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カール・バルトにおけるイスラエル理解の諸問題

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(1)

著者 森山 徹

雑誌名 基督教研究

巻 70

号 1

ページ 55‑74

発行年 2008‑06‑27

権利 基督教研究会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012153

(2)

カール・バルトにおける イスラエル理解の諸問題 1

Issues on Karl Barth’s doctrine of Israel

森山  徹

Toru Moriyama

キーワード

ホロコースト以後、ユダヤ教とキリスト教、イスラエル論、反ユダヤ主義

KEY WORDS

Post-Holocaust, Judaism and Christianity, Doctrine of Israel, Anti-Judaism

要旨

 本稿の目的は、カール・バルトのイスラエル論を反ユダヤ主義の諸問題との関連に おいて検討することにある。バルトは、終末論に基づく聖書解釈によってユダヤ教に 対するキリスト教の優位性を相対化し、キリスト教神学が伝統的に用いてきた代替主 義を退ける。更に彼は、第二次大戦中にナチスによる反ユダヤ主義が台頭する中で、

イスラエルとは神に選ばれた証人であり、キリスト教は、その選びに基礎づけられて いるということを主張した。ホロコースト以後、多くの神学者たちは、バルトが結果 的にイスラエルをキリスト教神学の内に包括していると批判した。しかしバルトは、

反ユダヤ主義を介してユダヤ教とキリスト教の関係を神学的に理解しなければ、イス ラエルの選びに基礎を置くキリスト教を見落としてしまうと考えていた。バルトは、

ユダヤ人による救いに基礎を置くキリスト教徒として、反ユダヤ主義に抵抗する道を 模索しようとする。

SUMMARY

The purpose of this paper is to examine Karl Barth’s doctrine of Israel from various

problems of Anti-Judaism. Barth relativizies the domination of the Christianity over

Judaism through the biblical interpretation based on the Eschatology and rejects the

(3)

Suppersessionism that the Christianity theology traditionally uses. Furthermore, while anti-Semitism by the Nazis gained power during World War II, he insisted that Israel was chosen by God, and that Christianity was based on the selection of Israel. After the Holocaust, many theologians criticized him for including Israel within Christian theology. However, Barth thought that by not understanding theologically the anti- Jewish relationship between Judaism and Christianity meant to overlook the role Israel’s selection played in Christianity. Barth tries to search for a new way to resists Anti- Judaism as a Christian who based his redemption in the Jews.

Ⅰ 問題の所在

 ホロコースト以後、キリスト教はユダヤ教に対する見方の再検討を余儀なくされ た。それは、多くのキリスト教関係者が、ナチスによるユダヤ人の大量虐殺に反対し なかっただけでなく、積極的に加担したという事実を受けとめようとする試みであっ た。この「ホロコースト以後」の標語の下に、キリスト教神学者たちは、今もなおユ ダヤ教との関係を模索している。そのような中で、本稿では、ホロコーストの時代を 生き、ナチスに抵抗する中で両宗教の問題を考え続けたカール・バルト(Karl Barth 1886⊖1968)の「イスラエル論(

Israellehre

)」を検討する2。彼の論考は、戦中戦後か ら広範囲にわたって議論の対象となってきたが、とりわけ反ユダヤ主義の問題をめ ぐって現在に至るまで様々な解釈がなされている3。よって本稿では、バルトについ ての研究者たちの見解を反ユダヤ主義の問題に即して整理し、そこでの議論を軸にバ ルトのイスラエル論の再解釈を試みる。そして、バルトがどのようにユダヤ教とキリ スト教の関係や反ユダヤ主義を理解したのか、また彼の理解とその仕方が、今日の両 宗教の関係をめぐる諸問題にどのような有効性と課題を投げかけているのかを明らか にする。

Ⅱ 代替主義をめぐって    ローマ書講解第二版を中心に    

Ⅱ-1 バルトのイスラエル論と代替主義の問題

 戦後いち早くアメリカにバルトの神学を紹介した一人であるドイツ出身の神学者マ リア・スルツバッハは、キリスト教がユダヤ人/教に関わる限り、バルトの著作が

「20世紀の最も重要な本の一つである」と言う4。そしてなによりもまずユダヤ教がキ リスト教の教会(以下教会)によっては代替されないと語った点に、彼の神学が伝統

(4)

的なキリスト教神学と本質的に異なった特有の貢献があったと指摘した5。しかし一 方で、ユダヤ人哲学者であるエミール・ファッケンハイムは、バルトがナチスと戦っ た告白教会の神学者であったことに一定の評価を与えつつも6、彼を「最後の偉大な る代替主義者」と評している7。このように、バルトのイスラエル論に対する両者の 見 解 は 対 称 的 で あ る が、 そ れ で は こ の 両 者 の 見 解 を 分 け て い る 代 替 主 義

(supersessionism)とは何か。代替主義とは、元来、より上位のものとしてみなす事 柄によって既存の事柄を無用なものとして廃棄することを指し、神学的な文脈におい てはキリストの到来以来、教会が神の民としてのユダヤ教の座に取って代わるという ことを意味している。伝統的なキリスト教神学の前提として機能してきたこの代替主 義とキリスト教的反ユダヤ主義との共犯関係に関しては近年様々な研究があるが 8、 何故この代替主義をめぐってバルトの「イスラエル論」の解釈が分かれるのだろう か。この章では、代替主義をめぐるバルトの見解を『ローマ書講解』の第二版に基づ いて検討することによって、バルトのイスラエル論の構造の一端を概観する。

Ⅱ-2 ローマ書講解におけるバルトのイスラエル論

 スイスで牧師をしていたカール・バルトの名を一躍世間に知らしめた『ローマ書講 解』は、彼のその後の神学の出発点となったが 9、そこには彼がユダヤ教とキリスト 教の関係を扱う「イスラエル論」の萌芽も含まれていると考えられる。本章では、ま ずバルトの「イスラエル論」が重点的に語られている9章から11章を中心に見ていく ことにする。この各章に振り分けられたタイトルが、9章「教会の危急」、10章「教会 の罪責」、11章「教会の希望」と記されていることからもわかるように、バルトのこ こでの関心は一貫して「教会」にある。教会の危急とは、教会自身が自ら依って立つ 神によって裁かれることを意味し(

Röm, S.

