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シェマーにおける「―(エハド)」理解

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Academic year: 2021

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(1)

著者 宮田 玲

雑誌名 基督教研究

巻 65

号 2

ページ 87‑106

発行年 2004‑03‑19

権利 基督教研究会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000007618

(2)

キーワード

シェマー、申命記 6 章 4 節、エハド(一)、バダド(〜だけ)、ヤハド(一緒に)、

KTU

1.4

VII

49

b

- 52

b

KEY WORDS

Shema, Deuteronomy6 : 4, ’eh.a - d -

One

, ba-d-a -d - , yah.ad- , KTU1.4

VII

49b-52b

要旨

申命記 6 章 4 節に始まるシェマーは、旧約聖書における最も重要な部分の一つである。

旧約聖書学はこれまで、歴史やテクストの文脈に基いて、この箇所をおもに多神教批 判もしくはポリヤハウィスムス批判として捉えてきた。本稿では、特にテクスト内の 連関に照らし、シェマーにおけるヘブライ語・エハド(

’eh.a - d -

;一)の語義に焦点を当 てる。

ウガリット文献との比較によって、エハドは、多を前提とした上で独特であること を意味するのではないかとの考察がある(KTU1.4 

VII

49b-52b)。そして、ヘブライ語 において、「〜だけ」という意味は、バダド(

ba-d-a -d -

)という副詞によってより適切に表 わされると考えられる。語源上、エハドはむしろヤハド(

yah.ad-

)「一緒に」と係わりが あることが推測されている。

シェマーの解釈にあたっては、しばしば申命記 6 章 5 節が参照され、民とイスラエル の関係の表現であるとされてきた。そして、近年では、エハドという語自体が、神と

シェマーにおける「一(エハド)」理解 

The Understanding of ’eh.a - d - (One)in Shema 宮 田 玲

Akira Miyata

(3)

イスラエルの民との親密な関係性を描写しているとする意見もある。また、エハドに よってヤハウェの一貫性が表わされ、それに基づいて民が神への信頼を築くという見 解は興味深い。

SUMMARY

Shema, starting from Deuteronomy 6 : 4, is one of the most important segment in the Old Testament. By the textual and historical context, shema has been interpreted as the opposition to polytheism or poly-yahwism. This essay is an attempt to explore the meaning of the Hebrew word ’eh.a - d - (one) in shema through the co-text environment.

Comparing to the literature from Ugarit it may be said that ’eh.a - d - expresses uniqueness in many (KTU1.4

VII

49b - 52b), while the meaning "only" is represented more clearly by another adverb ba-d-a -d - in the biblical Hebrew. In etymology ’eh.a - d - is supposed to relate to yah.ad- "together".

Shema is often interpreted as an expression of the relationship between YHWH and the people of Israel by reference to Deuteronomy 6 : 5. Recently some scholars have considered that ’eh.a - d - in Shema describes a close relationship between God and Israel. And interestingly

’eh.a - d - may provide the integrity of YHWH on which faithfulness of the people is based.

────────────────────────────────────  

申命記

6

4

節、「聞け、イスラエルよ、われらの神、主は、唯一の主である」か ら始まる部分は、冒頭の「聞け(

e

ma‘

)」をとって、シェマーと呼ばれる1 この箇所は、申命記のみならず、旧約聖書を通じて、大きな神学的役割を担ってき たといってよい2。だが、旧約テクストは、このようなヤハウェの唯一を語る箇所を 含む一方で、他の神々を崇拝する人々と接する民の姿をも繰り返し描いている。ま た、

Khirbet el - Qom

Kuntillet ‘Aˇgrud、 Deir ‘Alla

といった近年の考古学的成果からは、

古代イスラエルにおけるヤハウェ祭儀の多様性が論じられている 。たとえば、

Khirbet el - Qom

および

Kuntillet ‘Aˇgrud

においては、「(テマンの/サマリアの)ヤハウ ェと彼のアシェラ」と読める碑文が発見されたため、ヤハウェの配偶神崇拝ならび に地方聖所でのヤハウェ祭儀が存在していた可能性が問われている3。また、前

8

紀前半と推定される

Deir ‘Alla

の碑文からは、エル祭儀を読み取ることができ、これ はヤハウェ宗教とは別個だったのではないかと推測される4。では、これまで旧約聖 書学では、唯一の主を語るシェマーはいかに位置づけられてきたのか。

(4)

旧約聖書学は、考古学的発見やテクストの記述に基づいて、古代イスラエルにお けるヤハウェ宗教が「唯一神教/一神教(Monotheismus)」という概念規定には当て はまらないものだったのではないかという見解を、早くから提出してきた。そして、

他の神の存在自体を認めない唯一神教という概念によって導かれる宗教像と、古代 イスラエルにおけるヤハウェ宗教を区別するため、しばしば別の術語を用いてきた。

拝一神教(

Monolatorie

)は、その中でも頻繁に使われる語だろう。これは、他の神々 の存在は認めつつ、ある特定の神のみを崇拝することを指す。その神がヤハウェの場 合は、拝一神教的なヤハウェ崇拝(Monolatrische Jahweverehrung)と表現される。一 方、拝一神教(

Monolatorie

)と類似した古代オリエントにおける宗教現象には、交替 一神教(Henotheismus)という術語が与えられている。ある特定の神の祭儀期間はそ の神に絶対的崇拝を捧げる、いわば「感情と気分における一神教」(

M.Müller

)を指し、

時期や状況によって崇拝される神が交替する6。これ以外にも、ある大きな集団が疫 病や干ばつといった危機に陥ったときに特定の一神に助けを求める一時的拝一神教

Zeitweise Monolatrie

7、個人が自らの守護神を生涯にわたって永続的に崇拝する単

一神信仰(Henolatorie)8などの術語を挙げることができる9。なお、F.Stolzは、「唯一 神教」が歴史的概念として史的発展図式と結びつくとき、発展の出発点あるいは到達 点に据えられるという傾向を指摘している10

シェマーに関しては、テクストの前後関係に照らしても、他の神々の存在自体を認 めないという意味における唯一神教的な枠組のもとでの理解は困難だとされてきた。

たとえば、シェマーに後続する申命記 6 章 14 節には、「他の神々、周辺諸国民の神々 の後に従ってはならない」と記されている11。つまり、他の神々が存在し、諸国の民と 関係を保っていることが認められる。G.von Radは、バアルなどカナンの神々の祭儀へ の反対と、地方聖所で伝統的に行なわれてきたさまざまなヤハウェ祭儀ヘの反対とい う、二つの解釈の可能性を挙げた12。換言すれば、前者は多神教(Polytheismus)批判 であり、後者はポリヤハウィスムス(

