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阿波(旧藍作)畑作地帯人口の存在形態 : 農業にお ける資本主義の発達

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阿波(旧藍作)畑作地帯人口の存在形態 : 農業にお ける資本主義の発達

その他のタイトル Capitalistic Development of Agriculture in Awa Vegitable District (I)

著者 市原 亮平

雑誌名 關西大學經済論集

4

5

ページ 459‑480

発行年 1954‑10‑30

URL http://hdl.handle.net/10112/15791

(2)

459

わたくしは昨年の夏休み—ー七月十三日から二十日までまる八日間を利用して、京都大学堀江英一先生の演習生のおこなった

癒島県名東郡北井上村の農村調査に参加した︒延一五

0日をついやしたこの調査の問題諷角は︑

つぎに調査方法について述ぺねばならない︒

わたくしたちは県が昭和二八年末現在でおこなった﹃農業実態調査﹄の原票を

入手し、この調査に洩れた農家は村役場で調査し、村の世帯全部の職業・経鴬•財産内容をとらえた。つぎに、『農業実態調査』

の原票と役場の助言とにもと.ついて︑階層別の調査対象五0軒をえらびぬき︑村人に修正してもらい︑この調査対象にしたがつ

て聰取個別調査をおこない︑さらに﹃実態調査﹄原票︑農地改革賓料︑協同組合帳鏡︑ホ利組合・村議会資料をもつて補完を期

し︑前後五回にわたる村の有志・精農・育年団幹部・貧・雇農とのいわば階暦別の座談会にわたくしたちの結論をもちこんだ︒

その結果︑調査にたいしわたくしたちのくわえた頭論的栃出がおどる<稗現地のひとびとの経験認識と合致しているのをみいだ

し自信をつよめた次第である︒

阿波︵旧藍作︶畑作地帯人口の存在形態︵市原︶ 階級区分にもとづいて検討し直すことであった︒ にもとづいて戦后農村の構造変動をとらえること︑

(2 ) げんざいの日本農村の封建性と資本主義の相互関係を実証的に前述の

'

阿波︵旧藍作︶畑作地帯人口の存在形態

( 1 )

ただしく新しい階級区分

(3)

46o 

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生の諸君に心から感謝してやまない︒

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4

にふたたびわた<

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たのであるが︑ 阿波︵旧藍作︶畑作地帯人日の存在形態︵市原︶六六

(4)

阿波︵旧藍作︶畑作地帯人口の存在形離︵市原︶

(5)

2

なかでいちばんめぐまれているからであらう︒ うづ潮の鳴門海峡から紀伊水道を南して蒲生田の岬にいたるまでーー•こーは穂島の門であり、山のくに阿波のなかで町らしい町をもつひらけた地帯である︒勝浦川や那賀川とともに﹁四国三郎﹂ー吉野川が沿域吉野川平野を潤

4海にそ4ぐところであり︑関西をむすぶ港をもっとこるであり︑水田や畠作をもつ平場地帯である︒こ4

には鉄道と船の交通機関があつまり︑軽工業がおこり︑米や蔑菜がつくられている︒人々は昔から人形芝居をたの

しみ︑じようるりをうなり︑踊るあ筏うにみる阿呆と踊りぬくのも︑昔徳島が城下町であったせいだけでなく︑や

はりこの地が山地の面積が県全体の八0彦も占め︑田地の面積がわづか七斧という・まづしい﹁山のくに﹂徳島の

吉野川に沿うた阿波平野にふるくさかえたこの地帯の中心地ーー'旧城下町徳島市から覚園行パスにのりかえ市を

西行すると︑藩政時代のお仕置場をもち宝歴六年には藍専売に反抗をこ4ろみた一揆の藍作百姓が集結した鮎喰川

しばらくにして飯尾川をわたりすぐ吉野川の大きな堤防にゆきにたつする︒こ4をこえるとパスは北行しはじめ︑

つく︒堤防や川原には白黒斑々のホルスタイン乳牛が点々と草をはむのがみえる︒バスはこの吉野川と飯尾川との

間を西行し︑水田と牛努畑と桑畑の村ーー'北井上村にたつするのであるが︑徳島駅前より約四0分の距離である︒

名東郡北井上村から吉野川を北にわたったところに板野郡藍園村があり︑ A

︵ 

阿波︵旧藍作︶畑作地帯人口の存在形態︵市原︶

4は県下最有数の沢庵産地︒吉野川

(6)

