6章 生 命 と 脳
三 村 珪 ー
1節 脳 と 生 命 と の か か わ り を 考 え る た め に
動物の進化とともに,ヒトの脳は最も精巧なコンビューターに発達した。し かし,脳は単なるコンビューターではない。ヒトとしての存在,そして生きも のとしてのあらゆる生体のはたらきを統御している中枢である。それとともに 生命を維持する源でもある。このことは,脳死の問題と深いかかわりを持って くるのだが,、人間グとしての死とは何か,逆に言えば生とは何かという哲学的 問題ともかかわってくる。、人間とは何かかに答えられてはじめて,人間の死を 論ずることができる。いわゆる植物人間(脳死と同じではない)は,すでに、人 間ではなくなっているかと考えるならば,、人間としてはか死んで、いると言える
ことになるであろう。
このような議論は,生物学的に,すなわち自然科学的根拠の上に立って,生 命と生命現象とを区別することにより,もっとはっきりしてくるであろう。
動物のからだは,構造的にも,機能的にも,階層性をもっている。われわれ のからだを顕微鏡でも見えないレベルまで細かく踏み込んでゆくと,遂には,
分子レベルにまで到達する。しかし,このレベルでは生きものとは言わない。
物質のレベルの話になる。つまり,生きものはすべて,究極のところ物質から でき上がっているのだが,このレベルでは生命も生命現象もない。それらが集 まって,生きものの最低の単位である細胞や細胞内構造になったとき,初めて 物質のレベルでなく,生物のレベルで,ものが言えるようになり,生命現象が 観察できる。細胞が集まって組織ができ,組織が集まって器官となり,器官を 集めて個体ができる。このような構造上の階層性から見ると,個体のレベルに なって初めて、生命'ということばが使えるようになる。それ以前の,細胞や 組織や器官は,動いたり,分泌したりしても,生命現象とは言っても,生命と
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いうことばは使われない。たとえ壊れて,機能を失っても,細胞の死であり,
器官の死であって,ヒトの死ではない。
このような意味で,生命と生命現象とは区別して考えるべきであり,このこ とか弘、人問。の死を考える議論の一つの根拠も生まれる。
ところで,生命現象はもちろん,、人間の生命'に深いかかわりを持つのが脳 である。以下,脳と生命とのかかわりを知る手がかりを得るために,まず脳の 構造と機能を要約して述べよう。
2節 脳 と ニ ュ ー ロ ン (1) 脳の構造
中枢神経系は,脳と脊髄に 分けられるが,脳は下に示す ように,構造的には最も高次 の大脳皮質から,脳幹を経て,
脊髄に至る階層性がある。脳 幹も,聞脳から橋・延髄に至 る階層性をもっ。小脳のみ,
この階層的経路から外れて脳
幹の背面にくっついている。 図 1 ヒトの脳の断面
(2) 脳の活動を支えるもの一一ニューロンとその回路
脳
脳 髄
生きものはすべて,細胞からできている。脳もその例外ではなく,神経細胞 (ニューロンという)を素子としている。ニューロンをつなぎ合わせて,ニュー ロン回路が形成され,複雑でしかも巧妙な神経系のはたらきを支えている。こ
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のことと,そしてニューロンやニューロン回路のはたらき方とは,すべての種 の動物において,ほとんど変わらない。ヒトだけが特別なニューロンを持って いるわけではなく,イヌもネコも,鳥も見虫さえも同じである。異なるのは,
ニューロン回路が,いかに組まれているかだけである。
まず,動物によって違いのないニューロンそのものと,ニューロン同土のつ なぎ合わせとについて眺めてみる。図2に,典型的なニューロンを示しである が,核のある細胞体と通常言われている部分から,たくさんの樹状突起が伸び,
ほかに1本,神経繊維(軸索)が伸びている。いずれも枝分かれを持ち,神経 繊維の末端も枝分かれして,先端は軸索終末となる。この終末部が他のニュー ロンと接して,シナプスという構造を形成する。神経繊維には,さや(髄鞘) に断続的に包まれた繊維(有髄繊維)と,さやに包まれていない繊維(無髄繊 維)とがある。
ニューロンを介しての情報伝達は電気的なものである。シナプスを介して,
あるニューロンに興奮という現象が起こると,電気的ノわレス(インパルス)が,
細胞体近くから神経繊維を伝わって(伝導入終末部へ到達し,次のニューロン ヘシナプスを介して,その興奮を伝える(伝達)。
