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養護教諭成立史研究序説
一第1回大都市連合教育会(1916年)と
「一校一一名専任駐在制」学校看護婦一
近 藤 真 庸
はじめに
小・中・高校を問わず,今日ではほとんどの学校で養護教諭の姿をみること ができる。そして,子どもの健康保護・発達保障をすすめる仕事(学校保健)
の中心的な担い手として,養護教諭は今や学校教育現場になくてはならない存 在となっている。
戦後,学校教育法(1947年)によって「養護教諭」と改称されるまでの足跡 を,法規の上からみると,国民学校令(1941年)による「養護訓導」の職制 化,更には,1929(昭和4)年の文部省訓令「学校看護婦二関スル件」にまで
さかのぼることができる。だが実際には,この訓令よりもはるか以前に,すで に学校看護婦の歴史ははじまっている。学校看護婦は法規のあるなしにかかわ らず,長く日本の子どもの健康の守り手として学校教育現場と深いかかわりを もってきたのである。
わが国の学校に初めて看護婦が雇い入れられたのは,1905(明治38)年9 月,岐阜県羽島郡竹ヶ鼻小学校および笠松小学校であるといわれている(1)。
「内務省調査報告」(r大日本私立衛生会誌』第306号,1908.10)に記載された 岐阜県からの報告には,両校での「学校内治療」の様子がおよそ次のように書
かれている。
一校内に治療室を設置し,校医の監督の下で,看護婦がトラホーム罹患児童 (軽症者と疑似症者のみ)に対して放課後点眼を行なっている。薬品代は月 平均8円,看護婦の雇料は1日60銭で,それらはすべて校費によってまかな われている。(p.569〜570)
トラホー一ム洗眼治療を学校内でするための非常勤・巡回制看護婦として雇用
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されたのである。それゆえ,児童のトラホーム罹患率が低下すれぽ直ちに解雇 されている。学校看護婦は,いわば「トラホーム対策という公衆衛生施策が,
学校内へ割り込んだ」(杉浦守邦)かたちで出現したのであった。
しかし,1920年代(大正末期)になると,それ以前の「トラホーム洗眼を主 任務」とした学校看護婦とは質的に明らかに異なった学校看護婦が出現してく
る。1922(大正11)年4月,大阪市北区済美学区内の小学校6校全部に1校1 名の割(一校一名専任駐在制)で看護婦が配置されたのである。その身分及び 職務の特徴は,第1に,学校看護婦を学校長の監督の下にある学校職員として 位置づけたことである。これまでの学校看護婦の多くが,市町村の役所に勤務
し,そこから学校へ派遣され,更に数校を巡回するというかたちをとっていた のに対し,1校に1名の学校看護婦を常勤させ,しかも学校長の監督下におい たのである。特徴の第2は,学校看護婦に課せられた職務の質的な変化・拡大 である。従来のような傷病児童に対する治療の他,教室及び校舎内外の巡視に
よる児童・環境の衛生的配慮をその職務にくわえ,更に,「家庭訪問」とか「家 庭看護法の指導」といった職務を重視していることである。
これらの特徴から明らかなように,大阪市北区済美学区での「一校一名専任 駐在制」学校看護婦の出現は,その後,養護訓導・養護教諭という教職員とし て発展していく上での画期をなすものであったといえる。
先に述べたような特徴をもつ学校看護婦の出現は,とりもなおさず学校にお ける健康保護という機能の拡大・充実を意味している。いいかえれば,教育現 場が学校衛生の役割の重要性を認識し,その不可欠な構成員として学校看護婦 を社会的に承認しはじめたことを示している。その意味で,「一校一名専任駐 在制」学校看護婦の出現は,教育と学校衛生(学校保健)の歴史にとっても重
大な意義をもつものであったと思われる(2)。
こうした問題意識から,「一校一名専任駐在制」学校看護婦の成立過程に目 をやるとき,興味ある一つの事実に気づく。済美学区に学校看護婦が出現する 5年前の1916(大正5)年に,学校看護婦設置をめぐって都市の教育関係者の 間で激論が交わされていたのである。第1回大都市連合教育会での討議(3)がそ れである。ここでの討議は,学校看護婦の設置形態及び職務についてかなり具
体的な点にまで言及しており,そこから当時の教育関係者が描いていた学校看 護婦像がどんなものであったかを知ることができる。
本稿では,学校看護婦設置の動きがでてくる契機を探るとともに,第1回大 都市連合教育会での討議内容の分析を通して,当時の教育関係者の学校看護婦 観を考察する。そして,これらの考察をふまえて,1920年代初頭に現われた「一一 校一名専任駐在制」学校看護婦の骨格が,教育関係者による学校衛生の重要性 への注目とそこから生じてくる学校看護婦設置をめぐる議論のなかでかたちつ
くられてきたものであることを明らかにする。
1.学校看護婦の設置に関する提案の背景
第1回目の大都市連合教育会(主催・東京市教育会)は,1916(大正5)年 11月18日から3日間,東京市役所内の市会議事堂に於て開催された。後で詳し
く述べるように,この会議は,わが国における「一校一名専任駐在制」学校看 護婦の成立にとって,次のような重大な意義をもつものであった。
第1に,この会議での討議題の一つとして「都市小学校に看護婦を置き,学 校医と相侯って保健に関する職務を執らしむるの可否」という提案がなされ討 議されていたこと。
第2に,この提案が,後にわが国最初(4)の「一校一名専任駐在制」学校看護 婦を出現せしめることになる大阪市の教育会(5)から提出されたものであったこ
と。(以下この提案を「大阪提案」と略す。)
第3には,後で詳しくふれることになる論文「学校看護婦」の筆者山口正(6)
が,大阪市教育会の代議員としてこの会議に参加しており,しかも,「大阪提 案」の提案理由発表者をつとめていたこと。
そして第4には,「大阪提案」が討議の結果可決され,その際付帯条件と して,学校看護婦の職務等については主催教育会(東京市教育会)で調査研究 したうえで次回発表することが決議されたこと。
