• 検索結果がありません。

カール・バルトにおける神の像の問題

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "カール・バルトにおける神の像の問題"

Copied!
15
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)カール・バルトにおける神の像の問題 小. Das. Problem. der Kenichi. 林. 謙. imago. Dei. bei Karl. Barth. KoBAYASHI*. Ⅰ.論争の第一段階 E.ブルンナ-とのこの間題. パルトのイマゴ・デイ(人間における神の像)の理解は, かたち. をめぐる論争をぬきにしてはあり得ない。. 1934年のブルンナ-の論争の書『自然と恩寵。1). における彼の主張をまとめれば以下のようになろう。 1.人間の神像性(Gottebenbildlichkeit)には二つの面がある。形式的なそれと実質的. なそれである。前者は人間の主体存在,責任性,理性存在,言語能力(Wortf弘igkeit)で あって失なわれることがなく(10-ll),後者はjustitiaoriginalis. (原初の義)であり,. これは罪によって失なわれた。 2.. 「神の救いの恵みに対する. Ankn包pfungspunkt. (結びつき点)が存在する.」そし. て「これこそ,罪人にも失なわれることのない形式的イマゴ・デイ,人間の人間存在, Humanitas.であり,すなわちWortf弘igkeit,責任性である(18)。したがって「自然的」 神認識(19)が成立するのである。 3.実質的なイマゴは罪によって失なわれたが,それは新約聖書においても7)ストによ って回復(reparatio)される(21)。 4.このようにブルンナーは「自然神学.の必要性を主張する(21).後にとっては r存在の類比(analogiaentis)は特殊カト))ック的なものではなく,あらゆる神学の基礎」 (41)なのである。披から見るとパルトの全神学も形式的イマゴの説に事実上基づいてい る.バルトにとっても人間の理性的本質,人格,主体,が神へのアナロギ-となっている. からである(40)。なおブルンナ-は1935年の第2版への序言で,. 「創造の啓示」. 「一般啓. 示.を主張している(ⅠⅠⅠ)0. この挑戦に対してバルトは直ちに『香!エーミ-}t,・ブルンナ-への答え。2)を書いて 応じた。. 1.形式的イマゴと実質的イマゴの区別はブルンナ一において存立しない0 マゴ・デイJを我々は-・・・神の意志を啓示なしにも『何らかの仕方でJ 行ない得る人間,と解さねばなるまい. と語るものは明らかに実質にみちている」 *ドイツ語教室(. °ept. of German). 「『形式的イ 『幾分か.D 認識し. (227)。ブルンナーが「人間性の単に形式的な面 (252)0.

(2) 2. 小 Ankn立pfungspunkt. 2.. 林. 謙. 一. の説は否定されなければならない。この概念の意味するとこ (225)であるが,. ろは,,0ffenbarungsmachtigkeit". 「神に対する人間の『能力。. (M益chtig-. keit)の考えの全体が消え去らねばならぬ。神と人間との出会いと交わりがあるとすれば,. 神自身によってその前提が創り出されていなければならぬ。この前提は形式的なものの 存在によっては断じて(『何らかの仕方で。も『幾分か。でも!)与えられていない.. (226).3) 3.. 「パウロはガラチャ書2章20節でこの〔『形式的人格性。の〕. Konstanzにもかかわ. らず,まさに,キリストなき人間の実存とキリストと共にある人間の実存,キリストの外 と内の人間の実存の非連続,もしくはむしろその連続の神の奇蹟について語っているので はないか?.. (229)。神の像の叩回復。は奇蹟である. ●. (230)。バルトは「実質的.イマ. ●. ゴの「回復.については自説を明確に述べることを避けている。この点は「形式的.イマ ゴの連続性についても同様である。. 「この形式的な意味では人間の中にもともとある神の. 像は破壊されていない〔とブルンナーは言う〕。一事実その通り,と我々は言うであろ う」 (218)。この時のバルトにはまだイマゴ・デイについてはっきりした考えが形成され ていないが,それが失なわれないことば認めている。 4.この書におけるバルトの関心事は自然神学の否定である。バルトは初めにおいても. (211)終りにおいても(258) なるのは「存在の類比. あって,. 「自然神学.を規定し,論駁しようとしている.その中心と. (analogiaentis)であり,バルトはローマのモンテ・ピンチオに. 「analogiaentisと個人的に.論じ合いたい(231)と思ったのである。またこの. 時のパルトにとって啓示は唯一つしかない。 て理解できようか。. きるのか.. 「創造とその保持を和解からでなくてどうし. 「創造と和解との抽象的分離を聖書の中に持ち込むことがどうしてで. (222)a. 以上のようにこの書ではバルトはブルンナーのカトl)ック的自然神学を否定するの急で, 自分のイマゴ・デイの説を積極的に主張していない。. KDへの粛芽は見られる(創造と和. 解の統一)が,信仰の類比(analogia丘dei)はまだ発見されておらず,したがって創造と 和解を統一するキT)スト論的集中もまだ形成されていないo. ⅠⅠ.論争の青二段階 1937年にブルンナーは『矛盾の中の人間。4)を著した.この中でイマゴ・デイに関する 点を見てみよう。 「人間の本質は,愛から出,愛のうちにあり,愛に向かう責任性である.. (101)0. 「人間. 性の核心は創造し認識する理性にではなく,責任性の実現としての交わりの中にある.. (108)o. r責任性.はF自然と恩寵。と同じ要素であるが,. これらの定義のうち. わり」の規定は新しい。この後者の点はまた「鏡像. (Gegeniiber). (99)とも言われる。. (Spiegelbild). 「原像であるキリスト.. 「愛」 「交. (99), 「向かい合い.. (99), 「三位一体の神.が人間. の像に映されているのである(108).これについてブルンナ-は白から説明を与えているo r形式,構造としての人間性一つまり責任的存在-は残ったo ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. 内容としての人間性, ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●.

