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荻原 荻原 荻原 荻原 耕平 耕平 耕平 耕平
1
ライナー・マリア・リルケ(1875~1926)が、後半生を代表する作品となった『ド ゥイノの悲歌』を書き始めたのは、1912年1月である。第6の悲歌に新しい終結 部を書いて完成としたのは、10年後の1922年2月であった。
リルケは1910年に『マルテの手記』を完成させた頃から、新しい創作の必要を 感じ、また実際にそれを模索していた。『悲歌』が完成した1922年2月までのあい だが、その模索の期間にあたる。
彼は『ドゥイノの悲歌』を書き始めてからというもの、この創作を、自分の芸術 活動のうちでいちばん重要なものと考えていた。ところが、第1次世界大戦が1914 年の夏に始まった。リルケはパリの住居に戻れなくなり、また、ウィーンで兵役に ついたりもした。終戦を迎えたミュンヘンでは、戦後の右翼左翼が入り乱れた革命 的状況を体験している。
この期間、リルケは『悲歌』がまったく進まなかったようだ。『悲歌』の制作状 況を調べてみると、1914年の11月に第4の悲歌を完成させたのち、長い中断があ って、つぎに『悲歌』を書くことができたのは1922年の2月、つまり全篇が完成 するそのときなのである。約7年にもわたるこの長い中断の期間、そこには第1次 世界大戦の期間が重なっている。
このように長い中断があったのはなぜか。それには戦争に関わる心理的、物質的 打撃の影響が大きいのか、『悲歌』自体のうちに制作をいっとき行き詰らせるような 要因があったのか、あるいは両方なのか、それともまた別の理由があるのか。これ を解明するのはこの小論の任ではないので、ここでは、『悲歌』には長い中断があっ た、ということだけいっておこう。
しかし、この期間にもリルケは詩集という形で発表はしなかったが、多くの作品 を書いている。そのなかには、たとえば、最終的には『悲歌』に含まれはしなかっ
たものの、もともとはそうするつもりで書いた作品や断片がある1。また、そうでは ない作品もたくさんある。
1916年になって(この年のいつなのかは不明だが)、リルケは1913~14年に書 いた詩から22篇を選んで、ノートに書き写した。そして「夜に寄せる連詩」„Gedichte an die Nacht“という表題をつけ、ノートを友人のルドルフ・カスナーに贈った。こ れは結局、詩集としては発表されなかったのだが、あきらかに編集意図をもってま とめられた作品群であるということはいえる。つまり、『ドゥイノの悲歌』中断の期 間において、一定の質と量をもった成果ということになるだろう。
本論があつかう「大いなる夜」„Die große Nacht“という作品は、上記の「夜に寄 せる連詩」の中の一篇である2。おかれた場所は全22篇中の17番目である。「夜に 寄せる連詩」はごく大雑把にいうと、前半は「恋人」「天使」というモチーフが主で、
後半になってから「夜」が前面に出てくる。「大いなる夜」は、後半をかたちづくる
「夜」に関する詩のなかでは、分量の点で最大の詩である。また「夜に寄せる連詩」
全体のなかでも「スペイン三部曲」と並んで、規模が大きい。
そこで本論は、一定の大きさをもち、また、タイトルからわかるように、「夜」
を中心に据えたこの詩を選んで、「夜」という主題がこの作品のなかで、どのような
使用テキスト:Rainer Maria Rilke: Werke. Kommentierte Ausgebe in 4 Bänden.
Hg. v. Manfred Engel, Urlich Fülleborn, Horst Nalewski, August Stahl.
Frankfurt a.M., Leipzig (Insel) 1996 (以下KA).
また本論はおもに以下の研究を参照した。Otto Friedrich Bollnow: Rilke1. Stuttgart 1951. Ulrich Fülleborn: Das Strukturproblem der späten Lyrik Rilkes1. Heidelberg 1960. Judith Ryan: Umschlag und Verwandlung. Poetische Struktur und Dichtungstheorie in R.M.Rilkes Lyrik der Mittleren Periode (1907-1914). München 1972. Anthony Stephens: Nacht, Mensch und Engel. Rainer Maria Rilkes Gedichte an die Nacht. Frankfurt a.M.(Insel) 1978. Klaus Mühl:
»Verwandlung« im Werk Rilkes. Studien zur inneren Genese der Duineser Elegien. Nürnberg 1981. 作品の韻律については次の研究を参照した。Werner Schröder: Der Versbau der Duineser Elegien. Versuch einer metrischen Beschreibung. Stuttgart 1991.
1 たとえば1914年9月の作品「心の山々に置き去られ」 „Ausgesetzt auf den
Bergen des Herzens“ がそれにあたる。この作品を贈ったとき、リルケは「『悲歌』
より。写し。」という添え書きをしていたのである。Vgl. KAⅡ, S.518.
2 この作品は1914年の1月にパリで書かれた。初出は1917年に発行された『イン
ゼル年鑑1918』である。ということは、「夜に寄せる連詩」の編集(1916)のあと
になる。
ものとして捉えられているのかを考えてみたい。
「夜」という主題は、それでなくても、リルケの作品全般のなかで極めて大きな 意味をもっているので、リルケ研究という枠組みからすれば、「夜」に着目すること には妥当性があるように思われる。その場合、本論の作業はリルケの詩における「夜」
の解明の準備ともなるだろう。
2
「大いなる夜」の全文を試訳とともに提示しよう。
Die große Nacht
1 Oft anstaunt ich dich, stand an gestern begonnenem Fenster, 2 stand und staunte dich an. Noch war mir die neue
3 Stadt wie verwehrt, und die unüberredete Landschaft 4 finsterte hin, als wäre ich nicht. Nicht gaben die nächsten 5 Dinge sich Müh, mir verständlich zu sein. An der Laterne 6 drängte die Gasse herauf: ich sah, daß sie fremd war.
7 Drüben – ein Zimmer, mitfühlbar, geklärt in der Lampe –, 8 schon nahm ich teil; sie empfandens, schlossen die Läden.
9 Stand. Und dann weinte ein Kind. Ich wußte die Mütter 10 rings in den Häusern, was sie vermögen –, und wußte 11 alles Weinens zugleich die untröstlichen Gründe.
12 Oder es sang eine Stimme und reichte ein Stück weit 13 aus der Erwartung heraus, oder es hustete unten 14 voller Vorwurf ein Alter, als ob sein Körper im Recht sei 15 wider die mildere Welt. Dann schlug eine Stunde –, 16 aber ich zählte zu spät, sie fiel mir vorüber. –
17 Wie ein Knabe, ein fremder, wenn man endlich ihn zuläßt, 18 doch den Ball nicht fängt und keines der Spiele
19 kann, die die andern so leicht an einander betreiben, 20 dasteht und wegschaut, – wohin –?: stand ich und plötzlich, 21 daß du umgehst mit mir, spielest, begriff ich, erwachsene
22 Nacht, und staunte dich an. Wo die Türme 23 zürnten, wo abgewendeten Schicksals
24 eine Stadt mich umstand und nicht zu erratende Berge 25 wider mich lagen, und im genäherten Umkreis
26 hungernde Fremdheit umzog das zufällige Flackern 27 meiner Gefühle – : da war es, du Hohe,
28 keine Schande für dich, daß du mich kanntest. Dein Atem 29 ging über mich. Dein auf weite Ernste verteiltes
