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89)。ここに謹んでお悔やみを申し上げる。藤

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(1)

藤井 清先生のご業績を偲んで

藤井 清先生のご業績を偲んで

─長引く大学紛争を終息させた学長─

櫻  井     清

 藤井 清先生は,今年

1

15

日に他界された(享年

89)。ここに謹んでお悔やみを申し上げる。藤

井先生は,和光学園に関わる人なら誰もが知っているように,初代の和光大学学長であられた梅根 悟 先生の後を引き継いで

1981

4

月に学長に就任され,

1993

3

月に学長を退任されるまで

12

年間も 陣頭指揮を奮われた。さらに藤井先生は,1997

10

月に,和光学園理事長の春田正治先生の後継者と して理事長に就任され,2005

12

月に退任されるまで

8

年間も学園全体の教育・研究それに学校行政 を統括された。この二つの要職就任を挙げただけでも,藤井先生の卓抜した指導力を存分に偲ばれよ う。

 1966

4

月,和光大学が創立された。その前の

1

8

日,和光大学全専任教員予定者会議が経堂キ ャンパスで開催され,ここで梅根学長から審議の結果,人文学部長に古田 拡先生,人間関係学科長に 大脇義一先生,文学科長に近藤忠義先生,芸術学科長に宮川寅雄先生を,また経済学部長に関 末代策 先生,経済学科長に望月 信先生を選出し,さらに運営委員会委員を決定した旨が報告された。

 この会議では,藤井 清先生も同席されたが,創立時には本務校の東京教育大学附属高校の都合から か(同校の教頭を兼任),本学では非常勤講師となり,専任は創立

3

年目の

1968

4

月に経済学部助教 授(専攻・物理学,情報科学)として着任された。この時,藤井先生が初めて私に話しかけられた。先 生曰く「あなたと僕の名前は第

1

字が藤と櫻と違うが,後の

2

文字が同じで,これで親しみが湧いた よ」とのこと。私が応答した。「確かに姓名の頭が

1

字違いですが,藤の方が天辺で,櫻の方は底辺で すよ」と。

 この語りかけを藤井先生はよく覚えておられ,

2005

2

月に行われた私と滝本晴樹先生の最終講義 後の晩餐で,冒頭に藤井先生が挨拶された際に,この藤井と櫻井と姓名の

1

字違いを指摘されて,これ が奇縁で二人の親交が深められた点を強調された。私はこれまでの親交に感謝の返礼を行った。

 和光大学は,教育学の重鎮である梅根学長の強力な指導力を得て出発した。小さな実験大学ではある が,「山椒の実のように小粒でもピリーッと辛い,また小さくともダイヤモンドのように光り輝く大学 にしたい」と,梅根学長は意気軒昂に唱えられた。創立時から知名度の高い教授陣を迎えて活気づき,

年々応募学生数が増加したこともあって,滑りだしは順調であった。

 ところが,和光大学が創立

3

年目の

1968

6

月,東京大学で研修医の待遇問題で紛糾し,これが発 端となって大学紛争はたちまち他の大学に飛び火した。和光大学もその例外ではなかった。この紛争に よって教職員は対応に忙殺され,大学の教育・研究は停滞を余儀なくされた。

 和光大学は,すでに東大紛争前に紛争の火種を宿していた。創立時に学生寮(大学の敷地と地続き)

の入居条件(入居料,設備など)をめぐって,事務局長,学生部委員との折衝が度々紛糾していた。

1968

10

月には,和光高校が経堂から大学敷地内の

H

棟に移転する決定に反対する学生有志がその 白紙撤回を求めて大学側と交渉したが,決裂。

 この移転問題が紛糾するなかで東大紛争が起き,これが重層して反対学生は一気に勢いづいた。翌

69

2

月,推薦制入試に二つの派に分かれた学生が衝突して,負傷事件を起こした。次いで,学生部 委員と反対学生の交渉が続くが,これも決裂。同月

18

日,全闘連を名乗る学生が

A

2

階をバリケー

37

(2)

『和光経済』第45巻第1

ド封鎖した。

これを契機にますます反対学生が暴挙に出て,学内は連日騒然状態を呈した。反対学生に

翻弄された教職員はひどく疲弊しつつ対応に苦慮した。反対学生は移転問題と教学問題を絡めて騒ぎ,

さらに学内封鎖を重ねた。大学側は「大学改革調査委員会」などを発足させつつ,対処策を講じた。

 この間に,69

11

月に多摩警察署員は,国際反戦デーで逮捕された一学生が,学内で武闘訓練をし たとの理由で学内を不法捜索するなど,外部の事件からも悪影響を受けた。この学内紛争は

1972

年に なっても鎮まらず,カリキュラムを含む大学改革を叫ぶ学生たちは,ゲバ棒で武装して学内を駆け回っ て授業妨害に出るなど,学内は一層混乱した。

 大学側の主な折衝窓口たる学生部の解体要求に,やむなく応じた大学は

73

4

月に改編して学生生 活部(部長・藤沢典明教授)となる。転じて学生との折衝の窓口は,主に学生生活主任(両学部教員が 担当)となるが,この折衝がこじれるなか,間に立った学生生活部長,学生生活主任と学生生活課員に 対して,教職員・学生双方が不信感を募らせたこともあって,担当者を辟易させた。