(3) 3. カール・バルトにおける神の像の問題 (170)。すなわち「責任性.は「形式的イマゴ.. つまり愛における存在,は失なわれた. であり,. 「実質的イマゴ.が新たに「愛.. 「交わり.と規定された内容を受けているのであ. る。骨子としては「1934年と1937年と,私の主張することは全く同じである。しかし私 はここでは別の言葉で言おうとしたのだ.. (498)。それは「カトリックの二重のイマゴ. (imago-similitudo)の説を私が主張していると.誤解されるおそれがあるからである (499)。しかし172頁から180頁に「神の像の痕跡.として真理のイデー,神のイデー, 技術と文明,芸術,ロゴス,言語,交わりへの希求,道徳・宗教の意識,を挙げているこ とからも,ブルンナ-のイマゴ・デイがカトリックに親近性を持つことば否定できない。 ただイマゴを「向かい合い.. 「愛. 「交わり.の方向に規定したことは,のちに述べるバル. トの考えへの接近を示しており,ブルンナ-なりにカトリック的考えの危険性から離れよ うとする試みを示している。他の点ではAnknヰpfungspunktの主張(509#.)にせよイマ (restitutioimaginis)の考えにせよ(476),前と変わらない。. ゴの「回復.. 1938年の『出会いとしての真理。5)において,三位一体の神にしたがって,イマゴ・デ イの意味は「人間とは常に,自然的存在においても,神からの人間.ということであり, (33)と言われ,新約聖書では神. これは「イエス・キリストにおいてのみ認識され得る.. の像は「アクチュアルな関係概念であって,もはや静的な属性(Eigenscbaft)概念ではな い.. (99)と言われるのは前進を示している。しかしこの関係概念は新約で実現した神の. 像-キリストの像について言われることであって,逆に旧約の神の像はEigenscbaftと理 「人格的応. 解していることになる.結論としてブルンナ-は神の像をやはり「責任性., 答」 (101)に見ている。. パ}L,トは1948年の革DIII/2, 153-157頁でブルンナーの『矛盾の中の人間。をとり上げ て論評している.まずその説の要点を紹介したのち,一定の評価を与えている.すなわち 「人間の神とのT)アルな向かい合い.をブルンナーが見,これが「神の言葉との・.・・-,イ エス・キl)ストとの向かい合いと同一であること.を見た点である(154).この点がその ままバルトとブ}t,ンナ-の共通点である.しかし次にバルトはブ}t,ンナ-への開いと批判 を表明するoブルンナ-の描く人間の「存在と本質には内容があるか,単なる形式,単な ●. る可能性,. の愛も「まだ空虚な向かい合い.. (157)であって,. の,具体的な,満たされた関係を持っていない. エス・キリスり. ●. ●. 「人間性は神の啓示に対してまだ直接. (157)。したがって神の言葉と啓示(イ. との同一性が認識根拠にのみ関わっていて,存在根拠に関わっていない. (157). (157).バルトの批判はブ}t,ンナ一における「神の三位一体性のただ中にある盲点. に及ぷ。すなわち契約(Bun°)の主と創造主とが別々に把握されているのである(157)。 このようにブ}t,ンナ-の人間学においては「人間性の現象しか見られず,現実の人間その ●. ●. ●. ●. ものは見られないのではないか.との問いが残ることになる(157)0 ⅠⅠⅠ.パルトにおけるイマゴ・デイ バルトはKDIII/1. ●. (155)。彼の言う自由は中立的(156)であり,神. Potentialitatではないか?.. (1945年)に至ってイマゴ・デイに関する彼の考えを詳述している。. ●.

(4) 4. 小. 林. 謙. 一. その要点をまとめよう。まず本文(197-214頁)について。 1.. 「我々は---つくろう.という神の主語の複数形(創世記1章26節)は神の内部の. 向かい合い(Gegentiber)を表わす(204-5)■。 2.. s益1em,demutの翻訳についてoバルトは「我々の原像に(in. Urbild),戟. unserem. 々の前像(Vorbild)にかたどって.と訳す(205-6)o 3.イマゴ・デイの本質は人間の我一汝関係にあり,ことに男と女との向かい合いにあ る(206-10)0. 4.人間の被造物支配はイマゴ・デイの帰結またAccessoriumであって,その本質で はない(210・-ll)0 5.イマゴ・デイは人間の希望であり,堕罪によって失なわれることがない(213)。そ の原像はイエス・キワストと彼の教会であり(213),この希望と約束のゆえに男と女は子 供を生むのである(214)0 6.あらゆる人間が,人間である限り,神の像である。神ご自身という原像のしるしで あるべく規定されており,この規定は同時に祝福である(214)0 次にパルトはExkurs. (214-233頁)において以上の主張を基礎づける.. 1.主語の複数形。バルトは諸家の説を検討したのち,古代教会の,三位一体に関係づ ける解釈を選ぷ。すなわち神は自分の中に我一汝の関係を含むのである(214-6)。 2.原像またVorbildとば上述の神ご自身における我一汝関係である(222)0 3.イマゴ・デイの本質o. パ}t,トはここで多数の思想家の名を挙げ,. 「人間の発明精神. の多様性.に驚嘆の念を表明している(216)。彼らはすペて,自己の人間学のために,刺 世記の本文を無視して,魂とか理性を神の像に祭り上げているのである。なお興味深いこ とに,イマゴ・デイに関するKDのどの箇所でもトマス・アクイナスに全くふれていな い。パルトは次に旧約学者の説に言及し,人間の身体や被造物支配にイマゴ・デイの本質 を見る見解を斥け(217-8),フィッシャーの我一汝関係の見解(218),ボンへッファーの. 関係の類比(analogia relationis)の考えを(218-9)肯定的に取り上げる.6)次にバルト独 自の考えに進む。神ご自身の中に我一汝関係がある。そのように神は人間と関わる。その ように人間は我一汝の関係の中に,男と女の関係の中に,ある(220)0 4.被造物支配について(231-3)は省略o 5.イマゴ・デイは父から子へ伝えられることがない。それはそのつどの約束(Ver-. heiL3ung)である(224)。それは「堕罪によって,部分的にせよ全くにせよ,形式的にせ よ実質的にせよ,失なわれることはない.. (224)。旧約の領域では神の像は希望であった。. 新約の領域ではイエス・キリストが神の像となっている。これは旧新に対して更新ではな く,成就(実現)なのである(226-231)0 る. 6.. 「教会と一緒でイエス・キリストが神の像であ. (230,原文ゲシュペル7.)o 「イマゴ・デイは関係の類比として,神のわぎ・神の賜物であることを決してやめ. ることがなく,決して人間の所有にはならない.. (226)。この点は何度もくり返し注意さ. れるoイマゴ・デイは人間の性質ではなく,能力,可能性でもなく,人間存在の構造でも.

