ナ ガ 民 族 自決 運 動 と
ネル ー政 権(1947-56)
〓 彩鳳
I 問 題 意 識 と 定 義 本稿 で は、民 族 自決運動 を、民族 の 自決 を掲 げて 「分 離」 や 「独 立 」 を 求 め る一連 の政 治運 動 と定義 してい る。 「ナ ガ」1は 、主 に イ ン ドの北 東部 と ビルマ(現 、 ミャ ンマ ー)と の 国境 に跨 る ナガ丘 陵 を中心 とす る、今 日 の ナ ガ ラ ン ド(Nagaland)州2一 帯 に住 ん で い る人 々 の総称 で あ る。従 っ て 、 ナ ガの民 族 自決運 動 とは、 過去60年 にわ た り東北 イ ン ドのナ ガ丘 陵 及 びそ の周 辺 にお いて イ ン ド中央 政府 に対抗 して きた ナガの独 立 運動 を指 して いる。 だが 、 ナガ民族 自決運動 は、そ の淵 源か ら見 れ ば、本稿 で 詳細 に論 じるよ うに最初 か ら独 立 、分 離運動 として存 在 したの では ない。 以下 、 自治要 求運動 も含 めた長期 間に わた る運動全 体 に言 及す る際 に は 「ナガ運 動 」3と総 称す る。 ナ ガの独 立 運 動 を封 じ込 め る た め に、 イ ン ド政 府 は1955年 に初 め て 軍 隊 を出動 させ て以 来、 軍 に よる鎮圧 や駐 留 を続 けて きた。1963年 に ナ ガ丘 陵 県 は その 周 辺 のチ ェ ンサ ン(Tuensang)地 方 を含 め て州 に昇 格 し、 1975年 に はイ ン ド中央 政 府 とナ ガ代 表 との 問 に シ ロ ン協 定 が結 ばれ て和 解 が成 立 した もの の、今 日 もなお 非合 法 ゲ リラが政府 軍へ の抵 抗 を続 け て い る4。 本論 の主 な 目的 は、 ナ ガの 自決 運動 の源 流や 経過 を明 らか にす る と共 に、 J.ネルー(Jawaharlal Nehru)を 首相 とす る イ ン ドの 中央 政府、 及 び ナ ガ丘 陵 県 が置 か れ た ア ッサ ム州 政 府 の対 応 を検 討す る こ とで あ る。 資料 として は、 本文 に引 用 した研 究書 や新 聞資 料 に加 え、 ナガ側 とイ ン ド政府 側 の 当事者 の記 録 や ネルー の書簡5、 と りわけ ナ ガ運 動側 の機 関紙(Times of Kobima;Noga Nation)と 現在 刊 行 が 継続 中 の ネル ー の書 簡 集(SelectedWorks of Jawabarlal Nebru、 以下Nebru`s Worksと 略記)を 主 に用 いる。 な お、 紙 面 の制約 に よ り、本稿 で は当時 の イ ン ドを取 り巻 く国際環 境や トラ イブ
南 ア ジア研 究 第19号(2007年) 政 策 の全 面 的考 察 な どは省 略 し、 ネ ルー政 権 期 の前 半 とな る1947年 か ら 1956年 まで に限 って考察 す る。6 本稿 の対 象 とす る期 間 を1947年 か ら1956年 まで に限定 す る理 由 は以下 の3点 に ま とめ る こ とが で きる。 まず 第1に 、 イ ン ドの独 立前 後 か ら、 チ ベ ッ トや ビルマ に 隣接 した北 東 イ ン ドの辺境 地 帯 に次第 に高 まった ナガ の 分 離や独 立 の動 きは、新生 イ ン ドが建 国の大 義 とした 「国境 の保 全 」や 「国 民 の統合 」 な どの優 先課題 に脅威 を与 え たに違 い ないか らであ る。今 日に 至 る まで、 「国民 統合(national integration)」 は、 イ ン ド国家 の 中心 原 理 の1つ とな って い るが 、そ の課題 のなか で、 東北 イ ン ドの諸集 団 の政治 的 統 合 は、 カ シュ ミー ル(Kashmir)問 題 、宗 教 対 立 な ど と並 んで 、大 きな位 置 を 占めて きた。 ナ ガに よる 自決運動 は、独 立 イ ン ドにお け る 「国 民 統合 」 の内実 と課題 の所 在 を検証 す る うえで 、 きわめ て重 要 な素材 とな る。第2に 、 ナ ガ運 動 の発生 時 期 は イ ン ドの独 立 の 過程 と並行 して お り、 イ ン ド独 立 の最初 の数 年 間 に、 ナ ガ運 動 の要 求 が 「自治 か ら独 立へ 」、そ の 手段 が 「非協 力 運動 か ら武力 闘争 へ 」と激 しい 変化 を遂 げた こ とに注 目 す べ きだか らであ る。 そ の運 動 が展 開 され た最初 の10年 間 は、 ナ ガ運 動 を理解 す るた め に は最 も重 要 な時 期 な の であ る。 第3に 、 ネル ー政 権 期 にお け るナ ガ政 策 は、1956年 を境 に前 半期 と後 半期 に分 け て分析 す る こ とが妥 当だ と筆者 は考 えるか らで あ る。 なぜ な ら、以 下 に検討 す る よ うに、 1956年 に な って は じめて、 ネ ルー はそ れ まで の ナガ政 策 の誤 りに気 付 き、 政 策 を転 換 し始 めた か らであ る[Nebru's Works Vol.33,2004:171-7]。 II 第 二 次 世 界 大 戦 の 終 結 と ナ ガ 独 立 要 求 の 台 頭 第二 次 世界 大 戦 の ア ジ アの 最 西端 の戦 場 と して、 ナ ガ丘 陵 は マ ニ プー ル 州(Manipur State)7と 共 に、1944年3月 末、 日本 軍 の侵 入 を受 けた 。 イ ン ド ・ビル マ 国境 に住 む多 くの トラ イブ が戦 争 に巻 き込 まれ 、彼 らの 故郷 は破 壊 され、多 くの人 々が 命 を落 と した[Elwin1961:26-7;Yonuo 1974:142-50]。 ナ ガの立 場 か ら、 この戦 争 の プ ラス 面 で の影 響 を も しあ げ る とす れ ば、何 世紀 も外 界 か ら隔離 され てい たナ ガの人 々が 戦争 によ っ て視 野 が広 が っ た こ とであ ろ う。加 えて、 そ れ以 前 のナ ガ社 会 に おい て、 分 断 した り対 立 した りしてい た各 トライブ 問の交流 が よ り頻繁 に なっ た こ と も挙 げ られ る。 戦争 中の 軍事 上の必 要 に応 じて行 われ た道路 、鉄 道、 電 信 な どの建 設 に伴 っ て、人 々の 日常生 活 を は じめ 、経 済、社 会及 び政治全
ナガ 民族 自決 運 動 とネル ー 政 権(1947―56) 般 に変 化 が もた らされ たの であ る[Yonuo1974:148-150]。 だ が、以 上 の よ うな 目に見 える変化 が あっ ただ けで はなか っ た。 イ ン ド 中央 政庁 の情 報 ・広 報省 に勤 め てい たマ ニ プー ル 出身 のナ ガ人作 家A.ヨ ヌオ(Asoso Yonuo)が 分析 した よ うに、 「第 二次 世界 大戦 が ナガの 人 々 に もた ら した 心理 的 な大変 革 は、70年 近 くに わた る イギ リスの 植 民地 統 治 も及 ば な い ほ ど、 限 界 を超 え て進 ん だ 」[Yonuo1974:150]。 こ う し
