女性表象の転換 : 一九三〇年代アメリカのFSA写真 の分析から
著者 犬島 梓
雑誌名 評論・社会科学
号 77
ページ 65‑98
発行年 2005‑10‑20
権利 同志社大学社会学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000011865
女 性 表 象 の 転 換
││一九三〇年代アメリカの
FSA
写真の分析から││犬 島 梓
︵文学研究科新聞学専攻博士課程後期︶
はじめに
本稿では一九三〇年代のアメリカ合衆国が行った写真プロジェクトが残したドキュメンタリー資料の分析を通じて︑
ドキュメンタリー写真に描かれる女性像の特性を︑二〇世紀にいたるまでの女性図像史に照らし合わせた上で明確化す
ることを目的としている︒
一九三〇年代のフランクリン・ルーズベルト政権下︑ニューディール政策時代に設置されたFarmSecurityAdministra-
tion︵農業安定局⁚以下FSA︶は︑下層農民の救済を目的として農村の惨状およびその復興を記録するためにプロの
︵1︶写真家を雇い入れ︑ドキュメンタリー写真の一大プロジェクトを発足させた︒この部署は貧困にあえぐ農民達を救済す
るために彼らの移住を推進し︑彼らの再定住を促すことをその任務としていた︒FSAの情報部の一セクションが歴史
資料部である︒そして︑後に資料部は七七︑〇〇〇点にも及ぶ映像資料を残すことになる︒そこではドロシア・ラング
︵DorotheaLange︶やウォーカー・エヴァンズ︵WalkerEvans︶といった有能な写真家による資料映像・広報映像作りが
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行われた︒FSAで制作された写真群は︑当時の情報媒体に多数使用されるとともに多くの論議を呼び︑現代において
もアメリカ人が一九三〇年代という一時代を思い起こす際に︑まず連想される図像となっている︒
今や︑膨大な資料的価値と残された作品の完成度からドキュメンタリー写真の金字塔として語られるFSAプロジェ
クトだが︑制作された写真群では︑男性と同じく数多くの女性が被写体として表現されている︒注目すべきは︑それら
女性像の多様性であり︑力強さである︒そしてFSAプロジェクトで制作された作品で︑もっとも大きな反響を起こし
たとされるのも﹃移民の母﹄︵MigrantMother︶︵図1︶という一枚の女性像であった︒
多くの先行研究が指摘するように︑二〇世紀にいたるまでの女性を巡る図像史には偏りがあったといわざるを得な
い︒後に本稿で詳しく分析するように︑女性の表象は︑男性の制作者による男性のための﹁みられる対象﹂﹁利用する
対象﹂として描かれる長い歴史を経てきた︒その伝統
はFSA写真が作成される以前︑一九二〇年代にして
も︑雑誌や新聞︑新しいメディアである映画のなかで
も脈々と受け継がれていた︒その伝統のなかでFSA
写真が写した女性とはいかなるものだったのか︒そし
て︑なぜ﹃移民の母﹄は︑それ以前には見ることがで
きなかった︑女性が主役になった﹁歴史の瞬間﹂の図
像として︑影響をもちえたのだろうか︒
最終的には︑﹃移民の母﹄に象徴されるドキュメン
タリー写真での女性の描かれ方が︑それまでの女性図
像史で用いられてきたレトリックと比較してどのよう
図1 移民の母(Migrant Mother 1936)
女性表象の転換
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な位置づけにあるのかを明らかにしながら︑女性表象のメディアとしてのドキュメンタリー写真の特性を検証する︒
1FSAと時代背景
まず︑FSAという機関が設けられた時代と社会︑政治について知らねばならないだろう︒
二〇世紀初頭のセオドア・ルーズベルト大統領の就任式とともに︑アメリカには進歩的な改革の時代が訪れた︒一九
二九年の大恐慌から引き起こされた不況は一九三二年にかけて悪化し︑都市には失業者があふれた︒一方︑地方では長
年にわたる旱魃と不作の被害に苦しむ農民の反乱が拡大していた︒つまり︑第三二代合衆国大統領フランクリン・ルー
ズベルト︵以下FDR︶の就任式は︑都市から農村にいたるアメリカ全土が未曾有の危機的状態に追い込まれている状
況下で行われたのである︒国民の大半が将来への不安と深い絶望感に襲われるなかで︑一九二〇年代の娯楽と喧騒の時
代は跡形も無く消え去っていた︒そんな失意の時代に押し寄せてきたのが︑革新主義運動︵プログレッシブ・ムーブメ
︵2︶ント︶への回帰とも見える自由主義改革運動だ︒
改革運動家達は社会に蔓延していた不正や不均衡を是正するために︑政府に対して労働法︑社会福祉法の整備を要求
し始めた︒彼らの思想の特徴は︑既存の政府への糾弾や新しい政治運動の要求ではなく︑あくまで政府介入のもとでの
秩序作りを求めたところにある︒他方では︑労働運動がかつてないほどに拡大し︑都市部に限らず農村部においても労
働者達は組織化されていった︒ニューディーラー達で構成された時の政権は︑人々の間に湧きあがっていた改革に対す
る衝動を後押しする方向に動いた︒労働組合の結成やストライキといった労働者の権利を認めるワグナー法を制定する
など︑資本側より一般大衆の要求に応えるほうに力点を移したのである︒
政府の方針が柔軟だったのは︑二通りの理由がある︒ひとつには︑不況によって失われた国民の士気を取り戻す必要
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があったから︒もうひとつには︑あらゆる階級の有権者達が現状に対して強い不満を抱えていたなかで︑彼らから相反
する要求がなされることも度々だったため︑政府は要求を調整し︑最小限の犠牲の下で人々の支持を維持しながら政治
体制を確立しなければならなかったからである︒FSA︵FarmSecurityAdministration 農業安定局︶は富裕層と貧困
層︑改革派と保守派など様々な勢力が︑かつて無いほどに活発に主張を叫ぶ時代に政治運営を迫られたFDRが作っ
た︑いわば政府の広報機関であった︒
また︑女性をめぐる社会に目を向けてみれば︑FSAが設立された時期が︑一九二〇年に参政権を獲得した婦人達が
次なる段階として男女同権を要求し︑社会改革を望む声を強め始めた時期と重なるという点も大きな意味を持ってい
る︒この時期に女性改革運動が進んだ理由としては︑女性が社会進出をしたということと︑マス・メディアの発達によ
り新聞・テレビが普及し︑女性達でも容易に政治や社会に関する情報を得られるようになったということが挙げられ
る︒しかし︑社会において女性が多様な姿を現す兆しを見せ始めた時代に︑FDR政権がとった方針は﹁母性主義﹂的
福祉政策であった︒一九二四年の移民法制定以降︑増え続ける移民教育において︑政府は教育者たる母親の改革から着
手したのである︒たとえば︑母性保護を目的とした母親の労働時間の制限︑児童労働の禁止︑寡婦に対する援助などが
法制化されるようになった︒
加えて︑同時期に行われたのが﹁アメリカ化︵Americanization︶運動﹂である︒三〇年代の革新主義的社会改革運動
