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長崎居留地貿易時代の内地通商と居留地自治行政

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Title

長崎居留地貿易時代の内地通商と居留地自治行政

Author(s)

重藤, 威夫

Citation

経営と経済, 44(2), pp.55-115; 1964

Issue Date

1964-07-25

URL

http://hdl.handle.net/10069/27671

Right

NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE

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長崎居留地貿易時代の内地通商と居留地自治行政

目         次 一遊歩視程と犯別事件 二 開港場と開市場 三 遊歩規程内の通商 四 居留地と雑居地 五 居留地・雑居地外打市街地での通商 六 居留地と自治行政権

一、遊歩規程と犯則事件

永い鎖国の後、安政五年の開国条約により、諸外国に門戸を開いたが、幕府は依然として鎖国時代の按夷思想をう けつぎ、諸外国に対してかなりきびしい居住及び遊歩の制限政策をとった。これは開国当初、外人が我国の人情、生 活慣習、地理、産業等の知識に早くから通ずることを妨げ、貿易の発展を阻害するものであったことは明かである。 しかし他面からこれを見れば、当時我国では紅毛人という理由だけで、外人を殺害する事件が激突していたから、外 長崎居留地貿易時代の内地通商と居留地自治行政      五五

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経 営 と 経 済 五 六 人の保護・取締上必要であったことも考えられる。 鎖国時代蘭人は出島に箆の烏生活をよぎなくされ、外出は容易にできなかった。 て、市中散歩を許されるにすぎなかった。その際警固役人が同行した。それは抜荷を防ぐと同時にキリスト教の伝道 を禁ずる目的から出たものである。しかし、享保十年に、関人が馬五頭で長崎の郊外に遠乗した記録も残っている。 そこは出島から約六粁ある浦上村山里であって、長崎代官所の支配下にあり、幕府の公領地である。その際、閑人か ら手土産として、当時貴重品であった白砂糖壱俵を同村の庄屋高谷家へ贈っている。遠乗の許可をうるために、長崎 一年にようやく数回その数を限っ 奉行や代官等にもそれぞれ贈物をしたことが考えられる。 享保十年八月十周回 μ 阿関陀馬五疋浦上村筋え遠乗として参ル尤此方に参ル土産として白砂糖壱俵を進物いたす手 番え伺受用いたす 唐人屋敷の唐人も同様の取扱をうけた。彼等は唐船入港時の荷役、唐船の修理工事、聖福寺での関帝祭(四月十三 日)唐三ケ寺(興福寺、崇福寺、福済寺)の祭礼(三月、七月、九月の二十三日、年三回あった)、身内の墓参の時 以外は、二の門から外に出ることはできなかった。荷役で外出した場合、一定の道筋からそれることは禁制であった。 外出の際には唐人容が護衛した。これらの諸制度が如何なる点まで励行されていたか、或はその違反に対して、幕府 は唐人に対して如何なる処置をとったかということについては、具体的な事例によって知る外はない。歴史は先づ個 々の具体的事実から出発しなければならない。特定の問題意識の下に、史料の中から、その問題に適合する諸事項を 選び出し、それらを集めなければならない。それらの諸事項の中から一般的傾向を把握守る乙とが、歴史研究の初歩 ヮ “ 的な根本法別である。これについては長崎奉行所の犯科帳は次のように物語っている。{ 付 嘉永四年一月二六日に、唐船工社(水夫) の黄順使は唐船修理場で働いた後、唐人屋敷へ戻るために帰途につ

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いた。しかし定められた道筋から、 それようとしたので出役(唐人審) から制止された。彼はそれを怒って、唐 人容に暴行を加えた。 右の唐人に対して、奉行所としては重く罰すべき筈であるが、今後かかる行為をやらないからと船主(船長) と共に憐びんを願ったので、格別の慈悲を以て﹁急度叱﹂という処罰に

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た 。 乙の時代には、唐人が荷役或は唐船修理等の特定の用務で外出する場合には、 いたことが、乙の事件によって知られる。それに違反することは違法行為であった。右の場合、これは未遂であ 一定の道筋を通ることになって 仁} るが、右の処罰は主として暴行によるものである。 安政四年九月十一日に唐船の工社(水夫)十三名が、唐人屋敷の近くの本箆町に、諏訪神社の祭礼の踊が来た のを見物するために、勝手にその屋敷から立出た。そして唐館附近をうろついていた。奉行所の許可を得ないで、 唐館から出ることは違法行為であった口 奉行所の判決文は次のように述べている。市中外出については前々から注意を与えておいたし、まにこの四月 には固くいましめていたところである。もっと重く罰すべきであるが、他に疑わしい筋もないので、格別の慈悲 で一同を急度比に処する。 右の判決文は唐人に対するきびしい外出取締の模様をよく伝えている。蘭人に対しては、すでにこれより二年前の 安政二年十二月二十三日(一八五六・一・・三

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に長崎奉行とオランダ全権ヘンドリック・ドンケル・キュルチウス との聞で締結された﹁日商条約﹂ (長崎条約)によって、箆の烏生活からかなり解放されていた。その条約によって、 的人は警固役人を同行しないで、市内のこれまで許されていた場所へ自由に散歩すること(第一条)及び港内での魚 釣(第十三条)が認められた。 長 崎 居 留 地 貿 易 時 代 の 内 地 通 商 と 居 留 地 自 治 行 政 五 七

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経 営 と 経 済 これは右の判決文にあらわれた唐人に対するきびしい取締に比べて、かなり著るしい寛大な規定である。幕府は唐、 蘭両国人に対して、かなり差別待遇をしている。幕府が蘭人の取扱を寛大にした理由は、その当時日関両国間の友好 関係を著るしく増進する事実があったことによるものである。即ち、安政二年十月に長崎に開設された海軍伝習所教 官として、蘭人が幕府から招へいされて来朝した事実があり、また周年六月に長崎に入港したオランダ軍艦二隻のう 五入 一隻はオランダ国王から幕府に寄贈された軍艦であった事実がある。 翌安政三年十二月には蘭人は市中で直接に邦人の活から物品を購入できるようになった。 閑人は市中の散歩は自由になったが、出島以外へ外泊することは許きれなかった。その違反は処罰された。次の事 q u 件はそのことを示すものである吋 ↑ り 、 安政四年三月に商人二名が邦人通訳(阿蔚陀小通事末席)一名を伴って、寄合町の遊女屋に行き、遊女芸者を呼 ょせ酒宴をした。両人はそのまま翌朝まで遊女屋に寝泊した。との事件が奉行所に知れ、関係者はそれぞれ次の ように処罰された。 通事は警固役人として同行したのでないことは条約上明かであって、単なる通訳にすぎないが、 ﹁遊興の上及夜分 候は、、何様にも申諭連戻るべき﹂筈を、両人共腹痛が起って難儀している折柄とはいえ、翌朝まで遊女屋に宿泊さ せたのは不屈であるとして、急度叱の処分をうけた。遊女屋の女主人は閑人の宿泊を町役人にまでは届出たが、奉行 所に訴え出なかったことは﹁不念﹂であるから、叱の処分をうけた。 同町乙名は過料三貫文また同町組頭四名は急度叱の処罰をうけた。右の町役人五名は遊女屋主人から j 商人二名が 酒宴を催し、夜に入っても引取らないので迷惑している旨の届出があったのをそのままにしておき、奉行所訴え出な かったのは不屈であるという理由によるものである。