た心理 的 な変化 につ い て、 ナ ガ民 族 会議(Naga National Council,以 下 NNC)の 成立 後 の ス ポー クス マ ン兼書 記 で あ っ たサ ク リー(T.Sakhrie) は、克 明 に描写 してい る。以 下 の引用 は、 当時 の社会 状 況及 び ナガの 人 々 の心 の変化 を知 る上 で非常 に貴重 な記録 で あ るため 、か な り長い が該 当部 分 を引用 す る。 1944年 の 日本 軍の 侵入 まで 、 ナ ガの 人 々は殆 ど過去 と問断 な く継 続 した時代 に住 んで いた 。 日本 軍 の到 来 に伴 い 、彼 らは遠 い過 去 か ら 跳 び だ して、世界 中の注 目を浴 び、 自分 の世 界 が大 き く変 化 して い る のに気付 い た。彼 らは不安 定 な気持 ちで周 りを見 回 し、 このす べ てが 真 実 であ る と確信 した 。(中 略)人 々は突 然現 状 に苛 立 つ ように な っ た。そ の原 因 は経 済 的、社 会 的、政 治 的不安 で あ った。至 る ところで 、 もっ と良い もの 、大 きい もの 、素 晴 ら しい もの を求 め る叫 びが 起 こ っ た。以前 贅沢 だ と見 られ た もの は、 日常 的 にあ りふ れた もの に なっ た。 (中略)外 国 の衣 装 は戦 前 に は贅沢 だ が良 い もの と見 な された が 、新 しい(ナ ガ)民 族 主義 が承 認 され る よ うにな り、 芸術 的 な民族 衣装 が 素 晴 らしい もの と して扱 われ る よ うにな った。外 国 の文化 は固有 の文 化 に道 をあ けね ば な らなか った。民 族舞 踊 や伝 統 歌謡 は元 の名 誉 あ る 地位 を回復 した。 も と もと各 トライ ブや ク ラ ン8は 自分 の違 い ばか り を強調 して いた が、 こ こで急 に和 解 して統一 の道 を進 む よ うにな った 。 帝 国主義 的利 害 の衝 突 が新 しい時代 を生 ん だの だ。 それ は輝 か しい未 来へ の チ ャ ンス と希 望 に満 ち てい る[Elwin1961:71―2]。 以 上 の よ うな政 治、社 会 、及 び経 済的 変革 に伴 う不 安や 、未 来へ の不確 実感 の なか で、一 部の 人 々の 間で新 しいナ ガの 「民族 的 アイデ ンテ ィテ ィ」 が生 み 出 され た様 子 が読 み とれ るだ ろ う。そ の なか で、NNCの 前 身で あ
南 ア ジア研 究 第19号(2007年) 時 の ナ ガ丘 陵県 長官 のパ ウセー(Charles Pawsey)に よって1945年4月 に 設 立 され た。設 立 当初 は、 日本軍 に よる戦 争 が もた ら した損 害 を回復 す る のが 目的 で あ っ た。1946年3月 に ナ ガ丘 陵 トライ ブ協 議 会 か ら、 ナ ガ 人 の政府 官 吏 を 中心 メ ンバ ー と したNNCに 生 まれ変 わ っ たが 、ナ ガの 社会 福 祉 の向上 を促 進す る 目標 は一貫 してあ り、 ナ ガ諸 族 間の結 束 を図 る方針 も維持 されて いた 。 しか しなが ら、 当初 か らナ ガ丘 陵 トライ ブ協 議会 の 設 立 の背 後 に も、政 治的 な思惑 が絡 ん でい た こ とを指 摘す べ きで あ ろ う。植 民 地 政府 の後援 で 、 トラ イブの 人 々を 自治 に向 けて訓練 しよう とす る 目的 が あ った ので あ る。そ の た め に、NNCは 、 も とも と存 在 してい た各 々の 村 議会 を後 援 し、村 議会 が なか った村 には村議 会 を設 けて 、地元 の 問題 を 自分達 で管 理す る ように させ た[Yonuo1974:160―1;Ramuny1988:30]。 NNCは 成 立 当初、 トラ イブ ご との比 例 代表 制 の もとで29名 に よ り構 成 さ れた 。そ の運営 費 は家戸 単位 で募 ったが 、殆 どの ナ ガ人が 自発 的 に寄 付 を 行 った。 この よ うな民 主 的精神 に則 ったNNCは 、 草 の根 の レベ ル か ら支 持 基 盤 を有 してい た と言 えるだ ろ う。 また、機 関紙 の 『ナ ガ ・ネ イシ ョン』 9は毎 月発 行 され た[El win1961:51]。 特 記 すべ きなの は、 第 二 次世 界 大 戦 中、 当 時 の ア ッサ ム 州知 事 リー ド (Robert Reid)に よって1941年 に提 案 され た 「ク ラウ ン ・コロニ ー(英 国王 直轄 地)」 案[Reid1941:16]、 即 ち ア ッサ ム州 とそ の周 辺 、及 び ビ ル マの あ らゆ る トライ ブ地域 を一 括 して イ ギ リス 国王 の 直轄 地 とす る と い う議 論 が あ っ た に も関 わ らず 、NNCは 毅 然 た る 態 度 で そ の 案 を拒 否 し、 イギ リス か らもイ ン ドか らも分離 したい とい う立場 を示 した こ とで あ る[Chan(〓)2001:94-6]。 戦争 中、 イギ リス を始 め とす る 同盟 国に全 面 的 に協 力 的 な態 度で 臨 んだ ナ ガの人 々 は10、戦後 にな って一 部 の人 が 「ク ラウ ン ・コ ロニー」 案 に賛 成す る態度 を示 して い たが"、NNCは1946年 6月 の大会 で 、「ク ラウ ン ・コロニー 」案 をはっ き り拒否 し、そ の代 わ りに、 ナ ガ丘陵県 が 引 き続 きイ ン ド独 立後 の ア ッサ ム州 の一 部 に留 ま り、行 政 や 司法 の 自治権 の保 証 を受 け、ナ ガの居 住 地域 を一 つの分 離 選挙 区 とす る こ とな どを決 議 した。 この時 点 で はNNCは まだ独 立 を主張 して いな か った [Times of Kobima Vol.1-1,1946:4-5]。
ヨヌ オの研 究 に よれば、NNCは1947年 の初 め、 イ ン ド亜 大 陸で の ヒ ン ドゥー ・ムス リム問の宗 派 問紛争 の激 化 に影響 を受 け、彼 らの政 治 的立場 もます ます 強 固 な もの に な った よ うであ る。周 知 の よ うに、会 議 派(ヒ