 この頃,東大をはじめ多くの大学では,紛争解決打開を狙って,外部の権力に頼った。また

1969

2

月に,文部省(現・文部科学省)は,大学秩序維持について次官通達を通じて大学を牽制するととも に,矢継ぎ早に

8

月には大学管理を一層強化する長文な法律,いわゆる大管法を公布した。こうした外 部からの措置に便乗するかのように,多くの大学は急速に紛争が鎮まりかけた。一方わが大学では,梅 根学長は紛争解決に外部の権力に頼らず,自力で解決するとの堅い信念を教職員に示した。この寛大さ を学生たちは理解できず,紛争を増幅させた一因にもなった。

 1973

10

月,第

4

次中東戦争勃発を契機に,第

1

次石油ショックが襲い,ー気に物価は暴騰した。

すでに数年前から物価はかなり上がっていたのに,この石油ショックで倍増し,石油輸入国であるわが 国の経済生活は窮地に追い込まれた。

 石油ショックは,和光大学の財政にも多大な影響を与えた。73

12

月,梅根学長は財政立て直しを 図って「学費改訂(値上げ)」を発表したが,これがまた学内紛争を再燃させた。学費改訂説明会はし ばしば開催されたが,徹夜団交(反対学生が団交と呼ぶ)のいずれも紛糾・決裂した。

 74

2

月,理事会は学費改訂を決定した。4月,両教授会は,学費問題については,最終的に理事会 の経営権に属すとの立場をとり,教授会の議決事項から学費条項を削除する苦肉の策を講じた。翌

75

年には,受講料などの改訂を発表し,またも反対学生たちの阻止行動が頻発した。この間に教職員に怪 我人が出るなど,険悪な事態となる。

 紛争最中の

74

9

月,学生生活部長は藤沢先生から藤井 清先生に代わり,2年間その任務を果た された。藤井部長は寡黙ではあるが,折衝中に威嚇にあってもあまり表情を変えず,芯の強い対応が光 彩を放ち,教職員に信望を得るきっかけとなる。1977

4

月,和光高校が真光寺キャンパスに移転し たことで,高校問題は落着した。

 ところが同年

9

月,翌年度以降の学生納付金改訂(値上げ)を梅根学長が提示され,これは今後

4

間,いわゆる物価スライド方式を採用する内容であった(この方式は若干の大学も採用)。この方式の 採用理由は,狂乱物価に対処する財政再建のためというものであった。4年間の採用は,反対する学生 の騒乱を招いた。またも紛争が再燃した。改訂の説明会はいつも長引き,入試妨害なども加わって大荒 れになった。これの対応に追われた役職者などが相次いで健康を害した。この紛争は教学問題と絡めて 展開され,3年間にわたって揉めに揉めた。教職員の疲弊極に達し,この間に梅根学長が入院された。

このために臨時学長代理に杉山康彦先生,次いで水上健造先生がその任に当たられて対処したなか,80

3

13

日に梅根学長が逝去され,和光大学の大黒柱を失って一大ショックとなった。

 その直後の

3

19

日,両教授会は藤井 清先生を学長代行に推挙したことを理事会に回答した。こ れまでの学生との堅実な対応や行政改善に対する高い関心が,藤井先生を学長代行に推した根拠となっ

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(3)

藤井 清先生のご業績を偲んで

た。藤井先生は学長選挙を経て翌年

4

月に学長に就任された。

 藤井先生が学長になられた後も,学費改訂と教学問題の紛争が依然続いた。数回にわたって説明会

(全学集会)を開いたが,いずれも紛糾・決裂した。長期の大学紛争を終息するべく,藤井学長は遂に

「奥の手」を開陳された。12月,全学集会要請団が全学集会を求めて学長を引き出そうとしたが,学長 は強く拒否され,今後は学生の疑問には文書をもって回答する旨を表明されたのである。また図書館建 設に反対する学生との交渉で紛糾したが,これにも藤井学長は文書回答を堅持されている。両学部教員 も,この学長の対応を歓迎しつつ,教員側も今後の大学改革をめぐって合同合宿研究会を重ね,改善策 を示してこれに応えている。

 これ以降,大学紛争は徐々に引き潮となり,教職員,学生ともに学問・研究の府を回復した。藤井学 長は

12

年間その要職に就かれて陣頭指揮され,この視点から和光大学の救世主と言っても過言ではな かろう。さらに藤井先生は

1997

10

月,推されて和光学園理事長に就任され,学園全体を統括され た。このご業績に改めて感謝したい。

 藤井先生の研究業績は,門外漢の私には所感を述べる資格はない。私との関連で挙げると,藤井先生 は『アダム・スミスとその時代』(創立

10

周年記念号。和光大学経済学部編,1977年)に投稿された 論文「18世紀のイギリスにおける科学・技術」が,イギリス産業革命期の内燃機関の発明など,原典 から詳細な解説をなされていた。

 私はこの頃,内燃機関を搭載する自動車開発に関心をもっていたので,技術開発に疎い私は,小躍り して先生から教示を仰いだ。藤井先生は快く応諾され,その原典や資料を紹介するだけでなく,研究の 糸口を教えて戴き,それが幸いして後に自動車産業発達史に関する著書を刊行することができた。改め て生前のご教示に御礼を申し上げるとともに,心よりご冥福をお祈りする。

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参照

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