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博士学位審査論文

医療の内容に対するコントロール

──医師の診療上の注意義務違反を中心に──

早稲田大学大学院法学研究科民事法学専攻

小谷 昌子

(2)

目次 序

(1) 医療に対する法的コントロール (2) 医療の内容に関する法的コントロール (3) 本論文の意義

(4) 本論文の構成

一 わが国における医師の専門的判断と法的注意義務 第1章 医師の実施義務

(1) 輸血梅毒事件最高裁判決にみる医師の注意義務と慣行 (2) するかどうかの注意義務と医療水準

(3) 「医療水準」と「医療慣行」

第2章 医療水準の現在と医師の実施義務 (1) 医療水準が辿ってきた変遷

(2) 訴訟上の機能における相違 (3) 医療水準の問題点

(4) 慣行の性質と注意義務基準

二 アメリカにおける医師の診療上のネグリジェンス

第1章 プロフェッショナル・ネグリジェンスと慣行 (custom) (1) 伝統的な考え方

(2) 医プロフェッションと慣行 第2章 医師の行為の合理性

(1) 慣行ベースのネグリジェンスからの脱却 (2) 行為の合理性判断

(3) アメリカにおける医師の注意水準と医プロフェッション 第3章 アメリカにおける診療ガイドラインと医療過誤訴訟 (1) アメリカにおけるCPGs政策

(2) CPGsと医療事故訴訟

(3) 小括:訴訟との関連でみるCPGsの役割

三 医療の内容に対するコントロールと医師の注意義務 第1章 医師の実施義務と「医学的知見」

(1) 最高裁平成13年判決 (2) 最高裁平成15年判決 (3) 最高裁平成18年判決

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(4) 薬剤使用上の過失に関する判断 (5) 医療水準裁判例との比較

第2章 医師の実施義務と診療ガイドライン (1) 我が国における診療ガイドライン

(2) 裁判例における診療ガイドラインの位置づけ (3) 診療ガイドラインと合理性

第3章 医師の実施義務と医療の内容に対するコントロール (1) 医プロフェッションと医療の内容

(2) 医療の内容に対するコントロール (3) 診療ガイドラインに指摘される問題点 結

(1) 本論文の総括

(2) 残された課題:我が国における医プロフェッション

本論文は、医療の内容に関していかなるコントロールが及ぶかにつき、主に法的なコン トロールに焦点をあてて明らかにすることを試みる。まず、問題の所在につき、敷衍する (1)(2)。さらに、近年の医療事故とそれに対する対応に関する議論の概要について確認し つつ、いま医師の過失を論ずる意義について明らかにしておく(3)。

(1) 医療に対する法的コントロール ① 医療の供給に対するコントロール

医療が人の身体、健康、生命に関わるものである以上、これに対しては様々な統制が働 き、その質や安全が担保されている。法も例外ではなく、いくつかの対象ごとに異なった 法的コントロールが及ぶとされる。医療に対する法的コントロールはその対象によって「医 療の供給に対するコントロール」、「医療における『物』に対するコントロール」、「医療の 内容に対するコントロール」「医療概念の拡大とそれに対するコントロール」に区別するこ とができる。このうち最も司法的コントロールに馴染むことが強調されるのが「医療の供 給に関するコントロール」であり、「医療はそれ自身危険行為であるため、それを供給しう る人には一定の資格を要求し、国の免許制によりそれを担保する。これは医療施設に対す

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る許可・届出制と相まって法的コントロールに最も親しむ領域である」と説明される1。 医療が人間にとってなくてはならないものであり、医療へのアクセス可能性はすべての 国民に等しく保障されるべきであるが、他方で医療はそれ自体本来的な危険性、違法性を 孕んでいることから、安全に提供されなければならない。この二つの要請に鑑みて、医療 の供給に対しては医療提供施設、医薬品や医療機器、さらに医療従事者に関する法規制が なされているのが現状である2

第一に医療提供施設に関しては、医療法がコントロールの主翼を担う。医療法は、医療 の在り方を示す理念規定(第1条の2第1項)を置くなど、医療の供給に関する基本法的 な性質を有していないとはいえないものの、そもそもは医療提供施設につきその開設や管 理につき定めることを目的に制定された法律である。第一条に規定するその目的に沿い、

医療提供施設の開設(第7条、第9条)、病床の種類(第7条2項)、管理(第10-11条)、

人員(第15-23条など)、特定機能病院の安全管理体制(第11条)、医療法人制度(第39条、

第68条の3)に関する規定のほか、国および地方公共団体の責務(第1条の3)や広告制 限規定(第69条、第71条)などが設けられている。

第二に、医療の現場において使用される医薬品や医療機器については薬事法に基づく規 制がなされる。薬事法は「医薬品、医薬部外品、化粧品及び医療機器の品質、有効性及び 安全性の確保のために必要な規制を行うとともに、指定薬物の規制に関する措置を講ずる ほか、医療上特にその必要性が高い医薬品及び医療機器の研究開発の促進のために必要な 措置を講ずることにより、保健衛生の向上を図ることを目的と」し(第1条)、医薬品や医 薬部外品、化粧品、医療機器の製造・承認や輸入などについての定めを置く。また、同法 に基づき医薬品の規格基準書(日本薬局方)が定められている。他方、薬事法上の承認を 得るために行われる医薬品の臨床試験の手続きについては、医薬品の臨床試験の実施の基 準に関する省令(通称GCP省令、平成9年3月27日 厚生省令第28号)が定め、一定の品

1 唄孝一「医事法」『ブリタニカ国際大百科事典2巻〔第3版〕』68頁(1995年)。

2 その他、たとえば感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律(平成10年10月 3日法律第114号)は特定の感染性疾患の蔓延を防ぐ観点から、感染症やその患者への対応につ き規定する。他方、医療に対する法規制としては、医療の発達により、それまで考えもつかな かったような医療技術や治療方法──たとえば、生殖補助医療や終末期の延命処置などが挙げ られるであろう──が登場しているが、これにより生命の始期や終期の理解が揺らぐなど、ヒ トという種の存在や概念に対して影響を及ぼしうる自体が生ずることとなった。そこで、この ような影響力の大きい技術について野放しとせず、個別的に法規制をすることによりコントロ ールをすることがある。たとえば、ヒトに関するクローン技術等の規制に関する法律(平成12 年12月6日法律第146号)による、特定胚の取扱いやクローン技術への規制を例として挙げる ことができる。このような規制は、医療のあり方に対する法的コントロールというよりも、人 間の唯一性、ひいては人間の尊厳への侵害を防ぐことを目的とする特殊な法規制と理解するほ うが適切であろう。

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質保持を要求する。さらに、医療機器についても、薬事法および薬事法施行令により国際 基準によるクラス分類ごとに設計、製造、販売などについて規制がなされている。

第三に、我が国においては、これらの施設において医薬品や医療機器を用いて傷病者な どに医療を提供する医療従事者についても、法律による定めの下、統制がなされている。

すなわち、医師、歯科医師、薬剤師等の各資格の責務や職能については、医師法、歯科医 師法、薬剤師法等、各医療資格に関する法律が存在し、ここにおいてその資格、免許制度、