以上4点である。
(1)第1回大都市連合教育会における「大阪提案」の背景
この会議についてまず注目したいのは,ここに提出された討議題(15項目)
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のうちの4項目が,「体育」に関するものであったことである(7)。これについ て開会式(11月18日)の演壇にたった愼山栄次(文部省督学官)は,「体育問 題ノ多イコトハ御同感デアリマス」として,次のように述べている。
「大都市ハ申ス迄モ無ク健康ト云フ点カラ云フト種々不利益ナルコトガ多 イ,……故二都市トシテハ其設備ヲセネバナラヌ,……都市教育問題トシ
くママラ
テ,体育ヲ盛ンニスルト云フコトニ期シマス,」(「大都市連合教育会記録」
r都市教育』第147号,1916.12,東京市教育会,p.40)
体育振興は都市における教育問題の重要課題となっていたのである。
「都市における体育の振興」という問題に対して,いち早く問題提起をして いたのは大阪市であった。大阪市役所教育課は,非衛生的な都市生活によって 「都市に於ける小学児童の体格」が不良になっていることを,統計的手法によ
る研究に基づいて明らかにし,その結果を『日本学校衛生』(8)(第1巻,第6 号,1913.6,大日本学校衛生協会)に発表している。
「大阪にて……其体格を調査したるに,父母並に児童共に市内に生れたる者 は身長に於て最も卓越するも,其他に於ては何れも最劣等にて,特に肝要な る胸囲は身長と相副はず,結局日蔭に育ちたる植物の如く,徒らに細長き身 体を有するを知るべし。……。以て都市生活の非衛生的なるを知るに足るべ
し。」(p.42)
この提起を受けとめ,「都市生活が児童の身体的条件に及ぼす影響」を考察 することによって都市における「教育」の課題を引き出そうとしたのが,山口 正(当時,大阪市視学)であった。「都会生活と身体の鍛錬」(r小学校』第21 巻,10号,1916.8,教育学術研究会、という論文がそれである。
山口は,「大阪市小学校児童身体検査統計表」(1912年4月調査)を用いて
「都会生活が身体的条件に及ぼす影響」を分析し,「都市人口の劣悪なる身体 的条件」を招いている原因は「空気の混濁」,「運動の不足」,「四囲の喧騒にし て五官を甚しく刺激する都市的環境」にあるとして,「都市住民の身体的条件 の劣悪化」防止策について次のように結論づける。
「新鮮なる空気と,適度の運動と,純良なる食物の供給は都会生活の身体に 及ぼす悪果をよく駆逐し得るものであると信ずる」(P.22)
すなわち,山口は,児童の身体の鍛錬と養護こそ,「教育的見地」からみた 有効な防止策である,と考えていたのである。
以上みたように,山口をはじめとする大阪市の教育関係者は,都市教育にお ける重要問題の一つとして「体育」に強い関心を寄せていたのであった。
だが,この論文を見る限りでは,学校衛生面での具体的方策については何も 語られていない。「体育」への関心が「都市小学校二看護婦ヲ置キ」という提 案にまで醸成されるには,いま一つの媒介項が必要であった。
(2)山口正「学校看護婦」の意義
その 媒介項 の役目を果たしたのは,またしても山口正であった。山口の 論文「学校看護婦」がr小学校』(第22巻,3号,1916.11.1)に掲載されたの は,1916(大正5年)11月,先の論文「都会生活と身体の鍛錬」発表の3ヵ月 後,そして,第1回目の「大都市連合教育会」が開催される直前のことであっ
た。
この山口論文こそ,欧米の学校看護婦制度についてのわが国最初の本格的紹 介であった(9)。だが,山口論文の意義は,それにとどまらない。この論文のな かで山口は,近い将来におけるわが国への導入を射程に入れて,学校看護婦制 度についての検討を試みていたのである。しかも,後でみるように,この山口 正という人物は,「一校一名専任駐在制」学校看護婦の成立にも重大な関連を もっていた。その意味で,学校看護婦成立史にとって山口論文のもつ意義は極 めて大きいものであると考えられる。
山口論文は,2つの部分から成っている。前段では,欧米における学校看護 婦の発達史(10)及び現状,更には,学校看護婦の効用・職務についての説明を し,後段部分では,学校看護婦制度をわが国へ導入する際の具体的方法(形態 ・職務内容)についての検討をしている。山口は,「欧米の学校看護婦制度」・
の発達史を次のように評価している。
「看護婦は学校にては児童を診療し,家庭を訪問して父兄に細心の注意を与
ふるに至って,単に学校に於ける学校衛生が,更に進歩して学校児童の教育 酌養護となったのである。」(p.64,傍点引用者)
山口が,欧米の学校看護婦制度の現段階を,「学校児童の教育的養護」とと
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らえていることに注目したい。
ここでひとつ注意しておきたいことは,学校看護婦制度は,「独り都市にの み特設すべきものでなくして地方の学校にも設けねばならぬ」(p.65〜66),と 山口が考えていたことである。理由を次のように述べている。
「蓋し学校児童の養護は勿論一般に都会人に比して遙に衛生思想に乏じマ地 方人心を開発指導すると共に,医師の極めて少なき僻遠の地に在りては容易
(マw)
に疾病上の質疑を明にすることが出来るからである。」(p.65)
このときすでに,山口の関心は「如何に採用すべきか」という問いに達して いた。 「此の学校看護婦制度なるものが,現下の教育界に於て体育衛生方 面の頻りに力説せらるる点より考えても採用否少なくとも参考とすべき価値の
あるものなることは毫も疑いのない所である。」(P.65)山口は学校看護婦の採 用方法を次の3っの場合に分けて考察している。
①ニューヨーク市と同様に「市の直営」にする方法 ②「学校組合の事業」にする方法
③ 「一学校の施設として職員組織中に挿入」する方法
