• 検索結果がありません。

明代晩期の宋代官窯青磁鑑賞と「碎器」の流行

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "明代晩期の宋代官窯青磁鑑賞と「碎器」の流行"

Copied!
20
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

明代晩期の宋代官窯青磁鑑賞と「碎器」の流行

著者 謝 明良, 矢島 律子

雑誌名 美術研究

389

ページ 1‑19

発行年 2006‑06‑30

URL http://id.nii.ac.jp/1440/00006128/

Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja

(2)

明代晩期の宋代官窯青磁鑑賞と

︑斗削

︑﹃格古要論﹄中の宋代官窯青磁

︑晩明期の宋代官窯青磁鑑賞

四︑明末清初﹁砕器﹂の発展と消費の状況

五︑日本における砕器の鑑賞

文献の記載から知られるように︑明代の鑑賞界では宋

E

ミ 位

ρ5 m巳をきわめて高く評価し︑宋代官窯青磁の最も重要な外観の特徴の一つ である紬の貫入の

EE

が︑文様装飾に匹敵する鑑賞の対象となった

明代 晩期の消費文化にあって︑紬薬の貫入から生

れる文様はほとんど流行の図

案のようになり︑社会の各階層に行き渡り︑

日本の工芸品における文様構成

に影響を与えるにいたった

一 一 一 日 今日の宋代官窯青磁研究には解決困難な問題がい

だに数多くある

文献 記載に基づくと︑北宋はかつて京師に官窯を置き︑南宋は故京の旧

を襲っ

て︑相次いで修内司区

523 と郊壇下

} 5

5 5

に窯を設けて陶磁器を焼造し

明代晩期の宋代官窯青磁鑑賞と﹁砕器﹂の流行

﹁ 砕 器 ﹂

の流行

Er

j 

しかし︑杭

烏亀

dp mg ED

麓の南宋郊壇下官窯が考古学的発掘によ って実証を得たことを除いて︑

E2 1D m

P522

官窯と伝世品との具体的な比定など諸々の問題については︑目下さ まざまに議論されているが

だ定説はない

しかし︑近代考古学の専門知識を持たない明代の文人は上述のような陶磁 史上の問題などを少しも意識しておらずとも︑宋代官窯青磁を賞翫し弁別す る法を持っており︑また︑きわめて時代的特色のある宋代官窯青磁観を形成

した

明代文人がいかに宋代官窯青磁を好んだかは︑現存する少なからぬ明 代後期の文献から知ることができる

えば王世愈

dq

gm

7

58

の﹃窺天外

(1

乗﹄では︑宋磁に言及する際には︑﹁以汝

︑而京師自置官窯次之﹂

(2 ) 

とし︑張麿文

N E D m J E m 5 2

の﹃清秘蔵﹄でも﹁論窯器必日柴汝官寄定﹂と 言っている︒その配列の順序を別にして

明人の陶磁器の鑑賞対象と蔵品の

なかには

いずれも宋代官窯青磁があらわれているのである

宋人の文集中にもいくつか官窯青磁に関する記述が見られるが︑なかでも

NE

の﹃坦斎筆衡﹄と顧文薦の

25の﹃負喧雑録﹄の記載が 最も

(3)

Tt TF  

E 7'5" 