ニューロンに微小電極(ガラス毛細管電極)を刺し込むと,突然,電位が負 になり,ニューロンの表面を包んでいる膜を境にして,ニューロンの内部と外
枝ランビ干絞輪
t 無髄軸索
有髄繊維
戸~
神経繊維 1
(軸索) 日 ミトコンドリア ¥ サ
軸 索 終 泊 。 烹 砂 シ ナ プ ス 下 膜
・
‑‑...'・'f 戸 〆
シナプス小胞七五グ 有髄ラメラ構造 シナプス制民r ミエリン鞘)
図2 ニューロンとシナプス 63一
部に常に電位差が保たれ(分極)ていることがわかる(静止膜電位)。インパル スが伝わってくると,一過性に負から正へと逆転し(脱分極),再び負の静止膜 電位レベルに戻る。これが電気的現象から見た興奮の伝導である(図3,A)。
一方,シナプスでの情報の伝達は,多くのシナプスでは化学的伝達による。
神経繊維の終末部にインパルスが伝わってくると,シナプス小胞(図2)に含 まれていた伝達物質が放出され,次のニューロンの膜に作用して,脱分極を起 こさせる。これが次のニューロンの興奮の源となる。このようなシナプスを興 奮性シナプスと言い(図3,B),膜電位(シナプス電位)はパルス状でなく,
緩やかな電位変化である。インパルスは,発生したか,しなかったかの,つま り1かOかのデジタル信号だが,シナプス電位は,シナプス前ニューロンに生 じたインパルスの数によって,大きかったり小さかったりし,また加算もでき るアナログ信号である。脱分極性の興奮性シナプス電位を起こさせる伝達物質 としては,アセチルコリン, ドパミン,アドレナリン,ノルアドレナリン等が 知られている。ところが,伝達物質が,ガンマアミノ酪酸だと,次のニューロ ンのシナプス下膜の分極が,かえって大きくなる(過分極)。分極が大きくなる
A
本!
EPSP IPSP
図3 ニューロンとシナプスの情報の伝え方
ので,興奮(脱分極)を抑える作用をもつことになり,このようなシナプスを 抑制性シナプスと言う(図3,B)。また,シナプス前のニューロンの終末に,
別のニューロンからシナプスを介して信号が伝えられることによって,興奮の 伝達が抑えられる場合がある。シナプスをとおる前に抑えるので,シナプス前 抑制という(図3,B)。
このような神経情報の伝わり方は,同一ニューロンへのシナプスの種類と数,
及び,どのよラなニューロンの回路が作られているかによって,多様な演算を 可能にする。基本的なニューロンやシナプスのはたらきは動物の種によって差 異はなくとも,この回路の多様性によって,動物ごとの神経系としてはたらき
に差が出るのである。
3節 生きていること一一一意識の問題と生命維持
われわれが生きていることの実感は,まず意識があるということが基本にな るであろう。精神分析学では,無意識の世界を重要視するが,このような意識 に対する無意識の問題は,まだ神経生物学的には手の届かない問題であり,除 外せざるを得ない。しかし,そのような無意識の世界は,意識の世界を経ては じめて形成されるものであるから,意識という手の届く問題の解明の先にある ものと考えられる。それはともかく,意識は,意識のない状態(無意識とは異 なる)を手がかりとして解明できるであろうから,眠りとか,麻酔とか,失神 とかいう意識のない状態の脳のメカニズムがわかれば,意識の脳メカニズムの 解明の糸口が得られるであろう。
(1) 意識と直接関連のない脳の機能一一反射・自律機能
まず最初に,意識がある状態でも,意識と無関係に起こる生体現象について 触れておく。
その一つは反射である。ひざの少し下の方がたたかれると,脚が跳ね上がる。
急に光が目に入ると,ひとみ(瞳孔)が縮む。これらはすべて,意識して起こ るのでなしまったく自動的に起こってしまう。このように,特定の刺激を受 けると,その信号が感覚神経系を介して,脳や脊髄の特定の中枢まで伝えられ,
その中枢から運動神経系を介して,特定の器官(あるいは組織)に命令が伝え られて,特定の局所的な反応が自動的に(意識あるいは意志が関与せずに)起
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こることを反射という。反射そのものに意識は直接関与しないが,ひざをたた かれたという感覚や,まぶしい光が目に入った感覚は意識される。しかし,こ れは反射運動を起こすことにはかかわらない。