その一般的義務などが規定される。たとえば医師に関してみると、医師法は、第 2 条以下 に医師免許の取得要件や欠格事由、免許上の制裁につき定めたうえで、第 17 条において業 務独占を、第18条において名称独占をそれぞれ定め、医師国家試験に合格し、医師免許の 交付を受けた者だけが医師として医業に従事できることとする。これにより、医師、ひい ては医師により提供される医療の質を一定以上に保つことを目指すのである。しかし他方 で、第19条は医師に応招義務を課し、医師は正当事由なくして患者からの診察治療の求を 拒んではならないことを定める。これにより、患者の医療へのアクセスが閉ざされること を防止するのである。

かように、受け手である国民が安全な医療を享受するための体制整備としては、法律が 種々の規定を定める。この背景には、医療それ自体が危険を孕む性質を有しながらも、社 会にとっては不可欠なものであることがあるだろう。このため、医療の質を保つこと、全 国民が医療を享受できることという質と量の要請の両方を満たす必要が生ずることになる。

② 医療の内容に対するコントロール

しかし、医療の質や安全を確保することを目的とするのであれば、より直接的にこれに 関わるのは医療の内容である。医療の内容、つまり、実際に患者に対していかなる診察、

検査、治療をどのようになすべきか、その内容については、事前的、画一的な法規制は行 われないのが原則であるとされる3。これは「医療行為は、医師の自主性、自由裁量性をそ の中核とし、法律等による事前の画一的規制になじまない」4ためであると説明される。し かし、個々の医師の裁量によって医療の内容がまちまちとなると、医療が本質的に人体へ の危険性を孕む以上、医療の内容さらにその安全と質の担保は十分とはいえない5

3 平林勝政「医療スタッフに対する法的規制──医師に対する法的規制を中心に」宇都木伸=平 林勝政編『フォーラム医事法学〔増補版〕』200頁(尚学社、1997年)。

4 平林・前掲注(3)206頁。

5 唄孝一「医療の前後」同『死ひとつ』248頁(信山社、1988年)は、仮に医師が法の求める基 準を果たしていたにも関わらず患者が損害を蒙った場合、医師は民事上の賠償責任を免れるこ ととなり、患者はこれを耐えるしかない。すなわち、「医療を受ける者は、いつも泣く覚悟をす る。泣かねばならぬ危険を覚悟で、しかし、医療を求めざるを得ない。医療にはこんな悲しい 宿命がある」とする。「このような医療の「宿命」は一方では患者が受け入れなければならない ものであるが、もう一方で医師もこの宿命を熟知したうえで、自ら律しながら医療を提供しな

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そこで、医療の内容面での質や安全の担保のためには、非法的なコントロールが機能す ることとなる。非法的コントロールとしてはさまざまなものがありうると思われるが、本 論文においては、この非法的コントロールの主要なものとして医プロフェッションによる 自律的なコントロールを考える。

医師は、聖職者、弁護士とともに古典的知的三大プロフェッションのひとつとされてき た6。プロフェッション (profession) とは、profess(=公に明言する)を由来とし、「学識(科 学または高度の知識)に裏づけられ、それ自身一定の基礎理論をもった特殊な技能を、特 殊な教育または訓練によって習得し、それに基づいて、不特定多数の市民の中から任意に 呈示された個々の依頼者の具体的要求に応じて、具体的奉仕活動をおこない、よって社会 全体の利益のために尽くす職業」と説明される7。さらに、その共通の条件として、資格付 与、教育訓練、規律保持などの権限と責任をもつ自律的な団体が存在することが指摘され る8。プロフェッションと法、すなわち外部から強制される規範のかかわりを説明するうえで、

この自律的な職能団体の存在は重要な意味を有することとなる。この職能団体は、個々の 構成員に教育や訓練を課し、資格や免許を付与する。そして、資格付与権限があることに 基づき、独自のプロフェッショナル倫理に違反した職能団体のメンバーに対し懲戒などの サンクションを行う。このようなプロフェッション団体による自律がなされていることに より、その職、ひいては個々の構成員は社会的信頼を獲得し、外部からの圧力を排除し、

職業独占を承認されることが可能となる。

「プロフェッションの職務行動基準としてのプロフェッショナル倫理には、もともと自 律的な面と強制的な面が含まれており、その実効的な実践の確保には、倫理と法の双方の 協働が必要なのである。」9とされる。ここで述べられる「法」とは、法律が強権的に医療に踏 ければならない。曰く、「身体を傷つけられあるいは自己の家族を不慮の事故で失った患者に『泣 く』ことをも忍ばしめるだけの裏付けをもって医療の場は設定されていなければならぬ。」とす る。

6 石村善助『現代のプロフェッション』3頁(至誠堂、1969年)、平林勝政「プロフェッショナ ル・ネグリジェンスとしての医療過誤──慣行的プラクティスをめぐって──」唄孝一=有泉亨 編『現代損害賠償法講座4』63-64頁(日本評論社、1974年)など。

7 平林・前掲注(6)63-64頁。

8 田中成明「法曹倫理と医療倫理の対比──自律と強制、倫理と法の関係をめぐって」樋口範雄

=土屋裕子『生命倫理と法』267-268頁(弘文堂、2005年)。なお、中野進「専門職医師の変容」

保険医療社会学論集12号9頁以下(2001年)も専門性、公共性、自律性の特徴を挙げる。

9 田中・前掲注(8)285頁。同書は、「プロフェッショナル団体が、外部からの法的な規制・介 入を避け、不要にするためには、団体自体が社会的に納得の得られる構成で透明で実効的な自 治型『法化』を強化拡充するしかない。自治型『法化』方式による自己規律システムは、……

個々のメンバーにとって強制的・他律的な規律をも当然に含んでいる。このような強制・他律 までも、倫理は自律的でなければならず、プロフェッショナル倫理の理解としてなじまないと いう論法で否定することは、プロフェッショナル倫理の理解として不適切であ」ると指摘する。

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み込むものを指すではない。「患者や依頼者に一定の権利・権能を付与したり一定の手続的 規律をしたりすることによって、適正な医療や弁護が行われるための相互主体的関係が自 主的かつ公正に形成されることを支援・促進するというソフトな方式を主眼とすべきであ ろう。」10とされるからである。このような提言からは、医療をどのようなものとしていく かは「本来、医界が自己の規律と制裁とにもとづいて保証すべきものであり、門外漢が軽々 に口をさしいれるべきものでないであろう」11との指摘も想起される。

さらにいえば、すでに指摘されているように12、医療の内容について法はどのように介入 すべきであり、仮に法が介入できないのであれば医療の内容とはどのようにコントロール されるべきなのだろうか。

(2) 医療の内容に関する法的コントロール

それでは、医療の内容に対して法的なコントロールは全くされえないのであろうか。こ の方法としては、いくつかの可能性がありうる。第一の可能性として、医療の内容に対す る事前的な規制を考えることはできよう13。すなわち、ある患者に対していかなる検査や治 療を行うかについて法的に定めたうえで医療従事者に強制し、さらには診療上の特定の作 為や不作為を取り締まることである。これにより、たとえば必要かつ適切な治療や検査を 受けられずに患者が医療を受ける機会を逸することを防ぐことを目指すというものである。

しかしながら、このような事前的規制が現実に可能であるか、さらに、可能であるとし ても、そのような規制をすることが望ましいか否かはまた別の問題である。医療の内容が 高度に専門的であることを差し引いても、人体には個体差がある。同じ疾患を有する患者 であっても、生体反応の多様性や患者の身体条件の微妙な関与によりそれぞれの患者は異 なる経過を辿りうる14。したがって、いかなる医療を提供すべきかについて法が事前的かつ 画一的に規制をすることは、診療の内容について規定するためには専門的な知識を要する ため現実には困難となるだけではなく、ありとあらゆる経過や可能性を想定しなければな