326

ff,

338)10、教会の罪責とは、人がこの 危急を認めようとせずに忘れてしまうことにあり(Röm, S. 356, 358, 372ff)、教会の 希望とは、確かに神が教会の危急であり、人はキリストに罪責を負っているが、この キリストにおいて神が自らを啓示するところに希望がある(Röm, S. 377f, 382, 384)、

というものである。このように、教会に対する神の自由な選びの問題が、ここでの中 心的な主題の一つとなっている。しかし「ローマの信徒への手紙」の9章から11章 は、パウロがイスラエルの選びと不信仰、そして復興の問題を福音と異邦人との関係 の中で明らかにしようとしている箇所であり、「教会」という語を一度も使用してい ない。なぜ『ローマ書講解』と「ローマの信徒への手紙」との間にこのような奇妙な ズレが生じているのか。この問いを念頭に置きつつ、『ローマ書講解』のいくつかの 箇所を検討しよう。

 「ローマの信徒への手紙」9章6⊖13節において、パウロはイスラエルから出た者が

(5)

皆、イスラエル人ということにはならないと語り、双子のエサウとヤコブを自由に愛 しまた憎む神の選びについて言及している。しかし、バルトはこの箇所を字義通りに 注解するのではなく、「エサウの教会」と「ヤコブの教会」の区別を紹介し、教会の 選びと廃棄を論じている(Röm, S. 382)。また11章11⊖12節において、パウロは「ユ ダヤ人の躓き」について論じているが、ここでもバルトは何の留保もなく「教会の躓 き」について語る(Röm, S. 385)。

 ここで注意しなければならないことは、バルトが「イスラエル」と「教会」を予型 論的に解釈することによって、パウロが語る「イスラエル」を「教会」に置き換えて 注解している点にある11。バルトのこの解釈は、彼自身が『ローマ書講解』第一版の 序文の冒頭を次の言葉から書き始めていることからもわかる。「パウロは、その時代 の子として、その時代の人たちに語りかけた。しかしこの事実よりもはるかに4 4 4 4重要な もう一つ別の事実は、かれが神の国の預言者また使徒として、すべての時代のすべて の人たちに語りかけていることである。(中略)むしろわたしがひたすら注意力を集 中したのは、歴史的なものを透視して4 4 4 4、永遠の精神である聖書の精神を洞察すること であった」(

Röm, S. V

)。1世紀に生きたパウロにとって「イスラエル」の神からの離 反が問題となったように、20世紀のバルトにとっては「教会」の離反が問題となる。

このようにバルトは、「ローマの信徒への手紙」における歴史的なものとしての「イ スラエル」を、神との関係において「すべての人たちに語りかける」聖書の精神を透 視するための表徴とみなすことによって、現代(20世紀前半)の「教会」として読む ことを可能にしたのであった。

Ⅱ-3 イスラエルと教会への終末論の適用

 このような「イスラエル」と「教会」の予型論的解釈の内に、代替主義をめぐるバ ルトのイスラエル論から生じた混乱の原因がある。なぜなら、聖書本文の「イスラエ ル」を「教会」に読み直すバルトの解釈が、今や神の選びがイスラエルに取って代 わって教会にあるということを暗黙の内に前提としているように見えるからである。

このように『ローマ書講解』の9章から11章の予型論的解釈を見る限り、バルトの

「イスラエル論」を伝統的なキリスト教神学が用いた代替主義として解釈することは 可能である。

 しかし、ここで再度、9章から11章全体の主題の下で、「イスラエル」と「教会」に ついてのバルトの解釈を見る必要がある。前述したように、ここでの主題には一貫し て神の自由な選びの問題が横たわっていた。バルトはこの問題を、予定説に言及しな がら、次のように先鋭化させている。「誰も時間の中では永遠の選びを確信をもって 期待することは許され4 4 4ないし、だれも時間の中では永遠に捨て去られていると意識し

(6)

てはなら4 4ない」(Röm, S. 330f)。そしてバルトは、この主張に基づいて、「イスラエ ル」と「教会」について次のように言う。「『イスラエルから出る』者たち、……彼ら はしたがって、教会のあの二重性の、別の言葉で言うと、予定のあの二重性の危機の 下に立っている」(Röm, S. 328)。「むしろ時間的人間が永遠の中に基礎づけられてい るということ、この基礎付けに際しては『召した者が決定する』ということ、かれの 神が本当に神4であるということ、こういうことをこの教義は、理解させる目的のため に逆説的に誤解を招きやすく、選びと棄却という対照を使って描き出している。アブ ラハムの子孫はもちろんこれを求める。もちろん教会もまたこれを考える」(Röm,

S. 330f)。このように、バルトは神の自由な選びに基づく終末論的視座から、イスラ

エルと教会を予型論的に解釈していることがわかる。つまり「ローマの信徒への手 紙」においてパウロが律法を守るユダヤ人も神の憐れみがなければ義とされないと 語ったのと同様に、『ローマ書講解』においてバルトが「教会」も神の義と選びを暗 黙の内に前提とすることはできないと語るのである。そして、バルトが『ローマ書講 解』の注解を、第一次世界大戦を経て近代主義への楽観的な憧憬が破綻した中にあっ た「教会」に向けて語ったという歴史的背景を合わせて考える時、彼が『ローマ書講 解』においてなぜ「教会」を問題にしたのかという理由もより明らかとなる12。  このように見る時、『ローマ書講解』におけるバルトの解釈は、終末論的視座にお いて「教会」の優越性を相対化したという点で、安易に代替主義的であるということ はできないだろう。むしろこのバルトの解釈的前提は、教会のイスラエルに対する優 越性を相対化する機能を有していることから、教会の代替主義そのものを批判する萌 芽を含んでいると言えるのではないだろうか。しかし、バルトのこのような解釈が伝 統的な代替主義と異なっているとはいえ、それがキリスト教的反ユダヤ主義を乗り越 える教説であると即座に結論付けるのは早計である。確かに、バルトはイスラエルと 教会を終末論的視座から解釈することによって、イスラエルと教会両者の優越性を批 判し、神の自由な選びを主張した。しかし教会が終末論的視座においていかなる優位 も持たないという見解は、ただちにイスラエルにも該当する。つまり、終末論的視座 における両宗教の優越性の相対化という主張からは、現実の反ユダヤ主義に晒される ユダヤ人に対する教会の積極的な応答と関係を、理論上は導出することができないの である。そして時代はまさに、そのような応答と関係の有無を試される時勢になりつ つあった。このように、『ローマ書講解』のバルトにおいて、イスラエルを福音の下 に廃棄されるべき「宗教」の一つに位置づけ、イスラエルの特異性を相対化したまま それ以上言及していないという問題が明らかとなる(Röm, S. 316, 368, 385f)。次章で は、バルトがイスラエルの特異性及び、それと教会との関係をどのように考えたのか ということに目を向けてみたい。

(7)

Ⅲ イスラエルの特異性をめぐって    教会教義学を中心に    

Ⅲ-1 バルトのイスラエル論とイスラエルの特異性の問題

 この章では、バルトの主著である『教会教義学(Die Kirchliche Dogmatik)』を中 心に、バルトのイスラエル論におけるイスラエルの特異性と、その問題を検討する。

ここでバルトは、イスラエルの特異性について次のように言及している。聖書の内容 とは神によるイスラエルの選びについて記されているものであり、聖書は「イスラエ ルの民を自分たちのメシヤと共に世界の救世主を拒否し、十字架につけた民として、

したがって神の啓示に決定的に反逆した民として、特徴付けている」(KD I/2,

S. 566)

13。つまり聖書とは、ユダヤ民族に対する「神の裁き」を記したものであり、

神はイスラエルを裁くために選び出したのである。このようなバルトのイスラエル理 解を端的に定義すれば、「神の裁きの証人としてのイスラエルの選び」と言うことが できる。

