• 検索結果がありません。

ベアーテ ・ヴオンデ

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "ベアーテ ・ヴオンデ"

Copied!
21
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

(

『舞姫』1 20 年を記念 して 森鴎外 と忘れ られた女性作家

‑ ボ‑ ミア系 ドイ ツ人女性作家 ossi p Sc hubi n オシ ップ ・シュー ビン 本名 Al oisi aKi rsc hne r ア ロイジア ・キル シュナ‑

( 1 85 4. 6.1 7‑1 93 4.2.1 0) ‑

ベアーテ ・ヴオンデ

森鴎外の数多い翻訳 の中に ドイツの女性作家の作品はただ一つ しかあ りません。

I

オシ ップ・シュー ビン、本名 ア ロイジア・ キル シュナ‑の『埋木 』( うもれ ぎ 、 Ge s c h i c h t e e i n e s G e n i e s ) です.

2

この翻訳 は、 1 888 年 9 月 に ドイツか ら帰国 した鴎外がす ぐに取 り掛かった作品の ひ とつです。この年か ら 1 8 92 年 までに ヨー ロッパの散文作品 と戯 曲を次々に 22 篇 和訳 し、その大部分 を、1 88 9年 1 0月に自ら創刊 した文芸雑誌 「しが らみ草紙 」 に 掲載 します0

3

『埋木』 も 1 8 90 年 4 月 25日号か ら 1 8 92 年 4 月 25日号 ( 第 7 号か ら 31 号)までに 1 0回に分 けて断続的に発表 され ま した。

4

したがって初 めの部分は『舞 姫 』 ( 1 8 90)とほぼ同時期 に世 に出たわけです。 リチ ャー ド・ボ ウ リングの文献末尾 に載 ってい る リス トに よ ります と、厳密 には 1 1 番 目の散文の翻訳であ り、その前後 にはハ ク レンダー、 ツルグーネフ、クライス ト

5

の作品が翻訳 されています。

『埋木』 については、 これ までの ところ、森鴎外の翻訳の方法 と文体の詳細な分 析 は行なわれていませ んが、鴎外 ・シュー ビン研究の今後のテーマにな ることで し ょう。標題 が 自由に訳 されていることだけか らで も、逐語訳ではな く文学的な翻訳 を 目指 した ことが窺 われ ます。価値評価 を含まない原題 を、た とえば 「 ある天才の 物語 」 と直訳せずに、『埋木』 とい うまった く新 しい題 を選びま した。この語は辞書 によれば、「 地 中に埋 もれて化石化、炭化 した木、また世間か ら忘れ去 られた身の上 」 を言います。短い言葉 で、文学的に美 しく聞こえます。後 にシュニ ッツラーの 『死』

( S t e r b e n ) を 『みれん』 と訳 したのも同様ですO

この新 しい題 を見ます と、 どのよ うな埋 もれた天才を、あるいは十分に生 きられ ず に忘れ去 られた生涯 を、森鴎外は考えていたのだ ろ うか と問わず にはい られ ませ ん。

この翻訳 を していた時期は、衛生学、科学政策 、文学な どの分野できわめて闘争

的かつ生産的 に活動 していたのみな らず 6 、山崎 国紀によれば、私生活でも最初の

妻、赤松登志子 との離婚や千駄木 21 番地の住居改築のための二度の移転によ り、時

(2)

仕軌

間に追われ る日々で した。かれ もまた、 自分の才能を埋 もれ させかねない外界の状 況 と絶 えず闘わねばな らなかったのです。

山崎は 「 こんな時期 に、なぜ鴎外はかような作品を選んだのであろ うか。いささ か疑問 とするところである。」 と書いています。

7

この疑問に一言で答 えることは難 しいで しょうO さしあた りこちらは未解決 とし ておいて、まずは原著者の生涯 と作品を見ることに しま しょう。

プラハの ドイツ文学 といえば、ただちにカフカ、 リルケ、ヴェルフェル らの名が 思い出されます。けれ ども彼 らより一世代前に、ある若い女性が男性 の名 を名乗 っ て、1 9 世紀未の ドイツ語純文学の世界や活躍 していま した.オシ ップ ・シュー ビン です。

彼女はきわめて多産 で、当時広 く知 られたこの筆名 を使 って、 45 を越 える長編小 説を書き、いずれ も多 くの版 を重ねま した。8 1 5 ケ国語で 8 0 冊 もの翻訳が出版 され たことが、当時の彼女の人気を証明 しています。ただ、生前にこそ、その作品はベ ス トセ ラー として書棚に並べ られましたが、その後は文学研究者か らさえ忘れ られ た存在で した。

20 世紀末になってよ うや く、ジェンダー研究や、女性の文学、書き方、生活設計

‑の関心に関連 して、コンスタンツェ ・フリーデル

9

・ヴィ‑ン大学教授 とシュミ ッ ト‑ボルテンシュ レ‑ガ

‑ 10

・ザル ツブルク大学教授がオシ ップ ・シュー ビンの 創作を論文に取 り上げま した。 ウイルマ ・ A. イガ‑ズ ・元ニュー ヨー ク、バ ッフ ァロー、カニシアス. ・カ レッジ教授は、プラハの著名な女性を論 じた著書の一章を シュー ビンに捧げ、幼年期の回想 を引用 しなが ら、彼女が生きた社会的、知的な環 境を解説 しています。

11

現在 はインターネ ッ トを通 じても情報を得 られますが、こ れは、プラハ在住の若 い ドイツ人の文学者のおかげです。 この方は、姓がたまたま 同 じキル シュナ‑であることか ら、アロイジアのことを調べ始めま した。た とえば、

ラジオ ・プラハのホームページ上にアロイジア ・キルシュナ‑のページを作 り、彼 女が暮 らし、創作 した土地の探訪記事を掲載 しています。

12

今 日これか ら見ていた だ く画像は、この トーマス・ キル シュナ‑ さんが使用を許可 して くださった ものです。

オシップ ・シュー ビン、本名アロイジア ( ロー ラ) ・ キルシュナ‑は 1 85 4 年 6 月

1 0日プラハ郊外のロホコフに住む裕福な弁護士の家に生まれま した。三人姉弟の真

ん中の子です。ヨー ロッパの諸国に革命の起 こった 1 9 4客 年に父はこの家屋敷を買い

(3)

( 1 3 ) ま した。 ドイ ツ人ですが、終生、 自治の拡大を求めるチェコ人の闘争 を支援 し続 け ま した。上の二人の娘 、 マ リー とロー ラは早 くか ら豊かな芸術の才能を示 しま した。

姉 のマ リーは後に画家 として名 をな しますが、特にガ ラス工芸で有名 です。今 日、

彼 女の作品は ヨー ロッパのアール ・ ヌーボーの頂点に立っ傑作の うちに数 え られて いますOマ リー とア ロイジアは独身のまま共同生活 を続 けますO弟 のカール ・ オ ッ ト ーは科学技術の方の才能 に恵まれ、父が興 した ラー トリツアー乳製品工場 を受 け継 ぎます。この工場で 1 9 3 4 年 に、誰 もが知 っているフルー ツヨー グル トが考案 され ま

した。

13

ア ロイ ジアの子 ども時代の天国はカマイクにあったお じいさんの屋敷で した。『日 常か らの脱 出 ・七十歳 の女性 の回想』 ( Di eFl uc h ta

u

sde m A ll t a g.Er in ne r unge ne i ne r si e bz i gi a e r ige n)とい う本の中で、カマイ クの田舎に長期間滞在 して、いつ もぼ うっ

としている大叔母 さんの夫のことを書いていますが、 この人 こそ有名 な作 曲家べ ド ル ジハ ・スメタナで したO子 どものア ロイジアにはぼ うっ としているよ うに見 えま

したが、 このころス メタナの頭は新 しいオペ. ラのことで一杯で したO実際、彼は、

創 作に熱 中 してほかの事 には上の空 といった芸術家の状態 を理解 しない親戚 の人々 の物笑いになっていま した。 この ときスメタナが胸 中に育んでいたオペ ラが 「 売 ら れ た花嫁」で した。

14

ア ロイ ジアは音楽の才能 に恵まれ 、歌手になる勉強 を していま したが、過酷な練 習のために声 をいた めて しまい、 やむな く音楽‑の夢 を諦 めて書 くことを始 めます。

1 8 9 4 年 にジャーナ リス トのエー ミール ・フランツオースが編集 した、処女作

15

にま つわる思い出を集 めたアンソロジーの中で、彼 女は、 1 5 歳の時、アン トン ・ル ビン シテイ ンの コンサー トか ら受 けた感銘 の直後に初めて襲われた「 書 くこと‑の発作」

について書いています。突然、目の前 に登場人物が現れ、まるで時間の浪費になる、

禁 じられた ことで もす るかのよ うに、自分の部屋 に閉 じこもりますO「この よ うに し て、書 くとい う病気 は始まった。 この病の発作 は、その後 も同 じよ うに して起 こっ た。いっ も、なにかの強烈な印象が、時には快適な、時には不快な ( たいていは後 者 だが)神経の激 しい興奮を引き起 こし、それ がいきな り特定の 目的に向けて想像 力 を しゃにむに活動 させ、それか ら徐 々に静まって、興奮が去る。新 しい仕事はつ ねに、過度 に刺激 された感覚の混乱か ら立ち上 って くる幻影、熱 に浮か されてみ る 夢 のよ うな ものだった

