内国(薫氏) 寛保2美作国の領地を播磨国へ移される/延享3河内国の領地を播磨国へ移される

2 小野藩 一柳直家~ 川之江2.8万石 1 寛永13~ 1636~ 伊予国宇摩郡・

周敷郡(直家) 父の遺領を賜るにあたり播磨・伊予国で拝領

3 明石藩

小笠原忠真 松本藩8万石 10 元和3~寛永9 1617~1632 〇 〇 〇 小倉藩15万石

戸田松平康直・光重 松本藩8万石 7 寛永10~寛永16 1633~1639 加納藩7万石

大久保忠職 加納藩5万石 7 寛永16~慶安2 1639~1649 唐津藩8.3万3石

藤井松平忠国・信之 篠山藩5万20石 7 慶安2~延宝7 1649~1679 郡山藩8万石

本多政利 郡山藩6万石 6 延宝7~天和2 1679~1682 大久保藩1万石

越前松平直明~ 大野藩5万石 6 天和2~ 1682~ 美作国吉野郡

(12代将軍家斉

25男斉宣襲封)

4 姫路藩

池田輝政 52 慶長5~慶長18 1600~1613 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇

池田利隆・光政 42 慶長18~元和3 1613~1617 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 輝政死去後の分割支配 鳥取藩32万石

本多忠政・政朝

忠国 桑名藩10万石

福島藩15万石 15 元和3~寛永15天和2~宝永1 1617~1638

1682~1704 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 政朝二代後山崎藩1万石

忠国死去後子忠隆孝襲封なく死去し、 忠隆が村上藩5万石へ

奥平松平忠明・忠弘 郡山藩12万石 18 寛永16~慶安1 1639~1648 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 山形藩10万石

結城松平直基・直矩 直矩明矩

山形藩15万石 村上藩15万石

白河藩15万石 15 慶安1~慶安2 寛文7~天和2 寛保1~寛延1

1648~1649 1667~1682

1741~1748 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 村上藩15万石

日田藩7万石 明矩の息子が前橋藩 榊原忠次・政房

政邦・政祐・政岑 白河藩14万石

村上藩15万石 15 慶安2~寛文7宝永1~寛保1 1649~1667

1704~1741 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 政房死去→政倫村上藩15万石

政岑隠居、政岑嫡子政永高田15万石

酒井忠恭~ 前橋藩15万石 15 寛延2~ 1749~ 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇

5 福本藩 池田政直

徳潤 1 寛文3~寛文5

慶応4 1663~1665

1868 父輝済遺領を賜るにあたり播磨国で1万石拝領 交代寄合に

6 安志藩 小笠原長興~ (中津藩4万石)

兄長邕死去により

無嗣断絶 1 享保1~ 1716~ 〇 〇 〇 先祖の勤労により播磨国にて1万石拝領

7 山崎藩

池田輝澄 6 元和元~寛永17 1615~1640 〇 〇 籠居

松井松平康映 岸和田藩5万400石 6 寛永17~慶安2 1640~1649 〇 〇 浜田藩5万400石

池田恒元・政周・恒行 児島藩2.5万石 3 慶安2~延宝6 1649~1678 断絶

本多忠英~ 郡山新田藩1万石 1 延宝7~ 1679~

8 林田藩 建部政長~ 1 元和3~ 1617~

9 新宮藩 下間頼広(池田重利) 摂津にて1万石 1 元和3~寛文10 1617~1670 摂津国川辺郡 大坂の陣の働き 寛文10廃藩、旗本寄合格に

10 龍野藩

本多政朝 大喜多藩5万石 5 元和3~寛永3 1617~1626 〇 〇 美作国真島郡 延享4~美作国に替地 姫路藩15万石

小笠原長次 6 寛永3~寛永9 1626~1632 〇 〇 〇 中津藩8万石

岡部宣勝 大垣藩5万石 5 寛永10~寛永13 1633~1636 〇 〇 高槻藩5万石

京極高和 6 寛永14~万治1 1637~1658 〇 〇 〇 祖父高次の勲功 丸亀藩6万石

脇坂安政~ 飯田藩5.3万石 5.3 寛文12~ 1672~ 〇 〇 〇 美作国真島郡

(安興以降)