(5) 5. カール・バルトにおける神の像の問題. ない(219)0 ⅠⅤ.旧約学からの批判 創世記1章26・27節のバルトの釈義は独特であって,旧約学の大勢とは必ずしも一致し ていない。. ∫.∫.シュタムはこの点について手際よくまとめている。7)それによると1940年. 以前の旧約学ではイマゴ・デイの本質は1.精神的能力 4.神と人間の関係,といった様々の点に求められたが,. 2.被造物支配. 3・身体性. 1940年以降になると主な点で. は学者間に一致が顕著であって,イマゴの本質を神との人間の形姿(Gestalt)の類似に見 るが,これに精神の面をも含めて考える傾向にある。またイマゴの喪失の考えは旧約にな いこと,神の主語の複数形ほ天上の宮廷の表象を示すこと,の二点でもコンセンサスがあ る.代表的な旧約学者ラートの注解を見ても,8)テキストの背後にはヤハウェが人間の形 姿をもつとの表象のあることが指摘され(38),さらに旧約では人間の身体性と精神性が 常に一つのものとして考えられていることが言われ(37),したがってイマゴ・デイとい 「しかしテキスト う場合,全体としての人間を考えなければならないとされる(37-38)o はイヤゴ・デイがどこに存するかについてよりも,何のためにそれが与えられているかに っいて多く語る.. (39)0 「人間の神像性について決定的なことは人間以外の世界に対する. 人間の機能(39),すなわち被造世界に対する人間の委託統治である。ラートは「〔このチ キストでは〕人間の完全な概念は---男と女に含まれている」. (39)と言い,. 「人間はその (39). 由来・本質・規定からしてここでは全く神に関係づけられ,また神から理解される. と言うが,この形式的な規定以上にイマゴ・デイについて説明することをしないoこれは 旧約学の立場としてこのテキストに当然の限界であろう。なおこの関係でシュリンクがイ. マゴ・デイの本質を「人間にふりかかるできごと.と見る9)のは興味深いo ●. ●. ●. ●. とにおいて人間は神の似像になるのである」 ●. 「このできご. ●. (107)0. ●. シュタムは前揚論文の第ⅠⅤ部(64-68)で現代旧約学の研究成果とバルトの釈義との 共通点を次の三点にまとめている。 い.. 2.イマゴは失なわれず,持続するo. 1.被造世界支配はイマゴの帰結であって本質ではな 3.イマゴは内面と外面,精神と身体を共に含む. 人間の全体的現実にかかわる。第ⅠⅠⅠ部(60-64)でシュタムは旧約学の立場からバルト を批判する。. 1.神の主語の複数形を三位一体と考えるのは無理で,したがってanalogia. 2. s孟Iem (像)とdemut (類似)は原像・Vorbildではなく, relat主onisも成り立たない。 かたち 形姿(Gestalt)であるoなおこのs孟Iemの訳についてはシュT)ンクもバルトを批判してい. る。10). ここにはバルトと旧約学者との方法上の違いがあらわれている。旧約学は創世記1章の 時代史的宗教史的背景からテキストにおけるイマゴ・デイの意味を決定しようとする。し かし創世記1章26. ・. 27節また旧約聖書益体がその本質について決定的なことを言ってい吃. い以上,そこには限界がある。バルトは旧新約聖書全体の中心,イエス・キリストからこ のテキストをも見ており,その結果,釈義的にも説得力を持っているように思える。 は人間を自分の像に創造された。神の像に彼を創造し,男と女に彼らを創造された」を. 「神.

(6) 6. 小. 「テキストの定義のような説明.. 林. (KDIII/1,. 謙. 一. 219)と見て,テキスト外から何らの空想を. も持ちこまないこと,また1章26節の主語に神内部の我一汝関係を見るのは, 義よりともかくもテキストにより近く接近している.. 「近代の釈. (KDIII/1,216)と思われる。. Ⅴ.イマゴ・デイの基礎づけ バルトばKD. III/1, 329-377頁で創世記2華18-25節について述べており,このテキス. トは1章26・27節にイマゴ・デイと言われたことを「大きく展開している. 人間が男と女であることが「人間性の本質.. (329)であり,. (329)と見る。 (330)がそれ. "Zweisamkeit=. である。しかしそれは「契約(Bun°)にその内的な根拠をもつ.. (331)。 「創造の全内的. 根拠,後に歴史的に根拠づけられ実現され成就されるであろう神の人間との全契約,がこ のできごと,男に女が加えられることによる創造のこの完成,の中に予型をもつ(vorgebildet)のである.. (337)。すなわちテキストが与えるのは「神の恵みの契約の反映.. (364)なのである。そして新約におけるその成就はキリストと彼の教会である。. 「愛と結. 婚の根拠は今や男からの女の創造ではもはやなく,創造の背後に,それを越えて,キリス トと彼の教会の共存(Koexistenz)である。これが創世記2章の『大いなる秘義。である.. (376).男と女の結びつき(Bun°)は神とイスラエルの契約(Bun°),その完成であるキ リストと教会のBund,にその基礎をもつのである。 KDIII/2,242-246要は人間学の基礎づけとしてのキリスト論を述べるo. 「イエスは人間 ●. のための人間」 ●. ●. ●. ●. ●. し,その模像,その反映である. デイである」. (258)。この意味で「イエスの人間性が神の像,イマゴ・. (261)。そして関係の類比によって父なる神とイエス・キリストとの間の自. 由と愛の関係が神と人間との閏にも成り立つのである(262)0. これに続く264-391真はこの基礎の上に立つ「人間性の草本形式.を詳述する。本稿の 関心からここで重要な点は, 「規定」. ●. (248)であり,その「イエスの人間性はこの上なく厳密に彼の神性に対応. 「人間は神の契約の相手へと創られている.. (Bestimmung)に,. (385-6)という. 「人間の出会いにおける存在.が対応する(390),というアナ. 「そうであるなら--人間の存在は神白身に対応する存在である. ロギ-である。さらに, (390)。こうして「人間は神の似像である. (390)0 ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. 以上のバルトのイマゴ・デイの基礎づけを整理してみたい。バルトの議論を貫く logia relationisの重なりを見ることが必要である。. 第一の重なりは旧約的なものである. 1.神の内的三位一体が原像。 2.この父と子との関係に神とイスラエル(人間)とのBundの関係が対応する。そし. てそのVorbildはキリストと教会である。 3.これのAbbild(模像)が人間同志,ことに男と女の関係である。 この重なりは歴史的・終末論的な色彩をもち,約束の相をもつ。 第二の重なりば新約的なものである。 1.原像は同じく神の三位一体o. ●. ●. ana-. ●.