」 。 16

この よ うに して処女作 『誤解 され間違 われ』( Ve r ka nntu ndve r f e hl t )が生まれま し た。挫折す る音楽家のス トー リーです。

1

7これ はたぶん彼女のもっ とも個人的なモ テ ィー フで、後に何度 も取 り上げることにな ります。 1 8 7 2 年にプラハで出版 されま

した。

その後い くつかの雑誌‑の寄稿 はあま り注 目されず に終わ りますが 、 1 8 8 2 年 に 2 8

(4)

( 1 4 )

歳 で最初 の長編小説 『名誉 』 ( Ehr e ) を発表 しますO彼女の最大の成功作ですo有力 な批評家ユー リクス ・ローデンベル クの熱狂的な書評によって彼女は世間に認 めら れ ま したO「 一瞬一瞬、私は本気で取 り扱 うに足 る作家に格付 けされていった。その 上昇速度はおそろ しいほ どだった」 。

18

1 8糾 年 、アロイジアは 『埋木』 を執筆 しま した。

19

当時の批評は賛辞 を連ねていますO

た とえば、この時代では最 も知名度が高 く、名声を伴い、ツルグーネフやハイゼ、

シ ュ トル ム、フォンタ‑ネ とも親 しかった批評家のルー トヴィッヒ ・ピッチュは、

『埋木』 について以下のよ うに述べています。

「 すぼ らしい筆力 と技量を持って、 心を揺 さぶ る天才の悲劇 の物語が書かれている。

無駄 な言葉 は一語た りともな く、叙述は全体 として簡潔であ りなが ら、すべてが書 き込まれている。登場人物の性格 と、 その結果である彼 らの運命 の転変のみな らず、

出来事の起 こる舞台になる場所、一つ一つの都市、街路、室 内の雰囲気、一つ一つ の季節、一 日・ の うちの時刻、天候のもた らす気分にいたるまでが。 この芸術作品は 繰 り返 し読 まれ るだろ うが、感動は変わらず、著者 の才能、芸術家 としての英知、

筋 の展開の妙 、仕上げの完壁 さに対す る敬意は読む ごとに増 し加わるのである

」 。 20

l S8 4 年 にバ ウル ・ハイゼ編集 の 『新 ドイツ短編傑作集』に作品が収録 されて、シ ュー ビンが筆名であること、この名で書いてい るのは実は女性であることが知れわ た ります。文学の神殿 に女性が鎮座 している。 当然、彼女を巡 る批評家の論争が激 しくな ります。一方 で、雑誌 『女性 の生き方』では彼女の作品の文学的価値 を次の よ うに証明 しようとす る批評家がいます。

「 他 日、1 9 世紀後半の人間 と事物の性質について知 りたい と思 う人は、オシップ・

シュー ビンの少なか らぬ数の長編小説か ら最良の知識 を得 るであろ う。 ここに描か れ る典型的な人物は驚 くばか り忠実に社会を写 し取 ってお り、完全な空虚 さと因習 的な うわべの装いが人間の姿をとって現れてい るのである」 。

21

他方には 「 す らす らと巧みに描かれてはいる 」 が、所詮 「 才能はあれ ども、女性 のいいかげんな手仕事 」

22

とみなす批評家がいます。 このよ うな過大評価 と過小評 価 の間で、純文学 と言われた り通俗文学 と言われた りしなが ら、シュー ビンは女性

として 自分 を守ってゆかな くてはな りません。

両親の家が財政的に破綻 したために、アロイジアは早 くか ら、 自分の才能 と知識

に頼 って芸術で身 を立てねばな らな くな ります。著述家 として、通常の若い女性 の

生活様式か らは遠 く、 自立 して、できるかぎ り貴族的な雰囲気で暮 らしますOつま

(5)

3 円 到 り国際的に、 ヨー ロッパ のあちこちの大都会に住み、共通語であるフランス語 を操 り

23

、社交的に振舞 うのです。疲れた ときの避難所 として、ボ‑ ミアの古城 を次々 に借 り替 えます。

ア ロイ ジア とマ リー ー ( アロイジアの衛星の よ うな存在です)は解放 された女性 と して夫 を持たず 、ヨー ロッパ 中を旅 して回 りま したOローマではべ ッテ ィーナ・フォ ン・ アルニムの娘 と知 り合いにな り、後にベル リンの社交界に紹介 して もらいます。

パ リではイ ワン ・ツルグーネ フ、ジ ョル ジュ ・サ ン ドらと付 き合います01 920 年 の ハイ ン リヒ・ マ ン宛 はがきが証明す るように、 彼女はつねに当代の文学界 の巨人 と個 人的なっなが りをもっていま した。

ず っ と年下のい とこ‑ ツダはプラハの有名 な ドイツ文学者 ア ウグス ト・ザ ウア‑

と結婚 していま した。二人は リルケ と親 しく、いろいろと援助 していま した。 この

‑ ツダが回想録 の中で、女性 にあ りがちなことだが、ア ロイジアの才能は、「 書 くこ とよ り話す ことに秀でていたか もしれない」 と書いています。

24

シュー ビンの輝か しい栄光が短命 に終わった ことの原因は、まず第‑に、彼女が 好んで描いた ( 貴族 の)世界が衰 えてゆ く階級 に属 していた こと、彼女の文学の時 代描写 に、た とえば流行 り始 めていた 自然主義 のよ うな社会的な視点が欠けていた こと、あるいはまた、彼女の悲劇的 リア リズムでは通俗文学のよ うに豪華な生活、

大仰 な言動、す ぼ らしい運命の逆転などの夢 を大衆読者 に与 えることができなかっ た し,彼女はそ うした くもなかったことに求め られ るで しょう。

フ リーデルは、要す るに、シュー ビンは読者 の ノス タル ジ ックな憧れ を矢継 ぎ早 に満たす ことはできたが、文学革新‑の要求を見損ねたのだ と書いています。「 慣習 に詳 しい ことはオ リジナ リテ ィとい う規準に反す る。 ところが これ が、文学のマー ケ ッ トで規準 としてまか り通 り、文学史はその もの さしによって 『歴史的名作』 を 選ぶのである

」 0 25

1 930年 にア ロイジアは‑ ツダにこう書き送 ります。 「 あのオシ ップ ・シュー ビン は どこに消 えて しまったので しょう。オース トリア大公夫人や ロシアの大貴族の奥 方達をは じめ、誰 もが知 り合いにな りたが り、路上で後 を追った ものですのに。‑・

かつての多 くの人々 と同 じよ うに私 もまさに運命 に よって上流階級 か ら屋根裏部屋

‑追われたのですO・・・ 昨今たいそ う好まれているジャズ風大衆文学には私の居場所 はあ りません」 。

ア ロイ ジア・ キル シュナ‑は 1 932 年 2 月 1 0日に 7 9歳でボ‑ ミアの コサ トキ城 で

亡 くな り、

26

プ ラハ のマル ヴチッインキ墓地にある一家の墓の、両親 と、三年前に

亡 くなっていたマ リーのかたわ らに埋葬 され ます。長年書き続 けた数々の作品はか

ろ うじて消えず に残 ります。

(6)

( 1 6 )

ツルグーネフ

オシップ・ シュー ビンがアロイジア・ キルシュナ‑ とい う女性の筆名であることを、

森鴎外は 『 埋木』 を翻訳す る際に十分承知 していま した。先に述べま した 『新 ドイ ツ短編小説傑作集』 に収録 された原作には、編集者であるバ ウル ・ハイゼによる丁 寧 な序文がっいていま した0

27

バ ウル ・ ハイゼは後にノーベル文学賞を受 賞 しますが、

彼 の他の短編小説傑作集 を鴎外は ドイツ留学中、ごく短期間に 「 む さぼ り読み 」 ま したOまた鴎外の 「ドイツ三部作 」 が‑イゼの 「 短編小説論 」 に基づいて書かれた ことはよく知 られています。

28

ハイゼはその序文に、 これ も先に申しま した批評家 ユー リウス ・ローデ ンベルクの 1 88 3 年の熱烈な書評を引用 しています.ローデ ンベ ル クもその他大勢 も、 文学の天空に現れたオシップ・ シュー ビンとい う新 しい星を、

すでにそれほど若 くはない男性であると想像 しています。「 その成熟 した判断力、広 い知識 と教養、人間認識の深 さ、軽やかな筆使 いか ら、筆者は、世の中をよく見、

観察 してきた、世慣れた完成 された男性である と考え られ る」 。

ハイゼはこれ にす ぐ続 けて読者に知 らせます。「 やがてわかったことだが、このス ラブ風の名を名乗 るのはまだ若い ドイツ人女性 であ り、貴族の仮面をかぶっている が市民であ り、虚栄 を風刺す る喜劇の共演者 を装っていたが、実は、世 間的な成功 以上のものを求めて真剣 に努力す る、生まれついての芸術家なのだった」 。この筆名 については、著者の手紙が引用 されていますが、それ によればシュー ビンとい う名 は、ツルグーネフの 『‑ レナ』か ら借用 した とのことです。それに合わせたオシッ プ とい う男性の名のほ うは、彼女の作品を最初 に刊行 した出版者の希望で選んだの で、この出版者は仕事柄、男性の名 をつけるほ うが本はよく売れ ることを知ってい たのです。