463 

阿波︵旧藍作︶畑作地帯人口の存在形態全出原︶

心地北井上村にこの流転の歴史のひとつの縮図をもとめてみよう︒

南岸で北井上村の西隣で党園行パスの終点にあたるのが名西郡藍園村︒そのまた西隣が宝歴六年藍専売反対一揆の

主謀者を杞った五社神社のある高原村︒その西隣の麻植郡牛島村には森永の煉乳工場がある︒

徳島市を境にして西方ー吉野川上流沿岸が旧藍作地帯で東方吉野川下流地帯はふるくから米作地帯となっている

が︑北井上村はこれら旧藍作地帯の一中心であった︒ーーl全長二三六キロ︑日本で五番目の大河吉野川は沿岸に阿

波平野をつくり鉄道を走らせ流れている谷川の口もとに多くの町々をつくりあげてきたのであるが︑明治の中葉ま

1で﹁阿波藍﹂の盛名を全国にとどろかせた天然染料の藍もこの川が運ぷ好適な砂土のために生い育ったのである︒

︵註︶藍作は水分を多糞に必要とするが︑吉野川消岸一帯の沖積層の地盤は︑三尺痢れば︑水が湧き出るのであり︑溢暖な瀬

戸内式の気候と相侯つて藍栽培に最適の自然的条件を提供したのである︒

だがその後輸入化学染料にまった<押さえられてさびれはて︑沿岸の人々は上流では阿波の葉タバコに生きるみ

ちをもとめたが︑これも時代にとり残されていとなみはきびしさをくわえており︑下流の人々は米作︑養蚕︑さら

に践菜︑酪農へと時代の流れを追つてめまぐるしく生きるみちをもとめてきたのであるが︑われわれは旧藍作の中

いうまでもなく︑化学染料が発明され輸入されるまでは︑藍はもっとも重要な染料であったわけであるが︑

も︑阿波藍は全国の需要を独占的に満たしていたのである︒ーー.藩政時代に阿波藍が生産を独占したのは藩主蜂須

賀氏の力が大きく︑藩は藍の専売機構を結成して藍作農民を収奪したのであったが︑このため農民はねだんの浮動

(7)

4

性と藩のつよい統制で生活に苦しみ︑たとえば宝歴六年名西郡高原村五人与常左衛門が首謀となって︑

( 1 )  

︵麻植︑名酉︑名東︑板野の四郡︶の匪徒を犠衆し名東郡鮎喰川原に会し将に徳島城地に強訴せんとし﹂たいわゆる

﹁高川原の暴動﹂がおきている︒これの事前に﹁西は麻植郡西麻植村東は名東郡芝原村︑北は板野郡吹田村神宝村

2)方面迄日々百姓共相集り相騒﹂いだのであるが︑北井上村の近在が暴動の中心となっている︒

(1)

( 2 )

西

明治維新を契機とする株式解放ー封建的諸制限の撤廃は︑藩という巨大買占資本のもとに制約され馴致されてき

た弱小な藍作農民をはげしい混乱の渦中に投げこんだが︑阿波藍を明治期をつうじて急激に輸入をみた印度藍︑さ

らには大正年代をつうじて飛躍的に侵入をみたドイツ人造藍から防過し農民を藍作につなぎとめる唯一の方法は︑

︵ 註

藍生産様式の徹底的な近代11機械化以外にありえなかった︒明治二十年頃を起点として種々の機械化方式が懸命に

研究されてきたにもか4

ツ藍の淫々たる侵入のまえに︑

ついにいづれも産業的に失敗︒かくてコスト安の印度藍さらにはこれを凌ぐドイ

かつて日本総産額の過半を独占していた阿波藍も︑大正期にはいつて致命的な打撃

をうけまったくすたれてしまったのである︒

全国製藍産額中に占める阿波藍の独占的地位を表示すれば︑︹表1

印度藍輸入状況をしめすとn2︺︑ドイツを中心とする人造乾藍輸入状況をしめすと︹表3

阿波藍•印度・独逸藍のコスト比較をおこなうと、〔表4〕のごとくなる。

阿波藍の作付反別の減退を︵桑園と対比して︶しめすと︹表5

一 頁

(8)

46.5 

l5)

藍作反別桑畑反別

明治25 11400 849

41  5200  1520 

大 正7 3000  5810 

昭 和2 659  7620 

※﹁第島県統計書

﹂その他より褐 出 ︒

3)