二つ目は,自律機能である。激しい運動をすれば,自然に呼吸がはずみ,心 臓は早鐘のように打ち,血圧も上がる。心配ごとがあると,食欲がなくなった り,顔色も冴えなくなり,性欲も衰えてしまう。こういったことほ,やはり意 識的に統御できない現象であり,主に内臓の調節をつかさどっている自律神経 系のはたらきに依存している。
上記二つのはたらきのほかに,意識的な統御外のはたらきとしてホルモンの 作 用 が あ る (3章で扱われている)。
いずれにしても,これらのはたらきは,巧妙に生体を危険から守り,生体を ベストコンディションに保とうとする精巧な自動制御機構である。
(2)意識を支える仕組み
前節で,意識があるかないかという,かなりらんぽうな言い方をした。通常 は意識という場合,かなり定義もあいまいで,さまざまな使い方がなされてい る。神経生物学的な,あるいは医学的な観点、に限っても,いくつかのレベルを 考えることができる。緊張して目を輝かせているような高い意識レベルの状態,
ボーッとして頭が休んでいるような状態, トロトロと少し眠けが襲って来たよ うな状態,うつらうつらと眠っているのか覚めているのかわからないような状 態などがそれである。脳の中では,こういう時どんなことが起ごっているので あろうか。
この解明は,脳波の記録が容易にできるようになって急速に進んだ。ニュー ロンの活動は電気現象として記録できることは,すでに述べたが,脳波とは,
脳全体のニューロン活動に伴う電気現象を,頭皮上(手術中や動物実験では直 接脳表面や脳内部)に置かれた電極から記録したものである。波のかたちとし て記録されるので,脳波ということばが使われる。この脳波の出方が,意識の レベルの変化に伴って,明瞭に変わるので,非常に有効な研究手段となった。
図4に見られるように,安静状態では, α波と呼ばれる,ほぽ10Hzの規則的な 波が出る。眠けが襲ってくると, α波はその下の記録のように少し乱れて,緩 やかさが出てくる。うつらうつらしてくると 3段目のような緩やかなふれの
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章 生 命 と 脳
紡錘突発波
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図4 さまざまな脳波
所々で,少し周波数の高い波がまとまって出る(紡錘突発波)。完全に眠りこん でしまうと,最下段のような,振幅の大きな,緩やかな波だけとなるは波)。
緊張したり,考えごとをしていると,不規則で振幅の小さいノイズ状の変化 (β 波)となる。
今述べた眠りに伴う脳波の変化のほかに,別の眠りの状態が,ヒトばかりで なく,ネコやイヌでも見られる。脳波のみを見るならば,覚めているときに生 じる脳波である β波を発生しながら,なお眠っている場合がある。このとき,
眼球の速やかな運動を伴うので, REM (rapid eye movementの略)と呼び,
普通の眠りを,これに対して NREM(non REM)と呼ぶ。一晩中,眠りを観 察していると,通常はNREMであるが,約1時間半ごとに,短時間REMが挿 入されるといった周期性が見られる。NREMでは,体全体が休息に適したバラ ンスのとれた状態となるが, REMでは,どちらかというと,バランスの崩れた 状態である。しかも大抵のREMでは夢を見ている。 REMを起こさないよう に,REMになったらすぐ起こしてしまうといったことをすると,眠り込んだと たんにREMに入ろうとすることなどから, REMは眠りにとって大切な時期 だと思える。精神分析学者フロイトは,夢は覚めているときのストレス解消の 役を果たし,かつ現実から遊離しながらも,現実の記憶をもとに作られた内容 を持つと言っているが,そのことはREMの現れ方から見て,正しいかもしれな
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し
=
。
ところで,脳波は頭皮上から記録するため,主として電極に近い大脳皮質の ニューロン活動を表現すると考えられるが,実は,このような大脳皮質の活動 は,脳幹からのコントロールによることがわかつて来た。眠りと覚せいの発生 には,脳幹の中心部にある網様体や視床下部が覚せいに,橋・延髄の正中部に ある縫線核がNREMに,そして橋の両側にある青斑核がREMに、それぞれ関 与している。感覚刺激などによって起こされる脳幹網様体の活動は,大脳皮質 全体を覚せい状態にしてβ波を発生させる。一方,眠りに関係のある二つの核 は,神経分泌ニューロンで,縫線核にはセロトニンを,青斑核にはノルアドレ ナリンを含んだニューロンがある。しかし,これらの核の活動すなわち液性コ ントロールがREMやNREMと直接かかわりがあるということは未確定であ る。むしろ,覚せい系との相互干渉を考慮に入れて,全体としての大きな系と して働くらしいという考えが強くなっている。
