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遺伝学とニューロサイエンスの進歩が 精神医学・心理学へ与える影響

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はじめに

近年の精神医学・心理学の進歩は、 「脳」 研究と 「遺伝」 研究の進歩と密接に関わってきている。 従っ て現在、 精神医学・心理学の問題を理解する上では、 「脳」 と 「遺伝」 研究の成果を理解することが重 要となってきた。

遺伝という概念は古く、 古代ギリシャ哲学者はすでに遺伝という概念の芽を育てていた。 しかし、 本 格的な遺伝という概念が構築されるには、 19世紀のヨーロッパを待たなければならなかった。 チャール ズ・ダーウィンの進化論は、 明らかに遺伝という概念のもとに構築された。 遺伝の概念の構築と同時期 に、 ヒトの性格、 行動、 能力が遺伝するかどうかについて興味を持つ科学者も出現した。 精神遺伝学あ るいは行動遺伝学の祖となるのは、 ダーウィンの従兄弟にあたるフランシス・ガルトンであり、 ガルト ン自身ダーウィンの進化論に強く刺激されたと考えていた。 ガルトンは、 様々な人間の行動や能力に関 する遺伝についての調査を行った。 ガルトンが調査した項目は、 知能、 聴力、 視力、 注意力、 記憶力等 広範にわたった。 ガルトンは、 調査の結果を Hereditary Genius として出版し、 ヒトの身体的特徴 と心的な特徴は遺伝するものと結論づけた。 ガルトンの業績は、 その後長く続く 「Nature-Nurture (遺伝か環境か)」 の極端な二者択一論を生み出す先駆けとなった。 ガルトン以降、 20世紀の初頭までは、

遺伝学とニューロサイエンスの進歩が 精神医学・心理学へ与える影響

西 松 能 子

*1

斉 藤 卓 弥

*2

抄 録: 21世紀は、 こころの世紀とも呼ばれている。 19世紀以来ヒトの行動の因るとこ ろは、 「mind (こころ) か body (脳)」 あるいは 「nature (遺伝) か nurture (環境)」 のような二者択一的な思考に支配されてきた。 しかし、 過去50年の科学 の進歩は心理学・精神医学とニューロサイエンスあるいは分子遺伝学と統合させ ることを可能とした。 この進歩から、 ヒトの心理的な現象の脳レベルでの解明、

あるいはヒトの人格・行動に環境と遺伝がどのように関わっているかについて多 くの洞察を得ている。 この論文では、 遺伝学とニューロサイエンスの進歩が精神 医学・心理学へ与える影響について述べ、 「mind (こころ) か body (脳)」 ある いは 「nature (遺伝) か nurture (環境)」 といったパラダイムの変化について 概説する。

*1 立正大学心理学部

*2 アルバート・アインシュタイン医科大学精神科教室

(2)

ヒトの行動の起源に関して遺伝子説が環境説を凌駕してきた。 ウイリアム・ジェームスもこの仮説に影 響され、 人間は動物以上に本能を有していると述べている。 しかし、 第一次世界大戦の後、 シグモント・

フロイトは子供に対する両親の影響、 幼い頃に心に受けた傷に注目し、 環境因をヒトの性格形成や行動 の起源の中心に据えた。 フランツ・ボースは、 人種的違いは歴史と経験および環境によるものであり、

生理学や心理学で説明されるものでは無いと説いた。 ガルトンの仮説が優生学に発展し、 大規模な障害 者やユダヤ人の虐殺につながったこともあり、 20世紀の中頃はヒトの行動や性格が生得的であるとする 説は後退し、 環境説が優勢となった。 しかし1960年代に入り、 行動主義者の B・F スキナーの人の言語 に関する研究や、 子サルに柔らかい布で作った母親モデルと針金で作った母親モデルと与えた時、 柔ら かい布で作った母親モデルを生来的に選択するというハリー・ハーローの研究から、 ヒトの行動や選択 には生来的・遺伝的な要因が強い影響を与えるとの仮説が再び見直された。 ヒトの行動の起源に関する 仮説は、 19世紀末よりフランシス・ガルトン以来の nature か nurture かのパラダイムの間を振 り子のように揺れてきた。 パラダイムの揺れの一因は、 遺伝学あるいは遺伝子に関する誤解あるいは未 熟な理解にあると思われる。 しかし、 21世紀になり、 遺伝学の進歩は、 ヒトの行動に関する起源への nature か nurture の二者選択的な理解から nature と nurture を統合するような理解へ の変化を促している。

