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同仁 会 と 『同仁 』 大 里 浩 秋

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同仁 会 と 『同仁 』

大 里 浩 秋

1.同 仁 会 に つ い て

同 仁 会 は 明 治35(ユ902)年6月 に 結 成 さ れ, 昭 和20(1945)年 の 敗 戦 ま で 続 い た 医 学 界 に お け る 一・団体 で あ る 。 こ の 団 体 の 歩 み を 簡単 に ま と め る と,次 の ご と くで あ る。

明 治27,8年 の 日清 戦 争 に勝 利 し た 後,日 本 は 「英 ・米 ・仏 ・露 の 間 に伍 して 一 等 国 の 地 歩 漸 く固 く,国 民 は 東 亜 の 先 進 国 と して爾 他 の 諸 国 を 誘 液 啓 発 す る義 務 を 深 く認 識 す る に至 」 り(『 同 仁 会 四 十 年 史 』2頁 。 以 下,「 四 十 年 史 』 と略 称 。 文 中 の 漢 字 の 旧字 体 を新 字 体 に改 め,カ タ カ ナ に つ い て は ひ らが な に改 め た 。 今 後 の 引 用 も,こ と わ ら な い 限 りは 『四 十 年 史 』 か らの もの で あ る), 医 学 界 で もそ の 認 識 を実 践 に移 そ う とす る動 きが あ っ て 「公 爵 近 衛 篤 麿 氏 等 東 亜 同 文 公 司(東 亜 同 文 会 の 前 身)関 係 の 人 士 を 中 心 と し て 」(6頁) 医 学 界 の 一 部 の 人 々 に よ っ て 「同 文 医 会 」 が 組 織

さ れ た 。 そ の 後,明 治34年 末 頃 か ら 「清 韓 諸 国 を医 学 的 に啓 発 せ ん と企 て る一 団 が あ り」(6頁), 翌35年 に 「亜 細 亜 医 会 」 を作 る こ とに な っ た が, そ れ が 実 行 され な い う ち に,先 の 同 文 医 会 を も併 合 した組 織 を 「同 仁 会 」 の 名 の も とに結 成 す る こ

と に な り,3月 に近 衛 篤 麿,長 岡 護 美,北 里 柴 三 郎,岸 田 吟 香,片 山 国 嘉 等30余 名 が 創 立 協 議 会 を開 き,そ こで 選 出 した 北 里 ら創 立 総 会 準 備 委 員 が 準 備 を し て,6月16日 に 創 立 総 会 を 開 い た 。 総 会 当 日 は外 務 大 臣小 村 寿 太 郎,清 国公 使 察 鉤 が 出 席,席 上 「長 岡 子 爵 は 日清 国交 の 上 よ り我 が 医 学 を対 岸 に扶 植 す る の 必 要 を論 じ,察 公 使 も亦 本 会 の 趣 旨 に 賛 同 の 意 を表 明 し」 た(6頁)。 こ の 総 会 お よ び そ の 後 財 団 法 人 に な る こ と を 申 請 し承 認 さ れ る 過 程 で 整 備 確 定 した 同仁 会 規 則(「 同 仁

会 寄 付 行 為 」)の 「目 的 及 事 業 」 の 部 分 を抜 き 出 す と,

第 五 条 本 会 の 目 的 は清 韓 其 他 亜 細 亜 諸 国 に医 学 及 之 に 随伴 す る技 術 を 普 及 せ しめ 且 彼 我 人 民 の健 康 を保 護 し病 苦 を救 済 す

る に あ り。

第 六 条 本 会 は 前 条 の 目的 を達 す る た め左 の 事 項 を漸 次 実 施 す 。

一,清 韓 其 他 亜 細 亜 諸 国 に対 し医 学 校 及 医 院 設 立 を勧 誘 し又 之 を設 立 す る こ と 二,前 記 諸 国 の 政 府 及 彼 我 人 民 の 招 聴 に応

して 医 師 及 薬 剤 師 其 他 之 に 随 伴 す る技 術 を有 す る者 を紹 介 す る こ と

三,前 記 諸 国 の 医 事 衛 生 及 薬 品 に関 す る件 を調 査 し時 宜 に依 り其 機 関 の 設 置 を勧 誘 す る こ と

四,前 記 の 諸 国 へ 本 邦 の 医 師 及 薬 剤 師 の 移 住 開 業 を扶 助 し又 は之 に便 益 を与 ふ る

こ と

五,前 記 諸 国 の 医 学 生 及 薬 学 生 の 留 学 を勧 誘 し且 其 留 学 生 を保 護 し修 業 の便 益 を 与 ふ る こ と

六,本 会 は前 記 諸 国 に 適 切 な る 医 学 薬 学 及 之 に随 伴 す る技 術 に 関 す る 図 書 を刊 行 す る こ と

と な る 。 こ う して,創 立 総 会 で発 足 した 会 長 長 岡 護 美 以 下 の ス タ ッ フが 会 の 趣 旨 内 容 を対 外 的 に 宣 伝 して会 員 を募 る と共 に,上 述 の ご と き事 業 に 着 手 す る の で あ る。

早 い 時 期 か ら取 り組 ま れ た の は医 師 の 派 遣 で, 中 国 で は 当 地 の 医 学 校 の教 師 に な っ た り,在 住 日 本 人(以 下,「 居 留 民 」 と呼 ぶ)の 要 請 で 赴 任 す る者 が あ り,朝 鮮 で は,日 本 の 京 釜 鉄 道 起 工 に伴

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う そ の 沿 線 地 区 へ の 医 師 配 置 に 応 じ て 赴 任 し た が,そ の 数 は徐 々 に増 え て,南 はバ ン コ ッ ク,シ ン ガ ポ ー ル 等 へ の 派 遣 を含 め て 大 正 元 年 ま で に 329名 に 達 した 。 但 し,地 域 的 な 広 が りは こ の 時 .期 まで の 医 師 派 遣 に 限 られ て い る よ う で あ り,上

記 「同 仁 会 規 則 」 に あ る 「清 韓 其 他 亜 細 亜 諸 国 」 に い ろ い ろ働 きか け る とい うの は,実 際 に は 「清 韓 」に 限 定 され た もの で あ り,さ ら に は,中 国 に 的 を絞 っ た もの で あ る こ とは 同 仁 会 の 各 種 言 動 か

ら明 らか で あ る(2で も触 れ る)。

明 治37年8月 長 岡 会 長 が 辞 任 し,そ の 後 任 に 大 隈 重 信 が 就 任 した 頃 か ら,会 の運 営 が 活 発 とな り,明 治39年 に は 朝 鮮 と中 国 東 北(以 下,「 満 州 」 と記 述)に い くつ か 病 院 を 開 設 した 。 朝 鮮 で は, 大 邸,平 壌,龍 山 に,満 州 にお い て は,安 東,営 口 に 同 仁 医 院 を 開 設 した 。 明 治43年,日 韓 併 合

を機 に 朝 鮮 各 地 の 同仁 医 院 は 朝 鮮 総 督 府 に 移 譲 さ れ,安 東 と営 口 の 場 合 は,南 満 州 鉄 道 会 社 に満 州 各 地 に病 院 設 立 の 計 画 が あ っ た こ とか ら,そ れ に 協 力 す る形 で 譲 渡 した 。

そ の 後,大 正3年1月 北 京 に 日華 同 仁 医 院(の ち 北 京 同 仁 医 院 と改 称)を 開 設 した後,満 鉄 が 医 院 設 立 を計 画 す る満 州 地 区 と 「台 湾 総 督 府 に て 博 愛 医 院 設 立 を計 画 す る南 支 地 方 を 除 い た支 那 大 陸 の 重 要 地 点 に順 次 医 院 を設 立 す る 計 画 を樹 て」 て (93頁),大 正5年 政 府 に 補 助 金 を 申 請 し た 。 こ れ は,10年 間 で 中 国 の 主 要 都 市33ヵ 所 に 病 院 を 設 立 し よ う とす る もの で,「 医 院 設 立 十 年 計 画 」

と 呼 ば れ た が,そ の 実 現 の 先 に は さ ら に30ヵ 所 の 設 立 が 予 定 され て い た とい う。 しか し,こ の 計 画 で 実 現 を見 た の は 大 正12年1月 開 設 の 漢 口 同 仁 医 院 の み で,そ の他 は資 金 不 足 を主 な理 由 と し て 開設 に は 至 らず,そ の 後 は 居 留 民 を多 く抱 え る 上 海 で の 設 立 が 汰 懸 案 と な っ た 。

上 記 計 画 と は 別 途 の 理 由 か ら病 院 の 設 立 が 実 現 し た の が,青 島 と済 南 の 場 合 で あ る。 青 島 の 病 院 は,も と は ドイ ッ人 が 経 営 して い た もの を 第 一 次 大 戦 で 日本 軍 が 同 地 を 占領 した 際 に接 収 して 陸 軍 病 院 と して使 い,守 備 隊 が 撤 退 し た後 は 外 務 省 の 管 轄 とな り,一 時 期 同 地 の居 留 民 団 の 経 営 す る と こ ろ と な っ た が,そ れ が 大 正14年4月 に 同 仁 会 に 移 管 さ れ た 。 ま た済 南 の病 院 は,大 正4年 に 診

療 所 と し て始 め た もの を徐 々 に拡 張 し,青 島 と同 様,守 備 隊 が 撤 退 し た後 の 居 留 民 国 の 経 営 を経 て, 大 正14年4月 か ら 同 仁 会 の 経 営 に 移 っ た 。 こ う して,大 正 年 間 ま で に 同 仁 会 は 四 つ の病 院 を 中 国 内 で 経 営 す る こ と に な っ た の で あ る 。 と こ ろ が

