平安初期における「十一面儀軌」「千手儀軌」の請 来をめぐって : 初期比叡山を中心に
著者 井上 一稔
雑誌名 文化學年報
号 66
ページ 41‑66
発行年 2017‑03‑15
権利 同志社大学文化学会
URL http://doi.org/10.14988/00027577
平安初期における「十一面儀軌」「千手儀軌」の請 来をめぐって : 初期比叡山を中心に
著者 井上,一稔
雑誌名 文化學年報
号 66
ページ 41‑66
発行年 2017‑03‑15
権利 同志社大学文化学会
URL http://doi.org/10.14988/00027577
平 安 初 期 に お け る
﹁ 十 一 面 儀 軌
﹂ ﹁ 千 手 儀 軌
﹂ の 請 来 を め ぐ っ て
│
│ 初 期比 叡 山 を中 心 に
││
井 上 一 稔
は じ め に 十一
面観 音像 と千 手観 音像 は奈 良時 代か ら信 仰を 集め
︑多 くの 造像 が行 われ てき た︒ その 根底 には 請来 経軌 に基 づ く 陀羅 尼の 功徳 を中 心と する 信仰 があ った
⑴
︒平 安時 代に 入る と︑ 新し い純 密の 経 軌 に 基づ い た 信仰 と 造 像が 行 わ れ る よう にな る︒ 新し い経 軌や 陀羅 尼の 請来 につ いて は︑ 最澄
・空 海・ 円仁
・円 珍請 来目 録の 研究 から 大き な枠 組み が 知 られ てい る︒ 石田 尚豊 氏は
︑四 大師 の請 来目 録を その 相互 関係 に注 意し なが ら︑ 総合 的か つ緻 密に 検討 し︑ 各師 の 入 唐求 法の 目的 まで 抽出 され てい る⑵
︒ 拙稿 では
︑石 田氏 が示 され た総 合的 枠組 みを 基に
⑶
︑十 一面 儀軌
・千 手儀 軌の 二 儀 軌 と陀 羅 尼 の請 来 に 特化 し た 検 討 を加 えて
︑十 一面 観音
・千 手観 音信 仰と 造像 のさ らな る理 解に 向け ての 基礎 を明 らか にし たい と思 う︒ 以下 に十 一面 儀軌 と陀 羅尼
︑次 いで 千手 儀軌 と 陀羅 尼 の 順で 述 べ てい く が
︑拙 稿 でい う 十 一面 儀 軌・ 千 手 儀軌 は
︑
― 41 ―
空 海に よっ て始 めて 請来 され た不 空訳
﹁十 一面 観自 在 菩 薩心 密 言 儀軌 経
﹂・
﹁ 金剛 頂 瑜 伽 千手 千 眼 観自 在 菩 薩 念誦 法
﹂ を 指し てい る︒
*な お本 文中 の史 料引 用に おけ る︿
﹀ 内は
︑小 文字 ある いは 割書 の部 分で ある
︒ 一
十 一 面儀 軌
・ 陀羅 尼 最澄
の﹃ 伝教 大師 将 来 台州 録
﹄⑷
﹃ 伝 教 大師 将 来 越州 録
﹄⑸
に お い て︑ 十一 面 観 音 関係 の 経 軌は 全 く みえ な い
︒空 海
﹃御 請 来目 録
﹄に お いて は
︑不 空 訳﹁ 十 一面 観 自 在菩 薩 経 三巻
︿廿 四 紙﹀
﹂︑
﹁ 梵 字 十一 面 讃 一 巻﹂ が み え る⑹
︒ 両 祖 師 とも
︑奈 良時 代の 雑密 関係 経軌 は全 く請 来せ ず︑ 空海 が純 密の 経軌 であ る不 空訳 をも たら して いる ので ある
︒円 仁 に お い ては
︑﹃ 入 唐 新求 聖 教 目 録﹄ に 長 安 で 得 た 不 空 訳
﹁十 一 面 観 自 在 菩 薩 心 密 言 儀 軌 経 三 巻︿ 不 空﹀
﹂⑺
が み え る
︒ 円 珍 で は長 安 青 龍寺 で 得 た 不空 訳
﹁十 一 面観 自 在 菩薩 儀 軌 経 三巻
﹂が
︑﹃ 青 龍 寺求 法 目 録﹄⑻
・﹃ 日 本 比丘 円 珍 入 唐 求 法 目録
﹄⑼
・﹃ 智證 大師 請来 目録
﹄⑽
にみ られ
︑先 の二 つの 目録 には この 儀軌 が唐
・貞 元十 六 年︵ 八
〇〇
︶円 照 の
﹃貞 元 釈 教録
﹄所 載の もの であ るこ とを 記し てい る⑾
︒ また 円珍 のみ に︑ 奈良 時代 に 既 に 伝わ っ て いた 玄 奘 訳﹁ 十一 面 神 呪 経 一巻
︿玄 奘﹀
﹂ が﹃ 智證 大師 請来 目録
﹄に みら れる
⑿
︒ この よう に十 一面 儀軌 に関 して は︑ 既知 のこ とで はあ るが 空海 が最 初に もた らし
︑天 台に おい て最 澄の 請来 がな か っ たの で︑ 続く 円仁 と円 珍が もた らし たこ とが 確認 でき る︒ ただ 真言 にお いて は︑ 空海 に続 く入 唐僧 に十 一面 儀軌
・ 千 手儀 軌の 請来 はな いこ とが 注意 され る︒ また 円珍 のみ が奈 良時 代に 伝来 して いた 玄奘 訳本 を改 めて もた らし てい る こ とは
︑円 珍の 求法 の一 特徴 とし て挙 げら れる
⒀
︒
平安初期における「十一面儀軌」「千手儀軌」の請来をめぐって ― 42 ―
この よう な請 来事 情に 付帯 して
︑最 澄が 空海 に十 一面 儀軌 を借 用し てい るこ とに 少し 触れ てお きた い︒ 最澄 は︑ 大 同 五年
︵八 一〇
︶正 月十 五日 に﹁ 十一 面儀 軌﹂
﹁ 千手 菩 薩 儀軌
﹂の 借 用 を申 し 込 む が︑ これ は 渡 海前 に 造 った 十 一 面 観 音像 と千 手観 音像 の本 格的 な供 養法 が必 要で ある こと を認 識し たか らで あっ た︒ それ に対 して 空海 は︑ 三巻 の十 一 面 儀軌 のう ち中 巻の みを 貸し 出し てい るの であ る⒁
︒ この 理由 は定 かで ない が
︑上 巻 は 奈良 時 代 に伝 来 し て最 澄 も 知 っ てい た玄 奘訳 など とほ ぼ同 じ内 容で あり
︵像 容 は四 臂 と なる
︶︑ 下 巻 は護 摩 供 を 行う 内 容 なの で
︑供 養 法で あ る な ら 中巻 のみ との 判断 であ ると 思わ れる
︒空 海の 貸与 への 慎重 な態 度が 窺わ れる とい えよ う︒ 最澄 は早 速に この 経軌 を 書 写し
︑三 月五 日に は返 却す る書 状中 で︑
﹁ 恰も 観音 に奉 謁出 来た かの よ う であ る
﹂⒂
と し
︑満 足 した 感 慨 を示 し て い る こと は興 味深 い︒ この 節の 最後 に︑ 空海 の﹃ 根本 大和 尚真 跡策 子等 目録
﹄︵
﹃ 三十 帖 策 子﹄
︶に 十 一 面儀 軌 は みえ る が⒃
︑﹃ 真言 宗 所 学 経 律論 目録
﹄︵
﹃ 三学 録﹄
︶ には 入ら ず︑
﹁梵 字十 一面 讃﹂⒄
の みが 入っ てい る こ と に注 意 し てお き た い︒
﹃三 学 録
﹄と い え ば︑ 空海 が真 言宗 学徒 が学 習す べき リス トを 列挙 した もの であ り︑ 十一 面儀 軌が 含ま れな いと いう こと から
︑十 一 面 観音 に対 する 距離 の置 き方 が仄 見え ると 思 われ る
︒因 み に天 台 に おい て は
︑﹁ 梵 字十 一 面 讃﹂ が全 く 見 られ な い こ と も︑
﹃ 三学 録﹄ と対 比で きる 点で あろ う︒ 二
最 澄 と空 海 の 千手 儀 軌
・陀 羅 尼 の請 来 状 況 千手
儀軌
・陀 羅尼 の請 来状 況は 複雑 であ るの で︑ 最澄
・空 海・ 円仁
・円 珍の 各請 来目 録か ら千 手儀 軌・ 陀羅 尼を 抜 き 出し 一覧 表に した
︒随 時こ の表 を参 照し なが ら︑ 以下 の記 述を 読み 進め てい ただ きた い︒ なお
︑便 をは かる ため に