 ナチスによるユダヤ人迫害が激化した1938年に書かれたこのバルトのイスラエルの 定義に対して、現在様々な批判がなされている。例えばホロコーストにおけるキリス ト者の倫理を問題にしたウィリスは、バルトのイスラエル論がユダヤ人の選びと裁き の両方を強調した結果、それによって反セム主義を不可避のものと定義していると指 摘し、ユダヤ人思想家ハンナ・アーレントが批判した「永遠の反セム主義」という考 えを補完していると主張した14。また「ホロコースト以後」のキリスト教神学の研究 者ハイネスは、キリスト教神学がユダヤ人を神学的に解釈することによって、潜在的 にホロコーストを正当化していると指摘したユダヤ人神学者ルーベンシュタインの批 判が、バルトのイスラエル論にも適合すると批判している15。ここで注目したいこと は、両者いずれもがバルト神学のイスラエルに対する言及、殊に「神の裁きの証人」

という神学的なイスラエル解釈が、結果的にはホロコーストを正当化していると批判 している点にある。つまり両者の批判は、「裁きの証人」としてのイスラエル/ユダ ヤ人の選びを強調するバルトのイスラエル論が、「ホロコースト以後」の今日に生き るわれわれにとって決定的に倫理性を欠いたものに映る、というものである。

 当時、既にユダヤ人の迫害にいち早く反対の意を表明して、自国スイスでユダヤ人 の救援活動を開始していたバルトは16、上記の批判のように自らの神学においてだけ 無思慮にも「神の裁きの証人としてのイスラエルの選び」という伝統的なキリスト教 神学の主題を繰り返したのであろうか。それとも、ユダヤ人迫害に対する否と前述の 主題の内には何らかの積極的な関連性が伏流しているのだろうか。このような問いを 念頭に置きつつ、以下バルトのイスラエル論における「神の裁きの証人としてのイス ラエルの選び」を検討する。

(8)

Ⅲ-2 「神の裁きの証人」としてのイスラエルの選び

 それでは、上述のイスラエルの定義において問題となった「神の裁き」とは、バル トにとってどのように理解されていたのだろうか。バルトは、『教会教義学』の中 で、「裁き」について端的に次のように言っている。「実際の旧約聖書は神の裁きの秘 義を、厳格な、全面的な、しかしまさにそのようにしてこそまた恵みとして明らかに された秘義を、証ししている」(KD I/2, S. 98)。何故バルトは、神が「裁き」ととも に、それとは一見反対に見える「恵み」をも与えると言うのだろうか。以下でこの問 題を具体的に検討しよう。

 バルトは一方で、神に裁かれるイスラエルが、契約の中で、つまり神との出会いの 中で、まさに神に逆らってやまない、神の道から際限なく逸れてゆこうとする罪深い 人間として示されると言う(

KD I/

2

, S.

 99)。他方で彼は、旧約聖書の中に見られる このイスラエルの罪は、何かあるひとつの「悪」や「不道徳」ではなく、罪そのもの が「契約を破るという秘義」であり、翻って罪は契約そのものの地盤で起こるという こと、つまりイスラエルの罪は神的な意志と行為の経綸の中に編み入れられていると も言っている(

KD I/

2

, S.

 99

f

)。ここで注意しなければならないことは、イスラエル の罪とそれに対する神の裁きは、共に両者の契約の下に起こるという点である。つま り、イスラエルは、神との契約を破るという点において初めて自己の罪深さを知り、

同時に破った当の契約において自らの罪が神の経綸の中に入れられていることを知る のである。それゆえにイスラエルは、契約の中で、自らの罪を通して神と出会う。な ぜなら神は、契約を破るがゆえにイスラエルを裁くが、その契約のゆえにイスラエル の主であり続けるからである(KD I/2, S. 100)。このように、神の「裁き」とは、契 約に対する神の忠実さから生起したものであり、この契約に対する神の忠実さそのも のが既にして「恵み」なのである。バルトは、このことを次のように語っている。

「すなわち、一、まさに神、ただ神のみが、その方に対して4 4 4 4 4 4 4、ここで罪が犯され得る 唯一の方である限り、二、罪に対する神の反応、刑罰、契約相手に対してみ顔を隠し 給うことが、神ご自身の契約に対する忠実さ4 4 4の行為であって、決して契約の除去では ない限り、三、両方のもの、罪と罰は、神がそれらに対して与え給う限界の内部で、

したがってまた、神がそれらに対して与え給う意味と目的をもって起こる限り、神は また、イスラエルの罪に対しても主であり給う」(Idem)。以上のことから、バルト の「神の裁き」という語が、前述の批判者たちが想定しているような人間の悪に対す る神の罰ということでも、まして裁かれる者が神によって「選び」を棄却されるとい うことでもなく、契約において貫かれている神の忠実さという意味において「恵み」

でもあるということには注意する必要がある。

 そしてバルトにとってイスラエルとは、このような裁きと恵みを世に証するために

(9)

神によって選ばれた、まさに「証人」なのであった。バルトはこのようなユダヤ人の 選 び を「 神 に よ っ て な さ れ た 唯 一 の 自 然 な 神 証 明4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4(von Gott geführte einzige

natürliche Gottesbewise

)」という言葉で言い表しているが(

KD I/

2

, S.

567)、これは 一般に言うところの自然神学とは異なる。バルトは後年、この問題について次のよう に言っている。「イスラエルの歴史は、すべての4 4 4 4人間集団の歴史にとっての範例

(Modell)であり典型(Paradigma)である。そして、それが預言であり、預言とし て確認される限り、それは、世界4 4史を理解するための鍵である。それは、範例的4 4 4な歴 史、そしてその限りにおいて代理的4 4 4な歴史という意味においても、中保者的歴史であ る」(KD IV/3, S. 69)。このような意味において、バルトは「啓示の証人(ユダヤ人)

たちは啓示そのものに属している」(KD I/2, S. 566f)と言うのである。このように、

バルトにとって神の裁きの証人として選ばれたユダヤ人の存在そのものが、まさに神 の啓示の歴史的な開示なのであった。

 これらのことを踏まえる時、バルトが「神の裁きの証人としてのイスラエル」を主 張する理由の一端を認めることができる。つまりユダヤ人迫害のただ中で非倫理的で あるという理由によって、イスラエルから神の「裁き」という特異性を軽減したり取 り除いたりした場合、契約に忠実な主として顕現する神と、この神の啓示の歴史的な 開示として選ばれたイスラエル自身を否定することになる。このように「神の裁き/

恵みの証人」の意味を軽減し、あるいは取り除いて神学的にイスラエルを語ることこ そ、イスラエルの特異性とともに、これに基礎を持つキリスト教をも毀損する当のも のとなる。このようにバルトにとって「神の裁き/恵みとしてのイスラエルの選び」