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商人二名は安政二年の日関条約第二条に治外法権の規定があるために、領事裁判の管理下に属する。従って犯科帳 にはその処罰は記載されていない。オランダ領事である出島商館長(カピタン)は、おそらく不問に附したであろう Q 市内における自由行動は常に出島の商人達が要求していたからである。これに関する記録は長崎県立図書館其の他に おいて見当らない。 安政元年以降、英、仏、露、蘭の各国の軍艦が度々長崎に入港する事情もあり、また安政四年五月には日米間に下 回条約が成立した。これらの開国への諸情勢が強くなっては、幕府も何時までも鎖国時代の政策を固守することはで きないようになった。 安政四年六月には条約締結各国人(米、英、露、蘭)の長崎市中への上陸と市内の遊歩を許可した。これは幕府が 各国人に対してかなり開放態勢をとるようになったことを意味するが、遂に安政五年六月に神奈川で締結された日米 修好通商条約で開国は決定的になった。引つづき同年中に蘭・露・英・仏の各国との条約が成立した。 五ヶ国条約以後は外国人は開港場の一定区域を限り居住を許され、内地での居住は認められない乙とになった。ま た各条約には遊歩規程があって、開港場の周辺の一定の地区を遊歩区域と定められ、その地域内では自由に往来しう るが、内地への旅行は条約上許されていなかった。後に明治七年六月以後は病気養生と学術研究に限り、内地旅行を 個別的に認められるようになった。その事例はある(後述)が、この場合外務大臣の旅行免状を必要とした。内地居 住は原則として認められず、内地通商にいたっては明治三十二年七月の条約での実施にいたるまで認められなかった。 遊歩区域は神奈川・箱館・兵庫では原則として開港場の周辺十里(但し京都の万へは、その十里手前で止める)以 内と定められていた。長崎は﹁其町の周囲にある御料所を限りとす﹂とされた。それは長崎の市街地とその周囲の浦 上村山里と淵村等を合ひところの幕府の公領地を意味する。他の開港場に比べて若るしく狭い地域に限定された。 長崎居留地貿易時代の内地通商と居留地自治行政 五 九

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六 O 明治二年九月の日填条約第三条に﹁長崎にては其周囲にある長崎県の支配地を限りとすことされたが、乙の長崎県 は廃藩置県以前の長崎県であって、御料所に一致するものであった。その後明治四年に廃藩置県が実行されたが、外 国側は廃藩置県以後の長崎県を要求し、明治政府は依然として御料所を主張した。結局、明治十二年十二月に遊歩区 域を拡大した。従来、御料所だけに限られていたのを、廃藩置県後の長崎県の全域にまで拡大した。その範囲は大体 において長崎港を中心として十里四万の地域が含まれている。長崎県に属する五島列島と北松浦郡は除かれているが、 それらは長崎港から十里以上の距離にあるからである。これで他の開港場なみの遊歩区域になった。 遊歩区域から奉行所に無断で越境した場合には、条約違犯として犯則事件になる。生きた具体的実例として、犯科 帳から次の二件をとり上げることは歴史研究に大いに有意義であると信ずる。次の例は長崎で遊歩関域が拡大される A せ 以前即、遊歩区域がまだ御料所に限られていた時代、文久年間に長崎で起った犯則事件である。 付文久二年アラビア人カチヨンが日本人の召使でありまたその情婦でもあった女を同伴して、島原半島の小浜温 泉へ出かけた。女は外人が長崎以外の私領地に出かけることは禁制であることを知っていたが、アラビア人から 強く要求されたので、やむをえず出かけたと陳述している。途中、日見村の種右衛門は二人の様子を見てそれと 察し、北串山村の無宿の和三次と共謀して両人を恐かっしようとした。道程央の土黒村の百姓道太郎の居先で外 人と女とが一休みしていると乙ろへ右の二人が立寄り難題をもちかけた。結局、女は内分にしてもらうために、 持ち金を全部渡して了った。奉行所は邦人に対しては次のように判決を申渡した。 判 決 和 三 次 叩 き の 上 、 軽 追 放 。 女 長 崎 市 中 を 構 い 、 江 戸 払 い 。 種 右 衛 門 吟 味 中 病 死 当時我国はアラビア国とは条約がなかったので、アラビア人は支那人同様に無条約国人であった。従って右のアラ 経 蛍 と 経 済 ビア人は領事裁判の保護下にはない筈である。無条約国人の刑事上及び民事上の事件の取扱については、慶応三年十

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一月二十三日公布の﹁横浜外国人居留地取締規則﹂第四条に、神奈川奉行は居留地の外国人取締役の援助と助言及び 外国領事の助言をもって裁判を行う旨を規定された。しかし乙の事件当時はまだこの規定がなく、無条約国人の取扱 については、法規上空白時代であった。問題が起った場合には、その一雇主の所属国の領事にその処置を委ねられる傾 向にあった。従って我国においては無条約国人も条約国の領事裁判の保護の下におかれていたと言いうる。長崎には 当時大浦の外国人居留地にアラビア人止宿所があった。彼等は多く条約国人に一雇われて働いていた。乙のアラビア人 も雇主の手に引渡され、その国の領事に処分を委ねられたと推察するのが最も妥当である。但し、乙の事件に関する 外国側の記録は、長崎では現在見当らない。尚右の慶応三年の﹁横浜外国人居留地取締規則﹂第四条の規定が契機に なって、明治六年二月七日に規定が改正され、我国裁判所が無条約国人の裁判権を全面的に支配するようになった。 口元治元年に長崎港口を出てすぐ近くの漁村(小瀬戸浦)の漁民三名が、米国人レ l キ外二人をそれぞれ自宅に 二・一二日宿泊させた。更にその中の一人は米人一名と共に遠くへ漕出したが、逆風に会って五島列島まで流され、 そこへ船がかりした事件が生じた。判決文によると漁民達は外国人を宿泊させることは禁制であることを知って

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小瀬戸浦は浦上村に所属しているから、幕府の公領地である。条約上の御料所である。この当時は遊歩地域は 御料所に限られていた。従って、小瀬戸浦まで行くことは何等犯則ではない。しかし居留地の外に外国人を宿泊 させることは禁制であった。五島まで船で行くことは明らかに遊歩区域からの越境であって条約違犯になる。こ の事件については邦人に対して次のような判決がなされた。同村の庄屋と散使二人についての処罰は、彼等が右 の事件を知らずに過していたことは、村民達へ日頃の申付方が不行届であった。そのような場合には村民がすぐ 庄屋に届出るように日頃申付けておくべきである。それを怠ったのは不屈であるという理由による。漁民三名に 長 崎 居 留 地 貿 易 時 代 の 内 地 通 商 と 居 留 地 自 治 行 政 ....L -/、

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経 営 と 経 済 六 二 対しては同一の処罰が申渡されて居る。五島へ船出した者について別に刑が加重されていないが、 一同連帯の意 味 で あ ろ う 。 d H U J 申 す 決 茂助外二人 それぞれ過料十貫文、但し入牢四ヶ月以上になるので、その徴収は入牢した日数に 免じて猶予する。 同村庄屋志賀九郎助過料三貫文 散 使 二 名 急 度 比 右のアメリカ人は領事に引渡され、領事裁判を受けた筈であるが、おそらく領事は不問に附したであろう。 外国人が居留地をはなれて、宿泊することは、たとえ滞歩規程内であっても禁止されていた。その禁制が緩和された 戸 h u のは明治八年十一月二日附の外務省﹁達﹂以後である。(それによると旅館営業の者に限って、遊歩規程内で外国人を 宿泊させることができる。但し営業主から一戸長又は扱所へ届出でなければならない。もし病気療養のため長く宿泊さ せる時は、七日毎に管轄庁へ届出ることになっている。さらにこの規定は明治十一年九月九日の達によって一そう緩 和された。それによると遊歩規程内では、旅館営業者でなくても、かねて懇親の外国人を招待して宿泊させ又は懇親 の外国人を病気其他止心冶得ない事故で宿泊させることが許されるようになった。この場合、宿主は一戸長又は扱所に

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届出なければならない。 右のように開港当初の排外的政策から、明治も十年項になると次第に排外的態度が薄くなり、文明開化の方向に向 いつつあることが看取できる。 遊歩規程は活動力の盛んな西洋人を狭い小地域にとじこめようとするものであって、鎖国時代の出島や唐人屋敷ほ ど極端でないにしても、元来無理な規程である。その犯則は各開港場に多数生じたことは当然であった。次の横浜に