(7) 7. カール・バルトにおける神の像の問題 2.これに対応してイエス・キリストの神性と人間性の関係。 3.これに対応して人間の共同性の関係。 この重なりはキリスト論的なもので,約束に対する成就の相にある。この二つの重なりと ち,初めと終りをとると,人間は神の像である,というテーゼになるo11' なおこの点をより深く理解するためにはバルトの「存在.の概念が課題となろう。バル トにとって「存在.は最高もしくは最後の概念ではない.ユングルの言わんとするところ. をふえんして言えば,人間の存在より先にアナロギアが,つまり神のJaがあり,そして このJaが人格となったのがイエス・キリストだ,ということになろうo1望) バルトは人間の心身の関係について,この関係は次の三つの関係の比噛だと言う(KD III/2, 513). 0. 1.神と人間が共にあるという規定。 2.キl)ストと教会o 3.男と女すなわち神の像。 ただし心身の関係はこれら比聴からは導き出されず,照明を受けるだけであるoしかし心 身の分離と統一をもって存在する人間を神が自分の相手に選んだのは偶然ではないことが 言われなければならないo バ}t/トは,もともとKDIII/2に一つの§として入れる予定だった部分をpキT)ストと. 「われわれは本来的・根源卿こ. アダム。という題で出版した13)が,その中でもくり返し,. 人間はどうあるのかということを,アダムすなわち堕落した人間の姿からではなく,キ]) ストの姿(そのなかでアダムの堕落は回復されている)から読み取るぺきであり,われわ れはアダムの姿をキリストの姿(アダムの姿はその予型である)にしたがって修正し解釈 すべきである.. (148-9)ことを主張する。これは直接にはもちろんブルトマンへの批判で. あるが,同時にブルンナーの人間論への批判ともなりうるものであるoまたこの書物は人 間と人類の問題を扱った釈義であるが,この両者の関係も,心身の関係の場合と同様,イ マゴ・デイの比喰として考えられるのではないか。. vI.プルンナーの新しいイマゴ・デイ理解(論争の第三段魔) 「バルトは今やこの構造的な,旧約においての. ブルンナ-は1949年の『教義学。14)で,. みあるイマゴの概念を承認した.と言う(52)。果たして二人の見解は一致したのであろ うか。 ブルンナ-がイマゴを二つの面に分けて考えることば変わらない。 ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. (66)0 「人間存在のこの形式的な側面が聖書で,. わることなく与えられた存在構造である. ●. 「責任性が人間に変. ●. っまり旧約で,神像性の概念をもって表わされている」. (67)。すなわち主体存在,人格存. 荏,自由のことである(67)。新約においては「唯一つ大切なのはこの構造の実質的実現 ●. である.. トによる「神像性の回復.. ●. ●. ●. ●. ●. (28)であって,したがってキリス. (67)。すなわち「神像性は失なわれたもの. ●. ●. ●. (68)が問題となるのである。. 『教義学Jのブルンナーにはしかし別の見方も見られる.. 「神の像は他ならず,神の愛が. ●.

(8) 8. 小. 人間の心に反映することにある」 関係として把握される。.. 林. 謙. 一. (69)oまた「神像性はそれ自身で成り立つ実体ではなく,. 「責任性とは関係であって実体ではない.. (70)。イマゴを反映・. 関係と見るのは『出会いとしての真理。でも簡単にふれられていたが,これが今展開され るのであるo ブルンナ-はバルトのイマゴ理解にも直接言及する。 まま神像性と同一視するのは行き過ぎだ. ●. ●. (75)0. 「人間が男と女であることをその 「性的両極性そのものがイマゴ・デイな. ●. のではないoそれはいわば第二級のイマゴ,模像の比噴,そして同時に真の交わりの自然 的基礎である」. (77-78)o. この文脈ではブルンナ-は「人間の被造物としての存在は形式. 的には愛のための存在,実質的には愛の中の存在と規定されている. 的には我と汝の両数形における人間だけが神の像たる人間である.. (76)と言い,. 「聖書. (77)と言う。. このイマゴ・デイすなわち「真の我一汝.がどういうものかあまり明確ではない(トマ ス的な神関係を背後に考えているのではないか)が,ともかくこれは旧来の「責任性.と いう「イマゴの形式的側面.の考えとうまく結びつかないようだ。また「実質的に実現さ れた--責任性が愛の中の存在.. (88)という言い方にもあらわれているように,旧来の. 考え方とパルト的な「約束一成就.の図式を結び付けており,この意味で二人は大いに近. づいている(ブルンナ-はバルトの発展に常に敏感に対応しようとしているようだ)と言 える15)が,しかしなお「人間の構造.に固執する点に,神またキリストから離れた人間 に独立の立場を確保しようとする傾向が残っていると思える。すなわちカトリック的な実 体の考え方を脱却し切れていない。それゆえ「かくも多くの言葉が費やされた争点は今や 除去されたと見てよい.. (52)とブルンナーと共に言うことはできないo. ブルンナ-は「パルトのKDIII/2,153H.で未解決に残された問いに当然-・.・Jaをもっ て答える」. (93)と言うが,これは的をはずれている.バルトがブルンナーの措く人間が. 「現実の人間」ではないのではないか,と問うているのに対して,ブルンナ-がここでそ うだ,と請け合っても答えにならないからである。しかしこの点については次のプルン チ-の論文でいくらか問題が明らかにされる。 1951年にブルンナ-は『新しいバルト。という論文を書いた.16)これはバルトの. KD. III/2に対する論評で,この間題に対するブルンナ-の側からの総決算といった趣きのも のであるoブルンナ-は彼の『教義学。. 2巻93頁で「短くJaと答えた.ことを「もっと. 詳しく基礎づけ説明.しようとし(90),二人の共通点を7つの項に(91-92),バルトへ. の問いを6つの項に(92-100),それぞれまとめている。しかしとこでは両者の違いを筆者 なりに整理してみよう。 1.問題の中心は創造の契約(Sch6pfungsbund)と和解の契約(Vers6hnungsbund)の 関係の理解の違いにあるo. バルトにおい七は「この二つは同一だということになる.. (98)。ブルンナ-はこれに反対で,それでは不信仰者・罪人もすべてキリストの体の肢と なってしまう(99)が,神の像の回復は信仰者にのみ与えられるはずだ(99)と言う。ブ. ルンナーは実質的イマゴーーその喪失-キリストによるその回復,と線的な救済史の 図式で考えるが,バルトはいわば同心円的に考えるのであって, Bundは一つであり,刺.