「日本 内 地 に は 未 だ 一 つ も 診 療 機 関 が 無 」 く (115頁),次 第 に在 住 が 増 え る 中 国 人 に 医 療 面 で 対 応 で き な い で い る情 況 を打 開 しな け れ ば との 声 が 高 ま り,満 州 事 変 が 起 っ た 翌 昭 和7年 東 京 神 田 の 本 部 事 務 所 内 に 診 療 所 を 設 置 し,昭 和11年 に は そ の 近 くに新 築 独 立 させ て,同 仁 会 東 京 医 院 を 名 乗 った 。

これ ま で もっ ぱ ら病 院 開 設 に関 す る経 緯 を追 っ て きた が,同 仁 会 の 活 動 と して は他 に臨 時 に医 療 救 助 が 必 要 に な っ た 際 に 出 動 す る 「救 護 事 業 」 が あ っ た 。 そ の 最 初 の 出 動 は,明 治44(1911)年 秋 に 起 っ た 辛 亥 革 命 の 際 で,革 命 軍 と清 朝 軍 の武 力 衝 突 の さ な か,既 に 中 国 各 地 に 派 遣 され て い た 医 師 の み か,本 部 か ら も救 護 隊 を編 成 派 遣 して, 負 傷 者 へ の 治 療 を行 っ た 。 ま た,大 正14年 か ら 翌 年 に か け て の 第 三 次 奉 直 戦 争 の 際 に は,済 南 市 周 辺 の戦 闘 で の 負 傷 者 救 援 を 中 国 側 に要 請 され て 済 南 同仁 医 院 が 対 応 し,さ ら に,昭 和6年 の 揚 子 江 流 域 の 大 水 害 や 翌 年 の 満 州 北 部 の 水 害 に際 して も援二助 を行 っ た 。 これ ら は,人 災 な い し 自然 災 害 に対 す る 国 境 を越 え た 人 道 的 支援 と い え る もの で あ るが,そ れ と は別 に も っ ぱ ら居 留 民 救 助 の た め の 出 動 もあ っ た 。 昭 和2年 の 漢 口 事 件 や 翌 年 の 済 南 事 件 の 際 の 動 き は そ れ に該 当 す る もの で あ り, 出 動 した 軍 隊 の 指 揮 下,日 本 人負 傷 者 の 治 療 に専 念 した。 そ して そ の 後 の 救 護 の 活 動 は ま す ます 日 本 軍 の 行 動 に寄 り添 う もの と して 展 開 され,そ れ が 同 仁 会 の 主 要 な仕 事 に な っ て い くの で あ るが, そ れ につ い て は 後 述 す る 。

同仁 会 が 重 視 した 活 動 の 一 つ に 中 国 人 医 療 関係 者 の 育 成 が あ る 。 時 間 が さ か の ぼ る けれ ど も,明 治39年2月 早 稲 田 大 学 の 校 舎 の 一 部 を 借 りて, 東 京 同 仁 医 薬 学 校 を 開 設 した 。 こ れ は,中 国 人 留 学 生 で 医 学,薬 学 に 志 す も の を教 育 す る 目的 で 開 い た もの で,同 年 に は ま た,こ の 学 校 の 付 属 事 業 と し て,神 田 に 清 韓 語 学 研 究 会 を 設 け て,同 仁 会 か ら朝 鮮,中 国 方 面 へ の 派 遣 を希 望 す る 医 師,薬

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剤 師,助 産 婦,看 護 婦 に対 し て,朝 鮮 語,中 国 語 を教 え た 。 翌40年 に は,学 校,研 究 会 共 に 牛 込 に 移 転 し,学 校 は規 模 を拡 大 して 「斯 会 の 権 威 者 40数 氏 を講 師 に招 聰 し」,前 後 両 期 生 約 百 名 を募 集,日 本 人 学 生 も収 容 した 。 さ らに,同 年 中 に学 校 付 属 早 稲 田 同 仁 医 院 を新 築 し て 診 療 を 開 始 し た 。 しか し,開 校 し て5年 目 の 明 治44年 に 閉 校 せ ざ る を得 な くな り(研 究 会 は41年 に 中 止),在 校 生 は 千 葉,金 沢 等 の 医 学 専 門学 校 に移 した 。 閉 校 の原 因 は 「財 政 意 の 如 くな ら」 な か っ た か ら と す る が(172頁),こ の 学 校 の 実 態 に つ い て は, 不 明 な 点 が 多 く,そ の解 明 は今 後 の 課 題 の ひ とつ

で あ る 。

昭 和 期 に入 る と,日 本 留 学 の 中 国 人 医 薬 学 生 と の 親 睦 を計 る 目 的 で,東 京 周 辺 に在 住 す る留 学 生 を対 象 に して 「留 日 中華 民 国 医 療 学 生 懇 話 会 」 と 称 す る集 ま り を,2年 か ら毎 年2回 開 き5年 か ら は 日本 の 医 学 生 も参 加 して 「中 日医 薬 学 生 談 話 会 」 と改 称 した 。 ま た 「中 国 人 医 師 の 学 術 補 修 を 目的 と して 同 仁 会 医 院 の 所 在 地 に お い て 年 々 開 催 す る」(187頁)「 中 華 民 国 医 師 講 習 会 」 も昭 和2年 か ら始 め た 。

中 国 側 の 医 学 校,薬 学 校,病 院 等 との 関係 を 密 にす る た め,そ の 手 始 め と して 日本 に 留 学 した 中 国 人 医 師,薬 剤 師 及 び 留 学 中 の学 生 の 情 報 を集 め て,や は り2年 か ら 『日本 留 学 中 華 民 国 医 薬 学 生 名 簿 』 を発 行 し,毎 年 改 訂 版 を作 っ た 。 中 国 に お け る 医 学 校 運 営 も試 み ら れ,大 正13年 か ら 昭 和 2年 ま で は 青 島 医 学 校 が 開 設 さ れ,昭 和16年 以 降 は青 島 東 亜 医 科 学 院 が 開 か れ た 。

さて,昭 和6年 に満 州 事 変 が 起 っ た こ とで 「本 会 の 蒙 っ た打 撃 は 頗 る大 き く」,医 師 講 習 会 等 の 日 中 医 学 界 の 連 絡 提 携 に 関 す る 事 業 は 中 止 し,

「在 支 各 医 院 の 事 業 は 緊 縮 方 針 を執 る の 止 む な き 状 態 」 と な っ た が,「 昭 和9年 頃 か ら,支 那 大 衆 の 対 日感 情 は 漸 次 緩 和 し」 「各 医 院 の 患 者 数 も増 加 し て 」 きた 。 しか し,昭 和12年 の 盧 溝橋 事 件 以 来 戦 線 は拡 大 し て,「 同 仁 会 も亦 絶 大 な る 影 響 を蒙 りて 」 北 京 医 院 は 公 使 館 区域 に避 難 しあ との 3病 院 は 日本 に引 き上 げ て,「 在 支 医 院 が 診 療 を 中 止 す る は勿 論,本 部 に於 け る爾 余 の事 業 も一 時 殆 ど中 止 の 已 む な き に立 至 っ た 」。 ま も な く,戦

乱 で 医 療 が 行 き届 か な い 状 況 下 中 国 人 住 民 に種 々 の 病 気 が 発 生 し,そ れ に対 応 す べ く同 仁 会 と し て は,四 つ の病 院 の 職 員 をす ば や く現 地 に復 帰 させ, 特 に漢 口,済 南,青 島 各 医 院 の職 員 は 診 療 救 護 班 を編 成 し て 再 び 中 国 に渡 る や,「 皇 軍 の 指 揮 下 に 入 っ て各 地 に 転 出 し,支 那 大 衆 の 診 療 救 護 に 当 っ て 宣 撫 事 業 に協 力 した 。」 さ ら に 翌 年 以 降,「 皇 軍 の 占 領 地 域 の 拡 大 す る に 従 っ て そ の 重 要 地 点 に 各 々 診 療 班 を 送 り,防 疫 処 を設 け,衛 生 研 究 所 を 興 し,医 学 校 を経 営 す る 等 本 会 の 事 業 は 累 年 拡 充

し」 「其 の 地 域 も支 那 本 土 の み な らず 北 は 蒙 彊 よ り南 は海 南 島 に及 」 ん だ 。 そ して こ の よ うな 変 化 を 『四 十 年 史 』 は,同 仁 会 は大 東 亜 戦 争 を契 機 と

して 「換 骨 脱 胎,踊 が 蝶 に艀 っ た 以 上 の 変 化 を敢 へ て し た 」,「 事 変 前 の35ケ 年 に比 較 して量 的 に も質 的 に も数 段 の 飛 躍 を遂 げ た」 と述 べ て い る の で あ る(以 上,207〜9頁)。 が,日 中 戦 争 期 に 至 っ て 「数 段 の 飛 躍 を遂 げ た 」の は 何 も同 仁 会 の 活 動 に 限 っ た こ とで は な く,そ の他 の 文 化 領 域 の 活 動 しか り,各 地 の 居 留 民 の 取 り組 み しか りで あ り,数 年 後 の敗 戦 を迎 え る 際 に飛 躍 と思 え た もの の 内 実 が 問 わ れ る こ と に な る の も,同 仁 会 に限 ら れ た こ とで は な か っ た。