は︑貧しい労働者として都市にエスニック・コミュニティを築きつつあった大量の移民に対する﹁アメリカ化﹂を重要
な課題とした︒家事・育児といった領域において︑アメリカ的生活水準を達成させるための移民教育を目的としたこの
運動の対象者もまた︑女性であった︒特に育児は︑貧困や犯罪などの社会問題の根源となるものであるから慎重にしな
ければならない︑規則正しい睡眠と食事のしつけが肝要であると主張された︒両政策に共通して用いられた手法となっ
たのが︑イラストや写真を多用したパンフレットの配布やポスターの掲示である︒まだ識字率が高いとはいえなかった 女性表象の転換
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移民家庭の母親達にむけ︑視覚的教育は何よりの手段と考えられたのである︒改革の流れのなかにありながら︑その一
方で女性は︑教育される対象として政府から送り出される﹁理想的母親像﹂教育に日々さらされていたということにな
るだろう︒一九三〇年代という時代を考えるならば︑広報機関として設置されたFSAにおける女性図像もまた︑﹁理
︵3︶想的姿﹂を届けるメディアとしてプロパガンダ的役割を担った事は否定できないだろう︒
もう一つ︑ニューディール政策で注目すべきなのが︑貧困にあえぐ芸術家への救済措置として一九三三年に採られた
WPA︵WorksProgressAdministration⁚公共事業促進局︶によるFAP︵FederalArtProject=連邦美術計画︶である︒
計画は﹁一九四三年に廃止されるまでには︑三︑六〇〇人の美術家が一︑〇〇〇を越すアメリカの都市で一六︑〇〇〇
︵4︶点の美術作品を創り出す作業に参加していた﹂︒またWPAの美術家の多くが政治に対して積極的で︑美術を通しては
っきりとした政治的なメッセージを伝えようとした︒一九三六年には三〇〇人以上の芸術家︵デザイナー︑写真家︑画
家︑彫刻家︶が︑反ファシズムを広めるための芸術家会議すら結成した︒
写真家も含めた芸術家達にとって︑自らの表現活動と当時の政治や社会運動は全く乖離したものではなかったのであ
る︒それどころか︑社会改革のための宣伝活動が表面上の活動に現れていなかった場合︑彼らは非難すら受けた︒芸術
家達の制作活動は︑その芸術的価値のみならず︑改革の手段としてふさわしいかどうかという基準によっても社会から
評価されていたのである︒当時の受け手である社会の人々の間に︑改革のための図像を待ち望む空気が醸成されていた
ということができるだろう︒すなわち︑FSA写真とその象徴とみなされる﹃移民の母﹄が作成された時代︑アメリカ
に生活する人々には
!自分達の現実
"を図像が影響力持持っていたのでつをを実映し︑その現を力改革するようなあ
る︒そうした一九三〇年代における図像の消費者たちの反応を見る限り︑﹃移民の母﹄が政府による啓蒙としてのみ︑
人々に受け入れたというのは考えにくい︒では︑当時の人々は具体的にどのような図像文化に取り囲まれていたのだろ
うか︒
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一九三〇年代︑改革の波が押し寄せたのは︑政治の世界だけではなかった︒アメリカ絵画の世界においても変化の風
が吹いていた︒写真の登場が︑絵画の分野における保守・改革いずれの立場の人々にも大きな影響を与えた一方で︑写
真もまた︑その誕生から現在に至るまで絵画の影響を強く受け続けている︒写真と同じく図像文化を人々に提供すると
いう立場にある絵画は一九三〇年代︑何を描いていたのだろうか︒
一九三〇年代に起こったアメリカ美術の改革の流れは︑その後のアメリカ文化にとっても︑大きな意味を持ってい
た︒それまでのアメリカ絵画はヨーロッパの流行や手法︑技術を最上のものとし︑彼らの作品をまねることに価値を見
出していた︒その結果︑一九世紀末のアメリカではヨーロッパより少し遅れて象徴主義絵画が全盛を誇っていたのであ
る︒しかし︑大恐慌の時代が訪れ︑アメリカの芸術家の多くは︑﹁政治と経済の危機によって︑国の文化的な主体性を
︵5︶明らかにする必要性を感じ始めた﹂︒そこで生まれたのは模倣をやめて︑新しいアメリカ的様式を生み出そうとする試
みであった︒また︑社会システムがそれまでの自由放任主義制度から政府による厳しい統制へと移り︑人々の生活も都
市化・機械化へと劇的に変化していくなかにあって︑多くのアメリカ人は古い生活様式に深い愛情を持っていた︒彼ら
︵6︶はいつしか︑﹁何らかのかたちで後世に記憶を残したいと考えるようになった﹂︒
こうして︑二〇世紀のアメリカ美術は少なくとも何らかの目的のために奉仕するか︑あるいは道徳的な向上のために
使命を持つべきだとの意識が強まっていったのである︒その結果︑ヨーロッパから伝わった抽象美術は野卑な異国もの
として受け入れられ︑レアリズム︵写実派︶こそ純粋にアメリカ的な表現だとする風潮がうまれた︒レアリズム絵画と
ドキュメンタリー写真との間には︑興味深い共通点がある︒ともに︑その起源が新聞報道にかかわっているという点で
ある︒両分野の芸術家達は新しい芸術様式を作り出すにあたって︑その祖先を報道画家に求めた︒アメリカン・リアリ
ズムは︑二〇世紀初頭に社会主義者でもあるロバート・ヘンライ︵RobertHenri︶と新聞の報道画家であったジョン・
︵7︶スローン︵JohnSloan︶らによって始められた︒彼らが絵画で扱ったのが︑都会に点在するスラム街や暗黒街の実態で 女性表象の転換
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あったことも︑ニューヨークのホームレスを追いかけたジェイコブ・リース︵JacobRiis︶を祖とするアメリカン・ド
キュメンタリー写真の系譜と共通点している︒一九三〇年代︑アメリカ美術として熱狂的に消費されていたのは︑新聞
の挿絵や政治風刺漫画に源を発する挿絵美術と呼ばれるものであったのだ︒
リアリズム絵画が好んでモチーフとしたのは農業従事者や工場労働者達である︒画家達は
!真実の敬虔さ
"を描くた
めに︑土と労働に親しみ︑より自然に近い暮らしをする貧しい彼らを好んでモデルとしたのである︒政府のための記録
という目的を持っていたとはいえ︑農業従事者や工場労働者というモチーフはFSAの大半を占める被写体でもある︒
一九三〇年代という苦難の一時代︑画像を作り上げる者達の間には
!貧困
"カ描を実真の会社リをメア︑てしと材題き
出そうとする共通の目的があったのではないだろうか︒また︑リアリズム絵画をアメリカらしい美術として受け入れ︑
賞賛したアメリカ国民の間には︑ドキュメンタリー写真のリアリティや改革の手段としてのドキュメンタリー写真の価
値を認めるだけの土壌が育まれていたと考えられるのではないだろうか︒
出版界に目を転じてみれば︑その仮説はより確かな説得力を帯びる︒この時代がFSAだけでなくドキュメンタリー
写真全体の隆盛期だったことを表すように︑一九三〇年代には写真と文章とを併用する
!ドキュメンタリー・ブック
"
︵8︶と呼ばれるジャンルが一気に活気づいた︒Scott︵1973︶は︑一九三七年のマーガレット・バーク=ホワイト︵Margaret Bourke-White︶とアースキン・カルドウェル︵ErskineCaldwell︶の共著によるYouHaveSeenTheirFacesの出版を契機