(9) 9. カール・パルトにおける神の像の問題 造に際してもキリストがその主体として参与している,と統一的に考えるのであるoこの 「選び」についての 点の理解の遠いの底には,ブルンナーも気づいているように(100), 考えの違いがあるo. rこれがパルtlLの隠れた統∴点であるらしいoJ予定説の違いにはまた. 三位一体説の違いが不可分に結びついているo 「バルトの人間学の主要. 「現実の人間」に関する違いが出てくる。. 2.ここから「現実.. (92)oバル. な考えである『現実の人眺は罪に関するキ')スト教■の教えと一致しえない.. 「1・私がブルン. トはブルンナ-のこの論文についてある神学生あての手紙で述べている。 ナ-の批判に答えなかったのは,彼と私の『現実。また特に『現実の人間。についての概. 念が根本から違うということが,彼と私を注意深く読む読者には誰にも明らかであるに ちがいないからです.. 2.ブ}t,ンナ-では『現実の人臥とは罪人として現にある人間. のことで,私にとっては罪性にもかかわらずイエス・キワストにあって神から恵みのう ちに受けいれられ肯定された人間のことなのです。.17)ブルンナーはまたパルトの「規. 定(Bestimmung)の概念が両義的に使われていてあいまいではないかと疑問を呈してい る(95)が,バルトは神から人間に課された「規定.こそ現実だ,と見るのであるoこの 点バルトの方が神の力を大きく見ており,ブルンナ-は神から離れた人間の独立性を主張 する余地を残している。 3.ブルンナーから見るとバルトの「関係の類比ほ同時に存在の類比だ」ということに なる(93)。しかし存在(ens)より先に関係また神の肯定があるという深みをブルンナー は理解していない。それゆえブルンナ一においてはイエス・キリストがratiocognoscendi (認識根拠)であるだけでratio. essendi. (存在根拠)でないとバルトが批判する(98)の. は正当であるo 4.二人の神学の主要関心事が異なる。パルトの主テーマは契約であり恵みであり神の わざである。ブルンナ-の関心は一貫して人間学的であるoバルトにおいてはイマゴ●デ イは独立したテーマになっていない。. ⅤⅠⅠ.パルトとプルンナーのイマゴ・デイ(声とめ) ィマゴ.デイに関するバルトの考え方は『否。とKDとでは大いに変わって来ているo ・否。の時は自然神学の否定が関心事であって,積極的なイマゴ理解はまだ形成され得な かった。. KDIIIではanalogia丘dei. seu. relationis. によって積極的な主張が可能になっている。なおもしKD. (信仰のあるいは関係の類比)の発見 V. (Er16sungslehre)が書かれ. ていたならばそこで再び(特に新約における完成の観点から)イマゴ・デイについて展開 することがあったかもしれないoブルンナーの方は考え方の基本は変わっていないoイマ ゴの実質的側面と形式的側面の区別がその軸である。この両側面の内容規定はいくらか変 化しており,特にバルト的な考え方を大幅に取り入れているoバルトも関係の類比を主張 する点に至った点はプルンナーの立場に近づいたと言えるoしかしこの先は相違が大きく なる。 二人のイマゴ諭の共通点をまとめる。.

(10) 10. 1・. 小. 林. 謙. 一. 「キ')スト数的人間学がイエス・キ')ストにおける神の菅示から出発するJことo18). すなわちバルトから言えば「聖書の啓示の神との,神の言葉との,---神の言葉の捻括と してのイエス・キ')ストとの,向かい合い. 2・. (KDIII/2,. 154)から出発することである.. 「人間の神の像としての存在は関係の類比として理解されるo.19)すなわち我-汝の. 関係である。 3・神の像は罪によって失なわれない(ブルンナ一においてほその.形式的側面が)0 次にその相違点をまとめよう。 1.二人とも人間を歴史的存在と見る点は同じであるが,ブルンナ-は救済史的に,す なわち創造(神の像)一堕罪(実質的イマゴの喪失)一和解(その回復)と線的に考え るoバルトは歴史(救済史を一般史と区別しない)をその中心(キリスト)から発して中 心に向かって急ぐ運動ととらえる。旧約新聖書を貫く軸は契約(Bun°)である。 2・. 「現実の人間」のとらえ方が違う。バルトから見るとブルンナ-のそれは実は中立. 的な可能性,すなわち現象にすぎない.雪0) 3.神の像の始原にして完成をバルトはキリストと彼の教会の姿に見る。ブルンナ-の イマゴ論では教会は全く考慮されないo人間をキリストと教会という「現実.から抽象さ れた個人的・理性的存在と考えている。 4・すなわちプルンナーはイマゴ・デイを人間のHabitusとする考えから脱け切って いない.21) 5・. 3と4の点はアナロギアの理解に関わる.ブルンナ-が「責任性.「人間存在の形. 式的構造」にHabitusの性格を残している限り,それはRelationの主張と矛盾を来たす。 彼は関係の類比と存在の類比を峻別していない。 6・バルトはあらゆることを徹底して神学的に考える。例えば「理性.. (Vernunft)杏. も抽象的に人間の理解能力一般と実体化せず,まず神の言葉を聴き取る(vernehmen)力 ●. であり,次いで他の言葉をも聴き取る,と考える(KD ●. ●. ●. ●. III/2, 156).心と身体の関係も神. 関係からとらえられて包括的に叙述され(KDIII/2,§46),自由の概念についても同様で あるoこれに対しブ,I,ンナ-の神学は非神学的な考えを残している.例えばフィヒテの人 格概念を受け入れ(『矛盾としての人間。. 91f.),また至るところに実存哲学的な考え方が. 見られるoバルトは神学で金塊実をdeckenできると考える。ブルンナ-は神学の領域は 限られていると考え,それゆえ「論争学.. (Eristik), Anknbpfungspunkt,自然神学の必要. が生じると主張する。バルトからするとそのようなものは必要なく,神学が十全に遂行さ れれば十分なのである。神学,というよりもそれを支える神の言葉に対する信頼の程度に 違いがあるo 7・パルトはイマゴ・デイの論述にあたっても創世記のテキストの詳しい釈義を与えて いるが,ブルンナ一においては釈義的部分が乏しい.この点もパルトの方が神学的である。 イマゴの二つの側面というのも聖書に基礎をもつものではなく,ブルンナ-が補助的に導 人したものである。これに対して約束一成就(実現)という図式は聖書全体を支配する 型である。.