11 平福藩 池田輝興 1 元和1~寛永8 1617~1631 輝政死去後の分割支配 廃藩

12 三日月藩 森長俊 津山新田藩1.5万石 外 1.5 元禄10~ 1697~ 〇 〇 美作国(俊春時) 宗家森長成死去により津山藩領は幕府に収公。長俊は領地を播磨国に移される

13 赤穂藩

池田政綱・輝興 3.5 慶長20~正保2 1615~1645 輝政死去後の分割支配 断絶

浅野長直・長友・長矩 笠間藩5.35万石 5 正保2~元禄14 1645~1701 〇 〇 断絶

永井直敬 烏山藩3万石 3.3 元禄15~宝永3 1702~1706 摂津国島上郡・

島下郡、河内国

茨田郡(直敬時) 飯山藩3.3万石

森長直~ 西江原藩2万石 2 宝永3~ 1706~

『寛政重修諸家譜』、『近畿藩史大事典』より作成

(8)

封となり、松平(越前)家の直明が越前国大野藩から入封し、その後廃藩まで松平(越前)家が明石藩主として定着した。

  こうして領主変遷を見ていくと明石藩は六万石から十万石の領地で譜代もしくは親藩の大名を配置されており、美濃国加納藩や大和国郡山藩と領主交代をおこなっていたことがわかる。明石藩は港もあり、京・大坂に近い地域であり、加納藩(近江・名古屋に近い)・郡山藩(京都・大坂に近い)とならんで譜代や親藩大名を置くべき要衝の地であった。

④  姫路藩(【表①】の4)

  姫路藩は池田輝政死後、嫡男利隆が領有したが、すぐに亡くなり、息子の光政が幼少であることから鳥取藩へ転封となったため、本多忠政が姫路藩主として入封し、十五万石を領有した。明石藩の項で述べたが、忠政の娘は明石藩初代藩主小笠原忠真の正室であり、明石藩主と姫路藩主は姻戚関係にあった。また、嫡男忠刻の正室は家康の孫であり、秀忠の娘である千姫で、その化粧料として十万石を付与されたが、忠刻は寛永三年(一六二六)死去し、その弟で龍野藩主であった政朝が二代藩主となった。本多家は二代続いた後、大和国郡山藩へ転封となり、交代で郡山藩から松平(奥平)忠明が十八万石で姫路藩に入封する。忠明の父奥平信昌は家康長女亀姫を正室にしており、徳川家とは姻戚関係にあった。忠明のあと忠弘が藩主となったが、忠弘が慶安元年(一六四八)出羽国山形藩へ転封となり、その後、山形藩から松平(結城)直基が十五万石で入封した。直基は家康次男結城秀康の五男である。しかし姫路藩に入封した同年、直基は亡くなってしまう。直基ののち、長男直矩がわずか七歳で父直基の遺領を継ぎ、姫路藩主となったが、翌年の慶安二年に越後国村上藩へ転封となる。松平氏のあと、榊原忠次が陸奥国白河藩から姫路藩へ入封した。忠次・政房と続いたが政房が若くして亡くなり、嗣子の政倫が幼少であったため、寛文七年(一六六七)村上藩へ移った。榊原家のあと、村上藩から再び松平直矩が入封して姫路藩主となる。しかし天和二年(一六八二)直矩

(9)

は宗家の越後国高田藩の御家騒動に連座して減知となり、豊後国日田藩に転封となった。松平家ののち陸奥国福島藩から本多忠国が入封したが、一代限りで宝永元年(一七〇四)に村上藩へ転封となった。本多忠国ののち村上藩から榊原政邦が姫路藩へ入封し、政祐・政岑と三代続いた。しかし寛保元年(一七四一)政岑の不行跡により政岑の嗣子政永は高田藩へと転封となっている。同年、松平明矩が白河藩から入封したが、寛延元年(一七四八)幼少の嫡男朝矩を残し、若くして亡くなった。朝矩は幼少のため上野国前橋藩へと転封となっている。朝矩と交代で寛延二年(一七四九)前橋藩から酒井忠恭が入封し、ようやく姫路藩の領主変遷は定着を見た。