ナ ガ 民族 自決 運 動と ネル ー 政権(1947―56) ン ドゥー教徒 主体)と ムス リム連盟 を主軸 とす る対抗 関係 が もた ら したパ キス タ ンの独 立建 国運 動 は、多 か れ少 なか れナ ガの独 立 の主張 に影 響 を与 えた に違 い ない[Yonuo1974:166]。 また、 隣接 す る ア ッサ ム州 とマニ プール州 の ヒン ドゥー教徒 や イス ラー ム教徒 が、 古 くか らナ ガ を始 め とす る丘 陵地 帯 に住 む トライ ブの人 々 を 「不 可触 民」 や 「穢 れた存 在」 と して 扱 った こ とに対 す る反発 も根 強 く存在 した。 さ らに、 肉食 や飲 酒 は トライ ブ文化 や 日常 生活 に とっ て密 接 で不 可分 の要 素で あ るに もかか わ らず、 ヒ ン ドゥー教徒 や イス ラーム教 徒 か ら蔑視 を受 けた[Naga.Nation Vol.1-9: 6;Eiwin1958:2;Yonuo1974:168]。 この こ とか ら、 も し将 来彼 らが 引 き続 きア ッサ ム州 の一部 に留 まれば 、 きっ と差 別 され続 け るか 、 また は同 化 され るかの選 択 を迫 られ、 最終 的 に飲酒 や 肉食文 化 も禁 じられて しま う に違 いな い といっ た敵対 感情 や恐 怖心 が、 ナ ガの分 離意 識 を促 した ので は ない だろ うか と考 え られる。 言 う まで もな く、 こう した文化 的 な隔 た りは、 ナガの 人 々に よる キ リス ト教へ の 改宗 に よって さ らに増 幅 され てい った。 だが 、当 時の ナ ガの人 々 に とって独立 が 何 を意味 す るか につい て は、そ の 主張 の内 容 を見 る限 り、 今 日の よ う な厳 密 な主 権独 立 国家 を作 る とい う よ り、 む しろ イ ン ドか らの 分離 や 独 立 とい った 漠然 と した 考 え に過 ぎ な か っ た よ うに思 われ る。 なぜ な ら、1947年2月 と5月 の2回 、 「10年間 の ナ ガ暫定 自治政 府 」 の要 求が 公表 され た こ とか ら、NNCは 自 らの準 備 不 足 を認 め、将 来 に向 け て もっ と熟 考す る時 間が欲 しか ったの で はな いか と考 え られ るか らであ る[Naga.NationVol.1-10,1947:12&4-5]。1947 年2月20日 に、NNCは 、 イ ギ リス政 府及 びイ ン ド政府(当 時 ネ ル ー を首 相 と して会 議 派 が 支配 的 だ っ た 中間 政府)に 提 出 した覚 書 に お いて 、10 年 間 を期 限 とす る暫 定 自治政府 をナ ガの人 々 に作 らせ るた めに、 両者 か ら の財 政上 の援 助 を求 め た。覚 書の 内容 は まず、平 地 の人 々(と りわ けア ッ サ ム 人)と の 間 の歴 史 、 文化 や 民 族 的差 異 を説 明す る。 次 に、 ナ ガ ラ ン ド12はそ もそ も隔絶 した地理 環境 にあ り、そ れ ゆえ、 ナ ガの政 治組 織 が独 自の特徴 を もってい る こ とを述 べ、 ナ ガ ラ ン ドの一体性 な どに配慮 し、財 政上 の支援 の下 で 、10年 間 を期 限 とす る暫 定 自治 政府 を作 る権 限 を求 め る もの で あ っ た。最 後 に、10年 後 に ナ ガの 人 々が どん な政 府 の下 に生活 す るか につ い て は、彼 らの 自由選 択 に よっ て決 め られ る と記 され て い る [Naga Nation Vol.1-7,1947:1-3]。
南 アジ ァ研 究 第19号(2007年) 全 な立 法権 、行 政権 及 び司法 権 を持 って運 営す る もので あ り、 防衛 のた め の軍 隊 の設 置 も必 要 だ と申 し立 てた 。そ して 同月21日 の声 明書 で は、 当 面 「10年間 のナ ガ暫 定 自治政 府 」 を め ぐっ て イ ン ド政 府 と協 定 を結 ぶ用 意 が あ る もの の、 将 来 は独 立 を追 求 す る と公 言 した[NagaNationVol. 1-10,1947:1-3]。 興 味深 い こ とに、上 述 の声 明 に関 す る議事 録 の なか で、 NNCは ナ ガの独 立 要求 と並 んで 、 ア ッサ ムに対 して もイ ン ドとパ キス タ ンか らの独 立 を勧 め てい る[lbid:4]。 以 上 、NNCの 政 治 的主 張が 「自治 か ら独 立へ 」 と急 速 に変 容 した過 程 を整 理 した 。で は、 なぜ1年 余 りとい う短 い期 間で、 こ うした急激 な変 化 を遂 げ たの だ ろ うか 。再度 強調 す れ ば、この短期 間 にお け る 自治か ら分 離 ・ 独 立へ の 目標 の変 化 こそ が、今 日に至 る までの ナ ガ運 動 にお け る最 も重 要 な転 機 で あっ た と筆者 は考 えてい る。 以下 でそ の背景 を探 ってみ よう。 III イ ギ リ ス 人 官 僚 及 び 外 国 人 宣 教 師 と ナ ガ の 独 立 運 動 まず 、 「ナ ガ運 動 の背 後 に はイ ギ リス人 の官 僚 及 び外 国人 宣教 師の影 響 が あ り、彼 らに よ りナ ガの独 立要 求が教 唆 された」 とい う しば しば主 張 さ れ る言 説 の当否 を再 検討 す る必要 が あ る。 前述 の ように、 第二 次世界 大戦 期 に イギ リスの 旧官僚 及 び本 国の イ ン ド 省 官僚 や学 者達 が 、ナ ガ をは じめ とす るイ ン ドと ビル マ にまた が る トライ ブ地域 を合 併 し、 イギ リス の委任 地域 や 直轄地 に相 当す る 「クラ ウ ン ・コ ロニ ー 」をつ くる案 を打 ち 出 した[Chan(〓)2001:76-82]。 しか し、前 述 の とお り、1945年 に一時 的 に現 れた 賛成 意 見 を 除い て、 殆 どの人 が そ れ を拒 否 した。 この案 は イギ リス本 国 で もイ ン ドで も多数 の支持 が得 られ ず 、 トライ ブの人 々 の場合 は よ く分 か らなか っ たか、 または反対 した者 が 多 か ったの であ る。さ らに、イギ リス国 内で も変化 が起 こって いた 。チ ャー チ ルの保 守 党が敗 れ 、政権 の座 につ い た労働 党が 、 イ ン ドへ の早期 の権 力 移譲 へ と政 策 を転 換 し、 それ に加 えて ナ ガを始 め とす る トライ ブ地 域 に対 して も明 らか に興 味 や関心 度 が弱 まって きたの であ る。 この ような背景 の なか で、「ク ラウ ン・コ ロニー 」案 が放棄 された と解釈 で きるだ ろ う[Chan (〓)2001:91-6]。 確 か に 「ナガ丘 陵 トライブ協 議会 」を立 ち上 げ た(1945 年4月)当 時 の ナ ガ丘 陵県 長官 の パ ウセ ー とア ッサ ム州知事 の特別 顧 問 を 務 め たJ.P.ミ ル ズ(Miils)が 、 「ク ラウ ン ・コロニ ー 」案 をあ る程 度 評価