― 43 ― 平安初期における「十一面儀軌」「千手儀軌」の請来をめぐって
通 し番 号を 付け た︒ 千 手 観 音 関 係 の 儀 軌
・ 陀 羅 尼 請 来 一 覧
①
②
最 澄
﹃ 伝 教 大 師 将 来 台 州 録
﹄ 梵 漢 両 字 千 臂 陀 羅 尼 一 巻 梵 漢 両 字 千 手 陀 羅 尼 一 巻
③
④
⑤
空 海
﹃ 御 請 来 目 録
﹄ 金 剛 頂 瑜 伽 千 手 千 眼 観 自 在 念 誦 法 一 巻 梵 字 千 手 千 眼 真 言 一 巻 梵 字 大 悲 心 真 言 一 巻
⑥
⑦
⑧
⑨
⑩
⑪
⑫
⑬
⑭
⑮
⑯
円
﹃仁 日 本 国 承 和 五 年 入 唐 求 法 目 録
﹄ 金 剛 頂 瑜 伽 千 手 千 眼 観 自 在 菩 薩 修 行 儀 軌 一 巻 金 剛 頂 瑜 伽 千 手 千 眼 観 自 在 菩 薩 念 誦 法 一 巻
﹃ 慈 覚 大 師 在 唐 送 進 録
﹄ 梵 漢 両 字 千 手 千 眼 観 自 在 菩 薩 修 行 儀 軌 一 巻 金 剛 千 手 千 眼 観 自 在 菩 薩 念 誦 法 一 巻
﹃ 入 唐 新 求 聖 教 目 録
﹄
︵ 長 安
︶ 金 剛 頂 瑜 伽 千 手 千 眼 観 自 在 菩 薩 修 行 儀 軌 経 一 巻
︿ 不 空
﹀ 千 手 千 眼 観 世 音 菩 薩 広 大 円 満 無 礙 大 悲 心 大 陀 羅 尼 神 妙 章 句 一 巻 千 手 千 眼 観 自 在 菩 薩 根 本 真 言 釈 一 巻 千 手 千 眼 観 自 在 菩 薩 広 大 円 満 無 礙 大 悲 心 陀 羅 尼 呪 一 巻
︿ 金 剛 智 新 訳
﹀ 梵 字 大 悲 心 真 言 一 本
︵ 揚 州
︶ 金 剛 頂 瑜 伽 千 手 千 眼 観 自 在 菩 薩 修 行 儀 軌 一 巻 金 剛 頂 瑜 伽 千 手 千 眼 観 自 在 菩 薩 念 誦 法 一 巻
平安初期における「十一面儀軌」「千手儀軌」の請来をめぐって ― 44 ―
最澄 は十 一面 儀軌 と同 様に 千手 儀軌 も請 来し てい ない
︒し かし
︑①
﹁梵 漢両 字千 臂陀 羅尼 一巻
﹂②
﹁梵 漢両 字千 手 陀 羅 尼 一巻
﹂︵
﹃ 伝 教大 師 将 来台 州 録
﹄︶ と いう
︑梵 字 と 漢字 が 併 記さ れ た 陀 羅尼 を も たら し て いる
⒅
︒前 者 に 関 し て は
︑安 然の
﹃諸 阿闍 梨真 言密 教部 類総 録﹄ にお いて
︑ 梵
字千 手千 眼真 言一 巻︿ 海﹀ 梵 漢両 字千 手陀 羅尼 一巻
︿澄 私云 上二 同本
﹀ と
して いる とこ ろか ら⒆
︑ 空海 のも たら した
④﹁ 梵字 千手 千眼 真言
﹂と 同本 で あ っ たと 考 え られ る
︒こ の 空海 の 梵 字
⑰
⑱
⑲
⑳
㉑
㉒
㉓
㉔
㉕
㉖
円
﹃珍 福 州 温 州 台 州 求 得 経 律 論 疏 記 外 書 等 目 録
﹄ 梵 字 無 礙 大 悲 心 陀 羅 尼 一 夾
︿ 随 身
﹀
﹃ 青 龍 寺 求 法 目 録
﹄ 千 手 千 眼 観 自 在 大 悲 心 陀 羅 尼 一 本
︿ 金 剛 智 訳
﹀ 金 剛 頂 瑜 伽 千 手 千 眼 念 誦 法 一 巻
﹃ 日 本 比 丘 円 珍 入 唐 求 法 目 録
﹄ 千 手 千 眼 観 自 在 菩 薩 大 悲 心 陀 羅 尼 一 本 金 剛 頂 瑜 伽 千 手 千 眼 念 誦 法 一 巻
⁝ 已 上 並 載 貞 元 釈 教 録 梵 字 千 臂 観 音 大 身 真 言 一 本 梵 字 大 悲 根 本 真 言 一 本
﹃ 智 證 大 師 請 来 目 録
﹄ 千 眼 千 臂 観 世 音 菩 薩 陀 羅 尼 神 呪 経 下 巻
︿ 智 通
﹀
⁝ 已 上 大 乗 経 律 論 部 千 手 千 眼 観 自 在 大 悲 心 陀 羅 尼 一 本
︿ 金 剛 智
﹀ 金 剛 頂 瑜 伽 千 手 千 眼 念 誦 法 一 巻
︿ 不 空
﹀
― 45 ― 平安初期における「十一面儀軌」「千手儀軌」の請来をめぐって
真 言は
︑﹃ 三 学録
﹄で は﹁ 梵字 千手 千眼 儀軌 真言
一 巻﹂⒇
と表 わさ れる から
︑次 に 述 べ る不 空 訳 の千 手 儀 軌中 の 真 言 で はな いか と考 えら れる
︒だ とす れば
︑既 に最 澄の 中に 千手 儀軌 への 関心 が︑ 入唐 中か ら芽 生え てい たこ とが 窺わ れ る
︒ 空海 請来 の千 手儀 軌は
︑﹃ 御 請来 目録
﹄に
③﹁ 金剛 頂瑜 伽千 手千 眼 観 自在 念 誦 法一 巻 十 八 紙﹂ と 記さ れ る
︒こ の 千 手 儀 軌に つ い て は 後 に 再 度 触 れ る こ と に な る が︑
﹁ 十 八 紙﹂ と あ る の は 問 題 で︑
﹃ 大 唐 貞 元 続 開 元 釈 教 録
﹄巻 下
︑
﹃貞 元 新定 釈 教 目録
﹄巻 第 二 十 九に は
﹁二 十 八紙
﹂と あ り
︑﹃ 続 貞 元 釈 教 目 録﹄ で は 二 巻 三 十 二 紙 と な っ て い る
︒
﹃定 本弘 法大 師全 集﹄ によ ると
﹁十 八紙
﹂の 部分 は︑ 底本 と し た宝 厳 寺 本で は 後 筆 の朱 書 と され て い るの で
︑誤 記 と も みら れる が︑ 収録 され てい る不 空訳 の一 一八 部の 経軌 類で
﹃貞 元新 定釈 教目 録﹄ の枚 数と 約五 分の 一に 違い がみ ら れ る︒ この こと から
︑千 手儀 軌の 紙数 の違 いも
︑単 に誤 記と もい えな い問 題が ある
︒た だ同 一経 軌で ある こと は間 違 い ない ので
︑こ の違 いは 保留 とし てお きた い︒ また 空海 には
⑤﹁ 梵字 大悲 心真 言一 巻﹂ がみ られ るが
︑こ の真 言の 実態 はつ かみ にく い︒ そし て﹃ 御請 来目 録﹄ に は み え ない が
︑﹃ 三 十帖 策 子﹄ に﹁ 梵 字 世尊 聖 者 千眼 千 首 千舌 千 臂 観 自在 菩 薩 怛縛 広 大 円満 無 礙 大 悲 心 陀 羅 尼 一 本
﹂ が 載せ られ てい る
︒ これ は︑ 大正 大蔵 経第 二十 所収 の不 空訳
﹁金 剛頂 瑜伽 千 手 千 眼観 自 在 菩薩 修 行 儀軌 経
﹂下 巻 の 最 後に 付け られ て いる 陀 羅 尼 と 同 名 であ り
︑当 儀 軌中 の 根 本陀 羅 尼 と 同一 で あ ると さ れ る
︒ とす れ ば
︑④
﹁梵 字 千 手千 眼真 言﹂ と同 一の 陀羅 尼と なろ うか
︒ま た後 述す るよ うに
︑空 海は 録外 とし て﹁ 唐梵 対書 大悲 瑜伽 本﹂ をも た ら して いる
︒
平安初期における「十一面儀軌」「千手儀軌」の請来をめぐって ― 46 ―
三 円 仁 の千 手 儀 軌・ 陀 羅 尼 だれ
より も多 くの 千手 関係 経軌 及び 陀羅 尼を もた らし たの は円 仁で ある
︒ま ず中 国で の最 初の 求法 の地 であ る揚 州 を 中 心 とし た 成 果で あ る﹃ 日 本 国承 和 五 年入 唐 求 法目 録
﹄︵ 以 下﹃ 承 和五 年 目 録﹄
︶ では
︑⑥
﹁金 剛 頂 瑜 伽 千 手 千 眼 観 自在 菩薩 修行 儀軌 一巻
﹂⑦
﹁金 剛頂 瑜伽 千手 千眼 観自 在菩 薩念 誦法 一巻
﹂を 得て いる こと が知 られ る︒ この 二儀 軌 は
︑円 仁が 帰朝 の後 承和 十四 年︵ 八四 七︶ に作 成さ れ表 進 さ れた
﹃入 唐 新 求聖 教 目 録﹄ に もみ え て い る︵
⑮⑯
︶︒ そ し てこ の二 儀軌 は︑