  以上、姫路藩の領主変遷をみていくと、幼少の藩主になると白河藩、村上藩、郡山藩、前橋藩といった姫路藩と同等の譜代大名が入れ替わりで入転封をしていることがわかる。ある一定のコースが出来上がっていたようである。また、姫路は明石藩と同様、領主が頻繁に変わってはいるが、すべて譜代大名を配置していることから、西国有事に備えた軍事拠点としての役割を担う重要な地域として幕府が位置付けていたことがわかる。

⑤  福本藩(【表①】の5)

  福本池田家は寛文三年(一六六三)、池田政直の入封により成立した。政直の父にあたる池田輝澄は山崎藩主として佐用郡・宍粟郡にて六万八〇〇〇石を領有していたが、家臣同士の争いが起こり、御家騒動へと発展した。その結果、領地没収の上、宗家にあたる鳥取藩池田光仲にお預けとなったのである。そして因州鹿野へ蟄居となり、堪忍料一万石が与えられた。この堪忍料は鳥取池田家の所領である因伯両国から分け与えられており、その代わりとして鳥取池田家に対しては、幕府から播磨国神東郡・神西郡・印南郡に一万石の飛地領が与えられた。寛文二年(一六六二)輝澄が死去したことにより、政直が家督を継ぎ、大名として独立することが認められた。政直は播磨国内にあった鳥取藩の飛地領一万石を改めて所領として与えられ、播磨国福本へ陣屋を置いたのである。しかし、寛文六年(一六六六)政直が三一歳の若さで亡くなると、跡継ぎがいないため、政直の弟である政武が政直の跡を継ぎ、さらにもう一人の

(10)

弟である政済に三〇〇〇石を分知させて屋形池田家を創設した。よって福本池田家の領地は七〇〇〇石となり、大名家から交代寄合の旗本へ転換したのである。その後、貞享四年(一六八七)には政武の弟政親に吉冨池田家として一〇〇〇石を分知し、福本池田家三代目当主である政森の代から、福本池田家は六〇〇〇石を領することとなった。しかし、その後、慶応四年(一八六八)六月、池田徳潤のとき、宗家である鳥取藩から蔵米四五〇〇石の分与を受けて一万一五七三石に高直しされ、再度立藩した。

⑥  安志藩(【表①】の6)

  安志藩は享保元年(一七一六)小笠原長興により立藩した。長興は寛永三年(一六二六)から同九年(一六三二)まで龍野藩主であった小笠原長次の家系である。龍野藩主長次は豊前国中津藩へ転封となり、その後八万石から四万石へ減知もあったが、四代続いた。 )(3

(四代藩主長邕が七歳で早世したため、弟の長興は播磨国宍粟・佐用・赤穂郡のうちに一万石を拝領し、安志藩が立藩した。立藩後、廃藩まで小笠原家の支配が続いた。長興の家祖である忠脩の正室は家康長男信康の娘であり、兄弟に明石藩初代藩主小笠原忠真がいる。このように徳川家との関係も深いため、減知や藩主の早世があった中、安志藩を立藩し、長興に跡目を継がせることができたのである。

⑦  山崎藩(【表①】の7)

  山崎藩は池田輝政死後、輝政と家康二女督姫の間に生まれた輝澄が元和元年(一六一五)に立藩した藩である。先述のとおり、輝澄は御家騒動により因州鹿野で蟄居となり、寛永十七年(一六四〇)輝澄のあと、松平(松井)家の康映が和泉国岸和田藩から入封した。その後康映は慶安二年(一六四九)石見国浜田藩へ転封となり、池田利隆の次男恒元が備前国児島から三万石で山崎藩へ入封した。恒元から三代続いたが、恒行に嗣子がなく、家は断絶した。そのため池田家のあと延宝七年(一六七九)に大和国郡山藩から本多忠英が一万石で入封し、本多家が山崎藩の領主と