Polyjahwismus

)批判となる。ポリヤハウィスムス とは、多くの地方聖所での多様なヤハウェ崇拝のことであり、上述の

Kuntillet ‘Aˇgrud

の碑文を参照すれば、少なくとも前

8

世紀までは行なわれていたのではないかと推察 される。これを批判したユダの王ヨシヤによる地方聖所の廃止とエルサレムへの祭儀 集中は、単一ヤハウェ主義(Monojahwismus)として規定されている。

これと関連して、当然ながら、テクストが属していた歴史的文脈および編集過程が 問われることとなる。

N.Lohfink

は、祭儀集中化要求以前の文脈にシェマーが属する と判断した13。また、申命記史家の構成の手が加わり、12 章以下と直接に繋がるとみ る見解も強い14

G.Braulik

は、未だ多神教的枠内の単一ヤハウェ主義的言説とはいえ、

4 章 35- 37 節の後に置かれていることで、コンテクストとしてみれば一神教への組み

(5)

入れが反映されていると述べている15

O.Loretz

は、元来、祭儀的文脈にあったもの が、申命記史家によって、他の神々の崇拝やポリヤハウィスムスの批判として引き 継がれたと推測する16

だがしかし、古代イスラエルにおける宗教的背景を鑑みたとしてもなお、シェマーにお いて「唯一」と訳されている によってどのような意味が伝えられるかという問題が 残されているのではないだろうか。本稿は、特にヘブライ語テクストにおいて用いられ る類義語の比較を通じて、シェマーにおける の語義を把捉するための試論としたい。

1 語順

────────────────────────────────────  

が含まれている申命記 6 章 4 節をどのように翻訳するかについては、これまで も多くの論議がなされており、今なお確定したとはいえない。シェマーという呼称に も反映されている 6 章 4 節 a、「聞け、イスラエルよ」は、動詞 (聞く)の命令形で あり、ここでの解釈には揺れは生じない。だが、6 章 4 節 b には動詞がなく、四つの実 詞が並んでいるだけである。 、直訳すると「ヤハウェ・

われわれの神・ヤハウェ・一」となる。このため、翻訳に際しては、「唯一」と訳され る単語 の意味する内容、および、四つの単語の並びをどう受け取るか、という二 つの問題点が絡み合うことになる。それでは、これまで、どのような翻訳が提出され てきているのか。本項ではまず、四つの単語の並びの解釈を中心に取り上げる。

統語的には、「われらの神」をどう位置づけるかを焦点として、二つの見解に大別す ることができる。第一に、「われらの神」を「ヤハウェ」の同格であると考え、「ヤハウェ、

われらの神、ヤハウェは一である」と読む立場である。この読みは、申命記および申 命記史家の記述において「ヤハウェ」と「神」が結合しているときは二語が同格で使わ れる、という判断に基づいている17。しかし、この意見に対しては、同一文中でなぜ

「ヤハウェ」が繰り返されるのかが不明瞭だという批判がなされる。また、主語として のヤハウェが付加語的に反復される点がむしろ申命記的ではない、との指摘もある18 第二の見解は、前半と後半の二語ずつに区切り、二つの名詞文として捉えるもの である。その場合、「ヤハウェはわれらの神である。ヤハウェは一である」と読める こととなり、「われらの神」は、最初の「ヤハウェ」に対する述部に位置づけられる。

マソラテキストでは、「ヤハウェ・われらの神」と「ヤハウェ・一」の間には分離アク セント記号

T . i -ph.a-

が打たれており、韻律上あるいはマソラ・アクセント上は、二語ず つに分割することが妥当であると判断されている。また、こちらが伝統的な読みと なっている19。ヘブライ語の名詞文は、通常、主語−術語の語順をとるが、強調した

(6)

い場合は倒置が生じる(

GK§141 l

)。二つの名詞文と捉えた上で、

F. Sedlmeier

は、第 一の名詞文に倒置が生じていると見做す。一方、後半で主張さるべき述部は「一」

のほうである。前後の名詞文で主述の順序が異なることについて、彼は、パラレリ ズム(Parallelismus membrorum)による成形だろうと述べている20

このほか、特徴的なものとしては、V.Orelが「ヤハウェ」の反復に関して、出エ ジプト記 34 章 6 節を参照し、最初の「ヤハウェ」は動詞 の未完了・三人称・男 性・単数活用形ではないか、という見解を提出している。この場合、訳は「われら の神は一なるヤハウェ"である"」となる21

O. Loretz

および

T.Veijola

は、申命記 6 章 4 節

b

について、これまで提示された翻訳 を、いくつかのタイプに分類した22

①「ヤハウェ、われらの神、ヤハウェは唯一である(

Jahwe, unser Gott, Jahwe ist einzig

)」

と訳す(

Braulik

Lohfink

)。「ヤハウェ」と「われらの神」が同格として受け取られている。

だが、上で述べたように、主語「ヤハウェ」が繰り返される点に疑問が残る(Dillmann)。

②「ヤハウェ、われらの神は、一/唯一なるヤハウェである(

Jahwe, unser Gott, ist ein/einziger Jahwe)」

(Dillmann、Hehn、Königら)。この翻訳は、単一ヤハウェ主義を 前提として、 を「多数でない」という視点から受け取っている。後半部「一なるヤ ハウェ」が述部と見做され、主語ヤハウェの繰り返しという①での批判は免れる。

③「ヤハウェはわれらの神である、ヤハウェは一である(Jahwe ist unser Gott, Jahwe ist

einer)

」と訳す。さまざまな神性からなる神的なものとしてではなく、「一人の」神として、

ヤハウェを捉える(

Schreiner

)。構文としては、二つの名詞文として分割されている。

④「ヤハウェはわれらの神である、ヤハウェだけである(Jahwe ist unser Gott, Jahwe

allein

)」(

von Rad

Eichrodt

)。ただし、厳密にヘブライ語原文に沿った訳ではない。と いうのは、 には、「ただ一人」という副詞的用法は、本来は見当たらないからで ある。副詞として用いられる語は、 (王下 19:15、詩 86:10、ネヘ 9:6)である。

他の神々の存在は否定しないが、その崇拝を禁じるものとされる。もしくは、「ヤハ ウェはわれらの神である。唯一者としてのヤハウェである(Jahwe ist unser Gott, Jahwe

als einziger)

」(Steuernagel,Sellin)。この場合は、他の神々の崇拝を禁じる第一戒の言 い換えが意図されている。

⑤前半部と後半部に分割し、並行する詩文形式として解釈する。すると、「ヤハウェは われらの神である。(そして)ヤハウェは唯一である」となる(Perles、

Veijola)

。後半部 の「ヤハウェは唯一である」は、先行する並行文に制限を受けているため、絶対的一 神教の発言ではない。全体は、「ヤハウェは われわれの 唯一の神、主である」と読 み下される。Loretzはこのパターンを最も評価している。ヤハウェとイスラエルの関係 がどのようなものであるかを明確に示すことができるためである。

(7)

