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朝鮮絵画における西洋画法の受容 : 李亨禄の冊架 画を中心に

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Academic year: 2021

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画を中心に

著者 朴 株顯

学位名 博士(芸術学)

学位授与機関 同志社大学

学位授与年月日 2020‑03‑20

学位授与番号 34310甲第1056号

URL http://doi.org/10.14988/00001577

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博 士 学 位 論 文 要 約

論 文 題 目:朝鮮絵画における西洋画法の受容――李亨禄の冊架画を中心に――

氏 名:朴 株顯

要 約:

朝鮮に西洋画法が本格的に用いられるようになったのは、清の都である北京に定期的に 派遣された燕行使が天主堂を慣例的に訪問するようになる 18 世紀頃からである。燕行使は 天主堂で天井画や壁画を直接見たり、イタリア人宣教師から銅版画や印画などをもらった りするのみならず、西洋画法を修得した中国人画家に自らの肖像画を描いてもらうなど、

様々な方法で朝鮮に西洋画の技法を紹介した。その影響が、朝鮮絵画に表れるようになっ たことは、肖像画、山水画、記録画(宮廷行事画)、翎毛画(動物画)、文房画といった絵画 ジャンルに確認できる。しかし、その影響は長く続かず、先行研究は共通して、文房画を 除く 4 つのジャンルにおける西洋画法の受容について、18 世紀後半には積極的であったが、

19 世紀には消極的になると指摘する。それに対して、文房画における西洋画法の受容につ いては、それほど明確なイメージが思い描かれているわけではない。というのも、文房画 の中でも西洋画法の影響が著しいと指摘されている冊架画、すなわち書籍や文房具、陶磁 器、花、果物などを並べた棚を西洋画法によって「立体的に見えるように」描く屏風形式 の絵画については、西洋画法の分析が必ずしも十分ではなく、西洋画法の受容が歴史的に どのように展開したのかについても必ずしも明確ではないからである。

冊架画についての研究史を辿ると、冊架画はもっぱら匿名で描かれているため、西洋画 法の受容史について語ることが難しい領域であった。しかし、ブラックとワーグナーによ る 1993 年の共同研究によって、冊架画が宮廷画員によって制作され始めたことや、宮廷画 員の一人である李亨禄(1808~1873?)の作品が「眞に迫る」ほど、写実的であると評価さ れていたことが明らかになり、その後、張漢宗(1768~1815?)や李亨禄といった宮廷画 員による作品が次々発見されるようになった。このような状況の中で、2012 年、李亨禄に 帰せられた冊架画 4 点を改名順に並べた上で、西洋画法を分析した朴本洙「朝鮮後期宮中 冊巨里研究」が発表された。この論文は、李亨禄の冊架画 4 点を、改名時期によって 3 期

(1832~1864、1864~1871、1871~1873?)に分けた後、現存最古作である張漢宗による 冊架画と、遠近法と陰影法の点で比較することで、西洋画法の受容史という観点から冊架 画を考察した初めての研究である。この論文は、結果として、19 世紀の中葉まで活躍した 李亨禄の冊架画が、18 世紀末から 19 世紀初めにかけて活躍した張漢宗とは異なって、明 部から暗部に移り変わるグラデーションの技法がなめらかである点で、西洋画法の理解が 進んでいることと、李亨禄の冊架画の中でも第Ⅱ期(1864~1871)の作品が陰影法の点で西 洋画法にもっとも近いことを指摘した。したがって冊架画における西洋画法の受容史に関 しては、他のジャンルとは異なって、19 世紀中葉を通じて積極的であったという結論を導 いたことになる。ただし、朴本洙が行った西洋画法の分析は、李亨禄の冊架画だけが、当

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時から「眞に迫る」ほど、写実的であると最も高く評価された理由を、遠近法や陰影法、ま た使用法などの点で、必ずしも十分に説明しているようには思われない。

そこで、本論では、朴本洙が取り上げた 4 点の冊架画に、朴本洙が考察しなかった個人 蔵の 1 点と 2017 年以後に新たに発見された 3 点を加えた合計 8 点の冊架画を、支持体、技 法、形式、法量、モチーフ、遠近法、陰影法の点で改めて分析し、李亨禄の冊架画がどのよ うな特徴を持つことによって、単に「立体的」に見えるだけでなく、「眞に迫る」ほど、写 実的であると評価されたのかを明らかにすることを試みる。さらに、李亨禄の冊架画を改 名順に分けて分析し、歴史的にどのように展開したのかを明らかにすることで、朝鮮絵画 における西洋画法の受容史の一側面を明らかにすることを課題とする。