一方で、 「こころ」 と 「脳」 の二重構造についても長い歴史がある。 「こころ」 と 「脳」 の関係につ いては、 紀元前にすでにヒポクラテスが 「こころ」 の座は脳にあることを示唆していた。 一方で、 デカ ルトを中心として中世ヨーロッパ以来、 心身二重論が唱えられ、 「こころ」 と 「身体 (脳)」 は別という 考えが近代医学の中に受け継がれてきた。 しかし、 最近のニューロサイエンスの進歩から、 「脳」 が

「こころ」 の座であることは疑う余地がなくなってきている。 画像診断、 電気生理学的、 分子生物学的 な進歩により、 さまざまな心理学的な現象の基盤にある脳の活動や脳の回路が明らかになってきている。

また、 いくつかの研究が、 精神療法の効果が脳の活動に変化を及ぼすことを明らかにしている(3,4,11)。 将来、 心理的な現象がどのように 「脳」 の活動や構造に影響を与え、 また脳の構造や活動の変化がどの ように 「こころ」 の問題に影響を与えるかについての理解が深まっていくことが予想されている。 21世 紀は、 こころの世紀とも呼ばれている。 21世紀は、 生物学的な精神医学およびニューロサイエンスの進 歩とともに、 「こころ」 の働きや精神疾患の科学的な理解が深まると予想されている。 1895年フロイト は当時執筆中の project for a scientific psychology の継続を断念した(8)。 この本は、 フロイトの生 前中は出版されなかった。 フロイトは、 project for a scientific psychology の中で、 当時としては 最も早く神経細胞を介した神経回路が心的な現象の基盤であると仮説し、 心的現象に神経回路を発見し ようと試みた。 しかしフロイドは、 時期早々であるとして生物学的あるいはニューロサイエンスと精神 分析を統合することを断念した(12)。 フロイトが、 ヒトのこころを科学的に理解する project を断念 してから約1世紀が経過し、 今、 精神医学は、 フロイトが時期尚早として断念した project に取り 掛かる科学的な手段を手に入れることができている。 その手段とは分子遺伝学とニューロサイエンスの 進歩である。 この論文では、 2003年7月の心理研究所における講演に基づいて、 ニューロサイエンスと 遺伝学の進歩が精神医学と心理学に及ぼす影響について概説する。

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遺伝となにか?

1866年オーストリアの僧侶グレゴール・メンデルがそら豆に遺伝の関しての論文を発表した。 このメ ンデルの論文は長く忘れ去られ、 メンデルの業績が注目されるのは20世紀を待たなければならなった。

この論文で、 メンデルは遺伝現象を最初に法則として系統立ててまとめあげ、 遺伝学の学問としての基 礎を作った。 メンデル以前にも、 遺伝の概念がなかったわけではない。 親から子にさまざまな特徴 (形 質) が受け継がれることは知られていたが、 明瞭な法則性を見出すことには誰も成功しなかった。 その 理由は、 法則を見つけようとした際に、 純系を使った交配実験が行われたのではなく、 最初から雑種を 使っていたため、 結果が明瞭ではなかったことによる。 メンデルは、 実際の実験を始める前に遺伝的な 特徴について、 純系を得るための作業を行った。 そして7つの明らかに対照的な (対立する) 形質を持 つ種子を選んだ。 メンデルは、 これらのエンドウ豆を使って計画的な交配実験を行ない、 その結果を統 計的に巧みに処理して遺伝現象に法則性を見い出だした。 そして、 親から子に伝えられる形質発現の元 となるものとして、 遺伝因子 (今でいう遺伝子) を仮定し、 遺伝現象を説明した。 メンデルは、 実験の 結果から次の3つの法則を発見した。

1) 優劣の法則;生物のある1対の形質 (たとえばエンドウの種子の形が滑らかで全体が丸いものと、

シワが寄って角ばっているもの) をもつものを交配すると、 雑種第一代では、 すべてが両親のどち らか一方の形質のもの (表面が滑らかで丸いもの) のみが生じ、 他の親の形質のもの (シワが寄っ て角ばったもの) は現れない。 このような雑種第一代で現れる形質を、 優性 (dominant) 形質、

現れない形質を劣性 recessive) 形質と呼ぶ。 雑種第一代では優性の形質のみが現れ、 劣性の形質 が現れない現象を優劣の法則 (law of dominance) という。

2) 分離の法則:メンデルは、 配偶子 (卵子あるいは精子) が形成される際に、 染色体上にある一対 の遺伝子は別々の因子として振る舞い、 生殖細胞には各々の対の片方しか含まないように分離する と仮定した。 この過程で2つの遺伝子は、 お互いに影響を受けず、 混じり合うこともない。 遺伝子 は消失したり、 混合したりしない。 従って劣性形質は覆い隠されるだけで、 次の世代にふたたび表 れることが可能なのである。 この考え方が対立遺伝子の分離の法則である。