人造乾藍

輸 入 斤 数

明治35 221,445

37  765,116  39  1, 763, 866  41  2, 181, 952  43  1,523, 121 

大正1 897,688 

3 1,229,349  20  108  9  363,528  11  2, 400, 815 

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四年匹、Oil一、g-――〖――-、g-=‘染lp ︵ 

( 1 )農商務省統計による︒

( 2 )

大正四年における生産 額の噌加は第一次大戦 よる人造藍の輸入杜絡 にもとづくもので︑日 本藍のいはば一狂い疾

き﹂ともいえよう︒

2

3

いづれも東洋軽 済新報﹁大日本 外国貿易五六年 対照表﹂より掲 出 ︒

︵註︶阿波藍業の近代化は︑土豪地主プラス豪農マニュファクチュア場主プラス豪商と して三位一体的に阿波藍を支配してきた旧藩時代の藍商

1 1大藍師の商業資本家と

しての生長と、またこれに対応する巾農•宮裕中農層の染製造家つまり小贅本と

しての生長にか4

わっていた︒明治維新を契機とする藍業制度の改革がこの方向 を目指したものであることはいうまでもないが︑井内弘文氏によれば︑阿波藍商 の農奴主的性格が基本的にのこされ︑阿波藍業を主導したかぎり染製造家の性格 も近代化しきれず︑近代的推転への停濡のうちにドイツ人造藍に圧倒されてしま った︵明治三十︑四十年代を転機として︶︑とされる︵歴史評論︑一九五一年三十三号︶︒な保︑阿波藍の生産

1 1階級構

造の幕末から明治中期にかけての変動と﹁明治維新における阿波藍業制度改革の意義﹂を考察された︑井内氏の本稿は是

非参照されたい︒

阿波︵旧藍作︶畑作地帯人口の存在形態︵市原︶

4)

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コ バ 藍 云 垂 = 均 百 交 て 宍 価 斤 突 杏 合 格 平

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比生 七 ^ ち 産 で 突 宍 較 攪

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2

印度藍輸入

数一

明治1 6,670

13,414  11  32,420  16  22,888  21  284,751  26  412,306  31  1,806,276 

※﹁阿波藍消革史

﹂より引載︒

(9)

旧藍作地帯から養蚕主業へ転移した北井上村と対比して、養蚕•水田主業地帯に移行した隣村南井上•新居両村

をとりだし︑大正三年三月三十一日の﹃徳島県名東郡臨時郡勢調査書﹄より両類型の三村の地目・自小作別耕作別

総面積を掲出すると︹表5︺のごとくなる︒こ4に北井上村の地域的特徴はほぼあきらかとなる︒

こうして︑藍作危機を養蚕へのきりかえでしのいできた養蚕主業地帯農民は︑昭和五年以降の農業恐慌のあらし

に面してふたたび決定的な打撃をこうむった︒繭相場は貫当り十三円から二円前後に激落︑養蚕農家一戸当り収繭

( 3 )  

価額も︑昭和四年ー三八二.六円であったのが︑五年ー一七八.五円︑六年ー一七一.八円と暴落していった︒

( 3 )

蕗菜栽培を兼ねた養蚕主業地域に属していた︒ に藍作は完全に跡を絶ち︑其の用畑は桑園と化し︑藍行商人は繭仲買となってこ4に県内の形勢は一変した﹂と藍

作の衰退にもとづく変遥の事情を述べている。吉野川南岸の麻名用水•吉野川北岸の板名用水は藍作から水田への

転向をとげるため︑この時代にできあがったものである︒しかし飯尾川と吉野川にはさまれた高い北井上村や藍園

村︑さらに北岸の藍園村はどの用水水系にも属していなかったうえにこうした長大な単一水系には地形が適しなか

ったので︑主業を藍作から桑園

11

養蚕へと移しかえる性かなかった︒このようにして大正を境にして︑旧藍作地帯

は二つの地帯麻名・板名用水系の養蚕•水田主業地帯と養蚕主業地帯にわかれた。大正三年における農家一戸

当り平均経営面積が田ー一・一反`畑ー五・三反︵うち桑畑一・一反︶という実態にしめされるように︑北井上村は た ︒

かくて︑藍作にやぶれた農民は明治末期から大正にかけていきるみちを養蚕にはたまた水田耕作にもとめていつ

﹃日本蚕糸業史︑第二巻﹄も﹁徳島県は昔は藍の本場であったが︑染料が輸入に侯つこと4なってから︑こ4

(10)