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おける犯則事件はそのことをよく物語っている。 万 延 元 年 ご 六

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頃から、外国人が狩猟を行うことが問題になっていたが、慶応元年十一月一一

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日(一八六六 .一・六)附の手紙で、神奈川奉行が英国領事マイパ l グにたいして、英国人が条約に違反して、六郷川を渡って狩 猟を行った事件について抗議した。横浜では遊歩規定で﹁六郷川筋を限りとす。その他は各方へ十里﹂と規定されて いる。六郷川を越えることは遊歩規程の犯則になる。この狩猟は万延元年頃から引つづき行われて来たものである。 神奈川奉行の抗議に対して、両者会見の折、英国領事は禁止の布告を度々出したが、効果はなかったと述べ、更に禁 止の布告を出しても中止させることはできないであろうと答えている。その後、領事は英国公使パ l クスにあて、そ の解決策として次のように提案している。﹁各国領事の手を通して出願した外国人に対して、神奈川奉行から毎年狩 猟免状を発行するいその免許料として二五ないし一ニ

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ドルの手数料をとることにすれば、日本政府の少からざる収入 円 t となるであろう。﹂と。しかし、かかる提案は当時にあっては、とうてい成立し難いものであった。遊歩規程は当時我 国としては、治外法権が撤廃されない限り、外国に譲れないものであった。また当時の我国の国法で、江戸十里四万 は狩猟等による発砲は厳禁されていたからである。 遊歩規程を無視して越境するだけでなく、遊歩規程外で内地通商をしようとした米国商人の事例がある。 大阪居留地在住の米国商人が慶応四年七月に日本人召使をつれ、品物持参で京都に宿泊した。京都の周囲十里以内 には外国人は、条約上、みだりに立入ることはできない乙とになっている。本人は註文を受けるためというが、実際 は荷物を持参し、商法のためであることは明かであった。大阪府判事五代才助から、大阪の米国領事モ l スへ告発し た。大阪の米国領事裁判所で裁判の結果、過料(罰金)洋銀一

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枚に処せられた。判決は一八六八年(明治元年)) 九月十六日に行われた。大阪運上所に没収されていた右の荷物は、領事と本人からの懇願の結果、同人へ引渡された。 長崎居留地貿易時代の内地通商と居留地自治行政 ....L. / 、

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経 営 と 経 済 六 回 右の判決は安政五年締結の日米修好通商条約第六条及び明治二年締結の日独修好通商航海条約第三条の規定に基い ている。前者は、すべて条約の規定に違反した場合には、没収された品物と過料(罰金)を日本役人に渡すべき旨を 規定している。後者はドイツ人民が遊歩規程を犯した場合には、メキシコ銀百枚の罰金を日本政府に支払うべき乙と を 規 定 し て い る 。 遊歩規程は元来、開国の国是や貿易発展政策に矛盾するものである。乙れが規定されたのは次の事情による。 安政五年開国条約の締結交渉のとき、アメリカ側は内地旅行を要求したが、幕府は外国人の内地旅行については強 硬に反対した。乙の相対立するこつの主張の妥協策として遊歩規程ができた。明治六年以来、条約各国は明治政府に 対して内地旅行の承認を要求しているが、政府は治外法権を有げる国民の内地旅行を拒んでいた。しかし遂に政府は 明治七年五月ゴ二日に﹁外国人内地旅行先準条例﹂を承認した。これによれば外国人が内地旅行をなすときには、学 術研究、病気養生の目的をもっ場合に限られている。 学術研究の場合には、その国の公使から公文書を以て学術研究の旨を証明した上で、特定の人員をその目的とする 場所への旅行が許可される。 病気養生の場合には、医師が証明した願書へ、その国の領事が検印して願出ると、三

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日又は五

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日の日数を限っ て許可される。その旅行先は横浜は箱根、熱海、富士、日光、伊香保、兵庫は有馬、琵琶湖、比叡山、南部の諸峰、 長崎は五島、島原、函館は札幌までに限定されている。 乙の条約でも内地通商は全く禁止されている。旅券にもそのことが明記されている。

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通 行 免 状 品 仲 広 ・ 相 自 刊 形 免. 号 何 国 人 姓 名 右者何学術研究或ハ病気養生之為某所へ罷越度段願出候旨何国公使 ヨリ申立差許候条道筋無故障相通可申事 年 月 日 外

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務 省 て い る 。 乙の外国人旅行免状発行に関して、外務省から出された﹁一一小令﹂中にも、内地通商と内地居住とは厳重に禁止され 刀ミ ム 官 此免状ヲ受ケ内地ヲ旅行スル外国人ト雌各地方ニテ日本人民ト売買取引諸約定ヲ為スヲ砕サス 此免状ニヨツテ旅行スル外国人内地ニテ日本人民ノ屋宅ヲ賃借シ又ハ寄留スルヲ許サス 右の学術研究又は病気養生の同的をもっ内地旅行には日数や場所等制限があり、必ず外務大臣の許可を必要とした? 各開港場での旅行免状の申請手続は容易であったと考えられる。 長崎居留地貿易時代の内地通商と居留地自治行政 六 五

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経 蛍 と 経 済 六 六 明治三二年条約改正実施までは近県への旅行にも外務大臣の旅行免状を必要とした。明治中期におけるその旅行免 状願の実例を示す。これは当時岡崎教会に宣教師として来朝していた米人に関するものである。彼は同時に共同館と 称する英語学校の教師をも兼ねていた。 々 ノ 国 人 招 璃 届 米合衆国サウスカロライナ州キングスツリ l 邑 岡 山 口 問 ω 可 0 0 ・

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・ 司 ・ 司 巳 件 。 ロ 英語教師 無 給 愛知県額田郡岡崎町大字康生乙百四十審戸 明治二十三年一月一日ヨリ同年十二月三十一日マデ満壱ヶ年間 右約定相整愛知県額田郡岡崎町大字康生甲百三十九番戸応用英語学会教師ニ傭昭仕度候条御居申上候也 愛知県額田郡岡崎町大字康生甲百三十九番一円 応用英語学会長 雇 主 正 村 基 ⑮ 明治二十二年十二月十日

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外国人居留地外僑寓願 米合衆国サウスカロナイナ州キングスツリ i 邑 エ ス ・ ピ l ・フルトン氏及妻及子供 冨 同 ・

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右ハ明治二十三年一月一日ヨリ周年十二月三十一日マデ満壱ヶ年間英語教師トシテ傭璃仕度候間愛知県額田郡岡 崎町大字箆田五十三番戸松浦銀蔵控家同町大字康生乙百四十番一戸ヲ雇主ヘ借受僑寓為致度ニ付右僑寓之許可相成 度奉願候也 明治二十二年十二月十日 兼 任 御 届 東京市芝区白金今里 明治学院内米国宜教師 コ ニ ス ピ

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フ ル ト ン 千八百六十五年八月十七日生 右は目下当市芝区白金明治学院神学教師として当地に寄留罷在候愛知県額田郡岡崎町宇康生に設屋有之日本基督 教講義所宜教をも兼任仕居候問此段御届候也 (乙の屈の受附は明治三十八年二月二十一日になっている) 長崎居留地貿易時代の内地通商と居留地自治行政 六 七

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経 営 と 経 済 外国人旅行免状御下附願 愛知県額田郡岡崎町大字康生 共同館々主正村基雇 北米合衆国人 コ 二 ス 司 ロ コ 。 ロ ω ロ 門 H F U 件 当 。 ω 。 ロ ω フ 妻 伊向円 m w ・ リイチ・フルトン氏及子供二名 六 八 ピ ル ト ン 氏 段奉願候也 右之者健康保養之為メ七月十五日ヨリ九月二十日迄神一戸湊ヘ往復旅行取計度旨申出候間該旅行券御下附相成度此 明治廿六年七月五日 外務大臣 奥 仁王ヌ フロ 光 殿 陸 達 願 進 別紙外務大臣へ御進達可被成下度此段奉願候也 明治廿六年七月五日 愛知県知事 任 為 基 殿 時 右 雇a 主 正 共同館々主 正 村 基 村 ヨ定

