へーゲル『精神現象学』「序説」第42節〜第45節の解 明
著者 山口 誠一
出版者 法政大学文学部
雑誌名 法政大学文学部紀要
巻 80
ページ 1‑14
発行年 2020‑03‑13
URL http://doi.org/10.15002/00023061
ここでは,へーゲルは,デカルト以来,スピノザやシェリングに到るまで,学問の模範の一つとされ てきた数学の証明や明証性を批判している。その際に,数学ということで,主にユークリッド幾何学を 念頭に置き,次に純粋数学を念頭に置いている。要するに,数学的証明は,外からの証明で内的必然性 を欠いており,その明証性は,大きさが等しいかどうかという量的次元に依存し,哲学のように質を問 題としない。そのことをさらに詳述すると以下のようになる。なお,この詳述は,へーゲル『精神現象 学』「序説」 第 42 節~第 45 節要約・邦語訳・注解に依拠している。
数学の定理の明記と暗記は違うし,帰納法による知識も幾何学では不十分である。数学的認識では証 明は結果において消えている。数学では,真理は納得される。数学的証明とは定理と主観の関係であ り,図形の本性に外からなされる。たとえば,直角三角形の各辺は本性の上からは,三つの正方形の一 辺へと自己分解しない。
哲学的認識でも現象の生成と本質の生成は異なる。数学的認識は,量に関わり本質のレベルには達し ていない。それに対して哲学的認識は,現象と本質の両者の生成をふくむだけではなくて合一させても いる。だから,外的な定在への移行は内的本質へ自己を取り戻すことでもある。したがって,実体の運 動は両側面一体である。定在と本質という両側面が全体の契機となる。
数学的証明は事象にとって外からなされる。補助線は図形を変化させる。数学的証明の命題は,形式 論理学上,真であるが,数学的手続きの命題内容は偽である。作図によって三角形に関する命題は内容 上偽となる。偽となった三角形の断片は,証明の終わりに再興される。作図における否定性は,命題内 容の虚偽性である。
幾何学的認識は,認識とその素材の両方に関係がある。幾何学的認識では作図の必然性は不明瞭であ る。作図は,外からの盲従せよという指示である。作図は外からの目的を証明する。幾何学的証明の始 まりは必然ではないし,幾何学的証明の運動にも内的必然はない。
数学的認識の明証性には欠陥がある。数学の目的・概念は大きさである。大きさは非哲学的相互関係 である。数学的認識は事象そのものにかかわらない。数学の素材は,空間と一である。概念は,空間で 定在となるが,死んでいる。数学的空間も非現実的であって,数学の非現実性には,直観も哲学も関係 しない。公理や定理には必然的関係はなく,幾何学の公理や定理は,運動せず,事象そのものの本性に 関係がない。
へーゲル『精神現象学』「序説」
第 42 節~第 45 節の解明
山 口 誠 一
数学的明証は,大きさの等しさに従っている。等しさには自己運動がない。幾何学は,空間の大きさ だけを問題にする。幾何学は対象同士の相互関係などを考えない。だが,円の直径と円周との関係は,
無限であって概念の関係である。
【へーゲル『精神現象学』「序説」 第
42
節〜第45
節要約・邦語訳・注解】《第
42
節》要 旨
定理の明記と暗記は違う。帰納法による知識も幾何学では不十分である。数学的認識では証明は結果におい て消えている。数学では,真理は納得される。証明とは定理と主観の関係である。数学的証明は,図形の本性 に外からなされる。直角三角形の各辺は三つの正方形の一辺へと自己分解しない。幾何学的証明は,結果とは 別の手段である。哲学的認識でも現象の生成と本質の生成は異なる。数学的認識は,量に関わり本質のレベル には達していない。哲学的認識は,両者の生成をふくむだけではなくて合一させている。外的な定在への移行 は内的本質へ自己を取り戻すことである。したがって実体の運動は二重である。定在と本質両側面が全体の契 機となる。
⑴ 定理の明記と暗記は違う。
WasdiemathematischenWahrheitenbetrifft,sowürdenochwenigerderfüreinenGeometer gehaltenwerden,derdieTheoremeEuklidsauswendigwüßte,ohneihreBeweise,ohnesie,wieman imGegensatzesichausdrückenkönn[t]e,inwendigzuwissen.