py

ワ 恒

プし

N g

包の﹃畷耕録﹄に引用されている侠文より知ることができる

両書の官

窯に関する内容は大体同じである

そのなかで︑﹃坦斎筆衡﹄は︑修内司に

官窯を設置し︑内窯と称した南宋官窯青磁の特徴は﹁澄泥為範︑極其精制︑(3油色釜徹﹂であると述べている葉箕は官窯が澄泥のように精細な胎土と輝

く青磁粕を備えていることを明確に指摘しているが︑しかし︑明代文献にお

ける官窯の記載と比較すると︑明人の宋代官窯青磁に対する鑑賞法は宋人に

比べてさらに細かいことが明らかである

本稿の目的は︑明人の宋代官窯青

磁に対する鑑賞観の特質と変遷を整理し︑伝世する絵画資料と合わせて︑こ

の鑑賞観から派生した﹁砕器∞E4﹂

の流行について考察する

日本の工芸品における﹁辞器﹂図像の需要と応用の状況についても︑最後に

論じたい

中の宋代官窯青磁

明初の曹昭

(U SP ちになる﹃格古要論﹄は修内司官窯について﹁土脈細

潤︑色青帯粉紅︑濃淡不︑有蟹爪紋︑紫口︑鉄足︑色好者輿汝窯相類︑有

(4黒土者謂之烏泥窯︑偽者皆龍泉所焼者︑無紋路﹂と述べているすなわち曹

昭は︑南宋官窯青磁について青いなかに粉紅色を帯びた精綴な粕色を見出し

ただけでなく︑官室内青磁は胎土中の鉄分が高めであるため︑粕がかかってい

ない高台が黒褐色の﹁鉄足﹂になること︑また︑官窯青磁の口縁部は紬が薄

くなるためにうっすらと暗色の胎土が見えて﹁紫口﹂を形成していること︑

さらには︑柏色の濃淡が均一でない官窯青磁の粕には蟹爪のような細長いま(5ばらな貫入文様があること(挿図

1)

A E ミ向︒の倣製品には貫入 がないこと︑に着目した

言い換えれば︑曹昭は︑正真正銘の修内司官窯と龍泉窯の倣製品との聞に

南 宋 官 窯 青磁貫耳査 挿図1

ある最大の相違は︑後者の粕には貫入がないという点にあると認識していた

のであるこのような陶磁器の紬に対する見方は︑同書中の﹁汝窯﹂の記述 中にも現れている曹昭の目から見ると︑紬面の発色がよい一部の修内司官 窯の作品は汝窯

F E

︒にかなり近く︑汝窯の特徴はといえば︑﹁淡青色︑有

(6蟹爪紋者真︑無紋者尤好︑土脈滋掘︑薄甚﹂であったこれはつまり粕面の

貫入の有無と貫入の走り方が︑既に当時の収蔵家が陶磁器の産地を判別する

ポイントになっており︑同時にまた︑同じ窯の作品中での格の高低を評価す

る基準の一つとなっていたことを明らかに示している

﹃格古要論﹂は各地

の古磁窯について取り上げ述べているが︑﹁董窒にだけが唯一宋代官窯青磁

の作品と全般にわたって特徴が比較されている窯であり︑董窯ロ

gq g

の作

品の特徴は﹁淡青色︑細紋多︑亦有紫口︑鉄足︑比官窯無紅色︑質粗市不細(7潤︑不逮官窯多失︑今亦少﹂であった文言から見ると︑董窯は官窯に遠く

及ばず︑胎と紬の精密さを観察しさえすればすぐに両窯の作品は区別できた

ょうであるしかし︑古田昭はそれでも内心では董窯を真正の官窯青磁に最も 近い青磁と認識していたのかもしれないというのは︑紫口︑鉄足と貫入と

(4)