(3)生を支えるもの一一本能
ヒトを含めて,動物は生きのびて行くために,食物をとり,子孫を殖やさね ばならない。このような個体維持と種族保存のために,食欲と性欲という欲求 を伴う本能がある。このこっともを,みごとにコントロールするメカニズムが
『必にある。
視床下部の腹内側核が破壊されると,動物はえさを食べ過ぎて肥満し,ラッ トの場合, 4週間で体重が3倍にもなった。又,視床下部の外側核が破壊され ると,動物はえさを食べなくなれ急速にやせて,遂には栄養失調で死亡する に至る。すなわち,腹内側核は満腹を感じて,食物をとることを抑える中枢で あり,外側核は逆に,食物をとることを促す中枢であるといえる。つまり,食 欲はこれら二つの核の,いわばプラスとマイナスの中枢で,うまくコントロー ルされているのである。
では,どのようなメカニズムで,これらの中枢が作動するのであろうか,満 腹時には,血液中の糖の値が上がれ空腹時には逆に下がることが知られてい る。満腹によって食物をとることを抑える腹内側核には,糖濃度の上昇が刺激 となって興奮するニューロンがあれ空腹時に食物をとることを促す外側核に は,糖濃度の低下が刺激となって興奮するニューロンがあることがわかった。
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性欲も,視床下部にその中枢があり,そこの視束前野の刺激によって勃起が 起こることが,ラットで知られている。この性欲の中枢は,視床下部ではある が,動物によって部位が異なるが,これら部位には,性ホルモン(エストロゲ ン)によって刺激されるニューロンがある。一般に,性欲は性ホルモンによる とされているが,もし視床下部のこの中枢が破壊されると,いくらホルモンを 注射しでも,性欲は起こらないので,ホルモンのみによるものではなし脳の はたらきが優先するといえる。又,雄ネコの前部視床下部を壊すと,発情を持 続し,相手かまわず性行動をいどむようになる。したがって,ここには性行動 を抑える中枢があると考えられ,食欲と同様,プラスとマイナスで巧みにコン
トロールされていると言える。
これら食と性の中枢は,脳幹にあるが,大脳皮質が,まったく関与しないわ けではない。食欲も,味ゃにおいや色で影響を受けるが,これはその一例であ ろう。性行動も,サルやヒトになると,学習の要素が入ってくる。ヒトの場合,
特に男性は環境の影響によって,性行動は左右される。
4節 ヒトの脳の特徴 (1)大脳皮質におけるヒトの特徴
最も簡単な脳脊髄は,原索動物のナメクジウオで見られ,脳と脊髄との区別 は,ほとんどない。脳の構造は,進化に伴って頭化を示す。脊椎動物では,細 胞群の移動というより,むしろ新しい細胞群が古い細胞群に積み重なって増大 して,脳の発達が見られる。高次の機能は,より高次の脳へと移り,構造も複 雑になってゆく。機能的にも,脳脊髄の分業体制から,しだいに中央集権的統 合作用が高次の脳に集まってくる。その最高のレベルにヒトの脳がある。ヒト の脳の第1の特徴は,その巨大化である。脳に対する脊髄の重さは,たった 2%
になる。第2は,大脳皮質が脳の中でも,最も大きくなり,特に,前頭葉や側 頭葉の発達が著しいことである。大脳皮質には,各種の感覚器からの信号を受 け取る感覚野と,大脳からの信号を送り出す運動野があるが,いずれにも属さ ない領野を連合野と呼ぶ。ヒトの脳では,この連合野が大脳皮質のかなりの部 分を占め,感覚野や運動野を加えた領域より,はるかに大きくなっているのが 特徴的である。
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前頭葉の連合野は,大脳皮質面積の四分のーをも占めるほど広いのが,ヒト の脳の第3の特徴である。 19世紀末すでにフレクジッヒが,この皮質は,論理 的思考や意志決定などの最高精神機能が営まれ,自我意識もここで生ずると述 べているが,驚くべき眼識といえよう。この皮質の機能を明らかにするには,
ヒト特有の皮質なので,動物による実験には限界があり,この部分の損傷によ る機能障害からの推測に頼るしかないが,複雑な行動の時間的・空間的手Ii買の プログラミング,周囲の状況への適応,野心・責任感・節度などの人格構造に 関与するようである。