30 Lächeln trat in mich ein.3
大いなる夜
しばしば私はお前を驚きながら見た。昨日開かれた窓のそばに私は立っていた。
立っていた、そしてお前を驚きながら見た。私は新しい町にまだ 拒まれているようだった。そして思い通りにはされない風景は
暮れていった。まるで私は存在していないかのように。手近にあるものは、
私を理解しようと努力を払わなかった。街灯のもとで
通りがせり上がっていた。私は通りが見知らぬものであることが分かった。
向こう側には―共感をもってくれそうな様子をして、部屋がランプに
照らされていた―。
私はもう気持ちが通じているように思ったが、それを感じて、戸は閉められた。
立っていた。それから子供が泣いていた。私は知っていた、
母親たちがまわりの家々にいること、そして彼女たちができることを―。そして 慰められない理由があるからみなが泣くのだと知っていた。
あるいは、歌声がした。その歌は、期待を込めてはじまり、
ほんの少し先まで届いた。あるいは、下の方で老いた男が咳をしていたが、
それは警告のようだった。まるで彼の体は、軟弱になってしまった世界とは反対に 丈夫ででもあるように。それから時を打つ音がした―、
しかし、私は数えるのが遅れた。時は私を通りぬけていった。―
よそ者の少年が、ついに仲間に入れてもらったが、
3 KAⅡ, S.91.
やはりボールを受け止められず、
ほかの子供たちには簡単な遊びが、何ひとつできずに
立ちつくし、目をそらすように、―どこに向かって―?私は立っていた。
そして突然、
私は理解した、お前が私と関わりをもっていることを、私と遊んでいることを。
成長した夜よ、そしてお前を驚きながら見た。いくつもの塔が 怒りを見せ、運命が背を向けて町が私を囲み、何も明かさない山々が 私に向かってそびえ立ち、そして近くの周囲におかれたものが よそよそしさで飢えたように、私の感情の炎の偶然のきらめきを 取り囲んでいたとき―:そのときに、お前、気高きものよ、
お前にとって恥ずべきことではないのだ、私を知っているということは。
お前の息は私を越えていった。はるかな真率さにまで広げられた お前の微笑みが私の中へ入ってきた。
3
最初に、作品の全体的な特徴をいくつかあげてみることにする。
まず、この詩を読んでみて、「息苦しさ」あるいは「重苦しい」という感じを受 ける。こうした印象は、まず書かれている内容の重苦しさからくることはいうまで もないことだが、その内容は、この作品の形式というか、かたちがあって、はじめ て与えられるものでもある。ということはかたちの点から、「息苦しい」という印象 を説明することもできるだろう。その点でまず着目されるのは、文章の切れかたと 詩行の関係、つまり文末と行末との関係である。
両者が一致する場所(文末行末一致)は、6行目、8行目、11行目、16行目の4 カ所である。全体で30行あるうちのたった4行なので、この詩では、例外的な個 所なのだろう。この4カ所では、構文上の終わり、つまりピリオドのあとに、ほか の部分より大きな間(休符)を取り、一息おいてから次の文(=次の行)に移るこ とができる。逆にいえば、はっきり息をつけるのがこの4カ所しかないということ なのだ。
ある詩句がアンジャンブマン(句またぎ)によって、次の行へまたがっている場
合、一般的にいって、その場所は前後の連続性が強いと考えられる4。ということは、
この作品は、思念なり詩想なりが、明快に、あるいはテンポよく区切られながら、
陳述され、展開されるスタイルではなく、可能な限り連続して、息をつかずに読ま れるというスタイルなのである。この点でまず、長い息が求められ、端的に「息苦 しい」のである。
つづいて、ある特定の音の執拗な繰り返しが見つかる。これは作品がはじまると、
すぐにはっきりしてくる特徴である。出だしを引用してみよう。
1 Oft anststststaunt ich dich, ststststand an gestern begonnenem Fenster, 2 ststststand und ststststaunte dich an.
まず[t]という音が目立つ。アリテラシオンである。上にイタリックで示した場所 に[t] が現れる。anstaunenとstehen、この2語を繰り返して使っているのだから、
当然といえば当然だが、これが特徴的な現象であることには何の変りもない。むし ろ、音を繰り返すためもあって、この2つの語を組み合わせて用いたのではないか、
とさえ推測したくなる。この 2 語は、[t]による音の結びつきからいっても、また undで結ばれる構文上の関係からいっても、ひとつの組み合わせというのか、観念 連合をつくっているというべきなのである。
つづいて[an]も多い。anstaunenの前綴りanと前置詞のan、さらにstandの内 部にも現れる音である。原文で下線を引いた場所がそうだ。1行目も、2行目も、[an]
が行内韻を形成している。
さらに小規模な類似音の組み合わせもある。ich-dichの[ ]、gestern-Fensterの [st]である。2行目のund[nt] -staunte[staunte]の間でも、[nt]と[unte] は類似音の 部類に含まれるだろう。また、これらの語の配置をみてみると、ich-dich、
und-staunteでは、連続した音節で上記のような同音・類似音が用いられており、
また、gestern-Fensterもそう離れておかれているわけではない。
以上のことから、詩がはじまり、最初の文が終わるまでのあいだに、[t][an]が何 度も反復され、その間には[ ][st][nt]([unte])の繰り返しもあるということがわかる のである。
4 伝統的な作詩法で、ソネットの4行詩部分(Aufgesang)と3行詩部分(Abgesang) との間でアンジャンブマンが許されないのは、逆の理由による。つまり、意味内容 の点で、連続性ではなく、緊張関係が必要とされたからである。
詩の導入部だけみた場合でも、このように音の繰り返しがみられる。そしてこれ は導入部に限られるわけではないようである。ことに[t]の音は、出だしに集中する ことによって特別な音になっているといえるが、その後もテキストの中に何度も出 現し、数えると全部で 15カ所になる。また、[t]を構成する音素である//と/t/が近 接してあらわれる場所をほかに調べてみると、Landschaft(3行目)、spät(16行 目)、wegschaut(20行目)、spielest(21行目)といった語がそれに該当する。こ れらは[t]を含む語のグループと音響的に密接な関係にあると考えてよいだろう。あ るいは、さらに範囲をひろげれば、//のアリテラシオンや、[st]といった音も、[t]
の類似音の系列に含めることができるかもしれない。
そう考えると、[t]を中心にした類似音のグループが多く繰り返されているという ことが、よりいっそうわかるのではないだろうか。そしてこの反復の多さが、[t]
という、固定観念とまではいわないまでも、感覚的な一貫性を作品に与えているよ うに思われる。類似音反復の執拗さは、つねに同じところに回帰するような印象を 読者にあたえ、「息苦しさ」とか「重苦しい」といった気密的な印象につながるひと つの要因になっていると考えられるのだ。
以上の2点、おもに形式と朗読に関わる行末と文末の関係、作品の響きに関わる 類似音の反復、これらがかたちの点から、作品に重苦しさを与えていると考えられ る。