これ ま で,同 仁 会 の 活 動 の 主 な も の を取 り出 し て 日 中戦 争 に 至 る まで の 動 き を概 括 的 に述 べ て き た つ も りだが,指 摘 す べ き こ とで抜 け 落 ち て い る 点 が い くつ もあ る に違 い な い 。 そ の 幾 分 か を補 う とす れ ば,次 の よ う に な る 。 同 仁 会 の 活 動 内 容 を 担 った の は医 療 関係 者 に違 い な い が,そ れ を財 政 的 に 支 え た の は 前 半 に お い て は会 員 か ら の寄 付 金 で あ り,結 成 時 か ら精 力 的 に 全 国 各 地 に支 部 を作 っ て い き,大 会 や 支 部 長 会 合 を 開 い て は 会 の 意 義 を 確 認 しつ つ 会 員 数 を増 や し て,大 正12年 末 の 会 員 総 数 は3万8千 余,寄 付 総 額 は2百 万6千 円 余 に の ぼ っ た 。 しか し,第 一次 世 界 大 戦 後 の 経 済 恐 慌 で 寄 付 金 が 減 り,大 正12年 秋 の 関 東 大 震 災 後 は 「支 部 の 活 動 は 殆 ど終 止 した と看 倣 して い い 」

(67頁)状 況 と な っ た 。 そ れ に代 わ っ て と い うべ きか,大 正7年 か ら は 国 庫 補 助 を受 け る よ う に な り,12年 に は 外 務 省 の 対 支 文 化 事 業 に 組 み 込 ま れ て,そ の 前 後 か ら毎 年 の ご と くに 国庫 補 助 を得 て(こ の 点 は,『 四 十 年 史 』 に載 る 年 表 「要 務 年

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次 誌 」 で 確 認 で き る)財 政 を支 え,事 業 の 拡 大 を 図 る こ と に な る 。 そ して,昭 和 期 に入 り 日 中 間 に 緊 張 の 度 合 い を増 す につ れ て,日 本 軍 に よ る武 力 侵 略 に 医 療 の 面 か らの 補 完 の 役 割 を担 い,日 中 戦 争 に な る とそ の役 割 は ピー ク に達 した 。 や が て指 導 官 庁 が 外 務 省 か ら興 亜 院 と な り更 に大 東 亜 省 に 代 わ っ て,昭 和19年 に は 中 国 に 関 わ る 諸 団 体 を 統 括 す る もの と して新 た に 日華 協 会 と い う組 織 を 作 る こ とが 考 え られ,そ の 中 に 同 仁 会 を含 ん で 指 導 管 理 の 強 化 を図 ろ う と した よ う で あ る が,ま も な く迎 え た敗 戦 の 現 実 の 前 に 机 上 の 空 論 と化 し た 。 敗 戦 前 後,さ ら に解 散 時 の 同仁 会 の様 子 につ い て は,筆 者 に と っ て 今 後 調 べ る べ き課 題 で あ る 。

も う一 つ 補 うべ き もの と して 「出 版 事 業 」 が あ る が,そ れ につ い て は2で 述 べ る こ と とす る 。

2.同 仁 会 の 出 版 事 業

同仁 会 は,創 立 して4年 目か ら定 期 的 に 雑 誌 を 発 行 し,数 年 間 出 さな か っ た こ とが2度 あ る もの の,同 時 に1種 ない し2種 の 雑 誌 を発 行 して 昭和 19年 末 まで 至 っ た 。 情 宣 活 動 に 相 当 に 力 を 入 れ た 表 れ とい っ て い い で あ ろ う。 以 下,そ れ らの雑 誌 に つ い て発 行 順 に 簡 単 に コ メ ン トす る こ と にす る 。

魁 雅 轟 明治39年6月'第1号 〜

第1号 の トッ プ に 「発 刊 の 辞 」 が あ る。 雑 誌 を 発 行 す る に 当 っ て の 志 が 述 べ られ て い る の で 少 し く触 れ る と,ま ず,西 洋 人 は 東 洋 人 よ り科 学 知 識 が 優 れ 開 発 が 進 ん で い る た め に 「優 勝 の 民 族 」 と

し,東 洋 人 は 「劣 等 の 民 族 」 と品 定 め さ れ て い る が,日 本 人 は 開港 を余 儀 な くさ れ て以 降 西 洋 の科 学 を あ らゆ る面 で 咀 噛 し力 をつ け,そ の 真 価 は今 回 の 日露 戦 争 に よ っ て 十 分 に発 揮 さ れ た,と 述 べ て い る(こ の 戦 争 が 終 わ っ た の は,『 同 仁 』 発 刊 の 前 年 の こ とだ っ た)。 そ して,日 本 が ロ シ ア を

「満 州 に 掃 討 」 した の は,彼 らが 満 州 を 占 領 す る の は 「東 洋 永 遠 の 平 和 に大 害 あ り」 と考 え た か ら で あ り,「 東 洋 の 平 和 を 確 保 し東 西 文 明 の 調 和 を

成 就 せ ん と欲 せ ば 尚 ほ幾 多 の大 難 を 平 和 的 に」 解 決 し な け れ ば な ら な い 。 「蓋 し我 が 国 が 東 洋 に於 け る今 後 の 位 置 は東 亜 諸 国,就 中怜1利に して 温 順 な る 四億 民 庶 を有 し豊 穣 な る五 百 万 方 里 の 土 地 を 有 せ る清 国 人 民 の 現 状 を維 持 し之 を開 発 し之 れ を 教 導 す る に」 あ る 。 我 々 が 「此 の 大 任 に 当 ら ん と 欲 す る は あ に 唯 だ 同 文 同 種 た る清 国 人 に 文 明 の幸 福 を与 へ ん と欲 す る 私 情 と謂 は む,又 た 実 に清 国 人 を開 発 し清 国 半 開 の 人 民 を して 泰 西 諸 国 民 に理 由 な き危 害 を加 ふ る不 幸 を 一 日 も速 や か に滅 却 せ ん とす る 」 た め で あ る 。 と こ ろ で 「清 国 開発 の任 務 固 と よ り少 な か ら ず 」 あ るが,「 清 国 国 民 に 最 も欠 乏 せ る 医 術 衛 生 に事 業 を普 及 し個 人 の病 苦 を 除 き衆 庶 の福 祉 を進 歩 し疫 痛 を予 防 し天 然 痘 を撲 滅 し,而 して 日進 医 学 に達 せ しむ る は 急 務 中 の 最 大 急 務 と謂 は ざ るべ か らず 」 と続 け た あ と に,ま

とめ と し て 次 の よ う に 言 う。 「我 が 『同仁 』 は 砂 た る … 小 雑 誌 に 過 ぎず と錐 も其 の 発 念 の真 諦 は此 の 平 和 的 文 明 の 大 主 義 を鼓 吹 す る の微 意 に 出 づ 。」

こ の 「発 刊 の 辞 」 が そ うで あ り,そ の す ぐ後 に続 く大 隈 重 信 の 「清 国 開 発 の 第 一 義 」 そ の他 の 文 章 もそ うで あ る が,い ず れ も中 国 に対 す る並 々 な ら ぬ 関 心 が 述 べ られ て い る の は,1で も触 れ た よ う に,同 仁 会 の 活 動 は 実 の と こ ろ 「清 韓 其 他 亜 細 亜 諸 国 」 と い う広 が りで 考 え られ た もの で は な く, 狙 い は 中 国 に あ る こ と を明 らか に して い る の で あ

る。

1号 に は 他 に,会 と し て そ の 時 期 に取 り組 ん だ 内容 を 紹 介 す る 「同 仁 会 録 事 」,中 国 や 韓 国 に派 遣 した 医 師 の 現 地 報 告 で あ る 「海 外 通 信 」,寄 付 を した 者 の 氏 名 を並 べ た 「同 仁 会 寄 付 」 な どが 載 り,そ の 後 の 号 に も引 き続 き載 っ て い くの で あ る が,最 初 の 数 号 に あ る 同仁 会 の 役 割 等 を論 じた文 章 が 次 第 に 中 国 や 韓 国 で の 医 学 事 情 を紹 介 す る も の に 取 っ て 代 わ り,そ れ の み か 中 国 国 内 の 政 治, 社 会 情 勢 を論 評 す る 文 も載 る よ うに な り,と りわ け 明 治44(1911)年12月 発 行 の67号 以 降 の 数 号 に は,辛 亥 革 命 に 関 す る情 報 や 同仁 会 が 救 護 隊 を 派 遣 し た様 子 が 詳 し く報 告 され て い る 。 そ し て,

そ れ 以 降 の 号 で も中 国 の 情 勢 の 変 化 や そ れ に対 す る 日本 を含 む各 国 の 反 応 を多 くの ス ペ ー ス を割 い て論 じて い て,一 見 して 医 学 を専 門 とす る団 体 の

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機 関 誌 とは 思 え ぬ 内 容 で あ る。

こ こで,筆 者 の 興 味 に従 が っ て 中 国 人 日本 留 学 関 係 の 記 事 を拾 う な ら ば次 の ご と くで あ る 。 この 雑 誌 の 創 刊 と ほ ぼ 同 時 期 に 開 校 した東 京 同仁 医 薬 学 校 につ い て は,1号 に 「招 募 清 国留 学 生 」 と題 す る広 告 が 載 り,そ の後 も飛 び飛 び に広 告 が 載 る 外,2号 に 山 口 秀 高 「清 国 開 発 と 同仁 医 薬 学 校 」, 28号 の 「同 仁 会 記 事 」 に 「同 仁 医 学 校 の 拡 張 」 と題 す る 文が 載 っ て い る 。 前 者 は,台 湾 で 医学 校 の 設 立 と 運 営 に 関 わ っ た 筆 者 が 書 い た も の で,