(11)

して廃藩まで続いた。本多忠英は姫路藩主・龍野藩主であった本多家の家系である。

⑧  林田藩(【表①】の8)

  林田藩初代藩主建部政長の祖父壽徳は出家して織田信長、豊臣秀吉に仕えた人物であった。政長の母が池田輝政の養女であった関係から、池田家とは姻戚関係にあり、政長の父光重が若くして亡くなったあと、幼少の政長に光重の所領を継がせようと徳川家康・秀忠に相談したのは祖父池田輝政であった。このように建部家は池田家の後押しがあり、元和三年(一六一七)に建部政長が一万石で立藩し、廃藩までその支配が続いた。

⑨  新宮藩(【表①】の9)

  新宮藩初代藩主池田重利の父下間頼龍は本願寺顕如に仕えていたが、重利が父の跡を継ぐ際、本願寺から離れ、母の親戚である池田輝政に属した。 )(1

(そして下間姓から池田姓へと変え、池田利隆から一字をもらい、池田重利と名乗るようになる。大坂の陣のときには摂津国尼崎城を守衛した功により、摂津国川辺郡で一万石を拝領し、元和三年(一六一七)播磨国新宮藩主として立藩した。重利から四代照邦まで池田家の支配が続いたが、寛文十年(一六六三)照邦が十三歳で亡くなったことにより、廃藩となった。しかし、本家の岡山藩主池田光政と鳥取藩主池田光仲が大老や老中などの幕閣に新宮藩が存続できるよう奔走し、邦照の弟重教が三千石の旗本として取立てられることになった。新宮池田家はその後、廃藩まで旗本として揖東郡の領地を領有した。

⑩  龍野藩(【表①】の

10

)   龍野藩は元和三年(一六六三)に本多政朝が上野国大喜多藩から入封立藩した。しかし兄である姫路藩世子忠刻が寛永三年(一六二六)に没したため、政朝は姫路藩へ移り住み、寛永八年(一六三一)姫路藩主となった。本多政朝

(12)

ののち、小笠原長次が龍野藩へ入封したが、寛永九年(一六三二)叔父である明石藩主小笠原忠真とともに豊前国へ転封となった。その後、岡部宣勝が美濃国大垣藩から入封した。岡部家の祖正綱は今川氏に仕え、幼少の家康とは交誼を結んでいたという由緒を持つ人物である。岡部宣勝も小笠原長次と同じように一代限りで寛永十三年(一八三六)に摂津国高槻藩へ転封となる。翌年、出雲国松江藩から京極高和が入封した。高和は先代の忠高の末期養子であったが、幕府に報告をしていなかったため、末期養子として認められなかった。しかし、忠高の父京極高次の功績を鑑み、高和は龍野藩へ入封することとなったのであるが、万治元年(一六五八)讃岐国丸亀藩へ転封した。そして寛文十二年(一六七二)に信濃国飯田藩から脇坂安政が入封し、廃藩まで脇坂家の支配が続いた。

⑪  平福藩(【表①】の

11

)   平福藩は池田輝政の六男、輝興が元和元年(一六一五)に立藩した。しかし輝興の兄で赤穂藩主であった政綱が没したため、輝興は赤穂藩主として赤穂へ入封した。そのため、平福藩は寛永八年(一六三一)で廃藩となった。

⑫  三日月藩(【表①】の

12

)   三日月藩は森長俊が元禄十年(一六九七)に美作国勝田から入封し、立藩した。三日月藩森家の宗家は美作国津山藩森家である。長俊は津山城に居住し、美作国勝田郡のうち一万五千石を拝領していたが、宗家の森長成が若くして亡くなり、津山藩の領地が一時幕府に収公されるに伴い、三日月へ領地を移された。そして乃井野に陣屋を置いて一万五千石を領有し、三日月藩が立藩した。その後廃藩まで森家の支配が続いた。