まず①の方法については,「十分なる連絡と統一」(p.65)という点では長所 もあるが,「一看護婦が数校を兼務するときは勤務の時間頗る少く該制度の真 目的を実現せることが出来ない。而して今日学校医に就いて苦しむ時弊と相変 らない結果を生ずる」(p.65)とし,ましてや「地方に於ては学校相互の距離 都市に比して甚大にして,一看護婦が一日に二三校を訪問することが到底不可 能である」(P・66)として,この方法を退けている。
次に,②の方法についても,「是れ主管者が都市或は郡より学校組合に移つ たのみで・其の欠点短所は,前述した所と同じ。」(P.66)として,①の方法同 様に不適当としている。ここに③の方法一「一学校に於て一看護婦を採用す
るの方法」(P.66)一が浮上してくるのである。
「余は此の方法に依る時は多少学校経済を加重するの恐あるかも知れない が,諸種の方面に於て多大の便宜があると思ふのである。」(p.66,傍点引用
者)
「諸種の方面」に於ける「多大の便宜」として,山口が考えていた中味は次
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の点である。
@「養護の方面」(児童の健康状態の観察・救急手当)
⑤「学校の清潔等衛生方面の校務」の処理 ◎「家庭を訪問し社会の衛生思想」を「誘導」
⑥「補助教員」の代用
但し,⑤〜⑥の軽重は必ずしも同じではない。山口は,「養護の方面」及び
「学校清潔等衛生方面」の便宜についてふれた後,次のように述べている。
「以上にて学校看護婦の本務を全ふする理であるが更に家庭を訪問し社会の 衛生思想を誘導し,……。」(p.66,傍点引用者)
すなわち山口は,◎については,「学校看護婦の本務」外の便宜としてとら えていたのである。学校看護婦が果たす「学校児童の教育的養護」の役割一 学校に看護婦を常置し,児童全体を対象とした健康養護にあたらせることの意 義を強調しようとしたものと思われる。更に,⑥についていえぽ,むろん学校 衛生とは直接的な交渉をもたないものである。にもかかわらず,山口があえて
この側面を挙げるにはそれなりの理由があった。「学校経済を加重するの恐」
(p.66)ありとして学校看護婦制度導入を躊躇する議論が出るのを予測し,逆 に「学校経済の見地」(P.66)からの便宜を強調したのであった。事実,次章 でみるように,「学校看護婦」設置に対する反対論者の主要な論拠は,看護婦 採用にあたっての経済的負担の大きさにあったのである。
以上みてきたように,山口は欧米の学校看護婦制度に学びながらも,制度導 入については,わが国の学校衛生の実情を十分考慮し,導入に際しての困難点 や独自の発展方向を見通していた。都市・地方を問わず,1校に1名の専任学 校看護婦を設置する一という山口の構想は,次節でみる「大阪提案」となっ
て第1回大都市連合教育会に提出されることになるのである。
2.学校看護婦設置をめぐるわが国最初の討議 一第1回大都市連合教育会(1916年)一
(1) 「大阪提案」の提案理由
第1回目の大都市連合教育会(主催・東京市教育会)には, 9市の教育会
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(大阪,金沢,名古屋,横浜,仙台,広島,京都,神戸,東京)から37名の代 議員が参加した。そのうち大阪市教育会からは7名(11),山口正(大阪市視学)
もそのひとりであった。山口は体育に関する討議題を審議する第二類議案調査 委員会(12)(委員長・川島元次郎)に所属している。「大阪提案」は,この委員 会で審議されることになっていたのである。
「大阪提案」は「可決」ということで本会議に上程された。報告にたった川 島委員長(25番・京都市主事・京都市教育会)は,「第7号議案」(「大阪提案」)
について,委員会内での審議内容を織り込みながら次のように述べている。
「……委員会デモ其実行方法二就テ種々説ガアリマシタ,例ヘバ看護婦ヲ学 校ノ職員トシテ置クベキモノデアルカ,又ハ保護者会二属セシメテ学校二置 クベキカ,其職務二就テモ何レダケノ範囲二及ブカ,愈々之ヲ実行スルハ調 査研究スベキモノデアルト云フコトヲ付帯条件トシテ,要スルニ都市ノ小学 校二看護婦ヲ置クト云フコトニ向ツテハ之ヲ可トスト決議シタノデアリマ ス。」(「大都市連合教育会記録」,r都市教育』第147号,1916.12,東京市教 育会,p.15〜16,以下引用はすべてこれによる)
委員会での審議のなかで学校看護婦の実施方法についてかなり具体的な討議 がなされていたことがわかる。「学校ノ職員トシテ置ク」かそれとも 「保護者 会二属セシメテ学校二置ク」かという問題がそこでの一つの焦点になっていた
のである。若干の質疑応答があったあと,川島の指名を受けて「理由及び事情 等」(P.20)の説明に立ったのが,山口正であった。山口は次のように述べて
いる。
(vマ
「最前カラ都市二体育ノ必要ナルコトニ就テ種々御説ガアリシタガ,何レモ 積極的方面カラ論ジラレテ居リマス,我々教育者ハ又之ヲ消極的方面カラモ 研究シテ見ナケルバナラナイト思ヒマス,現二疾病二在リ或ハ潜在的ノモノ 等二就テ防御方法ヲ講ズルト云フコトニ就テ,校医ダケデハ我々ノ満足二遠 ガルノ憾ガアル,故二之ヲ助ケル為メニ看護婦ヲ置キ度イ,而シテ外国二於 ケル実際二依ルト看護婦ハ学校医ノ手助ケヲスル以外二校務ヲ手伝ハセルト 聞イテ居リマス,要スルニ之ハ学校衛生ノ機関タルベキ,専任校医ヲ置ク処 ノーツノ階段トシテ置キ度イノデアリマス,現在ノ校医二満足出来ナイ,学
75 校衛生ヲ完全ナラシムル為メニ之ヲ置クト云フコトニ致シ度イノデアリマス
・・・… 」 (P.20)
山口が,「消極的方面」(学校衛生)からの体育の重要性を教育者たちに問題 提起するなかで学校看護婦の設置を提案していることにまず注目したい。単な
る傷病治療対策の要員としてではなく,「潜在的ノモノ等二就テ防御方法ヲ講 ズル」ことも含んだ学校衛生全般にわたる不可欠な構成員として,山口は学校 看護婦の必要性を説いたのである。従来のトラホーム洗眼を主任務とする学校 看護婦とは明らかに異なる学校看護婦像が提出されたのであった。だが,この 提案はすんなりと可決されてはいない。後の議論においては経済的観点からみ た学校看護婦の効益をめぐって賛否が分れることになるのである。