﹃ 貞元 新定 釈教 目録
﹄巻 第二 十一 に
﹁金 剛 頂瑜 伽 千 手千 眼 観 自 在念 誦 法 一巻
︿経 内 云 菩薩 修 行 儀 軌
﹀﹂ と ある こと から
︑⑥ は内 題を 記し てい るこ とが 判明 する ので あり
︑共 に 不 空 訳の 千 手 儀軌 と 考 えら れ る
︒よ っ て 何故 に円 仁は 同経 軌を 名称 を変 えて 目録 にあ げ請 来し たの かが 問題 にな る︒ この 答え は﹃ 承和 五年 目録
﹄と 内容 は ほ と ん ど同 じ の﹃ 慈 覚大 師 在 唐 送進 録
﹄︵ 以 下﹃ 在唐 送 進 録﹄
︶ の記 載 か ら 解釈 で き るか も し れな い
︒石 田 氏 が 指 摘 さ れ て い る よ う に︑
﹃ 在 唐 送 進 録﹄ に は﹁ 梵 漢 両 字﹂ と い う 表 記 の 付 い た 経 軌 が 多 く み ら れ
︑そ れ ら の ほ と ん ど は
﹃承 和五 年目 録﹄ に記 され てい る経 軌な ので あり
︑千 手儀 軌と して
⑧﹁ 梵漢 両字 千 手 千 眼観 自 在 菩薩 修 行 儀 軌一 巻
﹂ を 見出 すこ とが でき る︒ ここ で﹃ 在唐 送進 録﹄ の奥 書か ら︑ この 目録 を作 成し 経軌 名称 を付 した のは 延暦 寺の 僧綱 で あ るこ とは 考慮 しな けれ ばな らな いが
︑円 珍が 梵漢 両字 儀軌 と漢 訳儀 軌を 区 別 す るた め に︑ 千 手儀 軌 の 場合 に は 外 題 と内 題と を書 き分 けた と考 える のが 妥当 では ない かと 思わ れる
︒ しか しこ の問 題は
︑ま だ解 決し ない
︒﹃ 入 唐新 求 聖教 目 録﹄ の 長安 で 求 め た経 軌 の なか に
⑩﹁ 金剛 頂 瑜 伽千 手 千 眼 観 自在 菩薩 修行 儀軌 経一 巻﹂ が見 られ るか らで ある
︒こ の儀 軌が 梵漢 両字 のも ので あっ たか が問 題に なり
︑そ れに よ
― 47 ― 平安初期における「十一面儀軌」「千手儀軌」の請来をめぐって
っ ては 揚州 で得 た両 儀軌 のど ちら かと 重な るこ とに なる
︒梵 漢両 字の 問題 はい まし ばら く置 くと して
︑重 複の 問題 に 関 して は︑ この よう な揚 州と 長安 の求 得で 重 複す る 経 軌は
︵﹃ 承 和 五年 目 録
﹄の 最 初か ら 三 帙分 の 二 七部 の う ち︶ 千 手 儀軌 を含 めて 十本 ほど あり
︑円 仁は 何ら かの 方針 に依 って いた こと が予 想さ れる
︒そ の方 針と は︑ 長安 とい う場 と そ こに 円仁 がい た時 期に 注目 する と解 釈の 筋が 浮か ぶ︒ それ は長 安で 円珍 の手 元に は揚 州で 得た 経軌 の目 録の 控え は あ った であ ろう が︑ 既に 経軌 類は 日本 に送 って いる ので 無く
︑既 得の 経軌 と長 安所 在の 経軌 を対 校す るこ とは 困難 な 状 況に あっ た︒ 故に 重複 を承 知で
︑再 度得 るこ とに し たと 考 え られ な い だろ う か
︒そ し てこ れ に 千手 儀 軌 の 場合 は
︑ 後 述の よう に長 安と 揚州 の儀 軌に 差異 を見 出し た可 能性 も加 わる
︒ 円 仁の 請 来 目録 に 見 るこ の よ う な複 雑 な 問題 に あ た って
︑﹃ 前 唐 院見 在 書 目録
﹄を み て お こ う︒
﹃ 前 唐 院 見 在 書 目 録
﹄は
︑奥 書よ り一 乗房 仁覚 が寛 治七 年︵ 一〇 九三
︶か ら前 唐院 の見 在書 を勘 定せ しめ 嘉保 二年
︵一
〇九 五︶ 六月 に 完 了し たも ので
︑佐 藤哲 英氏 の前 唐院 の成 立と 円仁 請来 仏典 の伝 持の あり 方を 問題 とし た論 考に 新出 史料 とし て取 り 上 げら れ
︑ 小野 勝年 氏の 解説 と 公 刊が あ る
︒佐 藤 氏は
︑円 仁 の 請来 仏 典 や真 跡 類 は 入滅 直 後 にそ の 住 坊か ら 顕 教 類 は根 本経 蔵に
︑密 教文 献は 総持 院に 移さ れ︑ さら に良 源の とき に前 唐院 に移 され るこ とに なり
︑そ の大 部分 が﹃ 前 唐 院見 在目 録﹄ に認 めら れる こと を示 され た︒ つま りこ の目 録所 載の 文献 は︑ 円仁 請来 本を 中心 とす るも ので あっ た こ と を 述べ ら れ てい る の で ある
︒拙 稿 に とっ て も︑ 重 複の 問 題 を 含む 円 仁 請来 の 千 手儀 軌
・陀 羅 尼 を 考 え る に あ た り
︑こ の 目 録 の 記 載 を み る こ と は 有 効 な 方 法 と な る︒ そ こ で﹃ 前 唐 院 見 在 目 録
﹄の 千 手 儀 軌・ 陀 羅 尼 を 左 に あ げ る 第 ︒ 一厨 子 千手 千眼 観自 在儀 軌一 巻︿ 梵漢
﹀ 第 二厨 子 千手 千眼 観自 在菩 薩広 大円 満無 礙大 悲心 陀羅 尼呪 一巻
︿南 天竺 国三 蔵金 剛智 新訳
﹀
平安初期における「十一面儀軌」「千手儀軌」の請来をめぐって ― 48 ―
千手 千眼 観世 音菩 薩広 大円 満無 礙大 悲心 大陀 羅尼 神妙 章句 一巻
マ マ
千手 千眼 観自 在菩 薩念 誦成 就法 一巻
︿出 日種 護摩 作法 也﹀ 金剛 頂瑜 伽千 手千 眼観 自在 菩薩 修行 儀軌 経一 巻︿ 白 帋唐 本 梵本 在之
又 二巻 黄帋
梵 本无 之 偽本
﹀ 金剛 頂千 手千 眼観 自在 菩薩 密法 行作 壇四 巻︿ 大広 智訳
唐 本﹀ こ こに は︑ 後述 する よう に円 仁の 請来 目録 にみ える 千手 儀軌
︵⑥
=
⑧
︑⑦
=
⑨
︑⑩
︶に 該当 する と考 えら れる 儀軌 名 が 三本 みら れ︑ 陀羅 尼は 第二 厨子 の最 初の 二 本 が円 仁 の 請来 目 録 に みら れ
︵⑪
⑬︶
︑⑫
﹁千 手 千 眼観 自 在 菩薩 根 本 真 言 釈一 巻﹂ と⑭
﹁梵 字大 悲心 真言 一本
﹂が 認め られ ない こと にな る︒ 最後 の﹁ 金剛 頂千 手千 眼観 自在 菩薩 密法 行作 壇 四 巻︿ 大広 智訳
唐 本﹀
﹂ は︑ 不空 の訳 経に はみ えな い も ので
︑円 仁 を 含め て 誰 の 請来 目 録 にも み え ず︑ 不明 の 一 本 で ある
︒ さて
﹃前 唐院 見在 目録
﹄に みえ る儀 軌と
︑円 仁が 揚州
・長 安で それ ぞれ 得た 千手 儀軌 との 関係 を検 討し よう
︒揚 州 で 得た
⑥
=
⑧﹁ 梵漢 両字 千手 千眼 観自 在菩 薩修 行儀 軌一 巻﹂ に関 して は︑ 第一 厨子 の﹁ 千手 千眼 観自 在儀 軌一 巻︿ 梵 漢
﹀﹂ が 相当 しよ う︒ ただ 第二 厨子 の﹁ 金剛 頂瑜 伽 千 手千 眼 観 自在 菩 薩 修 行儀 軌 経 一巻
︿白 帋 唐 本 梵本 在 之 又 二 巻 黄帋
梵 本无 之 偽本
﹀﹂ も 考慮 しな けれ ばな ら な いが
︑こ の 本 は一 巻 本 で 白帋
︵紙
︶の 唐 本 で梵 本 が ある と 注 記 さ れる から
︑少 なく とも 梵漢 両字 本と は考 えら れな い︒ むし ろこ の第 二厨 子の 白帋 で唐 本の 一巻 は︑ 円仁 が長 安で 得 た
⑩﹁ 金剛 頂瑜 伽千 手千 眼観 自在 菩薩 修行 儀軌 経一 巻﹂ に相 当す るの では なか ろう か︵
﹁ 修行 儀軌 経!