側頭葉付近には,ヒトとしての第 4の特徴である言語に関する中枢がある。
前頭葉運動野の下方には,ことばを話す中枢があり(前言語野),側頭葉の聴覚 領に近接して,話されることばを聴く中枢がある(後言語野)。文,補助的言語 野として頭頂部の内側に上言語野と呼ばれる領域がある。右利きの人の92%は 左半球に言語中枢があるが,左利き及び両手利きの場合は,左半球に言語中枢 のあるパーセンテージは69%となる。
(2)発達と学習・記憶
ヒトの最大の特徴は,誕生してから一人前になるのに, 17~18年もかかると いうこと,そしてその永い発達期間の在り方が重要な影響を脳の機能に及ぼす ということである。すなわち,発達中に多くのものを,学習や記憶によって獲 得してゆくこと,つまり脳の神経活動の可塑性が大きな特徴だということであ る。
発達に伴う,脳の機能獲得は,誕生後ならば,いつでもよいというわけには いかない。機能によって,適当な,あるいは効率的な,機能獲得の時期がある ようである。図5に示すように,ヒトの脳重量は,胎児の頃から誕生後2‑3
年の聞に,急速に増大する。脳の重さをそのまま,ニューロンの発達と結びつ けるわけにもいかないが,乳児から幼児にかけての時期に与えられる刺激は,
同じ刺激がそれ以後与えられた場合に比べると,はるかに影響が強いことが,
推測できるであろう。脳のニューロンの数は,出生時に数が決まり,その後は 他の組織と異なり,増えることはなく,むしろ減少するばかりである。にもか かわらず,脳が大きくなるのは,個々のニューロンの成長のためである。
環境からの刺激が,いかに脳の機能形成に影響を及ぽしているかの実例を見
1.51
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~ 0.5
出生 2 4 6 8←一正人
年 齢 ( 歳 ) 図5 発達に伴うヒトの脳の重量変化
てみよう。われわれは,目が健全であれば,人の顔やら,本やら,家やらをパツ と見分けられると思うかもしれない。しかし,そうではない。生まれたときか ら目が正常にはたらき,かついろいろな周囲のものを見て来たことによって,
初めて,いわゆるパターン認識が可能になるのである。生後ず、っと角膜(眼球 の前面の膜)の傷害で,明るさのみは分かるが,パターンを見ることなく育っ た人が,角膜移植などの治療によって,正常な目になっても,すぐにはパター ン弁別が不可能だという事実は,これを物語っている。実験的にも,正常な視 環境で、育ったサルは,パターン弁別ができるが,暗やみで育てられたサルは,
パターン弁別がまったくできなかったという。さらに興味あることに,子ネコ を縦じまの視環境の中で育て,それ以外のパターンを見せないでおくと,その ネコの脳の視覚中枢は,縦じまを弁別できる機能を持つニューロンしか存在し ないのである。この場合,子ネコは縦じまに固まれた空間を自由に歩行できな ければならない。つまり,自分から縦じまを、見る。ことが大切な条件で,、見 させられるかのでは,パターン視は形成されにくいのである。自由に歩きまわ れるネコと,ゴンドラと称する箱に乗せられて,自分では動けないが,自由に 歩きまわれるネコの動きによって動かされるネコについて,視覚経験をさせた 結果,受動的に視覚経験をさせられたネコは,能動的に動いて育ったネコよれ かなり視覚行動が劣ることがわかった。
ミツパチやハエなどの見虫でも,われわれとは弁別できるパターンが異なる
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けれども,パターン弁別が可能でーある。ハエで調べた結果,羽化して4日間を 暗やみで飼育すると,パターン弁別機能の発達がないことがわかった。
いずれの研究払成長過程のきわめて初期の刺激経験が,その後の機能発達 に強い影響を及ぼすことを示している。このメカニズムはどういうものであろ うか。
図6は,ヒトの脳の第一次視覚領の体積とシナプス密度の,発達に伴う変化 を調べたものである。体積は,前に述べたように,急速な増大ののちは,ほと んど変化を示さない。むしろ年令とともに減少する。ところが,シナプス密度 は,生後10カ月で最大となり,以後減少する。脳活動の複雑さは,ニューロン 回路の複雑さに対応し,ニューロン回路の形成は,とりもなおさずシナプス形 成の反映である。したがって,生後早期の視覚経験が視覚機能発達にとって大 事であることは,このような早期のシナプス形成と何らかのつながりがあると 考えられる。シナプス形成と関連して,いかにニューロン回路が複雑に形成さ れるかは,ニユ}ロンの樹状突起分枝の発達にかかかわる。図7は,ラットで 調べたものであるが,刺激が多い,豊かな環境下に置かれたラットの方が樹状 突起の発達がよいことがわかる。