(2) 「大阪提案」に対する反対意見
まっ先に「山口説明」に異議を唱えたのは松下専吉(85番・東京市立本郷尋 常小学校長・東京市教育会)であった。松下は自らの経験を踏まえて次のよう な反対意見を述べている。
「……最モ児童二直接ノ関係アル教師ヲシテ相当ノ成績ヲ挙グルコトヲ得ル ノデアリマスルカラ,衛生室又ハ衛生材料ノ不充分ナル学校二於テ看護婦ヲ 置クト云フコトハ如何デアラウト思ヒマス,若シ之ヲ置クトシタナラバ実二 閑散ナモノデアル,ソレヨリカ教師ヲシテー段ノ努力ヲ尽サシメタ方ガ経済 ノ点二於テモ宜シイト思ヒマス。」(p.20)
松下は,学校看護婦を置くよりも,むしろ教師たちに学校衛生の仕事をさせ るよう一層努力させた方が「経済ノ点」からも得策であると考えていたのであ
る。
続いて,大内俊亮(20番・仙台市視学・仙台市教育会常議員)も,松下に同 意を表して,「別段看護婦ヲ置クト云フ必要ヲ認メマセヌ。」(p.20)と発言し た。松下,大内の反対表明に対して山口は,
(ママ)
「……看護婦ハ閑散ナモノデアリマセソ,若シ専問執務以外二暇ガアレバ校 務ヲ行ラセバ宜シイ,例ヘバ学校ノ統計又ハ往復文書ノ整理等ハ最モ適ハシ イ仕事デアリマス,大阪市デハ之二就テ実例ガアリマス,仮リニ教師ヲシテ 其任二当ラシムトスルモ潜在的ノ病気或ハ虎眼ノ治療等其人ヲ得サレパ実際
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二危険ガ伴フコトヲ思ハネバナリマセソ。」(p.21)
と,答えている(13)。学校衛生の仕事以外にも学校看護婦のやるべき仕事はあ るのだから,経済の点からみてもけっしてi損ではない,というのである。ここ で注意しておきたいのは,「教師ヲシテー段ノ努力ヲ」という松下の意見に対
し,山口が意識的に学校看護婦の専門性を強調する立場から反論している点で ある。学校衛生における教師と学校看護婦の分業・協業の問題も一つの論点と なっていたのである。
「山口答弁」の直後に,もうひとり反対者が現われている。日下部三之介
(34番・東京民論社長・東京市教育会)がそれである。日下部は,「出来得ベ クハ学校医モ廃止シ貰ヒ度イ」(P.21)として次のように言う。
「……筍モ教師ト云フ以上医者ノ方ノコトモ心得テ居ラネバナラナイ,費用 ノ点カラ見テモ看護婦ヲ置ク等トハ容易二許ルサナイコトデアリマス,学校 ノ教師二自分ノ子供トシテ児童ヲ御取リ扱ヒガ願ヘレバ,衛生,体育ノコト ニ就テモ教育上ノ見地カラ,完全ナコトカ出来ヨウト思ヒマス。」(p.21)
松下,大内,日下部にみられる 反対 意見を要約すれぽ,①「学校看護 婦」設置に伴って経済的負担が増大する ②たとえ設置したとしても,それに 見合う 利点 が少ない ③したがって,教師に学校衛生の仕事をさせたほう が(t得策 である,というものであった。つまり,反対論者の主要な論拠は,
「経済的負担増大への危惧」(松下専吉,日下部三之介)と「学校看護婦の 効 益 への不安」(大内俊亮)にあったのである。
(3)賛成論者の側からの反論
松下らの意見に対して反論をおこなったのは,山内鶴吉(16番・横浜市立尋 常高等元街小学校長・横浜市教育会)と岩本雪太(大阪市御津尋常小学校長・
大阪市教育会)のふたりであった。
山内は,「本案ノ提出理由ヲ今承リマシテ,益々其必要ヲ感ジマシタ」とし て,およそ次のように述べている。
一①都市の学校では,「衛生的の事務」まで教師に分掌させることは,「本務 ヲ欠カナケレパ到底出来ナイ仕事」である。②「故二人員ノ都合上経済ガ許 スナラバ看護婦ヲ置イテ,眼疾患者等ノ如ク多クノ児童ニソレソレ手当ヲス
77 ル必要ガアラウ」と思う。③「衛生上ノ仕事ガ日々沢山無イ場合ハ校務ヲ補
助サセルヤウニスレバ,学校二於テハ看護婦位ノ人ガ執ルベキ仕事ハ多々有 リマスカラ決シテ閑散ト云フコトハアリマセソ。」(以上の引用並びに要約は
p.21による)
一方,岩本は,松下らの反対理由を「直二本案ノ必要ヲ感ズル理由デアルマ イカト思ヒマス,」(p.21)として,賛成理由をおよそ次のように語っている。
①「積極的ノ体育」にくらべて「消極的ノ保護,養護等ノ方法」について は,何ら注意が向いていないのが現状である。②たとえぽ,学校医というも のもあるが,「之ハ殆ンド有名無実」である。③ところで,児童の負傷疾病 に関する事故が多発した時に,「職員ガ看護婦ノ職務ヲ執ラネバナラヌモノ ト致シタナラバ,ソレハ実二容易ナラザル負担」である。④また,「仮令職 員が一通り〔学校病に就ての知識……引用者〕心得テ居リマシテモ,尚ホ更 二看護婦ヲ置クベキ必要ヲ感ンズル」のである。⑤更に,たとえ校医がいる とはいっても「専属デナイ校医」では,「日々ノ繁多ナル事故」には,とて も対応できない。⑥こういう時に,看護婦がいれぽ,「消極的方面二就テ遺 憾無ク」力を発揮することができる。⑦ともかく,「教育者」も「消極的方 面」に一層注意を払う必要があるし,「社会ノ人」にも 「消極的方面」重視 の考え方を喚起したい。⑧その意味から,本会議でこの議案を可決すること は,「将来一般ノ人々ニカカル注意ヲ喚起スル」うえで有効であると考える。
以上の引用並びに要約はp.21〜22による)
山内の意見は,基本的には山口の見解と同じである。ところが,岩本は山内 とは異なる角度から学校看護婦の設置を可としているのである。岩本の見解 は,学校衛生は教師にとっても軽視できない仕事の一つであるが,嘱託制学校 医という現状のなかでは教師だけでは十分な仕事はできない,そこに学校看護 婦が加われぽ学校衛生を充実させることができる ということであった。こ れに対し山内の意見のなかには,「衛生的ノ事務」を教師の「自ラ執ル処ノ職
務」としない立場から,いわぽ教師にとっての 雑務 を看護婦に担わせよう とする意図がみうけられるのである。山口にあっても,嘱託制学校医の不備を 補うという発想はあったが,学校衛生における教師の役割にまでまだ目がいっ