『‑ レナ』正 しくは 『‑ レネ』ですが、これは、イ ワン ・ S . ツルグーネ フの 1 8 60 年 の長編小説 『その前夜 』

29

の、匿名の訳書 ( 1 871 )の書名ですO この恋愛小説で は彫刻家のパー ウェル ・ヤコグレヴィッチ ・シュー ビン

30

が、この時代 のロシア知 識階層の芸術家気質を代表す る人物です。作品の思想的なクライマ ックスをなすの は、シュー ビンの懐疑的な問いです。「 僕 らの時代はいっ来 るのだ ? いっ、この国 に真の男が生まれるのだろ う ?」

読書好 きのアロイジアですが、ツル グーネフを本を通 して知っていただけではあ りません. ツルグーネ フは 1 8 55 年か ら 1 88 3 年 に亡 くなるまで ドイツ とフランスに 住み、彼女が文筆家の経歴 を始めたころの親 しい知人の一人で した。ハイゼは彼 を

「この若い作家の大先生 と名づ けま した。「 スラブ的憂愁 とい う基本的情調か ら離

れ ることのない彼に比べて、オシ ップ・ シュー ビンは陽気な活力、大胆 な風刺好み と

い う点で立ちまさっている。彼女のこの傾向は時に‑・ 羽 目をはず し、話 の筋が脈絡

(7)

化成 を失い、緊密 さを欠 くエ ピソー ドの羅列になって しま うO‑方、彼女 とこの ロシア の大文学者 との共通点は、 自然にたいす る深い感情であるO この感情は、明確な色 彩 と輪郭を持たないあいまいな気分で うっとりす るのではなく、生き とし生けるも のをわが身のように感 じとる繊細な感覚を備 え、世界の絶えず転調す る音楽 を書き 表す正 しい音調をつねに見出すのである」 。反対 に彼女が彼 とともにしないのは、世 間一般 のペ シミズムである、と言われ ます。ペシミズムに、「自国民の置かれている 状況を見る と、ツルグーネフは陥 らずにい られなかった」 。

このように鴎外 もシュー ビンもツルグーネフに対 して強い芸術的親和性 を持 って いますが、それに加 えて彼女は、身近に接 し、意見 を交わす とい う幸運 にも恵まれ ま した。

文学者の安 田保雄は、著書 「 『舞姫』の比較文学的一考察 一鴎外 とツルゲニエフ

」 にて、鴎外がツルグーネフを愛読 していたこと、また 『舞姫』 とツルグーネフ の 『春波 』 に共通点が見 られると分析 しま した。また、中井義幸は 『鴎外』1 7にて、

ツル グーネ フの 『幻影』 と鴎外の 『舞姫』に登場す るヒロインの名前が、ほぼ同 じ El l i s /El i s ( エ リス)であることを指摘 しています。

鴎外がベル リンのカフェ 「 クレブス 」 で、ツルゲ‑ネフを朗読できるウェイ トレ スに出会った時の感激ぶ りを思い出 してみま しょう

森鴎外が l S 90 年に 『埋木』の第‑章を翻訳す る直前 と直後にツルゲ‑ネフの二つの 作品を、1 月 に 『馬鹿な男』、6 月に 『羅馬 』 ( ローマ)を訳 しているのは偶然で しょ うか。 ツルゲ‑ネフ ・シュー ビン ・鴎外 とい う三人組の内的関連は、今後の学際的 研究の興味深いテーマではないで しょうかO

ハイゼによるシュー ビン評価の結論に、森鴎外は 自分の才能 と出身を考え合わせ て、特に感銘 を受けたことで しょう。「この作家は、偶然の生まれや教育を超 えた と ころに人間の気品を求める、真に『高貴な』本性の持ち主である、と我々は感 じるJ o

シュニ ッツラー 芸術家のアイデンティティ

森鴎外が優れた翻訳 を残 した、そ して今 日では非常に有名な、もう一人の小説家 に とって、 Ge s c h i c h t ee i n c sGe n i e s ( 『埋木 』 ) の出版は大きなショックで した.それ は、鴎外 と同 じ年の生まれで、同じく医師でも著述家でもあったアル トウール ・ シュ ニ ッツラーです。

1 88 3 年 1 1 月末の 日記に、シュニ ッツラーは、 自分の小説のアイデ ィアについて

妙なことが起 こった、と書いています。r ある若い ピアノ教師が名 を伏せて 自作の交

響 曲を宮廷オーケス トラに送る。無名 の 『下層の人』である彼が聴衆席 に坐 ってい

ると、その作品が演奏 され 『大成功』 を収める。す ると突然、一人の男がステージ

のエプ ロンに現れ、聴衆か ら嵐のよ うな歓呼を浴び、天才 と讃 えられ るO数週間経

(8)

( 1 &

っ うちに、名誉を盗み取 られた男は、これは 『ひ どす ぎる』 と感 じ、自分が作曲者 であると名乗 り出るが、その結果は ‑ 人々は笑 う、腹 を立てる、彼 を精神病院に 入れ る ‑ 彼は誇大妄想 の病人である」 .その後 にシュニ ッツラーは こう続けますO

「 そ こに、フ リーベルガーが 『ドイチェ ・ル ン トシャウ』 に載っている新 しい小説

‑ Ge s c h i c h t ee i n e sGe n i e s ( 埋木) シュー ビン作 ‑ の題材を話 して聞かせ る。そ れが私の話 と寸分の違いもないのだ」 0

31

つ ま りシュニ ッツラー が欺かれた創作者 とい う類似 の題材 を構想 していたのに、

「 歴史の皮 肉」と言いま しょうか、シュー ビンが一足先に自作を発表 して喝采を浴 びて しまった とい うわけです。文学的デ ビュー となった 1 87 2 年の短編 『誤解 され間 違われ』で もシュー ビンは不運な音楽家を主人公 に選んでいます。 けれ ども、シュ ー ビンがいなかった としても、この時代、芸術家のアイデ ンティテ ィと芸術の信頼 性 とい う問題 を深 く考 えていたのはシュニ ッツラー一人ではな く、実は しば しば取 り上げ られ る主題で した. 1 875 年にはマ リー ・フォ ン ・エーブナ‑‑エ ツシェンバ ハが 『遅れ て生まれた男 』( Ei nS p a e t g e b o r e n e r ) で、著述を試みている不運な財務局 の役人の話 を書きま した。 この男は、ようや く戯 曲が採用 された とい うのに、作者 は上院議員であろ うとい う世間の誤った推測のために、 さん ざん非難 されます。彼 女はまだ この物語で 「 芸術における 『理想主義』の衰退を嘆 くのだが、シュニ ッツ ラーになる と、同 じ寓話 を使 って も、文学を愛す る医学生 とい う自分 自身のアイデ ンテ ィテ ィの問題がテーマになる。彼の本当の 『天職』は、この時代には当然、家 族か ら誤解 され、誇大妄想 とみな され るしかなかった」 0

32

この間題 は当時の森 鴎外にとって もまた、あま りに も身近であったに違いないの です。文学者 と軍医 とい う二重生活の中で、芸術 に傾 く心に家族か らの支えはあ り ませんO百を数 えるほ どの筆名 とい う仮面に顔 を隠す とい う鴎外 自身の行為が、作 家 としての彼のアイデ ンティティをあいまいなままに しま した。 さらに、後に既成 文学が彼 を拒否 したことも思い出 して くだ さい。みずか らの見間違いようのない芸 術家 としてのアイデ ンテ ィテ ィをその時代の流派や潮流を超 えた ところに求め、そ のことによってディ レッタン トとして冷笑 を受 けま した。今 日にいたるまで、森鴎 外は 「 純粋な文学者たち と同 じ土俵で比較 されています。 この人々にはない、膨 大な量の翻訳 も職業上の活動 も、負担 としても、逆 に創造的に作用 した潜在力 とし て も、考量 されませんD通常の枠組みを超 える、完全 に独 自な、取 り違 えられ よ う のない芸術的独創性 の擁護 と社会的受容は、大きなテーマの一つになると思われ ま す。鴎外の 『埋木』の翻訳をそこに加 えて欲 しい ものです。

二つの文化 に囲まれた生活

1 9 世紀末、アロイジアの故郷プラハは、チェコ語 、オース トリア ドイツ語、 ドイ

(9)

( 1 9 ) ツ語、イーディッシュ語が共存す るたぐい稀な文化の中心で した。行政は ドイツ式 に行なわれました。 もともとプラハに住んでいたチェコ人、 ドイツ人、ユダヤ人の うち、第二次世界大戦後はチェコ人だけが残 りま した。かつて、 ドイツ人は上流か 中流階層 、または貴族で した。貧 しい ドイツ人 とい うものは殆 ど存在 しませんで し たD 1 8 9 2 年になってよ うや く、プラハの道路標識 がすべてニケ国語にな りました.

