ア ミ ー ノ
レ ・ ホ ス ロ ー に つ い て
斉
藤
啓
子
イ ン ド ・ペ ル シ ア 詩 の 流 れ は, 11世 紀 の ガ ズ ニ ー 朝 の 北 イ ン ド征 服 を 機 会 に 始 ま る。 小 ガ ズ ニ ー と呼 ば れ た ガ ズ ニ ー 朝 第 二 の 都 ラ ー ホ ー ル の 宮 廷 に は, 西 方 か ら 多 くの 詩 人 が 訪 れ, 活 躍 し た。12世 紀 末 ガ ズ ニ ー 朝 が 衰 退 す る と, 詩 人 達 は ラ ー ホ ー ル か ら デ リー へ と移 っ て 行 っ た。1206年 デ リー ・サ ル タ ナ ッ トの 最 初 の 王 朝, 奴 隷 王 朝 が 成 立 す る。 王 朝 の 歴 代 ス ル タ ー ン は, 文 芸 を 奨 励 し, 詩 人 を 厚 遇 し た。 ま た ダ 当 時 の デ リ ー に は, 中 央 ・西 ア ジ ア か ら モ ン ゴル の 西 征 を 逃 れ て 来 た 詩 人 達 が 集 ま っ て 来 た こ と も あ り, 13世 紀 の 末 に イ ン ド ・ペ ル シ ア 詩 は 最 初 の 黄 金 期 を 迎 え た。 そ の 中 心 と な っ た の が ア ミ ー ル ・ボ ス ロ ー で あ る。 彼 は 「イ ン ドの 鵬 鵡 」の 異 名 で 知 ら れ, 今 日に お い て も 「ペ ル シ ア 語 詩 人 」 「イ ン ド ・イ ス ラ ー ム 文 化 の 祖 」 と し て 親 し ま れ て い る。 (1) 生 涯 と作 品ア ミ ー ル ・ボ ス ロ ー(Abu・al Hasan Yam-in・al-din Amir Khusrau)に ま, 1253年 北 イ ン ドの パ テ ィ ヤ ー り ー で 生 ま れ た。 父 は 中 央 ア ジ ア か ら北 イ ン ドに 移 住 し た トル コ 人 の 軍 人 で, 母 は ラ ー ジ プ ー ト出 身 の 改 宗 ム ス リ ム の 娘 で イ ン ド人 で あ っ た。 ホ ス ロ ー は 幼 少 よ り詩 に 親 し ん だ が, 詩 を 学 ぶ に あ た り特 別 な 詩 人 に 師 事 す る こ と は な く, ペ ル シ ア の 神 秘 主 義 詩 人 サ ナ ー イ ー, サ ア デ ィ ー, ロ マ ン ス 叙 事 詩 詩 人 ニ ザ ー ミ ー 等 の 詩 集 を読 み, そ れ ら を模 倣 し つ っ 独 学 で 学 ん だ と 言 う。 最 初 の 詩 集 「Tuhfat al-Sighar」(青 春 の贈 物)は, 18歳 の 時 に ま と め ら れ た。 ボ ス ロ ー が 宮 廷 詩 人 と し て 出 発 し た の は, 20歳 の 時 で あ る。 そ の 後, 1325年 に 亡 くな る ま で 三 人 の 貴 族 と 五 人 の ス ル タ ー ン に 仕 え た。 ボ ス ロ ー が 三 番 目 に 仕 え た ム ル タ ー ン太 守, 皇 太 子 ム ハ ン マ ドは, サ ア デ ィ ー を 自分 の 宮 廷 に 招 膀 し よ う と し た 程 の 文 芸 愛 好 家 で ボ ス ロ ー 等 宮 廷 詩 人 を 厚 遇 し た。1283年 に 編 纂 さ れ た 二 作 目 の 詩 集 「Wast al-Hayat」(人 生 の盛 り)は, 皇 太 子 ム ハ ン マ ドに 献 げ られ て い る。1285年 ム ル タ ー ン は モ ン ゴ ル の 襲 来 を 受 け, 皇 太 子 は 戦 死 し, ホ ス ロ 一 は モ ン ゴ ル 人 の 捕 虜 と な っ た。 こ の 時 の 様 子 は 「Majunun-o-Leyla」 に 詠 ま れ て い る。 奇 跡 的 に デ リ ー に 生 還 す る こ と が で き た ボ ス ロ ー は, 1288ス ル タ ー ン ・ カ イ ク バ ー ドの 宮 廷 に 召 さ れ, 桂 冠 詩 人 の 称 号 を 授 っ た。 ス ル タ ー ン と そ の 父 の