この課題を解決するために、第 1 章で、朝鮮絵画全体における西洋画法の受容過程につ いて、改めて確認する。第 1 節では、西洋画法を学習する手本となる西洋画が、燕行使が 天主堂を訪問することが慣例となる 18 世紀初頭に、宣教師との交流を通じて経験されたこ と、また、その西洋画には様々な画題(人物/山水/城郭/禽獣/花草)、形式(冊/画帖

/巻物/軸/衝立/屏風/壁画)、技法(銅板画/油彩画)、支持体(紙/絹)のものがあ ったことを、燕行使として北京を訪問した李器之(1690~1722)の旅行記である『一菴燕 記』(1759 年刊行)や、実学者である李圭景(1788~?)が朝鮮および中国の古今の事物に ついて記述した『五洲衍文長箋散稿』(1839 年刊行)、実学者である李瀷(1681~1763)の 文集『星湖僿説』(1723 年頃刊行)を通じて確認する。第 2 節から第 5 節までは、以上の経 路でもたらされた西洋画が朝鮮絵画にどのような影響を与えたのかを、肖像画、山水画、

記録画、翎毛画といった絵画ジャンルのそれぞれにおいて、西洋画法が用いられる 18 世紀 とその前後に絞って、改めて詳細に確認する。すなわち、第 2 節では肖像画を取り上げ、

西洋画法が入ってくる前の 17 世紀には、顔面において、頬や鼻などの突出するところを周 辺より赤く塗る画法が用いられ、それ以外においては、黒い輪郭線と明暗をつけない彩色 法とが用いられていたが、西洋画法が入ってくる 18 世紀後半には、近大遠小に描いて奥行 き感を表現する遠近法と、明暗が徐々に移り変わるようにすることで、顔と衣服の凸凹を 立体的に描く陰影法が積極的に用いられたことを確認する。しかし、19 世紀になると、精 神性を強調する南宗画の流行により、伝統的な描き方に戻り、遠近法と陰影法による写実 的な表現は用いられなくなったことを確認する。第 3 節では山水画を取り上げ、17 世紀ま では、安堅画風の影響が著しく、たしかに、近景・中景・遠景に描かれる木の大きさを変え たり、山と岩に濃淡の差を付けたりすることで、遠近感や立体感を表現しようとしたが、

その表現は写実性に至るものではなかったのに対して、18 世紀後半には、西洋画法の影響 により、近いものは大きく鮮明に、遠いものは小さく曖昧に描くことで、遠近関係を明確 に示し、従来の山水画にはなかった水平線と青い色で描く海と空を登場させることで、想 像上の風景ではなく、実際の風景が目の前に広がるような臨場感を演出したことを指摘す る。しかし、19 世紀になると、『顧氏画譜』や『芥子園画譜』などの画譜によって学習され た、形式化された南宗画が流行するようになり、写実性とは無縁の絵画として発展したこ とを確認する。第 4 節では、宮廷の儀式を描く記録画を取り上げ、18 世紀前半までは各々 のモチーフを様々な視点で描いたり、色を平らに塗ったりするため、儀式が行われる場の

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臨場感が欠けていたが、18 世紀後半になると、近大遠小の遠近法を用いることで、空間の 奥行き感を表現するだけではなく、儀式に参加する人物の表情や動き、服装などを豊かに 表現することで、儀式を写実的かつ臨場感があるように描くようになったことを指摘する。

しかし、19 世紀になると、たしかに、奥行き感を表現する遠近法に関しては積極的に用い 続けられたとしても、西洋画法を発展した形で用いたと言うことはできず、既存の方法を ただ広範囲に用いたに過ぎず、それどころか、形式化されたことを確認する。第 5 節では 翎毛画を取り上げ、17 世紀までは、没骨法を用いることで立体感を表現しているが、これ は写実性というより、没骨法がもつ柔らかな性質によって叙情性を得るためであったこと を確認する。それに対して、18 世紀になると、描かれるモチーフの正確な描写力と明暗の 差を付けることによる立体感を表現するが、19 世紀になると、山水画に集中する南宗画の 影響で翎毛画自体があまり描かれなくなることを確認する。以上のことから、肖像画、山 水画、記録画、翎毛画において、18 世紀後半に、西洋画法を用いることで、従来にはない 写実性や臨場感のある表現が可能になったが、19 世紀になると、再び観念的な絵画を求め るようになって、西洋画法はあまり用いられなくなったことを再確認する。