ナ ガ民 族 自決 運 動 とネ ル ―政 権(1947-56) し て い た と い う こ と は言 え る か も しれ な い13。 しか し、 彼 らが 直 接 ナ ガ の 独 立 運 動 に 影 響 を 与 え た と い う根 拠 は 未 だ 見 当 た ら な い 。 む しろ 、 「ク ラ ウ ン ・コ ロ ニ ー 」案 に 反 対 し た 当 時 の ア ッサ ム 州 知 事 ク ロ ウ(Andrew Clow)14が 、1947年1月 末 に 、 「ナ ガ を独 立 州 あ る い は 独 立 国 家 に す る こ と は不 可 能 だ 、 た と え そ う な っ た と して も、 ず っ と貧 困 で 後 進 的 な状 態 に と ど ま る に 違 い な い 」[Naga NationVoi.1-71947:7-8]と 述 べ て い る よ う に、 ナ ガ の 独 立 の 主 張 は非 現 実 的 との 批 判 が 一 般 的 で あ っ た の で あ る15。 次 に 、 外 国 人 宣 教 師 が ナ ガ独 立 運 動 に 与 え た 影 響 に つ い て 論 じ た い 。 1840年 代 に 、イ ギ リ ス 人 宣 教 師 の ブ ロ ン ソ ン(Rev.Miles Bronson)が ア ッ サ ム に 接 す る ナ ガ 丘 陵 地 方 に 初 め て 入 っ て 、 教 義 を 広 め る と共 に 、 茶 の 栽 培 を教 え た 。 また 、 宣 教 師 は 伝 道 の 手 段 と して 常 に 教 育 や 医 療 に 熱 心 で あ っ た 。 しか し、 初 期 の 宣 教 活 動 は 、 決 して 成 功 を収 め た と は 言 え な か っ た 。1872年 以 降 に な り、 ア メ リ カ ・バ プ テ ィス ト伝 道 団 が 本 格 的 に ア オ ・
ナ ガ(Ao Nagas)の 問 で 信 徒 の 勧 誘 や 教 育 の 普 及 に 努 め た[Clark1978:
1&10-14]。 イ ン ド政 府 の 要 請 に 応 じ て 、1961年 に 『ナ ガ ラ ン ド』 とい う本 を 世 に 出 した 、 元 聖 職 者 で もあ る イ ギ リス 出 身 の 人 類 学 者 エ ル ウ ィ ン(Verrier Elwin)に よ れ ば 、1891年 の ナ ガ 地 方 に お け る キ リ ス ト教 の 入 信 者 数 は 211人 、1901年 は579人 と 、 人 数 は ま だ 少 な か っ た 。 神 学 者 の フ ィ リ ッ プ (P.T.Philip)の 研 究 に よ れ ば 、1922年 か ら1932年 に か け て 著 しい 増 加 を 遂 げ 、1932年 の 信 徒 数 は14,397人 を 記 録 し、 ほ ぼ1922年 の4倍 に及 ん だ 。 1932年 か ら1942年 に か け て は さ ら に 倍 増 し、31,678人 に 達 し た[Philip 1983:196]。 ナ ガ 政 府 の 統 計 に よ る と、1961年 の 時 点で 、 キ リ ス ト教 徒 は 195,588人(52.98%)で 、 全 人 口 の 過 半 数 を 超 え た[GovtofNagaland 1967:28]。1960年 に、 バ プ テ ィス ト教 会 は ナ ガ丘 陵 に お け る14の トラ イ ブ 区 教 会 を組 織 し て 連 合 体 を作 っ た 。 当 時 の 教 会 数 は632ヶ 所 に及 び 、 ナ ガ の 主 要 トラ イ ブ の 殆 どが 統 一 的 な 教 会 組 織 の 傘 下 に入 っ た こ と に な る 。 ナ ガ 地 方 で の 紛 争 が 始 ま っ た 頃 、 独 立 派 の ナ ガ達 は教 会 側 の 参 加 を 呼 び か け た の は確 か で あ る が 、 何 人 か の ナ ガ人 宣 教 師 が 個 人 的 な 共 感 を持 つ こ と は あ っ て も、 教 会 は 組 織 と し て 運 動 に加 わ る 意 思 を 示 さ な か っ た[Elwin 1961:62-3]。 で は 、 果 た し て外 国 人 宣 教 師 は ナ ガ の 独 立 の 主 張 に 影 響 を与 え た の だ ろ う か 。 再 び エ ル ウ ィ ン の 研 究 を用 い れ ば 、1947年 に ナ ガ 丘 陵 県 に 滞 在 し
南 ア ジァ研 究 第19号(2007年) てい た外 国人 宣教 師 は6人 しか い なか った。 そ の中 で、2人 が ナガ運 動 に 関与 した模 様 で、域 外退 去 を命 じられたが 、他 には外 国人宣 教 師が 関与 し た事 件 は なか った。1950年 代 に入 り、外 国 人宣 教 師 の助 けが な くて もナ ガ人 は教 会 の運営 を うま く進 め てい た とエ ル ウ ィンは述べ てい る[Elwin 1961:63-4]。 従 って 、仮 に外 国人 宣 教 師 の影 響 が あ っ た と して も、 そ れ は独 立 の主 張が 生 まれ る前 の段 階、 つ ま り、NNCの 初 期 に 限 られ る こ と だ ろ うと思 わ れ る。 ネル ー は、外 国人 宣教 師の 手助 けが な けれ ば、NNCが ま ともな英 語 で 覚 書 や 嘆願 書 を出 す こ とはあ り得 ない だ ろ う とい う疑 問 を抱 い てい た が [Maxwell1973:10]、NNCの 殆 どの 公 式 文書 はNNCの2人 の書 記 、前 述 した サ ク リー と ア リバ ・イ ム テ ィ(T.Aliba Imti)16の 手 に よ っ て 書 か れ て い た!7。子 供 の 頃か ら教 会 学 校 で 英 語 を身 に付 けて い た 当 時 の NNCの 幹 部 の多 くは、大 学 卒 の学歴 や イギ リス 政府 の 官吏 の 経歴 を持 っ てお り、 上記 の考 えは ネル ー個 人 の推 測やNNCに 対す る固定 観念 に過 ぎ ない。 また、2人 の外 国人 の宣教 師 の関与 だ けで 、後 のナ ガ独 立 運動 の規 模 に まで発展 させ た と想像 す るこ とは無理 が あ るだろ う。 一 方、ナガ丘 陵地方におけるキ リス ト教徒 の増 え方は興味深い。1950 年 以 降 に キ リス ト教 信 者 が急 増 した 背 景 に は、 ナ ガ運 動 の発 展 に伴 い キ リス ト教 の宣 教 活動 が 拡 大 され た、 つ ま り両者 に相 乗 効 果 が あ った とい う事 情 を あ げ る こ とが で き るだ ろ う。前 述 した エ ル ウ ィ ンは、 ネル ー の 指 名 を受 け、1953年 か らナ ガ 丘 陵地 方 を は じめ、 東 北 辺 境 区(North East Frontier Agency,以 下 はNEFAと 略称)で 広 範 囲の 調査 を行 った。 NEFAの 一部 で あ っ たチ ェ ンサ ン地方 に関 して彼 が書 いた 一連 の 極秘 レ ポー トの 中か らは、NNCと キ リス ト教 徒 との 関係 が 読 み取 れ る18。キ リ ス ト教 化 が最 も浸 透 した アオ ・ナ ガか ら数 多 くのNNC活 動 家 が チ ェ ンサ ン地方 に派遣 され、NNCの 主張 を宣伝 しなが ら宣教 運動 が 行 わ れた とエ ルウ ィ ンは脅 威 を持 っ て書い て いる[Elwin1954:2-3]。 その後 、独 立運 動家 の 中か ら 「キ リス ト教 徒の 国家 」 を作 ろ う とい うス ロー ガ ンが 出た こ とか ら分か る よ うに、 キ リス ト教 を 「ヒ ン ドゥー教徒 や イ ス ラーム教 徒 の イ ン ド」か ら区 別す る一種 の 道具 と して、 改宗 運動 が独 立運 動 と平行 して 進 め られた こと も1つ の事 実 と して言 え るだ ろ う。 しか し、教 会組 織 側 は む しろキ リス ト教 徒 の国家 の建 設 に消極 的 で、 一部 に は強い 反対 意見 も出 て いた 。総 じて言 えば、教 会 の一貫 した立場 と して 、運 動の 武装 化に対 し