⑬  赤穂藩(【表①】の

13

)   赤穂藩は池田輝政の五男政綱が慶長二十年(一六一五)に立藩した。平福藩の項でも触れたが、政綱が跡継ぎなく

(13)

没したため、平福藩主であった弟の輝興が赤穂藩主となった。しかし輝興は乱心で正室を殺害したことにより、正保二年(一六四五)に改易となる。池田家ののち、常陸国笠間藩から浅野長直が入封した。浅野長直の宗家は広島藩浅野家である。浅野家の祖は浅野長政で、長政は織田信長に仕え、豊臣秀吉正室の北政所とは義姉弟の関係である。長直以降、長友・長矩と続いたが、長矩が江戸城本丸大廊下で高家吉良義央に刃傷におよび、元禄十四年(一七〇一)幕府から領地没収・切腹を命じられた。世にいう赤穂事件である。浅野家改易ののち、永井直敬が下野国烏山藩から三万三千石で入封し、宝永三年(一七〇六)に信濃国飯山藩へ転封した。永井氏のあと、森長直が備中国西江原から二万石で入封し、廃藩まで続いた。なお森長直は三日月藩森家の系譜である。

  以上、播磨国を本拠地とした大名家と領主変遷について、【表①】に即して見てきた。近世初頭、播磨国は池田輝政の一国支配に始まり、輝政の死後、池田家による播磨国の分割支配が始まった。福本藩・山崎藩・平福藩・赤穂藩は池田輝政の息子や孫の系列であり、新宮藩の下間頼広は池田恒興の養女の系統であり、林田藩の建部政長は母が輝政の養女であった。三草藩・小野藩・明石藩・龍野藩・三日月藩・安志藩の初代藩主以外はすべて池田家の親戚につながる大名家が初代藩主として入封しているという点に特徴がみられる。また、池田家とは親戚関係ではないが、池田輝政の一国支配後に姫路藩主となった本多家と明石藩主小笠原忠真、安志藩の小笠原忠興は親戚関係である。 )(1

(このように播磨国は池田家、小笠原家の親戚関係の所領配置からはじまり、その後の所領配置の特色に大きく影響を与えている。播磨国の初期の所領配置は親戚関係のつながりが色濃く出ているのである。

(3)旗本

  次に播磨国を本拠地とした旗本についてみていこう。【表②】は播磨国を本拠地とした旗本の一覧である。旗本名・続柄・領地を拝領した年(期間)、石高と領地を拝領した経緯、領地のあった郡を示している。【表②】は『寛政重修諸家譜』、『近畿藩史大事典』、そして関連する自治体史を )(1

(基に作成した。

(14)

たのち、分家はそのまま播磨に止まったということである。 明治まで佐用郡の領地を領有し続けた。要するに本家が移動し (一六四九)に石見国浜田藩へ転封になるも、弟・甥の家系は 康命・康朗も佐用郡に領地を移したが、康映が慶安二年 康映の和泉国岸和田藩から宍粟郡山崎藩への転封に伴い、康紀・ 継いだ時、弟康紀・康命と甥康朗にそれぞれ分知した。同年、 に当たる。山崎藩は松平康映が寛永十七年(一六四〇)遺領を 的には山崎藩・赤穂藩・新宮藩・福本藩・龍野藩の分家がそれ 本のすべてが播磨国の大名の分家であるという点である。具体   【表②】を一覧して気づくことは、播磨国を本拠地とした旗   山崎藩松平家とは事情は違うが、少し似た例がある。それは赤穂藩浅野長直の分家長恒・長賢家である。長恒・長賢は寛文十一年(一六七一)に赤穂郡の領地を分知され、主家である浅野長矩が切腹・御家断絶になった後もそのまま赤穂郡内の領地を領有し続けた。

  このほか新宮藩池田家の分家は四代藩主邦照が寛文十年(一六七〇)十三歳で没し、幼少のため領地は没収された。そこで本家筋に当たる岡山藩池田光政と鳥取藩池田光仲が幕閣に働きかけ、新宮藩が存続できるよう奔走し、邦照の弟重教が三〇〇〇石の旗本として取り立てられることになった。新宮藩