7

転換には二つの方向があらわれた︒

﹁徊島県農地改革史﹂九頁︒

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( 4 )  

桑園の小作料は定額代金納で米五斗︑麦八斗に換算せられ五0円前後であったが︑あいつぐ繭価の暴落で繭相場

に比例して小作料をきめる仕組みにかわった︑ーさもないと︑小作料は払えなかったし︑地主も小作料がとれなか

ったのである︒農民はこの衝撃のため再度耕作転換をおこない不況からの懸命な脱出をはかったのであるが︑

北井上村をはじめ隣接の藍園︑藍畑村︑総じて旧藍作地帯農民は︑海をこえた大阪市場をめあてとした大根・牛

努などの蕗菜作物︑これら商業作物を加工する阿波沢庵などの加工

11

製造業に転換︑さらに地主のイニツアチィプ

による水田耕作への移行が併行してえらばれたのである︒

明治政府いらい歴代の絶対主義政権は︑米価にたいする保護政策をつうじて国家的に地主保護ー現物高額地代の

阿波︵旧藍作︶畑作池帯人口の存在形瘍︵市原︶

(4)

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5

(11)

8

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販売者の保護ーをおこなってきたのであるが︑昭和六年の米穀法改訂によって米価維持策をさらに押しす4

C 5 )  

この寄生地主制度保護の結果として米作偏重化がますますいちぢるしくなった︒ーー`このような国家的保

護をバックとして︑本県のいはゆる﹁阿波型﹂地主も︑繭価の下落とそれにともなう桑園小作料の減落を収拾する

ため桑園を水田に湿田を乾田に一毛田を二毛田に転換し︑小作料の減落をくいとめるはもちろん︑積極的にそれの

増徴さえもくわだてたのである︒

︵註︶第島県東南平担部では︑大正から昭和にかけて耕地整理・ホ利事業が地主の手によってす4められてきたが︑これらはいづ

れも政府の二重米価政策による地主保護に順応し封建的地代の増徴を目的としたものであった︒ー昭和十三年の県統計に

よれば︑畑小作料は五0%︑一毛田小作料は五一%であったのに︑二毛田小作料は実に六二%であったのである︒

( 5 )

石渡貞維﹁帝国主義の展開過租における食櫃問題の性格と地位﹂五四頁以下︒

北井上村では昭和七年地主のイニツァチィプで飯尾川からモーターで水をあげる用水路計画︵現在の北井上村西部

耕地整理組合︶がたてられ︑そののち東部耕地整理組合︑山岡用水路・古川用水路組合︑西沢用水組合が結成され︑

Q註︱)さらには篠原喜禄氏のように個人でモーター揚水をおこなう富農までもあらわれたのである︒昭和七年に村長久田U

竺 一

虎太氏を中心とする地主勢力によってたてられたこの最初の用水路計画こそは︑﹁増産﹂のスローガンのもとに村

内東部を一括して水利組合を結成し︑県の耕地課官僚と結托して水利組合助成金をひきだし︑桑園小作地を二毛田

小作地に転換して半封建的小作料の増徴を意図したものであった︒この用水路ー水利組合結成計画に反対して小作

人組合がたちあがったのは︑ことの性質上当然であったのであり︑

かくしてこ4に﹁赤旗事件﹂が突発したのであ

るが︑本村における地主勢力と小作農民とのこの衝突をみるまえに︑本県の小作組合運動のあらましに触れておこ

(12)

469 

阿波︵旧藍作︶畑作地帯人口の存在形態︵市原︶ では全農家の六0

七五 ︵註一︶先にも述べたように北井上の地形が︑モークー用水路の分散を強いたのである︒︵註二︶昭和七年創立当時の﹁北井上耕地整理組合﹂︵これが︑ホ利組合

1 1桑園転廃計画の母胎であった︶のヘゲモニーは︑組

合長久田虎一氏︵前の村長で先代は藍商︑かれは所有面積一町あまりの純然たる地主であった︶︑.理事山野喜蔵氏︵次に逹

べる山野常雄氏の餌父で旧藍商︑六町内外所有の地主︶︑同佐野禎吉氏︵先々代は酒屋

1 1肥料商であったが︑本人はたばこ

耕作人組合組合長︑郡農会副会長等を歴任した六町七反所有の地主︶らにあった︒

︵補︶さらに北井上村の地主の性格を知るためその系譜をたどつてみると︑農地改革以前における本村の﹁地主﹂をかりに所 有面積三町歩以上のものに限定すれば︑計九名を数へるにすぎない︵うちさらに︑五町以上所有のものはわずか五戸ーー 齋藤治春氏