とは、まさに聖書の神の啓示そのものに関わる取り除き得ない特異性であったのであ る。

Ⅲ-3  「神の裁き/恵みの証人としてのイスラエルの選び」とキリスト教的反ユダ ヤ主義

 更に「神の裁き/恵みの証人としてのイスラエルの選び」というバルトの定義が、

歴史的にどのように機能したのかということを、同時代の神学者たちのイスラエル理 解を背景にすることによって明らかにしたい。

 告白教会に属していたバルトが、ヒットラー率いるナチス体制と終始対立・緊張関 係にあったのに対し、この体制と親和的であったドイツ・キリスト者と呼ばれる神学 者たちも、イスラエルを神学的に解釈している。例えばドイツ・キリスト者運動の一 翼を担ったテューリンゲン派の神学者たちは、「ドイツ律法」としてのドイツの特性

(人種・民族)を強調し、ユダヤ人の対抗民族としてドイツを「第二のイスラエル」

として主張した17。またヒトラーを明確に支持したドイツ・キリスト者信仰運動の代

(10)

表的神学者であったエマニュエル・ヒルシュは、イエスのユダヤ性を徹底して否定 し、ドイツ民族における選びとキリスト教を主張した18。「イスラエル」を「ドイツ 民族」あるいは「ドイツの教会」に置き換えるという点において、Ⅱ章で見たバルト と同様に、彼らのこのような解釈も予型論を用いていると言える。しかし、前者の

「イスラエル」を後者の「ドイツ教会」に取って代わられた過去の遺物として廃棄す る点において、彼らの予型論は代替主義的である。バルトは、このような代替主義的 な聖書解釈の中に反ユダヤ主義を看取し、次のように言う(

KD I/

2

, S.

 566

ff

)。「イス ラエルはほかならぬこの民であるがゆえに、もろもろの民族は、繰り返しイスラエル の現実存在に〔怪訝な気持ちで〕驚愕」せざるをえず、それに「抵抗し」「自分たち の間から葬り去ろうとするのである」(KD I/2, S. 567)。バルトは、ドイツ・キリス ト者によるイスラエルの代替主義的解釈こそが、イスラエルの現実存在を自分たちの 間から葬り去ろうとするキリスト教的反ユダヤ主義の最も深刻な現れであると考えて いたのである(KD I/2, S. 567f)。

 このように見る時、結果的にナチスの反ユダヤ政策とそのイデオロギーに取り込ま れていったドイツ・キリスト者たちの背景には、イスラエルの特異性を取り除く代替 主義によって、ドイツ民族を選ばれた民族として、同時にユダヤ人を下等な民族とし て定義付けた反ユダヤ主義的な神学的理解が横たわっていたのではないか。そしてそ れとは対照的に、バルトが、ユダヤ人を排斥し、教会を国家政策に吸収しようとした ナチスのイデオロギーに対して抵抗することを可能にした背景には、神の裁き/恵み の証人としてのイスラエルの選びをイスラエルの特異性として定義付け、それがキリ スト教や教会の存立の基盤になっているという神学的理解を見ることができないだろ うか。

 以上、ここまでバルトのイスラエルの特異性理解をめぐって、われわれは「神の裁 き/恵みの証人として選ばれたイスラエル」というバルトの神学的な定義と、その定 義が歴史的にどのように機能したのかということを見てきた。このように、前述の批 判者達がバルトのイスラエルの特異性とホロコーストとの関係を批判したことに対 し、バルトによるイスラエルの定義の神学的な意図と、ナチス政権下におけるバルト の政治的立場が、間接的にこれらの批判の反証となっていたということが幾分なりか 明らかとなる。そして「神の裁き」としてのイスラエルの神学的主張と、ユダヤ人を 現実の場においてナチスの迫害から擁護するという一見矛盾したバルトの身振りの中 にも、「神の裁き/恵みの証人」というバルトのイスラエルの特異性理解において一 貫性があったということができる。前述した批判者たちのように、戦中のバルトのイ スラエル論が反ユダヤ主義的に解釈しうるがゆえに非倫理的であったという批判が少 なからずあることを考える時、また手紙や書簡、様々な会合での発言記録や友人との

(11)

対話を含めた膨大なバルトの言説を鑑みる時、この反証の内容に充足することは決し てできない。しかし、少なくともここに一貫して反ユダヤ主義に抗するバルトのイス ラエル論の論理の一端を見ることができるのではないか。

Ⅳ イスラエル論と反ユダヤ主義

Ⅳ-1 バルトのイスラエル論に潜む問題性

 ここまでバルトのイスラエル論の特徴を、代替主義とイスラエルの特異性の問題に おいて明らかにしてきた。上述の内容から、バルトがキリスト教的反ユダヤ主義を含 む伝統的な神学を再解釈する形でキリスト教的反ユダヤ主義を退け、再定義したイス ラエルを自らの神学の中に位置付けてきたことを見てきた。しかし、このようなイス ラエルを自らの神学の中に位置付けるという営み自体が、キリスト教的反ユダヤ主義 として問題にされるとしたらどうだろうか。

 ユダヤ人思想家のボロヴィッツは、バルトのイスラエル理解について次のように言 及している。「バルト自身はユダヤ人の選びを強調することによって意識的に反セム 主義を回避し」、「実践のレベルにおいても明らかに反ユダヤ主義に反対していた」

が、「バルトの神学はシナゴーグに根を張ったユダヤ人自身の生活や宗教的実践に関 しての配慮がなく」、「歴史において自らの神学体系にユダヤ人の役割を割り当ててい る」19。ここでボロヴィッツは、バルトによって解釈されたイスラエル理解に対し て、それとは異なったユダヤ人自身のイスラエル理解を意図的に対置させているよう に見える。

 また「アウシュヴィッツ以後」の神学を提唱するドイツの神学者クラッパートは、

バルトのイスラエル論が、参与/連帯的側面と同時にイスラエルの特異性を統合する 二つのモデルを持っていること、そして後者が端的に「包括主義に適合する」という ことを指摘している20。前章で批判者として取り上げたウィリスやハイネスも、この 線でバルトを批判している。ウィリスは、このようなバルト神学のあり方を神学的帝 国主義として批判し21、またハイネスも、バルトのイスラエル論がナチスの人種理論 と同様に救済史に基づいた別のユダヤ人の神話を形成したのではないかと批判してい る22

 イスラエルに対する他者性への配慮の欠如というボロヴィッツの指摘と、バルトの 自らの神学へのイスラエルの統合というクラッパート、ウィリス、ハイネスの指摘 は、バルトが自らの神学の内でイスラエルを考えること自体の問題を指摘している点 で類似している。しかし、ここで指摘されている問題とは何か。それは、自らの神学 の内にユダヤ教を位置付けるバルトのイスラエル論自体が、暗に反ユダヤ的な何かを

(12)

含んでいるのではないかという疑義である。気鋭のバルト研究者であるリンジーは、

バルトのキリスト中心主義が、暗黙理に彼の神学を反ユダヤ的なものにしており、こ の前提が論理的にユダヤ教とキリスト教との間に敵意を引き起こすと指摘してい る23。ホロコースト以後、ユダヤ教とキリスト教の問題を考える研究者たちの多く が、ユダヤ人との対話の中でキリスト教神学自身の内に横たわる反ユダヤ主義を明る みに出し、それを克服することを課題としてきている。そのような中で生まれたこれ らの批判がどこまでバルトのイスラエル論に該当しているのかを、以下、二つの問題 に分けて取りあげたい。問題の一つ目は、そもそもバルト自身は反ユダヤ主義をどの ように理解していたのかということである。そして二つ目は、バルトがキリスト教徒 としてユダヤ人とどのように向き合おうとしていたのかということである。

