横田健一先生を偲んで
その他のタイトル The Late Professor Emeritus YOKOTA Kenichi
著者 薗田 香融
雑誌名 史泉
巻 116
ページ 1‑3
発行年 2012‑07‑31
URL http://hdl.handle.net/10112/00023662
私 たち が敬 慕す る横 田健 一先 生に は︑ 去る 二月 六日 未明
︑心 不全 で急 逝さ れま した
︒享 年九 五歳
︒こ の悲 報に 接し て受 講生 一同 深い 悲し みに 包ま れて いま す︒ 先 生は
︑昭 和一 五年 三月
︑京 都帝 国大 学文 学部 史学 科を ご卒 業後
︑大 学 院に 入 学 す ると と も に副 手 を 嘱託 さ れ ま した が
︑翌 年 四月
︑ 海軍 教授 とな り︑ 舞鶴 の海 軍機 関学 校教 官を 命ぜ られ
︑昭 和二
〇年 八月 の終 戦に 至り まし た︒ 戦後 は同 二一 年六 月︑ 関西 大学 教授 に迎 えら れ︑ その 後同 六二 年三 月の 定年 退職 まで
︑実 に四
〇年 の長 きに わ たり ご 在 職 にな り ま した
︒そ の 後︑ 京 都の 仏 教 大 学に 迎 え られ
︑ 平成 三年 三月 まで 教授 とし て在 任さ れま した
︒関 西大 学に ご在 職中 の昭 和二 四年 には
︑ひ とり 史学 科創 設の 衝に 当ら れた のを はじ めと して
︑同 二九 年に は大 学院 修士 課程 を︑ 同四 九年 には 同博 士課 程を 開設 され るな ど︑ 史学 科の 中心 とし てそ の充 実と 発展 に尽 瘁さ れま した
︒本 学史 学・ 地理 学部 門の 今日 の隆 盛は
︑ま った く先 生の お力 によ るも のと いっ て過 言で はあ りま せん
︒ ご 専攻 の 日本 古 代 史 では
︑名 著 の ほま れ の 高い
﹃白 鳳 天 平 の世 界
﹄︵ 昭 和四 八 年︑ 創元 社
︶・
﹃ 日本 古 代 神 話と 氏 族 伝承
﹄︵ 同 五 七年
︑塙 書 房
︶・
﹃ 日本 書 紀 成 立 論 序 説
﹄︵ 同 五 九 年︑ 同 上
︶の 三 部 作 を は じ め
︑多 数 の ご 論 著 が あ り
︑と く に
﹃藤 氏 家 伝﹄ を め ぐ る 一 連 の 研 究 や﹃ 日 本 書 紀﹄ の 成 立 に 関 す る 原 典 研 究 で は
︑ 前人 未踏 の分 野を 開拓 され まし た︒ また 昭和 四六 年以 来︑ 三品 彰英 博士 の遺 嘱を うけ て日 本 書紀 研 究 会 を主 宰 し︑ 年 報形 式 の 重厚 な る 論 集﹃ 日本 書 紀 研究
﹄︵ 第 六〜 二七 冊︶ の相 次ぐ 編修 刊行 に尽 力さ れ︑ 古代 史学 界に おい て長 らく 指導 的役 割を 果し てこ られ まし た︒ この 研究 会は 今も 毎月 一回
︑京 都市 内で 例会 を開 催し
横 田 健 一 先 生 を 偲 ん で
薗 田 香 融
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てい ます が︑ 承れ ば先 生に は毎 月欠 かす こと なく 出席 され
︑先 月二 六日 の例 会に も奥 様の お付 添で お出 かけ にな り︑ 元気 なお 声で 開会 の挨 拶を お述 べに なっ たと 聞い てお りま す︒ 最後 まで 同会 代表 の重 責を 果さ れた こと は見 事と いう ほか あり ませ ん︒ 先 生 の学 風 は
︑恩 師 西田 直 二 郎博 士 ゆ ずり の
﹁堅 実 な る文 化 史﹂ と いっ て 良 い と思 い ま す︒ これ は
︑先 生 ご自 身 か ら 聞い た 話 で す が︑ 大学 卒業 後の 副手 時代 に︑ 先生 は新 村出 博士 の委 嘱を うけ
︑京 都の 護王 神社 奉賛 会の 事業 とし て和 気清 麻呂 公の 伝記 の編 纂に 従事 され
︑そ のと き収 集し た厖 大な 史料 を用 いて まと めら れた の が︑ 先生 の 出 世 作﹁ 上代 地 方 豪族 存 在 形態 の 一 考 察﹂
︵昭 和 二 二年
︶な る 論文 だと いう こと です
︒こ の論 文は
︑和 気氏 も所 属す る山 陽地 方の 大 豪族 吉 備 氏 の全 貌 を 明ら か に した 力 作 で︑ 戦 後ま も な く﹃ 史林
﹄ に掲 載さ れ︑ 古代 豪族 の個 別研 究の 草分 けと して 学界 の注 目を 集め まし た︒
か たき や く