このように全体のかたちを確認したうえで、次に内容というか、書かれている事 柄を確認することにしたい。全部で 30行あるので、いくつかの部分に区切って読 みたいのだが、ここで、さきほどの文末行末一致の場所を利用したい。上では純粋 にかたちの特徴を示すために、文末行末一致の場所を指摘したのだが、内容の点で も、この文末行末一致の4カ所がそれぞれにまとまりをつくって、全体を区切って いるようである。その4カ所を区切りとして、すなわち全体を5つのブロックに分 けて、書かれている事柄を順番に見ていこうと思う。上に書ききれなかった個別の 形式的特徴についても、必要に応じて示すことにする。
第1ブロック(第1~6行)
「しばしば私はお前を驚きながら見た」Oft anstaunt ich dich,(1行目)。最初に 出てくる分離動詞anstaunenが、前つづりを一緒にしたまま使われている。これは 構文的には逸脱だろうが、しかし、読む場合の法則である韻律の点では、この部分 はヘクサメーターであり、逸脱はないようみえる。とは言いながら、教科書通りの
韻律規則を運用するだけではなく、読む場合には若干の操作が必要ではないだろう か。Oft anstaunt ich dich, この部分の韻律はシュレーダーの分析によると のようになる5。これによれば、第3音節以下がダクテュロスになり、ヘクサメータ ーであることがわかってくる。ただし、そうなるためには、シュレーダーが示して いるように、anstaunt の部分でいわゆる「強音の曲げ」(Tonbeugung)が必要で ある。つまり通常の強音節と、韻律上の必要が対立するのである。こうした対立が ある場合、ときに「均衡強音」(Schwebende Betonung)という手法が用いられる ことがあるが6、ここがおそらくその場所であろう。具体的にいえば、Oft anstaunt
ich dich,を、事実上のように読むのである。この場合、Oftとanstauntの間
には意識の上で間(ま)がおかれるかもしれない。そうしたとき、Oft anstaunt ich dich,という詩句は、通常の韻律の流れからやや浮き上がって、いうならば、独立し た導入部を形成するのである。こうした理由で、Oft anstaunt ich dich, という、
この構文上の、そして韻律法則上の逸脱は、読者に対して違和感としてよりも、強 い訴えかけとして働きかけてくるように思われるのだ7。
こうした導入部につづいて、動詞standが出現し、強烈なアリテラシオンをつく ることはすでに述べた。anstauntという破格的用法による強調のうえに、アリテラ シオンによって際立たせられたanstaunt...standという形は、すぐ次の行で、その 変形であるstand und staunte...anという形であらわれ、さらにもう一度、作品の 決定的な場面(20~22行目)で登場することになる。
「昨日開かれた窓」gestern begonnenem Fensterとは、少し変わった言い方で はないだろうか。実際、この用語法に、とくに注釈をつけているひともいる8。gestern
5 Schröder, S.66.
6 山口四郎『ドイツ韻律論』三修社1973年、109頁以下。
7 U.Pretzelは次のように言っているという。「実はこうした(韻律の:荻原注)法
則からの逸脱個処こそ、返ってしばしば最もデリケートで、且つ最も表現性の強い
(aussagenmächtigst)個処なのであり、むしろこうした個処でこそ初めて、随時、
形式(Form)が生まれる」(上掲書111-112頁)。この作品のこの場所は、まさに それにあたると思われる。
8 その注釈とは次のようなものである。「形容詞は、名詞が指示する客観的な存在と か価値を、当の名詞から取り去ってしまう。そして名詞を詩人が体験している目線 のなかへと置きかえる。詩人は、窓際に立つことをはじめる(beginnendes Daranstehen)ことを通じて、窓を作りだすのである」(Vgl. Werner Günther:
Weltinnenraum2. Bern 1952, S.221)。Füllebornもまた、この注釈を採用している
(Vgl. Fülleborn, S.75)。また、Bollnowはこの詩句について次のように言ってい
とFensterは行内韻の関係になっているので、音のつながりも無視できない。この 表現を文字通りにみると、「窓」は「昨日」という時の副詞と結び付けられているの で、「窓」は何らかの時間概念と関係づけられて読まれるだろう。「昨日」の含意は たくさん考えられるが、ひとつには、「窓」を、話者は「昨日」はじめて見知った、
という意味がでてくると思われる。つまりこの詩のなかで、「昨日」gesternという 語は、“いま”からみた時間的な近さの意味で捉えられ、したがって「窓」は、まだ あまりよく知らないもの、つまり「見知らぬ」(fremd)ものという感じが与えられ るのである。というのは、次の行の「新しい町は私に対して拒まれているようだっ た」以下、第1ブロックが終わる6行目の「通りがよそよそしいことが分かった」
まで、「見知らぬ」とか「よそよそしい」という意味のfremdという主題が繰り返 されているので、「昨日」も「窓」もその系列で理解するのが自然だと考えられるか らである。
また「昨日」gesternと冒頭の「しばしば」Oftの関係も注意をひくだろう。筆者 としては、この点について、冒頭の詩句に関する韻律の解析を役立たせたいと思う。
それによればOft anstaunt ich dich, という詩句は作品全体の導入部と考えられる のであった。ということは、この詩句は、それに続く文章とは記述のレベルが若干 違うのである。したがって、Oftはgesternによって意味の制限を受けるのではな く、逆に、stand an gestern begonnenem Fensterという詩句のほうが、oftによっ て制限され、むしろ従属するのである。つまり、ここでは「しばしば私はお前を驚 きながら見た」と語られる話者と夜との関係があり、そのひとつの具体例として、
「昨日」以来の出来事、「夜」を「驚きながら見た」その背景が言われていると考え る。「この窓は、つまるところ、話者がそこに立って、視線を外に向けるという行為 をはじめた窓のことである。つまり、話者はこの窓際に立つのも初めてなら、この 部屋も初めてなのである。こうした状況は、旅行中の見知らぬ宿での状況を想像す れば、一番よく理解できるだろう」(Vgl. Bollnow, S. 55)。 Bollnowの説明では、
テキストでのgesternとFensterを仲介するbegonnenは、「視線を外に向けること」
に対する動詞的規定となる。しかしテキストは、begonnenによって、あくまで gesternとFensterの関係をいっているのである。なお、Ryan、Stephens、あるい
はKAⅡの注釈は、この部分は問題なしとしてだろう、とくに説明をしていない。
なお、筆者はこの詩句を「昨日開かれた窓」と訳した。beginnenを「開く」と訳す のは問題なしとはしないが、beginnenを窓との関係でeinsetzenのような類義的な 意味の広がりで考えたのである(Vgl. Duden: Das Bedeutungswörterbuch. 3.Aufl.