3) 独立の法則:単純な一遺伝子雑種 (monohybrid cross) は、 それぞれある一つの座を示す対立 遺伝子の一対が関係する現象である。 メンデルは、 二つまたはそれ以上の形質をもつ交配種につい ても分析した。 二つの対立遺伝子が異なった染色体の上にある時、 それぞれの対はそれぞれ独立し て分配される。 つまり、 二つの異なる形質は異なる遺伝子によって伝達される、

ヒトの形質にも実際に、 血友病、 赤緑色盲、 レシュ・ナイハン症候群、 ハンチントン病、 嚢胞性線維 症などメンデル型の遺伝形式に従うものもある。 しかし、 ヒトの形質は、 身長のように親が背が高けれ ば子も背が高い、 あるいは、 一卵性双生児はよく似た背の高さを示すように遺伝は関与しているものの 明らかなメンデルの法則に従わないものが多い。 実際身長を決定する単一の遺伝子というものがあるわ けではなく、 複数の遺伝子と環境要因が複雑に関与しあって身長という形質がつくられると考えられて いる。 通常このような形質は、 複雑な形質 (complex traits) と呼ばれ、 一つの遺伝子座によっては決 定されない形質のことを示す。 ある形質が常にメンデル型の遺伝形式を示す場合は、 その形質に遺伝子 が関与していることを示すことは容易である。 しかし、 多くの形質はメンデル型のパターンをとらず遺

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伝子の関与を示すことが困難なことが多い。 複雑な形質が遺伝要因に基づくことを証明するには、 家系 内発生傾向があるというだけでは不十分である。 ヒトの行動やさまざまな形質は、 家庭環境のために受 け継がれ遺伝とは全く関係の無いものも多くある。 例としては、 言語が挙げられる。 どのような言語を 話すかは家族内で同一であるが、 遺伝ではなく、 育った環境によって左右される。 さらに、 身体的な疾 患 (糖尿病、 高血圧) や先天的な疾患の多くも家庭環境の影響を受ける。 複雑な形質への遺伝要因の寄 与を明らかにするために、 多くの疫学的な調査が行われてきた。 後に述べるように、 精神疾患の多くも このような疫学調査を通して、 遺伝の関与が示唆されている。

遺伝は何によって媒介されるか?

遺伝子は二つの大きな役割を持っている。 一つは、 次の世代に遺伝情報を伝達する鋳型としてである。

もう一つは、 どの遺伝子が発現するかで、 細胞の構造、 機能その他の生物学的な特徴を規定している。

生物の形質が親から子に伝えられることは明らかになった後も何が遺伝の媒体となっているかについて は長い間不明であった。 1953年ワトソン-クリックの DNA (デオキシリボ核酸) の二重螺旋構造の解明 から分子遺伝学の幕開けが作られた。 遺伝子は、 たんぱく質の一次構造を決定する情報を規定している。

DNA によってどのような mRNA (メッセンジャー・デオキシリボ核酸) が合成されるかが決まり、

次に mRNA によってどのようなポリペプチド (アミノ酸鎖) が作られるかが決まり、 最終的にポリペ プチドからタンパク質が作られる。 このような DNA→RNA→ポリペプチド (タンパク質) の遺伝情 報の流れが、 分子生物学のセントラルドグマ (central Dogma) と言われている。 通常、 この情報の流 れは一方通行方式をとり、 DNA がタンパク質を作る情報の雛形となっている。 遺伝子は、 タンパク質 の鋳型となる mRNA の情報を含む領域と、 その上流にある mRNA の転写に影響を与える領域 (プロ モーターとエンハンサー) である。 プロモーターは、 RNA polymerase と呼ばれる酵素が結合し、 そ こから mRNA の転写が開始される。 エンハンサーは、 特定のタンパク質が結合する領域で、 エンハン サーにタンパク質が結合することによって転写が開始される。 各エンハンサー毎に結合するタンパク質 が異なり、 転写因子と呼ばれる。 さまざまな因子、 つまりホルモン、 ストレスあるいは社会的な要因は、

転写因子そのものとなったりあるいは転写因子がエンハンサーと結合するのに影響を与える(14)。 DNA は、 ヒトでは、 染色体、 ミトコンドリアに存在する。 DNA 分子は、 高分子ポリマーで、 糖残 基とリン酸基が交互に線状になり、 分子の骨格を形成している。 各糖残基の炭素1’ (1プライム) の 位置に窒素を含んだ塩基が共有結合で結合している。 塩基には4種類ある。 アデニン (A)、 シトシン (C)、 グアニン (G)、 チミン (T) である。 この塩基の配列が、 遺伝情報のコードとなる。 DNA は、