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ていなかった。その意味で岩本が提出した論点は,学校看護婦設置をめぐる議 論への重大な問題提起であったといえよう。
山内,岩本両氏の賛成討論を最後に討議は打ち切られた。採決の結果,過半 数を得て「原案」どおり可決した。「記録」には次のように記載されている。
「七.都市小学校二看護婦ヲ置キ学校医ト相侯ツテ保健二関スル職務ヲ執ラ シムルノ可否」
(決)本案ハ小学校教員ニシテ本務ヲ欠キテ児童看護ノ事務ヲ行フハ不可能 ナレバ主催教育会二調査研究ヲ要求シ次回二於テ発表セラレソコトヲ希 望スルノ条件ヲ付シテ調査案ヲ(可決)ス」
(P.9)
実施方案については, 宿題 として主催教育会(東京市教育会)に調査研 究が依頼され,次回の会議(第2回大都市連合教育会)で発表されることにな
ったのである。
3. 「一校一名専任駐在制」学校看護婦の出現
(1)第2回大都市連合教育会での「東京報告」 その内容と意義一一 宿題 となっていたrr大阪提案』についての調査報告書」が東京市教育会 から提出されたのは,翌年(1917年)10月に開催された第2回大都市連合教育
会(主催・大阪市教育会)に於てであった(14)。
東京市教育会から提出された報告書(以下「東京報告」と略す)は,5つの 項目 ①趣旨 ②名称 ③採用 ④定員 ⑤服務一rから構成されている。
後で述べるように,東京市教育会が提出したこの学校看護婦設置のための実施 提案は,山口正の論文「学校看護婦」(1916)及び第1回大都市連合教育会で の議論(1916)と,1922(大正11)年に大阪市済美学区に出現する「一校一名 専任駐在制」学校看護婦とを結びつける 重要文書 であった(15)。
「東京報告」はまず児童看護婦設置のねらいを簡潔に述べている。少し長い 引用になるが,「第一・趣旨」の全文を紹介しておこう。
「児童教育上其の体育に関し大に力を用ひざるべからざるは現時都市の状勢 上最も急を要するものありしかも従来多くは其積極的方面に於て注意せらる
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るに止まり動もすれぽ其の消極的方面に於て閑却せられんとする傾向あり是 を現時小学校に於ける実際に観るも僅に学校医を置き教職員中より学校衛生 掛を設けて其の局に当らしめつつありと錐も学校医は専任なること能はず学 校衛生掛も亦本務たる教職の為めに其暇を得ること難く徒つて傷病児童に対 する手当看護等に於て遺憾砂からずされぽ常時に於て健康診断をなし其の潜 在的疾病を未発に防御するの手段等に到りては蓋し到底不可能の事に属す是 れ特に小学校に児童看護婦を置きて学校医指導の下に保健衛生の事に当らし めんとする所以なり」(「第2回大都市連合教育会報告」,r都市教育』,第158 号,1917.11,東京市教育会,p.9,以下の引用はすべてこれによる。)
「東京報告」が学校衛生に対して大きな期待を抱いていることがわかる。児 童看護婦設置の契機は,なによりもこの 学校が受けもつべき児童の健康保護
という機能 の拡大・充実にあったのである。
児童看護婦に課せられた11項目(16)にわたる服務事項の中味についてみてみ ると,このことは一層明確になる。服務事項の特徴を列挙すれぽ,①児童看 護婦が担当する服務範囲が,傷病児対策(第2項,第4項,第9項)だけでな く,児童全体を対象とした学校衛生業務(第1項,第3項,第5項)にまで拡 大されていること。②「高学年女児の看護法実習指導に関する事項が」明記さ
れたこと。(このことは児童看護婦の職務範囲が管理的側面だけに限定された
のでなく,指導的側面にも拡大されたことを示している)③「家庭訪問に関す る事項」が明記されたこと(父母に対する衛生指導の実施を児童看護婦に期待 したものと考えられる)の以上3点である。ここに示されているように,学校 における児童の健康保護機能の充実への期待はそのまま,児童看護婦の服務範 囲の拡大として現われたのである。もはや,従来のような「数校兼務」の非常
勤職員という形態では,こうした期待に応えられないのは明らかであった。拡 大された職務範囲と職務内容の質的変化に対応しうる実施形態が求められてい
たのである。
「一校一名」の学校看護婦を「学校長の指揮下」に常勤職員という形で置く 一これが東京市教育会が選んだ実施形態であった。こうした特徴に目をやる
とき,東京市教育会から提出された 構想 の骨格が,先に紹介した山口正の
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論文「学校看護婦」であることに気づかされる。だが「東京報告」は,山口論 文をはじめ,第1回大都市連合教育会での「山口説明」及び議論を,ただ単に 整理しただけではなかった。学校看護婦の具体的な服務事項を明記することに
よって学校衛生活動における学校看護婦の位置と役割を明確にしたのである。
すなわち,山口正「学校看護婦」によって理論的基礎が与えられ,第1回大都 市連合教育会ではじめて議論が交された,わが国への「学校看護婦」制度導入 の方案は,東京市教育会によって一層練り上げられ,ここに「一校一名専任駐 在制」学校看護婦を実施するうえでの 雛形 が完成したのである。
わが国最初の「一校一名専任駐在制」学校看護婦が出現するのは,それから 5年たった1922(大正11)年4月のことであった。
② わが国最初の「1校1名専任駐在制」学校看護婦一大阪市済美学区一 大阪市北区済美学区内の全校(済美第一尋常高等小学校から済美第六尋常高
等小学校までの6校(17))に,1校1名の割で看護婦が配置されたのは,1922
(大正11)年4月のことである。済美第一尋常高等小学校(現在の梅田東小)
のr沿革誌(18)』には,この年(1922年)「衛生婦」を設置したということが明 記されている。この時(1922年4月)「学校衛生婦」として採用されたのは「蜂 須賀たま」という人で,r沿革誌』の職員欄をみると,それ以後,1932(昭和