﹂ も一 致︶
︒こ の よ うに
⑩を 漢訳 儀軌 とす れば
︑先 に問 題と した
︑円 仁が 長安 で重 複す る千 手儀 軌を 求得 した 理由 とし て︑ 後述 の﹁ 金 剛 頂瑜 伽千 手千 眼観 自在 菩薩 念誦 法﹂ の検 討結 果を 考慮 すれ ば︑ 内題 を用 いる 千手 儀軌 にお いて 梵漢 本と 漢訳 本の 双 方 を請 来す るた めで あっ たこ とに なる
︒
― 49 ― 平安初期における「十一面儀軌」「千手儀軌」の請来をめぐって
因み に割 書部 分に つい て︑
﹁ 梵本 在之
﹂は
︑こ の儀 軌 が 梵本 に 基 づく も の で ある と す る意 味 で あろ う
︒ま た
﹁又 二 巻 黄帋
梵 本无 之 偽本
﹂は
︑黄 帋の 二巻 本は 梵本 に基 づか ない 偽経 とい うこ とに なる が︑
﹃ 大唐 貞元 続開 元釈 教録
﹄ 巻 下 に﹁ 金 剛頂 瑜 伽 千手 千 眼 観自 在 念 誦 法一 巻
︿或 二 巻経 内 題 菩薩 修 行 儀 軌﹀ 二十 八 紙﹂ と し て二 巻 本 のこ と を 記 し てい るこ とに 関係 しよ うか
︒た だ︑ この 箇所 に記 され てい る意 味の 理解 は難 しい
︒ 円仁 が揚 州で 得た
⑦
=
⑨﹁ 金剛 頂瑜 伽千 手千 眼観 自在 菩薩 念誦 法一 巻﹂ に関 して は︑ 第二 厨子 の﹁ 千手 千眼 観自 在 菩 薩念 誦成 就法 一巻
︿出 日種 護摩 作法 也﹀
﹂ が相 当す る可 能性 があ る︒ ここ にみ える 割記 の﹁ 出日 種護 摩作 法也
﹂は
︑ 二 字目 の﹁ 日﹂ が﹁ 四﹂ の誤 記で あろ うか ら︑ 四種 護摩 作法 を出 すと 注記 され てい ると みら れる
︒こ の四 種護 摩作 法 に 関し て︑ 大正 大蔵 経の 所収 本千 手儀 軌は 上・ 下二 巻で ある が︑ 下巻 の尾 題と 思わ れる
﹁金 剛頂 瑜伽 千手 千眼 観自 在 菩 薩念 誦法
﹂の 次に
﹁我 今復 説四 種成 就法
﹂と して
﹁扇 底迦 法︿ 息災 也白
﹀︑ 報 瑟置 迦法
︿増 益也 黄﹀
︑䆬 試羯 囉拏 法
︿敬 愛 也赤
﹀︑ 阿 毘 遮嚕 迦 法︿ 降 伏也 黒
﹀﹂ 以 下 をあ げ て おり
︑ま さ し く四 種 護 摩 の法 を 説 いて い る の で あ る︒ 大 正 大 蔵経 では 注に おい て︑ 底本 の高 麗 蔵経 の 対 校本 と し た甲 本
︵延 久 四 年︿ 一〇 七 二﹀ 写 東寺 三 密 蔵 本︶
・乙 本
︵永 久 四 年︿ 一一 一六
﹀写 東寺 三密 蔵本
︶・ 丙 本︵ 寛治 六 年︿ 一
〇九 二
﹀写 仁 和寺 本
︶の 三 本 共に こ の 部分 は 無 いと 記 し て い る
︒と こ ろが
︑わ が 国 にお い て は 前唐 院 に この 四 種 護摩 を 説 く 千 手 儀 軌 が 存 在 し た こ と が 確 か め ら れ る の で あ る
︒こ こに おい て︑ 円仁 が揚 州で 求得 した
﹁金 剛頂 瑜伽 千手 千眼 観自 在菩 薩念 誦法 一巻
﹂は
︑そ の特 徴と して 最後 に 四 種護 摩を 説く 部分 が備 わっ てい たと みる こと が可 能に なる ので はな かろ うか
︒こ のよ うに
﹃前 唐院 見在 書目 録﹄ と 円 仁請 来目 録の 千手 儀軌 が対 応す るな らば
︑同 名儀 軌で 重複 する かに 見え た三 本が
︑そ れぞ れ内 容に 若干 の差 異が あ っ たと 考え られ る︒ この 節の 最後 に︑ 円仁 が長 安で 得た 千手 観音 陀羅 尼に つい てみ てお こう
︒⑪
﹁千 手千 眼観 世音 菩薩 広大 円満 無礙 大
平安初期における「十一面儀軌」「千手儀軌」の請来をめぐって ― 50 ―
悲 心大 陀羅 尼神 妙章 句一 巻﹂ は︑ 伽梵 達摩
﹃千 手千 眼観 世音 菩薩 広大 円満 無礙 大悲 心陀 羅尼 経﹄ に﹁ 広大 円満 無礙 大 悲 心陀 羅 尼 神妙 章 句 陀羅 尼 曰﹂ と し て説 く 陀 羅 尼に 当 た るも の で あろ う
︒な お 大 正大 蔵 経 に収 録 さ れる 不 空 訳﹃ 千 手 千眼 観世 音菩 薩大 悲心 陀羅 尼﹄ の奥 書に は︑ 享和 元年 に豊 山妙 音院 の快 道が 智積 院慈 順僧 正の 御本 から 書写 した も の で あ るこ と と 共に
︑﹁ 八 家 秘 録云
︑千 手 千 眼観 世 音 広大 円 満 無 礙大 悲 心 大陀 羅 尼 神 妙 章 句 一 巻︿ 仁﹀ 雖 名 有 具 略
︑ 然 応 是 此経
︑此 中 云 説広 大 円 満 無礙 大 悲 心陀 羅 尼 神妙 章 句 故﹂ と し てい る
︒こ れ より す れ ば︑ 円仁 の 請 来 本 は︑ こ の 不空 訳経 から の可 能性 もあ る︒ ただ
︑こ の不 空訳 経は 伽梵 達摩 訳の 抜 粋 と され
︑陀 羅 尼 も同 じ で ある の で
︑伽 梵 達 摩訳 の陀 羅尼 を意 味す るこ とを 指摘 する に留 める こと が穏 当と なろ う︒
⑫﹁ 千手 千眼 観自 在菩 薩根 本真 言釈 一巻
﹂は 他に みえ ない もの で︑ 根本 真言 とあ るこ とか らす れば
︑不 空訳 千手 儀 軌 の 根 本 陀 羅 尼 を 解 釈 し た も の で あ ろ う︒
⑬﹁ 千 手 千 眼 観 自 在 菩 薩 広 大 円 満 無 礙 大 悲 心 陀 羅 尼 呪 一 巻︿ 金 剛 智 新 訳
﹀﹂ は
︑金 剛 智 の 新 訳 の も の で あ る こ と は 明 ら か で︑ 大 正 大 蔵 経
の
No.1061
で あ る︒
⑭﹁ 梵 字 大 悲 心 真 言 一 本
﹂ は
︑先 に実 態が つか みに くい とし た空 海請 来の
⑤﹁ 梵字 大悲 真言 一巻
﹂に 当た る可 能性 が高 い︒ また 円仁 の請 来録 に は 見 え ない も の とし て
︑安 然 の﹃ 諸 阿闍 梨 真 言密 教 部 類総 録
﹄に
﹁梵 字 経 中漢 字 対 注 千 手 陀 羅 尼 一 巻
︿仁 和 上 注
﹀﹂ が あげ られ る︒ 録外 とし て︑ 円仁 の注 のあ る千 手陀 羅尼 をも たら して いる こと が知 れる
︒ 四
円 珍 の千 手 儀 軌・ 陀 羅 尼 円珍
請来 の密 教経 軌は ほと んど 空海 と円 仁に 同じ もの であ るこ とが 指摘 さ れ て いる が
︑千 手 経軌 に お いて も 同 様 で あ る︒ す なわ ち 長 安青 龍 寺 で 得た
⑱﹁ 千 手千 眼 観 自在 大 悲 心 陀羅 尼 一 本﹂
︑⑲
﹁金 剛 頂 瑜 伽 千 手 千 眼 念 誦 法 一 巻
﹂
― 51 ― 平安初期における「十一面儀軌」「千手儀軌」の請来をめぐって
が 主な もの で﹃ 青龍 寺求 法目 録﹄ に記 され てい る︒ また 円珍 の求 得し たも のを 大中 十一 年︵ 八五 七︶ に天 台山 国清 寺 で 整理 した 目録 であ る﹃ 日本 比丘 円珍 入唐 求法 目録
﹄︵
⑳
㉑︶
︑帰 朝の 後天 安三 年︵ 八五 九︶ に総 目録 とし て藤 原良 房 に 送ら れた
﹃智 證大 師請 来目 録﹄
︵
㉕㉖
︶に もみ えて いる
︒ 円珍 の千 手儀 軌に 関し ては
