国家形成過程における前方後円墳秩序の役割
〜考古学的成果から国家形成を考える〜
澤田秀実
はじめに
私に与えられた課題は列島各地に展開する古墳︑とりわけ各地に造られた鍵穴形の前方後円墳の理解である︒考古学
研究者は前方後円墳︑前方後方墳︑円墳︑方墳などを総称して古墳と呼んでいるが︑これらの古墳を政治史研究に昇華
させたのは小林行雄であり︑伝世鏡論︑同箔鏡論をはじめとする一連の研究よって畿内を優位とした政治的関係の確立
を主張した(小林一九六一)︒さらに西嶋定生は大化二年の薄葬令に示された陵墓等の墳丘格差を起点に遡り︑畿内を優
位に展開する定式化した前方後円墳とその規模の格差に身分秩序(カバネ制)の存在を想定し︑古墳の築造の背景に国
家的身分秩序の存在を指摘して︑古墳研究を古代国家形成史として位置づけた(西嶋一九六一)︒その後︑近藤義郎は西
嶋の主張するカバネ制の存在を否定しつつ︑社会構成史的視点に立って前方後円墳の成立を検討し︑部族連合による政
治体制の確立と結論づけ︑西嶋の認めた国家秩序に否定的見解を示した(近藤一九八三)︒近藤の研究は弥生時代社会の
なかから如何に前方後円墳が成立するかを実証的におこなったものであり︑最古式前方後円墳の祖型を弥生時代墳墓に
みいだし︑両者間にある飛躍的継承を重視し︑前方後円墳の造られた時代を前方後円墳時代11古墳時代と理解した︒ま
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た︑都出比呂志はこの前方後円墳時代には国家を特徴づける四つの指標(身分秩序︑領域支配︑租税︑軍隊)が未成熟な
がら既に存在し︑この前方後円墳の築造に象徴される政治体制を前方後円墳体制と呼び︑このような体制秩序を文化人
類学の成果から初期国家段階と結論づけた(都出一九九一)︒これに対し︑広瀬和雄は首長層が政治的にまとまって形成
した利益共同体を国家と定義し︑前方後円墳の造られた時代を前方後円墳国家として理解し提唱した(広瀬二〇〇三)︒
このように古墳研究の立場からみると前方後円墳の築造に対して異なる理解がなされている︒つまり︑前方後円墳が
畿内を優位に築造され︑畿内を中心とした政治体制の存在を肯定しながらも︑その政治体制を国家段階と捉えるのか︑
国家以前とするのか︑またその過程とみるのかで見解が分かれている︒
ところで小林行雄は古墳の築造開始年代を記紀の記述から四世紀初頭と考え(小林一九六一)︑長く通説となってきた︒
けれども近年の古墳研究は紀年銘をもつ遺物の研究が進み︑最古式前方後円墳に対して暦年代が付与されつつある(岸
本二〇〇一・二〇〇四a︑福永二〇〇五)︒それによれば最古式前方後円墳は西暦二五〇年頃に築造された可能性があり︑
前方後円墳の築造開始と﹁邪馬台国﹂﹁卑弥呼﹂が重なるとの理解が可能になりつつある︒そして︑このことは考古学的
知見と文献史料との連接を示唆しており︑文献史学による﹁倭国王﹂の起点(川口一九七八)と最古式前方後円墳の築造
開始との一致を意味する重要な観点となる︒さらに︑この観点より国家成立を見直すことは考古学的立場による見解の
相違を回避するばかりでなく︑新たな研究視点ともなり得る︒
本報告では︑このような研究の現状や観点を踏まえ︑まずは前方後円墳の成立︑変遷過程とその暦年代観を再確認し︑
定式化した前方後円墳のもつ秩序の実態把握から国家形成過程における前方後円墳の役割について論じてみたいと思・つ︒
1 .前方後円墳の成立︑変遷過程とその暦年代観
a.前方後円墳の成立過程
前方後円墳の起源の解明は近藤義郎の研究によるところが大きい(近藤一九六八︑一九七七︑一九八六︑一九九八ほか)︒
近藤は最古式前方後円墳を︑①前期古墳のなかから最古式前方後円墳を探る︑②弥生時代墳墓のなかに最古式前方後円
墳の起源となる要素を探る︑③海外からの影響を探る︑という三つの方向性から追究した︒そして︑擾形前方部をもち︑
かつ特殊器台形埴輪をもつ古墳が最古式前方後円墳であることを明らかにしたうえで︑弥生墳丘墓のなかに最古式前
方後円墳と共通し︑連なる要素の存在をみいだし︑弥生墳丘墓から飛躍的継承をもって前方後円墳に転化したという考
えを提示した︒また︑このような飛躍的継承をなす背景として中国からの技術的影響を考慮したが︑この近藤の考えは︑
その後の前方後円墳の成立に関する研究に多大な影響を与えた︒
このような近藤の主張は吉備地方南部の弥生墳丘墓の調査研究に負うところが大きい︒なかでも楯築弥生墳丘墓の調