︵9︶に︑﹁ドキュメンタリーのジャンルにおける︑
!才能乱舞の五年間
"実らか年七三九一︑際︒がるいてしと﹂たっま始の
五年間に︑ドキュメンタリー・ブックが数多く出版されたのである︒一九三〇年代は
!ドキュメンタリー
"という分野
が︑商売としても成り立つほど人々の注目を集めうる時代であったといえるだろう︒では︑そのように現実の社会を描
き出す画像が人々に好意的に迎えられた時代に設置されたFSAプロジェクトとはいかなる機関だったのだろうか︒そ
してFSAはどのように図像を制作していったのだろうか︒
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2ロイ・ストライカー︵
Roy S tryker
︶とドキュメンタリー写真上記のように︑一九三〇年代は様々な要因が重なり合うことで社会改革のためのプロパガンダが必要かつ可能な情勢
︵
家ブ二〇世紀初頭のジェイコ・れリースら初期の記録写真ばな写うった︒そこでFSAの真にが果たした機能は︑言あ !︶
達が︑社会改革の一環としてなしえようとしたことの最高点に達するものであった︒すなわち︑FSA写真プロジェク
トの設立は自らの社会意識を視覚として形にし︑大衆のなかに浸透させようと彼らが試み続けたことへの答えであった
のだ︒しかし︑FSA設立は︑政府のやり方に反抗的な報道機関や議会勢力を押しのけて政策を強化すること︑また全
国民に対して︑失われた政府の信頼を回復しFDRの政策が最良であることを納得させるという政治目的も併せ持って
いた︒では︑FSAによる社会改良と政府広報はどのようにしてなされたのだろうか︒
FSA写真が︑現在﹁国家的財産﹂と呼ばれる一七〇︑〇〇〇点もの映像資料を作り︑単なる政府政策のファイル以
上の意味を今に残しているのは︑一人の統括者の力によるところが大きい︒その人物︑コロンビア大学経済学部教授で
あったロイ・ストライカーは一九三五年に︑ニューディール立案者の一人で彼の師であるレックスフォード・タッグウ
ェル︵RexfordTugwell︶の指示によって歴史部門の責任者に就任した︒ストライカーは︑学生時代にタッグウェルの教
科書の写真編集に携わるなかで︑文書にこめられた思想を効果的に伝えるために写真を用いる経験を積んでいたのであ
る︒
当時のニューディーラー達は革新主義の思想を強く受け継いでいて︑政府による政策にも革新主義の思想が色濃く反
映されていた︒それは︑進歩や近代化には労働者階級の価値の再教育や近代化への適応が不可欠だという思想であっ
た︒言いかえるならば労働者の価値観や思想は︑技術家主義︵テクノクラート︶のエリート達の思想と似通ったもので 女性表象の転換
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あることが不可欠であるという考え方である︒そして︑その改革の終着点は全ての社会階級を新しい
!大量消費経済
"
に向けて調整することにおかれていた︒タッグウェルは政策のなかで革新主義に基づいた産業システムを推進した側の
人物である︒ストライカーは師の抱く革新主義的な思想から強い影響を受け︑それをFSAプロジェクトの写真概念に
︵
適応させていた︒ !︶
早くからルイス・ハインの作品に注目し自身の著書に用いていたストライカーは︑写真の訴求力が持つ可能性の大き
さを予見していた︒政府主導による農村生活の記録資料作りという︑新しい試みに対して彼が雇ったのは︑ウォーカー
・エヴァンズやドロシア・ラングといった︑感受性の豊かさや能力︑大志といった面で当時の写真代理店所属の写真家
︵
は作議論しあい︑個々に作品りいを追及することでFSAに互真がるかに凌ぐ一一人の写家を達であった︒彼ら全ては "︶
審美的・技術的にも高い水準を設けることができたのである︒彼はあらかじめ撮影対象に関する詳細なデータも提供し
た上で必要な映像に合う撮影場所に写真家達を派遣した︒また︑写真家達に撮影状況を記録させることを原則としてい
︵
とに大きな制約を与えることなしった︒それは︑写真家達て対真にこの二つの原則は︑写家たの制作への動機と行動︒ #︶
︵
の視︑FSA写真に一貫した線方をもたらした︒これまでで一衝るライカーとの間に度々突スを生じさせることになト $︶
FSAに関する研究の多くが︑ストライカーによる写真家への指示と情報提供によって︑正確で深みのある制作が可能
︵
になったとしている︒ %︶
ストライカーの下で計画的かつ綿密に制作されたFSAの写真群は︑実際に数多くのメディアに流され︑多くの国民
︵
︑らジャーナリスト︑編集者とかのコネクションを形成しら階ス段に触れるようになる︒トのライカーは計画の初期目 &︶
マスコミ・出版業界に広範なネットワークを確立した︒その努力によって︑確実に国民は多くの機会を通じてFSAの
写真に触れることになったのである︒FSA写真の媒体登場を例に挙げるならば︑まずFSA成立元年である一九三五
年︑一月から五月までの五ヶ月間で九六五枚が政刊行物に掲載された︒ひと月に一九三枚のFSA写真が政府によって
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持ち出されたことになる︒一九三六年には︑初めて政府外刊行物であるSurveyGraphic誌にFSA写真が掲載され
︵
DigestodayFortune,TTime,BNation’susiness,Literary︑紙衆大はっいと︑たー末カそしてその年またでに︑ストライ︒ !︶
といった雑誌への掲載に成功するとともに︑現代美術館での展示︑民主党大会での写真展を含む二三回のFSA写真展
覧会を開催した︒それに加えてFSAの写真群は一九四〇年までに一二冊の書籍として出版されていた︒
FSAの写真が人々に与えた影響を正確に測るのは難しい︒だが︑ストライカーの努力による多様な媒体における広
報活動の影響にとどまらず︑現在もなお絶えることなくこれらの写真がアメリカ国民の生活に入り込み︑三〇年代のイ
︵
えす当時の国民のFDRに対る報支持に何らかの影響を与が情かるジを形成していることらメも︑これらの写真によー "︶
たことは否定できない︒戦時下のドイツほどにあからさまでないにしろ︑人道的で救済の時代とされるニューディール
においても︑プロパガンダを意図として写真が用いられていたのである︒
しかし︑ここでひとつの疑問が持ちあがる︒なぜ写真なのか︒当時︑同じ視覚媒体である映画は︑大衆文化の象徴的
︵
#︶︵
カプられるような映画によるロにパガンダは︑なぜアメリ見ツっイとして絶大な人気を誇て娯いた︒ソヴィエト︑ド楽 $︶
︵
%︶︵
のを存在し︑ニューディール解き説するプロパガンダ映画は動ろな功を収めなかったのだうでか︒確かに︑そのよう成 &︶
制作も行われていた︒一時期は︑大手映画会社が与野党への親和性をはっきりと打ちだしたり︑映画のなかにそういっ
た思想を反映させた映像が差し込まれたりもした︒しかし︑アメリカにおける映画はその誕生当時から︑あまりに商業