7)年3月まで在職したことがわかる。その後も,1942年9月から12月までの 3ヵ月間を除いて,「学校衛生婦」は存続している(19)。つまり,1922年4月に おける「学校衛生婦」の採用は,けっして一時的・便宜的なものではなかった
のである。
再び『沿革誌』に目をやろう。「学校衛生婦」の職務としてあげられている のは,次の2つの事項 ①「児童生活上ノ疾病怪我等ノ養護法ヲ周到ナラシ ムル」事(養護法の徹底)②「家庭ヲ訪問シテ体育向上ノ鼓吹」をする事(家 庭訪問)である。ここからわかるように,「学校衛生婦」は,当初から学校衛 生全般の担い手として位置づけられていたのである。r沿革誌』にある「児童 教育ノ根本基調ハ其体育ニアル事ヲ看取シ」という記載に注目したい。ここか
ら想起されるのは,論文「学校看護婦」(山口正)の冒頭にある次の一節であ
る。
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丁知力万能の教育的唯知主義は既に過去の産物として歴史的事実の中に葬り 去られた。而して新に体育中心の鍛錬主i義が生れて今や教育界の寵児となっ て居る。」(『小学校』第22巻,第3号,1916.11,p.63)
この当時(1922年)の済美一一小の所在地は,現在の梅田東小と同じ場所(北 区茶屋町1−40)で,国鉄大阪駅から北東に約500mのところにあった。児童 の体格が 都市への人口の集中 に伴って作り出される「都市的境遇」(山口 正)によって劣悪化してきていることが指摘され,体育問題が都市教育上の
「最も急を要する」問題(「第2回大都市連合教育会報告」)とまで考えられて いた当時であったから,「多数ノ児童ヲ収容スル本校」(r沿革誌』)が,「体育」
を重視したのも当然のことと思われる。「積極的方面」に於ける対策としては
「陸上大運動会」(r沿革誌』)の開催,そして,「消極的方面」からの対策とし て,この「学校衛生婦」が設置されたのであった。
次に,「学校衛生婦」たちに期待された職務内容について検討してみること にしよう。済美二小の「看護婦事務取扱規程(20)」(1922年5月制定,以下「規 程」と略す)を「東京報告」と対照するとき,両者の間に多くの共通点がある
ことに気づく。
その第1は,看護婦が学校長及び学校医との問にとり結ぶ関係についてであ る。「規程」は「東京報告」と同様に,学校長の指揮下にある「教員に準ず」
る 常勤 職員として,学校看護婦を位置づけ,「学校医を補助」する者であ ることを各々の条項で明示している。
第2には,その具体的な服務内容についてである。「規程」のなかで,服務 内容にふれた条項は,第3条から第12条までの10項目一①「救急治療」②
「衛生事務」 ③「身体検査並にトラホーム治療」の補助 ④傷病児の「家庭訪 問」⑤教室巡視 ⑥高等科卒業生に対する「家庭看護法の実習指導」⑦校舎 巡視(清潔法施行)⑧病欠児の家庭訪問 ⑨執務日誌の記録及び疾病治療統計 の作成⑩衛生器具並に薬品の整理・保管一である。これらを「東京報告」
に挙げられた11項目(「其の他」を含む)の服務事項と比較対照させてみると,
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表現・順序において若干の違いこそあれ,内容的にはほぼ一致していることが わかる。済美第二小の「規程」の骨格は,すでに「東京報告」のなかに示され
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ていたのである。
おわりに
第1回大都市連合教育会(1916年)での学校看護婦設置に関する提案は,都 市教育者による学校衛生の面からの児童の身体への教育的関心を重要な背景と
しながらも,直接的には,山口正の先駆的論文「学校看護婦」によって展開さ れたモチーフが下敷きになっていた。都市・地方を問わず1校に1名の専任学 校看護婦を置く一というのが山口の 構想 であった。第1回目の会議にお
いては,学校看護婦は必要か否かをめぐって討議がおこなわれた。提案理由の 説明に立った山口が,単なる傷病治療対策の要員としてではなく学校衛生全般 にわたる不可欠の構成員として学校看護婦の必要性を説いていることに注目し たい。これに対して,経済的負担増大への危惧と学校看護婦の 効益 への不 安を主要な論拠に反対意見を述べるものがあったが,結局は,学校看護婦設置 の方向で可決されている。ここでの討議において,重要だと思われるのは次の 点である。ひとつは,学校看護婦の職務が従来の傷病児治療対策から学校衛生 全般にまで拡大されていること,いまひとつは,討議を通じてつねに 学校に おける教師と学校看護婦の分業・協業の問題 が一つの論点になっていたこと である。学校衛生はもはや教師だけでは担いきれなくなっていたのである。拡 大・充実されつつあった学校における健康保護の機能は,その新しい担い手を 必要とした。「一校一名専任駐在制」学校看護i婦の出現は,学校における健康 保護の拡大・充実が教育関係者の間で重要な関心事となるなかで起こった象徴 的な事件であったのである。
〈註〉
(1)杉浦守邦r養護教員の歴史』(1974年,東山書房)
済美学区の学校看護婦に最初に着目したのは杉浦守邦氏である。杉浦氏の学校看護 婦に関する研究にはその他,次のものなどがある。
「養護訓導前史」(1)〜鋤(『健康教室』,1971.7〜1973.9)
(2)私は修士論文「学校看護婦の成立に関する研究一生成期学校衛生の史的展開と
r一校一名専任駐在制』学校看護婦の出現一」(1980年度,東京都立大学)において,
学校看護婦史上の節目をなすと思われる四つの典型的な学校看護婦一(1)岐阜県羽島
83 郡竹ヶ鼻・笠松小学校 (2)岐阜市高等小学校 (3)堺市学校看護婦 (4)大阪市済美学区 の学校看護婦,を学校衛生の史的展開のなかに位置づけることによって,「一校一名専 任駐在制」学校看護婦の歴史的位置を明らかにしようとした。