Ⅳ-2 反ユダヤ主義の神学的理解

 まず、「反ユダヤ主義」そのものについて、バルト自身がどのように理解していた のかということを見てみよう。バルトの反ユダヤ主義理解を先取りして言えば、それ は端的に次のようなものである。反ユダヤ主義とは、「ユダヤ人が神の選ばれた者た4 4 4 4 4 44である時に説明され、神学的に4 4 4 4解明されるべき」である(KD III/3, S. 255)。なぜ ならそれは、「理性的または道徳的な議論をもってしても取り除くことのできない病」

であるし(Idem)、他方で「自由主義全体がみなかったところの全く現実的な何か

etwas ganz Reales

)を見ているし、指して言おうとしている」からである(

KD I/

2

, S. 567)。このようにバルトは、反ユダヤ主義を理解する際に、ユダヤ人の選びとい

う神学的前提を必要としているということ、逆に自由主義的理解ではこれを見過ごし てしまうということを主張する。これらの点を踏まえて、バルトの反ユダヤ主義理解 を見ていくことにする。

 それでは、バルトが言うところの、反ユダヤ主義が示し、自由主義的な反ユダヤ主 義批判が見過ごした「現実的な何か」とはどのような事柄を指しているのか。Ⅲ章で 見てきたように、バルトにとってイスラエル/ユダヤ人の神学的な特異性とは、端的 に言えば「神の裁き/恵みとしての選び」というものであった。このことを踏まえる と、反ユダヤ主義とは、非ユダヤ人がこのイスラエル/ユダヤ人の特異性を何らかの 形で否定することになるわけである。それでは、なぜ非ユダヤ人が神によるイスラエ ル/ユダヤ人の選びを否定するのだろうか。このことに関して、バルトは二つの理由 を挙げている(

KD III/

3

, S.

 255)。一つ目は、われわれすべて4 4 4はどんなに悪いもので あるかということが、選ばれた人間としてのユダヤ人の中で、鏡に映し出されるよう に〔責められつつ〕目の前につきつけられ、明るみに出されるから、というものであ る(KD III/3, S. 250)。二つ目は、ユダヤ人たちが神の選ぶ恵みの事実の前におかれ

(13)

ているということが、非ユダヤ人にとって癪にさわるから4 4 4 4 4 4 4というものである(KD

III/3, S. 253f)。このことから、「現実的な何か」とは、非ユダヤ人が神に選ばれてい

る民としてのユダヤ人に相対する時、自らが選ばれていないという事実に直面するこ とを意味していたということがわかる。つまり、バルトは反ユダヤ主義を、非ユダヤ 人がユダヤ人を通して自らが神の裁きの前に立たされているという神的な躓きを現し ているものとして、同時にそれ自身が神によるユダヤ人の選びを逆説的に証明してい るものとして理解したのである。

 さらにバルトは、教会において、反ユダヤ主義の問題がより深刻な形で現れると考 える(KD III/3, S. 255)。なぜなら、教会で出会うイエス・キリストは「本来的なユ ダヤ人」であるからである。バルトは言う。「ユダヤ人問題全体の中でわれわれ(非 ユダヤ人)をあのように不安にするところのものは、ただ、間接的に、あの方(イエ ス・キリスト)のみ顔であるだけ」だからである(KD III/3, S. 256)。バルトがここ で示唆していることは重要である。つまりバルトは、教会が神によるユダヤ人の選び を否定することによって、神によるユダヤ人イエスの選びを否定し、その結果イエス による自らの救いをも否定することになる、というのである。教会は、イエス・キリ ストの前に立つ時、同時にユダヤ人の前にも立っており、逆もまた然りである。バル トにとって、教会が反ユダヤ主義か否かという問いは、同時に反キリストか否かとい う問いと同義となるのである。そして、教会がイエス・キリストを信奉する素振りを 見せながらユダヤ人の選びを拒否するということは、教会自身が依って立つ基盤を自 ら掘り崩していることに他ならないのである。

 このようにバルトにおける反ユダヤ主義の神学的意味とは、非ユダヤ人がユダヤ人 を迫害することによって、また神のイスラエルの選びを拒否することによって、逆説 的に全ての非ユダヤ人が神の裁きの下に置かれているという「神的な躓き」を開示す るということにあった(KD I/2, S. 567f)。

 しかし同時に、神の裁きとしての反ユダヤ主義は、非ユダヤ人に対し、神の憐れみ に気付くことを促す場ともなる。バルトは言う。「ここ(反ユダヤ主義が生起する場)

では、われわれに対し、すべての民族の人々に対し、ユダヤ人を通して、ただ単に自 らユダヤ的な事柄にたずさわるようにと要求されているばかりでなく、ある意味で、

しかも最終的にはまさに決定的な意味で、自らユダヤ人になるようにと要求されてい るのである」(KD I/2, S. 566)。ここでバルトは、反ユダヤ主義が明るみに出る場 が、同時に非ユダヤ人がユダヤ人になる/属すように神から要求されている場でもあ るというのであるが、では、非ユダヤ人がユダヤ人になる、あるいは属すということ はどういう事態なのか。このことに関して、バルトは次のように言っている。「神の 選びは(中略)別な者4 4 4(ユダヤ人)の選びである。そして、われわれ(非ユダヤ人)

(14)

の選びは、ただ、この別な者の中での、この別な者4 4 4と共なる選びでしかありえないで あろう。(中略)神の慈愛全体は、それが先ず第一にこの別な者4 4 4にかかわり、ただ、

彼の中で、彼を通して、またわれわれ4 4 4 4にもかかわることによって、われわれにかかわ ることができる。この別な者とは誰であるか。それはユダヤ人4 4 4 4であるか。然り」(KD

III/3, S. 255)。バルトにとって非ユダヤ人がユダヤ人になる/属するということは、

まず神の裁きと憐れみを含む全体が第一にユダヤ人に関わるということを認識するこ とである。そしてこのユダヤ人を通してのみ、神の裁きと憐れみの全体が初めて非ユ ダヤ人にも関わるという言明であったのである。バルトにとって、反ユダヤ主義が非 ユダヤ人の神の裁きとして明るみに出る場とは、拒否される当のイスラエルを通し て、逆説的に神が非ユダヤ人全体を恵みへと招く転換の場としても考えられていたの である。このような理解を前提にして見る時、バルトが、自由主義的な反ユダヤ主義 理解はイスラエルの選びと非ユダヤ人の救いの関係を看過してしまうという点におい て何の解決にもならない、と考えたことを理解することが可能となる(KD I/2,

S. 567)。つまり、バルトにとってキリスト教の福音とは、元来反ユダヤ主義が指し

示すところの神的な躓きを前提にしているがゆえに、この神的な躓きの外で反ユダヤ 主義を克服する試みは、神の救いに与る神的なしるしをいたずらに隠蔽してしまう危 険性を有しているのである。このような意味において、反ユダヤ主義の問題がまさし く「キリスト教の問題であり、教会の問題」であると、バルトは考えていたのである

KD IV/

3

, S.