性が強かった︒また︑ニューディール後期にFDRも政府主導で合衆国映画サービス︵USFS︶を創設し︑映画制作
に着手した︒しかし︑税金で行われる映画政策に対しての反発は強く︑USFSは予算を大幅に削減された︒それ以
後︑プロパガンダ映画制作に関しても︑議会やハリウッドは﹁政党戦略﹂であると相次ぎ批判するなどして監視を強
︵
︒るるあでのたっなくな得をざせ挫頓がのものそ画計︑め '︶
その点において︑FSAは︑制作した写真の複製の自由を認めたため︑商業面での利害衝突を生じさせることを回避 女性表象の転換
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できた︒また︑議会からの批判も当時はほとんど生じなかったという︒人々が写真によって自分達が啓蒙されていると
いう事実に無自覚であったことが窺える︒そういった人々の盲目的信頼は︑FSA写真があくまでドキュメントのかた
ちをとっていたことにより得られていたのである︒では︑人々の身近な媒体に数多く登場していた︑有能な写真家によ
る個々のFSA写真とはいかなる写真だったのだろうか︒
3ドロシア・ラングとFSA
まず﹃移民の母﹄の制作者︑ドロシア・ラングについて分析する︒ドロシア・ラングは︑﹃移民の母﹄一枚の写真に
とどまらず︑FSAでも三︑九二九枚の作品を残し︑アメリカ議会図書館の公式ウェブサイトでもFSAの代表的写真
家の一人に数えられている︒写真の送り手である彼女自身に目を向けてみることで︑当時の表象をめぐる環境を︑前節
とは異なる個人レベルの角度から見ることも可能になるだろう︒
一九三〇年代︑大恐慌に加えて︑アメリカ中西部を襲った大洪水によって農業従事者は大打撃をこうむっていた︒し
かし︑もっとも悲惨な状況に追いやられたのは︑土地を持たず日雇いで仕事をこなしていた大多数の移民労働者達であ
った︒大恐慌以後︑彼らは穀物の収穫時期に合わせて土地を転々とした︒そしてその収入はあまりに僅かで不安定であ
ったために︑移民労働者達が十分な住居に住むことは不可能であった︒移民問題が表面化するなかで︑政府は一九三五
年夏︑カリフォルニアの移民施設のレポート作成経験のあるラングを移民の生活や労働環境を記録させる目的で雇い入
れた︒
ドロシア・ラングは一八九五年︑ニュージャージーで彼女自身︑ドイツ系移民の一家に生まれた︒後に彼女は幼い頃
︵
成卒ている︒ラングが高校を業語した一九一〇年代後半︑っと︑た親が家を捨てたことが精に神的に大きな傷となっ父 !︶
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女性表象の転換
人女性の四分の一が家の外で働くようになっていた︒当時の女性が就く一般的な職業が教師︑工場労働者︑タイピス
ト︑店員であった当時︑彼女は敢えてポートレイト作家になるべく写真学校に通い始める︒ラングは芸術家としての写
真家を目指したのではなく︑ポートレイト作家を目指したのだ︒幼少期に罹ったポリオの後遺症を二〇代で克服するま
で彼女は僅かだけ右足が不自由であり︑それを隠すために常に長いスカートをはいていた︒青年期に至るまで抱えてい
たこの身体的障害は︑ラングが建物のなかで職人的仕事ができるポートレイトの仕事を選ぶきっかけでもあった︒
幾人もの著名な写真家の下で修行を積んだ後︑ラングは一九二三年にサン・フランシスコで自らのスタジオを持っ
た︒ポートレイト作家としての彼女の能力は評判を呼び︑著名人も訪れるようになるなど︑スタジオが軌道に乗り始め
た一九二九年にアメリカを襲った未曾有の危機が大恐慌である︒一五〇万人もの人々が職を失い︑二五万人もの子供達
が親から見離され︑自らを養うためにストリートチルドレンとなっていくという急激な社会変化のなかで︑ラングの被
写体もまた変化を遂げていくことになる︒その分岐点ともいえ
るのが一九三三年に撮影された﹃パンを求める人波の中の白い
天使﹄WhiteAngelBreadLine︵図2︶と題された写真だ︒浮浪
者へのスープの配給に大勢の人だかりが黒い塊となって押し寄
せるなか︑一人の白い帽子の老人ただ一人が呆然と立ちつくす
情景を捉えたこの写真は︑一躍ドキュメンタリー写真家として
の彼女の名を世に知らしめることになった︒しかし︑高まる名
声に反して︑なおも彼女は社会改革のためのカメラの利用に二
の足を踏んでいた︒
彼女の背中を押したのが︑彼女の写真展を訪れていた二度目
図2 パンを求める人並みの中の白い天使
(white angel bread line 1932)
女性表象の転換
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の結婚相手となるポール・テイラー︵PaulTaylor︶である︒当時カリフォルニア大学で経済学を教えていた彼は︑スト
ライカーと同じく︑自らの論文に写真や絵を加えることの影響力の大きさに注目していた︒社会問題を専門にして社会
改革を進めようとする彼にとって︑自らの研究に人々の関心を集めることは必要不可欠だったのである︒テイラーはラ
︵
グ︒く彼女に協力を依頼したまるた︑一九三四年当初ランべえ自添に移民の窮状を訴え︑らンの改革運動に説得力をグ !︶
の雇用にためらいを見せた当局に対し︑テイラーは﹁現場に出向く事ができないが︑彼らに対する責任を持つ立法者に
現状を理解させるために彼女が必要なのだ﹂と説いている︒
彼との共同作業はラングの名を行政に知らしめ︑FSAにおける雇用の機会をもたらすこととなった︒そして幾年に
ものぼる彼との共同作業と結婚生活のなかで︑ラングの社会改革者としての使命感も確固としたものになっていったの
である︒
FSAでの任務中にロイ・ストライカーとラングとの間で交わされた往復書簡からは︑﹃移民の母﹄撮影直前︑いか
にラングがカメラマンとして真摯に社会改良に取り組んでいたのかを読み解くことができる︒一九三六年三月二日付け
︵
︒国には叶わない﹂という中のンことわざを引用しているクイなな紙で︑ラングは﹁どんにの鮮やかな記憶も︑僅か手 "︶
自らが移民達を撮影すること︑彼らの窮状を記録し人々に伝えることの意義を自覚していたといえるだろう︒ラングの
使命感は一九三九年に彼女のFSAでの活動を基にして出版されたテイラーとの共著AmericanExodusの出版にも顕著
に現れている︒キャプションと写真それぞれが補完しあうこの作品について︑冒頭でラングはテイラーとの連名におい
てこう述べている︒
被写体となった人々は︑声なき人々である︒彼らは我々に撮影される事を通して︑立法者達に対して︑不平等を
訴え彼らの政策への抗議をあらわにしようとしている︒︽中略︾
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本書は︑今までの意味での写真集でもなければ解説書でもない︒この独特な形式は︑我々が読者に︑より明確に
鮮明にそして簡単に内容を理解してもらうためのテクニックを用いた結果なのだ︒私
た !
ち !
は !
カ !
メ !
ラ !
を !
調 !
査 !
の !
道 !
具 !
と !
!
︵
し !︶
て !
使 !
っ !
て !
い !
る !
の !
で !
あ !
る !
Lange1939:6 ︒︵傍点筆者︶ !