「同 仁 会 は あ ら ゆ る 手 段 を 以 て 清 国 の 文 化 に貢 献 す る と同 時 に東 洋 の平 和 を確 保 し,而 して 間接 に は 日清 貿 易 の 隆 盛 を期 す る が 故 に,先 づ 文 明 の 先 鋒 た る べ き医 術 を以 て 之 を清 国 に普 及 せ しめ ん と 試 む る も の で あ る 」 と述 べ,そ れ ゆ え こ の 学 校 を 創 立 して 清 国 学 生 を養 成 す る こ と に な っ た と続 け て い る の で あ る が,清 国 文 化 へ の 貢 献 な どの 理 念 に 「日清 貿 易 の 隆盛 」 と い う現 実 的 要 請 が 加 わ っ て い る と こ ろ が お も しろ い 。 後 者 は,創 立2年 半 を経 て翌 年 に は 第1回 卒 業 生 を 出 す 状 況 に あ る と

き,そ れ まで 清 国 留 学 生 の み を収 容 した の を改 め, 規 模 を拡 大 して 女 子 を含 む 日本 人 学 生 も収 容 し て

9月 の 新 学 期 か らは 前 後 期 各 百 名 を募 集 す る こ と に した,付 属 で 開 い て い た 清 韓 語 学 の 講 習 は終 了

した が,近 い 将 来 「農 工 商 業 何 人 を問 は ず,事 に 清 韓 に従 は ん とす る 者 の為 め に 」 再 開 した い と書 い て い る 。 しか し,そ こ に は留 学 生 の 実 情 は触 れ て お らず,何 ゆ えの 規 模 拡 大 な の か も は っ き り し な い 。 さ ら に,36号 の 「同 仁 医 学 校 卒 業 式 」 は 第1回 卒 業 式 の 様 子 を伝 え て い る が,明 治44年 の 閉校 した 時 期 に は そ れ に関 す る記 事 は見 当 た ら ず,こ の 学 校 に つ い て の事 実 の 解 明 は 残 され た ま ま で あ る。

但 し,当 時 の 医 学 以外 の 中 国 人 日本 留 学 に 関 す る情 報 が 時 々 載 っ て い る の は参 考 に な る 。例 え ば, 6号 か ら18号 ま で 「留 学 生 学 校 」 と題 し て,当 時 留 学 生 を 受 け 入 れ た ば か りの10数 校 に お け る 留 学 生 の 勉 学 ぶ りを生 き生 き と描 写 し て い る(う

ち,12号 は 未 見)。6号 東 京 警 監 学 校,7号 実 践 女 学 校,8号 早 稲 田 大 学 留 学 生 部,9号 東 斌 学 校, 10号 東 洋 大 学 日清 高 等 学 部,11号 東 京 同 文 書 院, 13号 法 政 大 学,14号 振 武 学 校,15号 光 武 学 校,

大 極 学 校 一 こ の2校 は 韓 国 留 学 生 を 受 け 入 れ て い る 一 筆 者,16号 高 等 警 務 学 堂,17号 女 子 美 術 学 校,成 女 学 校,18号 宏 文 学 院 。 ま た,従 来 余 り 知 ら れ て い な い 海 軍 留 学 生 に 関 す る ミ ニ 情 報 も あ る 。35号,43号,59号 な ど。

な お,こ の 雑 誌 は 大 正5年11月 の126号 を も っ て 停 刊 さ れ た が,そ れ に つ い て の 説 明 は そ の 号 に は な く,『 四 十 年 史 』 に は,当 事 者 の 意 向 で 一一時 中 止 し た と あ る の み で あ る 。

(2),(第2次)『 同 仁 』,大 正11年3月 〜13年 末 筆 者 未 見 に つ き,『 四 十 年 史 』 に 従 う と,(1) の 『同 仁 』 と 同 じ 趣 旨 で 月 刊 と し て 始 め た が,関 東 大 震 災 後 の12年10月 号 か ら 季 刊 に 改 め,13年 末 に 休 刊 し た と の こ と。

(3),(第3次)『 同 仁 』,月 刊,昭 和2年5月 〜 讐 年5月 。 発 行 月 に 従 い,昭 和2年 は5月 号 〜 12月 号 と し,そ れ に 第1巻 第1号 〜8号 と総 称 番 号 を つ け て い る 。 翌 年 か ら1年 ご と に 第2巻,

3巻 …,最 終 号 は 第13巻 第5号 。

昭 和2年 に なぜ3度 目 の 『同仁 』 が 誕 生 した の か と い え ば,同 誌 の 創 刊 号(1巻1号)に 載 っ た い くつ か の 文 章 中 に そ の 答 えが 見 出 せ る 。 そ の 一 つ,当 時 の 会 長 内 田康 哉 の 「医 院 長 会 議 席 上 に 於 て」 に よ れ ば,同 仁 会 経 営 の 各 医 院 長 を招 集 した 会 議 に は 外 務 省 の お 歴 歴 も出 席 して い る こ と を述 べ る と共 に ,そ の年以 降着 手 す る もの として機 関 誌 の 発 行 を含 む五 つ の新 事 業 を列 記 して お り,ま た外 務 次 官 の 出 淵 勝 次 の 挨 拶 中 に は,先 に外 務 省 は青 島 と済 南 の 二 つ の 病 院 の 経 営 管 理 を 同仁 会 に 委 託 した こ と に触 れ つ つ,病 院 の 経 営 に は 多 大 な 資 金 を 要 す る が ゆ え に外 務 省 と して も出 来 る だ け の援 助 を す る と述 べ た 上 で,「 本 会 の 事 業 が 国 際 上 極 め て 重 要 な る 意 義 を有 す る事 業 な る こ とに 想 到 せ ら れ,十 分 努 力 して 戴 きた い」 とハ ッパ を か け て い る 。 さ ら に,日 華 学 会 理 事 山 井 格 太 郎 は

「『同仁 』 の 更 正 を 祝 す 」 に お い て,「 同 仁 会 の 支 那 に於 て 経 営 せ る事 業 が 近 年 著 し く発 達 して 最 早 同会 の 機 関 雑 誌 た る 「同仁 』 の 休 刊 を 許 さ な い事 情 に 立 至 っ た」 と述 べ て い る 。 つ ま りこ れ らを 総 合 す る と,外 務 省 の て こ入 れ を得 て 大 正 年 間 か ら

(6)

多 額 の 国庫 補 助 を受 け て お り,昭 和 に入 っ て 日 中 間 の 外 交 関 係 が 緊 張 を増 す 中 で 同仁 会 の 果 た す 役 割 が 一層 重 要 性 を帯 び て き て,そ の 認 識 が 『同 仁 』 の 再 々度 の 発 刊 を促 した と い う こ と に な る 。

雑 誌 の 中 身 は,『 四 十 年 史 』 に 従 う と 「支 那 大 陸 に於 け る 医 事 衛 生 を 中 心 に そ の 人 情,風 俗,習 慣 等 を吾 が 国 に紹 介 し,隣 邦 支 那 に対 す る我 が 国 人 の 関心 を 昂 む る こ と に努 め た 」 とす る(195頁)。

筆 者 と して は,多 量 に あ る誌 面 を充 分 に読 み こ ん で い な い の で,確 か な コ メ ン トは今 は控 え た い が, ざ っ と 目 を通 した 限 りで も,こ の コ メ ン トに あ る ご と く中 国 内 部 の 医 療 事 情 に 関 す る研 究 な い し観 察 の レ ポ ー トが た く さ ん載 っ て お り,医 療 面 か ら の 「支 那 通 」 が 排 出 し た こ と を 感 じ させ る もの が あ る 。 しか し,医 療 とは 関 わ りな い 「支 那 通 」に よる 中 国 紀 行 も多 数 載 っ て お り,ま た,当 時 の 中 国 文 学 事 情 に つ い て の 詳 しい 紹 介 や 作 品 の 翻 訳 も 載 っ て い て,今 の 中 国 文 学 研 究 者 に と って も参 考

に な りそ う な 情 報 が 提 供 さ れ て い る 。 さ ら に は, 刊 行 開始 の 昭和2年 に は 漢 口 で 租 界 を 回 収 し よ う

とす る 中 国 人 の 運 動 が 起 こ り,翌 年 に は済 南 で 北 伐 軍 と 日本 軍 との衝 突 が あ っ て,居 留 民 を含 め双 方 に多 数 の 死 傷 者 が 出 る 事 件 が 起 こ っ た が,こ の よ う に 中 国各 地 で 日 中 関係 が 極 度 に 緊 張 す る事 態 が 次 々 に発 生 した 際 に,同 仁 会 周 辺 の 人 々 が どの よ う に対 応 し た の か が 誌 面 に さ ま ざ ま な形 で 反 映 され て い る 。(1)の 『同 仁 』 で は,会 結 成 後10 数 年 間 の 取 り組 み状 況 を具 体 的 に知 る こ とが 出 来

る の に対 して,今 回 の 「同仁 』 は,会 の 事 業 を拡 大 しつ つ 次 第 に 日本 軍 の 中 国 各 地 で の侵 略 行 為 に 根 こ そ ぎ動 員 さ れ る事 に な る,そ の 初 期 の動 きや 考 え方 を見 る こ とが 出 来 る だ ろ う と思 う。