2つの DNA 分子 (DNA 鎖) が弱い水素結合で互いに相手を保持するかのような二重らせん構造 (DNA 二本鎖) を形成している。 この際、 アデニン (A) はチミン (T) と、 シトシン (C) はグアニ ン (G) とそれぞれ特異的に結合する。 従って、 二本鎖 DNA の一方の DNA の塩基配列が明らかにな れば、 もう一方も明らかになる (塩基相補性)。 この特徴が、 DNA の複製の時に重要である。 元とな る DNA 二本鎖 (親 DNA 鎖) は、 互いに相補的で逆平行の二本の DNA 鎖からなる。 複製の時にこの 二本鎖がほどけ、 1本づつがそれぞれの鋳型となり、 それぞれの鋳型に対して相補的で逆平行の新しい DNA 鎖 (娘 DNA 鎖) が合成される。 二つの新しく合成された娘 DNA 鎖は、 いずれも一本の親 DNA

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鎖と新しく合成された DNA 鎖とからなり、 その構造は親 DNA 二本鎖と全く同じである。 ヒトの DNA は約30億の塩基配列から構成されており、 通常複製の際のエラーは、 10億から1000億塩基ごとに 一回起きると推定されている。 複製時のエラーを予防するためにさまざまな機構が存在することが知ら れている。 しかしながら、 エラー予防機構をすり抜けて複製時にエラー (突然変異) が起きることがあ る。 精子あるいは卵子の形成時にこのようなエラーが起きると親の DNA とは異なった DNA 情報が子 どもに伝達されることになる。 また、 通常の複製時に突然変異が起きることが細胞の癌化につながる。

遺伝子の発現はどのように制御されているのか?

ヒト・ゲノム計画 (Human Genome Project) が2003年4月に終了し、 ヒトのゲノムの約33億の DNA 情報が明らかになった。 33億の DNA の3%が遺伝子としてたんぱく質の一次構造に関する情報 を含んでいる。 残りのヒト・ゲノムの97%は、 直接遺伝情報とは無関係である。 しかし、 これら遺伝子 を規定していない97%も、 遺伝子の発現の調整に重要な役割を持っていると推定されている。 ヒトの遺 伝子数は、 約30,000と推定され、 当初予想されたよりも遺伝子は少なかった。 この数は、 マウスの 30,000、 線虫20,000、 酵母6,200に比べると、 ヒトの複雑さを考えた時には少なく、 多くの専門家を驚か せた。 実際には遺伝子の数だけが生物の行動や機能の複雑さに影響を与えているのではない。 通常一つ の細胞では特定の遺伝子のみ発現されている。 例えば、 33個の遺伝子が、 発現されるか、 されないかの 組み合わせは100億以上になる (これは、 コインを空中に33回放り投げて、 裏表の出る組み合わせの数 と同じ)。 この組み合わせは、 一つの生物を他の生物から際立たせるのに十分であろうと考えられてい る。 ヒトの遺伝子の約30% (約10,000遺伝子) が脳の活動に関連していると推定されており、 約10,000 の遺伝子の発現の可能な組み合わせは天文学的な数字となり、 ヒトの行動の複雑さを作りあがる一因と 考えられている。 30,000の遺伝子であっても、 遺伝子の発現が内的・外的環境の変化に的確に対応する 機能があれば、 複雑なヒトの活動や機能を説明することが可能である。 従って、 遺伝子の数だけではな く遺伝子がどのように表現されるかが特定の生物の外見や行動の決定に大きな影響力を持っている。

一つの細胞では、 遺伝子の約10から20%のみが発現されている。 遺伝子のなかには、 本質的にあらゆ る細胞の中で発現を必要とされているものがある。 タンパク質の合成やエネルギーの産出のような細胞 の機能に不可欠な遺伝子、 ハウスキーピング遺伝子 (housekeeping gene) と呼ばれる遺伝子がそれに あたる。 しかし、 多くの遺伝子は、 特定の組織のみで発現されている。 例えば、 血中の酸素を運搬する 赤血球内のヘモグロビンの遺伝子は、 赤血球のみで表現されており他の組織では発現されない。 一方で、