それまでは ドイツ語だけで した。アロイジアの大叔父 さん、チェコの国民的英雄で あるスメタナが ドイツ語を話 し、 日記 ( 未刊行です)を 1861 年 まで ドイツ語で 書いていた、 と想像できる人が今いるで しょうか。

工業化 が進むに伴い、チェコ人が地方か らプラ‑に どん どん流入 し、 1 8 7 0 年 ころ にはすでに数の上ではチェコ人が多数派になっていました。やがて起こる民族紛争 の中でア ロイジアの一家はスラブ系の住民 と特 に親 しい関係 を保 ちます。

シュー ビンはこ う書いています。 「 私たちには矛盾 した ところがあった

‑・ドイツ 語で育 ち、だがチェコ人の主張に大いに共鳴する。 しか しあのころの状況はそ うだ った。 ス ラブ人のように物事 を感 じなが ら ドイツ語 を話 していた

」 。 33

精神的に中間の国に住むこと、一つの胸に二つの文化の魂をもっ こと、森鴎外 自 身あま りにもよく知 っている心のあ りさまですO遅 くともハイゼの序文を読んだ時 か ら、アロイジアがプラハの人で、彼 と同 じく、世間に立ち並 じり、二つの文化、

二つの言語の間に生きた女性であることを鴎外は知 っています。 自分 と同 じく、出 身を背負 って生きな くてはならない、たやす く一定の党派に属す ことができない、

そ して この緊張関係か ら創造力の大部分を引き出 した人物。

この 1 0 年間に ドイツ語で書 く 3 人の作家がノーベル文学賞を受けました。 3 人 と も、シュー ビン同様、複数の文化の 「 中間 」 に育ちました。ギュンタ一・ グラスは現 在のポー ラン ド北部、グダニスク出身、エルフ リーデ ・イェ リネクはオース トリア 育ち、‑ル タ・ミュラーはルーマニアから ドイツのシュヴァ‑ベンに移住 しま した。

幾つかの論文が、あるユダヤ百科事典に基づいて、

34

オシップ・ シュー ビンの祖先 はユダヤ人 と推測 されると述べていますが、まちがいです。知的な女性であるか ら にはユダヤ人に違いない、 とい う、いかにも ドイツ的な早 とち りです。 これには、

また後で述べますが、優れたユダヤ人の女性たちが文学サロンの女主人を勤めてい た とい う事情 も関係 しています。ユダヤ女性が特別な適応能力を要求 された結果、

特別な知的能力が発達 した とい うこともあ りますO

シュー ビンが事実ユダヤ人であった と言えるよ うな証拠 も暗示 も何一つあ りませ ん。‑ル メネギルディス・ ホルツグルーバーは生前のシュー ビンと文通をしていまし たが、 1 9 3 4 年の学位論文に

35

アロイジアの親戚の女性の言葉 を引用 しています。こ の女性は、 先祖 に貴族の血が入 っているかもしれない と期待 して家系を調べますが、

「 紋章はな し、だが少な くとも十字架 」 にた どり着 きます。つま りルーツはユダヤ

(10)

人ではな くキ リス ト教徒だった とい うわけです。

トーマス ・キルシュナ‑は私にこ う・ 言ってきま した。「 人種を分類 したがる人がい るのは、シュー ビンの生涯( l S 5 4‑ 1 9 34) が、象徴的なことに、ちょうど、中央 ヨー ロ ッパのユダヤ人が 自由に生活できた期間、つま り 1 8 48 年のゲッ トー廃止 と 1 935 年 のニュルンベル ク法の間に当たるか らか もしれ ません。 中世 と工業による抹殺 との 間の一生です。 これ もまた象徴的なことですが、プラ‑の ドイツ人著述家はユダヤ 系だろ うと( ユダヤ人か らさえ) 疑われていま した。 ドイツ民族のグループに所属す ることを明確にしていないと、とりわけそ うで した。シュー ビンは 1 9 世紀末の民族 紛争が激 しかったボ‑ ミアで、実際、まれな世界市民の実例で した。両方 とも彼女 に とって故郷なのです

一家の暮 らし向きが非常に苦 しかった時期、数多かった友 人の中で、残 っていたのはあるユダヤ人の家族だけだったことを、彼女ははっき り 記憶 しています」 。

36

オシップ・ シュー ビンの作品にも回想 にも、 先祖がユダヤ人であることを暗示する ような言葉は一つもあ りませんO同化ユダヤ人だ としても、そのことは どこかに現 れ るで しょう。長編′ J 、 説に登場す るユダヤ人は彼女の社会批判の対象か ら除外 され ません。「 彼女が攻撃す るのは、一方では、無意味な 自尊心を持ちなが ら財政は破綻 し、まさにそれゆえに社会的特権に しがみつく、偏狭な老貴族であ り、他方では、

名前によってユダヤ人であることが明示 される工場主や銀行家の、貴族の身分を買 い取 り、貴族に受け入れ られ、それ とともに貴族 を社会の尺度 として承認 しよ うと す る欲求である」 。

37

シュー ビンがプラハのユダヤ人街 を舞台に した唯一の作品は 1 88 9 年に発表 した 『ニ ワ トコの花』で、主人公は 『舞姫』のエ リス と同 じく、ユ ダ ヤ人にはまれなブロン ドと青い瞳の持ち主です。

ルーツがユダヤにな くとも、異なる複数の文化の中に同時に生きたことは、シュー ビンと鴎外のもう一つの共通点です。

マ リー とアロイジアがベル リンで催 した文学サ ロン

キルシュナ‑姉妹がユダヤ人であった とい う、早 とち りない し嫌疑のもとは、女 性 としての芸術上の成果 と並んで、二人の文学サ ロンにもあ りますO 自宅で文学 と 音楽の夕べを催 し、生き生きした精神的、文化的交歓 を楽 しむ伝統は、ベル リンで は、サ ロンの華やかな女主人であった二人のユダヤ人、‑ ンリエ ッチ ・‑ルツとラ

‑ル ・フアルンハーグンの名 と切 り離せません。 もっとも二人の全盛期は森鴎外 と

ア ロイジアよりずっと前で、ゲーテを客に迎えた くらいです。サ ロンとは、文化が

影響力を行使す る、女性特有の形態で、今 日まで大切に護 られています。1 8 8 0 年代

(11)

位1 ) にベル リンの人 口が急激に増加す るに伴い、この よ うなサ ロンもにわかに殖 えま し た。身分のある女性 で、体面を気にかけ、住居 に必要な空間があ りさえすれ ば、こ の よ うな夕べを催す よ うになったのですO とはいえ、そのすべてが芸術の深 い知識 を前提 としたのではな く、む しろ多 くは単に社交上の格付 けや交際の問題で した。

ペ トラ ・ヴイル‑ル ミニ ドリンガ‑の刊行 された学位論文は、1 86 0年か ら 1 8 90 年 までのベル リンのサ ロンの歴史を論 じて、「 26の 『本物の』最 も重要なサ ロン」の 存在 を証明 しています。「 マ リー とアロイジアのキル シュナ‑姉妹 ( 後者 は筆名 の『オ シ ップ ・シュー ビン』のほ うがよく知 られている)」 もその数に入 っています0

38

この論文の 357 ページにこう書かれています。 「 キルシュナ‑姉妹の 『木曜 日』 は、

小規模だが長 く続 き興味深いサ ロンの一つである。姉妹は 1 8 8 6 年に 34 歳 と32 歳で ベル リンに来て、そのサ ロンでは音楽、文学、造形美術が大切にされた」 。

さらに画家のアン トン ・フォン ・ヴェルナ‑の言葉 が引用 されています。「 二人はあ の ころか らベル リンを第二の故郷 に選んでいた。夏の間はボ‑ ミアの故郷で過 ごす のだが、冬になると、ベル リンの社交界は、才能豊かな姉妹 とシュテ グ リツ アー ・ シュ トラ‑セのア トリエで催 され る木曜 日のお茶の会 と、そこで味わ う選 り抜 きの 音楽の楽 しみを楽 しみに待つ ことになるだろ う」 。

ベル リンの住所録を調べてみ ます と、 1 8 94 年か らマ リア とアロイ ジアが記載 され ていますOそれ もた しかにシュテ グ リツァー ・シュ トラ‑セ 21 です0

39

二人がボ‑

ミアに戻 るのは、第一次世界大戦が始まった 1 91 4 年です01 88 7 年か らすで にその サ ロンを回想す る人がいるとい うことは、姉妹 が夏 をボ‑ ミアの故郷 、いわば本宅 で過 ごしたことと関連す るで しょう。だいたい上流社会は夏にはベル リンを離れ、

1 0月か らの社交 シーズンになって初めて首都 に戻 りま した。上流階級 は旅先 で 2 , 3ケ月同 じホテルの部屋 を借 りるのが普通で した。長期滞在客 と登録 した住民 との 中間のよ うなものです。シュー ビンは晩年、た とえば夏はボ‑ ミアのコサテ クに小 さな城 を借 り、冬はプラハのホテル ・プラウア ・シュテル ンで暮 らしま した。 亡 く なったのもこのホテルです。

ともあれ森鴎外 とア ロイジアは同 じ時期にベル リンに到着 しました。二人が出会 ったか どうかは現在 の資料では確認できません し、それは今回の調査研究の 目的で もあ りません。む しろ、鴎外 とアロイジアの間に、従来の鴎外研究が認 めている以 上の共通点があ りうることを明 らかに したいのです。ベル リンは、シュー ビンの作 品に物語の舞台 としては登場 しませんが、1 88 7年 と 8 8 年に二人 ともの主要な滞在 地で も創作の場でもあったのです

アロイジアは 1 88 0年代の初めにベル リン日刊新聞でベル リンにデ ビュー してい

ま した。森鴎外がベル リンに来た時には、彼女はすでにベス トセラー作家で、彼 は

留学時代のみな らず帰国後 も彼女の作品を読み続 けま した。森鴎外が遺 した蔵 書の

(12)

C 2 )