こ こ で,中 国 人 日本 留 学 に 関 す る記 事 を拾 う と, まず,1巻2号 か ら始 ま っ て 時 々 「留 日 中華 民 国 医 薬 学 生 懇 話 会 」 につ い て の 記 事 が 載 っ て い る の が 目 に付 く。 こ れ は,独 自 の 医 薬 留 学 生 養 成 機 関 を持 た な くな っ て 久 しい 同仁 会 が,日 本 各 地,と りわ け 東 京 周 辺 で 医 薬 を学 ぶ 中 国 人 を 集 め て 影 響 力 を発 揮 し ネ ッ トワ ー ク を作 ろ う と し た動 き で あ り,同 時 に 始 め た 『留 日医 薬 学 生 名 簿 』 の 編 集 と 共 に か な りの 熱 を 入 れ て 取 り組 も う と した こ と が,当 初 の 数 号 の 記 事 か ら読 み 取 れ る 。 この 会 は

3年 後 か ら は 日本 の 医 学 生 も加 え て 「中 日医 薬 学 生 談 話 会 」 と改 称 して 引 き続 き年 に2回 講 演 会 や 親 睦 会 を開 い て い る こ とが 時 折 の記 事 で 報 じ られ て い る が,10年 続 い た 取 り組 み も 日 中 戦 争 が 起

こ る こ と で 一 頓 挫 す る の で あ る 。 他 に は,3巻 11号 に 中華 民 国 留 日学 生 監 督 姜 碕 「中華 民 国 留 日 学 生 会 館 建 築 意 見 書 」 が 載 っ て い る。 これ は,個 人 の 資 格 で外 務 省 文 化 事 業 部 の部 長 宛 に 提 出 した

もの と断 っ て い るが,当 時 日本 が 対 支 文 化 事 業 を 展 開 し て留 学 生 の 学 費 の一 部 を補 助 しつ つ あ る 現 状 を 踏 ま え て,さ ら に留 学 生 の た め の 会 館 をつ く

っ て ほ しい との 要 望 が 中 国 側 にあ っ た こ と を示 し て い る の で あ ろ う。 しか し,こ の 意 見 書 が 書 か れ て2年 後 に満 州 事 変 が 起 き,そ の また7年 後(昭 和13年)に 「満 州 国 」留 日学 生 会 館 は 出 来 た け れ

ど も,姜 碕 の 希 望 した 中 華 民 国 の 留 学 生 会 館 は実 現 す る こ と は な か っ た 。 ま た,10巻6号 に 「他 山 の 石 」と題 し て 中 国 人 の 文 を3篇 紹 介 して い る の は 興 味 を引 く。 日本 が 対 支 文 化 事 業 を始 め る 際 の 基 金 と した 同 じ義 和 団 賠 償 金 を使 っ て,イ ギ リ ス,ア メ リ カ は 中 国 に対 して どの よ う な文 化 事 業 を展 開 して い る か を述 べ た 「庚 子賠 償 金 に よ る英 米 の 文 化 事 業 」,日 本 へ の 医 学 留 学 生 派 遣 に い さ さか の 疑 問 を呈 して い る 「医 学 留 学 生 派 遣 に つ い て 」,日 本 は 中 国 に対 し て 文化 事 業 を積 極 的 に 進 め よ う と す る 一 方 で 「武 化 事 業 」を行 い つ つ あ る と指 摘 して い る 「日本 対 華 文 化 事 業 の積 極 化 」 が そ れ で あ る が,日 ご ろ 良 く も悪 く も 日本 人 の 中 国 観 察 で 占 め られ て い る誌 面 に こ の よ う な 中 国 人 の 辛 口 の 見 解 を載 せ る の は まれ な こ とで あ る。

さ て,昭 和12(1937)年7月 に盧 溝 橋 事 件 が 起 こ っ て戦 線 が 拡 大 の 一 途 を た ど る や,そ の 直後 の11巻9号 か ら の 誌 面 は そ れ に い か に対 処 し た か,今 後 ど う対 応 す べ きか に重 点 が 置 か れ て い る が,さ ら に12巻8号 に な る と,そ の巻 頭 言 「雑 誌 内 容 の 改 革 に就 い て 」 に 「本 号 か ら断 然 雑 誌 の 内 容 を革 め,も っ ぱ ら本 会 の 有 す る各 機 関 が 直接 調査 研 究 して 得 た る資 料 を掲 載 して,支 那 の 医事 衛 生 に 対 す る朝 野 の理 解 に資 す る」 と述 べ て い る よ うに,そ れ まで の構 成 と は が ら りと違 う内容 が 盛 ら れ て お り,な お13巻5巻 に 至 っ て 「宣 言 」 と題 す る文 を載 せ て,今 後 「大 陸 の 医 事 衛 生 に 関

(7)

す る 調 査 研 究 の 発 表 に専 念 し,其 の 名 も」 「『同 仁 会 医 学 雑 誌 』 と改 題 せ ん とす る」 と述 べ て い る 。

日本 人 の 中 国 に対 す る 関 心 の 薄 さ を 啓 発 す べ く, 機 関 雑 誌 の 範 疇 を越 え て これ まで も ろ もろ の 内 容 を 載 せ て き た の を こ こ で 終 え る とい うわ け で あ る 。 なぜ か,そ の 一 つ の 理 由 は,「 支 那 事 変 起 こ り,大 陸 に対 す る 我 が 国 人 の 関 心 は最 高 潮 に達 し, 新 聞 雑 誌 等 何 れ も大 陸 に 関 す る記 事 を満 載 して遺

漏 な き有 様 」 だ か ら で あ る 。

(4),『 同 仁 医 学 』,華 文,月 刊,昭 和3年6月 〜 昭和 ユ3年5月

筆 者 未 見 に つ き 『四 十 年 史 』 に従 う と,始 め

『同 仁 会 医 学 雑 誌 』 と呼 ん だ が,の ち に 上 記 の ご と くに改 名 した 。 内容 は 「日本 の 各 種 医 薬 学 雑 誌 か ら其 の粋 を抜 い て 支 那 文 に翻 訳 した もの で,此 の 種 の 文 献 に乏 しい 支 那 の 医 薬 学 界 に貢 献 す る と

こ ろ 頗 る多 」 か っ た(196頁)が,日 中 戦 争 が 起 こ っ た 翌 年 に廃 刊 さ れ た 。 なお 。 こ の雑 誌 が 発 行 され る た び に(3)の 『同仁 』 が そ の 目次 を紹 介 して い るの で,専 門 家 で あ れ ば そ れ を見 て 内 容 を 類 推 す る こ とが で き る か も しれ な い 。

(5),『 同 仁 会 医 学 雑 誌 』,月 刊,昭 和14年6月, 第13巻6号 〜 昭 和19年12月,第18巻12号 。 巻 数 は

(3)の 『同仁 』 の 後 を継 い で い る が,呼 び方 は 昭 和 を 使 わ ず に 「皇 紀 」 を 使 い,例 え ば13巻6 号 は紀 元 二 千 五 百 九 十 九 年 六 月 号 と して い る 。

こ の 雑 誌 の 創 刊 号 と い う べ き13巻6号 に は

「改 題 宣 言 」 が あ り,そ こ に は 「時 局 は 進 展 して 大 陸 は今 や 建 設 の 過 程 に 入 り,我 が 同仁 会 は そ の 医事 衛 生 方 面 を担 当 す る に至 っ た 。 従 て 本 会 の 機 関雑 誌 も亦 大 陸 医 学 衛 生 の 指 導 を 以 て任 ず る の 要 あ り,蕪 に題 号 も 『同仁 会 医 学 雑 誌 』 と改 め」 た とあ る 。 そ して,こ の 号 か ら1年 間 ほ ど は 「同 仁 会 報 」 とか 「同仁 会 記 事 」と題 し て 会 の 情 報 が 載 り,長 大 な旅 行 記 も連 載 さ れ て い る が,そ の あ と の 号 に は 全 て 医 学 の 専 門 的 内 容 が 載 る だ け で あ る 。 早 稲 田 大 学 図 書 館 所 蔵 分 を 見 た だ け な の で, そ の 後 続 い て 出 た か は未 確 認 で あ る 。

(6),「 同 仁 会 報 』,不 定 期 刊,昭 和15年8月,

第1冊 〜 昭 和19年9月,第18冊 。 発 行 の 間 隔 は, 当 初 は ほ ぼ ふ た 月 だが あ と に は 三 月 と な り,最 後 は5ケ 月 と な っ た 。 第18冊 に 終 刊 を 告 げ る 言 葉 は な く,こ れ で 終 わ っ た か は 未 確 認 。

内 容 は,医 学 関 係 に 限 定 さ れ て い な い 点 で は (3)の 『同 仁 』 に近 い が,執 筆 者 の 殆 どが 中 国 の ど こ か の 地 区 に 配 属 され た 同 仁 会 関 係 者 で あ る た め か,話 題 は ロ ー カ ル で こ じん ま り と した 仕 上 が りに な っ て い る 。 ま た,各 号 に,班 とか 処,例 え ば保 定 診 療 班 とか 青 島 防 疫 処 とか 言 う 中 国 各 地 に 配 置 した 部 署 か らの 報 告 で あ る 「班 処 通 信 」, (3)の 『同 仁 』 や 当 初 の 「同 仁 会 医 学 雑 誌 』 に も載 っ て い た 「同 仁 会 記 事 」 が 引 き継 が れ か つ 詳 しい 内 容 で 書 か れ て い る の が,こ の 雑 誌 の 特 徴 と い え そ うで あ る 。 そ の 意 味 で,名 前 の とお り同仁 会 の 「会 報 」で あ り,と りわ け 戦 時 下 に命 を か け て働 く同僚 に 関 す る情 報 を載 せ,不 幸 に して 犠 牲 に な っ た 同 僚 を痛 む 文 を長 々 と載 せ て い る の で あ る。