【表②】播磨国に本拠地を置いた旗本

旗本名 続柄 年号 西暦 拝領の経緯/石高 所領郡

1 浅野長恒 赤穂藩主長直の養子 寛文11~ 1671~ 寛文11加東郡の内3500石(長直所領赤穂郡分) 赤穂郡 2 浅野長賢 赤穂藩主長直の養子 寛文11~ 1671~ 寛文11加東郡の内3500石(長直所領加東郡分) 加東郡

3 松平康紀 松井松平:

山崎藩佐用郡分割支配 寛永17~ 1640~ 2000石、康映の弟(康映は寛 永17~慶安2山崎藩5万石余) 佐用郡

4 松平康命 松井松平:

山崎藩佐用郡分割支配 寛永17~ 1640~ 3000石、康映の弟 佐用郡

5 松平康朗 松井松平:

山崎藩佐用郡分割支配 寛永17~ 1640~ 5000石、康映の甥 佐用郡

6 屋形池田 池田政直弟系:

福本藩分割支配 寛文6~ 1666~ 3000石 神崎郡・神西郡・

神東郡

7 吉冨池田 池田政直弟系:

福本藩分割支配 貞享4~ 1687~ 1000石 神崎郡・神西郡・

神東郡

8 福本池田 池田政直直系 寛文6~ 1666~ 6000石 神崎郡・神西郡・

神東郡・印南郡 9 新宮池田(下間重利系) 4代照邦の弟重教が旗

本に 寛文10~ 1670~ 3000石 揖東郡

10 脇坂安利 龍野藩主脇坂安照4男 宝永6~宝暦9 1709~

1759 2000石 飾西郡・揖東郡

『寛政重修諸家譜』、『近畿藩史大事典』、『佐用町史』より作成

(15)

は廃藩となったが、新宮池田家は旗本となり、新宮領は存続していった。

  また龍野藩脇坂家の分家である脇坂安利は宝永六年(一七〇九)に二〇〇〇石の旗本として分家を起こしたが、安利の跡を継いだ安種が三十七歳で没したため、近江国宮川藩堀田家から安親を養子として迎え、相続させた。しかし、脇坂本家の安實が二十歳で亡くなり、宝暦九年(一七五九)分家筋の安親が龍野藩を継いだことから安利からの旗本分家筋は絶えることとなった。

  以上のように播磨国を本拠地にした旗本は播磨国の大名の分家が占めた。この点も池田輝政による一国支配から始まり、池田家の分割支配となった播磨国の所領配置が影響していると考えられる。播磨国の大名も旗本も親戚関係の所領配置という特色を持っていたことを指摘することができる。

第二章  播磨国に飛地を所有した領主   本章では播磨国に飛地を所有した大名・御三卿・旗本、幕府領について確認し、所領配置の特色を検討していく。

(1)大名

  【表③】は『寛政重修諸家譜』

、『藩史大事典』を基に作成した、播磨国に飛地を領有した大名の一覧である。国名・藩名・藩主名・飛地領を含めた総石高・播磨国の所領を有した期間・播磨国飛地領(郡名)・飛地領拝領の経緯・飛地領がなくなった経緯についてまとめている。【表③】を作成した目的は、播磨国に飛地領を有した大名を概観し、江戸時代を通じてどの大名家が播磨国に飛地領を有したのか、どのような経緯で拝領するに至ったのか等、確認するためである。

  さて、【表③】を見ると、大坂城代を含めて二十四藩の大名家が播磨国に飛地を領有し、そのうち十四家が役知で

(16)

