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博士論文 概要書

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Academic year: 2021

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博士論文  概要書

      氏  名 

野尻英一

     

この論文のねらい

本論考「有機体と『地』のエレメント」は、ヘーゲル『精神現象学』に おける有機体論を、生命論の文脈において考察しようとするものである。

その意義は、次のようなところにある。

第一に、ヘーゲル哲学研究上の意義である。『精神現象学』における有 機体論は、普遍 性や理性、ま た個体性や否 定性といった 重要な哲学的 概 念についてヘー ゲル独自の思 考が凝縮され た箇所となっ ている。緻密 な 研究が為されて良い箇所であるが、先行研究は多くない。理由の一つは、

この箇所の叙述 が難解である ことだろう。 『精神現象学 』はヘーゲル の 出世作であるが 、諸事情によ り出版を急い だ経緯があり 、その叙述は 発 想の展開にまか せて一気に書 き上げた感が ある。その中 で特に、有機 体 論の箇所は、ヘ ーゲルの豊か な発想力と深 い洞察が固い 結ぼれを作り 、 思想の「瘤」の ような様相を 呈している。 筆者はこの瘤 を切り開き、 解 釈することで、ヘーゲル哲学の根底に至る通路が開かれると考えている。

これが、『精神現象学』の有機体論を考察する第一の理由である。

第二に、現代の生命論の観点から、次のような意義がある。『精神現象 学』の有機体論 では、有機体 という「現象 」が意識に対 して生じるメ カ ニズムが解説され ているが、その 際に、ヘーゲルは 「地」(Erde)の 暴 力ということに ついて語る。 「地」の暴力 は唐突にヘー ゲルの叙述に 登 場し、それが何 であるのかは 読者が一読し て理解できる ようなもので は ない。文脈から 推測していく と、ヘーゲル は、啓蒙主義 的な、世界を 解 明する明るい理性によっては捉え切れないような「何か」を考えている。

そして、そのよ うなものの作 用によって有 機体は現象す る、と考えて い る。ヘーゲルの 「有機体」は 、カント的な 理性によって は捉え切れな い もの、独自の過 程として描か れる。だが、 同時に、その ような「過程 と

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しての対象」で ある有機体を 生み出してい るのは、それ を見ている「 わ れわれ自身」で あるとヘーゲ ルは言うので ある。つまり 、われわれの う ちには、われわ れ自身の理性 によっては明 らかにし切れ ないようなも の があり、それが 世界を見るわ れわれの視角 に影響を与え ている、ある い は、そのような 深いエレメン ト(境位)か らやってくる ものに促され て われわれは認識 を行っている 、そうしたこ とをヘーゲル は考えている 。 ヘーゲルが言お うとしたその エレメントと は、われわれ 現代人がわれ わ れ自身の「生」 のあり方を根 底から見つめ るために、呼 び起こすこと が 必要なエレメン トであると筆 者は考えてい る。これが、 『精神現象学 』 における有機体論を解明しようとするもう一つの理由である。

この論文の構成

この論文の全体の構成は、以下のようになっている。

序章

第1章 「生命の樹」から近代の「有機体」まで

紀元前から近代までの「意識」と「生命」をめぐる考察 第2章 カントと有機体論

明るい理性に照らされる有機体 第3章 ヘーゲル『精神現象学』の有機体論

暗い理性の見出す有機体 第4章 「地」のエレメントをめぐって

「意識ならざるもの」への接近 終章

各章の内容は、以下の通りである。

第1章 「生命の樹」から近代の「有機体」まで

第1章では 十八世紀 に発生す る有機体概 念がどの ような背 景をもっ て 成立したのか、 その前史を素 描する。その ために、われ われは、旧約 聖 書の古代にさか のぼり、西欧 の思想史にお いて「生命」 がどのように 考 えられてきたの か、また、古 代の「生命」 についての考 え方が、キリ ス

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ト教の影響によ ってどのよう に変形され、 西欧哲学の系 譜に取り込ま れ ていったのかを 考える。簡単 に言えば、キ リスト教は「 生命」を「知 性 化」したのだと 言えよう。そ うして、生命 が知性化され た結果、人間 の 精神を、理性を中心に考える近代哲学が生じた。