-934-(26) ア ミー ル ・ホ ス ロー に つ い て (斉 藤) 会 見 の 模 様 を 詠 ん だ 歴 史 叙 事 詩 「Qiran・al-Sa'dayn」(幸 福 な 両星 の 出 会 い)は, ス ル タ ー ン の 要 請 で 書 か れ た も の で あ る。 1290年, ハ ル ジ ー 朝 が 成 立 し た。 初 代 ス ル タ ー ン ・ジ ャ ラ ー ル ・ウ ッ デ ィ ー ン ・ハ ル ジ ー は, ボ ス ロ ー を 高 く評 価 し た。14世 紀 の 宮 廷 史 家Z・ バ ラ ニ ー は, ガ ザ ル 「ス ル タ ー ン ・ジ ャ ラ ー ル ・ウ ッデ ィ ー・ン は ボ ス ロ ー の 拝 情 詩 を 非 常 に 愛 し, ボ ス ロ ー は ス ル タ ー ン の 前 で 毎 日新 し い ガ ザ ル を 発 表 し た。 そ れ に 合 わ せ て 楽 師 や 踊 り子 が 歌 い 踊 っ た。」 と 著 書 「Tarlkh-e Firzshahi」(フ ィー ロー ズ王 の歴 史)に 記 し て い る。1291年, ス ル タ ー ン の 勝 利 を 詠 ん だ 「Miftab al-Futub」 が 書 か れ, 1295年 に は 三 番 目 の 詩 集 「Ghurrat al-Kamal」(完 壁 な 耀 き)が 編 纂 さ れ て い る。 1296年, ア レ キ サ ン ダ ー 二 世 の 異 名 を 持 つ 二 代 目 ス ル タ ー ン ・ア ラ ー ・ウ ッ デ ィ ー ン ・ハ ル ジ ー が 即 位 し た。 彼 の 治 世 の 時, デ リー ・サ ル タ ナ ッ トの 権 威 は, 経 済 政 策 の 充 実, 領 土 の 広 さ と も絶 頂 に 達 し た。 イ ン ド ・イ ス ラ ー ム 文 化 も花 開 き, ホ ス ロ ー は そ の 中 心 で あ っ た。 バ ラ ニ ー は, ア ラ ー ・ウ ッ デ ィ ー ン時 代 の 最 もす ぐれ た 詩 人 と し て ボ ス ロ ー の 名 前 を あ げ 「ボ ス ロー は, 古 今 を通 じて詩 人 達 の王 で あ る。 そ の 作 品数 の 多 さは 驚 異 的 で, 詩 の 技巧 力 の す ば ら し さに か けて, 彼 に 並 ぶ 者 は 今 日ま で 見 た こ とが な い。 これ か ら も見 られ な い で あ ろ う。」 と述 べ て い る。 ボ ス ロ ー は ニ ザ ー ミ ー の 五 部 作(ハ ムセ)に 挑 戦 し て,「Matla'alAmwar」(光 の 上 昇)「Shirin Khusran」(シ ー リー ン とホ ス ロー)「Majnun-o-Leyla」(マ ジユ ヌ ー ン と ラ イ ラ)「Ai-na-i Sikandari」(ア レ キサ ン ダ ー の鏡)「Hasht Bihisht」(八 つ の天 国)を1291年 か ら 1302年 に か け て 執 筆 し た。 