ナ ガ民 族 自決 運 動 とネ ル ー政 権(1947-56) て否 定 的 な態 度 を持 って 臨ん でい た と言 える。 以 上 に検討 した よ うに、 イギ リス人官 僚及 び外 国人 宣教 師 とい った外 部 者 に よ る影 響 は ご く限 られ た もの で あ った。 む しろ、 ナ ガ運 動 の力 学 は 、 ナ ガ社 会 そ の もの と、独 立 後 の イ ン ド政府 に よる国家 統合 政策 との相 互作 用 の中か ら引 き出 されね ば な らな い。 IV ナ ガ 運 動 の 発 展 (1)NNCの 内部 分 裂 1947年2月 と5月 の2回 、 「10年間 のナ ガ暫 定 自治政 府 」 の要 求 を イギ リス本 国政 府 とイ ン ド政庁 に提 出 したNNCが 、2人 の書 記 を含 む実 行委 員 会 を立 ち上 げて ナ ガ憲法 の作成 及 び暫 定政府 の準 備作 業 に入 ろ う と した ところ19、5月19日 に、 イ ン ド制 憲議 会 の諮 問委 員会 の1つ で あ るバ ル ド ロ イ小 委 員会(Bardoloi Sub-committee)20が 、 ア ッサ ム州 の丘 陵 トラ イ ブ地域 に関す る レポ ー トを作 成す るため に コ ヒマ(Kohima)を 訪 れ た。 NNCは バ ル ドロイ小 委員 会 に対 し、 当面 イ ン ド政府 との 問 に 「10年間暫 定 自治政府 」協 定 を結 ぶ用 意 はあ るが、 イ ン ド連邦 に加 入す る意思 は ない
と説 明 した[Naga Nation Vol.l-10:4-6]。
す で に述べ た よ うに、1947年 の5月 にNNCは 独 立 の主 張 を初 め て公 に したが 、 内部 的 な 意見 は決 して一 致 して い なか った。 エ ル ウ ィ ンは、 あ るナ ガ指 導 者 の意 見 を引用 し、NNC内 部 で は少 な く とも3つ の異 な る立 場 が あ る と述べ て い る。1つ め の グルー プ は、 即 時の独 立 を主張 してい た。 2つ めの立 場 に立つ 穏健 派 は、 ナ ガが 自力 で近 代 国家 を運営 で きる ように な る まで、 一 定 の形 で イ ン ド政 府 との 関係 を維持 しよ う と して い た。 第 三 の 立場 は、 特 定 の期 限 で イ ギ リス政 府 の 下 で の委 任 地域 と して と どま る とい う もので あ った[Elwin1961:51]。 こう した立場 の相 違 は、1947 年6月 に、NNCが 、 当時 の ア ッサ ム州 知事 ハ イ ダ リ(Akbar Hydari)21と の問で 取 り交 した合 意書 の第9項 の解釈 をめ ぐっ て、 さ らに先鋭 に なっ た [Naga Nation Vo1.2-1,1947:1]。
1947年4月 以 降 ク ロ ウの後 継 者 と して ア ッサ ム知 事 に な った ハ イ ダ リ が6月26日 に コヒマ に到着 し、NNCの 指 導者 と1週 間 に わた っ て会談 が 行 わ れた22。イ ン ドの独 立前 まで 「除外 地 域 」23と指 定 された ナ ガ丘 陵県 は、 ア ッサ ム州 知事 をイ ン ド総督 の代 理人 とす る直 轄的 な管 理下 に置 か れ
南 ア ジ ァ研究 第19号(2007年) て いた ため 、ハ イ ダ リは ネル ーか らの命令 無 しに個人 的 に職権 を行 使 した と理 解す るこ とが妥 当で あ ろ う[Chaube1990:77―8]。 会 談 の結 果、 「ハ イダ リ合 意書 」が作 成 された。 あ る研 究 者 の意見 に よれ ば、 この合 意書 の 作成 に辿 り着 い たの は、前 述 したNNCの 書記 を務 めた ア リバ ・イム テ ィ が 、NNC内 部 の急 進 独 立 派 を抑 えて 、1つ の意 見 に ま とめ る こ とが で き た成 果 であ っ た とい う[Chaube1990:156]。 合 わせ て9項 か らな る合 意 書 にお い て は、NNCは 行 政権 や徴 税 権 を行 使 し、 イ ン ド現行 法 に対 し承 認(拒 否)権 を持 ち、 民事 や刑 事案 件 に関 して ナ ガの慣習 法 を適用 す る な ど、NNCに か な り高 度 な 自治権 を与 えた と見 な され て い る。 その 時点 で は、NNCの 多 数 は、ハ イ ダ リ との合 意 内容 に満足 してい た と言 えるだ ろ う。 しか し、 そ の 後、 イ ン ド政 府 とNNCと の 問の 認 識 の ズ レが 生 じ始 め た 。そ の中 で最 も議論 を醸 した条 項 は第9項 であ る[Nebru's-Letters Vol.3: 154]。 そ の内容 は、次 の よ うで あ った。 ア ッサ ム州 知 事 は イ ン ド連邦 政 府 を代 理 し、10年 の 問 この合 意 書 の 遵守 を確 約 す る。10年 後、NNCは 合 意書 に 関す る期 限 の延 長 や 、 新 しい合 意書 の制 定 を要求 で きる。 この 内容 が、10年 後 のNNCに 、 イ ン ドか ら 「分 離 ・独 立 」 す る権 利 を 留保 してい る こ とを意 味 す る もの で あ るか 否 か をめ ぐっ て、 激 しい議 論 が巻 き起 こ った。 ア ッサ ム州知 事 ハ イ ダ リと州首相 バ ル ドロイ(Gopinath Bardoloi)が1年 後 、 ナ ガの代 表 の 要求 に応 じて第9項 の 内容 を中央 政 府 に確 認 した と ころ、 中央 政 府 は、第9項 に 関 して 将 来 の 自治権 の法 的 範 囲 を考 慮 に入 れ なが ら、10年 以 内 に協 定 の内 容 の見 直 しを再 び検 討 す る が 、 ナガ の人 々 を代 表 す るNNCに イ ン ドか らの離脱 権 を与 えたの で は な く、彼 らはイ ン ド連邦 の枠 組 み に とどま って 自治 権 を行使 す る権利 の み を 有 す るので あ る、 と回答 した24[Elwin1961:53;Nuh2002:69]。 他 方 、 ナ ガ側 にお いて は、 第9項 をめ ぐってNNCの 内部 で独 立 派 と穏 健 派 との亀 裂 が大 き くな った 。独 立 派 は、10年 後 にナ ガ側 が 完全 な独 立 国家 を選択 で きる、 とい う 自決権 が 第9項 に曖 昧 な形 で含 まれ て い る と解 釈 し、 即 座 に ナ ガの独 立 を主 張 し よ う と した。 穏 健 派 は、 民 主 主義 や 漸 進 主義 を唱 え、 イ ン ド連邦 の枠 組 み内 で独 自の生 活 を維持 す る こ とを望 み 、 「10年間暫 定 自治 政府 」 の成 立 を 目標 とし、 当面 は分 離独 立 を望 まな か っ