1 1 八︑一町︑佐野吉五郎氏

1 1六︑四町︑葵馬清行氏

1 1七町︑山野常雄氏

1 1 五︑二町︑山本信夫氏

01 1 町とな る︶︒このうち藍栽培または藍商にたづさわっていたもの七名におよび︑五町以上所有の五戸はすべて旧藍商であった︒た とえば芙馬家は﹁地方屈指の旧家で藍商﹂山本︑山野両家とも有数の藍栽培者であったのであり︑藍作が衰へると明治三十 七年に蚕種業をおこし︑現主山野常雄氏は現在も県下有数の蚕種業者である︒このように旧藍作地帯の地主は藍作全盛時代

に藍商︑仲買商︑藍栽培をおこなっていたものが多い︒︵大正六年﹃蜂須賀蓬庵︑光明録﹄中の藍餌業継承者氏名より︶

徳島県は戦前有数の小作県として知られ、小作農と自小作農をあはせると、那賀.勝浦•吉野川の沿域平場地帯

しかも収獲高の五0形し六〇痴という高率小作料が現物徴収された︒このような

地主的収奪のはげしさのため︑大正十一年に那賀川下流羽ノ浦︑見能林で火蓋をきった小作料減免斗争は︑小作人

組合の結成による実力行使をともないつ4北方の阿波・麻植両郡に波及︑さらに板野郡へとおいおい東進していつ

た︒半封建

11寄生地主制にいどんだこの減免斗争は県下平坦部にひろがりようやく深刻化したのであるが︑なかん

づく吉野川をへだて4北井上村と隣接する板野郡川内•松茂両村における永小作地の小作人が耕作権の確立を叫ん

でひきおこした争議は︑羽ノ浦・見能林の減免争議と南北に呼応したもので︑紛糾をきわめた︒これは結局︑県小

作官の﹁土地譲渡自作農創設調停案﹂によって妥結し︑吉野川河岸永小作地のいつせい自作農創設をみたのである

(13)

470 

阿波︵旧菫作︶畑作地帯人口の存在形態︵市原︶

G

畑小作料反当四五円︑

0

︵註一︶本県争議の特質は︑二毛田変小作料と永小作に関する争議が某軸を占めることで︑本県特有の二毛田の麦小作料につい

てはすでに桑田美信氏の研究︵農業経済研究︑第五巻第三号︶があり︑要するに旧藩時代の麦租が残ったもの︒米小作料の

ほかに六︑七斗平均の麦小作料が加徴されるので︑二毛田小作料は県平均で牧獲高のほぼ六〇劣︑高い所では実に七〇劣の

高率にたっしたのである︒

︵註二︶右のような事儲のため︑大正七年に名東︑名西︑板野三郡の平担地に発生した減免争議は︑同十四年に日本農民組合の

支部・連合会が結成されるや︑板野︑勝浦二郡平担部の二毛田小作料減免争議︑これと前後して板野︑豚浦二郡の﹁永小作

地﹂に関する永小作地分割要求争議へと展開をみせた︒かくて大正十五年県当局は﹁小作争議はなかんづく大正十一年以︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑来著しくその数を噌やし目下全国中著名なる小作争議地方の一に数へらる4に至り今や批手坐親すぺからざるの状勢にあり

﹂との諭告を発し︑・地主︑小作間の協調と奔走︑昭和二年にいたつて田小作料は五分1一割減︑二毛田の﹁麦﹂小作料は三 割ー七割減とひきさげられ︑いちおう妥結した︒永小作池も小作人が一括して買いとり︑三五0町歩の自作農創設をみたの

である︵小野武夫博士﹁吉野川消岸の永小作問題﹂農商務省農務局刊︑参照︶︒

地調査を見よ︶︑二毛田小作料は反当米一石五斗︑

︵註︶現農協専務理事岡田喜久雄氏の談によれば︑当時米価は石三0円︑麦二0円だったといわれるから︑換金すると二毛田小作

料は反当六0円前後となり︑桑図や将通畑のそれよりはるかに高いことになる︒

七六

(14)