を外観に呈している董窯は︑官窯青磁の特徴を全て備えているかのようだか

らであるこの点を理解すると︑われわれはなぜ曹昭が書中でわざわざ﹁董

窯﹂を

﹁ { 呂 窒

⁝ ﹂

の前に配したのかが理解できる

の初版は明洪武O

( 一 三 八七)で︑天順三年(

) になってさらに王佐

dq gm N5

によって増補された

王佐が後に増補した

の部分では︑宋代の吉州窯

] 5 0

8は書(箭)公が焼いたものが

(8住く︑その小形花瓶は﹁有花︑又有砕器︑最佳﹂と述べている

すなわち貫入陶磁は︑明らかに筆彩文様と並び比べられるほどに︑独立した

鑑賞の要点となっていたのである

明代晩期の宋代官窯青磁鑑賞

五代王仁裕司自

m H

N g

E

﹃開元天宝遺事﹄に﹁自暖盃﹂と呼ばれた青磁の

話が取り上げられている﹁内庫有一酒盃︑青色︑而有紋如乱糸︒其薄如紙︑

於盃足上有鍍金字︑名目白暖盃上令取酒注之︑温温然有気如沸湯︑遂収於(9

つまり︑唐代に内府が収蔵したこの器は奇異な能力を持った薄胎の

青磁盃で︑明らかに貫入のある磁器︑つまり砕器の類であったしかし唐宋

時期の文献に見る陶磁鑑賞の記述は建窯

]5 Eo

黒粕碗の変幻する美しい粕

調を鑑賞するほかは︑大半が作品の造形と実用性の吟味に偏るか作品の鮮や

かな紬色と玉のように潤いのある粕質を詠うかで︑紬面の貫入を鑑賞の対象

にすることはなかった同様に︑﹃開元天宝遺事﹄の一文は砕器に関する早

い史料ではあるが︑単に作品の特徴を一通り描写しているだけと見ることも

でき︑前述の﹃格古要論﹄の醇器鑑賞とは同日の論ではない

明代晩期の宋代官窯青磁鑑賞に関する記述は極めて多い

一部の内容は

の説を踏襲しているが︑付け加えられたところもあり︑明代晩

明代晩期の宋代官窯青磁鑑賞と﹁砕器﹂の流行 期文人の宋代官窯青磁にたいする鑑賞観をうかがい知ることができる万暦

二三年(一五九五)張摩文の﹃清秘蔵﹂は︑﹁官窯品格輿寄窯大約相同︑其

色倶以粉青色為上︑淡白色次之︑油灰色最下紋取氷裂︑鰭血為上︑梅花片︑

墨紋次之︑細醇紋最下必鉄足為貴︑紫口為良︑第不同者官窯質之隠紋亦

()如蟹爪︑寄窯質之隠紋如魚子﹂と言う類似の記載はまたわずか数年前の万

(

一 )

g r s

になる﹃遵生八段﹂や︑やや遅れる崇禎

年間文震亨

42 NF gr gm

になる﹃長物志﹄に見られる明らかに︑明代晩

期文人の宋代官窯青磁の鑑定法と鑑賞内容は﹃格古要論﹂に比較してさらに

多様で煩頂になっているこのときすでに︑紫口︑鉄足と貫入のある青磁粕

を宋代官窯青磁の重要な特徴と見なしており︑同時にまた︑紬の貫入の入り

方によって︑官の

ED

・豆町のの二つの窯の違いを区別している更には︑紬

の貫入の各形式に名称を与えて分類・区別し︑格付けを行おうとしており︑

そのなかでも︑氷裂に形状が似た多重貫入を最も高く格付けしている(挿図

()

2)

疑う余地もなく︑明代晩期の鑑賞家たちは︑貫入を宋代官窯青磁の真

贋を鑑別する手段の一つとする明初の考え方を踏襲したが︑さらに歩進め

て︑紬の貫入の種類によって等級を分け︑宋代官窯青磁の各種貫入を文人的

鑑賞評価に取り込もうとしたそれだけにとどまらず︑

QZ

DE

が指摘してい

るように︑明代晩期の文人が入念に築き上げた︑雅俗の別により古美術を審

美するという特殊な感覚基準による鑑賞観において︑宋代官窯青磁はよく論

及される範例のつとなったつまり︑この雅俗鑑賞観においては︑官窯青

磁のように貴重なものは︑使用する際にはその所を得ていることが必要で︑()そうでなければ文人の清玩にはならないのである例えば︑文震亨はその著

﹃長物志﹂において︑花盆は﹁白定︑官︑豆叫窯為第ことしているが︑同時

にまた﹁惟陶印則断不可用即官︑寄︑冬青等窯皆非雅器也﹂と戒めている

(5)

HTh 引

j¥

cl 

f

ヮヒu

南宋

明宣徳年間 官窯

官窯 青 磁三足 尊

青磁菊形盤

a

()鎮紙もまた︑雅致に欠けるということで︑官︑可一円などの窯器を用いることを

忌んでおり︑明代晩期文人が持つ特色ある鑑賞観と選択基準を反映している

のである

方では︑早くも元人孔斉

F a Q

の﹃至正直紀﹂中に﹁近日寄寄窯絶類

()古官窯﹂と指摘されており︑明初﹃格古要論﹄でも︑豆町窯青磁は紫口︑鉄足

の特徴を持ており︑そのなかで粕色の精良なものは︑{呂窯青磁に比べてや

()