ナ ガ民 族 自決 運 動 とネル ー 政 権(1947-56) た。NNCの 分裂 は、以 下 に述 べ る イ ン ド政府 との交 渉 の 過程 で 更 に鮮 明 にな った。 内部 の不 安 が続 くなか、1950年 に なっ てか ら、A.Z.フ ィゾー (Phizo)がNNCの 主導権 を握 る と共 に、独 立 派がNNC内 で優位 に立 った。 (2)ナ ガ とイ ン ド政府 との交渉 独 立 へ の意 思 表 明 の2ヶ 月後 、1947年7月19日 に、 フ ィ ゾー を は じめ とす るナ ガの代 表 団が ガ ンデ ィー(M.K.Gandhi)と 会 見 し、 ナ ガの人 々 はイ ン ド連 邦 に加 入 す るつ も りはな い と彼 に伝 えた 。 ガ ンデ ィー は、 「イ ン ド政府 は どん な こ とが あ って も武 力 に訴 えて はな らな い。 ナガ の人 々が 望 む な らイ ン ドに加入 しな い 自由が あ る」 と述べ た と伝 え られ る[Phizo 1960:3;Maxwell1973:8]25。 実 は、 ガ ンデ ィー を始 め、 デ リー で何 人 か の指 導者 と会 見 した この代 表 団 に対 して は、NNCか ら事 前 の承 認 が な く、 ア ンガ ミ ・ナ ガを中心 とす る出身者 た ちが勝 手 に とった行 動 であ った26。 フ ィゾー の独 立 派 が無 断で デ リー に行 っ た会 見 に対 す る措 置 を め ぐっ て、 当時 のNNCは 成立 以 来最 大 の 困難 に直 面 した。 そ れ らの対 応 策 を講 じる ため に、NNCは7月23-24日 に ナ ガ丘 陵県 の 第2の 町、 モ コ クチ ョ ン(Mokokchung)で 緊 急大 会 を開 き、 さ らに8月 の13-14日 に県 の行 政 中心 であ る コ ヒマ での大 会 が追加 された 。前者 で は フ ィゾー ・グ ルー プ が デ リーへ行 って独 立 を宣言 した ことが強 く非難 され、ハ イダ リ合 意書 の 第9条 の修 正 を求 め て ネルーへ 代 表 を送 る よ う決議 したの に対 し、 コ ヒマ 大 会 で は、NNCが 独 立 を宣 言す るか否 か を め ぐっ て激 し く議論 が 交 わ さ れた。 モ コ クチ ョン大 会 の直後 の8月2日 には、 その決 議 に従 っ てハ イ ダ リ合 意 書 の 第9項 の意 味 を問 うた め、NNCの 送 っ た代 表 団が 、 イ ン ド独 立 後 に首相 兼外相 とな るネ ルー と会見 した27。それ 以前 は、NNCは ナガ の人 々 を代 表 し、徴 税権 を含 めて 自治権 を行使 す る ナガの 唯一 の代 表で あ る とす るハ イ ダ リ合意 書 の内容 に対 し、 ネ ルーか らの理 解 を得 てい た と考 え られ る[Ramunny1988:40]。 ところが、1947年7月28日 に、 制憲 議会 にバ ル ドロ イ小 委 員会 が提 出 した レポ ー トにお い て、NNCの 「10年間の暫 定 自治政府 」 の要 求 を無視 したの と同 じ く、NNC代 表 の意見 を聞 いた ネル ー は、ハ イダ リ合 意書 をめ ぐるナ ガ側 の解 釈 に難色 を示 しは じめ、 制憲 議会 でナ ガ を含 む トライブ 自治 の規定 を議 論 する と述 べ た と伝 え られる[Naga Nation Vol.2-1:2;Chaube1990:158]28。 ネル ーの考 えに よれ ば、 ナ ガ
南アジァ研究第19号(2007年) ラ ン ドの 独 立 は 論 外 で あ り、 イ ン ド連 邦 の枠 組 内 で 可 能 な 限 り広 汎 な 自治 を 与 え る用 意 が あ る が 、 そ れ 以 上NNCと 議 論 す る も の は な い 、 とい う立 場 を譲 ら な か っ た 。 ア リバ ・イ ム テ ィ は 、 モ コ ク チ ョ ン大 会 後NNCの 書 記 職 を 辞 任 し た が 、 次 の コ ヒマ 大 会 でNNC総 裁 に 選 ば れ た[Imti1988:69―70]。 そ の 一 方 、 イ ン ド政 府 や ネ ル ー の 対 応 に 失 望 し たNNCの 独 立 派 は 、 同 年8月14 日 、 す な わ ち イ ン ドの独 立 の 日の 前 日 に 、 ナ ガ の独 立 を宣 言 した 。 こ の独
立 の 宣 言 を め ぐっ て 、NNCは つ い に2つ に 分 裂 し た[Naga Nation Vol .
2-1,1947:1-3]。 以 上 の 展 開 か らみ る 限 り、NNCの 独 立 急 進 派 で あ る フ ィ
ゾ ー ・グ ル ー プ の 暴 走 に 対 抗 す る 穏 健 派 が 、 ア リ バ ・イ ム テ ィ の 就 任 に よ っ て 足 場 を 固 め た と考 え られ る 。 結 局 、 フ ィ ゾ ー を代 表 とす る 急 進 的 独
立 派 は 多 数 派 に な らず 、NNCを 一 時 的 に 離 脱 し た[Naga Nation Vol .2-1,
1947:1-3;Steyn2002:76]。
NNCの 分 裂 を 見 て 憂 慮 した ナ ガ 丘 陵 県 長 官 の パ ウ セ ー は 、8月22日
に 、 独 立 は 今 ま で 享 受 して き た 福 祉 、 病 院 、 学 校 、 塩 の 提 供 や 外 部 と の 交 易 な ど を全 て 失 う こ と を意 味 す る と述 べ 、 そ れ 以 上 よ い 条 件 は 考 え ら れ
な い 「ハ イ ダ リ合 意 書 」 を 尊 重 す る よ う に と、NNCに 団 結 を 呼 び か け た
[Naga Nation Vol.2-1,1947:7]。8月23日 に 、 州 知 事 ハ イ ダ リ の 官 房 長
官 を 務 め た ア ダ ム ズ(Philip F. Adams)は 『ナ ガ ・ネ イ シ ョ ン』 に寄 せ た 「別 れ の 言 葉 」 の な か で 、 「独 立 」 とい う空 虚 な 言 葉 の た め に 全 て を 犠 牲 す る の か と 問 い か け な が ら 、3億 もの イ ン ド人 と戦 っ て は 絶 対 勝 ち 目が な い 、「独 立 で は な く、自治 を 選 ぼ う 」と い う 強 い メ ッセ ー ジ を残 した[Naga Nation Voi.2-2,1947:2-3]。 9月 に は 、 ア オ 、 サ ン タ ム(Sangtam)、 チ ャ ー ン(Chang)29な ど の ト ラ イ ブ 出 身 の ナ ガ代 表 がNNC大 会 に参 加 し な か っ た た め 、 議 事 の 進 行 に