471 

波︑名西郡下にいつせいに桑園小作料の減免斗争がおこり︑従来争議の多かった県南米作地帯も地主の土地返還要

さらに県北の金納小作桑園地方も小作料滞納・減免斗争に対抗した地主の返還要求や桑園小作地の転廃

要求が急増︑昭和七年にはいつて半封建

11地主制を基礎とする右の階級対立はますます激化の歩をす4めたのであ

( 6 )  

4る県下農民事情の一環として︑養蚕主業地帯北井上村に︑久田村長を中心とする地主側の桑園転廃・高率小 る ︒

作料確保のための用水路ー水利組合結成計画が編まれたのであり︑小作農民はいつせいに立ちあがつて反対運動を

おこなったのである︒

め北井上をおとづれた県会議員田所多喜二氏︵小プ炉ジョァ急進主義者︶も﹁過激な義侠家﹂としての面目を発揮し︑

県耕地課と村長の結託を攻撃し︑

﹁争議発展激化の段階﹂を経

い︒つれも小作農民を援助した︒小作農民はみづからの畑一枚l枚に赤旗をうちた

︵ 註

て︑ついに要求をとおしたのであった︵久永現村長談︶︒

︵註︶したがつて西部水利組合の結成は昭和一四年にのび︑この年にはじめて西部︱二

0

町歩の水田化に成功︑久田氏が組合長に

就いたのである︒

だが日本全体の農民運動も︑第一次大戦後昭和十二年にいたる﹁近代的争議確立﹂

( 7 )  

て︑中日事変の勃発を契機に﹁停滞の段階﹂にはいらざるをえなかったのであり︑本村の農民組合運動にも暮色が

ついに昭和一三年に組合は解散のやむなきにいたった︒しかし︑さらにいたましかったのは︑対岸の旧

河岸永小作農民のその後の顛末であった︒永小作地小作人二

00

名余が永いた4かいのすえにかちとった自作農創 県蚕糸課は耕地課と対立し桑園の水田化に反対だったし︑両者︵地主ー小作︶を調停するた (6)

社会政策時報︑昭和十一年五月号﹁四国の小作問題﹂

︵ 上

(15)

472 

( 8 )

北井上耕作人組合世話人会︒ハンフレット 設地のうち松茂新田の相当部分が︑大東亜戦争の勃発にともない松茂海軍飛行場敷地として捨値同様で接収され︑新田農家は住みなれた家と土地を手離し転地のやむなきにいたったことであった︒

八月十五日の敗戦の日がやつてきた︑ー│'松茂新田をうばい農民を離農・転地せしめた兇暴な戦争はおわりを告

げ︑航空機燃料の原料たる甘藷栽培のため学生を河川敷開墾にかりだした軍閥はついえ︑かれらに接収されていた

新田は伝来の農民の手にかえった︒北井上の農民も﹁戦争が終っただけでは幸福になれず︑言葉に絶する生活苦の

ため田畑を荒したり盗みをしたりトバクをしたりする人もいたが︑祖国の歴史の上にかつてない大きなギセイを払

ようやく民主主義思想が芽ばえはじめ︑喰えない村人も土地があれば土地さえあれば︑

( 8 )  

に考えだし祖国や村の再建に不屈の力をよびおこしはじめたのである﹂︒

戦時国家独占資本主義体制のもとでそれとの矛盾

11

対立をつうじて修正・変容をうけつつもあいかはらず温存さ

れたま4

敗戦後にひきつがれた寄生地主

11

半封建制は︑当然︑終戦後の未曽有の農民運動の昂揚によっておびやか

されざるをえなかった︒しかし旧日本軍国主義

11

絶対主義を解体せしめ下請軍国主義

11

従属立憲君主制に再編成し

ようとした国際独占資本は半封建的地代収奪を除き直接農民をとらえ自らの牧奪土壊とせんがため﹁土地があれば B

﹁耕作人粗合ができるまで﹂より︒

(7

) 農政調査会﹁農地改革顛末概要﹂五八ー六

0頁 ︒

阿波︵旧藍作︶畑作地帯人日の存在形態︵市原︶

と生きることを真剣 七八

(16)