和 気清 麻呂 とい えば
︑そ の敵 役 の道 鏡を 思い 浮か べま すが
︑先 生の 若き 日の 名著
﹃道 鏡﹄
︵ 昭和 三 四 年︑ 吉 川弘 文 館︶ も︑ ま たそ の 副産 物で あっ たと いえ るで しょ う︒ これ らの 論著 にお いて 先生 は︑ 二人 の人 物像 を時 代の 背景 とと もに
︑見 事に 浮か び上 がら せて いま すが
︑和 気 清 麻 呂に つ い ては
︑純 忠 無 比の 忠 臣 で あっ た と いわ れ る 反面
︑中 々 抜 け 目の な い 経済 官 僚 であ っ た こ とを
︑道 鏡 に つい て は︑ 醜悪 な政 僧で あり なが ら︑ 愛す べき 一面 のあ った こと を忘 れず に指 摘す るな ど︑ ほの ぼの とし た人 間愛 をた だよ わせ
︑そ こに 先生 の伝 記研 究の 独特 の風 格を 見る こと がで きま す︒ 学 内で は︑ 文学 部長
︵昭 和三 九〜 四一 年︶
︑関 西大 学理 事︵ 同 四七
〜五 二 年
︶な ど の要 職 に つか れ
︑大 学 の運 営 に 寄 与さ れ る とと も に︑ 本学 の学 史の 編纂 にも 心血 をそ そが れ︑
﹃七 十 年 史﹄
︵昭 和 三 一 年︶ の執 筆 か ら﹃ 百年 史
﹄︵ 同 六一 年
︶の 監 修 まで
︑終 始 熱 心に 尽 力さ れま した
︒ま た校 友会 や教 育後 援会 にも 大い に力 を添 えら れる など
︑本 学に 対す るご 貢献 は到 底こ こに 述べ 尽く すこ とが でき ませ ん︒ 最 後に 教育 者と して の先 生に つい て一 言す れば
︑先 生は いつ も口 ぐせ のよ うに
︑自 分は 若い 人た ちと 一緒 に古 い本 を読 み︑ 史跡 や古 社寺 を訪 ねる のが 一番 楽し いと いわ れ︑ 学生 の研 究会 や研 修旅 行に は実 にこ まめ に参 加さ れま した
︒先 生ご 在職 のこ ろの 古代 史研 究会 では 毎年 八月 と三 月に
︑飛 鳥稲 渕の セミ ナー ハウ スで 二泊 三日 の合 宿を 行っ てい まし たが
︑先 生は この 会に は必 ず出 席さ れ︑ 朝か ら晩 まで
︑み っち りと
﹃日 本書 紀﹄ や﹃ 続日 本紀
﹄の 講読 を行 った あと
︑夜 の一
〇時 頃か ら恒 例の 懇親 会と なり ます
︒こ うし たと きの 先生 は︑ 若い 学生 たち と膝 を交 え︑ 杯を 重ね
︑飲 むほ どに 酔う ほど に談 論風 発︑ 夜の 更け るの を忘 れて
︑心 から 若い 学生 たち との つき あい を楽 しん でい られ るよ うに お見 受け しま した
︒ 六
〇歳 をお 迎え にな った とき
︑ご 自作 の即 興歌 を一 冊の 歌集 に まと め
︑私 た ち にも 配 布 して 頂 き まし た
︒﹃ 古 都 行雲
﹄と 題 す る歌 集 の巻 頭に は︑ 次の 二首 を挙 げて おら れま す︒
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今日 もま たい にし えあ くが れ奈 良に 来ぬ 塔の あな たに 白雲 はゆ く
む そ
六十 とせ を石 橋た たい てわ たり きぬ アヴ ァン チュ ール もせ ずギ ャン ブル もせ ず 第 一首 目は 先生 の一 生そ のも ので す︒ いつ も若 い人 たち に囲 まれ
︑古 代史 の世 界を 心ゆ くま で楽 しま れた ご生 涯は
︑本 当に お仕 合せ な一 生で あっ たと 思い ます
︒第 二首 目も
︑い かに も真 面目 一徹 な先 生ら しい 一首 です が︑ 不肖 の弟 子た ちは
︑ギ ャン ブル はや らな いも のの
︑ア ヴァ ンチ ュー ルは もと より 望む とこ ろと
︑調 子に のっ て失 敗し たり
︑行 詰ま った りす るこ と屡 々で す︒ そん なと き先 生は
︑い つも 一歩 先を 力強 く歩 みな がら
︑適 切な 指南 を与 えて 下さ いま した
︒ ど うか 先生
︑私 たち 野心 に富 む後 輩た ちの ため に︑ いつ まで も導 きの み手 を垂 れた まわ らん こと を切 にお 願い して
︑お 別れ の言 葉に かえ させ て頂 きま す︒ 平成 二四 年二 月九 日
︵ 関 西 大 学 名 誉 教 授
︶
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