そうであれば,数学的真理にかんしては,つぎのようなことになる。人がユークリッドの諸定理を暗 記して知っていようとも,それらの証明を,明記できる形で知っているのでなければ,彼は幾何学者と されるわけにゆかないであろう。
《註解》 前文の「根拠」がここでの「証明」にあたるので,その証明を明確に知っていることが,数 学的真理に必要なのである。
⑵ 帰納法による知識も幾何学では不十分である。
EbensowürdedieKenntnis,dieeinerdurchMessungvielerrechtwinkligerDreieckesicher- würbe,daßihreSeitendasbekannteVerhältniszueinanderhaben,fürunbefriedigendgehalten werden.
同様に,また,だれかが多数の直角三角形を測定することによって,その諸辺の関係についての周知 の知識を得たとしても,その知識は不十分なものとされるであろう。
《註解》 多数の直角三角形の辺を測定することは,直角三角形の辺についての証明ではない。
⑶ 数学的認識では証明は結果において消えている。
DieWesentlichkeitdesBeweiseshatjedochauchbeimmathematischenErkennennochnicht dieBedeutungundNatur,MomentdesResultatesselbstzusein,sondernindiesemistervielmehr vorbeiundverschwunden.
しかしながら,数学的に認識する際にも証明が本質的なものだとされてはいても,そこには,証明が 結果そのものの契機であるという意義や本性がまだなくて,むしろ結果においては証明は過ぎ去ってし まい消えうせている。
《註解》 へーゲルは,証明という過程が結果に保存されていることを要求する。
⑷ 数学では,真理は納得される。
AlsResultatistzwardasTheoremeinalswahreingesehenes.
たしかに〔証明の〕結果として,定理は,真として納得されたものとなっている。
《註解》 このことは幾何学者が真理を明記できる形で知っているということである。
⑸ 証明とは定理と主観の関係である。
AberdieserhinzugekommeneUmstandbetrifftnichtseinenInhalt,sondernnurdasVerhältnis zumSubjekt;
しかし,この付加事態は,定理の内容には関係しない。むしろ,ただ主観との関係にすぎない。
《註解》 「主観との関係」とは,「自己意識の運動」としての調査に対応する。《第 43 節》(1)註解も 参照されたい。
⑹ 数学的証明は,図形の本性に外からなされる。
dieBewegungdesmathematischenBeweisesgehörtnichtdeman,wasGegenstandist,sondern isteinderSacheäußerlichesTun.
数学的証明の運動は,対象になっている当のものに属するのでなく,事象にとっては外からのいとな みなのである。
《註解》 ここでの数学的証明の対象は,図形の本性であり,それが事象である。ところが,数学的証 明の運動は,この事象の外からたとえば,補助線を引くといういとなみを不可欠としている。
⑺ 直角三角形の各辺は三つの正方形の一辺へと自己分解しない。
SozerlegtsichdieNaturdesrechtwinkligenDreiecksnichtselbstso,wieesinderKonstruktion dargestelltwird,diefürdenBeweisdesSatzes,derseinVerhältnisausdrückt,nötigist;
それで直角三角形の〔辺の〕比率を表現する命題を証明するため,ある作図が必要であるが,その作 図で示されるような具合に,直角三角形の本性そのものがみずから分解するわけではない。
《註解》 直角三角形 ABC の辺の比率を表現する命題とは,AB2= CA2+ BC2のことである。直角 三角形の本性がみずから分解するとは,AB,CA,BC の各辺が,それぞれ三つの正方形の一辺へと自己分 解することを意味している。
⑻ 幾何学的証明は,結果とは別の手段である。
dasganzeHervorbringendesResultatsisteinGangundMitteldesErkennens.
そこでは,結果をうみだす過程は,すべて,認識にとっての手続きであり手段にすぎない。
《註解》 ヘーゲルの哲学は,絶対者の自己認識であるから,認識が,絶対者を認識する手段となっ て,絶対者とは別物になることは避ける。
⑼ 哲学的認識でも現象の生成と本質の生成は異なる。
―AuchimphilosophischenErkennenistdasWerdendesDaseinsalsDaseinsverschiedenvon demWerdendesWesensoderderinnerenNaturderSache.