近代哲学は、脱宗教化を経て、「神」ではなく「実体」を理性によって 捉えようとする 態度となった 。カント、フ ィヒテ、シェ リング、ヘー ゲ ルらのドイツ観 念論は、実体 を理性によっ て捉えようと するときに生 じ る「主観」の処 理の問題にそ れぞれ取り組 んだ。実体に 至ることがは じ めから可能であ ったならば、 その到達は課 題とはならな いはずである 。 しかるに、われ われ人間はそ のような状況 に置かれてい ない。人間的 主 体は実体から分 離してしまっ ている。この 分離を解消し 、人間的主体 は いかにして実体 に到達できる のかという問 題を解くこと が、ドイツ観 念 論の課題であっ た。その過程 で、有機体の 概念が哲学的 に考察される よ うになっていく のである。こ のドイツ観念 論の試み以後 、有機体のモ デ ルは近代以降の 社会に支配的 な思想となっ ていく。それ は、旧約聖書 に おいて相いれな い二つの原理 とされていた 「知恵」と「 生命」とが、 キ リスト教から西 欧近代哲学へ の継承におい て、融合され ていく過程で も あった。ほんら い別個であっ たはずの「知 恵の樹」と「 生命の樹」の キ メラ(異種接合 体)が現代の 有機体である 。第1章は、 このキメラが 生 まれるまでの西 欧思想二千年 の歴史を生命 概念の変遷と いう切り口で 見 た一つのスケッチである。

第2章 カントと有機体論

第1章で、現代の「有機体」的思想を、「知恵の樹」と「生命の樹」の キメラであると とらえた。そ の上で、その 「キメラ」の 構造を分析批 判 するために、第 2章、第3章 ではそれぞれ カントの有機 体論とヘーゲ ル の有機体論を素描し、比較することを試みる。

第2章では、カントの有機体論を彼の哲学体系における位置づけから検 討する。当時ヨ ーロッパ社会 で流行した有 機体思想にい ち早く着目し 、 みずからの哲学 体系の重要な トピックとし て取り入れた のがカントで あ る。カント以後 、フィヒテ、 シェリング、 ヘーゲルらド イツ観念論と 呼

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ばれる思想の系 譜において、 有機体論は不 可欠の題材と なる。自然は 有 機体であると言 われたり、精 神は有機体で あると言われ たりした。彼 ら は、カント『判 断力批判』の 実績を借りつ つ、近代哲学 の実体問題に 取 り組むために、有機体のモデルを使用したのである。

重要なことは、カントにおいては、有機体は自然的な現象ではないと考 えられていたこ とであろう。 『判断力批判 』においてカ ントは有機体 を 論じるのである が、そこでの 彼の理論はつ づめて言えば 、有機体とい う 対象は目的論的 判断力の所産 であり、理性 のもたらす表 象であるとい う ものである。それは、認識ではない。有機体のごときものが見えるのは、

人間が理性とい う超越的な道 徳的能力をも っていること の副次的な効 果 であるというの がカントの主 張である。眼 前に見える「 生き物」の中 に

「生命」が宿っ ているかのご とく考えるの は、われわれ の錯誤である 。 道徳に用いられ るべき理性能 力を誤って認 識に用いるた めに生じる幻 影 である。カント は「生命ある 物質」という 考え方に生涯 を通じて反対 し たと言われる。 彼の体系構想 にしたがえば 、そもそも生 物学や生命科 学 といった学問は 不可能である 。カントにと って、「生命 」と言えば人 間 の「理性」のこ とである。そ れは、超越を 可能にする力 であり、人間 の 実践を道徳性へ と導く力であ る。このよう な地上を越え て行く超越的 な 力が「生命」な のであり、そ れは神との接 続をもつ人間 だけが有する 力 である。動物だ の植物だの微 生物だのに「 生命」などが 宿っているわ け はない。せんじつめれば、これがカントの考えである。

第2章では、以上のようにカント哲学における有機体論のポジションを 確定し、現代的観点からその評価を行う。

第3章 ヘーゲル『精神現象学』の有機体論

第3章でわれわれは、ヘーゲルが『精神現象学』においてどのように有 機体論を扱った のかを検討す る。ヘーゲル は、カントの 『判断力批判 』 に大いに感銘を 受け、自然の 中に現れてい る理性という 考え方に影響 を 受けた。しかし、ヘーゲルは、自然に投射されている理性を「批判」(区 別)し純粋化し て道徳能力と して確保しよ うとするカン トの姿勢には 反 対した。『精神 現象学』の「 理性」の章、 「観察する理 性」と呼ばれ る

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箇所で、ヘーゲ ルは「有機的 なものの観察 」を論じる。 そこでは、自 然 を理性的に分類 し整理して理 解しようとす る理性の営み が失敗する過 程 が描かれる。そ こでヘーゲル は、理性の意 図に反して「 地」のエレメ ン トが作用するの だと考えてい る。そうして 、「地」のエ レメントが作 用 しているために 、有機体とい う無限の過程 が現われるの だという。こ こ では、いわば、 生命を理性に よって捉えよ うとする意識 の営みが失敗 す る姿が示されて いる。この失 敗によって、 理性である意 識は世界を理 性 的に捉えようと する「観察す る理性」であ ることに留ま りえず、「行 為 する理性」へと移行するという展開に『精神現象学』はなっている。

