本論文においては、医師の法的注意義務、とりわけ特定の医療行為に関する実施義務に 焦点を当て日本およびアメリカの裁判例を参照しつつ検討してきた。以下では、前章まで の考察に基づき、診療行為における法的実施義務の有無はいかようにして決されるのかを 考察し、提言を行いたい。
具体的には、アメリカ合衆国の裁判例に見られたCPGsに基づくネグリジェンスの判断を 参考に、我が国において近年みられる「医学的知見」、「医療上の知見」(以下ではこれらを
「医学的知見」と総称することがある)、あるいは診療ガイドラインを用いて過失判断を行 う例について検討する。アメリカ裁判例においては、メディカル・ネグリジェンスの判断 において慣行ベースによるネグリジェンスの存否判断が完全に排斥されたわけではないも のの、州によっては一般的なネグリジェンス法が要求する合理性を重視する傾向がみられ た。このような傾向にあって、CPGsを用いることは合理的医師を当該事案に適用するため の具体化に資することがわかった。
もっとも、我が国においてはアメリカとは異なり、従来慣行への排他的な依拠も、また、
それを前提とした専門家証言への強い依拠もせずに医師の過失判断がなされている。それ では、我が国においてみられる医学的知見や診療ガイドラインに基づく過失判断にはいか なる意義があり、またありうるのか。以下では、そのような我が国における近時の傾向に ついて詳しく検討したうえで(第1章、第2章)、最後に医療の内容に対するコントロール について考察することとしよう(第3章)。
第1章 医師の実施義務と「医学的知見」
平成8年以降、医師の過失が問題とされた最高裁判決は 5件あり、これらはいずれも従 前の医療水準判例同様、特定の処置に関する実施義務存否の問題として、あるいは、療法 選択の適否の問題として、医師の行為の適否が問われた事案である。しかしながら、これ らの裁判例においては、平成7 年判決および平成 8年判決の枠組みによる過失判断はなさ れていない。すなわち、医療水準との文言を用いず、「医学的知見」や「医療上の知見」な どの文言を用いて事件当時に存在した知見を認定し、これを基礎として過失の存否が判断 されている。以下では、各裁判例をやや詳細にみながら、医師の実施義務についていかな る判断がなされているのかを確認する。
(1) 最高裁平成 13 年判決
最高裁判所第二小法廷平成13年6月8日判決337は、金属プレス機のローラーに挟まれ負 った両手圧挫創の治療のため被告病院で形成手術を受けた患者が、細菌感染症を疑わせる 症状を示したのちに死亡したことにつき、医師のなした感染症対策処置における過失が問 題となった事案である。1990(平成2)年8月17日の患者入院直後から、医師らは手指機 能を保護し、あるいは再建する方向で治療を行いつつ、創の洗浄およびデブリードマン(組 織の除去)や抗生剤の投与などを実施していた。しかし、入院後 5 日目から患者に発熱な どの症状がみられたにもかかわらず、医師らは患者の入院14日目の8月30日に検査を実 施するまで創部の細菌検査や抗生剤の感受性検査を実施しなかった。結局、この検査で患 者が緑膿菌に感染していることが判明したものの、9月26日に行われた4回目の形成手術 の直後、細菌感染症を疑わせる症状が出現、容体が急激に悪化し10月2日、死亡した。問 題となったのは、医師らが当該患者に対してなした感染症対策が適切であったか、つまり、
入院直後に細菌検査や抗生剤投与を実施すべきであったかである。この点につき、第一審 判決338は、抗生剤の投与はあくまで補助的なものであるとし、傷口の洗浄、消毒およびデ ブリードマンが不十分であった点において過失を認めた。しかし原審339は、当該医師らは 重傷の A に対して右手を温存するため最大限の治療を行ったと評価し、また最適の抗生剤 を発見するまでは試行錯誤があることもやむを得ないとして、医師らの過失を否定してい る。