哲学的認識でも,定在としての定在の生成は,本質の生成,あるいは事象の内的本性の生成とは異 なっている。
《註解》 たとえば,一枚の肖像画という定在の生成と,それを描いた画家の才能という事象の本性が 生成することとは異なる。つまり,現象の生成と本質の生成は異なる。
⑽ 数学的認識は,量に関わり本質のレベルには達していない。
AberdasphilosophischeErkennenenthälterstensbeides,dahingegendasmathematischenur dasWerdendesDaseins,d.h.desSeinsderNaturderSacheimErkennenalssolchemdarstellt.
しかし,まず第一に,哲学的認識はこの両方の生成をふくむ。それに対して数学的認識は,ただ定在 の生成だけを示し,事象の本性については,認識そのものにおけるそれの存在の生成しか示さないのだ から。
《註解》 たとえば,数は『論理学』では,存在の量の側面に属し,本質に到達していないのである。
肖像の大きさの変化を数学的には認識できるが,それが,描かれた人物の権力を表現する画家の才能と いう本質を認識できない。
⑾ 哲学的認識は,両者の生成をふくむだけではなくて合一させている。
FürsanderevereinigtjenesauchdiesebeidenbesonderenBewegungen.
また,第二に,前者の哲学的認識はこれら二つの特殊な運動をも統合させている。
《註解》 この統合は,『論理学』における存在論から本質論への展開にあてはまる。存在からの本質 の現出は,存在が自己に行き着いたことでもある。
⑿ 外的な定在への移行は内的本質へ自己を取り戻すことである。
DasinnereEntstehenoderdasWerdenderSubstanzistungetrenntÜbergehenindasÄußere oderindasDasein,SeinfürAnderes,undumgekehrtistdasWerdendesDaseinsdassichZurück- nehmeninsWesen.
ここでは,実体の内的な発生あるいは生成ということは,不可分的に,外的なものへ,定在へ,対他 存在へ移行することであり,逆に,定在の生成ということは本質のなかへ自分をとりもどすことであ る。
《註解》 画家の画才の内的生成は傑作の生成となって確証される。つまり,一幅の絵が傑作であるの は,画才の確証だからである。
⒀ したがって実体の運動は二重である。
DieBewegungistsodergedoppelteProzeßundWerdendesGanzen,daßzugleicheinjedes dasanderesetztundjedesdarumauchbeidealszweiAnsichtenanihmhat;
したがって運動は,二重化された形で全体が生成する過程をなしており,二つの生成のそれぞれが同 時に他方を設定し,だからまた,それぞれが両方ともを自分の二側面としてそなえている。
《註解》 ここでの運動は,実体全体の運動である。
⒁ 定在と本質両側面が全体の契機となる。
siezusammenmachendadurchdasGanze,daßsiesichselbstauflösenundzuseinenMomenten machen.
そして,それぞれ自分自身を解体して全体の契機となることにより,両方が合して全体をなすのであ る。
《註解》 この全体が真理である。
《第
43
節》要 旨
数学的証明は事象にとって外からなされる。補助線は図形を変化させる。数学的証明の命題は形式論理学上,
真である。数学的手続きの命題内容は偽である。作図によって三角形に関する命題は内容上偽となる。偽となっ た三角形の断片は,証明の終わりに再興される。作図における否定状態は,命題内容の虚偽状態である。
⑴ 数学的証明は事象にとって外からなされる。
ImmathematischenErkennenistdieEinsichteinfürdieSacheäußerlichesTun;
数学的認識では,納得するということは,事象にとって外からのいとなみである。
《註解》 ここで主観が納得することは数学的証明を意味している。
⑵ 補助線は図形を変化させる。
esfolgtdaraus,daßdiewahreSachedadurchverändertwird.
そこから帰結することは,その数学的認識によって真の事象は変えられることである。
《註解》 たとえば,補助線によって,一つの図形という真の事象が分割されることを意味している。
⑶ 数学的証明の命題は形式論理学上,真である。
DasMittel,KonstruktionundBeweis,enthältdaherwohlwahreSätze;
作図と証明の手続きがふくんでいる諸命題は,たしかに真である。
《註解》 形式論理学上,主語と述語との関係からは,数学的手続きによる諸命題は真なのである。
⑷ 数学的手続きの命題内容は偽である。
aberebensosehrmußgesagtwerden,daßderInhaltfalschist.