【表③】播磨国に飛地領を持った藩・大名

国名 藩名 藩主名 総石高 家 期間 西暦 播磨国の飛地(郡) 飛地領

の石高 飛地領拝領の経緯 飛地領がなくなった理由 備考

加東 加西 多可 美嚢 加古 印南 明石 神東 神西 飾東 飾西 揖東 揖西 赤穂 宍粟 佐用 1

陸奥

白河藩 阿部正備・

正外 10 譜 弘化3~慶応1 1846~

1865 出羽国領地を上知、遠江・播磨・

信濃国に領地を与えられる (正外)老中罷免・隠居、4万石削封 (正備)天保14~弘化4奏者番 役知 2 棚倉藩 松平武元 5.5 親 享保13~延享3 1728~

1746 享保13棚倉藩に入封 上野国館林藩へ転封 越智松平/(武元)元文4奏者番/延享1寺

社奉行兼/延享3西ノ丸老中 入封 転封

3 会津藩 松平容保 28 親 元治1~慶応3 1864~ 〇 〇 元治1~京都守護職 役知

4 出羽 山形藩 堀田正虎・

正亮 10

享保13~

享保14延享1~

延享3 1728~

17291744~

1746

〇 〇 〇 〇 〇 〇

享保13、2万石を播磨・河内国 に移される→翌年旧領に戻る/

堀田正亮、延享1に4万石を播磨・

河内国に移される

延享3佐倉藩へ転封 (正虎)享保13・14大坂城代(正亮)延享1 大坂城代/延享2~宝暦11老中 役知 5 常陸 笠間藩 牧野貞長 8 譜 安永6~寛政2 1749~