 1006)。

 以上のようにバルトは、反ユダヤ主義が、非ユダヤ人およびキリスト教徒に、神に よるユダヤ人の選びに対する自らの躓きと否定を自覚させ、それによって神の裁きと 恵みに招く決定的な契機となると考えていた。そしてこのような理解は、ユダヤ教と キリスト教の関係を、Ⅱ章での終末論的視座から、ユダヤ人の「神による選び」と非 ユダヤ人による「反ユダヤ主義」という媒介に即して解釈しなおすことによって初め て可能になる。それでは、このような理解に基づく時、キリスト教徒はユダヤ人に対 してどのように関わるべきなのか。

Ⅳ-3 ユダヤ人、キリスト教徒、証

 見てきたように、非ユダヤ人は、ユダヤ人を通して初めて神の救いに与ることがで きた。逆に言えば、神の選びに与るユダヤ人のうちに受肉したイエス・キリストを経 由しないかぎり、「キリスト教徒」という者は、存在しない。それでは、そのような ユダヤ人に対し、キリスト教徒はどのように向き合うべきなのだろうか。

 このことについて、バルトは、キリスト教徒のユダヤ人に対する態度が、キリスト 教会への回心を求める「伝道」ではなく、「ローマの信徒への手紙(11章11、14節)」

(15)

で パ ウ ロ が 語 っ た「 ね た ま せ る(παραζηλω̂σαι)」 こ と に あ る と 考 え て い た

(Idem)。では、なぜ「伝道」ではないのか。それは、まず、キリスト教徒が伝道す る神が、自らが帰属する教会が生まれる前から今日に至るまでユダヤ人の神であると いうこと。そして、教会は、このユダヤ人に接ぎ木され、イスラエルの王(イエス・

キリスト)との交わりにおいて初めて生かされているからである。このように、非ユ ダヤ人に救いをもたらす当のユダヤ人に対して、キリスト教徒は何を伝道することが できるのか、とバルトは問うのである(

KD IV/

3

, S.

1005

f

)。では、そのような「伝 道」とは区別された「ねたませる」とはどういうことなのか。バルトの説明を見てみ よう。「すなわち、教団は、世界の救い主として自分に啓示されたユダヤ人の王の教 団として、シナゴーグをして、神の成就した御言葉という出来事となった慰めの事実 の前に立たしめなければならない。(中略)そのことによって、教団は、シナゴーグ が拒否した方を、シナゴーグにとって愛すべく望ましく明白な方にし、彼を真に来た り給うたメシヤとして、明白にその眼前に置かねばならない。そのことによって、彼 の民としての教団と一つになり、彼御自身とも一つになるように、シナゴーグに呼び かけなければならない」(

KD IV/

3

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 1006)。キリスト教徒が、「神の成就した御言 葉」、「シナゴーグが拒否した方」としてのイエスを、ユダヤ人の前に立たせ、眼前に 置き、イエスと一つとなるように呼びかけねばならないというここでのバルトの主張 は、一見して異邦人への「伝道」と大差ないように見える。しかし、ここには「伝 道」とは異なる重要な前提が明記されている。それは、「世界の救い主として自分に 啓示されたユダヤ人の王の教団として」というものである。つまり、「ねたませる」

ということには、まず、ユダヤ人の王(イエス)によってキリスト教(会)があり、

そしてキリスト教徒としての今の自分があるということを前提としているのである。

そこからキリスト教徒は、イエスをユダヤ人に提示するのだが、では、それがキリス ト教への改宗を目的とはしない時のその提示とは一体どのようなことなのか。それ は、イエスをユダヤ人にとって「愛すべく望ましく明白な方」として、また「ユダヤ 人のメシア」として、キリスト教徒が証することを意味している24。総じて「ねたま せる」ということは、キリスト教徒が、自ら生まれたところのユダヤ人の王/イエス に生かされている恵みの現実をユダヤ人に証することによって、ユダヤ人に「畏敬の 念」と「信頼」を起こさせることを意味しているのである(Idem)。このように見る 時、バルトが考えていたユダヤ人に向き合う時のキリスト教徒の態度とは、ユダヤ人 に何事かを強要することではなく、ユダヤ人が自発的に同朋であるイエスをイスラエ ルのメシアであると感じる、そのようなものであることを意味していると言える25。  同時にバルトは、歴史を振り返る時、キリスト教徒がユダヤ人をねたませることに 失敗し続けてきたと言う。なぜなら、キリスト教徒は、ねたませる当のユダヤ人を迫

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害し、その迫害を放任してきたということ、そしてそれ以上にキリスト教への改宗を ユダヤ人に強要してきたからである。それゆえにバルトは、教会が、「他の宗教や宗 派と共にというのではなく、教会自身が由来したその根源と共に生きることとして、

シナゴーグと共に生きなければならない」と主張するのである(KD IV/3, S. 1007)。

 以上、ユダヤ人に対するキリスト教徒の態度についてのバルトの見解を見てきた。

このようにバルトは、キリスト教徒にとってユダヤ人とは今もなお存立の基盤である がゆえに、他宗教との関係や非ユダヤ人同士の関係とは異なる特別な結びつきがある と考えていた。そして、この関係に基づいてキリスト教徒に課せられたユダヤ人に向 き合う時の「ねたませる」という態度には、キリスト教徒として自らの反ユダヤ主義 的な歴史に抗って、ユダヤ人との連帯を模索しようとするバルトの神学的立場が表出 されていたと考えられる。

Ⅳ-4 諸批判に対するイスラエル論からの応答

 ここまで、バルトの反ユダヤ主義理解及び、ユダヤ教とキリスト教の関係理解を見 てきた。それでは、このようなバルトの理解と、前述の批判者たちの批判を付き合わ してみよう。まずは、バルトのユダヤ人理解が包括主義的であるという批判について である。確かに、バルトが非ユダヤ人との救済史的関係においてユダヤ人を位置付け ていることは疑いえない。諸宗教間の関係を、各宗教の特異性を考慮に入れつつも一 定の普遍的立場から平等に扱おうとする一般の多元主義的立場からすれば、バルトの このような神学的イスラエル論は、確かに包括主義に該当するだろう。しかし見てき たように、バルトは、キリスト教とユダヤ教を、他の宗教と同じ次元で接することの できない特異な関係を有していると考えていた。このように見る時、バルトの両宗教 間理解の前提が、批判者たちの理解の前提と実質的に噛み合っていないということが わかる。逆に、バルトのイスラエル論は、多元主義的前提に対して次の様な批判を有 していることになる。それは、自らの救いの基盤をユダヤ教に負っているキリスト教 徒が一キリスト教徒として実践の場で生きる時、ユダヤ教と他の宗教に対し、中立的 に、また平等に接することは、事実上多くの困難を含むということ、そして、一般的 な多元主義が前提にしているところの普遍的立場からでは、ユダヤ教とキリスト教の 固有な関係を逸してしまう危険性がある、というものである。このようなバルトの視 点から見る時、前述の批判者たちが、両宗教関係を一定の中立的立場から捉えようと して、一キリスト教徒の地平でユダヤ教に関わるという視点について触れていない点 は、十分に批判されるべきだろう。