が,〔命題形式に関してと〕同様に言われなければならない,〔命題〕内容は偽なのである。
《註解》 哲学命題の場合は,形式が偽で内容が真理なのであるが,数学命題の場合は反対なのであ る。
⑸ 作図によって三角形に関する命題は内容上偽となる。
DasDreieckwirdindemobigenBeispielezerrissenundseineTeilezuanderenFiguren,diedie Konstruktionanihmentstehenläßt,geschlagen.
さきにあげた例でいえば,三角形は引き裂かれその諸部分は,作図が生ぜしめるところの他のさまざ まの図形にくりこまれる。
《註解》 三角形が作図によって諸部分に引き裂かれ,それらがくりこまれた図形を内容とする命題が 生ずる。この命題では,三角形が引き裂かれていて内容上偽となっている。
⑹ 偽となった三角形の断片は,証明の終わりに再興される。
ErstamEndewirddasDreieckwiederhergestellt,umdaseseigentlichzutunist,dasimFort- gangeausdenAugenverlorenwurdeundnurinStücken,dieanderenGanzenangehörten,vorkam.
終わりになってやっと,本来の問題である三角形が再興される。それは証明の進行中には見失われ,
他の全体に属していた諸断片としてだけ現われていた。
《註解》 偽となるのは,三角形の諸部分が,他の図形の部分となり断片となっているからである。
⑺ 作図における否定状態は,命題内容の虚偽状態である。
―HiersehenwiralsoauchdieNegativitätdesInhaltseintreten,welcheeineFalschheitdessel- benebensogutgenanntwerdenmüßtealsinderBewegungdesBegriffsdasVerschwindenderfest- gemeintenGedanken.
―こうしてわれわれも,ここに〔命題〕内容の否定状態が歩み入っているのを見る。その状態は,
概念の運動で,固定的に思われていた思想が消失する場合と同じく,内容の虚偽状態と呼ばなければな らない。
《註解》 作図における否定状態も,概念運動での悟性規定の消失と同じく虚偽状態である。
しかし,前者は作図という外からの否定運動であるのに対して,後者は概念の内からの否定運動なので ある。
《第
44
節》要 旨
幾何学的認識は,認識とその素材の両方に関係がある。幾何学的認識では作図の必然性は不明瞭である。作 図は外からの盲従への指示である。作図は外からの目的を証明する。幾何学的証明の始まりは必然ではない。
幾何学的証明の運動には内的必然はない。
⑴ 幾何学的認識は,認識とその素材の両方に関係がある。
DieeigentlicheMangelhaftigkeitdiesesErkennensaberbetrifftsowohldasErkennenselbstals seinenStoffüberhaupt.
だが,この認識に固有の欠陥は,認識それ自身と,その素材一般との両方に関係がある。
《註解》 ここで,ヘーゲルは,幾何学的認識の欠陥を,認識とその素材の両面でこれから解明する。
⑵ 幾何学的認識では作図の必然性は不明瞭である。
―WasdasErkennenbetrifft,sowirdfürserstedieNotwendigkeitderKonstruktionnichteing- esehen.
―認識については,まず何よりも,〔証明で用いられる〕作図の必然性が見透かされていない。
《註解》 ここでは,作図で補助線を引いたりすることの必然性が,幾何学的認識の内側からは見透か されないことが言われている。
⑶ 作図は外からの盲従への指示である。
SiegehtnichtausdemBegriffedesTheoremshervor,sondernwirdgeboten,undmanhatdies- erVorschrift,geradedieseLinien,derenunendlichanderegezogenwerdenkönnten,zuziehen,blin-
dlingszugehorchen,ohneetwasweiterzuwissen,alsdengutenGlaubenzuhaben,daßdieszur FührungdesBeweiseszweckmäßigseinwerde.