(11) ll. カール・バルトにおける神の像の問題 8.バルトの方が色濃く終末的論的であるo2皇). KD. III/1, 329-377真においてもⅠⅠⅠ/2,. 264-391真においても,旧約の雅歌のもつ終末論的性格が展開されているo VIII.プルンナーとカトリック 注7に挙げたScheffczyk編の論文集にはカトリック学者の論稿も多く収められている 那,それらはすべて見事にトマスに一致しており,細部においてそのヴァリエーションを 示しているにすぎない.まずローナーによるトマスのイマゴ・デイ説の簡潔なまとめ2島) を見ることとしよう。イマゴには三つの段階がある。 1.. creationisすなわち自然の秩序における神の鮎. これは人間の精神的本性. imagorecreationisすなわち恵みの秩序における神の像o. これは神認識と神への愛. image. (自然)である。 2.. における神の反映である。 3.. imago. similitudinisすなわち栄光の秩序における神の像oこれは神認識と神への愛. の完成されたAktにおける神の完全な反映であるo この三段階には神の三つの位格がそれぞれ写されている。この三段階を貫く動的原理は アリストテレス的なAkトPotenzの概念である.以上がトマスによるアウダスティヌス説 の見事な整合化・体系化である。 一般にカトリックのイマゴ・デイの説として波布しているのは2と3の段階を-まとめ にして,血agoとsimil血do,すなわち自然的イマゴと超自然的(恩寵の)イマゴ,の二つ に分け,前者を旧約に,後者を新約に割り当てる考えであるo自然的イマゴは人間の精神 性として失なわれないが,超自然のそれは罪によって失なわれ,キリストによって回復さ れなければならない。自然的イマゴは神の三位一体にかたどって,知性・意志・記憶とい った精神の三機能に分けられる。24)ホフマンは「心理学的機能の三性それ自身が三位一体 の像なのではなく,精神がこの構造によって神を想起し,理解し,愛することがその像な のである.乏5)と言う。精神的本性の実体化を避け,神国係(認識と愛)のための機能とし て考えようとするのである。しかしホフマンによってもそれが人間に内在する構造であり 「素質.. (Anlage)乏6)である限り,. ●. ●. Habitusたることを免がれないであろうo. ヘスはバルト的な我と汝,男と女の両極性をイマゴ・デイの実現(現象)と見るo「こ の精神的な両極性を基礎として二人である人間は単独の人間であるより高い程度に神の似 2・男と女の 像を表わす(darstellen)0.m)ヘスは神の像が1.被造世界に対する支配力, 関係, 3.神の認識と神への愛,の順に高まって現象する(sich. zeigen)28'と考えるので. ある。すなわちトマスの説を土台に,パルト的ないしブルンナ-的な関係概念を取りいれ, トマス的なAkトPotenzの枠でイマゴ・デイ説の総合を企てているのであるo しかし注意しなければならないのは,このような考え方の基礎にある自然と超自然の r区別は聖書的な事実ではなく,神学的な導出だ.29)ということ,ゼーンゲンによっても この点で「哲学的理性の助けによる推論.が必要なこと80)であるo. バルト自身,前にふ. れたように,カトリックの長い教理史上のあらゆる貌を気のきいた思いつきとして一言の.