以 上,少 しは 目 を通 した もの と ま っ た く見 て い な い も の を含 め て,同 仁 会 が 発 行 し た6種 類 の 雑 誌 に つ い て コ メ ン ト した 。 最 初 に これ ら を読 ん で み よ う と し た の は,こ れ らの 中 か ら 中 国 人 日本 留 学 に 関 す る 情 報 を得 られ る の で は な い か と思 っ た か ら だ が,そ れ は 見 込 み 違 い で あ っ た 。 しか し, 拾 い読 み をす る う ち に,こ こ に は 明 治 期 の 日本 人 が 医 療 を通 じて い か に 中 国 と関 わ っ て 日 中戦 争 時 期 ま で 至 っ た の か を語 っ て い る証 言 が 豊 富 に 残 さ れ て お り,同 仁 会 の 歴 史 を通 じ て近 代 の 日 中 関係

を考 え る こ とが で き るの で は な い か と感 じた 。 そ こで,筆 者 と して は 急 が ば 回 れ で,ま ず は 目次 を 整 理 し て公 に し,興 味 を覚 え た 人 を誘 っ て 一 緒 に 読 み な が ら,近 代 以 降 の 日本 人 が 中 国 に 向 か っ た さ ま ざ ま な 有 り様 を 考 え る 事 に した 。 い くつ か 拾 い 読 み を した う ち,(1)の 『同 仁 』 は2号 分 を 見 る こ と が で きず,(2)と(4)は 未 見,(5) は 医 学 専 門 雑 誌 で あ るの で 敬 遠 し,全 部 の 号 を見 る こ とが で きた(3)の 『同 仁 』 と(6)の 「同 仁 会 報 』 に つ い て だ け 目次 を整 理 して,そ れ を3 に 並 べ る こ とに した 。 こ の2種 の 雑 誌 が 発 行 さ れ た 時 期 は 昭 和2年 か ら19年 ま で に わ た っ て お り,

(8)

そ れ は 昨 年 目次 を 整 理 して 本 所 報No.38に 載 せ た

『日華 学 報 』 が 発 行 され た 時 期 と ほ ぼ 重 な っ て い る こ とか ら,今 後 『日華 学 報 』 の 内 容 と比 較 しな が ら読 む の に も この 目次 が役 立 つ だ ろ う と思 う。

3.『 同 仁 』,『 同 仁 会 報 』 目 次

最 初 に2,3の 断 りを す る。 両 雑 誌 と も基 本 的 に は 各 号 の 目次 に拠 っ た が,号 に よ っ て は本 文 に あ って 目次 に 載 らな い もの が あ る の で,そ れ を追 加 し,連 載 もの に つ い て は付 して い な い 回数 を加 え た り して,見 や す い もの に な る よ う に心 が け た。

原 文 の 旧 字 体 は,氏 名 を 除 い て新 字 体 に 直 した 。

『同 仁 』 は北 海 道 大 学 図 書 館,「 同仁 会 報 』 は 早 稲 田 大 学 図 書 館 所 蔵 の もの を 閲 覧 し,後 者 の 欠 号 分 は 東 京 大 学 東 洋 文 化 研 究 所 図 書 室 所 蔵 の もの で補 っ た 。 目次 を こ の よ う な形 で 整 理 で き た の は,北 海 道 大 学 川 島 真 氏,本 学 中 国 語 学 科 卒 業 生 小 川 博 子 さん,中 国 言 語 文 化 研 究 科 修 士 修 了 三 田 裕 子 さ ん の 協 力 が あ っ て の こ と で あ る 。 記 し て 感 謝 す

る。

同仁

第1巻 第1号(昭 和2年5月 号) 表紙 同仁会漢 口医院本館正面 同仁会総裁久遍宮邦彦王殿下御親筆 写真 記念撮影於久遍宮邸

令旨 昭和2年3月25日 於総裁宮邸 同仁会医院長会議席上に於 ける挨拶

同仁会長伯爵 内田康哉 同席上に於ける口演 外務次官 出淵勝次 同仁会の現状及将来 に対する希望

同仁会副会長 江口定條 雑誌 「 同仁」の更生 を祝す

日華学会理事 山井格太郎 支那人の衛生法 と日本人の衛生法(1)

日本赤十 字社 奉天病 院長 小 川勇 倭村漫筆 韓退之 鄭成功

医学博士 入澤達吉 国際上 より見たる我国の医事衛生 荘司秋白 中華民国に於ける医薬及売薬 に関 して

1

94

6

9

10

4019

同仁会済南医院薬局長 有馬晋吉22 漢口通信(動 乱 と同仁会医院)30

支那旅行 日誌(1)小 野得一郎45 会報42

同仁会事業大要 各医院概況 同仁会の新規事 業 中華民国医師講習会 同仁会医院長会議状 況 同仁会評議員会議事の大要 人事消息 昭和2年1月 以降4月 に到 る本会の重要事項

談叢 一記者62

小説 旅人 加納幽閑子63

同仁歌壇67 編輯室 より68

第1巻 第2号(昭 和2年6月 号) 表紙 同仁会北京医院本館正面

口絵 北京万寿 山昆明湖畔 同仁会本部に於ける 南満医学堂見学団民国学生招待会

朝野の各位に告 ぐ 同仁会の使命

創刊 を祝 して所感 を述ぶ 同仁会の既往

伯爵 内田康哉 有賀長文 野呂寧 小野得一郎 日本留学 中華民国医薬学生懇話会

次第 開会の辞

同仁会の事業に就て 日支医学の提携 学生諸氏の爲に 同上

謝辞

小野得一郎 医学博士 入澤達吉 医学博士 稲田龍吉 医学博士 林春雄 吉岡弥生女史 熊俊

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支那人の衛生法 と日本人の衛生法(2)

日本赤十字社奉天病院長 小川勇24 倭村漫筆(続)閾 江 金陵

医学博士 入澤達吉28 心外録 念写縦横論 歌女能唱曲乎

中国米年幾多 支那旅行 日誌(2) 文化事業の独立

同仁 会 医院通信

北京医院 漢口医院 会報

荘 司 秋 白 小 野 得 一一郎

0ρ004OQu44

済 南 医 院

50 4月20日 以 降 本 会 の 重 要 事 項,各 医 院 の 必 需 品 委 託 購 買 の 状 況,四 月 分 各 医 院 患 者 表,昨 年 度

(9)

中 に於 け る寄 付 金 収 納 額,支 那 動 乱 と本 会 の 慰 問

漢口見聞記 埋め られた銀 新緑抄 俳句

同仁歌壇 編輯 たより

同仁会の目的事業及役員

中 村 大r55 加 納 幽 閑 子58

62 63 64 65

第1巻 第3号(昭 和2年7月 号) 表紙 同仁会青 島医院本館正面

口絵6月7日 本会 に於 ける理事会 万里の長城(八 達嶺)

巻頭言 支那時局 と本会事業1

日支 の共存共栄を実現せ よ 井上敬次郎2 同仁会事業 と支那の時局

医学博十 岡田和一郎4 支那人の衛生法 と日本人の衛生法(3)

日本赤 十字社奉天病院長 小川勇9 倭村漫筆(続)黄 河 聖林

医学博十 入澤達吉15 心外録(続)中 華名産黒蛋 瓜子児的効験

荘司秋白 漢口動乱に直面 して

支那旅行 日誌(3) 天佑

済南地方診療異聞 同仁会医院通信

北京医院 漢 口医院 会報

5月23日 以降本会の重要事項 事の大要 五月分各医院患者表 彙報

樹の霊 盧生の夢 同仁俳壇 同仁歌壇

資 料 支那 に於 け る欧 米人 の文化 事業 中国訳文

留 日中華民国医薬学生懇話会 同仁会之沿革及目的事業 編輯たより

19 安 西 金 平21 小 野 得 一 郎25 野 原 英 麿30 甲 田 半33

35 青 島 医 院 済 南 医 院

36 同仁 会理 事 会 議

秋澤次郎 凌宥花

0248GUO9]444440D

63

同仁会の目的事業及役員

64

第1巻 第4号(昭 和2年8月 号) 表紙 同仁会済南医院本館正面

口絵 香 山双清別駆前庭 に於ける日支名士の会合 日本駐在中国公使江栄宝氏 と筆蹟

巻頭辞 此意気此決心1

支那人 と医療 長野朗2

時局に直面せる同仁会事業に対する批判 同仁会当事者 に希望す 内藤久寛 功 を百年 に期せ よ 国分三亥 断 じて撤退す るな 内 ヶ崎作三郎 同仁の二字 を赤十字旗 と心得 よ 宮本仲 支那人の衛生法 と日本人の衛生法(4)

小川勇

杏林桃窓 安 岡正篤

倭村漫筆(続)青 島 入澤達吉 杏林偉人小伝(1)橋 本綱常氏 長尾藻城 小 山田侍従武官奉迎印象記 漢 口 野原英麿 支那旅行 日誌(4)小 野得一郎 支那の医事衛生 を婦人の双肩に 吉岡弥生

おみ くじの処方箋 明代稗話 緑衣の女 青嵐抄 同仁俳壇 同仁歌壇

同仁会医院通信 済南医院 青島医院 会報

北京 白貰生 凌宵花

﹁Dnb7899136879277912222334444

北京医院 漢口医院 53 6月15日 以降本部並各医院に於ける重要事項 人事異動6月 分各医院患者表

彙報57

同仁会寄付行爲 付 中国訳文59 奥付64

第1巻 第5号(昭 和2年9月 号) 表紙 同仁会青島医院付属医学校 口絵 於同仁会北京医院正面

同仁 会済 南 医 院搾 乳場 の一 部 巻頭辞 支那へ支那へ

支那の現状 芳澤謙吉

対支医療事業の前途 長野朗

同仁会に対する希望 野呂寧

1000U﹁Dl

(10)