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外国人旅行券御下附願 愛知郡額田郡岡崎町大字康生 共同館々主正村基雇 北米合衆国人 エス・ピ

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・フルトン氏

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・ 司 ・ 司 g -4 5 ロ 右之者病気療養之為メ七月七日ヨリ向弐週間当県南設楽郡新城町八名郡富岡村南設楽郡大野村北設楽郡津貝村長 野県下伊奈郡且関村同郡根草村ニ至リ順路帰岡取計度旨申出候間該旅行券御下附相成度此段奉願候也 (明治二十六年六月三十日届出。右の南設、北設、信州へのコ l スは明治末期にいたるまで宜教師がとって いた布教のコ

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スである。乙の届のように明かに伝道のためと思われるものにも健康上の理由がつけられて いることが注目される。尚明治二

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年十一月十八日附で外務省の票議により、旅行免状所持の外国人が途中 で宣教するのを許されるようになった。また明治二十二年二月の帝国憲法(施行は二十三年十一月より)第 二八条の規定によって、信教の自由が公認された後であるが、まだ禁教時代の名残がことに見られる。) 外国人旅行免状下付願 愛知県額田郡岡崎町大字康生七十七番戸 共同館々主正村基雇 北米合衆国人 エス・ピ!・フルトン氏

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・ M M ・ 司 ロ ︼ 件 。 ロ 長 崎 居 留 地 貿 易 時 代 の 内 地 通 商 と 居 留 地 自 治 行 政 六 九

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経 営 と 経 済 七 O 右者健康保養之為メ本月廿一日ヨリ廿五日迄名古屋市ヘ往復旅行取計度旨申出侯問該免状御下付相成度比段奉願 侯 也 明治廿六年五月十四日 右雇主 正 村 基 (岡崎から名古屋への往復にも旅行免状の下附を必要とした乙とがわかる。) 明治五年以降、我国では条約改正運動が明治先覚者の指導の下に、朝野をあげて盛になった。明治十五年には井上 馨の内地解放案となった。 ζ れは条約諸外国が治外法権撤廃に同意すれば、外国人の内地居住と内地での通商を認め ようとするものである。それ以来、政府は常に治外法権の撤廃と内地解放の不可分を主張した。従って、内地雑居の 承認は治外法権を撤廃させるための有力な交換手段であった 9 遂に明治二七年(一八九四)七月に日英間に改

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条約 が成立し、明治三二年(一八九九)七月からそれが実施されることになった。この結果、治外法権は廃止され、また 我国の関税自主権が承認された。同時に居留地の制限は撤去され、外国人は我国内における居住と旅行の自由及び内 地通商が認められた。 註

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n 4 q ο A 唖 高谷家由緒書(長崎県立図書館蔵) 長崎奉行所犯科帳(十こ六一、三七二ベ γ ジ .17 .17 四六ページ 八二、二九三ページ . 17 ( 十 一 ) (5) 内閣記録局編、法規分類犬全第一篇外交門(四)五四六ページ (6) .17 .17 ろF ゲ 五四八ページ

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(7) 横浜市史、第二巻、八六入

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ペ ー ジ (9) (8) 明治・大正大阪市史、第七巻、六 Ol 六 一 て へ 1 ジ 法規分類大全、五五六ページ (10) ゲ 五六一ページ ) 4 ・ E A 4 E E A ( 岡崎教会伝道入十年史、写真版 開 港 場 ル ﹂ 関 市 場 安政五年六月十九日調印の日米修好通商条約では、開港場と開市場とを次のように明かに区別していた。 開港場についてはその第三条に箱館、下回の外、神奈川、長崎、新潟又は西海岸の一港、兵庫を指定し、夫々の開 港期日及び下回の閉鎖期日を定め、 ﹁この箇条の内に載せたる各地 ( 匂 0 2 ω ω ロ ︻ 四 件 0 4 ﹃ ロ ω ) はアメリカ人に居留

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を許すへし﹂とあって、居留米国人は一筒の地を価を出して借り、又そこの建物を買うことがで き、住宅、倉庫を建てることが許されていた。各開港場の米国人の居留地域と港々の定則は、外国領事と地方官憲と の問で議定する。もしこの議定ができ難い場合は日本政府と外交代表との間で議定される。第七条には各開港場での 遊歩規程が定められた。 関市場については同じく第三条により規定された。それによれば江戸と大阪を関市場として指定し、夫々の関市期 日を定め﹁右二ケ所はアメリカ人只商売をなす聞にのみ逗留守

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することを得へし﹂と規定され、また米国人 は関市場で廷家を賃借するのを許された。関市場でアメリカ人が建家を価を以て借るべき相当な一区の場所即ち逗留 地域と遊歩規程は追て日本官憲と外交代表により決定されることになった。 長崎居留地貿易時代の内地通商と居留地自治行政 七

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経 営 と 経 済 七 開港と開市場とは次のように区別できる。 付 開港場では市街の一部と港を貿易のために開く。関市場では市街の一部を開くが、港は不開港である。従って 外国船は碇泊できやす、商品を直接に輸出入できない。 開港場では外人は土地を賃借し、建物を買入れ、住宅・倉庫を建築する権利を有する。

関市場では単に建家を賃借する権利だけを有する。 国開港場では永久的に居住できるが、関市場では商売をなす間だけ滞在できる。 安政五年中に引続いて調印された蘭、露、英、仏の各国との通商条約にも右と同趣旨の規定があり、開港場と関市 場との区別は条約上定められていた。 その後、実際に開港されたのは次の通である。 安政六年六月二日に神奈川、長崎、箱館、下回が開港された。但し下回は日米通商条約により、神奈川開港後六ケ 月で廃港になった。 以上の開港場と関市場との区別の標準のうち、長く存続したのは第一だけで、第二、第三は開港後八年にして解消 した。第二の標準は慶応三年四月十三日に取極められた﹁兵庫港並に大阪に於て外国人居留地を定むる取極﹂におい て、大阪に雑居地と居留地の設定を定めたこと(第三条)によって解消した。雑居地とは内外人雑居の地で、そこで 外国人は邦人から家を借りて居住できるにすぎない。居留地では外国人は土地を借り、家屋を建築することができる。 居留地には外国人の居住を本則とするが、邦人の居住が禁止されていたわけではなかった。右の取極めは大阪開市 (慶三・十二・七)前の取極であるが、すでに関市場たる大阪で土地の賃借と家屋の建築を認める居留地の設定が取 極められた以上、第二の区別の標準は解消したわけである。これはその後同年一

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月二一日に取極められた﹁外国人

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江戸に居留する取極﹂にも同趣旨の規定(第二条、第三条)がある。江戸の居留地は築地の西本願寺の近くに設けら れることになっている。これは前者に準拠して作られたものである。関市場である江戸にも居留地が設定されたこと は、大阪の場合と同様に第二の区別の標準を解消させることになる。 土地を借り家屋を建築する権利を認める居留地を関市場に設定する以上は、 一時的滞留でなく、永久居住(居留) を認めることは当然であって、第三の標準も右の取極で解消したと考えられる。しかし第三の標準が条約文で公式に 解消したのは、明治二年一月一