こ の 五 部 作 の 完 成 に よ り, ボ ス ロ ー は, ニ デ ー ミ ー や イ ラ ン の 神 秘 主 義 詩 人 で, や は り五 部 作 を 完 成 さ せ た ジ ャ ー ミ ー と供 に, ペ ル シ ア 文 学 史 上 高 い 地 位 を 占 め て い る。 ま た, 1311年 に は 南 イ ン ド遠 征 を 果 し た ス ル タ ー ン の 軍 隊 を 讃 え て, 歴 史 散 文 「Khaza'in al-Futub」(勝 利 の宝 庫)を, 1315年 に は ム ス リ ム の 王 子 と ヒ ン ド ゥー の 王 女 の 恋 物 語 を 詠 ん だ 別 名 「'Ashika」(恋 人 達)と 呼 ば れ る 「Duval Rani Khidr Khan」(デ ュバ ル ・ラ ー ニ ー と ヒ ド ゥ ・レ ・ハ ー ン)を 書 い て い る。1315年, ス ル タ ー ン ・ア ラ ー ・ウ ッ デ ィ ー ン は 亡 く な り, 1316年 に ま と め た 詩 集,「Baqqiya Naqqiya」(清 祥 な残 り)に は, ア ラ ー ・ウ ッ デ ィ ー ン へ あ 挽 歌 も含 ま れ て い る。1318年 に 詠 ま れ た 「Nuh Sipihr」(九 つ の天)は, 三 代 目 ス ル タ ー ン ・ム バ ー ラ フ ・ハ ル ジ ー に 乞 わ れ て 書 い た 作 品 で, 完 成 後 ボ ス ロ ー は 莫 大 な 褒 美 を も ら っ て い る。 ボ ス ロ ー は 若 い 頃 か ら イ ン ド ・チ シ ュ テ ィ ー 教 団 の 神 秘 主 義 者 ニ ザ ー ム ・ウ ッ デ ィ ー ン ・オ ウ リヤ ー と親 交 が あ り, 1310年 頃 に は.弟子 に な っ た と 言 わ れ て い る。
-933-ア ミール ・ホ ス ロ ー に つい て (斉 藤) (27) 壮 年 期 以 後 の 作 品 に ニ ザ ー ム ・ウ ッ デ ィ ー ン ・オ ウ リ ヤ ー の 影 響 が 見 ら れ る た め, ボ ス ロ ー を 神 秘 主 義 詩 人 と す る 者 もい る。 ニ ザ ー ム ・ウ ッ デ ィ ー ン ・オ ウ リー ヤ ー は ボ ス ロ ー の 詩 を 高 く評 価 し, 「Turukullah」(ト ハレコ人 の王)の 称 号 を 与 え て い る。 書 簡 集 「Ijaz-i Khusrauvi」(ボ ス ロ ーの 奇 蹟), 教 説 本 「Afdal・al-Fawaid」 (最 も優 れ た道 徳 律)は ニ ザ ー ム ・ウ ッ デ ー ン と の 交 流 で 生 ま れ た 作 品 で あ る。 1322年, ギ ヤ ー ス ・ウ ッ デ ィ ー ン ・ ト ゥ グ ル ッ ク が 即 位 し, ト ゥ グ ル ッ ク 朝 が 成 立 す る と, ボ ス ロ ー は ス ル タ ー ン に 招 か れ, 1325年 「Tuqhlaq Nama」(ト ゥ ブ ル ック の書)を 献 げ て い る。 そ の 年 ス ル タ ー ン と 師 ニ ザ ー ム ・ウ ッ デ ィー ン ・オ ウ リ ヤ ー は 相 継 い で 亡 く な り, 二 人 へ の 挽 歌 と 言 え る 詩 集 「Nihayat al-kamal」 (完 壁 な る終 り)を 編 纂 す る。 こ の 詩 集 に は1323年 に 旅 行 し た デ ー オ ギ ー ル に っ い て 詠 ん だ 詩 も含 ま れ て い る。1325年9月, ホ ス ロ ー は72歳 の 高 齢 で 亡 く な っ て い る。 (2)作 品 の 特 徴-イ ン ドに つ い て の 記 述 ホ ス ロ ー の 作 品 の 大 き な 特 徴 は, 気 候, 花, 果 実 な ど 日常 的 な 題 材 を 用 い て 「イ ン ド」 に つ い て 詠 ん で い る こ と で あ る。 「デ リーは エ デ ンの 園 の よ うに, 宗 教 と正 義 の 中心 で あ る。」 「イ ン ドの 夏 は, ホ ラ ーサ ンの 夏 よ り も凌 ぎや す い。」 「太 陽 は, イ ン ドに恋 い 焦 が れ てい る。 余 りに激 しい そ の恋 ゆ え に, イ ン ドは この よ う に暑 い の だ。」 他 に も 「Qiram al-Sa'dayn」 に 見 られ る キ ー ロ ク ー リー の 「天 国 の よ う な 新 宮 殿 」 「Duval Rani Khidr Khan」 に 書 か れ て い る 「何 カ 月 も 前 か ら 準 備 さ れ る 華 や か な 結 婚 式 」 「宝 石 に 身 を つ つ み, 白 馬 に 乗 っ て 花 嫁 の 家 に 行 く王 子 」 「宴 に 用 い られ る タ ン ブ ー ル, タ ー ル な ど の 楽 器 」 な ど が 作 品 に 見 られ る。 ま た 「Khaza'in-al-Futub」 「Nihayat・al-Kamal」 に 詠 ま れ て い る デ ー オ ギ ー ル や 南 イ ン ドの ラ ー ジ ャ に っ い て の 描 写 は 興 味 深 い。 デ ー オ ギ ー ル の 果 実 に っ い て 「デ ーオ ギ ール の 果 実 の 前 で は, 世 界 中の 果 実 が 枯 れ て し ま う。バ ナ ナ は三 日月 の よ う に 姿 が 良 く, 味 は祭 りの 日の よ うに心 地 良 い, マ ン ゴ ー は甘 い蜜 と乾 で満 た され た壷 の よ うだ。」 と言 っ て い る。 衣 服 に つ い て は, 「デ ーオ ギ ール の 服 は, 何 と美 しい こ とか。 この 服 を ま と うと, 体 の 上 に きれ い な透 明 な水 が こぼれ 落 ち て い く よ うだ。」 と述 べ て い る。 薄 く, 美 し い 布 と は 絹 の こ と で あ る。 当 時 の 北 イ ン ドの イ ス ラ ー
(28) ア ミール ・ホ ス ロ ー に つ い て (斉 藤) ム 教 徒 の 衣 服 は, 中 央, 西 ア ジ ア で 彼 等 の 祖 先 が 着 用 して い た 上 着 と ズ ボ ン を そ の ま ま 用 い て い た。 「テ リ ンガ ナ の 街 は, 泥 で作 られ た 塁 壁 で 囲 まれ て い た が, そ れ は と て も強 く, 鋼 の 投 槍 も通 らな か った。 弩 弓 で石 を 投 げ て もは ね 返 って し ま った で あ ろ う。」 「ワ ラ ンガ ル の 砦 は, 止 ま った 蝿 も滑 り落 ちて し ま う程 磨 か れ, 石 と石 との 間 は 針 を 通 す 隙 間 もな い程 ぴ った りと して い る。」 ラ ー ジ ャの 城 の 堅 固 さ は, 南 イ ン ドの 富 と 伝 統 の 象 徴 で あ り, こ の 型 を 見 た サ ル タ ナ ッ トの 人 々 の 驚 き は 大 変 な も の で あ っ た。 こ の ラ ー ジ ャ の 富 に っ い て 「イ ン ドの全 て の 山 々を 金 色 に 染 め る こ とが で き るほ どの 豊 か な 金, 銀, 真 珠 な どの財 宝。」 と あ る。 