Mannheim 2002, S.185.)。また内藤道雄訳が、「昨日来、開いた窓辺」となってい
るのも参考にした(『リルケ全集 第4巻』河出書房新社 1991年 101頁)。
ることができる。語順というか、記述の順序からしても、そうした理解が自然だと 思われる。ここでの「夜」は、それが何かはわからないけれども、ある予感をもっ て感じとられており、その予感は後になって、「突然」plötzlich(20行目)、理解さ れるものとなるのである。そのことはまたその場所で見ることにしよう。
次の詩句は「私は新しい町にまだ/拒まれているようだった」9。3行目のStadt が[t]のアリテラシオンを構成する語である。
つづく3行目から4行目にかかる「そして思い通りにはされない風景は/暮れて いった」という部分で、タイトルに出てくる「夜」以来、はじめて「夜」の系列に 属する表現が登場する。ここで「夜」は、風景を包み込むようにして暗がりのうち に没しさせる。「私は」「存在していないかのように」取り残されたままである。「町」
「風景」などの遠景ばかりでなく、「手近にあるもの」も「私」に理解を払わない。
verständlichもまた[t]のアリテラシオンをつくっている。5行目の「街灯」Laterne も「夜」の系列の語に含めてよいだろう。そうしてこのブロックの最後に、このブ ロックを総括するような語であるfremdが登場する10。要するに、話者の外側の世 界は、遠くのものにしろ、近くのものにしろ、話者にとって、見知らぬもの、そし てよそよそしいものであったのである。fremdという語は、この詩においてはじめ て文末と行末が一致するこの位置におかれることで、ここ数行の記述は、すべてこ こに流れこんでくるように思われる。つまり、ほかの語とはやや位階が違って、そ れなりの重さを含んだ語であると考えてよいだろう。これに関して、音を見てみる と、冒頭のOftから始まり、Fenster(1行目)、verwehrt(3行目)、Landschaft
(3行目)、finsterte(4行目)、verständlich(5行目)、herauf(6行目) まで/f/
9 リルケは、ある手紙の中で、この作品は1912年の冬に訪れたトレドと関係があ る、と書いている(1917年8月7日付け、Eva Cassirer宛の手紙。Vgl. Ingeborg Schnack: Rilke Chronik. Frankfurt a.M. (Insel) 1996 (11975), S.565f.)。当然、「新 しい町」以下、作品はトレドと関連づけて読まれるかもしれないが、本論では、テ キストの外部の伝記的あるいは制作事情に基づく解釈はなるべく避け、それらを一 般的な情報として紹介する場合も脚注で行うことにする。
10 この詩の最初のタイトルは „Nacht in der Fremde“ だった。つまり、fremdと いう言葉は、もともと作品のタイトルに関わっており、「夜」につづくキーワードで あったことが分かる。やや説明的な „Nacht in der Fremde“ というタイトルは、初 出のときに、それも一度原稿を送ってしまった後、より求心的な „Die große Nacht“ に急遽変更された。Vgl. Brief vom letzten August 1917 an Katharina Kippenberg (Rainer Maria Rilke: Briefe in zwei Bänden. Hg.v. Horst Nalewski.
Frankfurt a. M. u. Leipzig (Insel) 1991, Bd.1, S.642).
の音の連なりがあり、それがひとまずこのfremd [frmt] で終息するのである11。 なお、この作品にはfremdから派生している語があと2回でてくる。それは、ein
fremder(17行目)とFremdheit(26行目)である。このような点からも、この
作品における、この語の重要性がわかるのではないだろうか。
第2ブロック(第7~8行)
「ランプ」Lampe(7行目)は夜と関係がある語である。もっとも、前にでてき た「街灯」Laterne(5行目)や、ここでの「ランプ」は、夜の関連語とはいいなが ら、互いに夜のなかにある光である。夜の暗さとは逆の位相から夜を映し出す語な のである。
ところでこの詩では、タイトルに「夜」Nachtという語があるだけで、本文中に
「夜」は、言葉としてはまだ出てこない。しかし、「暮れていった」(4 行目)、「街 灯」(5 行目)、そしてこの「ランプ」というように、背景としての夜の存在は確固 としている。
それから、これまで話者のまわりには事物しか出てこなかったが、ここではじめ て人間があらわれる。もっとも、人間たちも、もの同様、話者への関心を示しはし ないのだが。こうして、このブロックは直前の語である „fremd“ のモチーフをそ のまま展開しているのである。
第3ブロック(第9~11行)
「立っていた」Stand. という最初の文では、主語が省略され、また可能な文肢 も使われていない。standという形自体は、すでに2度(1行目と2行目)出てき
ており、そこではstandがanstaunenと組み合わせのように使われていたのだが、
ここでは単独で使われていることに大きな違いがある。anstaunenの目的語はdich
(=夜)なので、anstaunenとともにstandが使われているときは、立って夜を見 る、というイメージになってくるが、この場所にはanstaunenがないので、背景と しては依然として「夜」が存在することを確認したうえで、ここでの Stand. は、
11 もちろん/f/という音素自体に特別な意味はない。しかし、fremdという語へと、
それが方向付けられて組織されることで、fremdという語に意図的な重さが加えら れるということである。
この直前まで繰り返し語られていた「見知らぬ」「よそよそしい」fremdというモチ ーフの影響下にあると思われる。つまりこの場所の Stand. は孤立感や疎外感を伴 って理解されるだろう。加えていえば、文肢をいっさい伴わないStand.というかた ちそのものが、すでに極度の孤立状態を体現してもいる。またstand [tant] は直前 の詩行にあるschon、schlossenとともに // によるアリテラシオンを構成している。
念を押すような効果的なアリテラシオンといえるのではないか。
つづいて、泣いている「子供」Kind が出てくる。そして母親たちが周りにいる だろうことが話者により推測される。泣いている子に対して、出てこない母親たち である。子供と大人という関係は、のちに「少年」Knabeと「成長した夜」erwachsene
Nachtという関係としてあらわれるので、ここではその伏線になっていると考えら
れる。子供は泣いており、すぐ近くに母親たち12がいるにもかかわらず、慰められ ることなく、放置されている。これは、「見知らぬ」を越えて、「よそよそしい」と いう意味でのfremd、つまり疎外という主題の延長であることはいうまでもない。
ところで、ここで泣き声という、音とか聴覚の世界に属するモチーフがはじめて 出てきたが、それはそのまま次の第4ブロックにつながっていく。
第4ブロック(第12~16行)
このブロックに出てくるのは、歌声、咳、そして時を告げる音、ということで、
これらは聴覚的世界という共通点で括ることができる。
歌声がしてくるが、それは朗々と響きわたるというのではなく、わずか先までし か届かない。「期待」Erwartungというのは何だろうか? 歌が聞き届けられて欲し いという期待だろうか。「下の方で、老いた男が咳をしていた13」。老人の咳、これ も周りの世界に対する抵抗のように響いてくる。よそよそしさとか疎外感といった
意味でのfremdという主題は、ここまで一貫している。
ところで、前のブロックの泣いている子供といい、このブロックでの、歌声とい
12 Mütterという複数形は、状況の一般化を意図しているのだろう。
13 老人の咳についても、この詩の下敷きになったというスペインとのつながりで、
同じ「夜に寄せる連詩」に収められている「スペイン三部曲」(1913年1月)の「宿 泊所のベッドの中で咳をしている、見知らぬ老人たち」という詩句や、スペイン旅 行中の手紙で報告されている宿泊所での老人の姿との関連が指摘されている(Vgl.
KAⅡ, S.497, 466)。要するに、こうしたモチーフの出現には、実際的な理由が存在
するということなのだろう。
い、老人の咳といい、ここでは、よそよそしい状態の範囲が、話者だけではなく、
周囲のひとたちにも広げられていることが注目される。もはやそういう事態が、話 者によって一般化されて語り出されているのである。こうした操作によって、作品 の訴えかけの幅を広げようとする意図が感じられる。
子供の泣き声からはじまり、歌声、咳の順に、話者は周りの物音に注意を向けて きたはずだが、つづく部分で、音に対する注意力が一瞬失われてしまう。「それから 時を打つ音がした―、/しかし、私は数えるのが遅れた。時は私を通りぬけてい った。―」(15、16 行目)。時を打つ音に対して注意が遅れるというだけならと もかく、くわえて時が通り抜けていくというのは、話者の意識のなかに、一様な時 間の進行から脱落するような時間の隙間がここに生まれた、とまで考えてよいだろ う。この隙間において、話者の意識や注意力は、通常の時間空間とは違うところに 向かいつつあったのだといえる。そして、まさにこの点を契機として、話者の思念 は次にでてくる「少年」Knabeの喩えという着想、喩えによる別の文脈の導入に入 っていくのである。
第5ブロック(第17~30行)
このブロックは 14行になり、全体のおよそ半分を占める。ほかとくらべて特別 に長い。いま行っているブロック分けが妥当性をもつとすれば、この14行がまと まってひとつの連続した意味内容をもっているということになる。それはいったい 何か? 冒頭に出てくる少年の喩えによって導入される別の世界観がそれである。少 年の喩えによってもたらされる新しい認識―夜の発見―がこのブロックであ る。
少年は、すぐに「よそ者」fremderというふうに説明し直されるが、fremdとい う語がこの詩において大きな意味をもっていることはすでに述べた。この語は、文 字通りの「よそ者」であると同時に、話者自身の分身なのである。
さて、少年のボール遊びという主題が展開されていくのだが14、この詩における ボール遊びで重要なのは、そこから「遊ぶ」spielen という着想が作品のなかに持 ち込まれ、そこに比重がおかれていくことである。ボール遊びが上手にできない少
14 ボール遊びという主題は、リルケの作品にたびたび出現する。その扱いかたはさ まざまで、この詩のように「遊ぶ」spielenという行為を重点化することもあれば、
投げたボールの描く放物線に焦点を当てることもある。Vgl. Bollnow, S.255ff., Beda Allemann: Zeit und Figur beim späten Rilke. Pfullingen 1961, S.58ff.