︑興 味深 い奥 書が 伝わ り後 に取 り上 げる が︑ 陀羅 尼を 先に みて おこ う︒ 円珍 の陀 羅尼 で 注 目す べき は︑ 福州 の開 元寺 で婆 羅門 三蔵 の阿 娑阿 哩耶 曼蘇 悉坦 羅︵ 摩掲 陀 国 の 大那 蘭 陀 寺の 三 蔵 般若 怛 羅
︶ よ り
︑
﹁中 天竺 大那 蘭陀 寺貝 多葉 梵字 真言 一夾
﹂と 共 に⑰
﹁梵 字 無礙 大 悲 心陀 羅 尼 一 夾﹂ を与 え ら れて い る こと で あ る︒ 円 珍 は こ れを 随 身 して 求 法 の 旅を 続 け てい る
︒こ の﹁ 梵 字無 礙 大 悲 心陀 羅 尼﹂ が 如何 な る もの か は 難 し い 問 題 で あ る が
︑無 礙大 悲心 陀羅 尼と いう 語句 を含 む近 い名 称の 陀羅 尼と して は︑ 先述 の空 海﹃ 三十 帖策 子﹄ にみ えた
﹁梵 字世 尊 聖 者千 眼千 首千 舌千 臂観 自在 菩薩 怛縛 広大 円満 無 礙 大悲 心 陀 羅尼 一 本﹂
︑ 円 仁請 来 の 伽梵 達 摩 訳と 考 え ら れる
⑪﹁ 千 手 千眼 観世 音菩 薩広 大円 満無 礙大 悲心 大陀 羅尼 神 妙 章句 一 巻﹂
︑ 金剛 智 訳 の⑬
﹁千 手 千 眼観 自 在 菩薩 広 大 円満 無 礙 大 悲 心陀 羅尼 呪一 巻﹂ があ げら れ︑ この 三本 の内 のい ずれ かで あろ うと 思わ れる
︒ この 他円 珍目 録に は︑
㉒﹁ 梵字 千臂 観 音大 身 真 言一 本
﹂㉓
﹁梵 字 大悲 根 本 真 言一 本
﹂の 梵 字陀 羅 尼 が みえ る
︒﹁ 梵 字 千臂 観音 大身 真言 一本
﹂に 関し ては
︑千 臂や 大身 真言 など の表 記か ら︑ 菩提 流志 訳﹁ 千手 千眼 観世 音菩 薩姥 陀羅 尼 身 経︿ 或云 千臂 千眼
﹀﹂
・ 金剛 智訳
﹁千 手千 眼観 世音 菩薩 大身 呪本 一 巻﹂
︵﹃ 貞 元 釈 教録
﹄︶ が 候 補 とし て 浮 かぶ が や は り 決定 はし 難い
︒﹁ 梵 字大 悲根 本真 言一 本﹂ は︑ 不空 訳 千 手儀 軌 に 説く 根 本 真 言の 可 能 性が あ り︑ ま た空 海 目 録・ 円 仁 目録 の⑤
⑭﹁ 梵字 大悲 心真 言一 本﹂ との 関係 が想 定で きる
︒ 円珍 は陀 羅尼 では ない がも う一 点㉔
﹁千 眼 千臂 観 世 音菩 薩 陀 羅尼 神 呪 経 下巻
︿智 通
﹀﹂ を もた ら し てい る
︒円 珍 は こ の経 を大 乗経 律論 部に 分類 して おり
︑わ が国 では 奈良 時代 に伝 わっ てい る経 典な ので
︑他 の入 唐諸 家の 請来 例は な
平安初期における「十一面儀軌」「千手儀軌」の請来をめぐって ― 52 ―
い
︒こ れは 円珍 が玄 奘訳
﹁十 一面 儀軌
﹂を もた らし てい るこ と等 と同 一の 考え によ る事 象で あろ う
︒ さて 円珍 請来 の﹁ 金剛 頂瑜 伽千 手千 眼念 誦法
﹂に は奥 書の 存在 が知 られ てい る︒ それ は智 證大 師全 集四 所収 の﹃ 批 記 集﹄ に載 せら れ た暦 応 三 年︵ 一 三四
〇
︶の 行 弁親 写 本
︑ 先 述し た 大 正 大蔵 経 の 校本 の 乙 本 に み える
︒こ の 奥 書 に 関し ては
︑す でに 後藤 昭雄
氏に よる 研究 があ り︑ 上記 の二 つの 奥書 を 比 較 検討 さ れ てい る
︒そ れ を元 に し て︑ 拙 稿 に関 連す る部 分の 書き 下し を左 に示 す︒ 大
中九 年六 月五 日︑ 全和 上本 を請 ひ之 を対 勘す
︒珍 記す
︒︿ 讃 は別 抄の 如し
︒﹀ 珍 此 本 を將 ち 長 安に 至 り︑ 青 龍 寺法 全 大 師本 を 請 ひ一 度 勘 通 し了 ぬ
︒二 首 の讃 は 末 だ之 を 黏 ず︑ 抄 は 他 紙 に 在 り
︒今 本に 據り 之を 黏加 し︑ 是一 本と し了 ぬ︒ 本 国元 慶六 年八 月十 八日
︑總 持比 丘珍 記す
︒︿ 且 くは 好本 と為 すも
︑他 本を 乗る こと 有る べき 者也
︒﹀ 内
容は
︑円 珍が 記し た二 時期 に分 かれ る奥 書で
︑最 初は 中国 で大 中九 年︵ 八五 五︶ 六月 五日 に記 した もの
︑次 いで 日 本 で 元 慶六 年
︵八 八 二︶ 八月 十 八 日 に記 し た もの で あ る︒ この 奥 書 は︑ 後 半に 少 し 文意 を 捉 えに く い 点 は あ る も の の
︑円 珍の
﹃入 唐求 法行 歴﹄ の記 事を 参照 して 凡そ 以下 のよ うに 解釈 でき よう
︒最 初に
︑大 中九 年六 月五 日に 青龍 寺 の 法全 から
﹃金 剛頂 瑜伽 千手 千眼 観自 在菩 薩修 行儀 軌経 法﹄ を借 りて
︑校 勘を 行っ たこ とを 記し てい る︒ この 仕事 は
﹃行 歴﹄ など から
︑大 中九 年五 月二 十一 日に 長安 城春 明門 の 門 外の 高 家 店に 到 着 し︑ 二 十八 日 に は青 龍 寺 に法 全 を 尋 ね て﹃ 大毘 盧遮 那成 仏神 変加 持経 蓮華 胎蔵 大 悲生 曼 荼 羅広 大 成 就儀 軌
﹄︵ 玄 法 寺儀 軌
︶な ど を貸 与 さ れて 抄 写 し︑ 六 月 三日 に返 還に 青龍 寺に 出向 き
︑ この 時お そら く法 全か ら千 手儀 軌を 借り た と 思 われ る
︒よ っ て大 儀 軌 の書 写 に 続
― 53 ― 平安初期における「十一面儀軌」「千手儀軌」の請来をめぐって
い ての 仕事 であ るこ とが 知れ
︑円 珍が この 儀軌 を重 要な もの と考 えて いた こと がう かが われ る︒ その 後帰 朝し ての 元 慶 六年 八月 十八 日の 奥書 では
︑こ の本 は円 珍が 長安 に持 参し て法 全の 本と 対勘 した こと
︑二 首の 讃が あり それ をこ の 本 に貼 り加 えて 一つ にし たこ とが 記さ れて いる
︒ 二首 の讃 の部 分は 難解 であ るが
︑後 藤氏 の研 究に よっ て解 明が 進 ん で いる
︒氏 は
︑金 剛 寺本 の 千 手儀 軌 に
﹁或 本 此 次置 両三 行ノ 空紙
︑或 本有 讃﹂ の書 入れ があ り︑ これ を大 正大 蔵経 本に つき 合わ すと 第二 十巻 七十 五頁 中段 から 下 段 にか けて
﹁即 誦蓮 華部 一百 八名 讃︑ 普礼 一切 聖衆 誦讃 歎曰
﹂と して 真言 が続 く箇 所で ある こと から
︑奥 書の 讃は 真 言 とい うこ とに なる とさ れ︑ この 二首 が法 全の 本に は書 かれ てい なか った ので ある とさ れた
︒確 かに
︑大 正大 蔵経 本 の 当 該 部 分 は
︑讃 に 当 た る 部 分 で あ り︑ さ ら に 乙 本 に は 大 正 大 蔵 経 本 の 真 言 の 前 に 別 の 長 文 の 真 言 が あ る と 注 さ れ
︑巻 末 に 載せ ら れ てい る
︒こ れ が 金剛 寺 本 の
﹁或 本 有 讃
﹂に 対 応 す る の で あ ろ う
︒ と す れ ば︑ 二 首 の 讃 と は
︑ こ の乙 本の 讃︵ 梵字 の漢 字音 写︶ であ る可 能性 が生 まれ る
︒ 未だ 不明 な所 があ るが
︑こ れま での 解釈 によ って 再度 円珍 の元 慶六 年の 奥書 の意 味を 考え ると
︑後 藤氏 が法 全本 に は 二 首 讃が 書 か れて い な か った と さ れて い る が