査成果は特殊器台をもちいた墳墓祭式と地域首長の登場とを明確にした︒すなわち楯築弥生墳丘墓の中心埋葬施設上で
おこなわれた特殊器台をともなう供飲供食儀礼を首長権継承儀礼と推断した︒さらに近藤は突出部の機能にも言及し︑
円丘部に設けた中心主体へ葬列が至る通路あるいは待機所として突出部をとらえ︑墓道としての機能を想定した︒そし
て︑前方部がこのような機能を引き継ぎ︑形骸化したものと捉え︑前方部の起源を論じた(近藤二〇〇〇.二〇〇五)︒最
古式前方後円墳の前方部が曲線的な側面形を採り︑しかも左右非対称であること︑また低平に造られていることを勘案
すれば︑近藤の示した突出部から前方部への転化は肯定し得るものである︒
また︑これらの近藤の研究に前後して︑弥生時代の前方後円形墳墓の存在が知られるようになった︒纒向石塚など寺
沢薫が﹁纏向型前方後円墳﹂と呼ぶもの(寺沢一九入八)や鶴尾神社四号墓の発掘調査(渡辺他一九八三)︑丁瓢塚の測
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量調査成果(岸本一九八八)などである︒これらは楯築弥生墳丘墓から最古式前方後円墳(箸墓古墳)は飛躍的に継承さ
れているのではなく︑一定の形態的変化と各地弥生墳丘墓のもつ諸要素を総体化したうえで巨大化し︑成立した可能性
を示すものであった︒さらに報告者は丁瓢塚段階ではのちの箸墓古墳がもつ墳丘築造企画の配布による政治的統治シス
テムが限られた地域のなかで備わっており︑箸墓古墳はその政治的統治システムを列島規模に拡大し︑各地の首長と政
治的紐帯関係を締結していったと理解した(澤田一九九三b)︒弥生墳丘墓から前方後円墳への総体化︑巨大化は︑この
ような漸移的な変化のなかでおこったのであり︑決して墳墓というハードウェアの即物的な変質に留まるものではない︒
むしろ︑弥生墳丘墓が備えていた各地の地域集団が共有した儀礼行為のもつ本質〜ソフトウェア〜が継承︑総体化され
るなかで︑その表現装置であるハードウェアが形式化していったと考えられる︒近藤の説く︑弥生墳丘墓で機能的に存
在した突出部が前方部に引き継がれるのは︑その典型で︑特殊器台から特殊器台形埴輪を経て円筒埴輪に至る過程(近
藤・春成一九六七)と同じような理解ができる︒
このように弥生墳丘墓から前方後円墳へ転化する背景には往時の列島規模での政治的統治システムの確立を認める
ことができる︒
b.前方後円墳の変遷と暦年代
前方後円墳の変遷前節で示した成立過程を経て弥生墳丘墓から誕生した最古式前方後円墳が箸墓古墳だと考
えている(澤田一九九三b)︒また︑桜井茶臼山古墳も黒田弥生墳丘墓を経て誕生したと考えており(澤田二〇〇五
a)︑大和盆地東南部において箸墓古墳と桜井茶臼山古墳を起点とする二つの巨大前方後円墳系列が各地に展開し
た弥生墳丘墓から成立し︑これ以降︑二系列が併存し展開していたと考えている(澤田二〇〇〇・二〇〇五a︑岸本
二〇〇五・二〇〇八)︒紙幅の都合もあり詳細を省くが︑報告者がこれまでに考えた巨大前方後円墳の成立過程と変遷観
を第1図に示した︒
箸墓古墳を起点とする系列(以
下︑箸墓系列)は︑箸墓古墳←西殿
塚古墳←行燈山古墳←五社神古墳
←宝来山古墳︑桜井茶臼山古墳の
起点とする系列(以下︑桜井茶臼山
系列)は︑桜井茶臼山古墳←メスリ
山古墳←渋谷向山古墳←佐紀陵山
古墳と展開し︑それぞれ中期古墳と
連続する︒箸墓系列の中期古墳は宝
来山古墳以降︑前方部を長くし︑幅
を広げる方向で変化し︑宝来山古墳
←(ウワナベ古墳)←大山古墳←土
師ミサンザイ古墳←田出井古墳と
続き︑後期には河内大塚古墳︑今城
180年 頃
嘉
1轟嬉
敬
讐鱗メf⁝
第1図 前 方 後 円墳 の成 立 過 程 と変 遷
塚古墳を経過して五条野丸山古墳へと至る︒一方︑桜井茶臼山系列の中期古墳は︑佐紀陵山古墳以降︑佐紀陵山古墳←(津
堂城山古墳)←仲津山古墳←百舌鳥陵山古墳←誉田御廟山古墳と展開する︒桜井茶臼山系列は誉田御廟山古墳以降︑型
式変化が乏しく︑基本的に中期後半から後期初頭にかけて誉田御廟山古墳で到達した墳丘型式を保っている︒その意味
では︑前期初頭以来の二系列は中期までの展開とみて良い︒けれども後期の前方後円墳には前方部前端を幅広にとる一
群と幅広ながらも前端にむけて開かず柄鏡形をとるものがあり︑前期の二系列との関係性はともかく︑後期も別なかた
ちで二系列が生じ︑保たれている︒
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