(3)これについての詳しい内容はこれまで,史料的な制約もあって明らかにされていな かった。杉浦守邦氏は,次のように述べている。
「この協議題に関する大阪市の提案者の氏名・提案理由の説明,討議の状況,翌年 大阪市(東京市…引用者)教育会その他参加教育会からの報告内容等については,ど れをとりあげてもわが国養護教員の歴史の上で,実に重要なもので,筆者も鋭意探索
してみたが,今日までまだ十分な成果を得ていない。」(「養護訓導前史」(7),1972.1,
P.26)
(4)1校に1名の割で看護婦を配置するという試みは,すでに,堺市(1912年),青森
市(1917年)でおこなわれているが,前者は,専任制をとっておらず,また後者は治 療所の職員として設置されている。(両者ともにトラホーム洗眼治療を主任務とするも のであった。)こうした点から,私は,「一校一名専任駐在制」学校看護婦の噛矢は大 阪市であるとするのが妥当と考えている。
(5)1911(明治44)年10月,大阪市の教育の発達を図る目的で創設された私設の教育会
で,会員は1680名(1911年現在),市内の官公史の教育家,名誉職弁護士,医師,実業家など様々な職を有する者によって構i成され,理事長には大阪市長,池上四郎が なっている。(1911年現在)
事業内容としては,教育上の諸問題の研究及び調査,講演会の開催などを行い,事 業部は「1. 社会教育部」,「2. 学校教育部」,「3,体育奨励部」,「4.女子教育部」,
「5.庶務会計部」の5つから構成されている。
私設の教育会ではあったが,府(年額200円)市(年額1500円)から補助金を交付さ れていた。但し,私設団体という性格のため,事業内容についての官庁からの干渉も なく,事業は円滑に進んでいたといわれている。(『大阪市教育紀要(第1回)』大阪市 役所教育部 1920年3月,p.69〜74,『大阪市教育紀要(第2回)』大阪市役所教育部,
1920年12月,p.112〜114)
(6)山口正〔1887年〜1941年〕
「大阪府で生まれ,広島高等師範学校・京都帝国大学を卒業,1915年大阪市の視学 となる。 1925年社会部長となり,1935年退職。大谷大学嘱託教授となり社会事業を講
じた。行政の分野で大正から昭和初期の大阪市社会事業を担当しただけでなく,す でにそのころから社会事業の学者として有名であり,その主著は『社会事業研究』(1934)である。また,日本社会事業史の研究家として知られている。」(『社会福祉事 典』一番ヶ瀬康子他編 1974年 誠信書房p.360〜361)
『社会事業研究』(1934年,日本評論社)の他に,『都市生活の研究』1924年,弘文 堂書房),『日本社会事業の発展』(1938年,甲文堂書店)などの著書がある。
(7) 「体育」に関する討議題は次の4項目であった。
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「六.都市小学校ニアリテハ体操教授ノタメ規程ノ毎週教授時数二更二三時間以内ヲ 加フルコトヲ得ル様其筋二建議スル件(仙台市教育会提出)
七.都市小学校二看護婦ヲ置キ学校医ト相侯ッテ保健二関スル職務ヲ執ラシムル可 否(大阪市教育会提出)
八.都市児童ノ学校外二於ケル体育(広島市教育会提出)
九.都市二於ケル学校児童及ビ生徒ノ体力ヲ増進セシムベキ方案如何(横浜市教育 会提出)」(『都市教育』第147号,1916年12月,p.3)
(8)大日本学校衛生協会(幹事 本図晴之助)の機関誌(月刊)。1913(大正2)年4月
に創刊され,1941(昭和16)年2月,第29巻第2号を以て廃刊となっている。発刊当時は,わが国唯一の学校衛生専門誌として,大正期学校衛生の発展に貢献したといわ れている。
(9)山口論文以前にも欧米の学校看護婦について言及したものはある。武部欽一「学校 医ノ職務論」(r日本学校衛生』第3巻第2号,p.94,1915年2月),石原喜久太郎「学 校衛生の現状及革新の方針」(『現代教育』第31号,1916年3月)がそれである。しか し,いずれも部分的な紹介にとどまっており,欧米における学校看護婦の発達史及び 現状等についての本格的紹介は山口論文が最初である,と言ってよいであろう。 t一
⑩ 「学校看護婦制度の起源」について,山口は,およそ次のように述べている。
一ロンドン市で「瓜々の声」をあげた学校看護婦制度は,ニューヨーク市において
「成長発育」して今日の状態にまで進歩した。軽微な伝染病による登校児童を診療
するため,実験的に,看護婦を市衛生課で雇い入れ,学校(1日4校巡回)へ出仕したことがニュ ・一ヨーク市に於ける学校看護婦の起源である。
(山口正「学校看護婦」r小学校』第22巻第3号,1916年11月)
(11)大阪市教育会の代議員の議席番号,職名,及び氏名は以下の通りである。
「一 大阪市御津尋常小学校長 二 大阪市立工業学校長
大阪市教育会理事三 大阪市育英高等小学校長 四 私立泰西学館長
大阪市教育会理事
五 大阪市南大江尋常小学校長
大阪市教育会理事六 大阪市視学
七 大阪市東平野尋常高等小学校長
岩本 雪太
堀居左五郎 本多左右太
吉岡 哲夫
小笹 国雄 山口 正 阪本 豊策」
⑯ 「第二類議案調査委員」の職名,氏名及び所属教育会名は以下の通りである。
「六 大阪市視学 山口 正 (大阪市教育会)
七大阪市東平野尋常高等小学校長阪本豊策
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一五
二〇
(同上)
名古屋市第三高等小学校長
名古屋市教育会理事 秋山 孫吉 (名古屋市教育会)
横浜市立尋常高等本町小学校長 元泉 久吉 (横浜市教育会)
仙台市視学
仙台市教育会常議員 大内 俊亮 (仙台市教育会)
広島市幟町尋常小学校長 及川 彌平 (広島市教育会)
二五 京都市主事
二七 神戸市学務委員 神戸市教育会評議員
三〇 神戸市立楠尋常高等小学校長 神戸市教育会評議員
三三 東京市本所区会議員
川島元次郎
(京都市教育会)
小磯 吉人