︑ むし ろ 逆 で 円 珍 所 持 本 に は 二 首 讃 は な く
︑対 勘 し た 法 全 本 に あ り
︑讃 は長 文で あっ た故 に他 紙に 別抄 とし たと 推測 でき るの では ある まい か︒ 元慶 六年 に円 珍は
︑こ の別 抄の 紙を 円 珍 所持 本に 貼り 付け て一 つと した と考 えら れる
︒円 珍は この よう な作 業を 通じ て︑ 未だ 千手 儀軌 には 校訂 が必 要と 感 じ たと 見え
︑割 書で
﹁且
︵し ばら
︶く 好本 とな すが
︑他 本を 乗︵ はか
︶る こと 有る もの なり
﹂と して おり
︑正 確な テ キ スト の飽 くな き追 求の 姿勢 をみ せて いる
︒こ こに おい ても 千手 儀軌 の本 文中 の讃 に異 なる 系統 のも のが あっ たこ と が 知れ
︑円 仁請 来の 不空 訳千 手儀 軌を 検討 し︑ 梵漢 両字 本︑ 漢訳 で末 に四 種護 摩法 付き 本︑ 漢訳 で四 種護 摩法 の無 い 本 を見 出し たこ とを 合わ せ︑ 唐に おけ る千 手儀 軌は 複雑 に分 かれ る写 本が 存在 して いた こと が窺 える
︒
平安初期における「十一面儀軌」「千手儀軌」の請来をめぐって ― 54 ―
とこ ろで
︑先 の奥 書か ら円 珍が 長安 で対 勘に 使っ た所 持本 はど のよ うな もの であ った かが 問題 とな る︒ 石田 氏が 指 摘 され てい るよ うに
︑円 珍は 入唐 に先 立つ 仁寿 三年
︵八 五三
︶七 月五 日の 大宰 府か らの 公験 に︑ その 携行 品の うち に
﹁経 書 四百 五 十 巻﹂ が含 ま れ て いた こ と が知 ら れ る
︒ 石田 氏 は︑ そ れ は在 唐 中 の校 勘 用 であ っ た と され て お り︑ 首 肯 すべ き御 指摘 であ る︒ 法全 本の 対勘 に使 用さ れた のは
︑日 本か ら携 行さ れた 本で ある と考 える こと がで きる ので あ る
︒後 藤氏 も同 様の 見解 を示 され
︑具 体的 な可 能性 とし て︑ 先述 した 最澄 が空 海に 借覧 を求 めた 空海 請来 本︑ そし て 円 仁請 来本 をあ げら れた
︒果 たし て最 澄の 手元 に空 海請 来本 の写 しが あっ た か は 決め 難 く 思わ れ
︑確 実 に比 叡 山 で 円 珍が 見る こと ので きた もの は︑ 先に 検討 した 円仁 の三 本の 請来 本︑ そし て後 藤氏 と見 解が 分か れる が︑ もう 一つ は 次 に述 べる 空海 が録 外に 請来 した 本の 自筆 書写 本で ある
︒以 下に この 空海 録外 請来 本の 自筆 書写 本を 円珍 が何 故み ら れ たか にに つい て述 べて おき たい
︒ この 空海 録外 請来 本の 自筆 書写 本の 存在 につ いて は︑ 早く に武 内孝 善氏 が第 十三 回大 蔵会 目録 から
︑東 寺三 密蔵 の 二 本の 千手 儀軌 の奥 書を 見出 され たこ とか ら知 られ るよ うに なっ た
︒ 東寺 三 密 蔵 の二 本 は︑ 既 述し た 大 正大 蔵 経 本 の 対校 本の 甲本
・乙 本の こと で︑ 乙本 の奥 書は 上記 の通 りで ある
︒甲 本 の 奥書
に つい て は︑ 武 内氏 の 後 に後 藤 氏 が 金 剛寺 本を 用い て考 究さ れ︑ 大部 分の 解明 がな され た
︒ 拙稿 にお いて も関 係 す る 範囲 で
︑後 藤 氏の 書 き 下し を 引 用 さ せて いた だく
︒
い ふ
藏 本の 批に 云ふ
︑見 説な らく
︑此 の唐 梵対 書の 大悲 瑜伽 本末 両卷 は︑ 並に 是れ 高雄 の空 海和 上︑ 大同 の初 めを 以 つ て︑ 唐從 り大 宰に 歸り
︑自 ら之 を書 し︑ 少弐 田中 朝臣 に付 伝す
︒弐 家の 郎君
︑図 書頭 惟良 貞道 宿禰 に就 いて 学
つい で
か り
まの あ た
問 す︒ 仍つ て︑ 言の 次に 將に 宿禰 に奉 らん とす
︒宿 禰︑ 詮暉 法子 をし て権 に山 坊に 收め しむ
︒圓 珍面 りに 宿禰 に
― 55 ― 平安初期における「十一面儀軌」「千手儀軌」の請来をめぐって
を
誨し
へを 承く
︒要 覽は 意に 任す と云 々︒ 今暉 子没 して
︑人 の之 を收 むる なし
︒故 に以 つて 喚び て珍 が所 に納 る︒ 元 慶五 年五 月十 七日 沙門 円珍 記す
︒ 内容
を︑ お二 人の 成果 を踏 まえ て辿 って おこ う︒ 先ず
︑空 海が 帰朝 し上 京の 許し を待 って 大宰 府に 滞留 して いた 際 に
︑唐 梵対 書の 千手 儀軌 二巻 を自 ら複 写し て︑ 大宰 府の 次官 であ る小 弐で あっ た田 中朝 臣に 付伝 した とす る︒ 武内 氏 は
︑田 中朝 臣は
﹃遍 照発 揮性 霊集
﹄巻 十に
﹁田 小弐 が先 妣の 忌斎 を設 くる が為 の願 文﹂ にみ える 田小 弐で あり
︑田 中 八 月麻 呂で ある とさ れた
︒そ して
︑田 中家 の若 君が
︑図 書頭 であ る惟 良貞 道 宿 禰 につ い て 学問 を さ れた 時 に
︑こ の 儀 軌を 宿禰 に差 し上 げる と言 った
︒そ こで 宿禰 は︑ 円珍 の弟 子で ある 詮暉 をし て山 坊に 収め
︑円 珍に 面に この 空海 の 複 写本 の要 覧は 自由 にし てよ いと 言っ た︒ 今詮 暉が 亡く なり
︑こ の経 軌を 所有 する 人が 無く なっ たの で︑ 円珍 の所 に 納 まる こと とな った
︒ ここ にみ えた
﹁唐 梵対 書大 悲瑜 伽本 末両 卷﹂ とい う記 載か ら︑ 対象 とな る千 手儀 軌は 梵漢 対書 の本 末二 巻本 であ る こ とが 確認 され る︒ そし て空 海﹃ 御請 来目 録﹄ に載 せる
③千 手儀 軌は
︑一 巻本 で梵 漢対 書の 記載 もな いこ とか ら︑ こ の 本は 録外 の請 来儀 軌で ある と判 断で きる
︒ ここ で円 仁の 請来 経を 検討 して きた こ と より
︑こ の 空 海の 録 外 請 来の 千 手 儀軌 は
︑﹃ 在 唐送 進 録﹄ に み えた
⑧﹁ 梵 漢 両字 千手 千眼 観自 在菩 薩修 行儀 軌一 巻﹂ と同 内容 の儀 軌で はな いか と考 えら れて くる
︒た だ一 巻と して いる こと と の 違い は疑 問で ある が︑ 梵漢 両字 の表 記の 仕方 によ り︑ 一巻 にも 二巻 にも 仕立 てる こと がで きた とみ るの が穏 当で あ ろ う か︒
﹃ 大唐 貞 元 続開 元 釈 教 録﹄ 巻下 に は﹁ 金 剛頂 瑜 伽 千手 千 眼 観 自在 念 誦 法一 巻
︿或 二 巻 経 内 題 菩 薩 修 行 儀 軌
﹀ 二 十八 紙﹂ と ある こ と から 漢 訳 本に お い ても 二 巻 と なる も の が存 在 し たの で あ る︒ こ のよ う に 円仁 目 録 から 空 海 請
平安初期における「十一面儀軌」「千手儀軌」の請来をめぐって ― 56 ―
来 録に ない 儀軌 が唐 に存 在し てい たこ とが 確実 にな り︑ また 円仁 は︑ 空海 の録 外の 請来 本ま でも 求め てい たこ とが 明 ら かに なる
︒ この 空海 書写 本が 円珍 に渡 った こと につ いて は︑ 後藤 氏も 述べ られ てい るが