整 形 外 科 を紹 介 す 田 代 義 徳17 支 那 人 の 衛 生 法 と 日本 人 の衛 生 法(5)

小 川 勇21 医 師 の 心 理 と患 者 の 心 理 遠 山 椿 吉27 随 聞 随 筆 大 哉 食 乎 唯 壁 居 人29 杏 林 偉 人 小 伝(2)佐 藤 尚 中 先 生 長 尾 藻 城32

医 者 の 随 筆 楠 瀬 日年35

土 豪 劣 紳 の 引 回 は し38

資 料 支 那 に於 け る欧 米 の 文 化 事 業(承 前)40

虎 に な っ た 人 凌 宵 花43

同仁 歌 壇4g 会 報

7月20日 以 降 本 会 に 於 け る重 要 事 項50 人 事 異 動5ユ

支 部 役 員 嘱 託51

7月 分 各 医 院 患 者 表 青 島 医 院52 同仁 会 医 院 通 信 青 島 医 院53

彙 報 極 東 熱 帯 医 学 会 陸 軍 衛 生 部 員 青 島派 遣 東 大 学 生 支 那 見 学 上 海 地 方 の コ レ ラ 上 海 の

自然 科 学 研 究 所 同仁 会 済 南 医 院 職 員 よ り贈 呈 せ し慰 問 袋 本 誌 通 信 主 任 の 嘱 託55

同 仁 会 寄 付 行 為(付 属 規 程)会 員 及 会 員 章 規 程 同仁 会 支 部 規 程,同 上 中 国 訳 文57

同 仁 会 之 沿 革 及 目 的事 業63 奥 付64

第1巻 第6号(昭 和2年10月 号) 表紙 同仁会済南医院新築病棟の一部

口絵 於同仁会済南医院前庭 北京正陽門外 巻頭辞 山極博士の提案

最高意義 に徹する同仁会事業 支那の動 き

肋膜炎の話

民国に於ける癌の調査 に就て 杏林桃窓(4)胎 性如何 倭村漫筆(続)広 東

杏林偉人小伝(3)松 本順先生 乞 食礼 賛

民国の長老趙爾巽の死 煙館一瞥

金風抄 同仁俳壇 同仁歌壇

秋澤次郎 莫愁楼主人 小川勇 山極勝三郎 安 岡正篤 入澤達吉 長尾藻城 瀧 出伊 平

双山楼主人

1249137035601222333344

小 説

胡 媚 娘 凌 宵 花42

真 昼 金 森 多 可 夫47

会 報8月15日 以 降 の重 要 事 項8月 分 患 者 表 人 事 往 来51

医 院 通 信 漢 口 医 院 青 島 医 院54 彙 報55

北 京 交 民 衛 生 試 験 所 沿 革,同 上 中 国訳 文56

そ の 日草 墨 堂58

同 仁 会 の 沿 革 及 目 的事 業62 奥 付63

第1巻 第7号(昭 和2年11月 号) 表紙 同仁会北京医院施療所 の…一 部 口絵 於天津段棋瑞氏邸

致仕有作(医 学博十入澤達吉氏) 巻頭辞 太平洋会議 と支那問題

日支 親 善 と同 仁 会 事 業 支 那 国 民 性 の い ろ い ろ 肋 膜 炎 の 話

狸 紅 熱 と其 の 治 療 血 清 に就 て 丹 波 薬 学 博 士 を 弔 す

雲 南 に於 け る 医 療 事 業 杏 林 桃 窓(5)(6)

随 聞 随 筆(2)医 師 か 医 工 か

小豆澤英男 長野朗 小川勇 秋山猛

莫愁楼主人 安岡正篤 唯壁居人

東 京 帝 国 大 学 医 学 部 学 生 支 那 旅 行 記

(一)出 発 ま で に(二)青 島 に 向 う

(三)青 島 の 街(四)支 那 料 理(五)苦 力 (一)守 屋 博(二,三,四,五)松 田勝 一 資 料 支 那 に於 け る 医 学 校48

深 秋 抄 同仁 俳 壇52 同仁 歌 壇53

会 報

9月10日 以 降 の 重 要 事 項54 人 事,異 動,往 来54

9月 分 各 医 院 患 者 表55 医 院 通 信56

派 遣 軍 隊 を迎 へ た る 当 時 の 済 南 済 南 医 院 に 収 容 せ る 軍 隊 の 患 者 済 南 医 院 集 談 会 開催 漢 口 医 院 長 武 正 博 士 の 書 翰 山 東 地 方 の 悪 疫 と 同仁 会 医 院

中 国 医 師 講 習 会58

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(11)

講 習 日程 並 同科 目,講 習 会 要 領 彙 報60

中 華 民 国 医 薬 学 生 秋 季 懇 話 会61 故 山 内 富 氏 の 一 周 忌61

そ の 日草 編 輯 子62

奥 付65

第1巻 第8号(昭 和2年12月 号) 表 紙 同 仁 会 青 島 医 院 第 二 病 棟 の …部

口絵 中 国 医 師 講 習 会 記 念 撮 影(於 青 島 医 院) 同 仁 会 済 南 医 院 職 員 の 乗 馬 会

巻 頭 辞 昭 和2年 の 回顧1

満 蒙 奥 地 の 医 療 施 設 に 就 て 尾 池 禺 一 郎3 恩 師 山極 先 生 の 癌 の 『テ ー マ 』 に 就 て

牧 野 融

青島に於 ける医療機 関

学生の排 日

中華民国医薬学生秋季懇話会 挨拶

誼括辛 口演 同 挨拶

口演 同 謝辞

同 同

中華医薬学会々員招待

廣瀬徹夫

小野得一郎 金子直 秦佐八郎 岡田和一郎 稲田龍吉 田代義徳 松本高三郎 李祖蔚 載神庇 熊俊

杏林偉人小伝(4)長 与専斎先生 長尾藻城 随聞随筆(3)医 師の精神 的権威 唯壁居人 故丹波博士 を懐ふ 小野得一郎 東京帝国大学医学部学生支那旅行記

(六)青 島の一夜 鈴木重大

(七)李 村行 平山勝司

(八)支 那見学旅行漫記 近藤千樹 (九)青 島か ら済南へ 三木威勇治 (一〇)済 南 医 院 に於 ける生活 断片

久保久俊 (一一)済 南 の名所 を見る 守屋博 中国医師講習会記事

医院通信 漢 口通信 北京通信

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滞京感想 野原英麿

彙報 会報

昭和2年10月15日 以降の重要事項 入事往来

計報

10月分 各医院患者表 同仁歌壇

新刊紹介 同仁 を回顧 して 奥付

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61 62 62 63 64 65 蘇 水66

71

第2巻 第1号(昭 和3年1月 号)

口 絵 東 方 文 化 事 業 上 海 委 員 会 総 会(於 帝 国 学 士 院)中 国南 京 下 関 馬 頭 之 景

刊 頭 辞 昭 和3年 を迎 ふ1

対 支 文 化 事 業 に就 い て 岡 部 長 景2

支 那 の 将 来 長 野 朗12

肺 結 核 の 話 小 川 勇15

漢 法 医 学 と吾 国 の 医術 石 田 保 次26

新 年 の 同仁 野 呂寧30

杏 林 談 叢(地 球 上 の狸 紅 熱 分 布 と濃 度 及 其 説 明) 豊 田 太 郎31 故 丹 波 博 士 の こ と ど も 遠 山 九 鱗32

支 那 の 正 月 羅 覚 僧34

張 三李 四 録 故 山 内 富(遺 稿)37

昭 和3年 同慶 帖

蘭 亭 修 襖 序 禿 兵 衛41

資 料 本 邦 在 留 中 華 民 国 人 分 布 表46 東 京 帝 国 大 学 医 学 部 学 生 支 那 旅 行 記

(12)北 京 郊 外 の 見 物 山 本 鉄 城48 (13)八 達 嶺,十 三 陵,湯 山 近 藤 干 樹51

(14)天 津 行 鈴 木 重 大53

会 報

昭 和2年 中 に於 け る 本 部 及 各 医 院 の 重 要 事 項 54 昭 和2年 中 に於 け る本 部 諸 会 議59

同上 人 事 異 動60 彙 報61

同 仁 俳 壇62 同 仁 歌 壇63 奥 付64

(12)

第2巻 第2号(昭 和3年2月 号) 口絵 青島医院長へ扁額寄贈の光景

総裁宮殿下御染筆(入 澤副会長所蔵) 巻頭辞 医療事業の使命

日華両国の精神的融合は可能な りや 張準3 文化事業 に対する支那人の思想 と同仁会の事業

風間阜6 肺結核の話

漢方医学 と吾医術 医者の値段 杏林談叢

飛 んで もない盲腸炎 所謂経験

看護婦の働振 りと待遇 昭和2年 吾医界の回顧

小 川 勇 ユ2 石 田保 次20 唯 壁 居 人25

上 田春 治 郎28 竹 林 平 一 郎29 阿 部 龍 夫30 莫 愁 楼 主 人31

東京帝国大学医学部学生支那旅行記

泰山紀行 大井上龍夫 山本欽三郎

大連 奉天 登倉裕徳

同仁卓上座談(昭 和2年12月 於東京会館) 資料 本邦に於 ける医師の分布

学費補給中華民国留学生調 民国医学者の視察報告 会報

昭和2年12月 以降の重要事項 人事異動 往来

昭和2年12月 各医院患者表

医院通信 北京医院 青島医院 済南医院 彙報

詞藻 詩壇/歌 壇/俳 壇 奥付

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第2巻 第3号(昭 和3年3月 号)