10 田中・前掲注(8)284頁。

11 唄・前掲注(5)248頁。

12 平林・前掲注(3)212頁は「法は医療の内容までも規制すべきなのであろうか。規制すべき であるとしても、それは可能なのであろうか。そして、それが可能であるとして、どのように して、どの程度規制しうるのであろうか。医療の内容自体に対する法的規制については、これ らの点が自覚的に検討されねばなるまい」と問題提起する。

13 唄孝一「『医の倫理』とバイオエシックスとの間──本書が論じたこと、果たせなかった課題

──」唄孝一編『講座 21 世紀へ向けての医学と医療 第1巻 医の倫理』32頁(日本評論社、

1987年)は「法による規制の今一つは、事前的・予防的に、医師の行為規範を立法するという やり方である」と述べる。

14 松倉豊治「医療過誤をめぐる諸問題/医学の立場から」日本医事法学会編『医事法学叢書3 医 事紛争・医療過誤』30-32頁(日本評論社、1986年)など。

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らず、不可能である。それゆえ、患者にいかなる医療を提供するかについては、根本的に は個々の患者に対峙する個々の医師(あるいは、医師やその他のメディカルスタッフも含 めた医療チーム)が当該患者を診察し、その裁量により決めるべきことである15。すなわち、

「医療行為は、医師の自主性、自由裁量性をその中核と」される16ことになる17

医療の内容に対する法的コントロールの第二の可能性は、事後的かつ個別的なコントロ ールである。患者に損害が生じた場合、この損害について賠償責任が生じるかどうか、ま たは行為者たる医師に刑事罰を科すべきであるかが法的に判断されることになる。この過 程においては行為者のなした行為が法的に責めるべきものであるかが問題とされ、実際に なされた医療の内容が検証される。これがすなわち医療従事者の過失に関する判断であり、

実際に、法は間接的に、医療の内容をコントロールしていると考えることができる。医療 従事者が医療を実践するに際し一定の注意を払うことが求められることは最高裁判所も

「人の生命及び健康を管理すべき業務(医業)に従事する者は、その業務の性質に照らし、

危険防止のために実験上必要とされる最善の注意義務を要求されるのは巳むを得ないとこ ろといわざるを得ない」18と判示する。

もっとも、医師は、たとえば、治療指針や治療診断基準などの純粋に臨床医学的な規範 からも注意を払うことを求められることもあり、また倫理や道徳、さらには法などの社会 規範によってもこれが要求されることを考えれば、医師に求められる「注意」とは非法的 なものも含む非常に多義的なものでありうる。しかしながら、「注意義務、、

」とわれわれが述

15 無論、個々の患者にいかなる診療を提供するかは、医師がすべてをその裁量判断で決するの ではなく、当該患者の自己決定に委ねられる部分もある。このため、医師の説明義務に関する 議論においては、患者の自己決定と医師の裁量とを対置させる形で論じられてきた。しかしな がら、本論文においてはこの部分は可能な限り捨象することにする。なぜならば、患者の自己 決定は多くの場合医師の判断の範囲内でなされるものであり、医師の専門的判断を経ずに患者 の診療の内容を当該患者が自己決定することは稀であると考えるからである。たとえば、患者 の意思が最大限考慮されうる局面として終末期における医療の実施があるが、終末期において いかなる処置を受け、受けないかを患者が自己決定するときでも、まず当該患者が終末期にあ るか否かは医師が判断し、いかなる処置の可能性がありうるかも医師の判断により選択肢が示 されることが多いと思われる。患者の自己決定や希望と医師の専門的判断の関係は重要な問題 であると思われるが、別稿を期したい。

16 平林・前掲注(3)206頁。

17 もっとも、この点については、いかなる医療を実施するかの指針となるものが、医療の内容 を一定程度コントロールする役割を担うということもできる。たとえば疾患別の診療ガイドラ インなどがこれにあたるが、診療ガイドラインは拘束力がないとされることから合理的な根拠 のない医療がなされることを防ぐことはあっても、医療に対する強いコントロールをなすもの ではない。なお、診療ガイドラインとは、医療者と患者が特定の臨床状況で適切な決断を下せ るよう支援する目的で、体系的な方法に則って作成された文書」(Minds診療ガイドライン選定 部会監修『Minds 診療ガイドライン作成の手引き 2007』〔医学書院、2007年〕)と説明される。

18 最高裁判所第一小法廷判決昭和36年2月16日判決(最高裁判所民事判例集15巻2号244頁)、

後掲注・(67)参照。

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べるとき、多くの場合は、法規範、とりわけ、民法あるいは刑法上の規範により課される 注意を尽くす義務のことを指す。法的注意義務は、注意義務違反、すなわち過失から逆説 的に語られることが多い。これは、ある者が法的に求められる注意義務を果たさなかった 場合、この者には、事後的に法律上定められたサンクションが課されうるためである。こ の意味において、法的な注意義務は社会全体からみれば特殊な注意義務なのである。そし てこのような法的な注意義務を尽くしていたか否かが個別のケースについて判断されるこ とにより、当該ケースに対し事後的なコントロールがなされる。また、射程の範囲は限ら れるけれども、医師にとっての行為規範も形成される。

ここで問題となるのが、医療従事者が高度に専門的な知識と経験をもって医療を実施す るに際して法が要求する注意の水準を、どのように確定するのかという問題である。過失 の存否に関する判断は、一般的に、同様の職業・地位・立場等に属する通常人ないし合理 人 (reasonable man) を基準として、その基準をクリアする程度の注意を払っていたか否かに よりなされる、とされる19。しかし、医師の過失が問題となるとき、ここでいう合理人は医 師であり、そこで検証される医療の内容、たとえば療法や手術方法の選択、手術中の手技 などは、医療専門的な知識と技術に基づいてなされる行為である。そのため、医療事故訴 訟の場合、過失判断の際に、医学的知識、医学的判断と無関係ではいられない20。したがっ て、ほとんどの場合において非医療者が判断をする医療事故訴訟においては、医療行為 を評価し、医師の過失につき判断をなすことに困難を伴うこととなる21

19 幾代通著(徳本伸一補訂)『不法行為』40頁(有斐閣、1993年)など。具体的なケースに応 じた平均的な注意能力が基準となる。たとえば、「各具体的事件における普通人」(前田達明『現 代法律学講座14 民法Ⅵ 2(不法行為法)』48頁〔青林書院、1980年〕。)や「当該行為者が社会 生活において属するグループの平均人」(潮見佳男『不法行為法』162頁〔信山社、1999年〕)

など。これは今日において、不法行為といってもその行為や事件の態様は様々であることから、

事件類型ごとに異なった判断枠組みが構築されていると指摘されることと関連すると思われる

(潮見・同上146頁参照)。この考え方は、問題とされている行為類型ごとに、当該行為者の知 識、職業、地位、地域性、経験等に応じて注意義務基準が措定され、これを基準として過失の 有無が判断されるというものであるが、後述のとおり、医療事故訴訟においてはこの傾向が確 かにあるように思われる。