これらのことは,生後早期のニューロン回路形成の最適時に,そのニューロ ン回路を機能させるに適した信号(環境刺激)が与えられることが必要条件と なって,それ以後のそのニューロン回路形成を決定づけるといえる。これは神
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図6 発達に伴う脳の第一次視覚領のシナプス密度と体積の変化(ヒト)
経活動の可塑性にほかならない。 11 このような生後の経験による神経活動 10 の発達の根拠になるメカニズムについて 9 は,三つの考え方がある。第1は,誕生 8 時にすでにあらゆる機能を司る基礎づく 校分 7
りができているが,入ってくる信号に左 数の 6 右されて,ある信号が入ってこないと, 平 5
{ t直勾 4 それを扱う回路が発達せず退行してしま
うという淘汰説である。第2は,やはり, 3 2
誕生時にすでにすべての機能の基礎づく
りがあっても,ある信号が強く作用すれ 。1 2
3 4 5次
ば,他の機能をもつはずの未熟な細胞が, 1M状突起の分校 ひきずられて,その信号を扱う回路に変
わって発達するという教導説である。第 図7 環境に影響される大脳の ニューロンの発達(ラット) 3は,誕生時には,すべての機能に対応
するような基礎づくりはできておらず,強く入って来た信号に対応して,それ に適した回路ができあがってゆくという新生説ともいうべき考えである。これ らは,多くの実験的根拠があって,初めて証明されるべきものだが,どれか一 つの説ですべての発達による変容を説明することは不可能かもしれない。
5節 再 び 脳 と 生 命 に つ い て
一一七トとヒト以外の生きものの生と死そして脳死
以上見て来たように,脳と生命とは深いかかわりがある。そしてヒトの脳は ヒトを人間たらしめている中枢であることもおわかりいただけたであろう。
最近,議論になっている脳死を死の判定とすべきかどうかは,まず生命の終 わりを,生きものとしての死とするか,又は人間としての死とすべきかという
ことから出発しなければならないだろう。脳の機能を見て来ると,この二者は 明らかに異なることは納得できょう。そのうえで脳死を論ずるべきである。
ところで,脳死といっても,そう簡単ではない。中脳から下の網様体が,も とに戻らないほどに侵された場合は,意識は回復しないから,ヒトとして死ん
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だと判定してよいという考えがある。しかし,この場合も,可能性は少ないと しても,視床下部と大脳皮質との連絡によって目覚めることがあるし,時間を かけて人工栄養を続げると,覚せいの脳波が観察されることがある。したがっ て,間脳を含めて,それより下の網様体が不可逆的に破壊された、真の意味の 脳死かであるなら問題はない。一方,脳幹は破壊されたが,大脳皮質は健在で あるという場合は(あまり可能性はないが)生理的な刺激で反応が起こらない 限り,脳死といえる。
以上,脳と生命とのかかわりについて述べて来たが,ヒトは脳のニューロン のはたらきによって,環境情報を受け入れ,行動として表現し,経験によって 蓄積された記憶を含めて人格・個性を形成することを考えれば,人聞の存在に 対する脳の果たす役割の重要さがあらためて認識できるであろう。
参 考 図
図l ヒトの脳の断面 (}II村:脳はとりかえられるか 共立出版 1988)
図2 ニューロンとシナプス(桑原・森田:感覚・行動の生物学岩波書庖 1983) 図3 ニューロンとシナプスの情報の伝え方(桑原・森田:感覚・行動の生物学 岩波書庖
1983)
図4 さまざまな脳波(菊山他:人聞の生物学培風館 1985)
図5 発達に伴うヒトの脳の重量変化(津本:脳と発達朝倉書庖 1986)
図6 発達に伴う脳の第一次視覚領のシナプス密度と体積の変化(ヒト) (津本:脳と発達 朝倉書庖 1986)
図7 環境に影響される大脳のニューロンの発達(ラット) (津本:脳と発達朝倉書庖 1986)