や品格が劣る董窯の貫入青磁に類似する︑と述べられている

寄窯が官窯︑

董窯にとても似ていたために︑曹昭は﹁官室にと﹁董窯﹂の後にわざわざ豆町

窯を配置したとも考えられよう

明代晩期の文献では寄窯はいわゆる五大名窯のなかで官窯と同列に名を連

ねているだけでなく︑最もよく官窯と共に並び論じられる窯となっている

寄窯青磁に関し解決されるべき問題は多いが︑現在の研究者では︑寄窯青

磁を取り扱う際︑往々にしてこれを伝世寄窯と龍泉寄窯に分けようとする

前者は伝世品のなかで︑大小の貫入や細かな貫入があり︑やや乳濁した失透

性の粕がかかった青磁の一群を指し︑後者は漸江龍泉窯が焼成した黒胎で貫

入のある青磁を指すいずれにしろ︑粕に貫入があることが寄窯青磁の最も

重要な特徴の一つであるしかし︑明人はどのようにして寄窯青磁の具体的

な特徴を把握したのであろうか

嘉靖・隆慶年間の郎瑛ピロ∞出品になる

﹃七修績稿﹂に﹁寄窯輿龍泉窯︑皆出処州龍泉県

南宋時︑有章生

︑生二

弟兄︑各主一窯︑生一所陶者為寄窯︑以兄故也︑生所陶者為龍泉︑以地名

其色皆青︑濃淡不一︑其足皆鉄色︑亦濃淡不一

旧聞紫足︑今少見駕

()惟土脈細薄︑油水純粋者最貴︑寄窯即多断文︑号日百域破﹂とあるつまり

挿図3

貫入の有無が︑寄窯青磁が龍泉窯とは異なる点であり︑この点が︑寄窯青磁

が明人の鑑賞の対象となった主要な理由である前掲﹃遵生八段﹄﹁清秘蔵﹂

﹃長物志﹄などの明代晩期の記述を総合すると︑可一円窯青磁と官窯青磁の区別

は︑主に前者の粕の表面に魚子のような細かな貫入があることにあり︑それ

は︑後者に現れる蟹爪状の大きくてまばらな貫入とは異なる

また︑﹃清秘

()蔵﹂に︑宋代龍泉窯は﹁妙者血ハ官窯争監︑但少紋片﹂とあり︑このことから︑

貫入の有無がまた︑官窯と龍泉窯の作品を識別︑鑑賞する際の鍵となってい

たことがわかる

以上のように︑陶磁に現れる貫入とその走り具合がもたらす種の文様の

現れ方というものが︑明代晩期のきわめて特色ある陶磁鑑賞の核となってい

()文震亨﹃長物志﹄には﹁官一窯氷裂︑鰭血紋者︑血ハ官寄同﹂とあり︑宣徳

期に景徳鎮によって焼造されたこの種の貫入青磁は台北国立故宮博物院蔵品

()中にも見ることができる(挿図

3)

が︑しかし︑それがいわゆる官窯や寄窯

と共通するのは︑せいぜいのところ︑貫入青磁であるという点だけのように

(6)

1651年頃

思われる

文献の記述から︑われわれは以下のように推測することができよ

つまり︑梓器の鑑賞は︑その淵源を求めると︑貫入のある青磁紬が︑ま 陳洪綬 索匂〉部分

さに︑求めても得難い宋代官窯青磁の最も重要な特徴の

つであったことか

ら来ている

そして︑このような宋代官窯青磁鑑賞の性格は明人の鑑賞内容 を発展させ︑明代晩期の文人は官窯青磁を︑王とする宋代名窯作品の貫入現象 に対して独特の鑑賞法や解釈をし︑砕器の流行を引き起こした

挿図4

明末清初の

の発展と消費の状況

挿図5 I間夜酒醒J

(明万暦年間『唐詩五言画譜Jより)