20 唄孝一「医療における過失認定の論理──民法上の損害賠償の問題として──」『医事法学へ

の歩み』104-105頁(岩波書店、1970年)など参照。

21 裁判官にとっては、医療については素人であるがゆえに事実を把握することや、判断基準を 設定すること自体が困難である場合があること、そして原告側にとっては「医学についての知 識に乏しい患者側がその道の医師側を訴えるという訴訟であり、診療録等の重要な証拠も多く は被告側の作成した手持証拠であること」や「原告側が医療に関する突込んだ専門的知識を得 るために医師の協力を得ることが必ずしも容易でないこと、また、医療過誤訴訟について造詣 の深い弁護士の数もさほど多くはないこと」から主張や立証を行うことが難しいことが指摘さ れる。黒田直行「医療過誤訴訟における審理上の諸問題」鈴木忠一ほか監修『新・実務民事訴

訟講座5』291-292頁(日本評論社、1983年)、加藤良夫=増田聖子『患者側弁護士のための 実

践 医療過誤訴訟』4-5頁(日本評論社、2004年)、稲垣喬『医事訴訟入門〔第2版〕』1-4頁(有

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このように、医療事故訴訟の過失判断においては当該医師のなした医療の内容について評 価がなされ、その結果によっては行為者が一定の法的責任を課されることになる。換言す れば、ある医療行為を行った医療従事者の行為における過失の有無を判断する際に、法は、

多かれ少なかれ当該医療従事者のなした医療の内実に踏み込むことになる22。医学や医療が 日進月歩で進んでいくものであることを考えても、医学や医療の内容に関する判断は高度 な医療知識を有し、なおかつ現在医学や医療に携わっている者でなければ本来的には困難 なものである。それにも関わらず、法は医療に踏み込み判断することを要求されることに なるのである。

もっとも、このような事後的コントロールについても、法の介入が無制限に認められて いるかというとそうではない。医師には、法の介入を許さない一定の範囲の裁量が認めら れるとされるからである23。これはすなわち、法による医療の内容に対するコントロールは 事後的なものに限られるばかりでなく、たとえ事後的なものであっても、法が介入するこ とができない領域があることを意味する。このように、医療の内容に関する法の介入が限 定的なものとなる要因は、前述した医療の特性によるところも大きいが、それにくわえて 斐閣、2006年)などを参照されたい。

22 平林・前掲注(3)212頁は、「法は医療の内容までも規制すべきなのであろうか。規制すべき であるとしても、それは可能なのであろうか。そして、それが可能であるとして、どのように して、どの程度規制しうるのであろうか。医療の内容自体に対する法的規制については、これ らの点が自覚的に検討されねばなるまい」との課題を提起している。

23 医師の裁量については、わが国における諸裁判例も認めるところであるが、東京地方裁判所 平成16年12月28日判決(判例時報1964号59頁)は「専門的知識及び技量を有する医師の行 う医療行為は専門的、技術的であり、また、患者の実際の病気の内容、程度、病状の進行、医 療行為の効果、患者側の性格その他の固有の事情などは不確定要素が伴うから……医療水準に 従った医療行為の範囲であっても、医師が如何なる医療行為を選択するかについては、当該医 療行為の専門的程度に応じた医学的判断に基づく医師の裁量権が認められる…」と述べる。ま た、加藤一郎編『注釈民法19債権 (10) 不法行為』150頁(有斐閣、1967年)〔加藤一郎〕も「(高 度な学識に裏付けられた技能を、特殊な教育・訓練によって身につけている)医師には治療上 ある程度までの自由裁量が認められている」と説く。稲垣喬『医事訴訟理論の展開』3頁(日本 評論社、1992年)は医療の「患者の病的状態という一定の所与を前にした、しかも、生体反応 の多様性の中での決断の連続であって、不確定な錯綜要因から解放されない医療状況下で、な お何らかの措置を施行すべき」という性質を前提とし、「医師の診療上の裁量は、その自由な判 断による診療の実施が、所期の治療効果の獲得に連なり、この考慮を強調することが、結局の ところ患者の利益にも合致する」と述べる。また、莇立明=中井美雄編著『医療過誤法』42頁(青 林書院、1994年)〔山本隆司〕も、「医療行為は、個々の医師・医療行為従事者が担当する個々 の患者の利益となるように最大限の可能性を追求するものであり、その外にある社会的・経済 的・権力的な諸事情の干渉・介在・関与を許さない性質のものである。高度の専門的職業人た る医師・医療行為従事者は、医療行為をそのような目的で実施するため、そうした職業人とし て自らを律し、さらにそうした職業人で構成する社会として、一定の社会的自立性をもってい る。とくに医師たる資格をもたない者は、……臨床の場にある個々の医師間ジャン関係に干渉 することは許されず、個々の医師は担当する患者のために最善を尽くすべく、こうした干渉を 排斥して独立的に医療業務を行うべき立場にある。」と述べる。

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医師という職業の特性も無視することができないであろう。

このように、医療の内容に対しては、法的コントロールは謙抑的になされており、大部 分が非法的なコントロールに委ねられていると考える。しかし、このプロフェッションに よる自律的コントロールも、日本においてはそれほど明確になされているわけではない。

というのも、日本においてはプロフェッションの職業団体が存在しないと考えられるため である24

この点につき、たとえばアメリカをみると、医師は各州の医師免許委員会 (Medical

Licensing Board) に加入することが義務づけられている。医師免許委員会は、懲戒規定を有

し、不正行為を行った医師に対する制裁・懲罰をなす。また、任意加入の職能利益団体で あるアメリカ医師会 (AMA : American Medical Association) も、医師の行為規範としての医 療倫理規定 (Code of Medical Ethics) 、各種ガイドラインの策定を行うほか、これにもとづ き会員への制裁を行い、AMA会員の不正行為、倫理的・法的違反を審査する。さらに、倫 理・司法問題審議会 (CEJA : Council on Ethical and Judicial Affairs) は医の倫理原則・関連す る司法上の問題点について、医師会の定款、細則、規則にそって解釈し、分析・調査・整 理を行い、医の倫理原則の具体的な適用についても審議する25

他方、フランスにおいても、独立の職業団体である医師会 (l'Ordre des médecins) により 医師の統制がなされている26。フランス医師会は、医師の名簿への登録(=業務免許の賦与)、 医師に適用される「医師職業倫理法典 (Code de déontologie médicale) 」などの規則の起草、

これに基づく医師の懲戒を主な任としている。フランスにおいては中世の時期から、教会 や大学による医師の統制がおこなわれており27、同業者で構成される国家から独立した団体 による免許の管理や制裁がなされていた。

このようにしてみると、現在の日本においては医療の内容に対する自律的コントロール はいかになされているのだろうか。また、これと法的コントロールは連関しているのだろ うか。医療の内容に対するコントロールについて明らかにするためには、医師の法的注意 義務基準、すなわち医療の内容に対する法的コントロールについて考察するとともに、医

24 この点につき、拙稿「診療ガイドラインと医療の内容に対するコントロール」佐藤雄一郎=小 西知世編『医と法の邂逅 第1集』103-143頁(尚学社、2014年)。

25 アメリカ医師会倫理規定の特徴や機能については、土屋裕子「医師の職業倫理──アメリカ 医師会倫理規定に学ぶ」樋口範雄=土屋裕子『生命倫理と法』117頁以下(弘文堂、2005年)に 詳しい。