 次に、バルトのイスラエル論自体が、反ユダヤ的であるという批判についてであ る。これも上述の包括主義の批判と同様に、バルトは明らかに、反ユダヤ主義を非ユ

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ダヤ人の救いの救済史的行程の一つとして自らの神学の内に確保している。確かに、

「非ユダヤ人は元来反ユダヤ的である」と主張する神学を、ユダヤ人が積極的に理解 することは極めて困難に見える。また、この主張だけを取り上げれば、キリスト教の 反ユダヤ主義的な歴史を正当化する危険性を孕んでいるという点において、倫理的道 徳的に許容することの極めて難しい側面を有していると言える。この点において、前 述の批判者たちの指摘は的を射ているかに見える。しかし見てきたように、バルトに とって反ユダヤ主義とは、非ユダヤ人にとってのユダヤ人の神の選びと、彼らを通し て神の裁きと恵みに与る神的な躓きの場を意味していた。このようなバルトの視点か ら見る時、批判者たちの非倫理的道徳的という指摘に従ってバルトのこの主張を単純 に批判し相対化した場合、ユダヤ人の選びと非ユダヤ人の選びの関係をも同時に捨て 去ってしまう恐れがあるのではないか。もしそうであるならば、これによって、反ユ ダヤ主義から守るべきユダヤ人が保持してきた「神の選び」を否定し、それと結びつ いてキリスト教の救いの基盤そのものを掘り崩してしまう危険性が生じてくる。ここ に、バルトがホロコースト以後も、この一見危険な主張にこだわった理由の一端が あったと考えることができる。他方で、バルトがこの主張を捨てずに、反ユダヤ主義 に抗する道を模索したということも見てきたとおりである。キリスト教徒としてユダ ヤ人を「ねたませる」というバルトの主張が、どこまで有効性を持っているのかは、

まさに今日的な課題となるだろう。

Ⅴ 結び

 ここまでバルトのイスラエル論に対する三つの議論と、それに応答するかたちでバ ルトのイスラエル論を解釈してきた。以下論旨を振り返っておこう。Ⅱ章では、バル トが終末論を前提にした予型論的解釈によって、非代替主義的に教会とイスラエルを 解釈しなおしたということを明らかにした。そしてⅢ章では、バルトがイスラエルを

「神の裁き/恵みの証人として選ばれた民」と定義することによって、イスラエルの 特異性と神の啓示を保持し、ナチスの反ユダヤ政策を支持する神学的根拠を与えたド イツ・キリスト者のイスラエル理解を相対化することを可能にしたということを見 た。最後にⅣ章では、反ユダヤ主義を介してユダヤ教とキリスト教の関係を神学的に 見る時、非ユダヤ人はユダヤ人を通して神の裁き/恵みの下に立たされているという こと、それゆえにキリスト教徒は自らの救いの基盤を損なう反ユダヤ主義に抗して、

ユダヤ人をねたませる責務があるということを見てきた。

 最後に、本論で言及したバルトの見解から、ホロコースト以後におけるユダヤ教と キリスト教の関係を考えるにあたっていくつかの可能性に触れておく。まず注目する

(18)

点は、ユダヤ人/イスラエルの特異性を非ユダヤ人の救いの基盤として受け入れるこ とによる有効性である。その一つ目は、キリスト教的反ユダヤ主義の温床となってい た代替主義的思考を批判した点である。そして二つ目は、ナチスの反ユダヤ主義を明 るみに出すことによって、結果的に民族主義的国家主義的イデオロギーを批判し相対 化することに寄与した点である。このように、バルトのイスラエル論は、「ホロコー スト以後」の様々な研究者たちがキリスト教の代替主義を批判する際に、実際の経験 的事例も踏まえた一つの先駆的な神学理解として注目に値すると考えられる。またこ れは、現今の教会と民族主義や国家主義との関係の中で、キリスト教徒が取りうる一 つの積極的な可能性も示唆しているのではないだろうか。

 次に注目する点は、反ユダヤ主義の問題をキリスト教徒として批判的に考える時 の、一つの積極的な方向性についてである。キリスト教徒として反ユダヤ主義に対す る時、その立場が単なる自由主義的人道主義に陥っていないかということは、検討す る必要がある。なぜならこれらの克服の方向性と、「選ばれた神の民」というユダヤ 教の特異性とはしばしば対立するからである。つまり、自由主義的な立場が、「全て の人間に共通するもの」や「人権」、そして「神の前の平等」を暗に前提としてユダ ヤ人と接する限り、その前提を共有しない者には適用できないからである。ユダヤ人 が、「神に選ばれた民」としての特異性を捨てない限り、前者による反ユダヤ主義の 克服は、同時にイスラエルの特異性の廃棄へと変わらざるをえないだろう。これと同 様に、「宗教」というカテゴリーでユダヤ教とキリスト教を考えることも問題を孕ん でいる。それは「宗教」というカテゴリーに両宗教を当てはめることによって、両宗 教と他の宗教とを比較可能なものとして平準化均質化し、ユダヤ教の特異性やそれに 与るキリスト教の特異性を相対化してしまう危険があるからである。バルトがこれら の問題を神学的なイスラエル論の中で自覚的に展開してきたように、今日のキリスト 教徒はイスラエルの特異性をできうる限り保持しながら、反ユダヤ主義に抵抗する道 を模索する必要がある。

 以上のようにバルトは、イスラエル/ユダヤ人の選びを保持することによって、反 ユダヤ主義や民族主義に吸収されないキリスト教徒の一つの可能性を開示する。この ような彼のイスラエル論は、キリスト教徒の立場を徹底することによって反ユダヤ主 義を克服しようとした積極的な試みであったと言うことができる。

 しかし、ここには幾つかの課題も残る。それは、バルトのイスラエル/ユダヤ人理 解が、あくまでも非ユダヤ人でキリスト教徒の立場からのものであり、その意味でⅣ 章において扱った批判者たちの、殊にユダヤ人側からの指摘は残り続けるということ である。バルトのイスラエル論が、ユダヤ人に対してどれだけ開放性を有しているか は、当のユダヤ人との絶えざる対話と検討を必要とする今日的な課題となるであろ

(19)

う。また、バルトのイスラエル/ユダヤ人理解が、「国家としてのイスラエル」の誕 生によってどのような変化を受けたのかは、見過ごすことのできないテーマである。

「国家としてのイスラエル」樹立の経緯と、現在に至るまでの混沌とした中東情勢を 考える時、われわれはバルトの晩年の著作までも視野に入れ、更なる視野を獲得する 必要があるだろう。