その作図は,定理の概念から出てくるのではなく,むしろ命令されるのである。すなわち,他にも無 数に線が引かれうるのに,まさにこの線を引けと指図される。そして,これが証明をやってゆく目的に 合っているのだろうと,他愛なく信ずる以上には知るところもなく,盲従するように指図される。
《註解》 作図は,図形に対する否定性であるが,定理の概念の外からの命令なのである。そして,そ の命令は,盲従への指示である。
⑷ 作図は外からの目的を証明する。
HintennachzeigtsichdennauchdieseZweckmäßigkeit,diedeswegennureineäußerlicheist, weilsiesichersthintennachbeimBeweisezeigt.
はたして,あとになれば,そのやり方が目的にかなっていたこともわかる。それで,この合目的性 は,証明においてあとになってはじめて明らかになることなのであるから,たんに外からの合目的性に すぎない。
《註解》 作図は,外からの目的にかなっているだけであって,哲学的認識が目指す内側からの目的に はかなわないではないことが明らかにされている。
⑸ 幾何学的証明の始まりは必然ではない。
EbensogehtdiesereinenWeg,derirgendwoanfängt,manweißnochnichtinwelcherBeziehu- ngaufdasResultat,dasherauskommensoll.
この合目的性と同様に,この証明は,どこかあるところではじまる道を進むが,そこから生じてくる はずの結果に対し,いかなる関係にあるかはまだ知られないでいる。
《註解》 哲学的認識では,結果は,始まりに対して否定の否定という関係にあるが,幾何学的証明で は,作図による始まりには結果は含まれていない。
⑹ 幾何学的証明の運動には内的必然はない。
SeinFortgangnimmtdieseBestimmungenundBeziehungenaufundläßtandereliegen,ohne daßmanunmittelbareinsähe,nachwelcherNotwendigkeit;einäußererZweckregiertdieseBewe- gung.
そして,その証明が進められるにしたがって,かくかくの規定や関係がとりあげられ,他は捨ておか れるが,それがどんな必然性によってのことか,人は直接に見透かしてはいないことになる。この運動 を支配しているのは,外からの目的なのである。
《註解》 幾何学的証明の運動は,その概念から見れば,必然的なのであるが,その運動そのものとし ては,作図の命令に従っているだけである。これは,(4)の解説である。
《第
45
節》要 旨
数学的認識の明証性には欠陥がある。数学の目的・概念は大きさである。大きさは非哲学的相互関係である。
数学的認識は事象そのものにかかわらない。数学の素材は,空間と一である。概念は,空間で定在となるが,
死んでいる。数学的空間は非現実的である。数学の非現実性には,直観も哲学も関係しない。幾何学の公理や 定理は固定され死んでいる。公理や定理には必然的関係はない。幾何学の公理や定理は,運動せず,事象その ものの本性に関係がない。数学的明証は,等しさに従っている。等しさには自己運動がない。数学の考察対象 は大きさである。幾何学は,空間の大きさだけを問題にする。幾何学は対象どうしの相関関係などを考えない。
円の直径と円周との関係は,無限であって概念の関係である。
⑴ 数学的認識の明証性には欠陥がある。
DieEvidenzdiesesmangelhaftenErkennens,aufwelchedieMathematikstolzistundwomitsie sichauchgegendiePhilosophiebrüstet,beruhtalleinaufderArmutihresZwecksundderMangel- haftigkeitihresStoffsundistdarumvoneinerArt,diediePhilosophieverschmähenmuß.
このように欠陥のある認識であるのにかかわらず,数学は,その認識が明証性をもつということを誇 りとし,哲学に対してもいばってみせる。しかしこの明証性は,数学の目的が貧弱であり,数学の素材 に欠陥があることに由来するのであるから,哲学としては軽蔑せざるをえないたちのものである。
《註解》 ここで,へーゲルは,数学的認識の明証性が,数学の目的が貧弱であることと数学の素材に 欠陥があることを明示し,その二点で哲学的認識より劣ることを暗示している。
⑵ 数学の目的・概念は大きさである。
―IhrZweckoderBegriffistdieGröße.
数学の目的あるいは概念となっているのは,大きさである。
《註解》 (1)の欠陥は,数学には,その到達点あるいは概念として大きさしかないことにある。ここ での概念は,ヘーゲル固有の概念ではない。
⑶ 大きさは非哲学的相互関係である。
Diesistgeradedasunwesentliche,begriffloseVerhältnis.