26 フランス医師会による医師の統制については、磯部哲「フランス医師会の命令制定権に関す る一考察」佐藤雄一郎=小西知世『医と法の邂逅第1集』69頁以下(尚学社、2014年)、同「フ ランス医師懲戒裁判制度についての一考察」原田尚彦先生古稀記念『法治国家と行政訴訟』425 頁以下(有斐閣、2004年)などを参照。

27 小川鼎三『医学の歴史』35頁(中央公論社、1964年)など。

(12)

プロフェッションによる自律的なコントロールに代表される非法的コントロールについて も明らかにし、さらに法的コントロールと非法的コントロールがいかに連関しているのか を考察する必要があると考える。

(3) 本論文の意義

我が国において、明治期あるいは大正期に医療事故が発生した場合の法的問題について の論考がなかったわけではない28。しかしながら、これが法学、とりわけ民事法領域におい てひとつの論点となったのは、第二次世界大戦後、昭和中期に入ってから29であると考えら れる。以来、さまざまな論点について議論が重ねられてきたが、なかでも医師の民事過失、

その判断基準についてはとりわけ盛んに議論が交わされることとなった。この点について は、次章以降で詳述するが、このように訴訟の場において医師の過失を問うことに対して は疑問が呈されてきたのも事実である30。すなわち、医師の行為が専門的なものであること から、医療の素人である裁判所が過失判断をすることが可能であるのか、また、可能であ るとしてもそれが適切なのかという問題である。

このためか、近年、医療事故に関しては、医療従事者の過失や医療行為と患者に生じた 悪しき結果との間の因果関係に関する議論よりも、紛争解決のためのシステムに焦点があ てられているように思われる。もちろん、いくつかの医療事故における刑事事件化、はて は医師が逮捕されるなどした31ことを背景とするいわゆる「医療崩壊」32が社会問題化した

28 たとえば、加藤一郎=鈴木潔監修『医療過誤紛争をめぐる諸問題』388頁(法曹会、1976年)

には、岩井尊文「医術行為の失錯により生ずる法律上の責任を論ず」法律新聞125号、同126 号、同127号(明治36年)、嘩道文芸「開業医の民事責任」民法研究(1924年)、山崎佐『開業 医の法律問題』(克誠堂、1924年)などが挙げられている。

29 たとえば、加藤一郎「医師の責任」我妻還暦『損害賠償責任の研究(上)』519頁(有斐閣、1957 年)がその嚆矢として挙げられるであろう。

30 唄・前掲注(13)31頁は、「法による解決を『医療への土足による法の侵入』として、これを 警戒し嫌悪する傾向も、アメリカにさえ少なくない。日本ではもとよりそうである。」、「民事裁 判のなかでも、医療過誤訴訟が戦後果した社会的意義は軽視できない。しかし、もとより、ど ちらの当事者にとってもそれが常に満足を与えているわけではない。その不満の声は、一方で は訴訟制度の技術的改革を志向し、他方ではさまざまの訴訟外の解決を模索させているもので ある。」と指摘する。

31 慈恵医大青戸病院事件(慈恵医大青戸病院で一か月前に腹腔鏡下前立腺全摘除術を施行され た患者が低酸素脳症のため死亡したことにつき、2002年9月、同病院の医師3名が逮捕された 事件)。福島県立大野病院産科医逮捕事件(2004年12月17日に福島県立大野病院で帝王切開手 術を受けた産婦が死亡したことにつき、手術を執刀した同院産婦人科の医師 1 人が業務上過失 致死と医師法違反の容疑で2006年2月18日に逮捕、翌月に起訴された事件。なお、2008年8 月20日、福島地方裁判所が被告人の医師を無罪とする判決を言い渡し、検察側が控訴を断念し たため同年9月4日確定)。

32 小松秀樹『医療崩壊「立ち去り型サボタージュ」とは何か』(朝日新聞社、2006年)。その他、

(13)

ことも影響するだろう33。しかし、医療事故の解決手段としての民事訴訟の限界とディレン マは無視することはできない問題である。医療事故について民事訴訟を提起する原告は、

訴訟においては損害の賠償を求めることとなる。ここでいう原告とはすなわち患者側であ り、被害者ということになるが、彼らは必ずしも金銭の支払いを求めているわけではなく、

むしろ「真相解明」「再発防止」「謝罪」を求めていることが指摘される34。しかしこれに対 して、民事訴訟は真実を明らかにすることを目的とはしていない35。そうすると、たとえ認 容判決が得られたとしても原告側が訴訟によって真の要求を満たされることは困難となる 場合がある。そこで、医療事故が起きた場合に、訴訟によって医療従事者個人の責任を問 うのではなく、その他の制度を通じて事故の再発防止を念頭においた真相究明と、被害者 救済を実現すべきなのではないかとの疑問が生ずることとなったのである。これを受けて、

医療事故に関する近年の議論状況をみると、議論の中心は事故の再発防止のためのシステ ム、および、患者の救済制度のあり方にシフトしているように思われる36。実際、2014年6 月には「地域における医療及び介護の総合的な確保を推進するための関係法律の整備等に 関する法律」(平成 26年法律第 83号。いわゆる「医療介護総合確保推進法」)が成立、公 布され、2015年の10月の医療法改正により、医療事故調査制度がスタートする。このよう な状況にあって、いま、医療従事者や医療機関の法的責任について、さらにはその法的な 注意義務について論じることに、いかなる意義があるのだろうか。

第一に、実務上の意義はいまだ存するものと考える。たしかに医療事故の真相究明と再 発防止策の策定は重要な問題であり、この点についてみれば民事訴訟の果たしうる役割は それほど大きいものではないだろう。しかし、被害を負った患者への賠償・補償の面から みると、医療事故の損害補償制度37については課題が多いこともまた事実である38。民事訴 小松秀樹『慈恵医大青戸病院事件 医療の構造と実践的倫理』(日本経済評論社、2004年)、「〈特 集〉医療と司法──対立するしかないのか」論座151号183頁以下(2007年)や「医療知識な きトンデモ判決に危機感強める医師たち」週刊ダイヤモンド2008年5月24日号58頁(2008年)

など参照。

33 これは刑事訴訟の問題だけではなく、民事医療事故訴訟についても、防衛医療につながるな どの影響が指摘される。たとえば、鹿内清三「医療過誤訴訟の報道が医療に与える影響に関す る研究」公益財団法人ファイザーヘルスリサーチ振興財団第6回ヘルスリサーチフォーラム講 演録8頁以下(1999年)など。

34 和田仁孝=前田正一『医療紛争 メディカル・コンフリクト・マネジメントの提案』102-109頁 (医学書院、2001年)など。また、六本佳平「医療事故扮装の社会学的背景について」日本医事法 学会編『医事法学叢書 3 医事紛争・医療過誤』(日本評論社、1986 年)63 頁以下も、損害賠償 よりもむしろ「医師に心から謝ってもらい、こちらの気持や死者の霊を慰めてもらう」ことを 医療事故被害者が求めていることを示す。

35 岩下雅充=小西知世「『裁判』と『真実』」助産雑誌57巻6号461頁以下(2003年)。

36 和田仁孝「無過失補償理念導入の二つのモデル : スウェーデンとフランスの医療事故補償制 度」法政研究79巻3号855頁以下(2012年)

37 現在、日本においては、産科医療補償制度のみが公的な医療事故の補償制度として運用され

(14)