この「地」のエレメントに注目する観点から『精神現象学』の展開を簡 単にまとめなお すとこうなる 。あらゆるも のを反照し、 あらゆるもの に 浸透し、ほんら い流動である 「意識」を固 体化(個体化 )させる契機 が ある。それが何 であるかは明 確に名指しは できないが、 とりあえずそ れ を、「普遍的な 個体性」だと か「純粋な否 定性」だとか 「地」のエレ メ ントだとか呼ん でおこう。こ の契機によっ てほんらい反 照であり浸透 で あり流動である 意識は、自分 自身へと反照 し、自己自身 を意識する「 自 己意識」となる のである。こ ういうことが 、『精神現象 学』の「意識 」 から「自己意識 」への展開に おいて語られ ている。この 契機はいわば 、 もともと純粋な 否定性である 意識を折り曲 げ個体化させ るもう一つの 否 定性であると言 える。それが 何であるかを ヘーゲルは決 して語らない の であるが、この 契機は意識の 強力な否定性 と浸透性を否 定し跳ね返す 力 を持っているの であるから、 意識とは別の 種類の否定性 であると推測 す ることができる 。そして重要 なことは、こ のような契機 の作用によっ て

「自己意識」化 した意識はそ の経緯を忘れ 、忘れること によって世界 を 理性的に捉えよ うとする「理 性」になると いう展開にな っていること で ある。そのよう な経緯をもっ て成立した理 性が見出すの が,矛盾を含 ん だプロセスとし ての有機体な のである。そ して上述した ごとく、世界 を 理性的に捉えよ うとする理性 の営みは、有 機体を観察す るうち、「地 」 のエレメントのもたらす暴力によって破綻するのである。これはいわば、

自己意識が自分 自身の成立の 経緯において 働いていた、 別の種類の否 定 性を忘れていた のだが、その 忘れていたこ とのツケがま わってきたと い

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う展開になっている。この展開を第3章では確認する。

第4章 「地」のエレメントをめぐって

第4章では、ヘーゲルが「地」のエレメントということでどのようなこ とを言おうとし ているのか、 それをとらえ るための補助 線をヘーゲル の 外部から引いてみる。

ヘーゲルが『精神現象学』で考えていたプログラムは、意識が忘れてい た契機を「精神 」として取り 戻すというこ とであった。 だが、意識と は 異質のこの契機 が、本当に、 「実は『精神 』であった」 というかたち で 取り戻せるもの であるのかど うか、そこは 議論の余地が あるだろう。 ヘ ーゲルにおいて は、自己意識 成立において 働いているに もかかわらず 意 識によって忘れ られているこ の契機は、い つのまにか、 精神の現象の 契 機に、すなわち 精神が世界と してその姿を 現わす過程に 荷担するエレ メ ントに変換され ている。この 変換が可能で あるとされて いるからこそ 、 絶対知の境地は 可能であると 考えられる。 絶対知とはい わば、意識に よ る意識化が貫徹 された境地で ある。意識の 否定性、浸透 性にあらがう も のがあるから現 象の展開はあ るわけだが、 意識がすべて を意識化する こ とができたとき 、あらゆるも のを「精神」 の現象した結 果として理解 す る絶対知という 純粋な学の見 地が成立する と『精神現象 学』では言わ れ ている。しかし、意識による意識化の貫徹が果たして可能なのかどうか、

これが『精神現 象学』の根本 問題である。 あるいは、こ う言い直して も いい。意識によ る意識化の貫 徹によって現 れるものが本 当に「精神」 で あるといえるのかどうか。

第4章では、ヘーゲル以後に展開した現代の有機体思想の諸相を簡単に ふまえ、それら 諸相に対して ヘーゲルの有 機体論がどの ようなポジシ ョ ンをとりうるの かを論じる。 現代を支配す る有機体の思 想、プロセス の 思想の起源を西 洋哲学史の流 れにおいて捉 え、またその 構成をヘーゲ ル

『精神現象学』 における有機 体論で示され る図式を通し て検討すると い うのが、本論考 のねらいであ る。このこと によって、ヘ ーゲル哲学の 新 解釈と、ポスト 近代である現 代という時代 を捉える道具 立てをそろえ る ための試みとし たい。本章の 最後では、ヘ ーゲルの「地 」のエレメン ト

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をと らえ るた めに 必 要と 考え られ る 補助 線を 現代 の 観点 から 呈示 し 、

「地」のエレメ ントはいかに 見出されるべ きかについて 、「仮説とし て の結論」を述べる。

終章では、第4章における本論考の結論をふまえた上で、今後展開され るべき哲学のヴィジョンを呈示し、締めくくりとする。

以上が本論文の概要である。

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