︑佐 伯氏 は円 珍の 母が 空海 の姪 であ る こ とか ら︑ 円珍 は空 海に 真言 密教 の向 学の ため ば かり で は なく
︑親 族 と して の 親 近 感が あ っ たと さ れ︑
﹃ 山王 院 蔵 書 目 録
﹄に 数 点の 空 海 関 連 書 籍 を 指 摘 さ れ る 中 に
﹁千 手 千 眼 瑜 伽 二 巻
︿此 唐 梵 両 字 並 空 海 和 尚 書﹀
﹂ を 見 出 さ れ て い る
︒ま さし く︑ 当該 の空 海書 写の 梵漢 千手 儀軌 の存 在を
︑円 珍の 経蔵 に見 出す こと が出 来る ので ある
︒ では
︑円 珍は この 空海 書写 本を 入唐 に際 して 写し を作 るな どし て携 帯で きた ので あろ うか
︒後 藤氏 は︑ 円珍 がこ の 本 を落 掌し たの は奥 書の 元慶 五年 をそ れほ ど遡 らな い時 点で あっ たと 考え られ
︑携 帯を 否定 され てい る︒ この 点に 関 し て︑ 改め て惟 良貞 道に つい て確 認す るこ とか ら考 えた い︒ 惟良 貞道 は︑ 後藤 氏も 指摘 され るよ うに
︑円 珍伝 の承 和 五 年と 十一 年条 との 間に 交渉 があ る 人物 で
︑﹃ 円 珍伝
﹄に は
﹁契 っ て兄 弟 と な り︑ 生々 世 々 の中
︑交 執 の 志を 欠 く こ と 無 か らん と
﹂と 記 され て い る
︒ 円 珍の 籠 山 行 が 終 わ る の は 承 和 十 二 年
︵八 四 五
︶で あ る か ら 籠 山 中 の こ と で あ る
︒奥 書に は﹁ 図書 頭惟 良貞 道﹂ とさ れ︑ 図書 頭の 任に あっ たの は承 和三 年︵ 八三 六︶ から 同十 三年
︵八 四六
︶で あ る
︒空 海書 写本 が惟 良貞 道の もの とな った のが
︑図 書頭 時代 のこ とだ とす れば
︑円 珍と 兄弟 の契 りを 交わ した 時期 で も ある
︒詮 暉 は 円珍 の弟 子で あり
︑彼 をし て収 めた 山坊 は不 明で ある が
︑比 叡 山 内の 山 坊 であ っ た と思 わ れ る︒ そ う でな けれ ば︑ 籠山 中の 円珍 に︑ 自由 に閲 覧し てよ いと 言う こと はで きな いで あろ う︒ よっ て︑ 円珍 は入 唐前 に空 海 書 写本 を目 にす るこ とが 可能 であ った と考 えら れる ので ある
︒以 上か ら円 珍は わが 国に 伝来 して いた
︑ほ とん どの 千 手 儀 軌 をみ る こ とが 出 来 た と 思 わ れ る︒ 恐 ら く
︑円 珍 が 携 帯 し た 対 勘 用 の 千 手 儀 軌 は︑ ど れ か 一 本 と 言 う よ り は
︑ 各 々の 内容 を踏 まえ て用 意さ れた もの だっ たの では なか ろう か︒
― 57 ― 平安初期における「十一面儀軌」「千手儀軌」の請来をめぐって
円珍 請来 の千 手儀 軌・ 陀羅 尼の 検討 の最 後に
︑元 慶六 年︵ 八八 二︶ 七月 十五 日付 で︑ 円珍 が大 興善 寺の 智慧 輪三 蔵 に 宛 て た書 状 を みて お き た い︒ 円珍 は 書 状に よ っ て聖 教 類 を 懇請 す る その 中 に﹁ 千 手千 眼 観 自 在大 悲 心 陀 羅 尼 一 本
︿或 加菩 薩広 大円 満無 礙﹀
﹂﹁ 千 手千 眼観 世音 大心 呪本
︿二 紙或 加菩 薩﹀
﹂を あ げ て いる
︒こ の 書 状の 年 月 に注 意 す る と
︑元 慶五 年︵ 八八 一︶ 五月 十七 日に 空海 書写 本が 円珍 の所 有と なっ たほ ぼ十 カ月 後で
︑元 慶六 年八 月十 八日 に長 安 で 法全 本を 対勘 した 経緯 を書 いた ほぼ 一カ 月前 であ る︒ 円珍 は空 海書 写本 の入 手を 契機 とし て︑ 再び 千手 儀軌 に関 す る 検討 を始 め︑ 大興 善寺 の智 慧輪 三蔵 に書 状を 出し
︑か つて 自ら が請 来し た千 手儀 軌の 再整 理を おこ なっ たと 推察 で き る︒ 智慧 輪三 蔵に 懇請 した 陀羅 尼の う ち︑ 前者 に 関 して は
︑﹃ 青 龍寺 求 法 目 録﹄ に同 名 陀 羅尼
︵⑱
︶が あ り 金剛 智 訳 で あ った こと がわ かる
︒こ れを
﹃大 唐貞 元続 開元 釈教 録﹄
・﹃ 貞 元新 定釈 教目 録﹄ など に求 める と︑ 金剛 智訳 とし て﹁ 千 手 千眼 観世 音菩 薩大 身呪 本一 巻 二紙
﹂﹁ 千 手千 眼観 自 在 菩薩 広 大 円満 無 礙 大 悲心 陀 羅 尼呪 本 一 本 三紙
﹂と 連 続 し て 記さ れる
︒こ こに 円珍 が求 めた もう 一つ の﹁ 千手 千眼 観世 音 大 心呪 本
︿二 紙 或加 菩 薩﹀
﹂ も︑
﹁千 手 千 眼観 世 音 菩 薩 大身 呪本 一巻
二 紙﹂ とし て見 出せ る︒ ただ
﹁大 心﹂ が﹁ 大身
﹂と なっ てい るな どの 違い があ るが
︑二 紙で ある こ と が共 通す るの で同 陀羅 尼を 指す とみ て誤 りな かろ う︒ 石田 氏は
︑円 珍の 求法 目録 や録 外に も請 来の 形跡 がな く︑ 最 澄
︑空 海︑ 円仁 も請 来し てい ない と指 摘さ れて いる
︒ この よう に円 珍が 智慧 輪三 蔵に 求め た金 剛智 訳の 千手 陀羅 尼二 本に 関し て︑ 自身 で請 来し てい るも のを 改め て求 め て いる 理由 が不 明で ある が︑ もう 一本 の未 請来 の陀 羅尼 を含 めて
︑完 全な 儀軌
・陀 羅尼 を構 成し よう とし てい たこ と が 理解 でき る︒ そし てこ のよ うな 態度 は︑ 成立 年代 は不 明な がら
︑ひ とり 円珍 をし て﹃ 千手 経述 秘記
﹄な る千 手儀 軌 の 注釈 本を 書か しめ るこ とに なっ たの であ る
︒
平安初期における「十一面儀軌」「千手儀軌」の請来をめぐって ― 58 ―
結
び 最澄
・空 海・ 円仁
・円 珍の 請来 目録 から 十一 面儀 軌と 千手 儀軌
︑そ して 各々 の陀 羅尼 を中 心に 検討 して きた
︒振 り 返 って 気づ くこ とを
︑い くつ か述 べて 結び とし たい
︒ まず 陀羅 尼に 関し ては
︑四 者と もに 特に 千手 観音 に関 心が 深く
︑新 しい 陀羅 尼を 求め てい るこ とが わか る︒ そし て そ の陀 羅尼 は梵 字に よる もの も多 く見 られ
︑よ り聖 なる 言葉 に近 づく 努力 がな され てい たこ とが うか がえ る︒ この 点 に 関し て興 味深 い言 葉を
︑先 の円 珍の 智慧 輪三 蔵へ の書 状か ら引 いて おこ う︵ 小野 氏の 現代 語訳
︶︒ ま
た天 地に 対し
︑天 地を 開い たり
︑地 脈を 縮め たり
︵万 廻和 上が これ を行 って いま すが
︶︑ 雨 を祈 り︑ 雨を 止め
︑ 風 を祈 り︑ 風を 止め
︑大 疫病 を止 め︑ 悪虐 な戦 争を 止め
︑呪 詛を 除き
︑怨 みも のを 解き
︑一 切の 病気 を除 き︑ 寿 命 を延 ばす など のこ とに つい ての あら ゆる 印契 とな らび にそ の要 術を 大き な道 のた めに
︑慈 しみ ある 御訓 誨を 垂 れ 給わ んこ とを
︒ こ
の書 状で は千 手観 音に おい ては 二本 の陀 羅尼 を求 めた が︑ その 意味 で奈 良時 代の 陀羅 尼信 仰と 変わ らず 根強 いも の が ある が︑ 全体 とし ては 決し て陀 羅尼 だけ を求 めて いる わけ では なく