訟を提起することそれ自体を妨げることはできないことを差し引いても、医療事故により 経済的損害を負った患者の救済が必要となったとき、現行制度においては、これを加害者 たる医療機関や医療従事者側に負担させることが現実的であろう。このように考えてみる と、現状においても、いまだ、医療事故に関する法的責任については、議論を重ねる必要 があるといえよう。

第二に、本論文の問題意識は、医療という領域に限らず、専門的な領域とそれに対する 法の関係という問題にも関わるものである。弁護士、建築士、会計士をはじめとする専門 家の法的責任が論じられることがあるが39、このような問題について論じる目的のひとつは、

《専門家にいかなる権限があり、いかなる義務が課されるか=専門家の職責とはなにか》

を明らかにすること、さらにそれを通じて、専門的な知識や経験をもって職務を行ってい る専門家に対し法の介入が可能なのはいかなる範囲なのかについて解き明かすことである と考える。そこで、伝統的にプロフェッションであるとされる医師を題材として取り上げ、

考察することにより、医師以外の専門家も含めた専門職の専門的職務と、それに対する法 のかかわりについて明らかにする一助とすることができるのではないかと考える。

(4) 本論文の構成

以上において述べてきたとおり、本論文は、医療の内容という高度に専門的な事項に関 する法の介入について論ずることを目的とする。そこで、本論文においては、医師の法的 な注意義務、なかでも診療上において検査や治療などの特定の診療行為につき行う義務が あったかなかったかを問題とする実施義務に着目する。

前述したとおり、特定の診療行為、検査や治療などの処置や特定の治療法を実施する義 務が当該医師にあったか否かは、民事医療事故訴訟における過失判断に際してしばしば争 われる問題である。たとえば、いわゆる輸血梅毒事件最高裁判決40は、医師に、輸血の際の 血液提供者に対して問診を実施する義務があったか否かにつき判断を示したものであった。

医師の実施義務は、本来は個々の医師がその専門的な知識や経験に基づき、その実施の必 ている。http://www.sanka-hp.jcqhc.or.jp/ 参照(2013年7月16日参照)。

38 手嶋豊「医療事故無過失補償制度の創設への課題」ジュリスト1435号2頁以下(2011年)参 照。また、現行の産科医療補償制度について指摘される問題点については、上杉奈々「参加医 療補償制度──現状と課題」年報医事法学28号90頁以下、とりわけ96頁以下(2013年)など 参照。

39 最近のものとして、大野拓哉「『権利擁護』と『専門家責任』」弘前学院大学社会福祉学部研 究紀要5巻14頁以下(2005年)、谷村武則「建築士の法的責任とその範囲」判例タイムズ1244 号42頁以下(2007年)、久保宏之「アメリカにおける公証人制度と専門家責任」公証法学39巻 1頁以下(2009年)、「特集 利益相反からみる専門家責任」月刊司法書士494号(2013年)など がある。

40 後掲注(67)参照。

(15)

要性を判断することについて、法的に実施する義務があったか否かを判断し、述べるもの である。高度に専門的な医師の診療行為について実施義務の存否を法的に判断することが できるのか。さらに、どのようになされるべきなのか。実際、これまでにも、このような 注意義務の問題は「するかどうかの注意義務」という本来高度に専門的な意思決定の適否 の問題であり、法的判断にはなじみにくい性質を有することが指摘されてきた41。医療事故 訴訟において検証されることとなる医師の患者に対する診療は、患者に対してある処置を するか、それとも別の処置をするか、さらには処置をしないでおくかの判断の積み重ねで あると言うことができるだろう。しかしながら、このような、具体的な状況における特定 の処置や治療法の実施義務およびその違反があるか否かが問題になるということは、医師 がその裁量により行う高度に専門的な意思決定の適否を法的に問題にするということであ るからである。また、医療は不確実なものであるし、患者によって病状や体質が異なるこ とから、具体的な患者に対する医療の内容、とりわけ療法採否の決定に際しては、高度な 専門的な知見や経験に基づかなければなすことができない。「するかどうかの注意義務」、

つまりそのケースにある具体的な治療法あるいは処置の実施判断が適切であったか否かと いう問題といえるであろうが、これは本来的には医師の裁量の範囲内に属する問題である。

仮に、A という疾患に罹患した場合にはどのような患者であっても、おしなべて Bという 処置をしなければならないという医療上の法則のようなものがあるとすれば、療法選定の 適否判断は比較的容易であろう。しかし、訴訟において過失の有無が問題とされる場合に、

常にこのような法則があるとは限らない42。むしろ、どのように対処すべきか、いかなる治 療法を採るべきかということは、個々の患者、症状によって変わってくるであろう。そし て、ここでなされる判断は、高度に専門性を帯び、医師がその裁量により行う医的判断で ある。したがって、「するかどうかの注意義務」については法的判断にはなじみにくく、そ れゆえか、「するかどうかの注意義務」が問題となりうる場合であっても、「そのままなま にその療法の採否自体の問題とせず、またもや採否判断のために行うべき諸行為に際にし ての注意義務の問題に転換して……責めなおそうとする」ことがあるとされる43。これが、

「するに際しての注意義務」である44

41 唄・前掲注(20)133頁。

42 つまり、医学的な因果関係が明らかである場合、ということになるが、これに関してはかつ て「医学上の因果の過程や機構は科学的に解明しつくされるものとはいえず、解明されるのに 長期間を要する場合が少なくない」という指摘があった。高島学司「医療事故における法的判 断と医学的判断──医事法学的考察序説──」龍谷法学5巻2~4号57頁(1973年)。

43 唄・前掲注(20)133-134頁。

44 するに際しての注意義務は、典型的には、医師による治療法の選択が適切であったか否かに ついての立証や判断が困難である場合に、医師がその治療法を選択する前に患者に対し適切に 説明をし有効な患者の同意を得ていたかを問われる説明義務の問題として問われることが多い

(16)

とはいえ、この「するかどうかの注意義務」「するに際しての注意義務」は明確に区別で きるものではない。たとえば、化膿性髄膜炎で入院していた3歳の患者に対してルンバール

(腰椎穿刺)を実施することの適否、さらにはルンバールを実施するとして、泣きわめく患 者を無理矢理おさえつけて実施することの適否が争われる場合、前者は「するかどうかの注 意義務」であるといえるであろう。しかし、後者については、ルンバールの実施との対比で みれば「ルンバールを実施するに際しての注意義務」といえ、その行為そのものに着目すれ ば「患者を無理矢理押さえつけることの適否」として捉えられる。つまり、ある処置に付随 する行為であっても「するかどうかの注意義務」として捉えられる余地があることも否定で きない場合がある。このように、「するかどうかの注意義務」「するに際しての注意義務」は 行為の内容で決まるのではなく捉え方の問題であり、さらには、どちらの要素がより強いか という濃淡の問題でもあると思われる。重要なのは、するかどうかの注意義務、すなわち、

医師の実施義務に関して判断する際には、医師の治療行為や専門的判断に踏み込まざるをえ ない性質があることである。

近年、医療事故訴訟において医師の過失が問題となる場合において、裁判所は当該状況 における結果回避のための行為義務を措定し、この作為義務の違反の有無を検討すること により過失判断を行う場合がみられる45。当該医師が負っていた注意義務(実施義務)を明 らかにすることとは、その診療当時に当該医師の「するかどうかの注意義務」「するに際し ての注意義務」を明らかにすることを意味するが、とりわけ「するかどうかの注意義務」