には﹁欲為砕器︑利万過後︑ 明代崇禎一O

( 六三七)になる宋麿星∞

g

JD

官ロ加の書﹃天工開物﹂D

() 曙極熱︑入清水一蕪而起︑焼出自成裂文﹂と

ある

この砕器の製作工程の記録は︑明代晩期における砕器の流行をよく物 語っており︑この回二部の陶磁器工房が顧客の好みに合わせて︑砕器生産に 参入していたことを反映している

明代晩期の文献には官︑寄窯などの砕器鑑賞に関する記録が非常に多く︑

例えば﹃長物志﹄には︑﹁文人の書斎には官︑寄窯の葵花洗︑荷葉洗︑斐吐 小口鉢孟と方形あるいは円形を呈した各式の水注を使用するのがよい

瓶に

花を挿すときは官︑豆町︑定窯の謄式瓶か︑著草瓶もまたよい

盆栽花器には

()

官︑寄などの窯の作品を第

とする﹂とある

文字に記されているもののほ 挿図6 I学琴師裏j図

(明万暦年間 孔聖家語図Jより)

かに︑明代晩期の絵画と版画にも多くの砕器の図像資料があるが︑絵画では 陳洪綬

h r g z g q g z

の作品に最もよく見られ︑砕器の器形には盆足花器︑

花瓶(挿図

4)

︑杯︑水干皿︑酒斐と清玩のために設けられた三足香炉などが

()ある 版画に見られる盆栽花盆や花瓶︑あるいは文人雅集中に描かれている 器物にはたいてい砕器の特徴が現れており(挿図

5)

︑その内容と種類は非 常に豊富である

瓶花について言えば︑瓶に各種の生花を挿しているほか︑

明代晩期の宋代官窯青磁鑑賞と﹁砕器﹂の流行

(7)

f

¥

?cl 

b プじ

挿図 8 陳括 端陽景〉

明晩期

珊瑚や霊芝を挿しているものがある

()

(

6)

先に引用した

﹃長物志﹄が提示した著草瓶は︑明万暦年間刊行の﹃程氏墨苑﹄所載の図か(μら大略が知られるが︑いわゆる著草瓶とは諒式瓶であり︑台北国立故宮博物

()院にはこの形式で南宋官窯と比定されている青磁の作品がある嘉永四二年

()

( )

Q g o c

になる﹁午日鐘撞﹂図(挿図

7)

には︑鬼卒が石

棺と霊芝を挿した砕器の花瓶を捧げ︑鐘撞に献呈していることから︑砕器は

当時比較的珍奇な器物に属していたと思われる

一六世紀中1後期の

r m

z o になる﹁端陽景﹂図の主題は︑一つの砕器の花瓶に菖蒲︑楯

子︑易葵などの生花を挿したさまを描き︑﹁一時都緊古瓶中﹂という自題の

()詩句(挿図

8)

が書かれており︑一併器がしばしば古物の象徴と見なされてい

たことを明示しているこのことは︑成化l弘治年間(一四六五1

一 五

O

)

に活躍した杜董ロロロ

OD

mの﹁玩古﹂図中にも砕器の香炉が見られることから

ーよー・

ノ ¥

銭穀〈午日鍾埴〉

挿 図 7 1563

()も容易に知られる明らかに︑宋代官窯青磁の目立った特徴とされた貫入は

既に宋代官窯青磁あるいは古陶磁を象徴する記号となっており︑それゆえ明

代晩期の画家も︑貫入という純粋に物理的な形状を通じて古物を寓意し︑こ

()れをもとに過去の歴史と呼応する機能を得られると考えるにいたった

こそが︑明代晩期の絵画作品が頻繁に各種造形の砕器を画面の装飾小道具に

した主要な理由の一つである

一方では︑早くも南宋時代に既に﹁為世所珍﹂のものであった宋代官窯青

()磁は︑明代末期には依然として﹁世絶無之﹂ものであった柴窯︑汝窯に次い

()で数少ないものであり︑寄窯︑定窯などの名窯と並ぶ﹁当今第一珍ロ叩﹂であ

った︒既に砕器の貫入の図像は︑求め難い宋代官窯青磁などの古物を記号的

に表わす機能を持っており︑多くの手工業者は競って砕器の図像を工芸品の

装飾文様とするにいたったまた︑明代末期に発達した商品経済と宥修な社

会的風潮が拍車をかけ︑この文様を大衆が消費する流行商品の定番にならし

︒言

い換えれば︑貫入文様は︑陶磁窯の産地を鑑別し︑作品の真贋を判

定し︑或いは古物を寓意する機能を持つものから︑次第に︑陶磁器に限らぬ

さまざまな素材にわたる当世風の装飾文様となっていったのである

陶磁器の技術においては︑際限なく胎土と紬の膨張係数を利用して貫入紬陶

磁を作り出すようになり︑また︑彩画の技法によって丹念に描かれた貫入文

(8)