第 2 章では、冊架画が西洋画法をどのように受容したのかを考察する。そのため、第 1 節では、王の側近画員である差備待令画員の祿取才(給料支給のための試験)について記 載している『内閣日暦』と、朝鮮第 22 代王である正祖(1752~1800、在位 1777~1800)の 文集『弘斎全書』を参照することで、冊架画は遅くとも 1784 年には宮廷で制作されており、

正祖が臣下たちに朝鮮の統治理念である儒学に精通することを勧めるという政治的な目的 と、自らも文人であることを自覚するためという個人的な目的のために制作させた絵画で あることを確認する。第 2 節では、このような目的を果たすために、冊架画はどのように 制作されたのかを、李亨禄の冊架画 8 点を除く 28 点の冊架画を、支持体、技法、形式、法 量、モチーフ、遠近法、陰影法の点で分析することによって明らかにする。その結果、支持 体については、肌理が細かいため、だまし絵的な効果が絹より高い紙が使われていること、

技法については、伝統な岩絵の具と膠を使用する彩色画であること、形式・法量について は、実物の棚のように大きく見せるために 8 曲もしくは 10 曲の屏風形式で描くこと、モチ ーフについては、文人が読むべき書籍類、文人が書斎で常用する文房具類、文人が愛玩す る陶磁器類、文人の属性を象徴する花類、立身出世を象徴する造形物と異国から入ってき た新文物である置物類、吉祥的な意味を象徴する果物類など、もっぱら文人と関連する 6 種類の器物を描くこと、遠近法については、視点の高さを表示する消失線の高さが一様で はなく、視点の位置を表示する消失軸もジグザグであったり画面をはみ出したりしている こと、陰影法については、伝統的な岩絵具を用いているが、器物の立体感をもたらすため に、明部から暗部へ滑らかに移り変わるグラデーション技法を用いることが、28 点の冊架 画に共通する特徴であり、このような特徴によって、冊架画というジャンルの作品一般が 当時の人に「立体的」に見えたにちがいないということを指摘する。

第 3 章では、李亨禄の冊架画 8 点を、同じく支持体、技法、形式、法量、モチーフ、遠 近法、陰影法の点で分析し、第 2 章で検討した 28 点の冊架画と比較することで、李亨禄の 冊架画だけが、特に「眞に迫る」ほど、写実的であると評価された理由を明らかにする。そ のために、第 1 節では、文人・劉在建(1793〜1880)が当時業績のある中人(専門技術者)

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について記した『里郷見聞録』(19 世紀中頃刊行)を参照して、李亨禄の冊架画が「精密さ と巧みさ」を極めており、「眞に迫る」と記されるほど高く評価されていたことを確認する。

第 2 節では、朴本洙が考察した 4 点の冊架画に、個人蔵本と、2017 年に紹介されたクリー ブランド美術館本、そして、2018 年に発見された 2 点の作品を加えた合計 8 点の李亨禄の 冊架画を、モチーフとして描かれた印章の印面に施されている名前を手がかりに、3 期に分 類する。すなわち、王の命令や行政事務などを記録する『承政院日記』(1623~1910)によ ると、李亨禄は 1864 年に「亨禄」から「膺禄」へ、1871 年に 「膺禄」から「宅均」へ改 名したことから、「亨禄」の名前がある 2 点(韓国・個人蔵本、韓国・リウム美術館本)を 第Ⅰ期(1832~1864)に制作されたもの、「膺禄」の名前がある 3 点(米国・アジアンアー 美術館本、韓国・国立中央博物館本、韓国・個人蔵本)を第Ⅱ期(1864~1871)に制作され たもの、「宅均」の名前がある 3 点(韓国・個人蔵本、米国・クリーブランド美術館本、米 国・バーミンガム美術館本)を第Ⅲ期(1871~1873?)に制作されたものであることを確 認する。第 3 節では、以上の 8 点の冊架画を、支持体、技法、形式、法量、モチーフの点 で分析し、第 4 節では、遠近法の点で、第 5 節では、陰影法の点で分析し、他の 28 点の冊 架画と比較する。その結果、李亨禄の冊架画は、遠近法の点では、単に、観者の視点の高さ と左右の位置を想定して消失線と消失軸を設定するだけではなく、消失線の高さがほぼ一 様で、消失軸を画面内の中央の一直線上に設定することと、消失線と消失軸によって形成 される菱形の「消失圏」が画面全体に占める比率が 30%以下という低い数値を示すことに よって線遠近法を適用する際の忠実さの度合いが高いことを示していることが特徴的であ ることを明らかにする。また、陰影法の点では、描かれる器物のほとんどについて明暗を 描き分けるだけではなく、左右に設定する光源の位置にしたがって明暗を施す点において、