ヒ ン ド ウ ー 教 徒 の 風 習 と し て, 「マ アバ ル の ラ ー・ジ ャは 最 後 ま で 戦 う と誓 った 将 軍 達 に ベ テ ル の 葉 を分 けた。 彼 等 は べ テ ル の葉 を 噛 み, 自分達 の た め に葬 い を して 口 中を 血 だ らけ に した。」 こ と を 記 し て い る が,「 ベ テ ル の 葉 」 を 噛 む と は 最 期 ま で 戦 う こ と で あ る。 ボ ス ロ ー 以 前 の ペ ル シ ア 詩 人 達 は, ペ ル シ ア 以 来 の 伝 統 的 な 比 喩 を 用 い て い た。 だ が ボ ス ロ ー は 「私 は トル コ 人 で あ る が, 私 の 故 郷 は イ ン ド で あ る。」 と 言 っ て い る よ うに, 常 に イ ン ドを 基 盤 と し た。 す な わ ち, 詩 の 題 材 を イ ン ド に 求 め, 身 近 に あ る も の を 用 い て 比 喩 的 描 写 を し て い る。 彼 の 詩 は, 13世 紀 末 か ら14世 紀 初 期 の 北 イ ン ドの 様 子, サ ル タ ナ ッ トの 人 々 の 南 イ ン ド観 を 知 る鍵 と も な る 貴 重 な も の で あ る。 (3) ホ ズ ロ ー 研 究 小 史 中 世 以 来, ボ ス ロ ー に つ い て 書 か れ た 史 書, 詩 人 伝 は 非 常 に 多 い。 だ が, ボ ス ロ ー に っ い て の 本 格 的 な 研 究 が 始 ま っ た の は, 19世 紀 後 半 に な っ て か ら で あ る。 1858年, ム ガ ル 朝 が 滅 亡 し 権 威 を 失 っ た ム ス リ ム 達 は, イ ン ド で の 自 分 達 の 存 在 理 由 を 求 め, イ ン ド ・イ ス ラ ー ム 研 究 を盛 ん に 行 な った。 ホ ス ロ ー も, イ ン ド ・イ ス ラ ー ム史 初 期 の 卓 越 し た 詩 人 と し て 研 究 対 象 に さ れ 始 め た の で あ る。 19世 紀 末, M. H. ア ー ザ ー ド(Azad 1914年 没)は 「Ab-e Hayat」(生 命 の水)の 中 で 「Khaliq Barl」 を ホ ス ロ ー の 作 品 と し,「 ボ ス ロ ー は ウ ル ド ゥー 語 で 詩 を 書 い た 最 初 の 詩 人 で あ る。」 と 述 べ て い る。 こ れ は 当 時 盛 ん で あ っ た ウ ル ド ゥ ー 語 推 進 運 動 の 動 き に 影 響 さ れ た ボ ス ロ ー 論 で あ る。Khaliq Bariが ボ ス ロ ー の 作 品 と は 認 め られ ず, ボ ス ロ ー を 「ウ ル ド ゥ ー 語 の 祖 」 と も考 え な い 今 日 で は, ア ー ザ ー ドの ホ ス ロ ー 論 は 余 り意 味 が な い。 ア ー ザ ー ド と 同 時 代 の 詩 人, 批 評 家 に シ
-931-ア ミー ル ・ホ ス ロー に つ い て (斉 藤) (29) ブ リ ー ・ヌ マ ー ニ ー(Shibli Numani 1914年 没)が い る。 彼 は 大 著 「She'r al-'Ajam」 (ペ ル シア 詩)で, 音 楽 家, 神 秘 主 義 者, 詩 人 と し て の ホ ス ロ ー 論 を 記 し て い る。 