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日調印の日独通商条約以後である。 ( 後 述 ) 従って開港場と開市場の区別の標準は、我国の場合には、結局、次のようになる。 開港場では外国人のために市街の一部と港とが閲かれ貿易港となる。外国船の出入は許される。外国人は市街の一 部に居留し、そ乙で商取引をなしまたその港から直接に商品を輸出入できる。 関市場では外国船の出入は禁ぜられ、外国人は輸出入の商品をそこの港(江戸又は大阪)で外国船に積入又は陸揚 することができない。外国商人は市街の一部に居留し、商取引をなすことができる。しかしそこから直接に商品を輸 山 山 入 す る こ と は で き な い 口 関市場としての大阪で、次のような事件が生じた。乙れは慶応四年六月の出来事で、大阪が開市場から開港場に転 換されたのは周年七月一五日からであるので、その一ヶ月以前に起ったものである口同年六月七日の夜グラバ l 商会 (コロウル商社)が、大阪に入港した蒸汽船ア l クスル号に蚕卵紙二一箱を輸出免状なしに積入れて出帆したという 事件が生じた。関市場に商船が入港し、商品を積出すことが条約違反であることは明白である。そこで大阪府判事五 代才助他一名から、告発と抗議文とが英国副領事宛に出された。その趣旨は大阪は開市場であるから、そこから諸荷 物を輸出入できない筈であるのに、貴国人が経営するコロウル商社が輸出免状なしに、蚕卵紙二十一箱を積入出帆し 長 崎 居 留 地 貿 易 時 代 の 内 地 通 商 と 居 留 地 自 治 行 政 七

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経 営 と 経 済 たのは条約違反である。早々御取調べの上、何分の御返答申 γ 願うというのである。 右の事件は特に開市後、未だ外国人の手続不馴が考慮され、特定期間を限り横浜運上所の納税告知書を、グラパ l 商会から提出させ、脱税でないことを証明させて事件を解決した吋 慶応三年十二月七日から神戸が開港され、大阪は関市場になった。外国側の要請により、慶応四年七月一五日から 七 回 大阪は関市場から開港場に変更された。 維新の動乱の影響により、政府は江戸の開市と新潟と夷港の開港を容易に実施できなかった。それらが実施できた のは明治元年十月に奥羽地方が平定した後であった。即ち、明治元年十一月十九日から新潟と夷港の開港、東京の開 市が実施された。 東京だけが関市場として終始した。その市街の一部に外国人の居住と営業を許していたが、東京港は不開港場であ った。従って外国船が東京港に碇泊することはできず、そこで直接に商品の輸出入を取扱うことはできなかった。東京 に居住する外国人が輸入商品を売ったり、或は我国の産物を輸出する場合には横浜港を経由しなければならなかった。 従って江戸と横浜間に商品を海路運送したり、外国人が往腹するために慶応三年十月二一日に﹁江戸と横浜の聞に引 ヮ “ 船荷物運送船並に外国人乗合船を設る規則﹂が制定された。その船で往復する者は我国官患の免許状を所持しなけれ ばならなかった。大阪が関市場であった聞は、同様に﹁大阪兵庫の間引船荷物運送船並外国人乗合船規則﹂が慶応三 年十二月七日に制定された。 明治元年九月二七日に我国とスエ l デン・ノルウェーとの聞に修好通商条約が結ぼれた。すでに神戸は開港(慶三 -十二・七)され、大阪は開市から開港に改められた (慶四・七・一五)後であったが、安政五年の日米通商条約( 第三条)以来未決定となっていた新潟又は西海岸の一港及び東京の関市はまだ決定されなかった。周年九月二八日調

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印のスペインとの聞の修好通商条約では﹁此条約施行の日より各国人交易のために聞きたる港及び市中は西班人交易 (第三条)と規定されているだけで、開港場名は書かれていない。 明治二年一月十日に我国とドイツ北部連邦との問に修好通商条約が調印された。すでに新潟、夷港の開港及び東京 の関市(明元・十一・十九)が行われた後であった。乙の条約で注目すべき点は次の第三条の条文に示すように、関 市場の東京でも、外国人は商業をなす聞の一時的な滞留でなく、永久居住(居留)ができるようになったことである。 のためにも開くへし﹂ そのため安政五年の五国条約以来、開港場と開市場の区別の標準の一であった永久居住(居留)と一時居住(逗留) との差がなくなった。これは引つづき同年九月十四日に我国とオ l ス タ リ l ・ハンガリーとの聞に調印された修好通 商条約にも同趣旨の規定がある。 日独修好通商条約第三条 箱館、兵庫、神奈川、長崎、新潟(並に佐州夷港)、大阪の市街及び港並に東京市街を此条約施行の日より、右 条約済の独逸国々の人民及び交易の為めに開くへし。前条の市街及び港に於て独逸国々の人民永久居住

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ロ 弘 司 o F ロ ω ロ w o ω ロ ロ o ロ)することを得へし。故に地所を借り、家屋を買い、住宅倉庫を建ること勝手たるへし。 (2) 犬山梓、安政条約と開市開港(英修道博士還暦記念論文集)一一

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五ページ 内閣記録局編﹁法規分類大全﹂第一編外交門四、十一ページ 註

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長 崎 居 留 地 貿 易 時 代 の 内 地 通 商 と 居 留 地 自 治 行 改 七 五

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経 営 と 経 済 七 遊 歩 規 程 内 の 通 商 開港場と開市場の地域内では外国人の居住営業が認められたが、遊歩規程内では商業は禁止された。遊歩区域内で は往来が自由である以上、そこに入り乙んだ外国人が商業行為をなすのは自然の勢ともいうべきであった。その違反 行為に対しては我国官憲は取締を実施していた。我国は外国人の内地商業については、開国以来明治三二年の条約改 正実施まで、終始禁止政策をとっていたので、その第一歩としての遊歩規程内の商業を禁止するのは当然であった。 明治七年九月に神戸の遊歩区域内にある三田に外国人が入りこんで商品を販売した事件があり、また十月に尼崎で 外国人が数日間滞在して行商した事件が生じた。兵庫県令は英国領事に照会したところ、その回答は不そんであって、 条約を守ろうとする誠意が見られなかった。その回答文中﹁外国人の居住のために開いた諸場所から定められた境界 の内は、外国人が巡回するのに妨げない ζ とは条約百に記載してある。従って、英国人が如何なる事情があろうと、 本筋を以てなした場合には、日本官憲は乙れを妨害してはならない筈である。﹂として、遊歩規程内の商業を正当視す る態度を示した。そこで遊歩規程内で商業をなしうるや否やは外交問題になり、兵庫県令は外務省宛伺書を出した。 それに対する外務省の指令は﹁十里規程内を不残市街と相唱侯儀に無之侯問、以来右条理の趣旨を以て遂一御弁解可 然﹂とあって、右の商業を禁止する趣旨を示しているが、未だ積極的に取締を励行する態度を示していなかった。 明治八年一月に林内務卿代理から、イタリー人が神奈宿で蚕卵紙を買入れた事件について、寺島外務卿に対してそ の取締万が照会された。これに対して外務卿は次のように回答した。 ﹁先に(関商)キニッフルが上州で蚕卵紙を買入れた事件があったが、これは遊歩規程外の地方のことで条約違反 は明白である。しかし右のイタリー人の場合は条約違反とは決定し難い。何となれば条約文中、神奈川港を貿易場と

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規定するだけで、別に横浜市街と神奈川駅との分界が困難である。某国人が東京市中で物品を買入、築地開市場に持 込んだのと同一の事件であるから、公然領事へ違反事件として掛合うことは困難である。従って今般の事件は、売渡 した邦人を取締ってもらいたい J 右のような趣旨の回答で、その取締については神戸の場合と同様に未だ積極的ではなかった。しかしその翌年に神 戸で起った事件については積極的態度に変っている。その事件というのは明治九年六月に神戸の遊歩規程内で、英国 商人が生金巾の売買契約をなした事件である。これについて兵庫県令から英国代弁領事に起訴した。領事は遊歩規程 内で、外国人と日本人との商業禁止の明文が条約面上にないから、かかる訴訟は受理できないと裁決した。これに対 して外務卿は兵庫県令に対して次のように回答した。 ﹁遊歩規程内は貿易のために開いた市街でないから、商取引は禁止されている筈である。乙の事件は関市開港場外 の商業であるから、乙れを禁止するのは当然である。かかる取引が行われないように差止めてもらいたい。先に右に 類似事件について足柄県(神奈川県)から伺書が出たが別紙の通、禁止処分にすべき指令を出してい明いた o ﹂ ヮ “ 右の回答文は積極的に禁止すべきことを指令したもので、その後取締は実施されるようになった。 明治十一年二月神奈川県から、内務省と外務省宛に外国人の遊歩規程内商業の取締万指令につき、疑義を伺出たの に対して、明治十四年七月に次のような趣旨の指令が出された。それは開港開市場外での外国人の商取引を禁止する 趣旨のものであった。条約中に開港開市場外で外国人に通商を許す明文がないから、開港開市場外で外国人が商取引 を行った場合、日本人の所有権が外国人に移る乙とはできないとした。即ち、その商取引は無効であるとした。また 開港開市場でその地域以外の地にある物品の取引を約定するのは差支えないが、約定書面上に開港開市場以外の地名 を記載した約定は無効であるとされた。右のように遊歩規程内の外国人の商業は、我国では内地商業と見て禁止政策 長崎居留地貿易時代の内地通商と居留地自治行政 七 七