︑陀 羅尼 を含 む印 契と なら びに その 要術 を求 め て いる ので ある
︒円 珍の 徹底 的な 校勘 の態 度も
︑単 なる 学術 的校 訂作 業の みな らず
︑そ の儀 軌に よる 諸尊 法の 効験 を 導 く目 的に つな がる 面が 重要 であ った と言 えよ う︒
― 59 ― 平安初期における「十一面儀軌」「千手儀軌」の請来をめぐって
次に 真言 と天 台に おい て︑ 十一 面観 音・ 千手 観音 に対 する 温度 差が 感じ られ る所 があ った
︒空 海以 後の 真言 入唐 僧 が 十一 面観 音・ 千手 観音 に関 して 新し い儀 軌 を求 め て いな い 点 や︑
﹃三 学 録
﹄に 十 一面 儀 軌 が含 ま れ ない 点 か ら︑ 真 言 にお いて は空 海の 請来 経で 完結 した と判 断し
︑ま た奈 良時 代に 信仰 され た観 音経 軌に はあ まり 関心 がな かっ たこ と が うか がわ れよ う︒ 天台 では
︑最 澄が 十一 面儀 軌・ 千手 儀軌 をも たら さな かっ たこ とか ら︑ 円仁
・円 珍が 熱心 に求 得し た︒ 特に 千手 儀 軌 に お いて は
︑唐 に おけ る 千 手 儀軌 に 様 々な 系 統 があ っ た こ とや
︑旧 訳 を 取り 込 ん だ内 容 を 含 む十 一 面 儀 軌 に 対 し て
︑梵 本に 基づ く新 しい 内容 が千 手儀 軌に あっ たこ とも 意欲 的な 請来 の原 因と 考え てよ かろ う︒ 円珍 が﹃ 千手 経述 秘 記
﹄で 指摘 して いる よう に︑ 千手 儀軌 には 理趣 経釈 の内 容を 取り 込ん だ部 分が みら れる ので ある
︒そ して ある いは こ の よう な点 が︑ 空海 をし て最 澄の 千手 儀軌 借用 に慎 重で あっ たこ とに 作用 して いる のか もし れな い
︒ とも あれ 円仁
・円 珍を 通じ てな され た千 手観 音関 係の 儀軌 およ び陀 羅尼 の請 来は
︑比 叡山 にお ける 最澄 以来 の千 手 観 音信 仰の 基盤 を造 った こと は間 違い なか ろう
︒そ して この 基盤 上に
︑延 暦寺 や園 城寺 に伝 来す る千 手観 音立 像の 古 像
︑今 は失 われ たが 文献 から 知ら れる 九世 紀に 収ま る作 例と して
︑東 塔の 山王 院︑ 西塔 の宝 幢院
︑常 行堂
︑千 光院 な ど の多 くの 千手 観音 像が 造像 され たの であ る
︒ 注
⑴ 奈 良 時 代 に は
︑ 耶 舎 崛 多 訳
︑ 阿 地 瞿 多 訳
︵ 陀 羅 尼 集 経
︶︑ 玄 奘 訳 の 十 一 面 経
︑ 菩 提 流 志
︑ 智 通
︑ 伽 梵 達 磨 訳 の 千 手 経 は 伝 来 し て い た
︒ 石 田 茂 作 氏
︵﹃ 写 経 よ り 見 た る 奈 良 朝 仏 教 の 研 究
﹄︶ に よ る と 初 見 は そ れ ぞ れ
︑ 耶 舎 崛 多 訳 が 天 平 十 年
︑ 阿 地 瞿 多 訳 が 天 平 九 年
︑ 玄 奘 訳 が 天 平 五 年
︑ 菩 提 流 志 訳 が 天 平 三 年
︑ 智 通 訳 が 天 平 九 年
︑ 伽 梵 達 磨 訳 が 天 平 十 一 年 で あ る
︒ 奈 良 時 代 に は 雑 密 の 基 本 的 な 十 一 面 観 音 お よ び 千 手 観 音 経 典 は 揃 っ て い た と 言 え る
︒ 造 像 面 で も
︑ 十 一 面 観 音 像 が 白 鳳 期 末 か ら 天 平
平安初期における「十一面儀軌」「千手儀軌」の請来をめぐって ― 60 ―
期 に か け て 優 品 が 多 く
︑ 千 手 観 音 像 は や や 遅 れ る が
︑ 東 大 寺 を は じ め
︑ 葛 井 寺
︑ 唐 招 提 寺 な ど に 作 例 が 伝 わ っ て い る
︒ 道 成 寺 像 や 大 谷 磨 崖 仏 像 も 奈 良 時 代 末 に は 千 手 観 音 像 が 流 行 の 兆 し を 見 せ 始 め て い た こ と を 物 語 る も の と い え る
︒ た だ し 西 大 寺 資 財 帳 に は
︑ 千 手 観 音 像 の 名 が 見 え ず
︑ 千 手 観 音 像 の 造 像 が 広 ま る の は こ れ 以 降 で あ っ た と 考 え て も よ い か も し れ な い
︒
⑵ 石 田 尚 豊
﹁ 空 海 請 来 目 録 を め ぐ っ て
﹂︵
﹃ 青 山 史 学
﹄ 七 一 九 八 二
︑ 後
﹃ 日 本 美 術 史 論 集
﹄ 中 央 公 論 美 術 出 版 一 九 八 八 所 収
︶
﹁ 円 仁 の 揚 州 求 法 に つ い て
﹂︵
﹃ 青 山 史 学
﹄ 八 一 九 八 四
︑ 後
﹃ 空 海 の 起 結
﹄ 中 央 公 論 美 術 出 版 二
〇
〇 四 所 収
︶
﹁ 円 珍 請 来 目 録 と 録 外 に つ い て
﹂︵
﹃ 智 證 大 師 研 究
﹄ 同 朋 舎 一 九 八 九
︑ 後
﹃ 空 海 の 起 結
﹄ 中 央 公 論 美 術 出 版 二
〇
〇 四 所 収
︶
⑶ こ こ で い う 総 合 的 枠 組 み と は
︑ 石 田 氏 の 円 仁
・ 円 珍 の 論 文 に 述 べ ら れ て い る 次 の 文 章 に ま と め ら れ る と 考 え る
︒ 石 田 氏 は
﹁ 円 仁 の 揚 州 求 法 に つ い て
﹂︵ 注
⑵
︶ に お い て
︑ 円 仁 の 求 法 の 基 本 姿 勢 は
﹁ 少 年 の 日 よ り 最 澄 の も と に あ っ て
︑ 空 海 よ り の 借 覧 停 止
︑ 南 都 と の 対 立
︑ 戒 壇 設 立 の 不 成 功 と
︑ 師 の 無 念 を と も に か み し め て き た 円 仁 が
︑ 時 を 得 て 入 唐 僧 に 選 ば れ て 渡 唐 し た の で あ る
︒ 空 海 の も た ら し た 経 典 は こ と ご と く 求 め
︑ さ ら に そ れ を 凌 駕 す る 請 来 こ そ
︑ 円 仁 の 年 来 の 宿 願 で あ っ た と 思 わ れ る
︒﹂ と さ れ た こ と に 尽 く さ れ て い る
︒ 石 田 氏 は
﹁ 円 珍 請 来 目 録 と 録 外 に つ い て
﹂︵ 注
⑵
︶ に お い て
︑ 円 珍 に 関 し て
﹁ 開 拓 者 と し て の 空 海
︑ 円 仁 に み る 量 の 求 法 を 越 え て
︑ 経 軌 の 質 を 求 め よ う と し た
﹂ の が 円 珍 求 法 の 本 質 で あ る と さ れ て い る
︒
⑷ 大 正 蔵55.1055
⑸ 大 正 蔵55.1058
⑹ 大 正 蔵55.1061a,1063c
⑺ 大 正 蔵55.1079c
⑻ 大 正 蔵55.1096a
⑼ 大 正 蔵55.1097c
⑽ 大 正 蔵55.1103a
⑾ 大 正 蔵55.1104a
⑿ 大 正 蔵55.1102b
⒀ 千 手 観 音 関 係 経 典 で も
︑
㉔
﹁ 千 眼 千 臂 観 世 音 菩 薩 陀 羅 尼 神 呪 経 下 巻
︿ 智 通
﹀﹂ を 請 来 し て い る が
︑ こ の 点 に 関 し て は 注 を
― 61 ― 平安初期における「十一面儀軌」「千手儀軌」の請来をめぐって