中に赤 い装丁の小型本 「 エンゲルホルン小説叢書 」 が 2 冊あ りますが、そこにオシ ップ・ シュー ビンの作品 『マルスカ』 ( 1 902年) と 『 満月の魔法 ( Vol l mond za u be r ) 』

( 1 8 55 年)が収録 されています。

40

森鴎外が、ア ロイジアが 自分 と同 じ町に住んでいる と知 らず、彼女のサ ロンを訪 ねたこ とがなかった としても、彼女がベル リンで当代人気随一の女性作家の一人に の し上が ってゆ く様子はまざまざと感 じ取るこ とができたで しょうか ら、その作品 に興味 をそそ られたはずです。鴎外のシュー ビン翻訳の背後には、偶然手に とった 本で翻訳 の手馴 らしをす るとい う以上の意味があ ります。ベル リーナ‑ の 目か ら見 れば、鴎外が これ ほ ど文学に興味を持 っていたにも関わ らず、『独逸 日記』の記述に よるとほぼ 日本人 としか交流がな く、現地の文学サ ロンにも全 く出入 りす ることが なかったのは、非常に奇妙に思 えます。

再度、作 品 と翻訳について

森鴎外はなぜ 『埋木』を翻訳 したのか。オシップ・ シュー ビンな らこう答 えるかも しれません0

41

それは 「 天が、大地に解かせ よ うと、 ときどき送 ってくる謎の一つ である。 だが大地はたびたび、その課題 を難 しす ぎると感 じ、謎 を解かないまま胎 内に埋 めて しま う

」 。 42

訳稿 には、

43

鴎外に よる、言 うに足るほどの注や下線の書き込みはあ りません0 そのほかにも鴎外は 自分の作品や翻訳について発言 したことはあ りませ ん。鴎外全 集 には誤植 が‑箇所示 されているだけです。

44

鴎外研究は この 「 冗長な」、長た らしい作品を扱 いかね、鴎外が うっか り間違 えて手 がけた仕事 とみ な しています。著者が後 に重要 な作家 として名 をあげ られ ることが な くな り、 この小説が 日本語の書物 として出版 されていないので、なお さらです。

リチャー ド・ボ ウリングはこの小説をこ う要約 しています。 「 オシップ・ シュー ビン の基畳 な " Di eGe s c hi c ht ee i n e sGe ni e s " は、自分が天才作曲家であると確信す る、あ る音楽家の成功 と惨 めな失敗を描 く‑ ・ 」 。

シュー ビンの この寓話について、私の読み方は違います。ゲ‑ザ ・フォン ・ツイ レンは音楽に並外れた天賦の才を持 っています。裕福で有名だが、才能 を使い果た して しまった芸術家のアルフオンス ・ド・ステルニが彼 をひいきにします。 この若 い天才を利用 して、あらゆる流行 を追いかけるだけのデ ィレッタン トに過 ぎない上 流社会で、 自分の弱点を隠すつ も りです。生活費を稼 ぐ必要 と絶 え間ない創作上の

こつき しん

危機 に加 えて、 ようや く作曲を始 めたのに、忍耐 と克己心が足 りないので、若い音

(13)

、 a) 楽家は真に偉大な作品を完成することができずにいま したが、ついに 「 地獄 」 を書 き上げます。彼は、アメ リカでの演奏旅行か ら戻った時、親切な友人だ と思ってい たパ トロンが、彼 の最愛の許婚に暴行を加 え、彼の作品を盗んだことを知 らされ ま す。許婚は起 こったことを恥 じて 自殺 し、彼は正気を失います。パ トロンの方は、

「 サ タン と題 を変 えた、盗んだ作品で喝采を受け、カムバ ックを果た しますO バ ウル ・ ハイゼは 『新 ドイツ短編小説傑作集』にこの作品を収める許可をシュー ビン に求め、こう述べています。彼が思 うに、「 全体の悲劇的な気分がきわめて力強 く純 粋 に、結未まで高まってゆきますか ら、今後のお仕事が どのよ うな形を とりま しょ

うとも、あなたの芸術家 としての本質が別の作品の どれかにこれ以上明確に現れ る ことはあ りますまい

」。45

下層の生まれ、物質的窮迫、自分の能力‑の迷い、地位が上の人に好 きなように され ること、他人の 目的に利用 され ること、友だ と思っていた人物の裏切 り、創作 活動の危機 、 うわべだけで信用できないもの、名声の代価、これ らすべてがシュー ビンの作品にみ ごとに表現 されています。そ して鴎外が作った、 .もう一つの世界に これ らすべてがふたたび明 らかに聞き取れます。た とえば到底乗 り越 えることので きない運命の打撃が心の トラウマになる、これはグーザ とエ リスに共通のことです。

私はこの ドイツ語の物語を決 して冗長 とは思いませ ん。細い金属線で作った繊細 な レース模様の装飾品のように、多彩に枝分かれ しつつ、 さまざまな人生がた くみ に織 り込まれているからですOシュー ビンは、個人が所有物を放棄す る、共同生活 の新 しい形態を求めて挫折 したシモン派 と呼ばれる人々の実験に触れます。実験は ゲ‑ザの義理の父のために財政が破綻 して終わ ります。舞台はブ リュッセルか らパ リ、アメ リカまで広が り、華やかですが、またグーザが育った リュ ・ラ ヴァンステ ンの街並みが、 目に見え、匂いが漂 って くるよ うに精練に感覚的に描写 されます。

鴎外の 『舞姫』 と同 じように、下層の貧 しい生活 と上層の偽 りの華やぎがぶつか り 合いますOい くつ もの性質め違 う恋の話が語 られます。グーザの母は、サーカスの 芸人に夢中になってグーザを捨てます。アネ ッテの母は人気のあるエ ロティックな 美人歌手ですが、彼女の何人もの男 との情事は公然の秘密ですO他方、アネ ッテの グーザ‑の無垢で純潔な愛は、性的に控 えめな点で 『舞姫』に似 ます。

とりわけ読んで面 白いのは、滅びゆく貴族階級 の、内実のない社交儀礼です。彼 ら には、 自分たちの空虚を隠すために、スターやアイ ドルの存在 を必要 とします。パ

トロンの ド・ステルこのことはこう書かれています。

「 グーザが彼 を知 った時、彼は全体 として完全に退屈な、完全に利己的な、人並は

ずれた才能のある、非常に人のよい、非常に虚栄心の強い人間で、人か ら注 目され

るのが好 きだった。人々に祭 り上げ られた台座 の上で、銅像の地位 を守 り抜 くため

(14)

( 袖

に、いかさまをす るようになるのは後のことである。台座が高すぎたのだ。他の者 なら、そんな高みではめまいが したことだろ う 」 O 広告塔 としての芸術家 も当時すで にいました。「 いたるととろで彼の名 にぶつかった。ボンボンの最新商品、エナメル 靴、ハ ンカチ、すべてに ド・ステルニにちなんだ名がついていた」 。今 日この頃のこ とのよ うです。森鴎外の翻訳 は、時代が変わ り、とりわけ言葉が変わっているので、

いくぶん重々しく難解です。 ドイツ語のオ リジナルは今でも苦労なくす らす らと読 めますが、まさにその読みやす さと、 時代 を超 えたすぼ らしいユーモアが魅力です。

このユーモアでシュー ビンは教会の大仰な信心ぶ り、 身分を意識 しす ぎた振 る舞い、

その他人間の弱点のすべてを、あるいはやんわ りと、あるいは電光石火 の剣 を振 る って、痛烈に批判 しますO これは、シュー ビン作品の現代訳が出ればもっとよくわ かって もらえるか もしれませんO

た とえば、グーザは どのよ うに して有名な ヴァイオ リニス トになったので しょう か。「 彼は練習 し、散歩 した。非常にた くさん散歩 し、それからまた練習 した。本 当 に非常に感心 され、非常に妬まれた。シャンパ ングラスはか らに しておいて、 しつ こくしすぎると腹 を立てる女 と、 しつこくしないと腹を立てる女を区別す ることを 学んだ」 。

アネ ッテが ド・ステルニのために 「 愛の快楽 」 とい う歌を歌わ され るところはこ うです。「 貧 しい、緑色に塗った部屋いっぱいにすべての愛の歌の中でもっとも不滅 の歌が、柔 らか く悲 しく漂った。 ヨー ロッパ中の音楽学校の女生徒が全員で力をあ わせてもなお死滅す ることはない歌である」 。

ゲ‑ザがある前奏 曲の演奏を しくじった時、シュー ビンは簡潔な解説を加 えます。

「 拍手喝采 した者 もいた.ある者 は何 も気付かなかったからOまたある者はまるで 聞いていなかったか ら」 O

それ とはまた別 に、この物語の命は童墓です。つねに音楽が背景に聞 こえます。

グーザが練習す る時、舞台に上る時、自作の曲が他の作曲家の名で演奏 され るのを

我慢 して聞かねばな らない時。 この作品には多声のスコアのよ うなところがあ りま

す。冒頭 の部分がすでに、オーケス トラの構成や コンサー トの進行を含 めて、 ヨー

ロッパ音楽史‑の、適切な用語による入門のよ うに読めます。 これほどていねいな

案 内はめったにあるものではあ りませんO この 「 感覚的に作 られた音楽用語一覧 」

が、 日本の西洋音楽がまだよちよち歩きだった時代に、この作品を 日本 に紹介 した

い と鴎外に思わせた とい うこともあ りえます。彼はこの翻訳でいわば、音符 と楽器

の形で 日本に輸入 されて、生まれた土地の文化 とはまったく異なる社会習慣にぶつ

かっていた音楽のために、生きる環境を与えま した。森鴎外が 自分の体験か ら、ま

(15)