として医師の注意義務を問題とする場合にはそもそも、判断が困難となりうる。また、そ れだけではなく、医師をはじめとする医療側にとっては納得のいかない判断となりうると いう問題もある。これが、医師の過失判断における困難性のひとつの要因であろう。

そこで、本論文第一部においては、これまでの医療事故に関するわが国の裁判例をもと に、医師の注意義務水準がどのように明らかにされてきたのか、そこにいかなる問題が指 摘されるのかを明らかにする。次に、第二部においては、アメリカ合衆国の裁判例の蓄積 から、示唆を得ることとする。次いで、第三部では、近年の日本においてみられる傾向に ついて述べ、アメリカとの比較をしつつ、医療の内容に対する法的コントロールについて 考察する。

なお、以下、本論文において「注意義務」というときは、特に断りのない限り法的な注 意義務のことを指すものとする。また、医師の診療上「するかどうかの注意義務」が問題 ように思われる。

45 潮見佳男『基本講義 債権各論Ⅱ 不法行為法〔第2版〕』202頁(新世社、2009年)。また、

滝井繁男=藤井勲「『医療水準論』の現状とその批判」判例タイムズ629号12頁以下(1987 年)も、医師の義務を「実施義務」「説明義務」「転医義務」に分けて説明する。

(17)

になる場合としては、必ずしも技術的な点のみが問題になるわけではなく、医師が患者に 対してなす説明においてもこれが問題になる場合がありうることが指摘される46。この点に ついては、説明と技術過誤を単純に二分してよいのか、筆者はまだその答えを出せていな い。というのも、致死性かつ難治性の疾患に関してその病名を患者本人に告知するか否か、

この問題は患者への説明に関する問題であるといえ、高度に専門的な、特定の検査をなす べきか、ある治療方法を選択すべきかの問題とは性質を異にする。しかし通常、当該患者 やその病状に対する悪影響が告知判断の際の考慮要素として挙げられることからもわかる とおり、単に治療行為の違法性阻却のための同意の前提としての側面や、患者の知る権利 などの側面以上に、医師の患者に対する説明は患者の治療の面にも大きく関わりうる、専 門的な判断によりその実施が決定されるべきものであるからである。それゆえ、告知する か否かに関しては医師に裁量が認められることになるとの考えが一般的になされていたの である47。しかしこの点については別の機会に検討を譲り、議論をシンプルに展開するため にも、さしあたり本論文においては医師の技術的な過誤に焦点をあてて、とくに必要と思 われる場合にのみ例外的に告知や説明の実施義務に触れることとする。

46 小西知世「癌患者本人への医師の病名告知義務(3)」法学研究論集15号(明治大学)133頁 以下(2001年)。

47 最高裁判所平成14年9月27日判決(判例時報1803号28頁)などもこの考え方を認める。

(18)

一 わが国における医師の専門的判断と法的注意義務

本論文においては、医療の内容に対するコントロールに関して考察するため、民事医療 事故訴訟において判断される医師の診療上の実施義務に着目する。そこで、本章においては、

医療上の処置の実施義務についてこれまで判例および学説においてどのような理論が展開 されてきたのか、その伝統的な見解を紹介し(第1章)、これがどのような意味を持つのか について分析する(第2章)。また、診療上の実施義務と、医師の業界内慣行である医療慣 行の関係についても考察する(第3章)。

第1章 医師の実施義務

(1) 輸血梅毒事件最高裁判決にみる医師の注意義務と慣行

過失とは、「結果の発生すべきことを認識無いし予見することが可能であり、また認識無 いし予見すべきであるのに不注意のゆえに認識ないし予見せずに行動することをいう」48と 一般的に説明され49、法的な評価が加味され決せられることになる、まったくの法的概念で ある50

かつては、過失の本質として行為者の心理状態を考慮する見解51と、これを考慮せず客観的

48 幾代(徳本)・前掲注(19)26頁。

49 もっとも、一方では「過失とは、違法な侵害の発生することを認識無いし予見すべきであり ながら、不注意のために認識無いし予見しないである行為をする心理状態である、とされてい る」のように(伊藤高義「不法行為責任」野村好弘ほか編『不法行為法〔増補新版〕』17頁〔学 陽書房、1986年〕)、過失も「心理状態」を指すとする見解もある。

50加藤一郎『法律学全集22-Ⅱ 不法行為〔増補版〕』70頁(有斐閣、1974年)は「過失は、

単なる社会的事実ではなくて、その法的評価を経たものであり、結局は、損害賠償責任を負わ せるべきかどうかということとの関連において、過失の内容が決定されることになる。その意 味において、過失は、不法行為責任の帰責事由であって、加害者の単なる主観的事情における 不注意がただちに法的な意味における過失とされるとは限らない。それは、社会的意味におけ る過失に即しつつ(社会通念によりつつ)、しかも法的な立場からの評価を加えて決定されるの である」と説明する。

51 我妻榮『事務管理・不当利得・不法行為』103頁(日本評論社、1937年)が「故意とは自己 の行爲が他人の懽利を侵害し、その他違法と評價せられる事實を生ずべきことを認識しながら 敢へてこれをなす心理状態である。過失とは不注意の爲め右の事實の生ずべきことを知らざる ことである」、加藤・前掲注(50)64頁が「故意とは、一定の結果の発生すべきことを知りなが ら、あえてある行為をするという心理状態であり、過失とは、その結果の発生することを知る べきでありながら、不注意のためそれを知りえないで、ある行為をするという心理状態である」

と述べる。その他、石坂音四郎『日本民法債権総論(上)』413頁(有斐閣、1924年)、鳩山秀夫

『日本債権法各論〔増訂版〕』901頁(岩波書店、1924年)なども同旨。近年では伊藤高義「不 法行為責任」野村好弘ほか編『不法行為法〔増補新版〕』17頁(学陽書房、1986年)も心理状 態をもって過失を定義づける。なお、前田・前掲注(19)29頁や森島昭夫『不法行為法講義』

171頁(有斐閣、1987年)によると、過失を主観的な帰責事由としたドイツ法学の影響が示唆 されている。

(19)

に過失を定義づける見解52が有力であった53にもかかわらず54、判例では、いわゆる大阪ア ルカリ事件55をはじめとして、心理状態ではなく、客観的に当該状況において行為者がとる べきであった行為義務の違反をもって過失の有無が判断されてきた56。この背景には、行為 者の内面である心理状態を基準とすることよりも、客観的に当該行為者がなすべきであっ た結果回避のための行為をなしていたか否かを基準とすることのほうが、訴訟でなされる 事後的かつ客観的な判断に親和的といえる57。したがって、過失の有無は、当該状況に応じ て措定される注意義務を果たしていたか否かの検討をもってなされることになるのである が、民法第 709 条は、どの程度の注意を果たすことを法が要求するかについては規定して いない。そこで、この点についてどのように考えるべきかが問題となる。我が国において は、当該行為者の能力を基準とする考え方(具体的過失)、そして「当該の種類の行為につ