糖を分解するインスリンの遺伝子は膵臓では発現されているが、 他の組織では発現されない。 赤血球と 膵臓の細胞は全く同じ遺伝子情報を持っていながらどの遺伝子が発現されるかによって細胞の形態、 機 能が異なる。 同様に、 脳の細胞も他の組織と異なった遺伝子の表現パターンを持っている。 さらに、 脳 の細胞の中でも発現される遺伝子が異なることによって異なった機能と形態を示す。 ハウスキーピング 遺伝子以外の遺伝子の多くは、 ある特定の時期にのみに発現したり、 特定の外的な刺激によって発現が 誘発される遺伝子である。 ヒトの初期の発生・器官形成は、 特定の遺伝子の発現によって支配されてい る。 遺伝子の発現の順序やあるいは必要な遺伝子の発現が起きないことが、 器官形成の異常や奇形の形 成を起こす原因となる。 ヒトの遺伝子の発現の制御は、 おもに転写開始の段階でなされる。 このスイッ

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チ部分は DNA の一部であり、 遺伝子の上流部に位置していて、 プロモーターと呼ばれている。 発現調 節は、 遺伝子のプロモーターを介した RNA ポリメラーゼの結合と解離によって行われる。 遺伝子発現 は、 転写因子のプロモーターへの結合により開始されるが、 その転写の基礎レベルは、 対象となる遺伝 子の近傍配列や、 イントロン内に存在する別の調節領域へのタンパク質の結合により左右される。 1980 年代にハエの遺伝子を研究していた研究者が、 ホックス遺伝子 (Hox gene) と呼ばれる遺伝子群を発 見した。 ホックス遺伝子群は、 DNA 配列と機能が類似した遺伝子が、 クラスター (一列) 上に並んで おり、 クラスターの中で遺伝子の並んでいる順序で、 発生過程で各遺伝子が発現する時間的順序に対応 していると考えられ、 成長の極く初期の段階で、 体の骨格を決める情報を持っていることが明らかになっ た。 つまり、 どこの部分が頭に、 また足に分化していくかについての情報を制御している。 発生の過程 で、 各々の細胞は同じ遺伝子情報を持っているが、 どのホックス遺伝子がどの時期に発現されるかによっ て異なる身体の部位に分化する。 その後、 ホックス遺伝子は、 マウス、 鶏、 ヒトなどすべての哺乳類に 存在することが明らかになった。 マウス、 鶏、 ヒトと種が異なってもホックス遺伝子群は、 構造的 (DNA 配列と制御機構) に似ていて、 作動する目的が同じであることが明らかになった。 外見上、 マ ウスは短い首と長い胴を持ち、 鶏は長い首と短い胴を持っている。 解剖学的には、 この違いは、 マウス が頚椎が、 7個、 胸椎、 13個あるのに対して、 鶏では頚椎14個、 胸椎7個存在することに起因する。 こ の違いは、 現在ではホックス遺伝子の発現に起因すると理解されている。 発生上、 同一の細胞が、 ある 特定のホックス遺伝子が発現すると頚椎となり、 別のホックス遺伝子が発現すると胸椎となることが明 らかになっている。 鶏では、 頚椎への分化を促すホックス遺伝子が広範に発現され、 マウスでは、 胸椎 の発現を促すホックス遺伝子が広範に発現することから解剖上・形態上の違いが引き起こされる。 ホッ クス遺伝子に示されるように、 同じ遺伝子がどこでスイッチのオンとオフになるかにより大きな形態の 変化が起きる。 チンパンジーとヒトの DNA の違いは約3%と言われている。 チンパンジーとヒトの脳 の違いは DNA 情報の違いよりむしろ DNA がどのように表現されるかの違いである。 ヒトとチンパン ジーとマウスの脳皮質の面積の比率は、 1000対100対1である。 この差は遺伝子の質的な差ではなく、

遺伝子の表現の量的あるいは時間的な問題に帰結する。 つまり、 脳の初期の発達における脳細胞の増殖 期の長さによる。 マウスの脳細胞の増殖期間は、 受精後11日から41日 (30日間)、 チンパンジーは、 受 精後40日から120日 (80日間)、 ヒトは、 受精後43日から140日 (100日間) である。 進化の過程でヒトの 妊娠期間が延長し、 それに応じて脳細胞の増殖期間が延長したことが脳細胞の増加、 さらには脳機能全 体の進化に結びついた(13)。 増殖期は、 特定の遺伝子が発現され続けることによって継続されると考え られている。 以上のような事実は、 遺伝子そのものの変化ではなく、 その表現の変化 (いつ、 どこで、