1 本論文の一部は、21世紀COEプログラム「一神教の学際的研究 文明の共存と安全保障の視点か ら」の研究助成によるものである。また本論文は、2007年3月29日に神戸女学院大学で開催された日 本基督教学会近畿支部会における研究発表に加筆・修正したものである。

2 本論文では、バルトの「イスラエル論」を一般にバルトがイスラエルやユダヤ人について断片的に言 及した内容の総体という緩やか意味で用いる。「イスラエル」や「ユダヤ人」という語の定義につい て、本論文では、便宜的に次のように使用する。まず、「ユダヤ人」という語は、「ユダヤ教徒」と、

「ユダヤ教徒」に属していない世俗のユダヤ出自の者も含んだ語として用いる。そして「イスラエル」

という語は、宗教者と世俗の人間を含むという意味では「ユダヤ人」と同じだが、主に聖書時代から の連続性を強調する場合に用いる。「イスラエル/ユダヤ人」と表記する場合は、さしあたり聖書時 代から現代にかけてのユダヤ人全般を示すために用いる。1948年以降中東に建国された「イスラエ ル」を意味する場合は、「国家としてのイスラエル」という語を用いる。

3 本論文で用いる「反ユダヤ主義」、および「キリスト教的反ユダヤ主義」の用語について一言してお く。まず、「反ユダヤ主義」は、古代のアンティオコス・エピファネス四世によるユダヤ教の禁止か ら現代に至るまでのユダヤ人/教徒に対立する敵意・憎悪・差別・迫害という全般的で緩やかな意味 として用いる。次に、「キリスト教的反ユダヤ主義」は、「反ユダヤ主義」の諸側面に影響を与えたキ リスト教に固有のユダヤ人に対する偏見とそれに基づく暴力として用いる。

4 Maria Sulzbach, “Karl Barth and Jews,” Religion in Life 21:4, 1952, p. 586.

5 Ibid., p.590.

6 Emil L. Fackenheim, The Jewish Return Into History, Schocken Books New York, 1978, p.33.

7 Emil L. Fackenheim, To Mend The World, Indiana University Press, 1994, p.284.ファッケンハイムはこ の理由として、バルトが依然としてユダヤ人との対話を抜きにして考えていたということを指摘して いる。もちろん彼は、バルトが晩年にユダヤ人と語る幾つかの機会を持ったこと知っていたが、こと

『教会教義学』に関してそれは遅すぎたのではなかったかと補足している。

8 伝統的なキリスト教神学の前提となったこの代替主義的思考とキリスト教的反ユダヤ主義との関係に ついては、近年様々な研究で言及されている。例えばリューサーは、キリスト教反ユダヤ主義の生成 と 発 展 の 過 程 を 歴 史 的 に 分 析 し て い る(Rosemary Radford Ruether, Faith and Fratricide: The Theological Roots of Anti-Semitism, Seabury Press, 1974参照)。またクロッサンは、初期キリスト教の 成立の中で代替主義的思考がどのように形成されていったのかを学際的な資料の下で聖書学的に明ら

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かにしようとしている(ジョン・ドミニク・クロッサン、『誰がイエスを殺したのか 反ユダヤ主 義の起源とイエスの死

』、松田和也訳、青土社、2001年参照)。

9 カール・バルト、『ローマ書講解』下、小川圭治・岩波哲男訳、平凡社、2001年、557頁(訳者小川の 解題)。

10 Karl Barth, Der Römerbrief, Chr.Kaiser, Verlag in München, 1922.本文中で引用するDer Römerbriefに 関してはRömという略記号で示し、ページ数をアラビア数字で引用文の後ろの括弧内に記す。なお 訳出に際しては、小川圭治・岩波哲男訳の『ローマ書講解』(平凡社、2001年)を適宜参照した。な お、引用文中の傍点は翻訳に従ったものである。

11 予型論(typology)とは、旧約聖書の様々な記述の内に新約聖書、あるいは教会に関する事柄の予 兆・表徴を見て取る伝統的な聖書解釈の方法である。例えば神の手によって創造された人アダムを、

霊によって生まれたイエス・キリストの予型として、あるいはイスラエル民族が紅海を渡った出来事 を教会の洗礼の表徴としてみなす解釈などが挙げられる。

12 エーバーハルト・ブッシュ、『カール・バルトの生涯』、小川圭司訳、新教出版社、1989年、116⊖118, 143頁。

13 Karl Barth, Die Kirchliche Dogmatik, Verlag der evangelischer Buchhandlung Zollikon, (Bd. I-IV).本文 中で引用するDie Kirchliche Dogmatikに関してはKDという略記号で示し、巻数はローマ数字で、

ページ数をアラビア数字で引用文の後ろの括弧内に記す。なお訳出に際しては、吉永正義・井上良雄 他訳の『教会教義学』(新教出版社)を適宜参照した。なお、引用文中の傍点は翻訳に従ったもので ある。

14 Robert E, Willis, “Bonhoeffer and Barth on Jewish Suffering: Reflections on the Relationship Between Theology and Moral Sensibility,” Journal of Ecumenical Studies 24:4, 1987, pp. 612⊖614.

15 Stephen R. Hayness, Prospect for Post-Holocaust Theology, Scholars Press, 1991, pp. 70⊖71.

16 エーバーハルト・ブッシュ、『カール・バルトと反ナチ闘争』下巻、雨宮栄一他訳、新教出版社、

2002年、62⊖73頁。

17 宮田光雄、『十字架とハーケンクロイツ』、新教出版社、2000年、84⊖87頁。

18 ロバート・エリクセン、『第三帝国と宗教 ヒトラーを支持した神学者たち』、古賀敬太、木部尚 志、久保田浩訳、風行社、2000年、255⊖259頁。

19 Eugene B Borowitz, Contemporary Christologies: A Jewish Response, New York: Paulist, 1980, pp. 176⊖

178.

20 Bertold Klappert, Israel und die Kirche: Erwägungen zur Israellehre Karl Barths. München: Christian Kaiser, 1980. S. 41ff.

21 Willis, Ibid., pp. 612⊖614.

22 Hayness, Ibid., pp. 70⊖71.

23 Mark R. Lindsay, Barth, Israel, and Jesus; Karl Barth’s Theology of Israel, Ashgate, 2007, p. 15.

(21)

24 このことは、1949年にバルトが『改革派スイスの教会』紙に掲載した『ユダヤ人問題とそのキリスト 教の応答』の結論部分に、既に表れているように見える。以下の著作を参照せよ。カール・バルト、

『カール/バルト著作集7 政治・社会問題論文集』下巻、雨宮栄一訳、新教出版社、1975年、327 頁。

25 この「ねたませる」というバルトの主張を想起させる出来事が、まさに戦時下におけるバルトとユダ ヤ人知識人たちとの交流の中に垣間見える。これについては、以下の著作を参照せよ。ブッシュ、

『カール・バルトと反ナチ闘争』上巻、217、224⊖225頁、下巻、18⊖19頁。KD I/2, S. 87.

参照

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