また︑彼女からの書簡には投函までに撮影した移民キャンプの立地と歴史︑人々の様子も細かく記されている︒ウォ
ーカー・エヴァンズを始めとする他の写真家達がストライカーへの定期報告をする際に︑ほとんどの場合経費および所
在地の報告に終止しているのと比較すれば︑被写体への興味と︑仕事に対してのアプローチの大きな違いが見て取れ
る︒また︑FSAでのラングの働きを考える際にもう一つ重要なのが︑彼女自身が許されていた裁量の大きさである︒
他の写真家とは異なり︑ラングにはポール・テイラーという行政に詳しい助言者がいた︒ダヴィドフ︵Davidov ︶によ
れば︑テイラーが移民政策の専門家であり︑ストライカーとも懇意だったことによって︑ラングは他のFSA写真家の
︵
をためる自由が与えられていとをいう︒上記のような思想進影し撮にストライカーから厳くよ管理されることなく︑う "︶
持ちながら︑被写体選択の権限を与えられていたラングにとって︑FSAとは雇用主であると同時に社会改革のための
絶好のフィールドを与えてくれる場所だったといえるだろう︒
︵
Partridge彼にーで答えているようラ︑ビングが写したものとュンタ作パートリッジ︵︶の著のなかでラング自身がイ #︶
女の人生とを照らし合わそうとする時︑重要な意味を持ってくるのが子供の存在である︒サン・フランシスコでスタジ
オを経営していた時期に︑ラングはボヘミアン画家であった最初の夫との間に二人の子供を持った︒子育てにはなんら
参加しない夫であったために︑ラングは多忙な仕事と子育ての両立という︑当時の働く女性の多くが抱えていた難題を
︵
放定の別居生活が離婚へと決し夫たとき︑彼女は子供を手とにた年自身抱えることになっの彼だ︒しかし︑一九三〇女 $︶
さなくてはならないようになる︒以後の彼女の人生にとって﹁いつ思い出しても当時の胸の痛みがよみがえる﹂︵Partridge 女性表象の転換
― 78 ―
1998:18︶ほどのつらい経験であった︒このラングの発言からも︑彼女自身が経験した子供との別離が︑次章で分析
するような子供に対するラング特有の描写に深い影響を与えた事をうかがわせる︒
ラングは一九六五年に︑癌のため七〇歳でこの世を去った︒FSAでの活動を終えた後も一九四〇年には女性として
初めてグッケンハイム財団の奨学金を得たり︑Time誌に写真を投稿したりと︑ラングは六〇歳を過ぎるまで現役の写
真家として精力的に活躍した︒また︑﹃移民の母﹄とFSAでの功績によって名声を得てもなお︑彼女はあくまでドキ
ュメンタリー写真家であることにこだわり続けた︒これは︑同時期にFSAに在籍していたウォーカー・エヴァンズや
アーサー・ロステインら他の写真家達がFSAで活躍以後︑広告やアートの分野にその活動場所を移していったことと
比べるといかにラングの選択が特徴的であるかがわかるだろう︒
Scott によれば︑ラングがドキュメンタリーという分野を選んで活躍したのは﹁ドキュメンタリーが他の写真分野と
は違い︑奇異でセンセーショナルなものを追い求めるのではなく︑日常的でしかも意味あるものを探す作業であるか
︵
なの写真の一分野こそが彼女伝いえたいメッセージ︑広めうととーであるという︒彼女にっらては︑ドキュメンタリ﹂ !︶
くてはならないメッセージを送り届ける手法として信頼をおき続けることができた分野だったからではないだろうか︒
4ドロシア・ラング作品の全体的特徴
FSA︵現在はアメリカ合衆国議会図書館所蔵︶で制作︑保管されている彼女の作品は三︑九三二点にのぼり︑FS
Aは写真展を催すたびに彼女の作品にスポット・ライトを当てた︒また︑FSAに所属する写真家達の残した記録が幾
︵
がグる︒FSAが行ったランのて登用に関しては枚挙に暇いれ名か出版されたが︑彼女のは度常に目次の最前列に置も "︶
無いが︑FSAが公に写真を発表する際には︑必ずラングの作品が用いられていた︒そういった作品に対するゆるぎな
― 79 ―
女性表象の転換
い信頼や︑メディアにおいてラング作品を多用する傾向は︑他のどの作家よりも顕著に見られた︒
では︑FSAの数多くの作家によって制作された多様な作品群のなかで︑ラングの作品は具体的にどのような特色を
持っているのだろうか︒そして︑彼女の作品は社会のなかでどう機能したのだろうか︒FSAで作成された写真群のな
かでも︑主に黒人写真を取り上げて分析したニコラス・ナタンソン︵NicholasNatanson︶は︑﹁単に大恐慌から戦争初
期にわたる︑文化的人工産物を評価していくのではなく︑図像の制作の選択や利用︑効果に関する文化的プロセスを評
価していかなくてはならない﹂︵Natanson1992:7︶とし︑これまで多くの批評家が行ってきたFSA写真の功績を称
えるだけの一面的な論調に警告を発している︒本稿の主旨は女性を表象するメディアとして︑ドキュメンタリー写真が
女性イメージを形成する文化プロセスにいかに寄与したのかを明らかにすることである︒そして︑各々の作品の美学的
優位を述べることに偏っていた先行研究とは距離を置くという意味でも︑
!上を真写の々個でた多し観概を報情的面分
析する
"タみ出したドキュメンリがー写真の特性をより具生グとをいうナタンソンの手法踏ン襲したい︒まずは︑ラ体
的に明らかにするために︑ラングと同時期にFSAに雇用され︑短い期間ながらも高い評価を得ていたウォーカー・エ
ヴァンズと比較しながら︑作風︑構図︑被写体の違いについてみていきたい︒
両者の最も大きな違いは︑被写体の種類である︒ストライカーによるマイクロ・フィルム︵1981︶に残される両者へ
と送られた書簡をみる限り︑撮影場所への指示や情報提供はなされるものの︑被写体の決定は写真家に委ねられていた
ことがわかる︒すなわち︑被写体の選定にも写真家の個性が反映されているのである︒
︵
内景ァンズが主に建物や風をエ被写体とし︑人物を画像ヴ︑人とAに保存されている二のF作品群を分析して見るS !︶
に入れた写真を二九%としか残さなかったのに対し︑ラングは全作品中の五五%にあたる二︑一五九枚に人物を登場さ
せている︒半数以上という高い割合の作品で人物を追いかけていることから︑ラングがFSAでの仕事の中においても
ポートレート写真家として培った自分のキャリアと能力を生かし︑人々に焦点を当てた記録︑人の生活の記録を残そう 女性表象の転換
― 80 ―
としたことがわかる︒
︵
視写いの比率で女性がさくれているかというらのしどの写真家が撮影た二人物写真のなかに人 !︶
点においても︑両者の作品群には違いが見られる︒人物を撮影したラングの作品群のうち︑五一
%の図像中に女性が登場するのに対し︑エヴァンズの作品群においては三九%しか登場していな
い︒また︑エヴァンズの三九%の女性を被写体に含む写真の多くが男性も画像内に含んだ図像群
であるのに対し︑ラングの五一%の写真のなかには︑エヴァンズより圧倒的に高い比率で︑女性
のみを写した図像が残されている︒この数値の差があらかじめストライカーによって管理︑意図