匪試 た文化の仲介者 としての 自覚か ら、遅ればせなが ら提供 しよ うと努 めた ものです。

46

リチャー ド・ボ ウリングは書いています。

「 ‑・ 初期の翻訳者 を悩 ませた、もっ とも厄介な問題 の一つは、翻訳 の 中で読んで わかるよ うに しなければな らない、大量の外 国語の単語だった。森鴎外 は もっ とも 意味の近い漢語で訳 して、ふ りがなで読みを付 けることも したが、む しろ原語 をそ のままカ タカナ書 き して、必要な箇所 には 日本語で説明をっけるほ うを好んだ。そ のため彼 は、翻訳だけでな く創 作で も、言葉 の 自由な使い方 でよく知 られ るこ とに なった。た とえば " Di eGe s c h i c h t ee i n e sGe n i e s " ( 『埋木』)には、『ス ピネ ッ ト 、 』『 ヴ ァイオ リン』、『ピア ノ』、『メロデ ィ』、『オペ ラ』、『オーケス トラ』、『オルガン』 な どの単語が、ほ とん ど説明な しに現れ る。『ア ・モ ン ・シェ‑ラミ』、『コム ・セ ・ツ イガン』、『ボー グル ・プテ ィ ・シャ』のよ うな語句 も同様 に処理 され て、テ クス ト に非常にはっき りと外国の風味を与 えるが、読者 に譲歩は しないので あ る」。

47

今 日の鴎外研究で作品の冗長 さが非難 され るとす るな ら、それはむ しろ、シュー ビンが従 わねばな らない とは思っていなかった規準で計 られ ることに よるものです。

読書の楽 しみは直線 的なス トー リーの進行 よ りも、 卓越 した言語表現 、正確 な描写、

場合によっては人物 のカ リカチュア、奇跡やハ ッピーエン ドに頼 らず 、幻想 で読者 にお もね らない、 リア リズムの視 点にあ ります。 シュー ビンは、未来 の傑作を書 こ うとも、社会の権力 関係 とそれ に対す る批判 を分析 しようと思いませ ん。彼女の得 意分野は、鴎外の作品に似 て、同時代の思潮 、生活形態、無分別 と夢 を正確 に見抜 き、描 き出す ことです。ユー リクス ・ローデ ンベル クが序文で、著者 を男性 と想定 して、書いているとお りです。 「 彼は批判 しない、説教 しない。ただ 肖像画を描 き、

‑つ一つの顔 にそれぞれの物語 を語 らせ るJoただ しローデ ンベル クは、彼女の言語 表現技術 の巧み さがマニエ リズムに堕 しかねないことを警告 してもい ます。

この作品の 日本での受容 に関 しては、ボ ウ リングは 『埋木』 を、今 日ず っ と広 く 知 られているアンデルセ ンの 『即興詩人』 の翻訳 と同列に置いています 。 「 『即興詩 人』 について、たぶん もっ とも驚 くべきことは、 日本 における人気で あ る。 この翻 訳 とオシ ップ・ シュー ビンの作である 『埋木』 は どち らも広 く読まれ、『於母影』 同 様 、文学界 グループの ロマ ン主義 の背景 を形成 したのである」 .4 8

女性的特徴 をもつ人物

もう一つ最後に指摘 したい ことがあ ります。 シュミッ ト‑ボルテ ンシュラーガ ‑

(16)

U)

は論文で、シュー ビンが流行の型 を採 りいれなが ら逆方 向に使 うことを指摘 してい ます。「・‑彼女が描 く、好感 をもてる男性の主人公 には、『女性的』 と言 ってよい特 徴が与 え られ るが、だか らといって同性愛やオスカー ・ワイル ド風のダンデ ィズム に近づ きは しない。‑ 多様 な女性的特徴が、好感 をもてるが悲劇 に終わ る人物の性 格付 けに利用 され る

」 。 49

太 田豊太郎像は、シュー ビンの 『埋木』 と鴎外の 『舞姫』のサブテ クス トにおけ る女性 的であることの意味 を将来、比較研究す るのにまさに好適ですO ある種の単 純、温和、首尾一貫性の欠如、その結果 として悲劇 の共同責任 を負 うこ とになる、

これが二人の主人公 の独特 な点であると思います。豊太郎 とグーザは と りわけ弱点 が似 ていますO ともに、首尾一貫性 を欠 くことによって、定めた 目標 を達成できな いのですO

「 女性 的特徴 をもつ人物 」 とい う視点で精密にテ クス ト分析 を行なえば、 さらに 新 しい認識が得 られ るのではないで しょうか。

以上、森鴎外 とオシ ップ ・シュー ビンとのい くつかの共通点を、『舞姫 』 1 20周年 に、その執筆 と並行 して翻訳 された 『埋木』、地 中に埋 もれた木、がも う一度発掘 さ れ るこ と、今 日では忘れ られた女性作家が、同時代 の森鴎外作品 と関連づけて、今

日の視点か ら、再評価 され ることを願い、お話 しま した。

【 ベアーテ ・ヴォンデ ベル リン森鴎外記念館】

201 0 年 3 月 1 6日 津市立三重短期大学にお ける講演原稿

講演原稿 の翻訳 を手がけて下 さった野村美紀子 さん、出版 の際に注釈 を訳 して下さ ったケラー佑子 さんに心か ら感謝の意を表明いた します。

l

それ以外にも鴎外は 2 人のス ウェーデン女性作家の作品を訳 した。1 908 年、Sel ma L AG ER L6 F ( 1 858 ‑1 9 40)がノーベル賞を受賞する前に発表 した作品 : De rP re di ge r ( 牧 節)( 第‑章 " G8s t aBe rli n" )そ して、1 91 3 年には Hel gaF ri d e bo rg ( 1 865 ‑1 9 45 初 期は男性風のペンネーム、Harol dGot e の名で執筆 していた):夜の二場 長島要一 :森 鴎外の翻訳文学 至文堂 東京 1 9 93 年 第三章 1 91 ページ)

2

森鴎外全集 岩波書店 東京 1 97 2 年 22 巻

原作 : Ossi pSc h ubi n:Gesc hi c ht epi ne sGe ni es.発行者 p. He ys e良Lud wi gLai st ne r:

Ne ue rDe ut s c he rNo vel l e ns c hat z l l 巻 ( 全 24 巻) ミュン‑ン Ve rl a gvo nR ud ol ph Ol de nbou rg 出版社 1 8 8 4 年

3

Bo wri ng ,Ri c ha rdJo h n: Mo rl '6 g al 'a Ddt he M o d e nu' z at l ' o DO fJa pa ne seC u lt u re ,

(17)

qn ca mbri dgeetal .:Ca mbri dgeUni ve rsi t yPress1 97 9 年を参照のこと。 ( U ni ve rsi t yof ca mbri dgeOri e nt alPubl i c ati o ns2 8). 海外の 日本学者にとって、この作品は鴎外研 究の基礎文献 として扱われています。

4

初出未詳D『月草』 に収められている. 「 埋木

は明治二十三年 ( 一八九 〇) 四月二十 五 日単行の雑誌 『柵草子』第七親か ら、明治二十五年四月二十五 日第三十一統まで断績 十同にわたって連載 されたo ( 岩波書店 鴎外全集 第 2 2 巻、 1 983 年、 5 89 ページ)

5

「 埋木 」 以前 に F. W.Hac kl A nde r, Z weiN包c ht e " ( ふた夜, 1 89 0 年 1‑2 月), Ⅰ . Turge ne v, D u ra k " ( Ba kanoot o ko , Ja m.1 8 90) , a.H. W.Kl ei st.DasErdbe be nY o n Chil i "( 地震, 1 890 年 3 月) , B・ H・ W・Kl ei st,Di eVe rl o bu n gi nSt ・Do mi n go ̀ ̀( A叫 i nne n,1 890 年 4‑ 6 月)

Da nach:Ⅰ .Turge ne v" P ri z raki ‑f a nt azi y a " ( Ra ma ( Kai s e r) ,J u ni 1 890) , A.St e rn

"Di eFl utdesLe be ns " ( U ki y on ona mi , 1 890 年 8‑1 1 月), F. W. Hac kl 畠nde r" Fu nft e r wi ndst o B " a us:Ges c hi c ht e nei ne rWet te rf a h ne ( 6j us h 6 ,1 8 91 年 3 月)

6

sc ha moni , Wol fga ng: ̀ ̀ U be rdi eF rei hei tde rUni ve rsit Bt ' ' ( 「 大学の自由を論ず」

について). 1 88 9 年に発表 された森鴎外のエ ッセイ ヴィスパーデン、 Har rass o wi t z Ve rl ag 出版社 11 巻 ( 2 007 年)

7

山崎 国紀 : 「 評伝 森鴎外 」 大修館書店 2007 年 東京 1 60 ページ

8

シュー ビンの小説 r 名誉」は、普段は第 4 版までであったが、 1 2 版 も再版 されたo シ ュー ビンの作品はロングセラーではなかったが、新刊が続々出版 され る連続小説で需要 があった。