年は、「立ちつくし、目をそらす」(20行目)。「どこへ?」(20行目)。この視線の 動きとともに、話者は、自分自身の本当の遊び相手は誰なのかという疑問へと進む。
そしてこの瞬間、「突然」plötzlich15、話者は「夜」と「遊ぶ」spielen という言葉 で表される関係性にあるという発見に至るのである。どうしても上手にできないボ ール遊びに途方にくれたとき、そのボール遊びの場とは別の次元に、遊び相手とし ての「夜」が、突然、姿をあらわすのである。それはまた、詩の冒頭以来、何かわ からないながらも予感をもって感じ取られ、「驚きながら見」られていた「夜」が、
はじめてはっきりとした意味をもって、新しい「驚き」とともに「見」られる瞬間 でもあるのだ。
ところで、このあたりの語の選択と語順は巧妙である。少年の「立ちつくし、目 をそらす」dasteht und wegschautという動作、これはこの詩の冒頭で、話者が夜 に対してとった態勢を規定していたanstaunenとstehenという語の組み合わせに 対応している。dastehenとstehenは「立つ」という共通性があり、wegschauen
とanstaunenは「見る」という共通性がある。こうして少年は、話者と重ねあわさ
れるように、話者とほとんど同じ態勢というか姿勢に追い込まれているのである。
ところが、冒頭の話者の場合では、anstaunenの対象(=直接目的語)としてdich
(=夜)がはっきり与えられていたのに対して、少年の動作であるwegschauenで は、動詞が目的語を支配しない自動詞であり、本文では行為の向かう対象が存在し ないかたちになっている。これは本論の次の章の考察と関係してくるのだが、先回 りすると、wegschauenというような動詞が単独で使われている場合、外部の対象 と関与ができないので、この少年の場合でいえば、遊びができず立ちつくす、とい うこの状況の外部になかなか出られないのである。そしてそのときにwohin? とい う疑問詞が降りてくるのである。方向性を示すこの疑問の副詞によって、少年およ び話者に別の方向、別のものの見方が示唆される。それがすなわち、遊び相手とし ての「夜」の発見である。この発見に伴い、「夜」の内実はがらりと変化する。この 結果、「驚きながら見る」anstaunen(22行目)の対象としてのdich(=夜)は、
形のうえでも、今まで呼びかけられていた「お前」duとは別のもの、すなわちイタ リックのdu(21行目)に変化し、またこの詩のなかでタイトルを除けば、はじめ
15 新しい発見というのは、その瞬間にあっては、つねに「突然」やってくるように 感じられるものであろう。そしてこの語は、詩の冒頭にあったOftと強烈な対称関 係にある。Oft - plötzlichという語の連携は、やや錯綜したこの作品のなかで、ひ とつの大きな骨格であるといえるだろう。
て、そしてただ一度だけ、言葉としてはっきり「夜」(erwachsene) Nachtと呼ば れるのである。「成長した」erwachsen というのは、いま述べたような詩のなかに おける「夜」の変化に対応している。話者にとって「夜」は、最初の夜とは違った ものに「成長した」ということであり、それは実感として大きくなったと感じられ ており、そうなるにつれて、相対的に話者の方は小さな存在となり、それが、そも そもこの発見へと導かれるもとになった少年の喩えにも対応することにもなる。「夜」
は話者を少年の立場と重ねあわせ、また少年へと変化させもする「大人」(erwachsen)
なのでもある。
このように20行目、21行目は、詩の全体のなかでも、内容的にとても重要な場 所であるが、韻律の点でもこの 2 行は特別な扱いをされている。というのは、20 行目、21行目、それから28行目で韻律がそれまでと変化するのである。
この 3 行は、以下に図示するように、3 番目の揚格(Hebung)のあとに抑格
(Senkung)を欠き、そこで次の揚格と衝突する、いわゆるペンタメーターの形に 似ている16。
20 dasteht und wegschaut, – wohin –?: stand ich und plötzlich, ǀǀǀǀ
21 daß du umgehst mit mir, spielest, begriff ich, erwachsene ǀǀǀǀǀ
28 keine Schande für dich, daß du mich kanntest. Dein Atem ǀǀǀǀǀ
ペンタメーターはヘクサメーターと組むと、ディスティヒョンとして、悲歌の韻律 になる。この詩は、ほとんどの詩行がヘクサメーター(6脚のダクテュルス)、ある いは形としてはそれに極めて近い5脚のダクテュルスの韻律である。ということは、
揚格が衝突するこれら3行だけは、前後との関係で、ディスティヒョンを予感させ る詩行となる17。このように、これらの詩行は内容的にも全体のひとつの頂点であ
16 規則どおりのペンタメーターは6番目の揚格のあとにも抑格がない。図示すれば、
ǀǀǀǀǀである。
17 全篇にわたってディスティヒョンを連ねるのではなく、ある部分にだけこれを用 いるのは、リルケの好んだ手法である。たとえば『ドゥイノの悲歌』第1番でいえ ば、全95行のうち、ディスティヒョンは5-6行目、21-22行目、24-25行目、36-37
るのと同時に、韻律の点でも他と区別されているのである。
作品はこの後、ふたたび「見知らぬ」「よそよそしい」fremdの主題を繰り返すよ うにして、話者の周囲に広がる世界を記述しはじめる。ただし、それは詩の前半の 単なる繰り返しではない。このとき注意したいのが、話者を取り巻いて存在してい る外部世界を示す名詞と、その世界に作用を及ぼしている動詞との組み合わせであ る。それはこうなっている。die Türme – zürnten、Schicksal – abgewendet、Berge – nicht zu erraten、Fremdheit – hungernd。ここに見られる動詞は、それぞれ、
「怒りを見せる」、「背を向けて」、「何も明かさない」、「飢えている」であるが、詩 の前半にあった外部世界の記述とくらべて、格段に感情的な調子が高まっており、
ひとことでいえば敵意をもったふるまいばかりになっている。それは、単なる「よ そよそしい」ということから、もう一歩進んでいるように思われる。こうした現象 の前提は何だろうか? それはおそらく、少年の喩えによって導入されて、「成長し た夜よ」という呼びかけにまで続く話者の少年への自己移入が、ここでもまだ続い ており、話者は「少年」という客観的な存在と視点をえて、そしてその視点から世 界を眺めることで、外部世界の内実をよりはっきりと客観的に把握し、規定し直す ということが起こっているからではないだろうか。つまり、ここではじめて外部世 界の内実を、作品の前半に見られるような存在様式の確認から一歩進めて、動詞を 使った表現による外部世界の具体的かつ働きかけてくるふるまいとして、把握し直 しているのではないだろうか。
ようやく作品の終結部にやってきた。「お前、気高きものよ、/お前にとって恥ず べきことではないのだ、私を知っているということは。/お前の息は私を越えてい った。はるかな真率さにまで広げられた/お前の微笑みが私の中へ入ってきた」。詩 の主題である夜に呼びかけ、夜について述べているこの終結部も、またひとつの頂 点だろう。韻律の点でも、さきほど指摘したように28行目には揚音の衝突があり、
前後と違うかたちになっている。
まず、ここでは動詞のkanntest(28行目)に注意したい。kennenとは対象とな ったものの「存在存在存在存在を知っている」という状態を示す動詞である。従って、この場合 は、「夜」が話者の存在を知っているということは恥ずかしいことではない、という 内容になってくる。これがもっている意味については次章で触れることにする。
さて、最後に「夜」は、「息」Atem、および「微笑み」Lächelnとして、話者に 行目、38-39行目、41-42行目、47-48行目、50-51行目、89-90行目、91-92行目、
94-95行目にあらわれる(Vgl. Schröder, S.22ff.)。
触れてくる。「息」も「微笑み」も、はっきりしたかたちをとるものであるよりも、