どのように繋辞を補うかという点には、申命記 6 章 4 節の意味内容を、神ヤハウェの 属性ととるか、イスラエルの民との関係性ととるかという見解の差が、結果的に反映 されることとなる。繋辞が二箇所に補われる場合、眼目はイスラエルの民にとっての 神・ヤハウェと民の間の関係となる23。確かに、唯一性というヤハウェ自身の独自さの 言明であるとの解釈もある24。だが、「われらの神」を「ヤハウェ」に対する術部として は位置づけない

Braulik

も、次に続く 5 節と結び合わせて、イスラエルの神として唯一 であるヤハウェとの特別な関係の表現と解しており、イスラエルを念頭に置いてシェ マーが読まれているといえるだろう25。構造的には、4 − 9 節と 10 − 25 節が、意味上、

それぞれ五つの部分に分節でき、順序どおりに対応関係をもっているという分析がな されている。そして、4 − 9 節の深化、具体化が 10 − 25 節に記されているとされる。6 章 4 節 b に対応する部分は 14 − 15 節である26。Braulik は、この対応箇所で用いられ (熱情の神)という前申命記的定式を、イスラエルと神の関係を表わすモチ ーフとして重要視している27

2 ’eh .a - d

-

────────────────────────────────────  

さて、どのように繋辞を補うかと同じく、「一」に相当するヘブライ語 について もさまざまな解釈が存在する28

fem.

)は、旧約聖書において 970 回用いられている。通常、「一/一つ」

を表わすために使われる形容詞であり、数詞、序数詞および配分数としても機能する。

また、不定冠詞としての用法も見出される29。そして、一という算術的意味のほかに、

強調的に「唯一」を意味する場合が指摘されている(ゼカ 14:9 ; 訳では創 42:19 以 下、エゼ 33:24 など)30。シェマーにおいても、その強調的意味で使われていると、一 般的には位置づけられてきているといえるだろう。ただし、「唯一/〜だけ」という副 詞的意味は によっては表現されないという異論がある31。ちなみに、いささか奇 妙に映るが、複数形での用例が 5 箇所認められる(創 11:1、27:44、29:20、エゼ 37:17、ダニ 11:2032)。複数形 については、「いくつかの」、「一組の」と理解 すべきと辞書には指示されている33。これに関しては、あるいは、東セム語にあたるア ッカド語で、「一(isˇte-n)」の複数形が一組という分割できない一単位を表現する、とい う事例が参考になるかもしれない34。アッカド語から北西セム語であるヘブライ語へと 単純に類推を行なうことはできないが、古代セムの諸言語におけるそのような事例は 示唆的ではないだろうか。

最初に述べたように、旧約聖書学において、申命記 6 章 4 節はこれまで多神教あるい

(8)

はポリヤハウィスムス批判の文脈に据えられて受け取られてきたといえる。単一ヤハ ウェ主義と称される祭儀集中化について、テクスト上の根拠の一つは、歴代誌下 32 章 12 節のヒゼキヤ王の言葉、「ただ一つの祭壇( )」に求められる。ここでの

「ただ一つ」は、申命記 6 章 4 節で用いられていると同じ である。申命記において は、一なるヤハウェに基づいての祭儀集中化は明示的には説かれていないのではない か、という反論もあるが35、祭儀集中化という歴史的文脈においてシェマーを理解する ことは、現在も一つの定説となっているといってよいだろう。

このほか、シェマーについて、 を「一人身(single one)」と解する意見を挙げるこ とができる(

Labuschagne

van Selms

)。神統記に属さないというヤハウェの独特な性格 を述べるものとみる解釈である36。ただし、Lohfinkは、これを申命記的な文脈から離 れた説として批判している37。だが、いずれにせよ、ここから、他の神々とはまった く違って、神々の縁戚に分け与えられている神的な力をすべて一身に備える、という 解釈が導かれ得る。つまり、「全ての神的な力を統一している者(who is the union of all

divine might

)」という訳をも生じ得る(

de Bör

38

シェマ−における を、神ヤハウェを指す固有名詞として位置づけるのは、

C.H.Gordon

に代表される立場である。Gordonは、その根拠として、ゼカリヤ書 14 章 9

節(「その日には、主は唯一の主となられ、その御名は唯一の御名となる」)などの箇所 を挙げる39。これと関連して、神を指示する語の一つとして を位置づける、後の ユダヤ教での読み40を挙げることもできるだろう。

なお、申命記 6 章 4 節を解釈するにあたって、後続する 5 節を視野に入れることは、

von Rad

以来、強く主張されてきた41。「聞け」という導入が、古代オリエントでは共同

体的な生にとって本質的役割を果たしていることを、Sedlmeierは指摘する。「聞け、イ スラエルよ( )」は、申命記において特徴的に見出される言い回しである

(申 5 : 1、9 : 1、20 : 3 など)42。5 節の「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あな たの神を愛せよ」も同じくである(申 10 : 12、11 : 13、30 : 2 など)。5 節冒頭の接続詞

n

が、4 節と 5 節のテクスト上の連続性を示すものとして受け取られる。4 − 5 節は、呼 びかけ(6 : 4a)−確定文(6 : 4b)−命令(6 : 5)という申命記の古い定式に従って分節 できるとされている(申 1:8、出 34:11 − 15)43

E.Nielsen

は、むしろ愛の戒めとし ての 5 節が主文であり、4 節はその理由文であると捉えている44。シェマーは、少なく とも単なる定義や記述文としてではなく、読む者の姿勢を必要とする言説として位置 づけられてきた。これを、

W.Herrmann

は、神関係の感情的な描写であると表現する45 シェマーを記述的な言明として把握することに対しては、他の研究者からも異議が唱 えられている46

(9)

ところで、ヤハウェの形容辞あるいは術語としての という視点から一旦離れた とき、シェマ−における の語義はどのように映るのだろう。以下、特に

O.Loretz

よるウガリット文献との比較、そして、ヘブライ語旧約聖書における類義語との比較を 通じて、シェマ−における のテクスト上での意味範囲を探る素地を提示することを 試みたい。

3 KTU1.4 VII 49b-52b

────────────────────────────────────  

O.Loretz

は、 の意味を、ウガリット文献からの類比によって把握することを

試みた。ウガリット文献には、他の神々および人間の上に君臨し、恵みを与える 神・バアルについて、 に相当するウガリット語

ah.d

が用いられている箇所があ る。「

ah.dy d ymlk ‘l ilm l ymru ilm w nsˇm d ysˇb[‘] hmlt ars.