李亨禄の冊架画は他の冊架画との差異を示していることを指摘する。さらに、このような 特徴は第Ⅱ期に際立つものの、李亨禄のすべての時期、つまり 19 世紀中葉を通じて一貫し て確認できることも指摘する。第 6 節では、李亨禄の冊架画のこのような造形上の特徴は、

李亨禄が、冊架画が実際に使用される場を十分に意識した結果であることを指摘する。す なわち、李亨禄は、王と臣下が政治を行う便殿という使用の場を想定して、消失線の高さ と左右の位置を王のまなざしに合わせて設定するばかりか、便殿の建築的構造を考慮して 光源を設定することで、実際の本棚のようなだまし絵効果を得ることが可能であったこと に言及する。

結章では、以上の分析と考察によって明らかになった李亨禄の冊架画の特質を踏まえた うえで、他の絵画ジャンルとは異なって、19 世紀中葉を通じて高い水準の西洋画法を保ち 続けた理由について、複数の可能性に言及する。まず、美術史的な観点から、李亨禄の父 についても記されている『里郷見聞録』と差備待令画員の試験である録取才の結果を手が かりにして、李亨禄の高い水準の西洋画法は、李家の家業として継承されたものである可 能性を指摘する。また、19 世紀の世界的な情勢を考慮すると、西洋画法は、従来の研究で 指摘されてきた燕行使の訪問先である北京から輸入されただけではなく、西洋人宣教師が 朝鮮へ入国する際の経路であり、貿易も頻繁に行われていた山東半島やマカオ、広州の地 域からも輸入された可能性があり、これらの地域で多く制作された「外銷画」が、モチー フの種類と西洋画法を用いる点において、冊架画と類似点が多いことから、新しい粉本と

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して利用された可能性があることにも言及する。一方、社会的な観点からは、正祖以後の 王が自らの正当性を主張する――正祖を継承することを知らしめる――ために、正祖が政 治的な目的のために制作させた冊架画が効果的であった可能性に言及する。最後に、冊架 画の西洋画法が 19 世紀末にはそれ以上発展することなく、崩れて様々な形式の冊巨里へ変 遷していった過程を概観し、その背景には吉祥的機能を尊重する朝鮮の伝統的な絵画観が あることを指摘する。

【参考文献】

・Kay E. Black and Edward W. Wagner, “Ch'aekkŏri Painting: A Korean Jigsaw Puzz le.” Archives of Asian Art, no. 46, 1993.

・Kay E. Black and Edward W. Wagner, “Court Style Ch'aekkŏri,”in Hopes and Aspirations: Decorative Painting of Korea, San Francisco: Asian Art Museum of San Francisco, 1998.

・李勛相「チェッコリ画家の改名問題と制作時期に関する再考」エドワード・ワーグナー

『朝鮮王朝社会の成就と帰属』李勛相・孫淑景共訳、ソウル:一潮閣、2007 年

・イ・ヒョンキョン「冊架図と冊巨里の視点による空間解釈」『民俗学研究』第 20 号、ソ ウル:国立民俗博物館民俗研究課、2007 年

・朴本洙「朝鮮後期宮中冊巨里研究」(『韓国民画』第 3 号、ソウル:韓国民画学会、2012 年、20~54 頁)

・鄭炳模「冊巨里の歴史、昨日と今日」『冊巨里特別展――朝鮮文人の書斎から現代人の書 斎まで』龍仁:京畿道博物館、2012 年

・鄭炳模「宮廷冊巨里と民画冊巨里の比較」『民画研究』第 3 集、大邱:啓明大学校韓国民 画研究所、2014 年

参照

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