47,3, 

土地さえあれば﹂という農民の土地要求を改良的施物によって堕胎せしめんとしたのであり︑

主義の施物をつうじて日農組織はすみやかに伸びたのである︒徳島県にあっても小作料の徹底的減免・金納制の確

立・耕作権の確保を目標として日農組織は飛躍的に伸びたのであるが︑二十一年までに全県下一三四ケ町村のうち

九九ケ町村に一0三支部の設立をみた︒

︵註一︶戦時国家独占資本主義と地主制の対立

1 1矛盾の激化はついに後者の部分的変容を余儀なくさせた︒ーーすなわち昭和十 六年産米を契機とする米価二重制︵地主価格と生産者価格︶の探用によって金納小作料制えの転化の端緒がひらかれ︑現物 高率小作料制を根幹とする地主制

1 1封建制に重大な修正をあたえた︒

︵註二︶終戦の年の十二月にはやくも戦前の農民運動指導者が︑日農県支部連合会を結成︑以後社会党の主導のもとに既往に小 作争議のさかんであった平場地帯を中心に勢力を伸ばしたのである︒

北井上村にあっても旧小作人組合のリーダーであった島伊太郎︑東六郎︑黒橋峯太郎の諸氏が音頭をとつて終戦

の年の暮れにはやくも支部を結成︑小作人の大半一七0名を傘下におさめた︒このように農民とくに貧農の熾烈化

した土地要求は全国的に未曽有の規模で農民運動をもりあげたが︑﹁数世紀に亘る封建的圧制の下に日本国民を奴

隷化してきた経済的極捨を打破する﹂と占領軍に謳いあげられた農地改革は︑旧来の封建制

寄生地主制の抑圧か1 1

ら﹃農民解放﹄をおこない農民の先に述べた土地要求を一応充足せしめて小所有者の大群に再編しつ4資本主義と

私有財産の防衛堡塁に仕立てんとするものであった︒この改革接置は︑本県では二十二年三月の第一回買収期日を

皮切りに二十五年七月の第十六回買収によって完結をみたのであるが︑こ4に体制としての本県ならびに北井上村

の寄生地主制は解体したわけであり︑われわれは﹃北井上村農民解放実絞調査﹄

過程を素描してみることにしよう︒

阿波︵旧藍作︶畑作地帯人口の存在形態︵市原︶

この従属的立憲民主

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71J

改革の糎過概要

北井上村における買収総面積は田三六町二反六畝︑畑六四町九反八畝︑合計一0︱町二反四畝で買収がもっとも

大量的におこなわれたのは昭和二十二年十月二日から同年十二月二日にいたるニヶ月間ーー'田は総買収面積の六六

%︑畑は四五劣を占め︑その後三ケ年間の農地移動面積と仕ぼ匹敵している︒

右買収農地のうち小作地が占める割合は︑田が三四町四反︑畠が六二町九反で計九七町三反となるが︑このうち田については在村地主の被買収地と法人団体(社寺、教会まで)の被買収地とが大体ひとしい。被買収の•もしくは

農地を財産税として物納した・個人もしくは法人地主は合して一八七戸におよぷが︑うち圧倒多数の一七八戸が個

人地主である︒この際注目に値いするのは︑解放面積五反未満の零細地主が一四四戸︵在村五二戸︑不在九二戸︶

被買収地主全体の八五痴を占め︑解放面積五町1

10

町の地主がわづか二戸︑

﹁阿波型﹂農業構造の特徴として︑多数の微細地主により所有される微少片の

小作地が多数の小作人に細割されたま4賃借せられ︑したがつて小作地をめぐる農民の競争が封建的﹁経済外強制﹂

力とあいまつていよいよ小作事情を悪化せしめるかたわら︑高率小作料にまったく寄生する純寄生地主は低とんど

a

いず圧倒多数は中小の自作地主である︑との特質が指摘されている︒このことは北井上村のばあいきわめて明瞭

で︑農地改革に際し零細小地主の手もとを離れた地片ー解放農地が多くの零細小作農に分与された︑という事態の

なかに看取される。以上のことは〔表6〕ー買収された•もしくは財産税として物納された面積の広狭別戸数表、さ

らに〔表7〕ー買収された•あるいは物納した地主の所有規模と経営規模の相関々係の表、さらに〔表8〕ー売渡しを

うけた農家の経営規模別戸数表︑をみればさらにあきらかである︒ くない︑という事情である︒由来︑

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町以上を解放したものはまった

参照

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