(神戸市教育会)
新井 博次
(神戸市教育会)
長坂 頼幸
(東京市教育会)」
⑯ 「大阪市デハ之二就テ実例ガアリマス」(p.21)と山口は述べているが,これまでの ところ大阪市における「実例」を私は知り得ていない。
㈲ 1917(大正6)年10月19日より21日までの三日間,大阪市役所内市会議事堂に10市 (前回の参加教育会に加え福岡市教育支会も参加)教育会から43名の代議員の参加を
得て開催された。(『都市教育』第158号,1917年11月)
㈹ この「第二回大都市連合教育会」における東京市教育会の代議員の氏名,職名は以 下の通りである。
一 川本宇之介 東京市視学 二 多田房之輔 国民教育社長 三 坪谷善四郎 東京市参事会員 東京市学務委員長 四 日下部三之介 国本新聞社長
五 松下専吉 東京市本郷尋常小学校長
六藤岡真一郎 同 林町尋常小学校長 七守屋恒三郎
東京市教育課長
この「東京報告」の作成過程はこれまでのところ不明であるが,作成にあたった者
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の氏名だけは判明している。東京市教育会評議員会(1917年9月18日)で,上記の多 田,日下部,松下,藤岡の他に「浜田国松」という人物が「調査委員」に嘱託されて
いる。(『都市教育』第157号,1917年10月,p.25〜26)
㈹ 「第二 名称」以下,全文を次に紹介しよう。
「 第二 名称
小学校に採用する看護婦は是を児童看護婦と称す 第三 採用
児童看護婦は看護婦の免許状を有するものにして特に品性の善良なるものを選び 市区長これを嘱託す
第四 定員
児童看護婦は一学校一名を定員とす
但土地の状況によりこれに拠らざることを得
第五 服務児童看護婦は学校長の指図に従ひ左に列挙したる事項につき学校医を補助し其の 執務時間は職員に準するものとす
一 教室衛生及ひ児童の保健に関する事項 二 傷病児童応急手当に関する事項
三 児童身体検査に関する事項
四 伝染病予防トラホーム洗眼皮膚病(伝染性)凍傷種痘等の手当及び消毒に関 する事項
五清潔法施行に関する事項
六 衛生上の調査及び統計事務に関する事項 七 高学年女児の看護法実習指導に関する事項
八 衛生器具器機薬品衛生材料並に衛生室の整理に関する事項 九 傷病欠席児童の家庭訪問に関する事項
一〇 運動会校外教授に於ける衛生事務に関する事項
一一 一一 其の他学校衛生に関する一般事項」(P.9)
㈲ 済美学区の小学校6校の設立年月及び現在の学校名は以下の通りである。
・済美第一1875(明治8)年梅田東 ・済美第二1901(明治34)年菅北 ・済美第三1902(明治35)年曾根崎 ・済美第四1910(明治43)年北天満 ・済美第五 1916(大正5)年 済美
・済美第六 1922(大正11)年 菅北
なお,校名変更は,済美第二,済美第三は1946(昭和21)年,その他の学校は1941
(昭和16)年に行なわれた。(大阪市教育委員会にて筆者調査,1980年7月)
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また,済美学区における就学率(1913年4月15日現在)は,男子98.18%,女子98.37%(平均98,28%)であった。(r大阪市学事統計』自大正十一年至十二年)
⑯看護婦が配置された6校のうちの1つである済美第一尋常高等小学校(現在の梅田
東小学校,以下「済美一小」と略す。)のr沿革誌』をみると,「大正11年度」の項に,
次のような記載がある。
「六 校務
1. (略…引用者)
2. 児童教育ノ根本基調ハ其体育ニアル事ヲ看取シ多数ノ児童ヲ収容スル本校
他二率先シテ,学校二衛生婦ヲ常置シ,消極的事項タル児童生活上ノ疾病怪 我等ノ養護法ヲ周到ナラシムルト共二家庭ヲ訪問シテ体育向上ノ鼓吹ヲナサントス
3. (略…引用者)
4. 本年ハ明治五年学制領布後蝕二五十周年ナルヲ機会二体育奨励ノ為メ秋季 (ママ
二於テ全校陸上大運動会ヲ開催シホ後之ヲ経続スルコトトス。 」
㈲ 『沿革誌』によれぽ,済美第一小学校に在職した学校衛生婦の氏名及び在職期間は 以下の通りである。
・蜂須賀たま
・滝川 さの
・村尾貴美子
・上田マサエ
1922(大正11)年4月〜1932(昭和7)年3月 1932(昭和7)年4月〜1935(昭和10)年3月 1935(昭和10)年4月〜1938(昭和13)年3月 1938(昭和13)年4月〜1939(昭和14)年5月 ・森田たけみ*1939(昭和14)年6月〜1939(昭和14)年9月 ・谷川 静子 1939(昭和14)年9月〜1940(昭和15)年3月 ・大西 隆子*1940(昭和15)年4月〜1941(昭和16)年1月 ・古家 やゑ*1941(昭和16)年2月〜1942(昭和17)年9月 ・原 朋子 1942(昭和17)年12月〜1947(昭和22)年3月
* 杉浦守邦氏の論文「養護訓導前史(5)」(『健康教室』第22巻第13号,1971年11月)
には,「森田たきよ」「古谷やゑ」(p.22,傍点引用者)となっている。また,「大西 隆子」の氏名及び在職期間は記入されていない。
㈲ 大阪市済美第二尋常高等小学校
/
看護婦事務取扱規程
(1922年5月制定)
「第一条 看護婦は学校長の監督を受け学校長及学校医の命に従ひ誠実に其職務に服 すべし
第二条 勤務は校規の定むる所に従ひ教員に準ず
但し出勤は始業一時間前とし全校終業時間を以て退校時とす
第三条 看護婦は校長の許可を得,予め学校医の命を受けて簡単なるものは一時的
救急治療を為すものとす。
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第四条 看護婦は学校医と共に衛生事務に従ひ意見を校長に申告するものとす 第五条 看護婦は校医の身体検査並にトラホームの治療を補助す
第六条 看護婦は児童の疾病に関し校医の意見を承け,その家庭を訪問して治療に
関する指導並に勧奨をなすものとす
第七条 看護婦は毎日一回教室を巡視し,左記事項を調査し,校長並に校医に申告