様が大量に現れた貫入を装飾文様とする明末清初の手工芸作品の数量は膨

大であり︑工芸品の材質の種類もまた非常に多様で︑ほとんど天文学的数字

挿図9 I蒼水氷裂j墨 (明万暦年間『程氏墨苑Jより)

の規模である万暦年間の﹃程氏墨苑﹄中には既に貫入文を装飾図案とした

()﹁蒼水氷裂﹂墨(挿図

9)

が現れているまた︑清康照七年(一六六八)にな

()る劉源ピロペロちの﹁凌煙閣功臣図﹂︑康照二九年(一六九

O)

金古良三ロ(M

cr

gm

になる﹁無双譜﹂中に装飾地文とした紙が現れており︑康照年間一

八世紀初めの﹁胤禎妃行楽﹂図には氷裂文巴

Dm E2

gの書築が見える

()

)

どれも︑貫入文がこの頃の文人の書築に流行した装飾図案の一つであ

(

ったことを反映している︒次いで︑明代晩期の木製家具にも砕器図案を装飾

としたものが多いそのなかには︑細木を繋ぎ合わせて透かしの氷裂文にし

()た棚扉(挿図ロ)があるし︑象恢技法で︑貫入の地文と梅花文を組み合わせ

()

たいわゆる氷梅文巴兵

B25ロに装飾したものもある(挿図日)明代崇禎四

( )

計成

yn rg

mになる﹃園冶﹄に﹁文致減雅﹂として﹁上疏下

密之妙﹂である氷裂式の窓が風窓では最もよいとある

いわゆる氷裂

措というものがあり︑﹁離青石版用油灰捉縫﹂して作り上げるのであるが︑

山堂︑水坂︑台端︑亭際でも青石版や砕いた方碍を不規則に配置して﹁氷裂

()地﹂を作った実際に︑安徽彩県の清代民居の木造門扉には氷裂式を用いて

()いるし(挿図

U)

︑伝世品である七世紀中期銅胎球部の案九上面に描かれ

()

( )

ている窓絵の内側にも氷裂扉風と氷裂摘が見られる

わざわざ石版を氷裂状の外壁に築き上げたり︑地表面では大小互い違いの氷

裂文様に敷設しようとすることは︑現代庭園の歩道や花台などによく見る不

規則に貼り付けた石版装飾の先駆ということができる

J E

1

一 六

七九?)が文人の書斎の室内装飾を論じたなか

( 一 ム ハ に氷裂文の壁紙の作り方を説いた非常に印象的な部分がある

明代晩期の宋代官窯青磁鑑賞と﹁砕器﹂の流行

挿図10氷裂文紙

(清康照年 『無讐譜』より) j青康照年間

胤禎妃行楽図 挿図11

(9)

挿図13氷 梅 文 ( 木 卓 明 晩 期 )

挿図12 氷裂文棚扉(黄花梨木植 明晩期)

挿図15 銅 胎 球 部 製 案 机 明 晩 期

挿図14 氷裂文門扉(安徽野県木造民居 清)

挿図16 五彩四方皿 明晩期 挿図17 青花氷梅文葺繕 j青康照年間

j

E

)¥ 

(10)

﹁先以醤色紙

崩︑或短或長︑或

角或四五角︑但勿使圏︑随手貼子醤色紙上︑毎縫

条 ︑

線︑務令大小錯雑︑斜正参差︑則貼成之後︑満房皆氷裂紋︑

有如豆町窯美器

()

より﹁幽斎化為窯器︑難居室内︑如在査中﹂という

(

一 一 一

1

(

1六四四)