(ただ一人私だけであ る。神々の上に立ち支配するのは‖神々と人に恵みを与えるのは‖大地の多くのも のを満足させるのは)」(KTU1.4 VII

49b-52b)。厳密には、一人称単数接尾辞のつい

ah.dy

(私の唯一であること;ただ私のみ)のかたちで用いられる。ここで示され

ているのは、王位に就き、恵みを与えるというバアルだけの唯一で独特な性格であ る。バアルのこのような唯一性は、他の神々の無視や排除によるものではない。この 文章が語られる文脈は、あくまでパンテオンが存在する多神教世界である47。エル神 についても、事情は同様である。ウガリットでは、エルだけが、神々の父(

ab bn il

)、

人間の父(ab adm)、老賢人(ab sˇnm)であり、パンテオンの王である。しかし、ウガ リットにおいて、エル一神教を引き出すことはできない48

Loretz

は、西セムの言語 世界で神の唯一(

’h.d

)が語られる場合、他のすべての神的なものに対する支配権と 人間に恵みを授ける権能が意味されている、と結論した。シェマーにあてはめて考え れば、このような唯一性は、イスラエルの共同体においては、ヤハウェという神のみ が満たすことができる。特別だからこそ、他の神々との闘争は避けられないが、他の 神々を承認して成り立つ唯一性である49。なお、Loretzは、イスラエルの特殊性を挙 げるなら、民が神との関係によって自らを規定している点であると述べている50

Loretz

によれば、申命記 6 章 4 節は厳しく詩文形式を守っており、おそらく原型は捕

囚前の伝統にあると想定される。上述したバアルの唯一性宣言は、収穫期新年祭のバ アル戴冠と関係する文脈で述べられている。このため、

Loretz

は、申命記 6 章 4 節が元 来、古代シリア・カナンの祭儀的伝統に由来するテクストではないか、という仮説を提 出している。そこでは、テクスト上の関連が指摘される 5 節は、シェマーを本来の歴 史的背景から切り離すための後代の付加として位置づけられている51

(10)

では、他の神々の存在を背景とした唯一性とは、一体どのような表現形態をとり得 るものなのか。このような疑問に関して、Loretzは、十戒の第一戒の分析をも行なっ ている。彼によれば、出エジプト記 20 章 3 − 4a 節も申命記 5 章 7 − 8a 節もともに、

やはり古くからの伝承であり、本来は並行する詩文の言い替えの形式であったと考え られている。つまり、第一戒と第二戒、「あなたには、わたしをおいてほかに神があっ てはならない。あなたはいかなる像も作ってはならない」は、元々は一つの並行文で あり、「あなたには神(々)があってはならない‖あなたは像をつくってはならない」と 読むべきとされる。Loretzは、「ほかの(

’h.rym

)」は後に拡大された付加部分であり、本 来のテクストは神々の像(

pesel ’lhym

)に関する限定的禁令だったと結論する52

像を排する方向性がかなり早くからあったと考えるのは、R.Albertzも同様である。静 的・物質的な像によって神を表現するという古代オリエントにおいて一般的な現象は、

世界に対する超越と歴史的ダイナミズムというヤハウェ宗教の本質を損なうと、彼は考

察する53。古くは

von Rad

が、シケムの十二戒(申 27:15f.)が偶像禁止から始まり、他

の神々への礼拝の禁止を欠いていることに注目した54

M.S.Smith

によれば、ヤハウェの 特徴とは、擬人化(anthropomorphism)が弱まっていることと無像性(aniconic)である55 近年、史的な出来事からは推し測れない宗教的思考の領域を探究するにあたって、図 像学(

iconography

)が助けになるのではないかとする立場がある56

S.Schroer

は、イス ラエルの造形が人間化された神の像を避けていたわけではないにもかかわらず、王国 時代、特に前 9 世紀以降、人間的なヤハウェ像は地方聖所にも浸透していなかっただ ろうと見做している56

J.M.Hadley

は、

Kuntillet ‘Aˇgrud

が残された前 8 世紀には、神の 人間的な像は許されず、特にヤハウェは無像だったのではないかと推測する58

4  b a - d - a - d

- )と yah .ad -

────────────────────────────────────  

ところで、旧約テクストに戻れば、 は申命記においても、また旧約聖書全体を 通しても、他の神々の排斥もしくはエルサレムへの祭儀集中化を説く際、特に用いら れる専門用語というわけではない。また、ヘブライ語において「〜のみ、ただ一人、

唯一」という副詞的意味合いは、基本的には では表現されない。それでは、他の 語ではなく があてられることによって、テクストの意味にどのような違いが生じ るのだろうか。

ヘブライ語において「〜のみ、ただ一人、唯一」という副詞的意味合いを伝えるの は、 (229 ×)59 (11 ×)といった単語である。 には

qal

分詞形での用法も 認められ、「一人でいる」と訳される(詩 102:8、イザ 14:31、ホセ 8:9)。また、

(11)

に前置詞 を添えた という言い回しも多用される(123 ×)。これらの語は、

(みんな)(サム下 13:32、エス 3:6)や (ほかの民)(サム下 17:2)などと対 比的に用いられる場合がある。また、 (あなたたちだけ)(申 29:13)、

(彼らだけ)(創 43:32、代上 19:9)という接尾辞つきの用法が認められることから、

限定を受ける範囲は必ずしも単一である必要はなく、複数でも構わない。そして、

「(身体に対する)各部」(ヨブ 41:4)や「(木に対しての)枝」(エゼ 17:6)と訳される 箇所もある。従って、唯一、ただ一人/一つというより、むしろ外部を想定した分離、

あるいは全体の中の部分を表現していると把握するほうが適切と考えられる。

は、神ヤハウェに言及する際にも用いられる。特に は、三人称男性 単数接尾辞

n

や二人称男性単数接尾辞 を伴って、しばしば神ヤハウェを指示す る。 (彼のみ)(出 22:19、サム上 7:3 など)、 (あなたのみ)(王下 19:19、詩 86:10 など)である。こういった箇所では、バアルや他の神々への直接 の言及が同時に認められる。このため、他の神々からのヤハウェの区別という意味合い は、 よりもむしろ によって、より適切に表現しうるのではないかという疑問 が生じ得る。THATや

ThWAT

も、特に神ヤハウェに言及する箇所での につい て、 の同義語として扱っているといってよい61。それでもなお が使い 分けられる根拠として、 は名詞文(nominal sentence)に、 は動詞文(verbal

sentence)にそれぞれ適用されるという文法的な説明がある。だが、MacDonald

は、列

王記下 19 章 15 節や詩篇 86 章 10 節といった名詞文においても が用いられる例を 挙げて、使い分けの根拠としては薄弱であると主張する62。では、両者の区別を、文 法的ではなく、意味的な差異として捉えることはできないだろうか。

語根に目を移すと、 の根は、

bdd

であり、セム語一般において「分離する」、「除外 する」を意味するとされてきた。そして、「力」、「強さ」という意味をも含む根ではない かという仮説も提出されている63。一方、 の語根は、

yh.d

または

wh.d

だろうと想定 される。ただし、二子音語根

h.d

ではないかという説もあり、語根については現在もな お明確には判明していない。だがいずれにせよ、 は、 もしくは という 単語と語根を同じくするのではないかと推測されている64