(12) 12. 小. 林. 謙. 一. もとに斥ける。 以上のカトリックの側のイマゴ説の簡単な概観によってもすでに,それとブルンナ-と の親近性が明らかであろう。イマゴ・デイを自然と超自然の二段階に分けるのは,ブルン ナ-が形式的と実質的の二側面に分けるのと対応しており,それぞれ初めのものが失なわ れず,後のものが失なわれ回復される,とするのも同じである。前出のホフマンも(論文 が書かれたのほ1941年)バルトに反対して,トマスとブルンナ-の接点・共通点として AnknGpfungspunktや「責任性.を論じており31'ヘスもブルンナ-をカトリック的に解 釈している。8B)バルトの弟子ヴォルフはローマ・カトリシズムと近代プロテスタンティズ ム(ブルンナ-をその代表に取り上げる)に共通するイマゴ・デイのとらえ方を,. 「理性.. をその本質とするイデアリスティッシュな,存在論的な人間学の実体的イマゴ・デイと規 定し,これを破ったのが宗教改革者さらにパルトであると見る。88) ⅠⅩ.バルトとプルンナーの関係のその後 これ以降,晩年の二人の関係を,イマゴ・デイには直接かかわらないが,見ておこう。 (共産主義をめぐる二人の対立については拙稿『カール・パルトの社会主義。本紀要前号 参照。) ブルンナ-は1963年にバルトを批判しているo84)バルトはシュライエルエツハ-の対極 で客観主義の極端なるものであって, いる」. 「パルトにおいては神と信仰の相関が引き裂かれて. (48)。そこにあるのは「神の形而上学と神についての思弁.である(49)。&5)これ. に対してバルトはブルンナ-の息子に手紙を書いて,. 「私について父上の書かれた一つ′一. つの文がみなひどい戯画だ.88)と苦情を言っている。 このようにブルンナ-はバルトを結局のところ理解できなかった。ブルンナ-の死の前 後にその家族にあてたバルトの手紙からもこのことばうかがわれる。. 「彼と私と,二人の. 間の争いや苦しみが本当なら全く必要なかったぐらい違っていたのです。.87)しかし「神 は測り知れない恵みと知恵において我々二人が大変に違うことを望み給うたのです。.88) 1960年のBBC放送のインタヴューにバルトは同様に替えを用いて答えている.. 「神さま. は天地を創造されたとき,象と鯨を別々のものにするのがよいとお決めになりました。そ れぞれがその機能と目的をもっています。けれども,両者は話しあうことも,戦いを交 えることもできないほど違っているのです。.89)バルトはまた1964年の別の手紙で述懐し ているo. 「私は30年前,正面攻撃をゴーガルテンに向けた方が(彼よりずっと弱いブルン. ナ一にでなく)よかったかもしれません..40) Ⅹ.残される問題 1.モルトマンばその著『人間。41)においてイマゴ・デイの問題に簡単に言及している., それは創造者の地上におげる相手,反響,栄蕃であり反映である(190)0 おいて,人間の神の似像性が成就する.. 「人の子の国に. (195).あらゆる人間がその非人間性にもかかわ. らず神の似像へと招かれている(200).このようにバルトの考えと一致する。しかし1976.

(13) 13. カール・バ}t'トにおける神の像の問題. 年のチュービングンでの「神学的人間学.の講義においてはモルトマンはバルトの我と汝, 1)ブルト. 男と女に神の像を見る考えを「交わりの神秘主義.で「一面的」だと批判し, 2)ブ-バー,ブルンナー,バルトの「交わ マン・ラーナーらの「内的自己の神秘主義., dom主num りの神秘主義., 3) terrae,の三つの点をそれぞれ1)あらゆる他者の中にい る神に対する畏敬,. 3)人間の生態学的な諸権利,の方向に,. 2)人間の社会的な諸権利,. 一面性を避けてausgleicbenすることが必要だ,と言う。この試みが遠からず出版される であろう『神学的人間学。においてどのように展開されるか,期待されるところであるo 2.バルトとブルンナーのイマゴ・デイをめぐる論争は結局のところanalogiaentisに. っいての争いに帰着する.パルトのイマゴを理解するには後におけるanalogia. これについてのエンゲルの論文. entisを考察しなければならないo. seufideiとanalogia. relationis. にはすでにふれたが,パルタザールは彼とは逆に,またブルンナーと一致して,パルトの 信仰の類比の中に存在の類比を見ている。42)なおこれと関連してパルタザールはパル.トの. (Voraussetzung)の概念に見,43). 神学の「核心の問題」を「前提.. 「たとえば人間と人間,. 男と女の向かい合い.をイエスと人間の兄弟関係,神と人間の契約,の「真正の前提」と 言うo44)パルタザ-ルはブルンナーのAnkn缶pfungspunktについても,人間の0ffenba「神の言葉自身から起こる『前提-. rungsm註chtigkeitを人間の性質や力,能力ではなく, と解そうとする。45). 3.神の像が罪によって失なわれるか否かが常に論じられてきた。バルトにおける罪の 問題, dasNichtigeの問題も課題となるo 4.ブルンナーが感づいているように,バルトとの遠いの底には予定論があるoこのバ ルト理解の鍵はイマゴ・デイの問題にも深くかかわっているo 注 1). E. Brunner:. Natur. Gnade,. und. Gespr益ch. Bum. nit Karl. Barth・. ZGrich,. 2・ Aufl・ 1935・本文中. ではこの書の真数をカツコ内に示す。以下同様。 2). K. Barth:. Nein!. Theologie《 in. Antwort. an. Scheidung. und. Emit. Brunner.. Bewahrung. Th. Exh. 1934, Heft. 1933-1936・. Hrsg・. v・. 14・ Zitiert nach‥ 》Dialektische W・ Fdrst, M血chen, 1966, S・. 208-258.. ⅠⅠ/1においてもまず神の認識が与えられ,次いで初めてErkennbarkeit. 3)教会教義学(KD) Gottes. (神の認識可能性)が論じられ得るのであa'o Mensch. 4) 5). E. Brunner:. Der. E. Brunner:. Wabrheit. 6). D. Bonhoeffer:. im. Widerspruch.. ZBrich,. Berlin, als Begegnung・ Sch6pfung Fall. M血chen, und. 1937・. 1938・. 1958), S・ 39ff・ここでのボ 自由とは関係であ 1.人間が神に似ている点は自由に存するo. ンへッファーの考えの要点は, り,神・他者のために自由だということであるo ●. 1937. (4・ Auful・. ここに神と人間との間の関係の類比があるo. ●. (創世. 2.他の面は被造世界からの自由である。ここに被造世界の支配が根拠づけられる。3. ●. ●. 記2章)人間の肉体性は第一にその起源からして地との関係を示し,第二に他者のためとい 7). う関係を示す。 "Dielmago・Lehre J. J.Stamm: Der. Menschals. Bild Gottes.. Karl. von. Hrsg.. v.. Leo. Barth. und ScheHczyk,. diealttestamentliche Darmstadt,. Wissenschaft",. 1969, S・ 49-68・. in:.