された五彩四方皿に同様の図様が現れている

漢が描かれ︑皿の内壁全面をさまざまに入り乱れた紅緑彩の氷裂文で描きつ

()

め︑羅漢が氷裂砕文の壁紙のある静室内にいるかのようにしている

(挿図日

)

とによ

さ は に た 新 び た た な び 流 氷 行 裂 文 文 様 を が 粕 輿 上

た の こ 図 と 様 示 しを に し よ て う い(

3

か こ で の も 装、 飾

康 上配 の

年 変 間 化 の は 俗 ま

に喜纏すロ加のE

ロと呼ばれる輸出用陶磁に描かれた氷梅文には最も特色があ

清康照年間 五彩砕器花瓶文瓶

挿図18

明代晩期の代官窯青磁鑑賞と砕器﹂の流行

()

効果をあげている(挿図げ

)

()

最もよい器となった(挿図日)

(

六四九)

h r g z o

}

OC

の﹁摘梅高士﹂図は︑

の後ろには従僕が両手に梓器の花瓶を捧げ持

ているのを描いており︑これ

()(挿図印

) ︒

管見の資料では︑

いわゆる氷梅文は康照年間に流行した文様の

つで︑既に

()

(挿図初)

()

文様を見ることができる

()

つまるところ︑これ

例えば

八世紀後半の金弘道

1649年頃 陳洪綬〈摘梅高士〉

挿図19

(11)

γm H 

¥

E

清康照年間

18世 紀 後 半 五彩氷梅文瓶

書棚 (輸出用) 挿図20

挿図22

の自画像﹁布衣風流﹂図では︑琵琶を弾く人物の傍らに砕器の瓶が置いてあ

()る(挿図幻

)

このほか清代中期に西洋人からの注文で制作された木製書棚

の扉の氷裂透かし文から︑一昨器文による装飾が︑広く欧米の消費者に同様に

()歓迎されたことも容易に推測される(

)

日本における砕器の鑑賞

明代崇禎一O

(

)

宋麿星になる﹃天工開物﹄で砕器の製作に論

挿 図21 金弘道布衣風流}18世紀後半

日本国極珍重︑宣ハ者不惜千金古香櫨砕器不知何代造︑

()底有鉄釘︑其釘掩光色不鋳﹂と付記している文中にいう﹁鉄釘﹂とは︑宋

代官窯青磁や伝世寄窯などの作品が︑紬を総掛けするため︑針目で支えて焼

く必要があり︑胎土中の鉄分が比較的高いことにより︑焼成後に露胎の針目

の痕が鉄鋳色を呈するものであるこのことから︑千金の価値があって底部

に鉄釘状の目痕がある古砕器とは︑宋代官窯青磁に類した貫入陶磁を指して

いると考えられる

実際に︑早くも嘉靖年間に日本の遣明副使で著名な禅僧であった策彦周良

(12)

が既に砕器に対する偏愛を示している現存する策彦赴明の遺文﹁策彦入明

記﹄には︑陶磁器に関係する多くの記述が含まれていて︑そのなかでも砕器

の記録が最も多く︑その器形には各形式の盃︑皿︑碗と鎮紙︑瓶︑香炉など

()が含まれている

嘉靖

( )O月一日の朝の条に﹁恵以盃︑

外白内砕器﹂という記述が載っているが︑同年五月二九日に策彦本人が﹁砕

()器﹂という語について﹁砕器トハクワンニウノコトソ﹂と解説の注記をして

いることを考え合わせると︑策彦和尚もやはり砕器を貫入陶磁であると理解

していたことがわかるしかし︑粕に貫入があるのが宋代官窯青磁の特徴の

つであるといっても︑すべての醇器が宋代官窯青磁であるわけではなく︑

それゆえ策彦は同年八月O日にたったの五分銀で砕器の香炉点を購入し

()たのである

八代将軍足利義政

(

1 一

O)