されたものかどうかを断言することはできないが︑男性が大半を占めていたFSA写真家達のな
かにあって︑被写体として女性を多く登場させ︑彼女たちに注目したのは︑FSA写真家として
のラングの功績であったといえるだろう︒
次に︑構図的な違いに目をむけると︑両者ともに同じ目線でのショットが多いことがわかる︒しかし︑両者の最も大
きな違いは人物を撮影する際の︑その目線の高さにある︵表1参照︶︒エヴァンズが子供など背丈の小さな人物を撮影
する際でも︑上から彼らを覗き込む構図を用いるのに対し︑ラングは人物を主な被写体として残す際に︑被写体の性
別︑年齢にかかわらず︵図3︑4︑5参照︶仰ぎ見る構図を多用する︒二人の写真家の構図の違いは︑お互いの身長の
違いに起因するかもしれない︒しかし︑ラングの作品中ではラングより明らかに背が低いであろう子供の画像でも︑上
からの構図が見られることは少ない︒すなわち︑彼女は意図的に目線を等しく︑もしくは目線を上げた形で写真を残し
たのである︒本稿第三章で述べたように︑ラング自身子供を持ち︑FSA時代には子供と引き離されるという経験をし
ていた︒子供と同じ目線をとるという構図を用いた彼女が撮影した子供の図像には︑子供に寄り添い︑また子供を引き
寄せるかのような親近感が現れている︒それはFSA写真家のなかでドロシア・ラングだけが自身の経験をもとに表現
表1 人物描写に用いられる構図(%)
Evans 80.2
4.9 14.9 Lange
81.2 14.4 5.4 構 図
仰ぎ見る構図 同じ目線からの構図 下から見上げる構図
― 81 ―
女性表象の転換
しえた子供の表象といえるだろう︒
また︑ラングの特徴である仰ぎ見る構図の図像では︑
人々は主に空を背景としてそり立つように撮影されてい
る︒この構図は︑見る側に対し写された人々にある種の
威厳を感じさせる作用をもたらしている︒﹃移民労働者
の妻﹄︵Wifeofamigratorylaborerwiththreechildren
1938︶︵図5︶を例にとって見よう︒女性が何かにひど
くおびえ︑困惑しきっているこの写真においても︑仰ぎ
見る構図は効果的に機能しているといえるだろう︒写真
図5 移民労働者の妻(Wife of a migra- tory laborer with three children 1938)
図3 クリーブラント近郊の小作人一家
(Cotton sharecropper family near Cleveland, Mississippi 1937)
図4 ヒルハウスに定住したアーカンサ スの小作人(An evicted Arkansas sharecropper now settled at Hill House, Mississippi 1936)
女性表象の転換
― 82 ―
は背景の荒野と空︑そして一人の女という単純な構成からなっている︒仰ぎ見る構図は︑かえってそこに写る一人の人
物に目を向けさせる︒打ちひしがれ︑困惑しきっている被写体であるが︑広大な大地にまっすぐに立つ︑その姿からは
弱さは感じられない︒人間が根底に持つ芯がそこに存在しているかのように感じさせるのである︒仰ぎ見る構図を多用
することで︑ラングは人々をただ撮影し︑記録するのではなく︑そこに何かしらの人間性や彼らの尊厳を表そうとした
のではないだろうか︒
また︑﹃移民労働者の妻﹄にはもう一つのラング作品の特徴と考えられる
!手のクローズ・アップ
"が用いられてい
る︒この作品において︑広い荒野を背景としながら被写体の額を押さえる片手と彼女の首を支えるもう片方の手の仕草
は︑彼女の苦悩をその表情と共に効果的に表している︒もう一度︑﹃移民の母﹄をみてみよう︒ここでも︑被写体であ
るの口元を押さえる手は画像の中央に位置し︑彼女の不安さを象徴している︒同じように﹃医師を訪ねる女性﹄︵Sick
womanawaitsvisitofthedoctor︶︵図6︶でも︑手は被写体の半分を覆い隠し︑彼女の苦痛を強調している︒﹃鍬の文化﹄ Hoeculture.AlabamatenantfarmernearAnniston︵図7︶という作品では手の描写は︑それのみで描かれることによっ
て︑さらに強い存在感を放っている︒ラングの作品において
!手
"徴い用に的果効てしと象はのみ痛・働労・悩苦︑ら
れているのである︒
ここまで見てきたように︑FSA写真家としてのドロシア・ラングには︑彼女独自の技法と被写体へのアプローチが
あり︑作品にも如実に反映されていた︒写真家としての独自性はもちろんラングに限ったことではない︒FSAの写真
家達それぞれが︑独自性を備えている︒つまり︑政府主導の下での記録制作でありながら︑そこには写真家の眼があ
り︑個々人の技法や経験︑思考が反映されているのである︒本稿第二章に記したように︑FSAが設置された一九三〇
年代という時代にはプロパガンアを誘発するような社会情勢が存在していた︒しかし︑ドロシア・ラング作品の一枚一
枚が明らかにするように現場が写真家に任せられ︑写真家が生の記録を第一の目的とする限り︑写真には政府の干渉が
― 83 ―
女性表象の転換
届かない部分がうまれたのである︒
では︑ラングの代表的作品である﹃移民の母﹄では何が表されていたのであろうか︒そして︑どのような反響を得た
のだろうか︒
5苦悩のイコン﹃移民の母﹄
ドキュメンタリー写真史にその名を刻むFSAの活動︒十年に渡るその活動のなかでもFSAを代表する作品とされ
ているのがラングの﹃移民の母﹄である︒
図6 医師を訪ねる女性(Sick woman awaits visit of the doctor 1939)
図7 鍬の文化(Hoe culture Alabama tenant farmer near Anniston 1936)
女性表象の転換
― 84 ―
Partridge︵1998︶によれば︑一九三六年三月一〇日︑ラングが朝早くからの一〇時間に及ぶ撮影を終え家路に着くた
めに土砂降りのなか︑車を運転していると︑崩れかけのテントの影に人影を見た︒時間も遅いために︑止まらずに車を
走らせてみたものの︑ラングの心に引っかかるものがあり︑Uターンをして見に行った所にいたのが﹃移民の母﹄︑ト
ンプソン夫人だったという︒
撮影の許可を取ろうとしたラングに対し︑夫人は何を尋ねるでもなく︑ただ大洪水が彼女の梨畑を全くだめにし
てしまい︑生活の糧となるものを全て失ったと語りだした︒今は家財道具はもちろん︑衣服や石鹸などの生活用具
を売ることで︑子供三人と自分の食料を僅かばかり買っていると彼女は話した︵Partridge1998:6︶︒
つまり︑この画像は自らの状況を憂いたり憤ったりしているのではなく︑それ以前に次の日の食事すらおぼつかない
状況に追い込まれた母子を撮影した写真だったのである︒
一九六〇年︑ラングはこのときの経験をこう語っている︒