9

Fli e dl , Ko nst a nz e:" Ve rka n ntundve rf e hl t ̀ ̀( 誤解 され間違われ)オシップ ・シュ ー ビンの作品について Phil ol o gi c apr age nsi a1 ( 1 990) 48‑55 ページ

1

0sc hmi d ‑Bo rte nsc hl age r , Si g ri d ( ザルツブルク大学): Di eU be rt r ag ha rkei tYon Ges c hl e c ht e rt y pol ogi e m. A mBei s pi elYonOssi pS ch ubi n. ( 性別類型は どこまで通 用す るかOオシップ ・シュー ビンの作品の場合) zag re be rge r ma ni sti sc heBei t rage:

Jahrbuc hfurLi te rat ur‑u ndS prac hwi s se ns c haft・ 'Fest s chri ftf u rVi kt o rZ me gac , Bei he ft5 ( 文学 ・語学年鑑 :ヴィク トア一 ・ツメガ ック記念刊行集 別冊 5 巻) ( 1 999 午) 93‑1 00 ページ

l

lI gge rs , Wil maAbel es:Wo ma nofPra g ue.Et h ni cDi ve rsit yandSo ci alChangef ro m t heEi g ht ee nt hCent uryt ot hePre se nt .Be rg ha hnBooks , P rovi de nceOxf ord 1 995 年 第 4 章 ossi pSch ubi n ( 1 8 5 4 ‑1 93 0)

12

Ki rsc hne r , Tho mas:Ei ns c hnellve rgl u ht e rSt e rna mLit e rat u rhi n mel .Z u m1 5 0.

Gebu rtstagde rPrage rdeut sc he nSc h ri ft stell e ri nOssi pSc hu bi n ( 1 854‑1 93 4) ( 文 学の空にす ぐ燃 え尽きた星 プラハの ドイツ人女流作家オシップ ・シュー ビン ( 1 85 4‑1 934) 生誕 1 50 年を記念 して) Se nd ungKul t ursal o na m 1 9.1 2. 200 4au fCze c h Radi o7 , Radi oPrague.Radi oP rag ue のホームペー ジを参照のこと

URL:

htt p: // ww.radi o.cz /de /arti kel /61 487

イ ンターネ ッ トの普及のおかげで、現在ではさまざまなサイ トにおいて、シュー ビン作 品を読む ことが出来ます。たとえば、 ht t p: //g ut e nbe rg.s pi egel .de においては、シ ュー ビンの 1 5 作品が読めます。

13

カール ・オ ッ トーは 1 91 2 年に死去 したが、彼が設立 した会社によりヨーグル トが誕生 し、彼のヨーロッパ文化‑の貢献は、姉妹の芸術活動 よ りも末永 く社会に影響を残 した。

14

I gge rs , 1 30

(18)

( 謝

15

これによってシュー ビンは 比a ri eY o nE b ne r ‑Es c he n bac h や The o d o rFo nt a ne 、Paul Hey seと同列に立 った。

16

sc hu bi n ,Ossi p:Di eGes c hi c ht edesErst li ngs we r ks .Me i nErstli ng ( 処女作につ いて) : Ni kl asZ.I n:De ut s c heDi c ht u ng1 5 ( 1 8 93 /9 4 年),1 2 ページ. 「 誤解 され 間違われ ( " Ve r ka nntu ndve rfe hl t" )」のタイ トルのもと出版 された。

1

7このときに味わった緊張感は、後に 「 埋木 」 の主人公 Ges aYo nZ uyl e n が、作曲をす るシー ンで描かれている。『 名誉 』 ( 1 883) 、『アスバインーあるバイオ リニス トの生涯 よ

り』 ( 1 8 8 8) 、『ボ リス ・レンスキー 』 ( 1 8 8 9)も音楽家についての作品です。

18

sc hubi n ,Os si p:Nei nRo man 戯 Te. ( 私の小説 F 名誉 』 ) I n:De ut s cheDi c ht u ng1 7 ( 1 8 9 4 ‑95) ,9 ペー ジ

19

sc hu bi n , Ossi p:Ge s c hi cht eei ne sGe ni e s. ( 埋木) I n:De ut s c heR u nds c ha u37( 1 88 3 ) , 28 2 ‑31 0 ページ;43 6 ‑ 46 0 ページ.初版発行年 1 8 8 4 年

20

L ud wi gPi etsc h:0.Sc hu bi n.I n:We st e r na nnsMo nats he ft e ,6 6 巻 ( 1 8 89 ) ,81 3 ページ.‑He r me ngi l di sHol z g ru be rより引用 :Os si pSc hu bi n ,°i ss .Wi e n1 93 4 年

ピッチュは 1 869 年か ら継続的に、鴎外 も読んでいた Vossi s c heZei t u ng 紙 に記事を書 いていま した。

21

雑誌 "Fra ue nl e be n" ( 女性 の生き方),1 89 7 年

22

Ro ma nwel tNr.2 46/ Cott aArc hi v;De ut s c he sLi t e rat u ra rc hi v/ Ma r bac h.Zit i e rtnac h Fli e dl ,4 9 ページ

23

鴎外はベル リンにてフランス語の勉強を始めた。

24

saue r ,He d da:" Be ge g nunge n血i tZei t ge n os s e ǹ ̀( 同世代 との出会い),非公開の 回想録 Arc hi vde rKa rl s ‑Uni ve rsi t 畠tPrag.

25

Fli edl ,5 4 ページ ・

26

シュー ビンと共通点が多 く、鴎外の書庫にも保管 されていた Fe do rY o nZo bel ti t之 の 命 日と一緒である0

27

Ne ue rDe uts c he rNo velle ns c hat zXI 巻,1 2 9 ‑1 3 2 ページ

28

v g l .S CHO cHE , Hei ke:Pe rs 6 nli c hkei tundF rQ h we r kde sj apa ni s c he n

sc h ri ftst ell e rsMo riOgai ( 1 86 2 ‑1 92 2)unt e rde nGe si c ht s pu nktdesEi nfl us se s sei nesDe ut s c hl a nd au fe nt hal t es1 8 8 4 ‑1 88 8a ufseュ nl i te ra ri s c he sSc haf fe n ( 森 鴎外のパー ソナ リティー と初期の作品。 ドイツ滞在 ( 1 88 4 ‑1 88 8)による影響 とい う観 点か ら)PH.D.t hesi s ,Humbol dt ‑ Uni ve rsi t 凱 z uBe rl i n1 9 87 , 2.γol s.Un pu bli s he d t y pes cri pt .i v ,1 31 ,55 ペ ー ジ

29

vgl ・Ki ndl e rsNe ue sLit e rat u rl e xi ko nBd.1 6 , Mn nc he n , Ki ndl e rVe rl agGmb H 1 9 9 6 ,837 / 38 ペー ジ

30

この人物、あるいは名前はロシア人彫刻家の Fe d otl wa no wi t s c hSc h ubi n( 1 7 40 ‑1 80 5 ) にちなんで名付け られたもので、ツルゲ‑ネフの作品より1 0 0 年ほど遡 る時代に、古典 的スタイルで名 を馳せていた。

31 1

8 83 年 1 1 月 2 8日の記録 より。I n:Art hu rSc l mi t zl e r:T ag e b uc h1 87 9 ‑1 8 92. ( ア ル トウール ・シュニ ッツラーの 日記 1 87 9 ‑1 89 2)H rs g.V.d.Ko mmi ssi onf ur l i t e ra ri s c heGe bra uc hs for me nd.6st e rr.Aka de mi ede rWi s s e nsc hafte n ,O b ma n n:

We rne rWel zi g.Wi e n1 987 ,Fli e dl より引用,48 ページ

32

Fli e d149 ペー ジ

33

I gge rs1 3 6 ページ

34

おそ らくWei ni nge r ,S の " Gro BeJndi s c heNat i o n aトBi o g ra p hi e"

(19)

( 謝

35

He r me ne gi l di sHol z grube r:Ossi pSc hu bi n ,°i ss . ウィーン 1 93 4 年

36

2 01 0 年 1 月 1 5日付、a. Wo nde 宛てのメール より

37

s c h mi d ‑Bo rt e ns chl age r ,9 9 ペー ジ

38

wi l hel my ‑ Dolli nge r , Pet ra:Di eBe rli ne rSal ons.川i tk ul t u r hi st o ri s c he n S pazi e rg 畠 nge n. ( ベル リンのサ ロン一文化歴史学的な散歩)wai t e rdeG ryt e r ,ベル

リン ・ニュー ヨー ク 2 000 年,269 ページ

3 9Be rl i ne rAd ress bnc he r1 87 5 ‑1 899 ( ベル リン住所録 1 87 5 ‑1 8 9 9)〉1 89 4〉St raBe n undHa use r〉S ,Ze nt ral ‑u ndLandes bi bli ot he kBe rli n ,オンライ ン検索

40

この小説叢書シ リーズの中には、 2 009 年に横浜で開かれた鴎外の展示 において も注 目 された、Cha rl esRe a de の小説の独訳版 「 Ei nei nf ac hHe rz」もある。鴎外は英語版 の