1790 〇 〇 〇

安永7~

安永7~ 安永6大坂城代 老中退任後、領地3万石を旧領陸奥国に

移される 宝暦9奏者番/明和6寺社奉行/安永6大坂城

代/天明1京都所司代/天明4~寛政2老中 役知 6

下野

宇都宮藩 戸田忠寛 7.7 譜 天明2~天明8 1782~

1788 〇 〇 〇 〇 〇 天明2、2.5万石を播磨・河内国

へ移す 天明8京都所司代を免じられる/旧領に

戻される 安永5寺社奉行/天明2大坂城代/天明4~

天明8京都所司代 役知

7 烏山藩 稲垣重富・

昭賢 2.5 譜 元禄15~享保10 1702~

1725 下総国大多喜から入封、烏山で

の所領不足により旧赤穂藩飛地

領をそのまま拝領 重富嫡子昭賢が志摩鳥羽藩へ転封 入封

転封

8 壬生藩 鳥居忠英~ 3 譜 正徳2~ 1712~ 〇 正徳2壬生藩へ入封 正徳1~正徳6若年寄 役知

9 上野

館林藩 松平武元・

武寛・武厚 5~6 親 延享3~天保7 1746~

1836 (武厚)石見国浜田へ転封 (武元:棚倉藩に同じ)(武寛)安永9~天

明4奏者番(武厚)享和2奏者番/文化10~

文政5寺社奉行

入封転封

10 前橋藩 酒井忠恭 15 譜 元文5~寛延2 1740~

1749 〇 〇 〇 〇 2万石 大坂城代就任 寛延2老中辞職→播磨国姫路藩へ 役知

11 高崎藩 松平輝高 7.2 親 宝暦2~宝暦13 1752~

1763 越後国2万石余を摂津・河内・

播磨国へ移される 播磨・河内国の領地を越後国に移される 大河内松平

宝暦2大坂城代/宝暦6京都所司代/宝暦11

老中 役知

12 下総 古河藩 土井利里~ 7 譜 宝暦12~ 1762~ 〇 〇 〇 〇 宝暦12唐津から古河藩へ入封 (利里)宝暦9奏者番/宝暦13寺社奉行兼/明

和6~安永6京都所司代(土井利和・利位役付) 入封

13 武蔵 忍藩 奥平忠堯~ 10 譜 天保1~ 1830~ 〇 〇 文政6忍藩へ入封/天保1に播磨

領有(越後国飛地と替地) 替地

14 相模 小田原藩 大久保忠朝 10 譜 貞享3~明和6 1686~

1769 〇 〇 貞享3小田原藩へ入封

正徳3~飾西・佐用郡/享保17

~赤穂郡追加 明和6忠由死去家督相続

(忠朝)万治3小姓組番頭/延宝5~元禄11老中

(忠増)天和1奏者番/貞享2寺社奉行/貞 享4~元禄1若年寄/宝永2老中/宝永5~正 徳3老中勝手掛

替地

15 遠江 浜松藩 水野忠邦~ 6 譜 文政9~ 1826~ 5000石 大坂城代就任時替地 文化14寺社奉行/文政8大坂城代/文政9京

都所司代/文政11西ノ丸老中 役知 16 近江 宮川藩 堀田正穀 1.3 譜 寛政9~文化4 1797~

1817 3600石 愛知・蒲生・野洲郡のうち3600石を播磨揖西郡にて代替 文化4旧領に戻される (正穀)天明6大番頭/寛政9奏者番・寺社

奉行/文化4辞職 役知

17 摂津 尼崎藩 松平忠告~ 4 譜 明和6~ 1769~ 多可・宍粟・赤穂郡、西宮・兵

庫津・灘目が公収され、多可・

宍粟・赤穂の三郡に替地 桜井松平 替地

18 但馬 出石藩 仙石政明・

政房 5.8 外 宝永3~宝暦13 1706~

1763 〇 〇 宝永3信濃国上田藩から出石藩

へ入封 延享4加東郡2936石上知→美作国に代知

宝暦13加西郡7152石上知→美作国に代知 政房享保7奏者番/享保19寺社奉行 入封 19 備中 成羽藩 水谷勝隆 5 外 寛永16~寛永19 1639~

1642 3000石加増の上、常陸国下館藩

から成羽藩へ入封 備中松山へ転封→成羽藩廃藩 入封

転封

20 讃岐 丸亀藩 京極高和~ 6 外 万治1~ 1658~ 〇 〇 万治1龍野藩から丸亀藩へ入封 龍野藩主(寛永14~万治1) 入封

21 伊予 西条藩 一柳直盛

(直家) 6 外 寛永13 1636 直盛急死 寛永14小野藩立藩 入封

22

城代

元出羽国上野山藩 土岐頼隆 譜 宝永5~正徳2 1708~

1712 〇 〇 大坂城代就任 正徳2城代辞職→駿河国田中藩へ 役知

23 元駿河国 田中藩

土岐頼稔 譜 享保15~寛保2 1730~

1742 〇 〇 〇 〇 3.5万石 大坂城代就任 寛保2老中に、上野国沼田城へ 頼隆の子、元田中藩 役知

24 内藤弌信 譜 正徳2~享保5 1712~

1720 〇 〇 5万石 大坂城代就任 享保3城代職免じられる/代わりの領地

が越後国村上に決まるまで播磨の領地を

引き続き支配 役知

25 元陸奥国 岩城平藩 井上正経・

正春 6 宝暦6~

宝暦8弘化2~

1756~

17581845 〇 〇 〇 〇 大坂城代就任 宝暦8京都所司代就任、浜松城、遠江・

近江国に領地が与えられ、播磨・摂津・

和泉・近江国の旧領を召上げ 役知

※城代:近世前期、大坂城代・京都所司代に任じられた際、居城を引き払い、畿内近国に役知を与えられた大名

 備考欄に役知・替地の別、入封時に播磨国の飛地領を拝領した場合「入封」、転封時に播磨国の飛地領を失っている場合「転封」と記している。

『寛政重修諸家譜』、『藩史大事典』より作成

参照

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Sometimes also, the same code is associated with a different rating, for example in the American questionnaire “9. Not answered” and in the French questionnaire “9.?”, which

各事業所の特異性を考慮し,防水壁の設置,排水ポンプの設置,機器のかさ

4 マトリックス型相互参加における量的 動をとりうる限界数は五 0

既存の生活介護(定員 40 名、職員配置 1.7 : 1 )に加え、 4 月 1 日から新設 の通所生活介護「木の香」 (定員 20

(参考)3号機

現場 把握 配置 検討. 数量