大きさは,まさに,非本質的で無概念な相互関係にほかならない。
《註解》 ここでいわれている相互関係の非本質性と無概念性は,ヘーゲル固有である。要するには 数と空間といった大きさには,反省による否定的関係がないのである。
⑷ 数学的認識は事象そのものにかかわらない。
DieBewegungdesWissensgehtdarumaufderOberflächevor,berührtnichtdieSacheselbst, nichtdasWesenoderdenBegriffundistdeswegenkeinBegreifen.
だから,そこでは知識の運動はうわべでおこなわれ,事象そのものに,すなわち本質あるいは概念に かかわるのではない。したがってまたそれは,概念的に把握することなのではない。
《註解》 数学的認識が概念的に把握することではない理由として,事象そのものにかかわらないこと が挙げられている。そして,その事象そのものが,本質あるいは概念と言い換えられている。ここから して,事象そのものは,『精神現象学』での絶対概念の現象であることが判明する。
⑸ 数学の素材は,空間と一である。
―DerStoff,überdendieMathematikdenerfreulichenSchatzvonWahrheitengewährt,istder RaumunddasEins.
数学が悦にいって諸真理の富を提供する際の,その素材になっているのは,空間と一とである。
《註解》 空間は幾何学の場面であり,一は算術の場面である。
⑹ 概念は,空間で定在となるが,死んでいる。
DerRaumistdasDasein,woreinderBegriffseineUnterschiedeeinschreibtalsineinleeres, totesElement,worinsieebensounbewegtundleblossind.
空間というものは,概念の区別がそこに書きつけられる定在であるが,それは空虚で死んだ場面であ り,そこでは概念の区別も,空間と同様に不動で生命のないものになっている。
《註解》 空間は,生きた概念の区別が,死んだものとして書きつけられる定在なのである。
⑺ 数学的空間は非現実的である。
DasWirklicheistnichteinRäumliches,wieesinderMathematikbetrachtetwird;
現実的なものは,数学的で考察された相における空間的なものではない。
《註解》 ここでの「現実的なもの」とは哲学の考察対象である。数学では,運動しない空間を考察す るが,現実の空間は運動している。
⑻ 数学の非現実性には,直観も哲学も関係しない。
mitsolcherUnwirklichkeit,alsdieDingederMathematiksind,gibtsichwederdaskonkrete sinnlicheAnschauennochdiePhilosophieab.
数学にとっての物事がそうであるような非現実性には,具体的で感性的直観作用は関係せず,哲学も 関係しない。
《註解》 「感性的直観作用」は,カントが数学的に考察したが,それは抽象的であった。
それに対してヘーゲルは,運動における空間を具体的に感性的に直観することを考察する。
⑼ 幾何学の公理や定理は固定され死んでいる。
InsolchemunwirklichenElementegibtesdennauchnurunwirklichesWahres,d.h.fixierte, toteSätze;
そうした非現実的な場面では,非現実的に真なるものしか,すなわち固定し死んだ諸命題しか存しな い。
《註解》 ユークリッド幾何学の公理や定理を「固定し死んだ諸命題」としている。それらの命題は,
命題の運動を可能としない。
⑽ 公理や定理には必然的関係はない。
beijedemderselbenkannaufgehörtwerden;
命題の運動は,これらの命題のどれにおいても中止されうる。
《註解》 命題が,次の命題を生み出すことがないことを意味している。
⑾ 幾何学の公理や定理は,運動せず,事象そのものの本性に関係がない。
derfolgendefängtfürsichvonneueman,ohnedaßdererstesichselbstzumandernfortbewe- gteundohnedaßaufdieseWeiseeinnotwendigerZusammenhangdurchdieNaturderSacheselbst entstünde.
つぎの命題は,それはそれとして新たにはじまる。最初の命題がそれみずから運動して他の命題へ進 んでゆき,そのような仕方で,事象そのものの本性により必然性連関が生ずるということは,そこには ない。
《註解》 ここから,事象そのものの本性からは,命題の必然的運動が生ずることがわかる。
⑿ 数学的明証は,等しさに従っている。
AuchläuftumjenesPrinzipsundElementswillen―undhierinbestehtdasFormelledermath- ematischenEvidenz―dasWissenanderLiniederGleichheitfort.