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を と り 取 締 の 対 象 と し て Tこ

(3) 経 営 と 経 済 七 Y¥ 遊歩規程内の通商は厳重に取締ったのにもかかわらず、依然として絶えなかった。長崎でも清国人の中には近村を 行商する者が居るので、明治九年二月七日附で、長崎県令宮川房之は長崎近村での行商禁止の布告を在留清国人に対 A 吐 し て 出 し た 。 註

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神戸開港五十年史(乾)コ一九五ページ (2) 外務省編、日本外交文書、第九巻、六七二

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六ページ 犬山梓、安政条約と関市開港、二

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一 ペ ー ジ (4) (3) 外務課事務簿(長崎県立図書館蔵)

居 留 地 と 雑 居 地 明治二一年になると外国人が開港開市場外で商業を営むことに対して、厳重に取締ることになった。そ乙で問題に なったのは、ハ円開港場又は関市場とは如何なる区域かということである。また白旧来の慣行であった市街地での 外国人の営業を許可すべきかどうかという問題である。 神戸、大阪、東京にはそれぞれ居留地と雑居地の二地区があって、簡単に解決できなかった。箱館は地形の関係で、 初から内外人の雑居地が慣行的に成立し、居留地は有名無実のものであった。横浜は元治元年十一月一二日に調印さ れた﹁横浜居留地覚書﹂の第七条に特定の海岸地区を内外人の入札によって配分し、雑居地をつくることを規定した Q またこのほかに、開港場の外側の広大な沼地を埋立てて練兵場にするという規定(第一条)もあった。しかしとの党

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来日の調印にあたって、指導的立場をとった英国公使オ l ルコックは、調印直後の十一月二六日には本国に召還されて 乙の後第七条を実施に移す乙ともなく、また沼地を埋立てて練兵場とするという第一条の難題も なんら具体的に論義に上せられることもなく、ほとんど死文同様になった D かくて満二年後の慶応二年十.日二三日 調闘の﹁横浜居留地改造及競馬場墓地等約書﹂の第一条・第二条によって、覚書の第一条・第七条の規定は廃止され た。従って、横浜には条約上の取極による雑居地は生ぜず、また慣行上の雑居地もなかった。 我国を去ったので、 居留地は通商条約によって、開港場の一定区域を限って外国人の居住のためにあてられた地域である。居留地は外 国人の居住を本則とするが、邦人の居住が禁止されていたわけではなかった。長崎と神奈川の地所規則第七条には﹁ 外国人の居留場の内、外国人住家又は商場の近辺に火災の患と為る程相接し、日本人家或は小屋を新に取建へからす。 若右様の儀有之候は︾奉行より其妨害を差止むへし・;:・。﹂と規定されているが、とれは邦人の居住禁止の規定でなく、 単なる防火上の見地から、外国人の家屋に近接した邦人家屋の建築禁止にすぎない。長崎居留地の地所は、長崎奉行 発行の﹁地所貸渡証書﹂に書かれているように、邦人に対しての譲渡が禁止されている。しかし我国官憲と外国領事 “とが公式に許可すれば、邦人も長崎居留地内の永代借地権の譲渡を受けることが制度上必ずしも不可能ではなかった の で あ る 。 地所貸渡証書には次のような文言で右の関係を規定している。 ﹁:::日本人は外国人居留場の内にて地面或は建物 を 所 持 す る 理 な け れ ば ( : ・ ロ

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経 営 と 経 済 る旨を規定している。従って、邦人の居留地内の居住が禁止されていたわけではなかった。むしろ、居留地内に邦人 商社が積極的に進出した例がある。 明治八年二月五日附長崎県令宮川一民之から各国領事宛の書翰によると、一ニ菱会社が運輸及び其他の附随業務をなす ために、長崎の外国人居留地内に支庖を開設した。同会社は大浦上等第九蕃地即ち外国人居留地の海岸通の目抜の場 入 O 所にある英国人モルトピ!所属の建家を、当分の間相対借にした。そこには邦人のほか傍白人をおき、目標のために q a 旗章を掲揚する﹁乙れは居留地内の永代借地ではないから、条約上に邦人進出禁止の規定がない以上、その進出は容 易であったに相違ない。 註 横浜市史、第二巻、七五三頁に、神奈川地所規則(一入六

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年九月)第七条の防火目的から、居留地内の外人住宅に近接し て、邦人家屋を建築することの禁止規定を﹁外国人居留地域内に日本人の居住を禁止する規定がある﹂と解釈してあるのは誤 り で あ る 。 商社だけでなく、邦人経営の造船場が外国人居留地内に進出した事例がある。その初は英国人経営の造船場であっ たが、後に小曽根長太郎がそれを買収して経営したものである。英国人経営時代 ω F q

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え と い う 名 称 で書かれていることから考えると船舶の修理を主とする小規模のものであったに相違ない。安政六年(一八五九)十 月に、英国船ロ

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ド・クラレンドン号が、我国近海で難破し、破損した。そこで英国領事モリソンから、長崎奉行に d A τ 対して、、難破船の修理場と積荷の倉庫の建設を要望した可しかしその当時長崎にはまだ蒸汽船修理工場はなかった。 長崎製鉄所が商人技師ハルデスの工事監督の下に、幕府の手によって完成したのは文久元年(一八六一)三月であり、 また小菅ドックが五代才助やグラパーによって完成したのは明治元年(一八六九)十二月である。 そこで英国人の手によって、船舶の修理を主とする造船場が、当時は居留地外であった南の方の海岸通りに文久元

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年(一八六一)から建設された D 文久三年に外国人居留地確定後は居留地の南浦になった。現在の宝酒造会社工場が 戸 り ある場所である。文久二年(一八六二)当時、英国人経営の下に操業していた。これが小曽根長太郎の手に移った年 代は不明であるが、明治十年以後であることは明かである。その頃までは英人ミッチェルによって経営されていた。 小菅ドックは当時我国唯一の近代的な船舶修理工場で、千トンまでの船を蒸汽力によって陸上に引揚ることができた中 小菅ドックの完成によって英国人経営の造船場は経営困難となり、邦人の手に買収されたものであろう。小曽根造船 場も明治二十二年一

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月頃、居留地から引揚げ、そこから南方の海岸の小曽根町(居留地外)に造船と鉄工業を営む 小曽根造船所として発展した。そこから引揚げた理由は、元来この土地は民有地であったが、明治二十二年一

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月に 政府の手によって買収され、官有地となり、居留地の海岸の散歩道路の一部になったからである。 居留地は元来条約において、外国人が邦人との相対取引によって貿易をなすために、永久的に居住するのを許され た地域であるから、商業を営むのを本則とする。製造工業を営むことは条約上に許されていない。しかし開港当時居 留地で簡単な工業を営むことが認められていた乙とは注目に値する。右の長崎の大浦海岸における英国人経営の造船 所はその一例である。それより北方の唐人屋敷に近い栴ケ崎海岸には、鎖国時代から唐船修理場があり、開国後もし ばらくは存続した。しかし唐船の入港がなくなると共に自ら廃止された。これは鎖国時代という特殊な時代の例であ って、開国後の居留地時代の例とは全く別個のものであって比較にはならないが、か、る唐船修理場が昔からあった 乙とは、開国後、居留地で英国人が修理を主とする造船所の建設の許可をうることを容易ならしめたであろうことは 容易に推察できる。また大浦の外国人居留地には、グラパ 1 、 ォ l ルト、リンガ l 等が経営する茶製所(吋