どの程度遺伝子が表現されるか) によって生物間の大きな違い生じることを実証している。

我々の身体を料理にたとえると、 遺伝子は料理を作るための材料である。 ただ材料だけではどのよう な料理が最終的に完成するかわからない。 しかし、 どの材料をどのくらい使って、 どのように料理する かで異なった料理が同じ材料から出来上がる。 同じ材料から、 日本料理ができたり、 フランス料理がで きたりする。 同じように、 人間の行動の進化には一定の時間と順番が必要であった。 丁度それは、 フラ ンス料理を作る時に、 単に材料が与えられているだけでは不十分であり、 加熱の時間、 材料を加える順 番が大事なのと同じである。

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環境か遺伝か

1980年代に入ると新しい発見が相次ぎ、 遺伝子の作用は環境により変化するのでは無いかと考えられ るようになった。 遺伝子の発現機構やゲノムが分かれば分かるほど、 遺伝子が外界に影響され易いのが 明らかになってきた。 外界からの影響とは、 ホルモンや薬物に代表される生物学的なものだけにとどま らず、 心的なストレス、 社会的な体験も遺伝子の発現に影響を与える因子であることが明らかになって きた。 遺伝子とは固定した静的なものではなく、 ヒトが胎児の段階から外界から影響を受けながら、 環 境の変化に柔軟に適応していくものであることが明らかになってきた。 学習によって引き起こされた遺 伝子発現の変化は、 神経細胞の伝達経路の変化を引き起こす。 この変化は、 生物学的な行動の基盤を説 明するだけではなく、 この変化が、 不適応行動の開始と保持に関与している。 最近の研究は、 nature;

遺伝 か nurture;環境 かという二者択一的なパラダイムは無意味であることを明らかにしている。

むしろどのように遺伝子と環境が相互に影響しあっているかのメカニズムを解明するかがこれからの課 題となっていくと思われる。

脳とこころ

特定部位の脳の変化は、 特定の行動や認知の変化を引き起こすことは知られ、 「脳」 が 「こころ」 の 座であることを支持する事実が積み重ねられてきている。 しかしながら、 脳がさまざまな心的な現象を どのように引き起こすかについては、 今だに詳細は不明である。 20世紀の心理・精神科の理論は、 フロ イドの影響を強く受けてきた。 フロイト自身は、 当初神経学者として 「こころ」 の機能を解明しようと した。 特に神経症に注目していて、 神経症には2種類のタイプがあると考えた。 1つは発症に、 生物学 的な要因の強い神経症、 もう一つは心理的影響による神経症である。 フロイトは、 project for a scien- tific psychology の中で、 当時としては最も早く神経細胞を介した神経回路を心的な現象の基盤であ ると仮説し、 神経回路を発見しようと試みた。 しかし、 フロイトは、 生物学によって、 心理学的な現象 を理解することは時期尚早であるとして、 生物学的あるいはニューロサイエンスと精神分析を統合する ことを断念した。 その後、 精神分析の中では生物学的側面の研究が次第に消滅していった。 しかし、 最 近では、 心的な現象が、 脳の機能に深くかかわっていると認識されるようになった。

従来、 脳は非常に静的な器官と考えられていた。 脳の細胞は、 加齢と共に減少し再生能力もない器官 として見られていた。 しかしながら、 最近の研究から、 一部の脳組織は再生能力を持つこと、 記憶や学 習が脳細胞の遺伝子発現の変化あるいは脳の構造的な変化を引き起こすことが実験動物で明らかになり、

以前と異なり脳が柔軟で動的な器官であると認識が変化してきている。 脳の解剖学的な変化が、 個人の 体験や技能によって変化することがヒトにおいても実証されている。 例えば、 音楽家の脳を、 音楽家以 外の脳と比較すると、 音楽家の脳では頻繁に使う指が脳で占める領域が大きくなっていること報告され ている(6)。 また、 楽器を年少期に学んだ音楽家の脳の領域はさらに大きいことが知られている。 この 事は、 学習が直接脳の構造に長期的な変化を引き起こす事を示している。 このような、 身体的な運動だ けではなく、 より複雑な意識的・無意識的な活動も脳によって支配されていることが最近の研究によっ て明らかになってきている。 葛藤状況に置かれている脳の状態を画像を用いてリアルタイムで観察する

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ことも可能となった(5)。 フロイドの防衛の一つである抑制についても、 ニューロサイエンスの立場か らそのメカニズムの解明がされてきている(1)。 自分に不安を与える物事について、 意識的に考えない ようにする防衛機制をフロイトは抑制と呼んだ。 この嫌な記憶は早く忘れ去りたいという心理現象が脳 内で実際に起こり、 それがどのような仕組みで行われているかが最近を機能的 MRI (磁気共鳴画像装 置) を使って明らかにされた。 被験者にまず一対の言葉を記憶してもらい、 次にそのうちの片方を提示 している時、 もう一方の言葉を思い出す、 または意識的に考えるのを避けるように指示した。 その結果、