一が原理とされ,空間が場面となっているため―このことに数学的明証性なるものの形式上の特性 がある―知識の進行は等しさということに沿っておこなわれる。
《註解》 相等性とは,否定を欠いた同一性である。たとえば,図形の面積の等しさや図形の相似性,
数式の解の等しさなどである。
⒀ 等しさには自己運動がない。
DenndasTote,weilessichnichtselbstbewegt,kommtnichtzuUnterschiedendesWesens,
nichtzurwesentlichenEntgegensetzungoderUngleichheit,dahernichtzumÜbergangedesEntge- gengesetztenindasEntgegengesetzte,nichtzurqualitativen,immanenten,nichtzurSelbstbewe- gung.
なぜならば,死んだものはみずから運動することがないのであるから,本質の区別,本質上の対立や 不等性には達しえないからである。したがってまた,それは,対立しあったものどうしの一方が他方に 移行するという,質的で内在的な自己運動になりえないからである。
《註解》 等しさには,本質の区別,本質上の対立や等しくないことといった否定を経た自己運動がな いのである。
⒁ 数学の考察対象は大きさである。
DennesistdieGröße,derunwesentlicheUnterschied,dendieMathematikalleinbetrachtet.
実際,数学がもっぱら考察するのは,大きさであり,非本質的な区別でしかない。
《註解》 大きさは,本質的区別より低い。
⒂ 幾何学は,空間の大きさだけを問題にする。
DaßesderBegriffist,derdenRauminseineDimensionenentzweitunddieVerbindungender- selbenundindenselbenbestimmt,davonabstrahiertsie;
空間をその諸次元にわかち,それらの次元どうしや次元内部での結合を規定するのは,概念であると いうこと,このことを数学は無視している。
《註解》 数学は,空間の概念0 0を無視する。
⒃ 幾何学は対象どうしの相互関係などを考えない。
siebetrachtetz.B.nichtdasVerhältnisderLiniezurFläche;
たとえば,線の面に対する相互関係といったことを数学は考えない。
《註解》 線の面に対する相互関係といったことは,線や面の質に関係してきて,幾何学の 問題ではなくなるのである。
⒄ 円の直径と円周との関係は,無限であって概念の関係である。
undwosiedenDurchmesserdesKreisesmitderPeripherievergleicht,stößtsieaufdieInkom- mensurabilitätderselben,d.h.einVerhältnisdesBegriffs,einUnendliches,dasihrerBestimmungen- tflieht.
また,数学が円の直径と円周とが比較する場合,両者のあいだの通約不可能性につきあたるが,これ は実は概念の相互関係であり,無限なものであって,数学の規定からは抜け出てしまうものなのであ る。
《註解》 概念の関係には,質も係わってきて度量の問題ともなる。
結びに代えて
へーゲルは,数学的証明ということで,ユークリッド幾何学では必然性が,作図の補助線などで外か ら与えられており,カテゴリーとしては,量の次元を出ないとしている。そこから,質の次元にも係わ る哲学的認識が見えてくる。
ExplikationderVorredederPhänomenologie des Geistes Hegels
(dieAbsätze42-45)
YAMAGUCHISeiichi
Zusammenfassung
ImvorliegendenAbsätzenkritiziertHegeldenmathematischeBeweisunddiemathematischen Evidenz,dievielePhilosophenvomDecartesdurchdenSpinozabiszumSchellingfüreinVorbild derWissenschaftenhalten.DabeiverstehensiehauptsächlichdieeuklidischeGeometrieunterdie Mathematik.WeildermathematischenBeweisäusserlichist,fehltihmdieinnerlicheNotwendigkeit.
UndihreEvidenzhängtvonderPhasederQuantitätoderdieGleichheitdesGrössesab.Dagegen handeltsichesbeiderPhilosophieauchumdiePhasederQualität.DieseInterpretationergibtsich ausdenZusammenfassungen,japanischenÜbersetzungenundKommentarenderAbsätze(42-45)
derVorredederPhänomenologie des GeistesHegels.