口絵 同仁会医院事務長会議(於 本部楼上) 漢 口医院設立五週年祝賀(於 漢口医院門前) 巻頭辞 医学 と国境

事務 長会議 に際 し本誌の希望 肺結核 の話(3)

杏 林談 叢

医業の本質 と医業の将来 医業の行 く可 き途

医療国営の大勢 は止むべか らず

19d4

郎勇一川旦寸トぞノ野小

佐 々 木 秀 一14 宮 島 幹 之 助15

湯 澤 三 千 男16

正に更始一新の機 広東共産党擾乱記 熱河往診記 倭村漫筆 北京

日本 の国花 と支那の国花 桜花=日 本,牡 丹=支 那 気転丸毒下 し

資料

中国医学大会記事 北京中央防疫処の概況 会報

本会評議員の嘱託

佐藤正

生島捨次郎 入澤達吉

70ρ0ドD1190

秋 澤 次 郎38 唯 壁 居 人41

日本赤十字社救護事業 と本会済南医院の活動

北京交民衛生試験 所補助金下付 同仁会医院事務長会議 開催 中国医学会大会

垂井医長 と学位

東方文化事業委員の視察 漢口医院対 田中長次訴訟事件 済南医院杉本医長の}海 出張 済南医院集談会

人事異動 往来 計報 昭和3年1月 分医院患者表 医院通信 漢口医院

彙報

詞藻 詩/歌 奥付

第2巻 第4号(昭 和3年4月 号) 巻頭辞 中国文月刊医学雑誌刊行

事務長会議 に於ける訓示 伯爵 内田康哉 同仁会医院事務長 に対する希望

子爵 岡部長景

支那の南 と北 長野朗

変 りつ ・ある支那 と同仁会の事業

莫愁榎主人 同仁 会 の幹部 に憩 ふ 上 田恭輔

肺結核の話(4)小 川勇

杏林談叢

膓窒扶斯 と肺結核 近藤見長 小児の採血に就 て 皆見省吾

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51

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(13)

アネステヂ ン創製者 人間製造

支那診療異聞

随聞随筆(5)医 師 と政治 仙薬の話 神仙思想 と不老長生 会報

事務長の医院診察 事務長招宴

北 村 信 治24 松 村 松 年25 牧 野 融34 唯 壁 居 人36 米 田 華 紅40

同仁会済南医院に於ける赤十字救護事業 留 日中華民国医薬学出身者名簿刊行 民国留学生 に種痘施行

青島医院集談会 本会定例評議員会開催 人事異動/人 事往来/計 報 昭和3年2月 分医院患者表 彙報

小説 涙 吉井勇

詞藻 詩/歌 奥付

第2巻 第5号(昭 和3年5月 号) 口絵 満州医科大学 中国学生見学団招宴

同仁会青 島医院構内桜の通 り 巻頭辞 本会関係者諸賢 に憩ふ

同仁会評議員 となるに当 りて 木村徳衛

医育の現在及将来 田代義徳

支那 に対する阿片の害毒防止運動 菊地西治

肺結核 の話(5)小 川勇

杏林談叢

ワ イ ル氏 病 の 経 験 麻 疹,予 防 注 射,過 信 油 断 の な らぬ 胸 痛 支 那 薬 草 奇 談 何 故 の 医 科 志 望 ぞ 偉 い 人 よ り も善 い 人 武 昌遊 記

詩 は心 霊 の 表 現 な り 日本 医 学 会 総 会 記 事

33344456781904444444444556944731

松 本 俊 胤22 楢 林 篤 三23 横 森 賢 次 郎24 上 田恭 輔25 唯 壁 居 人29 福 島 四 郎32 莫 愁 楼 主 人34 辻 澤 菖 水37 日本 内 科 学 会(第25回)/

日本 外 科 学 会(第29回)/日 本 皮 膚 科 学 会 (第28回)/日 本 生 理 学 会40

会 報

中 国 文 医 学 雑 誌 の 刊 行44

満洲医科大学中国学生見学団招待44

満州医科大修学旅行団の済南,青 島医院視察

済南医院に於 ける赤十字救護事業 済南医院集談会

医院通信 漢 口医院 済南医院 人事異動/人 事往来/計 報 昭和3年3月 分各医院患者表 彙報

詞藻 詩/歌 同仁会の歌

宣和遺事の一節(小 説) 編輯室 より

奥付

44 44 44 45 46 47 48 56 無 着58 紫 楼51

fiO 63

第2巻 第6号(昭 和3年6月 号) 口絵 同仁会済南医院全景

巻頭辞 我等の使命

日本留学生 中華民国医薬学生懇話会

所感 北島多一

民国留学生に対する希望 慶松勝左衛 門 年齢別に観 たる耳鼻咽喉疾患 細谷雄太

偶感 青江政太郎

真の日本 を理解せ よ 肺結核の話(6)

東洋医学の確立 を期せ よ 上田恭輔氏 に質す

済南の動乱 と同仁会済南医院 医苦断片

資料 国際聯盟保健機関の活動 会報

済南医院の活動 同仁会医学雑誌の発行 中華民国医薬学生春季懇話会 本部職員の江の島紀行 青島医院桜会/同 院集談会 済南医院看護婦養成所卒業式 昭和3年4月 分各医院患者表 彙報

詞藻 詩/歌 東京よ り 奥付

吉岡弥生 小川勇 辻澤菖水 飯島庸徳

唯壁居人

1

55145646936111122233

50 50 50 53 54 55 56 57 60 一 記 者62

65

(14)

第2巻 第7号(昭 和3年7月 号)

口絵 日本留学中華民国医薬学生懇話会/景 山 巻頭辞 所感一則

同仁会漢文医学雑誌序 注栄宝 資本主義の医業に及ぼ したる影響 鈴木直巳 仁述の新旧観念

支那人 に多 き外耳の疾患 血管病 と血圧 との関係 第32回 同仁会済南医院集談会

麻疹の異常経過の数例 痘瘡異常例

『 カラアッアール』に就て 人類下顎過剰歯に就 て

唯壁居人 林外男 田中吉左衛門

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荒 木 三 郎16 伊 吹 月 雄17 杉 本 浩 三17 井 上 忠18 膓 『チ ブ ス』 の 予 防 接 種 との 関 係 に就 て

四 方 京 一19

肺 射 創 の 一 例 村 上 徳 治20

戦 時 外 科 一 般 牧 野 融20

名 医 葉 天 士 の 逸 事 上 田 恭 輔36 資 料 山 東 省 産 漢 薬 に就 て 小 林 清 治40 会 報

同 仁 会 医 学 雑 誌 好 評/訳 書 刊 行 会49

同 仁 会 済 南 医 院 に於 け る 日本 赤 十 字 救 護 事 業 49 黎 元 江 氏 弔 問/本 会役 員 会 に於 け る 支 那 視 察 談 /医 院 通 信 北 京 漢 口 済 南50

人 事 異 動53 人 事 往 來54 計 報55

昭 和3年5月 分 各 医 院 患 者 表55 彙 報56

詞 藻 詩/歌58

華 文 同仁 会 医 学 雑 誌 発 行 之 趣 旨60

東 京 よ り 一 記 者62

奥 付65

第2巻 第8号(昭 和3年8月 号 〉 口絵 済南医院収容第6師 団傷病兵救護状況

青島医院 日光浴病棟,青 島海水浴場 同仁会の事業精神 小野得一郎1

列国の対支文化政策 長野朗3

支那動乱 と同仁会事業 禾恵学人9 戦時外科の一般(承 前)牧 野融12

健 康 の所 有 権 は何 人 か 唯 壁 居 人19 欧 米 を 回 顧 して(1)小 川 玄 々 子22

済 南 余 談 通 信 子30

時 局 と北 京 医 院 の苦 心 通 信 子32 資 料 国 際 聯 盟 保 険 機 関 の 組 織 と其 出版 物

国 際 聯 盟 事 務 局 東 京 支 局35

済 南 記 行 墨 堂44

会 報

同仁 会 医 学 雑 誌8月 号 発 行49

同仁 会 済 南 医 院 に於 け る 日本 赤 十 字 救 護 事 業/

長与理事の消息/済 南医院慰問 医院通信 青島 漢口 済南 人事/慶 事

計報

昭和3年6月 分各医院患者表 彙報

北京 日記よ り 詞藻 詩/歌 東京 より 四行欄 奥付

49 50 51 52 53 54 M子57

61 63 66 68

第2巻 第9号(昭 和3年9月 号)

口絵 不 戦 条 約 調 印 帝 国 全 権 委 員 本 会 会 長 内 田 伯 同仁 会 理 事 会(7月30日 於 如 水 会 館)

巻頭言 不戦条約の締結

事前療法

日本医学の発達史 在支 日本婦人の覚悟 満州視察余録 長与博士訪問記 貧乏国民の健康維持費 欧米 を回顧 して(2) 杏林談叢

支那に於 ける狸紅熱の縁起 再発せる産褥熱

意外 な礼状 飛行療法 済南余聞 資料

会報

1 山 口 察 常2

方 石 珊4 千 鳥 女 史10

長 野 朗12 一 記 者14 唯 壁 居 人16 小 川 玄 々子21

楊 鳳 鳴18 村 上 保18 大 久 保 九 平19 逸 名20 通 信 子24

国際聯盟保険機関の組織 と其出版物

国際聯盟事務局東京支局26

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