影 響 を 与 え た が[Naga Nation Vol.2-a1947:1-3]、9月9日 に 、 ア リバ ・
イ ム テ ィ は 、NNC総 裁 の 名 で 、 ネ ル ー に 以 下 の 書 簡 を 送 っ た[lbid:5―6]。 こ の な か で も、 ハ イ ダ リ合 意 書 の 第9項 に あ る 「自決 権 」 の 要 求 を繰 り返 した 。 貴 方 が 我 々 ナ ガ の 人 々 の 考 え や 願 い に 対 し て示 して き た 継 母 の よ う な 同 情 心 は 、 我 々 の 心 を大 き く混 乱 させ た 。 デ リー で の 貴 方 との 会 見 以 来 、NNCの 内 部 で は 異 な る 意 見 が 先 鋭 化 し、 状 況 が 悪 化 した 。 デ
ナ ガ民 族 自決 運 動 とネ ル ―政 権(1947-56) リーの宮廷 に座 って大 きな問題 に直 面 して い る貴 方 は、 ナ ガ問題 は取 るに足 らぬ問 題 と見 な してい るか も しれ な いが 、 もしそ うで あれ ば、 貴方 は間違 って い る。 将来 ナ ガの 人々 とイ ン ドとの 関係 は、私 達が デ リーで 貴方 と面会 した ときに提 案 した 「(自決 権)要 求 」の承 認 とい う基 礎 の上 に立つ もの で あ る。NNCは 上述 した要 求 に固執 し、そ し てそ れ を達 成 しなけれ ば な らない。我 々の要 求 に対 す る いか なる拒 否 行 動 も、我 々 との 間の対 立 と敵 意 を促 す に違 い ない。貴 方 が平和 的 に ナ ガ問題 を解 決す る時 間が あ る ことを期待 す る。貴 方 は今 の事態 を決 定 す る立場 にあ るのだ 。 イ ン ド政府 か らの対 応 を待 ち なが ら、NNCは 内部 の 結束 を迫 られ て い た。10月 の時 点 で 、NNCは 「独 立 」、「暫 定 政 府 」、 そ して 「自治 」 に 関 す る議 論 をや める よ うに呼 びか けて、 内部 の異 な る意見 の分 裂 を収 拾 しよ う と努力 して いた[Naga NationVoi.2-3,1947:7]。 内 部の圧 力 を抱 え た ア リバ ・イ ムテ ィは、1947年11月4日 に、再 びNNC総 裁 の名 で、 「30日後 、 ナ ガの 人 々は イ ン ドの一 部で あ る ことをや め、 イ ン ド政府へ の協力 も しな い 」 とい う 「最後 通牒 」 とよばれ る書簡 をネ ルー に送 ったが 、一貫 して無 視 され た[lmti1988:Appendix;Chaube1990:158]。 その 一方 、ハ イ ダ リ合 意が 成立 して か ら間 もな く、 も しNNCが イ ン ド の 一部 に留 まる こ とを拒 否 した ら、知 事 ハ イ ダ リは武 力 の 使用 を辞 さ な い とい う噂が 立 って いた[Phizo1960:2;Steyn2002:73]。1948年8月 前後 に、 フ ィゾー はハ イ ダ リ合 意書 の第9条 に 「自決権 」 を含 ませ る修 正 案 に 固執 し、 ナ ガ独 立 の主 張 を繰 り返 した た め、 つ い に逮 捕 され た。 一 方、1947年8月 にNNC総 裁 に選 出 され た ア リバ ・イ ムテ ィは、 翌 年 の8 月18日 に辞 任 した[Imti1988:77]。 後者 は任 期 内 にハ イ ダリ合 意書 を発 効 させ よ うと大 変 な努力 を したに もかか わ らず、 その 問題 は イ ン ド政府 に よって棚 上 げ され た30。その後 ナガ丘 陵 の政 治情 勢 は急転 回 し、独 立 要 求 へ の 支持 が 高 まっ た。1949年8月 に フ ィゾー は釈 放 され 、 同年NNCの 総 裁 に選 ばれ た。 フ ィゾ ーの指 導 下 のNNCは 、独 立 の意 欲 に拍 車 がか か り、 ナ ガ ラ ン ドの独 立主 権 を掲 げ た活 動 的 な政治 組織 とな った[Steyn2002: 76-81]。 ハ イ ダ リ合 意書 の精神 と内容 が 完全 に反映 され なか っ た とい う理 由で 、 1950年 か ら、NNCは イ ン ドの 新憲 法 、 と りわけ ア ッサ ムの トライ ブ 自治
南 ア ジァ研 究 第19号(2007年)
をめ ぐる特 別 な規定 で あ る第6付 表31を 拒 否 し、 一連 の 「非協 力 運動 」 を 遂行 した。そ の なかで も、独 立派 の フ ィゾー が とった最 も象 徴 的 な行 動 は、 1951年5月 か ら8月 にか け て の、 ナ ガの独 立 の賛 否 を め ぐる 「国 民投 票 」 で あ った[Nebru's Letters Vol.2:413-4]。 ナガの 「国民 投票 」 とは、 ナガ の 人 々が イ ン ドへ の帰属 を継 続 すべ きか 、 あるい は独 立すべ きか を問 う も の で あ り、NNCの 活動 員 が村 を巡 回 し、村 民1人1人 に説 明 し、栂 印 で 意思 表 明 して も らう方 法 が取 られた[Elwin1961:54]。 これ は実 質的 に フ ィゾーへ の信任 が 問わ れる もの であ った。 イ ン ド政府 が 、 フ ィゾー をは じめ とす るNNCの 独 立 派 は 「極 めて少 数 の存 在 にす ぎない 」 と非 難 した の に対 し、 フ ィゾー は 「国民投 票」 の形 で表 わ れた大 衆 的支持 を もって応 戦 しよ う と した ので あ る。NNCの 発 表 に よれ ば、99%に 達 す る賛 成票 で ナガ の独 立が 支持 され た[Yonuo1974:202]。 つ ま り、 ネ ル ー政府 に よ る フィゾーへ の糾 弾 に反 し、 フ ィゾー は圧倒 的多 数 でナ ガの 人 々に信任 さ れ た とい う シナ リオに なった ので あ る。 ナ ガの 「国民投 票 」 に対 して、 イ ン ド政府 は結 果 を含 めて一 切無 視 した 。 確 か に、 当時の ナ ガの未熟 な政治環 境 や投 票の手 続 きな どには疑 問 を もつ 余地 が あ る。 しか し、NNCの も とで動 員 され た多 くの ナ ガの人 々は、「国 民投 票 」 を契機 に熱 意 を持 って独 立の願 望 を宣伝 した。投 票率 や結 果 は と もか く、 その過 程 を経 て現 れ て きた意 味 とは、 地理 上、 宗教 上、 言語 上 の 障 壁 や、 トライブ社 会 にお いて人 々 を分断 す る クラ ン、村 や トライ ブの 隔 た りが取 り除 かれ は じめ、新 た な共 同体 意 識が 立 ち上 げ られ よ うと した こ となので あ る。即 ち、「ナ ガ対 イ ン ド」とい う二者 択一 を迫 られた ナ ガの人 々 の中 で、NNCの 巧妙 な問い か けに よって 「ナ ガは1つ であ る」とい うナ ガ ・ ア イデ ンテ イテ イが 芽 生 え、後 にNNCの 指 導 に よ って イ ン ド政府 と対抗 す る土台 が用意 された ことを意 味す るの であ る。 その とき、 イ ン ド政 府 が 取 った唯 一の対 抗 策 は、フ ィゾ ーの孤 立化 で あっ た。つ ま り、NNCの 「国 民 投 票」 の結 果 を黙 殺 した イ ン ド政府 は、最 高指導 者 であ る フ ィゾー との あ らゆ る接 触 を1952年7月 以 降 断 ったの であ る[Chaube1990:158]32。 (3)NNCの 非協 力運 動 、ネル ーに よる ナガ丘 陵訪 問 と武装 闘争 1950年 の イ ン ド新 憲法 の第6付 表 に基づ い て、 トラ イブ 自治 区選 挙 が 1952年 に行 われ、 同 年 に イ ン ド独 立 後初 め て の下 院 選挙 とア ッサ ム州 議 会選 挙 が行 われ たが 、NNCは これ らの 選挙 をす べ て ボ イ コ ッ トした。 ト