時間とともに移動したり、かたちを変えたりするものである。この点で、これまで に出てきたようなはっきりとしたかたちをもつような対象物との違いがある。さら に、話者はこの詩において、ここでほとんどはじめて外部世界と手ごたえをもった 交わりを結んでいる。28行目の「知っていること」(話者の側からいえば「存在を 知られていること」)であり、「息」や「微笑み」として、話者の体を貫いて通過し ていったり、入り込んでくるということが、それである。これらは、これまでのよ そよそしい事物のように、話者と対象的に対置されるのではなく、逆に、対象的把 握に必要な主体との距離をなくすように働いてくる。つまり、この「通過」や「入 り込み」において、「夜」は、話者とその周りに広がる外部世界とのよそよそしい関 係性とはそもそも異なる位相で、話者に関わってくるものなのである。そしてこれ が、「私は理解した、お前が私と関わりをもっていることを、私と遊んでいることを」
(21-22行目)の、「関わり」なり「遊び」なりの実態なのである。
4
この作品に書かれていることについては、かたちの点でも、内容の点でも、だい たい整理できたと思われる。ここでは、そこから何らかの意味を引き出してみたい。
このときに中心に据えてみたいのが、第5ブロックである。ここは、前章で見たと おり、とくに 20行目の前後でおおきな展開が行われていた場所である。それは、
ひとことでいえば「夜」の発見ということであった。
さて、この点を中心に考えてみると、第5ブロックとそれまでの間には、記述の 点である違いが見つかる。それは空間とか場所に関わる語の配置である。こうした 語を順にあげてみると、「昨日開かれた窓」an gestern begonnenem Fenster(1行 目)、「街灯のもとで」An der Laterne(5行目)、「向こう側には」Drüben(7行目)、
「下の方で」unten(13行目)である。場所を示す語はほかにもいくつか存在する が、ここでは話者に関わるものだけを抜き出してみた。どうしてこういうことをす るかというと、空間とか場所が、言語的なレベルではっきり区別され、話者の側か らすれば、空間が自分との関係で十全に把握されることで、主体と客体とがはっき り定まり、主体は自己同一的な主体として定立されるからである18。この観点から
18 空間的な位置関係が言語的に区別されることが、対象的・客観的認識の基礎とな るのである。こうした事態は、言語の側からみれば、以下のように説明されるだろ
みれば、そうした主体と客体という関係性(本論では以下、「主-客」関係、と呼ぶ ことにする)の一方として構成される主体を生み出すような、これらの空間や場所 を規定する語が、詩の前半、第4ブロックまでにしか出現しないというのは注目に 値するだろう。逆にいえば、最後の長い第5ブロックにだけ、そうした種類の語が 見当たらないというのは、しかも、外部世界の様子は依然として記述され続けてい るにもかかわらず、そうであるというのは、第5ブロックでは、主体のありようが、
それまでとの比較で、どこか変化しているという可能性を示すものでもある。第 4 ブロックの最後に、「それから時を打つ音がした―、/しかし、私は数えるのが 遅れた。時は私を通りぬけていった。―」という詩句があった。前の章で、筆者 はこの場面について、これを契機として「話者の意識や注意力は、通常の時間空間 とは違うところに向かいつつあった」というふうに指摘した。まさに、ここにみら れる話者の意識のありようこそ、続く第5ブロックにおける、主体のそれの変化の ひとつの証左になっているのだ。
そのことを示すために、まず第5ブロックの流れを確認してみよう。第5ブロッ クは、上手に遊ぶことのできない少年の喩えではじまる。「よそ者の少年が、ついに 仲間に入れてもらったが、/やはりボールを受け止められず、[…]」。この喩えの導 入によって、話者は、テキストの上で、第4ブロックまでとは別の文脈―上手に 遊べない子供―の網目に移される。これにより、それまで外部世界とのよそよそ しい関係の上に構成されていた話者の自己意識に、「遊ぶ」spielenという新しい状 況が付け加えられ、更新される。そして上手に遊べないところから、よそよそしさ と疎外の気分が戻ってくる。そしてこれが、遊びにおける少年の態勢、「立ちつくし、
目をそらす」dasteht und wegschaut(20行目)を生み出し、さらに、「目をそら す」から「どこへ?」wohin?という新しい観点をつかむのである。このとき
wegschauenという動詞が巧妙な表現であることは前の章で述べた。外部世界との
よそよしい関係のうちに構築された主体にとっては、客観的な対象とは、まさにそ のよそよそしいと捉えられた外部世界である。よそよそしいという関係性をとりな がら、主体と外部世界は、「主-客」関係として構成されるのである。ところが、第 う。「言語にとっても、空間的な場所と距離との精確な区別は、言語がそこから客観 的現実を構成し、対象を規定するところまで進んでゆく最初の出発点となっている。
位置の区別が内容の区別の基礎になる、―つまり、一方では我、汝、彼の区別、
他方では物理的な対象領域の区別の基礎になるのである」(カッシーラー『シンボル 形式の哲学 第1巻 言語』生松敬三・木田元訳 岩波文庫1989年(原著1923年)
256頁)。
5ブロックの、このwegschautという語にたどり着いたとき、それまでの「主-客」
関係を構成していた他動詞的世界(たとえばanstaunen)が、目的語をとらない種 類の自動詞wegschauenに変化してしまったのだ。これが何を意味するかというと、
外部世界とのよそよそしい関係性を維持しながら、作品のなかで話者の存在の立脚 点となっていた「主-客」関係が、この作品の中で行き詰まり、主体が、目的語と して機能してきたようなさまざまの外部世界とのよそよそしい関係に耐えきれず、
一種の飽和点にまで至ったということではないだろうか。そこで話者は「目をそら す」のである。しかし、このままでは、この「主-客」関係には何の変化も起こら ない。そうした関係性のうちに話者も外部世界も存在し続ける。そのときに
wegschauenという動詞の特異性、ことに前つづりのwegという動作が生きてくる
のである。この場合に可能であるような類似する動作、たとえば、「目をつむる」で はなく、まさに「目をそらす」ところに、wohin? と方向を問う余地が生まれてく るのである。そして、この方向への問いは、新しい目的語を問う問いでもある。「私 はお前を驚きながら見た」anstaunt ich dichの状況に対応するような、視線の向か う方向としての「お前」dichを問うのであり、あるいは「遊ぶ」spielenの文脈で いえば、遊び相手としてのmit の3格目的語を問うてもいることになる。この問い は重要だ。なぜなら、この問いを問うことで、「主-客」関係の内部ではついに見つ からなかった遊び相手、「主-客」関係の外部にある存在が、「主-客」関係を象徴 するようなこの「遊び」(=子供たちのボール遊び)とは場を変えたところ、別の次 元で発見されるからである。この目的語の探索においてこそ、この詩の中でこれま で展開されてきた「主-客」関係に基づく世界像の外部にある世界の可能性が開け てくるからである。そしてこの可能性の発見に対して、詩の本文中ではじめて、そ してただ一度だけ「夜」Nacht という語が用いられる。「成長した夜よ」と呼びか けることによって、その実在がはっきりと作品の中に喚起されるのである。この点 にまず「夜」の発見の意味がある。「夜」とは、話者がそこで主体として成立してい る「主-客」関係とは異なる次元で感じとられる、ある存在なのである。
ここで、さきほどの空間や場所をあらわす言葉の配置という問題に戻ってみたい。
なぜ、こうした語が第5ブロックにだけ見当たらないのか、という疑問である。こ れを考えてみると、それはいまや次のことを意味していると思われる。すなわち、
第5ブロックで発見された「夜」と話者との関係は、対象のおかれている空間や場 所を把握することで生まれてくるような、「主-客」という関係性とはそもそも違う ものなのだということである。そのために、実感的にも、また論理的な帰結として も、「夜」との間には、そうした「主-客」関係は構築できない。これは具体的にい