シ ブ リー は ホ ス ロ ー の 詩 を 「ホ ス ロー の捌 青詩 は, サ ア デ ィー の頗 詩 は サ ナ ー イ ー の, 叙 事詩 は ニ ザ ー ミー の影 響 を 受 け て い るが, 彼 の 歴 史叙 事 詩 は帰 史 事 実 を詠 ん だ 秀 れ た も の で あ り, 五 部 作 は 高 く評 価 で き る作 品 で あ る。」 と 論 じ て い る。 シ ブ リー の 研 究 は, ホ ス ロ ー を イ ン ド ・イ ス ラ ー ム史 の 出 発 点 に 置 くだ け で な く, ペ ル シ ア 詩 人 と し て も評 価 し て い る 点 が 特 徴 で あ る。 同 じ 頃, イ ギ リス で は, H. M. ElliotとJ. Dowsonが 編 集 し た 「イ ン ド史 」 の 中 で 「Khaza'in・al-Futub」 「Qiran・al Sadayn」 「Ghurrat al-Kamal」 の 英 訳 や 解 説 が 紹 介 さ れ た。 こ の 研 究 は ホ ス ロ ー の 作 品 に 歴 史 的 価 値 を 見 い 出 し, デ リ ー ・サ ル タ レ ッ ト史 の 重 要 な 史 料 の 一 つ と し て 扱 っ た と い う点 で 注 目 で き る。 こ の 後, 歴 史 家 に よ る ホ ス ロ ー 研 究 が 盛 ん に な っ て い っ た。1927年M. ハ ビ ー プ が 「Hazrat Amir Khsrau of Delhl」 を 執 筆 し た。 こ の 論 文 は 「Khza'in al-Futub」 の 持 つ 史 料 的 価 値 の 有 無 を 中 心 に, ホ ス ロ ー の 作 品 の 持 つ 歴 史 的 価 値 に つ い て 論
じ た もの で あ る。1929年 にM. W. ミル ザ ー が 執 筆 し た 論 文, 「Life and Works Amir Khusrau」 に は, 史 実, 詩 集 を 考 証 し た ホ ス ロ ー一の 詳 細 な 伝 記 と作 品 紹 介 が さ れ て い る。 現 在 に 至 る ま で こ の 論 文 を し の ぐ も の は 存 在 し な い。1930年 代 に は, ア リ ー ガ ル を 中 心 に ホ ス ロ ニ の 多 くの 作 品 が 翻 訊 出 版 さ れ て い るbイ ギ リ ス で
も1928年 にE. G. Brownに よ る 「A Literary HiStofy of Persia」 に 詳 し く紹 介 さ れ た。1975年, ボ ス ロ ー 生 誕700年 祭 が イ ン ド, パ キ ス タ ン で 行 な わ れ, イ ン ドで は14編 の 研 究 レ ポ ー トを 集 め た 「Memorial Volume Amir Khusrau」 と 題 し た 研 究 書 が 発 行 さ れ, パ キ ス タ ン で は 作 品 の 多 くが 編 纂 し 直 さ れ た。 イ ラ ン で は, Z・ サ フ ア ー の 「Tarikhe Adabiyat dar Iran」 に 詳 しい。 日本 で は ボ ス ロ, 一 に つ い て の 研 究 書 は 皆 無 に 等 し い。
注
(1) ス ル タ ー ン ・バ ルバ ンの軍 務 大 臣 で, イ マ ー ドル ム ル ク の 名 で知 られ て い る。 (2) サ ナ ー イ(1180∼1141)作 品 に 「真 理 の 園 」 尊 サ ア デ ィーー(?∼1292)「 薇 薔 園 」 「果 樹 園」 が作 品。(3) Tarikh-e Firozshahl pp. 305∼308。(4) ibid., pp. 521∼522。
参 考 文 献