意識的に考えないよう記憶を抑制している時、 脳の前頭葉の一部で活動が高まり、 逆に記憶の形成に重 要な 「海馬」 の活動は下がったことが示された。 前頭葉が記憶が形成されないように海馬へつながる神 経回路を抑制するように関与することが示唆された(2)。 この例のようなニューロサイエンスの進歩は、

ヒトのさまざまな心理的活動を科学的に観察しその基礎にある脳の活動や回路を解明していくことを可 能にしている。 これは、 フロイドが1895年に放棄した project に他ならない。

大うつ病や強迫性障害においては、 脳の活動に変化が起きていることが画像診断を用いた研究で報告 されている。 さらにこれらの脳の活動の異常は、 薬物あるいは精神療法によって症状が改善した時には 正常化することが報告されている(3,4,11)。 薬物療法と精神療法のいずれもが、 脳に同様の変化を起こす ことは非常に重要な結果であり、 治療の手段に関わらず症状の改善が明らかに脳に影響を及ぼしている。

精神科疾患と遺伝

どのように遺伝子が行動に影響するか?一つの遺伝子は、 一つのタンパク質を規定している。 しかし、

一つのタンパク質が一つの行動を規定していると考えることは困難である。 行動は、 多くの神経細胞か らなる神経回路から生み出される。 神経回路の一つ一つの細胞は、 細胞毎に異なった遺伝子の表現、 つ まり異なったタンパク質の構成から成り立っている。 どのような遺伝子が表現されているかは、 脳の発 達、 維持、 行動の基盤にある神経経路の制御に重要である。 さまざまな種類のタンパク質が、 脳細胞の 正常な活動の維持には必要である。 当然、 脳の活動には多くの遺伝子が関与し、 現在精神科疾患の多く の発症に遺伝子が関わっていると考えられている(7)。 実際に遺伝子の関与が示唆されている疾患とし ては、 統合失調症、 双極性障害、 大うつ病、 恐慌性障、 強迫性障害を含む不安性障害、 注意欠陥多動性 等の疾患が挙げられる。 双子研究、 養子研究を含む家族研究は、 これらの疾患に遺伝が関与することを 証明することに大きな役割を示した。 例えば、 統合失調症の家族内発症が報告され、 遺伝要因の関与が 示唆されている。 統合失調症の罹患危険率は、 第一親族で一般人口の10倍から15倍高い。 一卵性双生児 の一致率は、 30から80% (平均50%)、 二卵性双生児の一致率は、 10から20%と非双生児の同胞の一致 率とほぼ同じである。 さらに、 養子研究では、 生物学的な親と子どもの間では罹患危険率が高く、 養子 が疾患発症の危険から逃れられないことを示した。 同様の家族研究が他の精神疾患についても行われ、

遺伝子の発症への関与が示唆されている。 しかし、 過去10年間多くの研究者がこれら疾患の責任遺伝子 を追究してきたが、 いまだに遺伝子は特定されていない。 先に述べたように精神科疾患が単独の遺伝子 によって引き起こされるメンデル型の遺伝形式をとらない複雑な形式であることが大きな理由の一つで ある。 また、 一卵性双生児の統合失調症の同胞発症率が、 約50%であることからも明らかなように、 遺 伝以外の要因もその発症に関わっていることがある。 統合失調症の発症に関係する環境要因としては、

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母親の妊娠中のインフルエンザ感染、 妊娠中の飢餓、 出産時外傷等があげられる。 統合失調症を始めと した精神科疾患の発症には、 環境要因と遺伝要因の双方が関与すると考えられている。