(46 ×)および (96 ×)は、通常、「一緒に」、「ともに」といった訳が当て られる形容詞であり、副詞である。 には動詞で用いられる場合があり、「連なる」、

「加わる」という意味にとられる(創 49:6、イザ 14:20;

qal

、詩 86:11;

piel

)。 および には、 ( )とは逆に、 (みんな)と並行的に用いられる箇所 がある(詩 53:4)。 の意味範囲の把握に際しては、しばしば死海文書が引き合い に出される。前 1 世紀前後と推測される 1QS もしくは 4QS の共同体の規律(

Rule of

the Community)において、

は「共同体」を意味するテクニカルタームである。そ

(12)

して、全体の文脈に照らすことによって、清いという祭儀的色彩をも描写するもので はないかとの説が提出されている65。但し、死海文書における意味の一般性および、

そこに至る意味の変遷には、もちろん留意しなければならない。

de Moor

は、 とは、

本来「全体性」、「合一」を指していたものが、さらに「〜だけ」という意味を生じたの ではないかと説明する。ある範囲で一緒にあることは、ひいてはそこに含まれない外 部の想定を導くからである66

とやはり語根を同じくすると推察される語としてもう一つ、 を挙 げることができる(12 ×)。これは、 とは違って、「独り」、「孤独な」と訳 される。ただし、 にもみられるごとく、接尾辞には複数をも伴う

(詩 68 : 7)。失われれば嘆き悲しみをもたらす独り子であり(エレ 6:26、アモ 8:10)、 神に救いを求める孤独な者をも指す(詩 35:17)。神に捧げられるイサク(創 22:2、

12、16)やエフタの娘(士 11:34)にあてがわれているのが、この である。

を「唯一」と解釈する数少ない例証となる箇所として、歴代誌上 29 章 1 節「わが子ソ ロモンを神はただ一人( )お選びになった」における が挙げられる。ここでの

の同義語として受け取るべきかどうかについては論義されているが67 と同義と見做すことができるかという疑問も、併せて提示したい。

および と根を同じくすると思われる形容詞や動詞は、ウガ リット語

yh.d

、アッカド語(

w

)¯edu(

m

)、アラビア語

wah.ada

、エチオピア語

w¯eh.ada

等々、

セム語一般に広く認められる。やはり数詞および序数詞としての一という意味をも表 わすが、その意味は、「独りの/孤独な/独特な」という一群と、「共同体/一緒の」、

「統一する/一つである」というもう一群とに分類することができる68。これは、ヘブラ イ語においては、 が前者に、 が後者に対応していると分類でき るのではないだろうか。そして、 自体が数詞に留まらない合一性を示し得る可能性 は、創世記 2 章 24 節はもちろん、創世記 34 章 16 節、出エジプト記 24 章 3 節などの箇 所に見受けられる。

MacDonald

は、雅歌 6 章 9 節、「わたしの鳩、清らかなおとめはひとり。その母のただ

ひとりの娘/産みの親のかけがえのない娘」を参照し、 自体に選び選ばれるという 繋がりが表現されていると主張する。それは、申命記 6 章 4 節においては、後続する 5 節を引き合いに出すまでもなく、ヤハウェと選ばれたイスラエルの間にある関係性を 表現する69。また、 は、パートナーとの関係性を表現する際にも使われる語である とされている70

さて、シェマーにおける をイスラエルと神との関係性として読むに際しては、申 命記 6 章 5 節が大きな役割を果たしていることはすでに述べた。申命記というテクスト における前後関係を判断材料として用いるという事情は、 を「唯一」や「一なる」と

(13)

受け取る解釈に関しても同様であろう(申 4:35、6:14 など)。それでは、申命記 6 章 4 節を取り巻くテクスト内(co-text)環境を、これら以外の視点から捉えることはでき ないだろうか。

J.G.Janzen

は、イスラエルの民の先祖にヤハウェが与えた約束と言葉が、申命記に

とっての大きな主題となっていることを指摘した(申 1:8、21、4:1、7:8 など)。そ こでは、出エジプトとシナイ契約という過去時への言及がなされる。ここから

Janzen

は、申命記 6 章 4 節における とは、先祖に現われ、出エジプトを導き、土地を 与えると誓った神との同一性を表現するものと主張する。換言すれば、イスラエル の民を導くという神の一貫性(

integrity

)である。この一貫性が、申命記において、

約束の成就を信ずる足場を確保することとなる71。彼が、申命記において、シェマー との並行性を指摘する箇所は、 (信頼すべき神)72を語る 7 章 9 節であ る。そして、エレミヤ書 32 章 38 ― 41 節「わたしは彼らに一つの心、一つの道を与 えて( )」や、ヨブ記 23 章 13 節「神がいったん定められたな ら( )/だれも翻すことはできない」における も、時間を経てなお不変 であることを語っていると読む73。さらに彼は、イザヤ書 51 章 2 節の について も、アブラハムという一人の男として受け取る通常の理解とは違って、ヤハウェを指 すと考察する。即ち、先祖アブラハムの時代から一貫して神として行為する主であ る。そして、やはり神のこの一貫性を、第二イザヤで示される神の言葉を信頼する 際の拠りどころとして提示する(イザ 40:8、55:11 ほか)。Janzenによれば、ヤハ ウェと他の神々との違いとは、一神か多神かという数の次元にはなく、言葉と行為 によって歴史に首尾一貫性をもって関係するかどうかにある74。Janzenが挙げたこれ らの箇所がシェマーにおける と連関があるとする根拠が薄いと

MacDonald

は指 摘しているが75 を継時性という側面から捉えた

Janzen

の見解は興味深い。ここ で、S.Amslerの主張を参照することもできる。彼も、申命記の中心主題を、歴史の各 時代を通じてヤハウェが全世代の民にとっての神であり続けるという点にみた。彼に よれば、シェマーに表現されているのは、ヤハウェの通時的統一性(unité diachronique

de YHWH)である。彼は、申命記のモーセの言葉には稀である

(われわれの

神)という 6 章 4 節の表現に注目している。そして、

(あなたの神)を用いる直後の 5 節よりも、同じく で語る 6 章 20 ― 25 節との近 接性を取り上げる。これら を用いた箇所ではともに、父の世代から子に向か って、出エジプトの出来事の実現を教え諭すことが目指されているとされる。つま り、シェマーを、ヤハウェの忘却(oubli)に抗して、世代の時間的隔たりを乗り越え るべく語られたものという役割から捉えている76。Janzenも

Amsler

も、先祖の世代と ヤハウェとの結びつきの継受という、申命記の語りがなされる状況に目を留めてい

(14)