52 たとえば、横田秀雄『債權各論』850-851頁(清水書店、1912年)をみると、「所謂故意トハ 行爲ノ結果ヲ豫見シテ之ヲ希望シ又ハ少クモ之ヲ認許セル意思ノ状態ヲ謂ヒ過失トハ結果ヲ豫 見シ得ヘキニ注意ノ足ラサル爲メ之ヲ豫見セス又ハ行爲ノ結果ヲ豫見シ之ヲ防止シ得ヘキニ注 意ノ足ラサル爲メ之ヲ防止スルコトヲ得サリシ状態ヲ謂フ」「過失ハ注意ノ不足セル状態ヲ指ス ヲ以テ各人ノ用ユヘキ注意ノ程度ハ如何ニシテ之ヲ定ムヘキヤノ問題ヲ生スヘシ」とあり、《結 果を予見しその結果を防止すべきであったのにこれを防止できなかったという状態》を過失と している。

53 かつては過失を不注意で結果を知り得ない「心理状態」とする表現が多かったとされる。澤 井裕『テキストブック事務管理・不当利得・不法行為〔第3版〕』174頁(有斐閣、2001年)174 頁。吉村・前掲注(53)70頁(有斐閣、2010年)も同旨。

54 今日においては、このような二通りの見解は対立したものではなく、過失の二つの側面をそ れぞれ表現したものに他ならないという指摘もあることに注意しなければならないであろう。

澤井・前掲注(53)174頁参照。吉村・前掲注(53)71頁(有斐閣、2005年)加藤雅信『新民 法体系Ⅴ 事務管理・不当利得・不法行為』159頁(有斐閣、2002年)、近江幸治『民法講義Ⅳ 事 務管理・不当利得・不法行為』112頁(成文堂、2004年)。

55 大審院大正5年12月22日第一民事部判決大審院民事判決録22輯2474頁。「化学工業ニ従事 スル会社其他ノ者カ其目的タル事業ニ因リテ生スルコトアルヘキ損害ヲ予防スルカ為メ右事業 ノ性質ニ従ヒ相当ナル設備ヲ施シタル以上ハ偶々他人ニ損害ヲ被ラシメタルモ之ヲ以テ不法行 為者トシテ其損害賠償ノ責ニ任セシムルコトヲ得サルモノトス何トナレハ斯ル場合ニ在リテハ 右工場ニ従事スル者ニ民法第709条ニ所謂故意又ハ過失アリト云フコトヲ得サレバナリ是ヲ以 テ原裁判所カ『…〔Y〕ノ製造シタル硫煙カ〔X〕ノ農作物ヲ害シタル以上ハ其硫煙ノ遁逃ハY ノ防止スルヲ得サリシモノナルト否トニ拘ラス〔X〕ノ被害ハ〔Y〕ノ行為ノ結果ナルカ故ニY ハ之ニ対シ責任ヲ有スルコトハ多弁ヲ要セス』ト判示シ以テY社ニ於テ硫煙ノ遁逃ヲ防止スル ニ相当ナル設備ヲ為シタルヤ否ヤヲ審究セスシテ漫然〔Y〕社ヲ不法行為者ト断シタルハ右不法 行為ニ関スル法則ニ違背シタルモノニシテ原判決ハ到底破毀ヲ免カレス」として過失の成立の ためには損害の予見可能性だけでなく、損害防止のため事業の性質に従い相当の設備が施され ていなかったことが必要となると判示、原審を破棄し、差戻した。

56 吉村・前掲注(53)71-75頁。潮見・前掲注(19)146頁も「不法行為裁判実務では、民法709 条の過失の用件事実において、行為者の行為態様に対する評価が行われている」と述べる。前 田・前掲注(19)34頁も、いわゆる大阪アルカリ事件以降の判例は過失を結果回避のための行 為義務を尽くさなかったことであると捉えていると述べる。

57 前田・前掲注(19)34頁。

(20)

いて当該の職業・地位・立場等に属する通常人ないし合理人 (reasonable man)」58を基準と する、平均的ないし一般的な人間の能力を基準とする考え方(抽象的過失)のうち、判例59 および学説をみると、一般的には民法 709 条にいう「過失」は抽象的過失であると解釈さ れる60

もっとも、「合理人基準」「一般人・平均人」基準とはいっても、あらゆる場合におしな べて同じ程度であるわけではない。たとえば、「各具体的事件における普通人」61や「当該 行為者が社会生活において属するグループの平均人」62などと言われるとおり、具体的なケ ースに応じた平均的な注意能力が基準となる。したがって、医療事故訴訟においては、問 題とされている行為類型ごとに、当該行為者の知識、職業、地位、地域性、経験等に応じ て注意義務基準が措定され、これを基準として過失の有無が判断されることになるのであ る63

これまで、医師がその診療上なす専門的判断における注意義務の存否と義務違反につい て、わが国の裁判所は数多くの判断を示してきた。医師の法的注意義務においても合理人 が基準となる64ことはいうまでもなく、したがって医師の実施義務についても、同一の、ま

58 幾代(徳本)・前掲注(19)40頁。

59 リーディング・ケースとして、大審院明治44年11月1日判決(大審院民事判決録17輯617 頁)。

60 我妻榮『事務管理・不当利得・不法行為』105頁(日本評論社、1937年)は「標準となる注 意の程度は行爲者自身の平常の注意程度ではなく、法律が社會共同生活の一員として要求する 程度の注意である」とする。また、加藤一郎『不法行為〔増補版〕法律学全集22巻-Ⅱ』68頁

(有斐閣、1974年)も「不法行為の場合に問題になるのはこのうちの抽象的過失であって、具 体的過失が問題となることはない」とする。ほかに、戒能通孝『債権各論〔第4版〕』頁(巌松 堂書店、1950年)、前田・前掲注(19)42-48頁、四宮和夫『現代法律学全集10 事務管理・不 当利得・不法行為 中巻』236-237頁(青林書院、1983年)、森島・前掲注(51)176-177頁、幾 代(徳本)・前掲注(19)40-42頁、中井美雄編『現代民法講義6 不法行為法(事務管理・不当

利得)』127-128頁(法律文化社、1993年)〔植木哲〕、澤井・前掲注(53)183頁、吉村・前掲

注(53)76頁、潮見・前掲注(19)163-164頁など。もっとも、これに対して「行為者の個人的 能力に応じて判断される」とするのが石田譲『損害賠償法の再構成』31-32頁(東京大学出版会、

1977年)。ここでいわれる「通常人」に関しては、加藤一郎「過失判断の基準としての『通常人』

──アメリカ法における『合理人』をめぐって──」我妻追悼『私法学の新たな展開』433-452 頁(有斐閣、1975年)を参照されたい。

61 前田・前掲注(19)48頁。

62 潮見・前掲注(19)162頁。

63 もっとも、車の運転や医療行為のような「①常に潜在的抽象的危険性を含み、②社会的に頻 発し(多数性)、③行為が定型性を持つ」行為の場合、法規において明文規定はないものの、社 会通念上危険を具体化しないための「適切な行為パターン」が形成されており、このパターン から逸脱することをもって「過失」とされることがかなり多く見られることも指摘されている。

澤井・前掲注(53)176頁参照。その他、適切な行為パターンからの逸脱をもって過失を捉える ものとして、前田達明『不法行為帰責論』(創文社、1978年)211頁、徳本鎮「過失の衣を着た 無過失の理論──公害の私法的救済と主観的成立要件をめぐって」法学セミナー155号65頁

(1969年)など。

64 幾代(徳本)・前掲注(19)40頁。

参照