"si ngl e he a rta ndDo ubl eface"1 888 年 8 月 1 6日をコロンボにてエ リスに送 るよ う人に 託 した。

41 1

41 ページ参照

42

Ne ue rDe ut s c he rNo vell e ns c hat z ,XI 巻,1 40 ページ

43

鴎外文庫 「 東大総合図書館 」

44

埋木に就 きて

濁逸畢協含雑誌 に、埋木 ( 水沫集三 〇 八面)の詳文中妥ならぬ廃

あ りとて示 されたるは、Mei nHe rzE n ei nKl ei no d! といふゲザが言葉 を省 きたると、

デ リレオには育てぬれ どといふ 自他の相違 とな りき。初なるは、かはゆきもの よ杯 詳せ ば、詳 し難 きにもあ らね ど、省きた るを大なる過 ともなしがたかるべ Lo後 な るは翻詩文例 といふ書の誤植 な り。埋木 を始て公 にせ し柵草紙にはデ リレオには育 て られぬれ どとあ り。評者の細讃せ られたる労は、わが酎するところな り。

( 岩波書店 鴎外全集 第 22 巻、1 983 年、 31 6 ページ)

45

ハイゼがシュー ビンに宛てた手紙。 日付はな し

46

鴎外はグル ックの" Orp he usu ndE uri di ke" ( オルフェオとエ ウリディーチェ)の訳や ワ ー グナー考察に至るまで、 どちらか といえば音楽の才能に乏 しいもの と見 られていた。

しか し、この翻訳において彼 はオーケス トラを言葉巧みに換 り、人々が ヨー ロッパ音楽

‑の理解 を深めるために重要な貢献 を した。

47

Bo wri ng45 ページ

48

Bo wri ng48 ペー ジ

49

sc h mi d ‑Bo rt e ns c hl age r ,9 4/99 ページ

(20)

( 3 α 参考文 献一覧

FJ i edJ .Kons t anze:" Ver k ann tundver f ehl

r

.ZumWer kOssi pSchubi ns.I n:Phi ) ol ogi capr agensj a 1(1990) .S. 48 ‑ 55

ht t p: / / qer mani s t i k. unj vi e. ac. a t / per sonen Nl i edI ‑ k ons t anze / http://gutenberg. spiegel・ de

Heyse,P. & Lai s t ner ,Ludwi g( ed・ ) :NeuerDeu t scherNovel l enscha t z( i n24Bd. ) ・ Bd・ X・MOnchen , Ver l a9YonRudol phOl denbour 9・ 1884

Hol zgr uber ,Her mengJ ' I di s:Oss i pSchubi n,Di s s・ Wi en193 4

1 gger s, W i l maAbel es: WomanofPr ague,Et hni cDi ver sqrandSoc i alChangef r omt heEi gh t een t h Cent ur yt ot hePr esen t .Ber ghahnBook s,Pr ovi denceOxf or d,1995,Chapt er4:Oss i pSchubi n ( 1854‑ 1930)

Ki ndI er sNeuesut er a t ur J e xi konBd.1 6,MOnchen,Kj ndl erVer l agGmbH 1996,S.838

Ki r schner .Thomas:Ei nschnel l ver g伯h t erSt er nam L托er at ur hi mmeLZum 150.Gebuns t agder Pr agerdeut s chenSchr j f t s t el l er i nOss i pSchubi n( 1854‑ 1934)

SendungKu仙r sal onam 19. 1 2. 2004au fCzechRadi o7,Radi oPr ague.Si eheHomepageRadi o Pr ague.Ur I :h t t p: / /

w

w . r adi o・ c z / de / ar t i k eV 61 487

Ki r s chner ,Thomas:Schat t en.Pr ogr ammhef tderL托er ar i s ch ‑ mus i k al i schenAk ademi ezum 75.

Todes t agderPr agerdeut schenSchr i ns t el l er i nOs si pSchubi nam 1 0,Febr uar2009i nPr ag . M托 Os t e. V.Ver ei nf orSpr ach ‑undKuKur aus t auschi nMi t t eト,Os t ‑undSOdos t eur opa.

Mat y畠sov 畠 .El i ska:Os si pSchubj n・Un ver 6f F ent l i ch t esManuskr i ptderDi pl omar ber t .Masar yko va uni ver zi t a.Br no2009

鴎外全集,岩波書店 1972年

Mor i e) gai zensh O .l wanamiShot en,Tok y o1972

長 島要一 :森鴎外の翻訳 文学 ( 至文堂,東京 1993年、第 3章,191ペ ー ジ)

NAGASHI MA,Y6i chi:Modi) gainohony aku‑ bungak u,SH旧UNDO.Tok yo1993.Kap.3,S. † 91

′ J 、 滞次郎 :鴎外 とロシア ( 雑誌 ・国文学,畢燈社,東京 1998 年、45 巻 1号、62/ 63)

ozawa,Ji r 6:e) ga主 t oRoshi a.l n:Kokubungaku,Gaku t 6shaToki o1998,Januar ‑ Aus gabeBand 45 / 1 , S.62/ 63

P

i

e t sch,Ludwi g: W i ei c hSch州 s t eH erge wor denbi n‑ Derwunder l i cheRomanmei nesLebens.

Au他au‑ Ver t agBer 一 i n2000

Pi e t sch,Ludwi g:0.Schubi n・l n: Wes t er mannsMonat she冊e,Bd. 66( 1889) ,S.813 Schr r l i d‑ Bor t enschl ager .Si gnd( Uni ver s他tSal zbur g)

Di eUber t r agbar kei tvonGescNecht e〜 pol ogi en:am Bei spi el YonOssi pSchubi n.

l n:Zagr eberger mani s t i scheBej t r age:Jahr buchf urLi t er a t ur ‑undSpr achwi ss enscha 冊: Fes t schr i t f OrVj k t orZmegac,Bei he f t5( 1999) ,S・93 ‑ 100

Vondal ov 畠 .Eva:HeddaSauerundRai nerMar i aRi l ke・l n:B佃nnerBenr agezurGer mani s t i kund Nor di s t

j

kJg.18( 2004) .S.281 ‑ 286

W i L heL my‑ Dol l i nger lPe t r a:Di eBer l i nerSal ons・M托k ur t ur hi s t or i s chenSpa zi er g畠ngen・WaKerde

Gr y t er ,Ber l i nNewYor k .2000

(21)

 

     

 

 

                     

       

 

     

 

 

( 3 1 ) 山崎圃紀 :評伝森鴎外 ( 大修館書店,東 京、2007年)

Yamazaki ,Kuni nor i :HyadenMor i Ogaj .Tai shOk anShot en,Tok yo2007 安 田保雄 : 「 舞姫」の比較文学的一考察 ‑鴎外 とツルゲニエ フー

( 比較文学研究 「 森 鴎外 」 、長 谷川泉編 ,朝 日出版社,東 京 昭和 53年 ( 1978年) 169‑ 187ペー ジ)

Yasuda,Yasuao: " Mai hi me 一 一nohi kakubungaku t ekii k k asa t su‑Ogai t oTsur ugeni ef u.l n:Hi k aku bungakuk enykO" Mor i Ogai 一 ㌧Hr sg.〉onHasegawa,t zum i . As ahi ShuppanshaToki o,Showa53men ( 1978) .S.1 69 ‑ 187

Ei neSki z zevom LebenaufKosat ekI i ef er tOs si psCousi neHedda.di eGa t t i ndesPr ager Ger mani s t i k ‑ Or di nar i usAugus tSaueri n● ● Te

xt

eAkademi eH ,Tex t13.

Not atvom 28. ll. 1883.1 n: A J t hurSchni t zl er :Tagebuch1879‑ 1892.Hr s g. V.d.Kommi ss i onf or f i t er ar i scheGebr auchs f or mend.Os t er r .Ak ademi ederWi ssenschaf t en,Obmann: Wer nerV Vel zi g.

W i en1987

土谷直人 :鴎外 とロシア文学 ( 講座 ・森 鴎外 第三巻 「 鴎外の知的空 間」、平川 祐弘他編 、新曜社 、 東 京、1997年、104‑ 1 35ペー ジ)

Tsuchi ya.Nao t o:OgaJ ' t oRoshi a‑ Bungaku・J n: K6zaMomOgaiBand3: i) gainocMeki ‑ kQkan,Hr s g.

VonHi r ak awaSukehi r ou. a.Shi ny6sha.Tok yo1 997

SG: h二 ub

・in

‑Li恵O・ ‑ ・ ㍍&‑1 傘90

C・亨銀 ,言継 我i紺 さ・東郷 畔:I

O澄 5 ip ro

m

凍r i SCh £iぎ t ・ ‑ ・ 紙 eii愈rin‑ ・ i89 億

Shu b 丘r

3

‑野中もO‑1903

Os 悪 玉, P

哉抱

Seb. Z : C息bt. iSe. a‑五分¢5

参照

関連したドキュメント

きも活発になってきております。そういう意味では、このカーボン・プライシングとい

自然言語というのは、生得 な文法 があるということです。 生まれつき に、人 に わっている 力を って乳幼児が獲得できる言語だという え です。 語の それ自 も、 から

 筆記試験は与えられた課題に対して、時間 内に回答 しなければなりません。時間内に答 え を出すことは働 くことと 同様です。 だから分からな い問題は後回しでもいいので

大村 その場合に、なぜ成り立たなくなったのか ということ、つまりあの図式でいうと基本的には S1 という 場

現を教えても らい活用 したところ 、その子は すぐ動いた 。そういっ たことで非常 に役に立 っ た と い う 声 も いた だ い てい ま す 。 1 回の 派 遣 でも 十 分 だ っ た、 そ