る点に、特色があるといえるだろう。

ところで、継時性という側面と関連して、 と入れ替え可能な語の一つに挙げら れる 77との意味合いの差異を探ることもできるかもしれない。 は、 (一月一日;創 8:13、エゼ 29:17)という用法にみられ るように、「第一の/最初の」という序数詞としての機能をともにもつとされる。しか し、 には (最後の)と対になって時間的枠組をつくりだす例が認められ るが(出 4 : 8、代上 29 : 29、ネヘ 8 : 18)、 にそのような箇所はない。つま り、 が表現し得る時間性とは、たとえば によって表現される類のものと は色合いを異にするのではないか78

────────────────────────────────────  

シェマーはこれまで、旧約聖書学においては、テクストの文脈や古代イスラエル史 に照らした多神教的な素地の上で、多神教批判やポリヤハウィスムス批判という観点 から捉えられてきたといえるだろう。その際、 は同じく「多」への対抗として規定 され得るが、多神教批判の場合には他を排除した「唯一」を、ポリヤハウィスムス批判 の場合はヤハウェの「一性(Einheit)」(Braulik)を、それぞれ表わしていると区別でき る。だが、 が単純な一・多の対立の上に成り立つ語でないのではないかという見 解は、ウガリット文献を引き合いに出すことによって、

Loretz

が提示した。そしてまた、

「〜だけ」という意味をより適切に表現できると思われる ( )ではなく、

が用いられることによって、排除とは異なる意味合いを生じると考えられるのではない か。これは、 が、語源的には、「一緒に/ともに」を意味する と同じ根 を持つだろうと推測されていることからも、補強され得る。

さらに、後続する 5 節を参照したとき、シェマーは神に対する姿勢をイスラエルに求 めるフレーズであると理解することができる。このとき、シェマーにおける 自体 が、神とイスラエルの親密な関係を表現する語として把握される。また、世代間の継受 という申命記の大枠を考慮することで、歴史に現われるヤハウェの通時的統一性とい う側面を から読み取ることもできる。これは、約束の言葉の成就に対する信頼を 下支えするべく要求される一貫性である。このことは、シェマーにおける が神と民 の親密な関係における一体性を示しているという理解とも繋がり得るだろう。また、

シェマーにおける を、信頼関係の礎となる時間を通じての統一性であると仮定し たとき、さらに、申命記 6 章 4 節の名詞文が述べているのは神の属性か、神と民との関 係性か、という提題自体をも解消する可能性が生じるのではないか。なお、今後は、

(15)

シェマーにおける (一)と複数形 (われわれの神)の並置を、意味上の整 合性として捉えることができないかについて、考察をすすめたいと思う。

※ 原文テクストには

Biblia Hebraica Stuttgartensia

を、日本語訳には新共同訳聖書を使 用した。旧約聖書における単語の出現回数に関しては、Mandelkern, S.,Veteris Testamenti

Concordantiae Hebraicae Atque Chaldaicae, Austria

1975 を参照した。略号は、基本的に、

Theologische Realenzyclopädie: Abkürzungsverzeichnis, Berlin 1994

2に従った。

1 シェマーはモーセ五書のうちの三箇所から構成されている。申命記 6 章 4-9 節、11 章 13-21 節、民数記 15 章 37-41 節である。冒頭の申命記 6 章 4 節は、メズザーやテフィリンの中にも記されている一節であ る。のちにユダヤ教においては、信仰告白的な役割を担うこととなった。ユダヤ教祭儀での朗読部分は 4-9 節でひとかたまりとなっている。Cf. Encyclopaedia Judaica, vol.14, Jerusalem 1971, pp.1370ff.;

Wyschogrod, M., "The "Shema Israel" in Judaism and the New Testament" in: Link, H.-G.(ed.), The Roots of Our Common Faith:Faith in the Scriptures and the Early Church, Geneva1984, pp.23-32

2 新約聖書では、ロマ 3 : 30、一コリ 8 : 6、マコ 12 : 28 以下(Cf.マタ 22 : 35、ルカ 10 : 27 ;ただ しこれらの箇所においては、引用は申 6 : 5 のみである)などに継承されている。

3 拙論 「旧約聖書におけるアシェラ」 『基督教研究』65/1(2003)、96-108 頁参照。

4 ちなみに、Deir ‘Allaというこの祭儀場所は、どの定住民に属するのか判明しておらず、遊牧民によって 使用されていたかもしれない。Cf. Franken, H.J., "Balaam at Deir ‘Alla and the Cult of Baal" in: Tomis, K.(ed.) , Archaeology, History and Culture in Palestine and the Near East, Atlanta1999, pp.183-202; 

Smith, M. S., "Yahweh and Other Deities in Ancient Israel: Observations on Old Problems and Recent Trends" in:

Dietrich, W./ Klopfenstein, M. A.(hrsg.), Ein Gott allein?, OBO 139, Göttingen 1994, S.197-234, bes. S.212;

Stolz, F., "Monotheismus in Israel" in: Keel, O.(hrsg.), Monotheismus im Alten Israel und seiner Umwelt, Fribourg 1980, S.143-184, bes. S.161f.

5 「一神教/唯一神論(Monotheismus)」の語の初出は、1660 年、Cambridge Platonistに属するH.More よる(OED, Art. Monotheism)。O.Loretzに従えば、この用語は、西洋思想の文脈においては、しばしば

「理神論(Deismsus)」の内容を想起させる。理神論は、同じく 17 世紀半ば、啓蒙主義・合理主義の潮流 においてフランスで生じた術語である(OED, Art. Deism)。概して啓蒙主義的で、形而上学的な創造神が 措定され、宗教的寛容と良心の自由を要求する。17 世紀には、「理神論」は「汎神論(Pantheismus)」とほ

(16)

とんど区別されなかった(TRE8, S.392ff., Historisches Wörterbuch der Philosophie2, S.43f.)。「唯一神論」

をも受け継いだ「理神論」への対抗として、17 世紀後半、「人格神論/有神論(Theismus)」が登場する。し かし、1678 年、「有神論」の語を最初に用いたR.Cudworthは、H.Moreと同じくCambridge Platonistに属 し、むしろ「唯一神論」の同義語としてこれを提示している(OED, Art. Theism)。この錯綜した用語の使用 は、結局、18 世紀半ばから 19 世紀まで続く。「理神論者は神(ein Gott)を信じ、有神論者は生ける神を 信じる(ein lebendiger Gott)」というE.Kantの定式は有名であろう(Historisches Wörterbuch der Philosophie 10, S.1054f.)。ちなみに、F. Stolzは、理神論と人格神論の立場の差は、一神教的といわれる宗教の中に なおも認めることができると考えている。いずれにせよ、「一神教/唯一神教(Monotheismus)」の語は、新 プラトン主義との親近性をもつ土壌において生じており、主知主義的で観念論的な色合いを有していた。

対義語は最初、むしろ「無神論(Atheismus)」であった。詳細は以下を参照のこと。MacDonald, N., Deuteronomy and the Meaning of "Monotheism", Tübingen2003, pp.5ff.; Cf. Loretz, O., "Das "Ahnen- und Götterstatuen-Verbot" im Dekalog und die Einzigkeit Jahwes. Zum Begriff des Göttlichen in Altorientalischen und Alttestamentlichen Quellen" in: Dietrich, W./ Klopfenstein, M.A.(hrsg.), Ein Gott allein?, OBO 139, Göttingen 1994, S.491-527, bes. S.508; Stolz, F., “Der Monotheismus Israels im Kontext der altorientalischen Religionsgeschichte -Tendenzen neuerer Forschung" in: Dietrich, W./ Klopfenstein, M.A.(hrsg.), Ein Gott allein?, OBO 139, Göttingen1994, S.33-50, bes. S.35ff.