これに対し最高裁は、原審の記録から、「医学的知見」として、①外傷の初期治療におい ては開放創からの感染の防止がまず必要であり、組織の修復に先立って創を清浄すること が必要不可欠であること、②創傷感染では血流に入って敗血症を起こすこともあることな どを認めた。そのうえで、「上記の医学的知見によれば、重い外傷の治療を行う医師として は、創の細菌感染から重篤な細菌感染症に至る可能性を考慮に入れつつ、慎重に患者の容 態ないし創の状態の変化を観察し、細菌感染が疑われたならば、細菌感染に対する適切な 措置を講じて、重篤な細菌感染症に至ることを予防すべき注意義務を負うものといわなけ ればならない。」としたうえで、「本件病院の医師には、現実に細菌検査を行った8月30日 より前の時点において、創の細菌感染を疑い、細菌感染の有無、感染細菌の特定及び抗生 剤の感受性判定のための検査をし、その結果を踏まえて、感染細菌に対する感受性の強い 適切な抗生物質の投与などの細菌感染症に対する予防措置を講ずべき注意義務があった」
と判示した。そして、過失および因果関係につきより審理を尽くさせるため、事件を原審
337 判例時報1765号44頁。主な判例評釈として、久保野恵美子・法学教室258号123頁以下(2002 年)、加々美光子・民事法情報191号47頁(2002年)、白崎里奈・判例タイムズ1125号80頁以 下〔平成14年度主要民事判例解説〕(2003年)がある。
338 岐阜地方裁判所平成7年10月12日判決(判例時報1589号106頁)。
339 名古屋高等裁判所平成7年(ネ)873号、同平成9年2月26日判決(判例集未登載、未見)。
に差戻した。
本判決においては感染症対策をとることを推奨する医学的知見が認定され、これを基礎 として、より早い時点での細菌検査および抗生剤投与などの感染症予防措置の実施義務が 認められたことがうかがえる。また、本件第一審において認められた過失は傷口の洗浄、
消毒およびデブリードマンが不十分であった点である。これは、どちらかといえば傷口の 洗浄など実際に実施された処置の適否であると考えられ、いわゆる「するに際しての注意 義務」として本件における過失をとらえていた。これに対し本判決は詳細に入院当初から 実施された処置を検討したうえで、より早い時点で特定の処置を実施する義務があったか 否かの問題として過失につき判断を示している。
(2) 最高裁平成 15 年判決
最高裁判所第二小法廷平成15年11月14日判決340は、食道全摘出手術後の患者が手術6 日後に経鼻気管内に挿管された管を抜去された後、呼吸困難から心停止を来し、意識を回 復しないまま死亡した事故に関し、担当医師の抜管後の対応における過失の存否が問題と なったケースである。本件患者は、1994(平成6)年12月に食道癌のため被告病院に入院、
食道を全摘出する手術を受けた。手術から 5 日目に患者は経鼻気管内挿管を抜去されたも のの、その直後から喉頭浮腫や吸気困難な状態が高度になったことを示す胸腔ドレーンの 逆流、軽度の呼吸困難の訴えや努力性呼吸などがみられ、抜管約20分後には呼吸停止、心 停止の状態となった。これを受けて被告病院医師らが救命救急措置を試み、一旦は心拍が 再開したものの、その後、意識を回復しないまま本件患者は死亡した。
本件においては、本件患者の抜管後の医師の処置における過失の有無が問題となった。
原審341は本件患者の呼吸困難は急激に起きたものであるとして、これに対応できなかった ことにつき担当医師の過失を否定した。このため、上告審においては、本件患者の呼吸困 難、ひいては呼吸停止を担当医師が認識することは可能であったか否かが問われることと なった。
最高裁は、①気管内挿管の抜管後、上気道の閉塞等が発生する危険性が高いこと、②食 道がん根治術の抜管後は、患者の呼吸状態を十分に観察して気道確保の処置に備える必要 があり、特に抜管後 1 時間は要注意とする医学的知見があること、③本件訴訟の鑑定人は
340 判例時報1847号30頁。主な判例評釈として、稲垣喬・民商法雑誌130巻4=5号925頁以下
(2004年)、塩崎勤・民事法情報217号101頁以下(2004年)、永井美奈・判例タイムズ臨時増 刊1184号76頁以下〔平成16年度主要民事判例解説〕(2005年)がある。なお第一審は京都地 方裁判所平成9年(ワ)1399号、同平成13年5月10日判決。なお、京都地方裁判所平成9年
(ワ)1399号、同平成13年5月10日判決(判例集未登載、未見)。
341 大阪高等裁判所平成13年(ネ)2109号、同平成14年1月17日判決(判例集未登載、未見)。