私は︑その飢えて絶望に満ちている母親らしき女性を目にして︑磁石に引き寄せられるように近づいていった︒
私は彼女に自分の立場とカメラについて何と説明したのかは覚えていないが︑彼女が何一つ質問してこなかった事
だけは覚えている︒私は五枚の写真を同じ確度から徐々に近づきながら撮影した︒彼女の名前も生い立ちも聞かず
︵
て供いる凍った野菜と︑子たえちが捕ってくる鳥を食べて生でに彼女は自分が三二歳あにること︑自分達が付近︒ !︶
飢えを凌いでいる事を話した︒彼女は食べ物を買うために自分の車のタイヤを売ったばかりだった︒
― 85 ―
女性表象の転換
︵
NewsranciscoFSanんれ︑大反響を呼だ載︒その影響は一紙に留さま掲﹃こうして撮影された移に民の母﹄は翌日︑ !︶
らず︑Laborpress︑smallerpapersofthestatebytheUnitedPress︑WesternNewspaperUnion︑WashingtonPost︑BostonSun-︵
dayHerald ︒受の人々にどのようにめけ止当られたのだろうか時像はれ等に相次いで掲載さるまでに至った︒この画 "︶
フィレーン氏は彼自身のためのオリジナルコピーが手にはいることを希望しています︒そして︑それは他の大勢
の人々も恩恵に預かることにつながるでしょう︒彼は︑コピーを教会やその他の社会運動家達にも送ることを決心
しています︒そうすれば︑我々の
!豊かな大地
"実がとこるすとのもの公を態のに害被の々人むし苦のく多るいで
きるはずです︒その彼らの被害は特定の経済環境によって引き起こされたものであり︑改善されなくてはならない
ものなのです︵S.M.proctorOfficeofEdwardA.Filene よりラングに届けられた書簡︒11.31.1936 ︶ OfficeofEdwardA.Fileneの代理人からのこの申し出の手紙は︑当時の読者の反応の一端を見せてくれる︒Partridge
︵1998︶によれば﹃移民の母﹄で撮影された母子の悲惨な窮状と︑まっすぐに見つめる視線の崇高さは見るものを引き
つけ︑彼らに起こっていることへの関心を高めた︒その結果として︑キャンプへの募金は瞬く間に集まったのである︒
被写体であるFlorenceThompsonの孫であるRogerSpraqueによれば︑移民キャンプの食料・物資不足がラングの写真
付きで各紙の一面に掲載された次の日には︑救援物資のトラックや車が到着し︑医師達も救援に駆けつけたという︒そ
れに加えて︑写真を見た読者からは多くの求人依頼がキャンプ地へと寄せられた︒この当時の状況に関して︑﹃河﹄
︵1939︶の監督でもあるドキュメンタリー作家ペア・ロレンツ︵PareLorentz︶は︑﹁ドロシア・ラングの﹃移民の母﹄ とジョン・スタインベック︵JohnSteinbeck︶の﹃怒りの葡萄﹄︵TheGrapesofWrath︶は︑当地のどの政治家よりもokie
︵
っうてべ述と﹂た︒なに力救るを︶者働労業農住移︵い #︶ 女性表象の転換
― 86 ―
また︑描き出された窮状のみならず︑作品それ自体も反響を呼んだ︒FSA設立後初めて︑USCameraSalonより雑
︵
にのイカーの寄贈したFSA作ト品に関するマイクロ資料ラスも・載依頼が寄せられたのこ誌の一枚であった︒ロイ掲 !︶
よれば︑撮影から二年経った一九三八年四月一〇日付のWashingtonPost の紙面上にも特集記事が掲載されている︒同
じ一九三八年︑社会主義作家として活躍していたスタインベックが発行した移民急労働者救済パンフレットの表紙にも
採用されている︒また︑この写真の露出は活字メディアにとどまらなかった︒FSAのプロデューサー︑ロイ・ストラ
イカーの人脈と手腕により︑一九三九年には﹃移民の母﹄をはじめとする写真展TheInternationalPhotoexhibitionが開
催され︑第二次世界大戦を経た一九六二年にもMOMAで大展覧会が企画された︒
そして︑﹃移民の母﹄という画像の力をもっとも顕著に表しているのは︑その影響が単に同時代的なものにとどまる
ことが無かったという点である︒撮影から五〇年以上が過ぎた一九九八年︑﹃移民の母﹄はミズーリ大学が選ぶ﹁半世
︵
てア︑一九八九年にはメまリカ郵政局によった︒的たもっとも記念碑な紀写真﹂に選ばれで "︶
!三〇年代を称える
"と題
された一五枚つづりの記念切手の画像のひとつにも選ばれている︒
では︑一女性の表象である﹃移民の母﹄がここまでの反響を呼んだのはなぜなのだろうか︒改めて﹃移民の母﹄の画
像自体に目を向けてみよう︒この写真が見るものに多くの感情︑衝撃を与えたのは︑被写体が見せているその一瞬の表
︵
見そがない︒しかし︑眉をひめよ厳しく射るように前方をうしみ隠ある︒着ているものはす情ぼらしく︑体の汚れもに #︶
つめるまなざしの強さ︑気高さに強い求心力が生まれている︒ここでも手が象徴的に描かれる︒顔に軽く添えられてい
る手は浅黒くすすけたようですらあるが︑画面の中央にまっすぐに構成され存在感を出している︒その同一線上に視線
を動かすと︑母に寄り添う二人の子供の
騁ららなければなならいものがある守がが貧あり︑彼女が困なのなかにありこ
とを確認させる︒画面いっぱいに︑一寸の隙もなくぴったりと寄り添う彼女たち三人の姿は原始的な人間の家族愛を想
起させるのである︒
― 87 ―
女性表象の転換
﹃移民の母﹄には︑それまでの女性表象のもっとも顕著に用いられたような暖かさや優しさ︑平和の象徴である
!良
妻賢母のレトリック
"る達が作りあげてい家彼庭の象徴である家女︑はS感じられない︒FAはの母の表象の多くにが
画像に取り込まれるが︑﹃移民の母﹄の画像内にある彼女の家は汚く崩れかけたテントであり︑そこには安らぎは感じ
られない︒また︑厳しい表情で打ちひしがれている彼女からは母の表象に表される
!温かさ
"はないからである︒﹃移
民の母﹄は︑それら既存のレトリックを用いずに大反響を巻き起こし︑時代のイコンとして時を越えて伝えられるよう
になった︒レトリックを用いないラングの手法については︑同時代のドキュメンタリー監督であるペア・ロレンツも
﹁ラングが目指したものは︑貧しい人々を
!らで姿のら彼たげ上り作が説学のし彼姿らがあるべきとかしてでも︑何も
なく︑ただ彼らがあるがままに
"︒るいてし調強と﹂記たっだとこるす録︒
﹃移民の母﹄が呼んだ大きな反響の影には︑本稿第2章で述べたような
!改革のための写真
"を待ち望む社会の強い
要望と︑その画像が女性であったという二つの要因があると考えられる︒最後に︑なぜ女性であることが衝撃的であっ
たのかという問題についてみてみよう︒
6女性図像史における﹃移民の母﹄の位置
﹃移民の母﹄は女性図像史においていかなる意味を持つのだろうか︒﹃移民の母﹄が消費されたのがアメリカであるこ
とから︑人々の意識に影響を与えたであろうキリスト教圏︑主にヨーロッパの図像を中心に扱いたい︒