の同朋衆が撰した﹃君台観左右

帳記﹂は︑将軍家の所蔵品とその頃の鑑賞や品評を理解するための重要な史

料であるこの書は祖父と孫である能阿弥および相阿弥による系列の伝本

があて︑各版本の内容は大同小異であるが︑永正八年

(

一二の東北

()大学所蔵相阿弥本が研究者間で最もよく使用される林左馬衛の校註による

と﹁茶碗色色﹂の下に﹁璃揺﹂の項があり︑注記は︑作品の胎土の色が紫で︑

()粕は淡い紫の色調を呈し︑細かな貫入があると説明しているこの種の︑紫

がかった粕調で濃い色の胎土の貫入青磁﹁瑠璃﹂は︑確かに宋代官窯青磁系

の特徴に符合しているので︑研究者の間ではこの記述は宋代官窯系青磁に対

する客観的な描写である可能性が極めて高いということで致している

(

O)

喜多村信節になる﹃嬉遊笑覧﹄では﹁陶磁器の﹃クワ

ンニウ﹄は蟹爪文である﹃君台観﹄に﹁璃一端﹂は土が紫であるという

:

:これはもともと官窯の字の読みであったものが︑後に粕薬のひびの名称に

明代晩期の宋代官窯青磁鑑賞と﹁醇器﹂の流行 ()当てはめられて﹃クワンニウ﹄となったのである﹂と明確に指摘している

これをもとに考えると︑﹁語一端﹂とは︑﹁官窯﹂と現代日本語において紬薬の

ひびを指すのに用いている﹁貫入﹂とが交じり合った造語である

の文献では︑﹁官窯﹂を指して﹁璃謡﹂とい

()う場合もあれば︑﹁官用﹂や﹁瑠窯﹂とする場合もあった 室町時代

(

1

)

以上のように︑室町時代の宋代官窯青磁鑑賞は︑明代同様に鉄足と紬の貫

入などを官窯青磁の主要な特徴としていたが︑室町時代前期の日本の鑑賞家

は官窯青磁に関わるその他周辺の知識を︑まだあまり把握していなかたよ

うで︑それゆえ宋代官窯青磁に対する理解はいまだに明代初期の﹃格古要論﹄

所載の内容を超えていなかったまた︑﹃君台観左右帳記﹄の記述からさら

にわかることだが︑日本はこの頃でもいまだに︑明人が陶磁器の珍奇な宝と

見なした宋代官窯青磁に最高の評価を与えようとはせず︑ひとまず項を与

えて鏡州などの茶碗の後に列記しただけのようであるしかし︑室町時代後

期に明に渡った策彦周良がたびたび砕器を買い入れたことから見て︑この頃

の日本の鑑賞家の間では明代晩期の文人の鑑賞観にいくらか啓発された可能

性が高く︑そのために﹃天工開物﹄が言及したように大金を惜しまず古砕器

を購入するような現象が現れたのであるこうした風潮の結果︑日本の

の陶磁窯でも砕器作品の倣製を始めた萩藩主毛利家の萩松本御用窯ではか

()

七世紀に︑白粕を着色した貫入陶磁を焼成している

(

) ︒

世紀末から人世紀初期の佐賀藩鍋島焼でも貫入のある査を上絵の文様にし

()ている(挿図M)が︑類似の造形の砕器査はまた明代万暦年間に黄鳳池が編

()纂した﹃唐詩五言画譜﹄の版画挿絵に見られ(

5)後者は黄鳳池らが編

()纂した﹃八種画譜﹄中にも入っているよく知られるとおり︑日本はかつて

寛文

(

) と宝永七年

(

O)

度﹃八種画譜﹄を翻刻

参照

関連したドキュメント

IMO/ITU EG 11、NCSR 3 及び通信会合(CG)への対応案の検討を行うとともに、現行 GMDSS 機器の国内 市場調査、次世代

福岡市新青果市場は九州の青果物流拠点を期待されている.図 4

海に携わる事業者の高齢化と一般家庭の核家族化の進行により、子育て世代との

[r]

図 54 の通り,AM 用直流 125V 蓄電池~高圧代替注水系と AM 用直流 125V

縄 文時 代の 遺跡と して 真脇 遺跡 や御 経塚遺 跡、 弥生 時代 の遺 跡とし て加 茂遺

法制史研究の立場から古代法と近代法とを比較する場合には,幾多の特徴