えば、この詩において「夜」が客観的にはどのような存在であるのか、話者の視点 からは、はっきり言うことができないということである。第1~第4ブロックでの 話者の意識と、第5ブロックでの話者のそれとの違いは、この点にある19。「夜」に 関わる記述は、「成長した夜よ」erwachsene Nacht(21-22行目)、「気高きものよ」
Hohe(27行目)という呼びかけと、あとは、人称代名詞du、dich(21行目、22
行目、27行目、28行目)、所有代名詞dein(28行目、29行目)である。書かれて いる場所は多いが、どの場所でも、「夜」がいったい何であるのか、明瞭な記述や説 明は存在しない。「夜」という存在があることは、呼びかけたり、代名詞を使ったり して、繰り返し言うことができても、それについてそれ以上のことが言えないので ある。そしてこうした事実が、空間や場所を表す語がテキストの中から消えたこと と、密接な関係をもっているのである。また「夜」の側から見た場合にも、話者と 夜との関わりはkennenという状態、すなわち「事柄」や「内実」ではなく、「存在存在存在存在 を知っている」という次元にとどまるのである。
このように、話者が、「新しい町」(2 行目)において、はっきりと意識せずには おかない「主-客」関係というものが一貫して存在する一方で、話者はその関係の 外部に「夜」を発見することができた。しかし、この「夜」について、この作品は 具体的なことを書いていない。「発見」が行われた第5 ブロックでは、なおさらに そうである。そしてこうした意識は、話者に対して、外部世界との相関関係、すな わち空間や場所の把握から始まる主体の構築を許さず、場合によっては主体が脅か されるかのような感覚をもたらしもするだろう。ここでの「夜」とは、距離をはか ったり、対象的に観察したり、測定したりする対象ではないのだ。「夜」は、こうし た存在様式からいって、対象的な観察やそれにもとづく解釈を行おうとする主体を 脅かしてくるものなのであろう。これが詩の最後における「夜」との接触が、「お前 の息は私を越えていった。はるかな真率さにまで広げられた/お前の微笑みが私の 中へ入ってきた」という詩句の意味、つまり「夜」が、これまでのように主体と距 離をとって対置されるのではなく、主体の身体への直接的介入としてテキストにあ らわれてくる原因なのである。そして、ここに見られるような接触の直接性は、局 面が変われば、主体に動揺をもたらしもするだろうし、主体を脅かす心理的な不安
19 Stephensは、話者-外部世界、話者-「夜」という別々の関係に対して、話者
の意識は2つに分かれているのだと考えている(Vgl. Stephens, S.89f.)。こうした 主体の意識の変化という発想について、筆者はStephensの解釈に共感をおぼえ、
また示唆を受けている。
や重圧を引き起こすことさえあるだろう20。おそらくこうした可能性が、詩の全体 に「息苦しさ」とか「重苦しさ」の気分を残している原因でもあると考えられる。
「夜」の発見とはいっても、それはよそよそしい「主-客」関係を乗り越えたり解 消したりする契機ではなく、そうした関係をいったん置き去りにするような別種の 次元の予感であり、しかもそれでいて、というよりも、そうであるがゆえに、主体 を根本的に脅かしてくる性格を合わせもつものでもあるのだ。リルケは『ドゥイノ の悲歌』の第1番(1912年1月)に、次のように書いた。
O und die Nacht, die Nacht, wenn der Wind voller Weltraum uns am Angesicht zehrt–, wem bliebe sie nicht, die ersehnte, sanft enttäuschende, welche dem einzelnen Herzen
mühsam bevorsteht.21
「おお、そして夜、夜、宇宙に満ちた風が/私たちの顔をむしばむとき―、誰に 夜が残されていないだろうか、この憧れ求められるもの/おだやかに錯覚を覚ます もの、ひとりひとりの心の前に/苦しく立っているものが」
「夜」とは、「憧れ求められるもの」、それでいて「心の前に苦しく立っているもの」
であるという。ここに見られる二重的とでもいえるような存在様式こそ、まさに「大 いなる夜」においても共通する「夜」の性格なのである。
この作品における「夜」とは、タイトルのように „groß“という形容詞を冠せられ たり 、また „erwachsene Nacht“、あるいは „du hohe“ というように、実感はあ っても何かあからさまに具体性を欠くような言葉によってしか言い表せない存在に なっている22。しかし、だからこそ「夜」は、リルケにとって、詩作を可能にする 緊張関係の源泉のひとつとなって、この作品でしたように、また『ドゥイノの悲歌』
をはじめ多くの作品でしたように、繰り返し繰り返し主題となって、姿をみせるの
20 1913年に書かれた散文「体験」„Erlebnis“ のなかで、三人称で語られる「彼」
が、自分の姿勢を苦しいと感じる場面は、この点で示唆的である(Vgl. KAⅣ, S.668, Fülleborn, S.76)。
21 KAⅡ, S.201.
22 Stephensは「よそよそしさ」をもつ外部世界が水平的に空間表象されるのに対
し、「夜」は上を見上げる視線によって(神秘的)合一への道を示唆するように表象 されているという違いを指摘している(Vgl. Stephens, S.90)。
であろう。そういう点からみても、「大いなる夜」というこの作品は、まさに典型的 であるということができるのではないか。
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Die Entdeckung der „„„„NachtNachtNachtNacht““““ ––– –Über Rilkes Über Rilkes Gedicht „Die große Nacht“Über Rilkes Über Rilkes Gedicht „Die große Nacht“Gedicht „Die große Nacht“Gedicht „Die große Nacht“
Kohei O Kohei O Kohei O
Kohei OGIWARAGIWARAGIWARA GIWARA
Im Jahr 1916 stellte Rainer Maria Rilke 22 Gedichte, die zwischen 1913 und 1914 entstanden sind, zusammen und gab dem ganzen Zyklus den Titel
„Gedichte an die Nacht“. 1912 begann Rilke die „Duineser Elegien“ zu schreiben, aber er hatte gleichzeitig große Schwierigkeiten mit dieser Arbeit. In der Zwischenzeit brach der Erste Weltkrieg aus und erschwerte es ihm weiterzuarbeiten. Deshalb kannte er vom November 1914 bis Januar 1922 die Arbeit der Elegien überhaupt nicht. Die 1916 zusammengestellte Sammlung
„Gedichte an die Nacht“ wird also als einen der Erfolge in dieser Jahren und sogar als das zweitwichtigste Werkprojekt neben den Elegien angesehen. „Die große Nacht“ ist ein und zwar wohl das wichtigste Gedicht des Zyklus. Es wurde im Januar 1914 in Paris geschrieben.