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が 数 軒 あ っ た 。 製造工場ではないが、居留地から少しはなれた南方の戸町村古川海岸(遊歩規程内)に外国人経営の解牛場が文久' 長崎居留地貿易時代の内地通商と居留地自治行政 J¥、

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経 営 と 経 済 三年(三八六三)から営業を始められた。これはそのために海岸を五百坪余埋立て、(民有地)その上に建てられた。 これは明治十四年頃までつづき、その後は石油貯蔵所になった。もっとも解牛場はこれが先駆ではなくて、安政六年 五月頃に稲佐にウラジオ艦隊のロシア将兵のために露人の手によって、牛飼場と屠牛所が設けられていた。 居留地外の造船所とか解牛場の建設等は、安政五年の各国との通商条約に規定のないもので、長崎奉行も大いにと 同どったことであろう。彼は文久元年八月に居留地外の解午場と造船所の建設について、幕府に伺書を出している。 ロ り この建設の許可について英国領事から長崎奉行に要求があった口 J¥ 横浜では屠牛場は元治元年七月(一八六四・八)当時、五・六ケ所の署牛場が居留地内にあって、各国人によって 経営されていた。しかし廃物処理について非衛生な点が多かったので、領事団は公設屠牛場の必要を認めていた。幕 府は彼等の要望をいれて、同年八月に本牧岬と山手の中間に位する公設屠牛場を設置する乙とに定めた。かくて屠牛 場に関する日本側との取極は、 その年の十一月に調剤された﹁横浜居留地覚書﹂第四条に規定された。その細目につ いては、慶応元年五月二日(一八六五・五・二六)に神奈川奉行と七ヶ国領事との聞に﹁屠牛場規則書﹂が取かわさ れた。慶応元年中に公設屠牛場が建設されたので、居留地内にあった各国人経営の屠牛場はそこに移された。その屠 牛場は五区に分たれ、それぞれ英、仏、米、閥、独の各国に有料で貸与した D その経営は各国人の計算で行われた。 その後この附近は人家が増加したので、明治四年には移転の必要を生じ、本牧から更に遠方へ移すことが問題になっ た D 同 i ドイツ人クニフレルは屠牛場に隣接して、皮類製作所を設けることを申請し、明治五年七月に許可された。 外国人は居留地又は雑居地域内に住むべきもので、それ以外の地に居住できないのを本則とする。しかし明治年代 に入り、各国公使館附属書記官や公私の履外国人が増加するにつれて外国人の居住制限を厳格に守ることは難しくな

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った。病院又は学校等で技術や学術伝習のため、我国が招へいし公私の関係で一雇われた外国人を居留地内に居住制限 することができないのは当然であった。明治七年八月一九日附で﹁各国公使館属員及一雇外国人へ居留地外ニ於テ地所 家屋貸与ニ付約定案﹂が内務省から府県へ内達された。その第一条は﹁家屋貸渡の期限は二ヶ年を越えない乙と。﹂第 二条は﹁借周期間中、他の外国人を居住させたり又は商業を営むようなことをしない旨を堅く約束すること。﹂等が規 定されている。右のような条件の下に、公使官附属書記官や公私の一雇外国人は居留地外で地所や家屋を借受け居住で きるようになった。尚、私一雇外国人のうち、築地居留地で商業をなす外国人で表面上雇外国人の名目の下に、東京府 下に入りこみ、ひそかに商取引をなすものが多数生じた。そこで私一雇外国人については取締が厳重になった。明治一

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年三月一四日附の外務省達節録によると、私一雇外国人でその業務の都合によって、居留地外へ居住する希望をもっ 者に対しては、実状をよく取調べ事実に相違がない者は、地方官の添書を以て外務省へ伺出て、その許可を受けさせ 。 。 る乙とになった。 居留地の設定及び管理については、各港で作られた各種の取極、覚書、地所規則等によって規定された。居留地で 外国人に対し土地所有権は認められなかった D 借地権は条約によって認められ、居留地の地券には永代借地権も存在 し た 。 雑居地は開港場と関市場にそれぞれあるが、それが設定された方法や原因により、ハ門取極上の雑居地同約束上の雑 居地同慣行上の雑居地の三に区別されている

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取極上の雑居地とは、条約上の取極によってつくられたもので、 新潟及び夷港(これらは雑居地だけで、居留地はなかった)、大阪、東京の場合である。横浜は先に述べたように取 極はできたが、実現されなかった。口約束上の雑居地は、将来居留地の拡張が必要なときに、乙の設定を地万官憲が 各国領事宛書翰で約束する乙とによってつくられたものである。乙の場合は、地方官憲と各国領事聞の約束に止り、 長 崎 居 留 地 貿 易 時 代 の 内 地 道 商 と 居 留 地 自 治 行 政 y¥

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四 条約によるものではない。神戸の場合がこれである。国慣行上の雑居地は、居留地の設定が未定であった問、市街地 に内外人の雑居を許したことが慣行的になけ、その形態が永続することによって生じた場合である D 箱館がこれにあ n v たる。箱館では居留地は名目だけに終った。 長崎の居留地はその成立過程に箱館の場合に似た一面があったが、長崎の場合は埋立地完成まで一時的に内外人の 雑居状態が生じたことを除いては、居留地として終始し、-箱館のような慣行的な雑居地は生じなかった。 箱館は元来長崎と同様に、地形が山際の狭い海岸地帯であるために適当な居留地が得られず、外国人を市中に雑居 せしめた。居留地の設定が埋立地を利用することによって、三回にわたって計画されたが、何れも船附とか水利に不 使等の理由によって、外国人が埋立地に居住するのを好まず、遂に居留地としで成立しなかった。長崎の場合も箱館 と同様に山際の狭い海岸地帯を居留地にあてる以外には、居留地として適当な地面がなかった。従って、新に海岸を 埋立てねばならなかった。長崎では埋立地の完成と共に、外国人は居留地として指定された埋立地及びその背後の山 手地に全部移ったので、雑居地は生じなかった。 長崎地所規則(万延元、八、 一 五 ) には居留地の区画を定める条項がないが、それは第一期の埋立工事がまだ完成 しなかったからであろう。安政六年八月から始められた第一期工事が完成したのは翌万延元年十月十三日である。安 政六年三月一八日附の長崎奉行上申書﹁長崎港内新地築立の儀一一付申上候書付﹂の附属図面によれば、栴ケ崎から大 浦の海岸通一帯、更に南の万へ大浦川一帯と﹁下り松﹂下の海岸線までを二万三千六百余坪にわたって埋立てる計画 になっている。この埋立地とその東方の東山手、南山手の丘陵地一帯が外国人居留地にあてられた。埋立地と丘陵地 帯を合せると十万坪になる。長崎では初から居留地の区域が条約上確定していたのではなく、予定の埋立が大体終っ た時の文タ三年一月にいたって、居留地の区域を定め、町名をつけた。その後更に慶応二年三月に出島を明治元年未