(14) 14. 8) 9) 10). 小. GI. Rad:. VOn. Genesis.. E・ Schlink:. ATD. 林. 謙. 2-4. G6ttingen,. biblische. Lehre. 一. 1972.. Gottes", Scheffczyk, S. 88-113. "Die S・ 91 f・をおさらにScheffczyk編の論集に収められている` Koehler, Schmidt,. AaO・. Ebenbild. vom. Loretz,. Dunckerの諸論文参照.. ll)エンゲルもパルトにおけるアナロギアの重患りを彼覆りにまとめているo E. Jiingel: "Die M6glichkeittheologischer Anthropologie auf den Grunde der Analogie". EvTh 22 (1962). ,. S. 537f., 541f.. 12) 13). Vgl.aaO.. 14). E・ Brunner:. bea.. S. 546,548.. 「キ')ストとアダム一口ーマ書五章による.小林謙一訳『現代キリスト教思想叢書。 水社, 1974, 113-180頁。 Dogmatik,. Band. II. ZBrich,. 9,白. 1950.. 15)二人の考えの接近を菅円書「バルトとプルンネルのイマゴ・デイ論争の行方. 学J第7号, 1965年) 13-14頁も認めているo 16). E・ Brunner:. 17). K・ Barth:. 18). Brunner:. 19). AaO.. 20). Ⅴgl・E・. (『キリスト教. Barth". zThK, neue Jg. 48 (1951), S. 89-100. "Der Briefe 1961-1968. Gesamtausgabe V. ZGrich, 1975, S. 289.. Wolf:. Barth". neue. "Der. Sozialethik・. s. 91.. G6ttingen,. 1975,. S. 37. 「『現実。という概念は神学的にのみ把握. されうるのであって,. 21). empirischを経験のカテゴリ-でとらえられるのでは覆い.. Wolf,aaO.S. 34. 「人間性は与えられて (gegeben)いるのではをく,課されて(aufgegeben)いるのだ.. C.Frey: theologisch-. 「神の像は〔人間の〕性質(Eigenschaft)ではをい... en. Karl. Anthropologie. Barths"・. Neue. Zeitschrift. f伝r. "Zur und. Theologie. systematische. Religions・. (Heft3), S.215. 「バルトのはげしい『否。は》Immer-schon.Haben《 という構造をもつ神学的認識に対するものである.. AaO.S.204. 19. Bd. 1977. philosophie. 22)前注に挙げたFreyの論文はこの点をよく指摘している。 23). A・ Rohner:. Aquin. Yon. "Thomas. oder. Max. Scheler.. Das. Ebenbild. Gottes".. Scheffczyk,. S.. 276-277.. 24). Ⅴgl.bes. 1ichkeit. 25). L. H6dl: "Zur des Menschen".. A. Hoffmann:. Lehre. "Zur. Theologie. testantischen. 26). AaO.. 27). W・. 28). AaO.. "Imago S.430.. 29). AaO.. S.444.. 30). G・ S6hngen:. der fr缶hscholastischen. der Gottebenbildlichkeit. von. bei Thomas. und. Lehre. der. von. Gottebenbild.. S. 193-205.. von. Aquin".. des Menschen scheffczyk,. in der. neueren. Hoffmann,aaO.. Dei. "Die. (Gen・. biblische. 1,. 26)." (1953*). Lehre. von. Scheffczyk,. S. 426.. der Gottebenbildlichkeit. des Menschen.". Lehre. vom. Sche#czyk,. S.323ff.をおプロテスタントのWendlandもバルトに反対しブルンナ-杏. 擁護する論文(1936年)を書いている.その論点は「宗教的素質. Ebenbilde. Gottes. und. Scheffczyk, S. 331-347.. von. der. 「一般啓示.である. Anlage. religi6sen. in der. neueren. 32). Hess,aaO.. S.442f.. 33). Wolf,aaO・. S・ 27134.をお注21に挙げたFreyの論文は,近代の主観主義批判という観一点か. る。 E・ Brunner:. Wahrheitals. Begegnung.. Ziirich, 2. erweiterte. Auflage,. "Die. Theologie.". ら(この点でHabermasやLubmannと共通する)バルトの人間学を読もうとするものであ 34). Pr... S. 300.. S.326. Hess:. S. 369.. 31). Entwicklung scheffczyk,. 1963, S. 45ff..

(15) 15. カール・バルトにおける神の像の問題 91頁でもバルトを「神学的詩人」と呼んでいたo 35)プルンナ-は『新しいバルト。 Bartb, Briefe, S. 214.この前1960年11月19日に二人は東京神学大学で教授をしたこともある 36) ヘッセ・)ンクの仲介で最後の和解のための会見をしている.これについては『福音と世界。 1978年2月号2真にあるヘッセリンクの報告を参 1962年9月号64-69頁および『福音と現代。 照。 37). Bartb,. 38) 39). AaO.. 40). Bartb,. Briefe, S. 328.. 『福音と世界。. 1962年9月号.. 64頁。. Briefe, S. 264.. 41)ユルゲン・モルトマン『人間。蓮見和男訳,新教出版札1973年。原著は1971年o Deutung H. U. von Balthasar: Karl Barth. Darstellung seiner Theologie・ und 42) 1951. 43) 44). AaO.. S.137.. AaO.. S.177.. 45). AaO.. S. 179.覆おScheffczyk des Geschichtlichkeit. Dei. Einsiedeln,. (19764), S. 177ff.. als. S. 466-490に収録されているG.D・. Kaufrnannの論文"Imago. Meuschen"は人間の歴史性をイマゴ・デイと見る視点は鋭い. が,. r人間はその歴史性のゆえに,それによって,神と同じく,自己自身を創造する.かくL a島e (自存的)である. (482)と言うように, て人間は被覆りの有限夜仕方で, を用いており,思弁的で聖書的基礎づけを欠いているo. analogia. entis.

(16)

参照

関連したドキュメント

砂質土に分類して表したものである 。粘性土、砂質土 とも両者の間にはよい相関があることが読みとれる。一 次式による回帰分析を行い,相関係数 R2

と,②旧債務者と引受人の間の契約による方法(415 条)が認められている。.. 1) ①引受人と債権者の間の契約による場合,旧債務者は

本章では,現在の中国における障害のある人び

(質問者 1) 同じく視覚の問題ですけど我々は脳の約 3 分の 1

この見方とは異なり,飯田隆は,「絵とその絵

11.. 2001))との記載や、短時間のばく露であっても皮膚に対して損傷を与える (DFGOT

専門は社会地理学。都市の多様性に関心 があり、阪神間をフィールドに、海外や国内の

ピアノの学習を取り入れる際に必ず提起される