Wenn man das Gedicht zum ersten Mal durchliest, mag man sofort eine schwüle Atmosphäre fühlen und im Lauf des Lesens eine Atempause haben wollen.
Dieser Eindruck kommt in erster Linie vom Inhalt des Stücks, aber auch die Form des Gedichts bestimmt diesen Charakter nicht weniger. Das ist hier von 2 Aspekten her zu erklären; 1) In diesem Gedicht fällt das Satzende mit dem der Zeilen in den meisten Fällen nicht zusammen. Nur an 4 Stellen ist das Ende des Satzes zugleich das der Zeile, und außer diesen Stellen kann man beim Lesen keine klare Pause machen. Von da her macht das Gedicht einen dichten Eindruck. 2) Es gibt viele Wiederholungen von demselben oder ähnlichen Phonemen. Vor allem kommt das Phonem [t] immer wieder und verleiht dem ganzen Gedicht einen einheitlichen Klangcharakter. Durch diese Wiederholung mag der bedrückende Eindruck dieses Werks hervorkommen.
Als Nächstes wird der Inhalt des Gedichts in großen Zug übersieht. Am Beginn des Gedichts heißt er, „Oft anstaunt ich dich,“. Dieser Vers ist ganz besonders, weil die Verbform sonderbar ist und auch metrisch gesehen als Einleitung des ganzen Gedichts gekennzeichnet werden darf. Und die Verben „anstaunen“ und
„stehen“ verbinden sich doppelt, klanglich durch Alliteration und syntaktisch
durch die Konjunktion „und“. Dieses Verbpaar fungiert als eine fixe Idee und kommt im Text mehrmals wieder und zwar geschieht es einmal an der wichtigsten Stelle des Textes (z.20-22). Noch dazu muss man anmerken, dass das Thema der Fremdheit auch bedeutend ist. Wörter, die aus dem Adjektiv
„fremd“ stammen, werden 3-mal im Text benutzt. Deshalb kann man von hier noch eine andere Form der Wiederholung feststellen. Der kürzeste Satz
„Stand.“ (z.9) wird nur hier nicht mit dem Verb „anstaunen“ sondern allein benutzt und hat keine anderen Satzglieder. Schon deshalb kann man sagen, dass der Vers auch dem Aussehen nach dem Thema der Fremdheit unterliegt.
Also wird das Thema hier bestärkt und geht noch weiter. In dieser Situation verpasste das Ich den Stundenschlag, der mit dem Zeitlauf des alltäglichen Lebens eng verbunden ist. Das Ereignis verändert die Lage des Bewußtseins des Ichs und setzt es durch das Gleichnis des Ballspiels von Kindern in den anderen Kontext. Das heißt, dass man erst nach dem Auftritt des Begriffs
„Spielen“ nach Mitspielern fragen kann, und diese Frage ist nichts anderes als die Voraussetzung für die Entdeckung der Nacht als Mitspieler. Im Augenblick dieser Frage sollte der „Knabe“ dastehen und wegschauen. „Dastehen“ und
„wegschauen“ des Knaben spiegelt das Verbpaar „anstaunen“ und „stehen“ des Beginn des Gedichts wieder, aber das Verb „wegschauen“ hat hier kein Objekt wie „anstaunen“. In diese Leere kommt die „Nacht“ als das neu entdeckte Objekt. Das Objekt des Verbs „anstaunen“ vom Gedichtanfang war zwar auch die „Nacht“, also das gleiche wie hier, aber sein Gehalt ist hier total anders als dort. Der Knabe kannte das Ballspiel nicht und in diesem Augenbilck kommt die „Nacht“ zu ihm als Mitspieler vom anderen Spiel. Das Ballspiel zwischen dem Knaben und den anderen symbolisiert die fremden Beziehungen zwischen dem Ich und seinen Umgebungen, deshalb ist die Stellung der „Nacht“ jetzt anders als bis hierhin. Die „Nacht“ befindet sich jetzt außerhalb des Ballspiels, anders gesagt, außerhalb der fremden Umgebungen um das Ich. Die Zeile 20-21 ist vom Inhalt her zu einem der Höhepunkte des Gedichts und dieser Charakter ist sichtbar auch auf der metrischen Ebene, weil diese beiden Zeilen direkt hinter der dritten Hebung keine Senkung haben, also Pentametern ähnlich sind, während die meisten Zeilen des Gedichts Hexameter sind.
Die zweite Hälfte des Gedichts unterscheidet sich von der ersten besonders
darin, dass sie keine räumliche Vorstellung hat, die den räumliche Abstand zwischen dem Ich und dem Objekt bestimmt. Aus diesem Grund wurde das Ich der zweiten Hälfte etwas anders als das Ich der ersten Hälfte, das sich selbst räumlich-objektiv klar und deutlich erkennen konnte. Das bedeutet, dass mit der Entdeckung der Nacht das Ich einen anderen Bezug als den normalen Subjekt-Objekt Beziehungen empfindet oder ahnt, die in diesem Gedicht als Fremdheit begriffen wird. Mit anderen Worten: Die Nacht findet das Ich als etwas, das außerhalb der Subjekt-Objekt Beziehungen liegt. Und das führt dazu, dass das Ich nur die Existenz der Nacht beschreiben kann, aber darüber hinaus nicht mehr, weil eine objektive Beschreibung die Subjekt-Objekt Beziehungen voraussetzen muss, während die Nacht hier außerhalb solcher Beziehungen steht. Und daraus kann man nun eine andere Bedeutung der Entdeckung der Nacht ableiten: Das Kommen der Nacht kann das Ich aus der Fremdheit hinaus bringen, aber zugleich das Gründen des Ichs gefährden, weil es erst in den Subjekt-Objekt Beziehungen auf festem Boden steht. Infolgedessen bringt ihre Gefährlichkeit dem Text die körperlichen Vorstellungen. Sie wird als feste Objekt dem Ich nicht entgegengestellt, sondern berührt ihn und geht durch ihn durch.
Die Nacht hat also zwei verschiedene Gesichter in diesem Gedicht. Sie weist das unter der Fremdheit leidende Ich auf etwas Außenstehendes hin, aber untergräbt zugleich seinen festen Boden und bringt ihm eine neue Angst. Von dieser gespannten Beziehung der zwei Dimensionen her ist die Nacht für Rilke eines der wichtigsten und wiederkehrenden Motive geworden.