先に遺伝子には、 二つの機能があると述べた。 一つは遺伝情報を次世代に伝える鋳型としての役割、

もう一つはタンパク質の鋳型としての役割である。 遺伝子情報に基づいて発現されたタンパク質は、 各々 の細胞の特徴を決定することとなる。 例えば、 赤血球では、 ヘモグロビン遺伝子が発現し、 ヘモグロビ ンがタンパク質として作られ、 酸素の運搬を行う。 しかし、 筋肉細胞では、 ヘモグロビン遺伝子は発現 せず、 代わりにミオグロビン遺伝子が発現され、 筋肉の収縮・運動を可能とする。 前者の次世代への情 報の媒体としての遺伝子の役割は、 社会的あるいは体験からの影響を受けないが、 後者の役割は環境や 体験からの影響を強く受ける。 具体的な例としては、 継続した運動によりミオグロビン遺伝子の発現が 促進されて筋肉が強化されることが挙げられる。 ヒトの脳も、 筋肉同様に静的な器官ではなく、 常に外 界からの影響により変化を遂げている。 アメフラシによる実験では、 さまざまな条件刺激に伴って起き る学習が遺伝子の発現に引き起こされることが知られている。 ヒトの精神機能は、 外界の影響を受け絶 え間なく変化しており、 精神機能の変化は学習、 従って遺伝子の発現の変化および脳細胞の機能的な変 化を伴う。 多くの精神疾患では、 遺伝子の発現に異常が認められる。 統合失調症や双極性障害のように 生物学的な影響が強いと考えられている疾患の発症には、 遺伝子の発現の変化が関与していることが報 告されている。 また、 発症に環境因が強く関与している精神疾患についても遺伝子の関与が考えられて いる。 外傷後ストレス障害 (PTSD) の発症にも遺伝子の関与が考えられている。 通常同一のストレス を受けてもすべてのヒトが PTSD を発症することはない。 ある特定のヒトは、 先天的に持っている遺 伝子の組み合わせにより PTSD を発症しやすい、 あるいはストレスを受けても PTSD を発症しにくい と考えられている。 発達、 ストレス、 社会的な体験は、 すべて遺伝子の表現を変化を伴う。 いわゆる神 経症圏の疾患は、 ストレスによって可逆的な遺伝子表現の異常から引き起こされると考えられることが できる。 この事実は、 原因が明らかに環境要因であっても、 結果として起きてくる障害は脳の障害であ ることを示唆している。 最近の知見は、 経験が遺伝子の発現の変化を引き起こし、 脳の神経シナプスの 結合や脳の構造を変化させることが明らかになってきている。 この事実は、 社会・心理的な過程 (環境 因) と生物学的な過程 (遺伝因) が、 脳を介してヒトの行動あるいは精神科疾患の発症へ強い影響を持っ ていることを示唆している。

まとめ

過去50年間の科学の進歩は、 心理学・精神医学とニューロサイエンスを接近させる機会をもたらした。

行動の生物学的な理解を精神分析的な洞察に結びつけることも可能となってきている。 最新の精神医学 は、

1) すべての心的な活動はどんなに複雑なものであっても脳の活動の結果である。 脳の活動は、 身体 的な運動だけではなく、 より複雑な意識的・無意識的な活動を支配している。 従って、 精神的な疾 患は、 脳の障害である。 この事実は、 原因が明らかに環境要因であっても、 結果として起きてくる 障害は脳の障害であることを示唆している。

2) 遺伝子とその産物であるタンパク質は、 脳細胞間の相互間系のパターンや脳細胞の機能を決定す

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る際の重要な決定因子である。 遺伝子、 特に遺伝子の組み合わせが、 行動のコントロールに大きな 影響をおよぼす。 よって当然ながら、 精神疾患の原因の一つは遺伝である。

3) 遺伝子の変異は、 すべての精神疾患の発症を説明できない。 社会的、 発達的な要因が、 精神疾患 発症の重要な要因となる。 遺伝子が行動に寄与するように、 行動や社会的な要因がさまざまなフィー ドバックシステムを介して遺伝子の発現に影響を与え、 脳の活動や脳そのものに変化を及ぼす。 脳 の変化は、 新しい行動の獲得につながる。 獲得・学習された行動 (不適応行動あるいは適応的な行 動) は、 さらに遺伝子の発現に影響を与える。 したがって、 すべての nurture は、 nature.

として表現される。

4) 学習によって引き起こされた遺伝子発現の変化は、 神経細胞の伝達経路の変化を引き起こす。 こ の変化は生物学的な行動の基盤を説明するだけではなく、 この変化が不適応行動の開始と保持に関 与している。

5) 精神療法やカウンセリングは、 長期的な行動の変容に有効である。 この変容は、 学習を介して引 き起こされる。 つまり、 遺伝子の発現の変化、 特定の神経シナプスの強化、 さらには脳の構造的な 変化を介して精神療法の効果は発現する。

現在、 19世紀以来繰り返されてきた nature か nurture か、 あるいは mind か body か といった二者択一的な思考に終止符を打つことのできる時期にきた。 これからは、 「こころのケア」 を 行う上で、 環境的要因と遺伝的要因、 あるいは心理的な要因と脳の疾患としての側面を総合的に把握す る治療モデルを求めていくことが可能となりつつあり、 また求めざるをえなくなっていくと考えられる。

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