6 Hartmann, B., "Monotheismus in Mesopotamien?" in: Keel, O.(hrsg.), Monotheismus im Alten Israel und seiner Umwelt, Fribourg1980, S.49-81, bes. S.78f.

7 A. van Selmsによる。Lang, B., "Die Yahwe-allein-Bewegung" in: Lang, B.(hrsg.), Der Einzige Gott. Die Geburt des Biblischen Monotheismus, München1981, S.47-83, bes. S.66f.(B・ラング編 荒井章三・辻学訳 『唯一 なる神』 新教出版社 1994、97 頁)

8 Hartmann, B., 1980, S.79

9 Albertz, R., "Der Ort des Monotheismus in der israelitischen Religionsgeschichte" in: Dietrich, W./ Klopfenstein, M. A.(hrsg.), Ein Gott allein?, OBO 139, Göttingen 1994, S.77-96, bes. S.81. 邦訳語については以下を参照し た。B・ラング編 前掲書、8 頁、竹内整一・月本昭夫編 『宗教と寛容』 大明堂 1993、148 頁。しかし、

de Moorのように、用語の乱立は無益だとして、こういった語を拒否する研究者もある。Cf. Moor, J. C.

de, The Rise of Yahwism: The Roots of Israelite Monotheism, Leuven 1990, p.8

10 歴史の出発点に位置づける見方としては、本来の神崇拝とは唯一神教であるとする原始一神教説

(Urmonotheismus)を挙げることができる。これは、セム族原始一神教(E. Renanら)のかたちとなり、

今なお根強く仮定されているといえる。他方、多神教が歴史的に統一化されていった結果を唯一神教に みる進化論的な雛型がある。たとえば、倫理性として成熟した預言者的一神教に展開の極点を置く見方 がこれに含まれる。このような歴史図式との結合において、歴史的次元と規範的次元との混同がなされ がちである、とStolzは警告する。歴史的記述が規範的な権威を獲得するためである。また、A.

Michaelsからは、一神教から多神教への推移に単純な連続性を求めることはできないのではないかとの

(17)

疑念が提出されている。たとえ多神教世界の神々の数が次第に減少し、そこに属する神々の神的な力が 一神へと集中していったとしても、唯一神教に至るわけではない。同様に、多神教が寛容で融和的であ ると仮定したところで、さまざまな神々を受容してどんどん混交していったとしても、独自性をなくし てしまうわけではない。各地の多神教世界はそれぞれ異なっているからである、とされている。Cf.

Stolz, F.,1994, S.34ff.; Stolz, F.,  1980, S.144f.; Loretz, O., Des Gottes Einzigkeit: Ein altorientalisches Argumentationsmodell zum "Schema Jisrael", Darmstadt1997, S.75; Michaels, A., "Monotheismus und Fundamentalismus. Eine These und ihre Gegenthese" in: Dietrich, W./ Klopfenstein, M.A.(hrsg.), Ein Gott allein?, OBO 139, Göttingen 1994, S.51-57; Lang, B.,1981, S.47ff(B・ラング編 前掲書、63 頁以下);  竹内整 一・月本昭夫編 前掲書、147 頁以下

11 申 6 : 14 や 4 : 35-37 は比較的新しい編集層に属すると考えられる。

12 Rad, G. von, Barton, D.(transl.), Deuteronomy: A Commentary, London 1966, p.63f.

13 ThWAT, Bd.I, S.214 14 MacDonald, N., 2003, p.63 

15 Braulik, G., "Das Deuteronomium und die Geburt des Monotheismus" in: Studien zur Theologie des Deuteronomiums, Stuttgart1988, S.257-300, bes. S.261. 289

16 Loretz, O.,1997, S.70f. 91

17 ThWAT, Bd.I, S.213f., MacDonald, N., 2003, p.67

18 Sedlmeier, F., "”Höre, Israel! JHWH: Unser Gott (ist er)…“ (Dtn 6,4f.)", Trierer Theologische Zeitschrift108 (1999), S.21-39, bes. S.30; MacDonald, N., 2003, p.66

19 Veijola, T., "Höre Israel! Der Sinn und Hintergrund von Deuteronomium VI4-9", VT42 (1992), S.528-541, bes.

S.530f. 

20 前半部は二語ともに既知の情報を扱う同定の名詞文(Identifizierender Nominalsatz/ Nominale Behauptung)、

後半部は「一」という新奇の情報を導入する分類の名詞文(Klassifizierender Nominalsatz/ Nominale

Mitteilung)として、 別種の名詞文と位置づけられている。Sedlmeierは、前半部を、詩篇で多用される

救済的表現(’el¯I’a¯ t.a¯ h)と同等であると考えている。Cf. Sedlmeier, F., 1999, S.31f.

21 Orel, V., "The Words on the Doorpost", ZAW109 (1997), S.614-617

22 以下、本文における分類は、基本的に次の諸論文に従う。Loretz, O., 1997, S.  62ff.; Loretz, O., "Die Einzigkeit Jahwes (Dtn 6,4) im Licht des ugaritischen Baal-Mythos: Das Argumentationsmodell des altsyrisch- kanaanäischen und biblischen "Monotheismus"" in: Dietrich, W./ Loretz, O.(hrsg.), Vom Alten Orient zum Alten Testament, AOAT 240, Neukirchen-Vluyn 1995, S.215-304, bes. S.246ff; Veijola, T.,1992, S.529ff.;

MacDonald, N., 2003, pp.64ff

23 Moberly, R.W.L., ""Yahweh is one": The Translation of the Shema" in :Emerton, J. A.(ed.), Studies in the Pentateuch, Leiden1990, pp.209-215, bes. p.210

24 Driver, S. R., A Critical and Exegetical Commentary on Deuteronomy, New York1895, p.89f.

(18)

25 Braulik, G., Die Neue Echter Bibel: Kommentar zum Alten Testament mit der Einheitsübersetzung:

Deuteronomium 1-16,17, Würzburg1986, S. 55f.同じく、J. H. Tigayも、ヤハウェとの関係を表現している のであって、ヤハウェの性質を述べるものではない、という説明を採用する。Tigay, J. H., The JPS Torah Commentary: Deuteronomy, Philadelphia 1996, p.76