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に新地を居留地に編入した。 長崎では安政六年六月の開港当時、居留地の埋立がまだ着手後間もなかったので、未完成であった。従って新しく 渡来する外国人の居留地として間に合わなかった。そこで開港前後来港した多数の外国人を居住させる場所に窮し、 とりあえず埋立完成までの一時的手段として、市中の邦人住家を相対借家させることにした。 安政六年一月二九日附、長崎奉行達書により、樺島町の一町人所有の住家と土蔵を異国人宿所にあてることに指定 された。これは奉行の指図によるものである。もっとも予めその町人の承諾を得たことは勿論であろうが、形式は奉 行の指令書になっている。 樺 右のもの所持之樺島町家蔵、当分之内、異国人宿所ニ貸渡候筈一一付、可成丈差操早々明渡候様可申渡、尤地代、 蔵敷、家賃等之儀、当人迷惑不相成様取調、可申聞侯 樺島町は出島の北西方の海岸で船着に便利なところである。邦人の住宅地であるから、そこに彼我の雑居地が生じ た。右の住家と土蔵は万延元年一月当時は英国人止宿所になっていた。 次いで安政六年五月二一日附で、江戸町から南手の海岸の住家、土蔵を当分の問、外国人が市中商人から借りるこ とを許す旨の奉行達書が出された。外国人達は江戸町南岸に居住するようになったが、そこは唐人屋敷前の広馬場( 二 、

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アメリカ人止宿所(安政六年八月)、十善寺郷在住の外国人(万延元年四月)、広馬場居留フランス人(何十一月) 等を記録している。何れも右の外国人住宅からの邦人による窃盗(抜荷になる)事件に関するものである。また万延 長崎居留地貿易時代の内地通商と居留地自治行政 入五

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経 蛍 と 経 済 入 六 元年当時、大徳寺に居住した英国人も居った。大徳寺は唐人屋敷に隣接する地域であるが、居留地外である。居留地 外には外国人の居住は許されないのであるが、 乙れは例外的な事例である。 安政六年五月に長崎に上陸した初代駐日英国総領事オ i ルコック(後に公使)は、大浦南山手の妙行寺に宿泊し、 居留地について長崎奉行岡部駁河守との聞に取極を結ぼうと読みたが、日本人特に長崎ではその問題について全く関 心がなかったのにおどろいた。彼は神奈川への旅を急いでいたので、後事をホジソンに頼んで出発した。ホジソンは 正式の領事のモリソンが到着するまでの臨時的なものであった。後でモリソンが着任したが彼は二ヶ月間長崎に滞在 して、奉行と度々交渉したが、江一戸からの指令なしには何事も取極できないという口実で、奉行はあいまいな態度を 持するだけであった。しかし結局、最初の協定を結ぶことができた。それは江戸町南岸に外国人が一時的に居住する (ロ。片山片山内リ ω 昨 日 。 ロ ) ことを許すという趣旨のものであった。更に彼は長崎奉行との聞に﹁仮泊地協定﹂ を結ぶのに成功 した。それは仮泊すべき地域が前の協定よりも著るしく拡大されたものである。それによれば、各国民は、永タ的な 居留地の地所が決定するまで、しばらくの問、江戸町から妙行寺にいたる聞の海岸に家を借り、居住することができ る。た Y し居留地が確定した時にはそこに移らねばならないという趣旨であった。乙の協定の成立によって、将来に おける居留地拡大の基礎がつくられた。妙行寺の近くには仏教寺院日親堂があり、それは副領事マイバ l グの宿舎に なったことがある。 長崎で開港後最初に居留地になったのは、広馬場、常盤崎、出島である。乙︾は日本人は住んでいなかった。樺島 町は一時的な雑居地であった。 次いで支那人がそれらの地域に進出するようになった。それらの支那人の中には、西洋人が上海から渡来する時に 同伴した使用人も居り、また唐人屋敷から進出したものも居った D 何れにしても彼等は無条約国人であるから、正式

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に居留地に住むことはできなかった。そこで外国人附属唐人という形式で居住した口安政六時一

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月には常盤崎に英 商附属唐人止宿所があり、同年十一月には新地前(広馬場)に英商附属唐人止宿所があったペ出島は安政六年五月二 九日に解放され、オランダ人は箆の烏生活から放たれて、自由に羽ばたきできるようになった。多数の条約国の西洋 人が来港し、自由に市中を遊歩した。また俵物と銅を除いて、外国貿易の自由な相対売買が条約国人に許されるよう になった。か﹀る開国の大勢に際会して、支那人達が従来同様に唐人屋敷内に箆の烏生活を強られる乙とは耐え難い 一部の支那人が、西洋人に附属唐人というかなり高価な名目料を支払ってでも居留地に進出し、西洋 こ と で あ っ た 。 人同様に自由な外国貿易に従事しようとしたことは、やむをえない成行であった。もっとも附属唐人中には、上海等 から西洋人に伴われて渡来した事実上の外国育館使用人も居った。唐人屋敷内に居った有力な清国商人の中には、官同 価な名目料を支払って、西洋人の附属唐人即ち外国商館使用人という形式で居留地に進出し、自由な外国貿易に従事 する者が生じた。新来の西洋人にとって、江戸時代から長崎に居住して、日本の事情に精しい支那人を利用すること は必要であった。また名目料の収入も無視できなかった。相互の利益が一致したので、外国附属唐人という形式で唐 人屋敷を出て、居留地に進出する支那人が増加した。また西洋人の渡来に便乗して、外国商館使用人という名目、にけ を借りて渡来した支那人も居ったであろう。慶応三年当時、大浦の外国人居留地に、。

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として支那唐 館が数軒存在するが、それらは外国人附属唐人という名目で進出している訳である。 文広三年に埋立地完成後は西洋人は栴ケ崎、大浦、下り松、東山手、南山手に全部移住したので、それらの地域( 十万坪)は、後で慶応二年に居留地に指定された出島と共に外国人居留地と呼ばれる。埋立地のうち、下り松から南 方へ延びた約三粁に及ぶ海岸の埋立は、小曽根六左衛門が独力で遂行した。それは文久三年に完成した。これが埋立 地としては最後で、その南方の限界を形成した。乙の埋立地の北方の半分は居留地として、その当時幕府によって買 長 崎 居 留 地 貿 易 時 代 の 内 地 通 商 と 居 留 地 自 治 行 政 入 七

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経 蛍 と 経 済 7¥ J¥、 上げられ、南万の半分は小曽根町として現在まで残っている。広馬場、新地及び唐人屋敷祉(十善寺郷、館内町)を 支那人居留地といわれるのは、支那人が多数居住していることから生じた名称で、居留地である乙とに相違はない。 支那人居留地は一万五千坪を占めている。(明治三年の長崎港図には二万坪余とある。) 明治年代に入ると広馬場、新地、十善寺、館内には多数の日本人が居住するようになったので、慣行上の雑居地の 観を呈するが、これは居留地に日本人が進出した事例であって、初から雑居地として成立したわけではなかった。 清国とは無条約国関係であったので、唐人屋敷は出島のように開放されたわけではなく、依然として存続した。明 治四年日清聞に通商条約が締結されるまでは開放されなかった筈である。外国人附属唐人の資格をもたない一般支那 人は、唐人屋敷から開放されなかった。彼等にとっては箆の烏生活は依然として継続した。安政六年十一月四日附、 長崎奉行から唐年春通事宛の次の達書は、そのことを物語っている。十一月三日に在館唐人が多数唐人屋敷から、奉 行の許可をえないで外出して、そこからコ一粁位はなれている高野平から、家具、寝具を持帰ったという事件が生じた。 高野平は長崎市街地から少しはなれた東万の丘陵地帯にある一部落である。乙﹀は御料地内であるから、西洋人にと っては遊歩規程内であり、自由に往来できる。しかし支那人にとっては、唐人屋敷から無断外出する乙とは、開国後 も 厳 重 会 制 で あ っ た o 奉行はその持帰った品物の提出を命じ、また唐人の名前を取調べるように唐年春通事に命じ ている。もしそれが出来ねば、唐人達を召捕るというきびしい達であった D 外出せる唐人名前取調の件 昨三日、在館唐人共多人数門外いたし、高野平辺より家具、寝具等持越侯趣に付、右品為持出、右唐人名前取調 申立候様可致、右難行届侯は¥人数差向、持越候諸具改之上、召捕侯様可致候 右之趣、在留船主え可相達侯

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