先史時代から非キリスト教時代にかけての時代︑女性は壁画や︑彫刻︑食器の装飾などに表象されてきた︒先史時代
︵
︑やどなのもすらたもを死主のい救はく多の像性女の !︶
!力
"多拝崇神母地大︑合場のく︒のたいてれか描てしと徴象の
名残が残り︑主に祭事に使われたことからもわかるように︑女性像は恐れや無限大といったある種の畏怖心とともに 女性表象の転換
― 88 ―
人々に消費されていた︒
一方で︑キリスト教成立位後から封建制期にかけてヨーロッパ各国では︑職人制度が発達し︑職業としての女性画家
が禁止されるようになった︒ここに︑男性制作者からの一方向による女性像制作の伝統が幕を開けるのである︒そうし
て描かれた女性図像で最も多いのが聖母マリアをモチーフにした宗教画︑イコンであった︒そして︑単に人々の間で流
通するためだけのものではなく︑多くの場合︑二次的な要素をはらんで使用されていた︒
最も多く利用されたのが宗教的意識を高め︑布教をよりしやすくするための物神としてのマリア像であり︑教会は競
って画家を雇い入れた︒他方︑この時代に女性像は多様化を始める︒妖精︑良妻︑良母︑悪女︑魔女︒多様化したその
︵
た家あるのみで︑本質的には父い長制の維持を円滑にするが違︑のもが︑理想化されるか戒どめとして用いられるかれ !︶
めの偶像として用いられていた︒また︑宗教と並んで用いられたのが王権強化のための女性図像利用である︒美と権力
の象徴として王妃や女王の画像が作られ︑硬貨や紙幣へと姿を変え︑国家の象徴としても用いられるようになった︒そ
︵
果﹂す男性にとっての﹁他者で動あるがゆえに絶大なる効かをる国︑若桑みどりが指摘すよしうに︑それはあくまでて "︶
を発揮したのである︒
かくして︑中世以降︑女性像が﹁見られるもの﹂﹁他者︵非男性︶﹂として消費されることは習慣となり︑伝統になっ
た︒ここでは︑母としての女性像︵聖母マリアや国母など︶︑愛人としての女性像が描かれることはあっても︑彼女達
の個性を描いた女性像が作成されることはほとんどなかった︒ごく稀にそういった画像が市場に出されたとしても︑評
価されたり︑反響を呼んだりすることは皆無であった︒そして︑もちろん残された図像に︑当時の女性の大部分を占め
ていた市井の女性像の実態が反映されることはなかったのである︒一方で近代も二〇世紀に入ると︑女性芸術家達が台
頭してくる︒しかし︑彼女達があくまで好奇の対象として見られるに過ぎなかったこともあり︑﹁描かれる﹂女性の画
︵
︒んるあでのくいで進すますまは化一 #︶
― 89 ―
女性表象の転換
第一次世界大戦勃発以降には女性像の新たな変化が見られるようになった︒軍事的・愛国主義的関心から︑動員のイ
メージとしての女性像が描かれ始めるのだ︒また︑ポスターなどの媒体で労働の世界に女性を参入させるための女性像
が作成される︒しかし︑それもまた国家のための女性像であり︑戦地に赴く男性を一体化させるため︑愛国心を増長さ
せるツールとしての女性の用いられ方であった︒また︑時を同じくして機械の時代が到来し︑印刷技術が発達したこと
から︑画像を用いた広告が様々な紙面をにぎわせた︒広告は消費製品と結び付きながら︑
!子どもを正しく育て︑家事
を完璧にこなしながら新しい家具に囲まれる
"広たっなにとこるす布流に会社くをと像想理の活生の性女いし新ういの
である︒
﹃移民の母﹄にさきがけた一九二〇年代︑アメリカの女性をめぐる図像文化はハリウッドスターの勢いに席捲されて
いた︒新聞や雑誌などで人物の写真の掲載自体が少なかった当時︑時折掲載される写真はほとんどが政治家や経済界の
大物といった名士の肖像か彼の家族であった︒女性がメディアの中心を飾る機会は︑セックス・シンボルとしてのハリ
ウッドスター以外には与えられていなかったのである︒映画はあらゆる階層の女性たちに﹁美しさの文化﹂の定義を︑
瞬く間に浸透させた︒不況のどん底であった一九三七年でさえ︑アメリカ国民の六五%が映画館に少なくとも週一回は
︵
のたというメディアに熱狂しの映かが分かる︒女性スター画に︑か運んでいたことからも当足時のアメリカ国民がいを !︶
ポスターが町中に溢れ︑彼女たちの華やかな化粧や服装を人々は娯楽として消費した︒では︑﹃移民の母﹄が送り出さ
れた当時のハリウッドの送り出した女性イメージとはどのようなものだったのだろうか︒一九三〇年代に黄金期を迎え
たハリウッドの女優たちは︑数においては男優を圧倒していた︒しかしその一方で︑様々な個性を演じる機会と自由に
︵
年を枠に自らをはめ込むこと要準求されていた︒一九二〇の基女的れていた男優に比べ︑優恵達は一定の価値観や美ま "︶
代に﹁フラッパー﹂︑﹁ヴァンプ﹂︑﹁イット・ガール﹂といった愚かしく︑笑うべき喜劇の種である女性の性が映画で中
心となって描かれたのに対し︑一九三〇年代の映画の主役は一時ヨーロッパ女優へと移った︒マレーネ・ディートリッ 女性表象の転換
― 90 ―
ヒ︑グレタ・ガルボに代表されるヨーロッパ女優は妖婦の性的魅力と処女のような純粋さという︑従来相反してきた二
つの女性像を併せ持つまったく新しい女性像としてアメリカ社会に熱狂的に受け入れられた︒だが︑その時代は余りに
短く︑一九三五年以降はその反動もあってアメリカ人少女女優の全盛期が始まる︒無垢で清純︑受動的という特徴を持
つ彼女達の時代は︑次なるセックス・シンボルの時代に引き継がれていく︒すなわち︑映画というマス・メディアの発
達も︑﹁見るもの﹂としての女性像の消費を加速されるように力を貸したに過ぎなかったのである︒
メディアのなかの女性たちが言葉を持たず︑男性の欲望のためにそこにいた時代である︒そこに登場した﹃移民の
母﹄という苦しげな女性の画像はどれほどの衝撃を人に与えたことだろう︒そして︑その衝撃の大きさと画像を送り出
す印刷技術の進歩によって︑﹃移民の母﹄は瞬く間にアメリカ全土で目にされるようになった︒ここに︑女性図像史上
初めて︑苦難の女性像が大量に人々に伝達されることになったのである︒
まとめ
FSAという政府機関のもとで作成された﹃移民の母﹄という一枚の画像は︑十数世紀以上の永きにわたってもたら
されてきた
!男性のための女性画像
"さ苦難を社会にら生すという偉業をののとあいう図像史にっ性て︑はじめて女成
し遂げた︒この一枚の画像が社会に送り出され︑大きな反響を呼ぶにまでいたったのには︑いくつかの要因が考えられ
る︒自由主義の思潮のなかで育まれた改革の気運と︑そういった表現を待ち望んでいた民衆の高揚︑大量の画像配布を
可能にした印刷技術の発達といった諸々の社会状況が︑大きく寄与しているのは疑うべくもない︒
しかし︑その一方で一九三〇年代においては︑改革という行動にドキュメンタリー写真がもっとも適したメディアで
あったことも忘れてはならない︒なぜならば︑たとえ政府の操作が介入し操作が働くにしても当時の写真技術では︑や
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女性表象の転換