26 Finsterbusch, K., "Bezüge zwischen Aussagen von Dtn 6,4-9und 6,10-25", ZAW114(2002), S.433-437 27 Braulik, G., 1988, S.265. 289f.; Cf. Rad, G.von, Theologie des Alten Testaments, Bd.I: Die Theologie der

geschichtlichen U¨ berlieferungen Israels, München1957, S.203 (G ・フォン・ラート 荒井章三訳 『旧約聖 書神学Ⅰ』 日本基督教団出版局 1980、274 頁以下)

28 古くは、Augustinusが父・子・聖霊の三位一体が一であると説いた。Gregorius Nyssenusは父と子が一つの 神であるとする。A m b r o s i u sによれば、神が不変で完全であることの表現である。のちに、P h i l o n

Alexandreiaは、ギリシャ哲学の影響の下、神の唯一性を絶対的単一性であると説いた。中世ユダヤ教の

思想家、Moses Maimonidesは、ギリシャ哲学、特にアリストテレス哲学や異教に対する当時の論争の中 で、むしろ算術的な一という観点から、一を想定している。そこでは、他の神々という多数性だけでな く、神自身の内なる複数性も排除される。これは三位一体に関する異議とされる。しかし、こういった 解釈は、聖書以降の思想の影響を受けており、旧約聖書学ではそのまま受け取られない。Cf. Lienhard, J.

T.(ed.), Ancient Christian Commentary on Scripture III, Downers Grove2001, pp.282ff.; Veijola, T., 1992, S.528f.; Loretz, O.,1997, S.103ff.;Loretz, O., 1995, S.272ff.

29 出 16 : 33、サム上 1:1 など。GK§ 125 b; ThWAT, Bd.I, S.211 30 THAT, Bd.I, S.106; HALAT, S.28; KBL, S.27

31 Loretz, O., 1997, S.65; Veijola, T., 1992, S.533

32 エゼ 37:17「それらはあなたの手の中で一つとなる」には、単数形 での読みが提案されている。だが、

これを反復したエゼ 37:19「それらはわたしの手の中で一つ( )となる」には逆に、複数形 異読がある。 の複数形は、形容する語の数変化に照応して生じるとは限らない。たとえば、

(山の一つ)(創 22 : 2)。

33 THAT, Bd.I, S.104

34 AHW, Bd.I, S.400f.;  亀井孝・河野六郎・千野栄一編著『言語学大辞典 第一巻 世界言語編 上』三省堂

1989、197 頁以下。この場合に用いられる男性複数語尾-utuは、元来は実詞から抽象名詞をつくる抽象接 尾辞と同一であったとされる。Cf. Soden, W. von, Grundriss der Akkadischen Grammatik, Roma 1969, § 61 k.

71c

35 Veijola, T.,1992,S.530; ThWAT, Bd.I, S.214

36 Labushagne, C. J., The Incomparability of Yahweh in the Old Testament, Leiden1966, p.137f.

37 ThWAT, Bd.I, S.214

38 Boer, P. A. H. de, ”Some Observations on Deuteronomy VI 4and 5”, Oudtestamentische Studien27  (1991), S.203-210

(19)

39 Gordon, C.H., "His Name is "One"", JNES29 (1970),p.189f.; MacDonald, N., 2003,p.70 40 THAT, Bd.I, S.107

41 Rad, G. von,1957, S.224. 229(G・フォン・ラート 前掲書、299、303 頁)

42 MacDonald, N.,2003,p.62

43 ThWAT, Bd.VIII, S.274; Herrmann, W., "Jahwe und des Menschen Liebe zu ihm zu Dtn.VI4", VT50 (2000), S.47-54,bes. S.53

44 Nielsen, E, "”Weil Jahwe unser Gott ein Jahwe ist“(Dtn6,4f.)" in: Donner, H./ Hanhart R./ Smend, R.(hrsg.), Beiträge zur Alttestamentlichen Theologie, Göttingen1977,S.288-301

45 Herrmann, W., 2000, S.53f.

46 Spieckermann, H., "Mit der Liebe im Wort. Ein Beitrag zur Theologie des Deuteronomiums" in: Kratz, R. G./

Spieckermann, H.(hrsg.), Liebe und Gebot, Göttingen 2000,S.190-205;  MacDonald, N., 2003,p.74f.

47 神殿内のMot神の脅しと考える研究者もいる。Cf. Loretz, O.,1997, S.50

48 Loretz, O., 1997, S.58ff.  周辺世界における「唯一神教」傾向については議論があり、特にエジプトにつ

いては、イスラエル一神教がエジプトに起源を持つかどうかという提題が出エジプトとの関係でなされ るが、古代オリエントにおいてある神の唯一性や比類のなさが語られるのはめずらしいことではない。

Loretzは、イシュタルやマルドゥク、エンリルといった神々に対する賛歌にも、神の比類のなさが描か

れていることを、同時に指摘する。しかし、それは他の神々に対する対決や排除を表現するものではな いとする。古代メソポタミアの神の世界は、多くの神々の存在を締め出すような唯一神教ではなかった と主張するのは、たとえば、Hartmannも同じである。cf. Loretz, O., 1997, S.89ff.141ff.; Hartmann, B., 1980, S.52. 68

49 Loretz, O.,1994, S.510; ThWAT, Bd.I, S.212 50 Loretz, O., 1997,S.97f.

51 Loretz, O.,1997, S.83f. 91. 彼は申 6 :4 の生の座を前 7 世紀に求める。

52 Loretz, O., "Die Teraphim als "Ahnen-Götter-Figur(in)en" im Lichte der Texte aus Nuzi, Emar und Ugarit", UF24 (1992), S.132-178, bes. S.149ff.; Loretz, O.,1994, S.494ff.ただし、初期、パレスチナにおいて、ヤハウ ェに対して象徴的なものが使われていなかったとは彼は主張しない(創 28 : 18)。彼は、Nuzi文書を 援用することで、第一戒における神々(’lhym)とは家族内の守護神テラフィム(trpym)を指すと推測 している(創 31:30 − 35)。テラフィムは単なる神像ではなく、おそらく、神格化された先祖の立像 だろうとされている。そして、第二戒以外の箇所で使われる’l(出 34:14a)や’lhym(出 22:19a)も、

こういった先祖像を含意しているのではないかと述べる。Loretzの考察によれば、イスラエルでは、先 祖崇拝・死者崇拝の祭儀が王国滅亡期まで存続していた(サム上 28)。古代イスラエルにおける死者崇 拝には、M.S.Smithも目を向けている。イスラエル宗教の内部に家族的−地域的−民族・国家的という 三つの次元を設定したのは、たとえばR.Albertzであるが、M.S.Smithは、死者崇拝に関して家族レベル の慣習(詩 49:10ff.)のみならず、エリヤやエリシャといった死せる聖人に対する特別な信心も含め

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