ナ ガ民 族 自決 運 動 とネ ルー 政 権(1947―56) ライブ 自治 区選挙 は ア ッサ ム州 にお け る合 計6つ の トライブ県 に憲法 上保 障 され た 自治権 を実現 させ る 目的で 、 トライブ 自治県 の代 表 を選 出す る も ので あ り、州 議会 選挙 は ア ッサ ム州議 会ヘ ナ ガ代表 を送 ろ うとす る選 挙 で あ る。エ ル ウ ィ ンに よれ ば、政府 側 に よ り選挙 準備 や選 挙事 務所 な どの整 備 が され た に もか か わ らず 、ナ ガ側 は、有 権者 の登 録 に も立 候補 者 の指名 に も一切応 じなか った[Elwin1961:53-4]。 NNCは ナ ガの人 々を動 員 し、 イ ン ドの民族 運 動 に倣 って 「市 民 的不 服 従 」 運動 を推 進 した。 納税 や 政府 に対 す る協 力 を拒 否 し、 役 人 は辞任 し、 教 師 や生徒 も学 校 をや め、村 長 らも辞任 し、 イ ン ドの公 式祝 典 な どをボ イ コ ッ トす る ものだ っ た。 それ に対 し、 「法 と秩 序 」 を維持 す る名 目で 、警 察 に よ る取 り締 ま りが強化 され た[Chaube1999:159]。 1952年10月 に、 ネル ー は首 相 に な って初 め て ア ッサ ム と北東 辺 境地 方 を視 察 し、 ナ ガ運 動 の発 展 を意 識 しなが ら、マ ニ プー ル のナ ガ居 住 地 域 まで は行 ったが 、 ナ ガ丘 陵県 に は入 らなか った 。 同月30日 に、 ネ ル ー は 各 州首 相へ 長 い書 簡 を送 り、 そ の なか で、 フ ィゾ ーの指 導 下 のNNCが も た ら した広 汎 な非 協 力 運動 な どにつ い て触 れ た。書 簡 に は、NNCが 拒 否 した憲 法 の第6付 表 につ いて、 自治 の範 囲 を再検 討 す る こ とが可 能 で あ り、 ナ ガ丘 陵県 にお け る官 吏 の任用 問題 をめ ぐり譲歩 す る用意 が ある と書 かれ て い た[Nebru's Works Vol.20:160-72]。 特 記 す べ きなの は 、 それ まで ネ ル ー は フ ィゾー と少 な くとも3回 対 面 して い たの だ が、1956年 時点 の ネ ル ーの 回想 に よれば、 フィゾ ー との接 触 は決 して快 い経験 で はなか っ た と 考 えて いた とい う こ とであ る。 フィゾー は ナガ独 立の 主張 を繰 り返 すの み で、 よ り広 汎 な 自治 を与 える説得 に耳 を貸 さなか った ことに ネルー は憤 慨
していた[Nebru`s Works Voi.33,2004:175-7]。
1953年 の3月 、 ビルマ の ウ ・ヌー(UNu)首 相 の招 きに よ り、 ネル ー は再 び東北 辺境 地域 を視 察 した 。今 回は 、ネ ルー はマ ニ プール の イ ンパ ー ルで ビル マ首相 を迎 え、 と もにナガ丘 陵へ 車 で向 かっ た。 そ こか ら、2人 は さ らにビル マ側 のナ ガ居住 地域へ 飛 ぶ予 定 だっ た。 イ ン ド側 の ナ ガ丘 陵 県 にお け る行政 の 中心 地 で あ るコ ヒマ にお い て大 歓声 で迎 え られ た ネル ー に対 し、NNCの 代 表 は 嘆願 書 を渡 そ うとア ッサ ム 出身 の ナガ丘 陵 県長 官 に要請 したが 、拒 否 された。 こ う した長 官 の傲 慢 な態 度 にNNCは 素早 く 反応 し、歓迎 会場 に集 まっ てい た数千名 の ナ ガの聴衆 の退 場 を即座 に指 示 した。 ネ ルーが まさに演壇 に立 と うと した 時、 ナ ガの人 々 は一 斉 に尻 を叩
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き退場 して抗 議 した[Nebru's Works Vol.22,1998:221-7]。
ネル ー はビル マ首相 の前 で面 子 を潰 され た こ と、そ して県長 官 の無策 な 対応 に立腹 しただ け で な く、 フ ィゾー を代 表 と したNNCに 対 し更 な る反 感 を募 らせ た。以 来 、 ネルー は二度 とフ ィゾー を相 手 にす るこ とが なか っ た 。ナ ガ側 か ら見 れ ば、初 め て地元 で イ ン ドの首相 と対面 で きた貴 重 な機 会 をつ かん で意見 を述 べ よう と大 い に期 待 して いた に もかか わ らず 、全 く 無 視 され る結 果 とな った た め、 そ の反 発 と して ナ ガの慣 習 を援 用 し、 相 手 に尊 重 され ない場合 は こち ら側 も協 力 しない正 当な理 由が あ る と考 え、 ネル ー の演 説 を聞 かず に集 団 で退 席 した ので あ る。 い ず れ にせ よ、 これ が きっ か けで 、 ネ ルー の フ ィ ゾーへ の排 斥 は 決定 的 な もの とな った。 一 方 、NNCは この 出来事 を契機 として、 ナ ガ内 部 にお け る反 イ ン ド的活 動 を さ らに広 げ 、 イ ン ド政府 へ の敵対 心 は ます ます 高 ま った。1953年 以 降 、 NNCは 徐 々 にイ ン ド政府 に対 す る 「非協 力 運 動 」の よ うな従 来の 消極 的 な対 抗 か ら好 戦 的 な姿勢ヘ と転 換 した、とエル ウ ィ ンは述 べ てい る[Elwin l961:55]。 ここ で留 意 しなけ れ ば な らな いの は、 当 時 の ナ ガ丘 陵県 で は、1950年 のイ ン ド憲 法の発 効 と共 に、 イ ギ リス植 民 地時代 の 州知事 に与 え られ た ナ ガに対 す る行政権 及 び司 法裁 量権 が ア ッサ ム州 政府へ移 管 され た こ とで あ る。 こ う して、 イ ギ リス人 に代 わっ て登 場 したア ッサ ム人 の県長 官 に よる ナ ガの直 接統 治 に対 し、 ナ ガ側 の不満 は募 っ た。 ナ ガ側 に とっ てみ れ ば、 イギ リス人 の退 去 と共 に回復 された 自由 をア ッサ ム人 に奪 われ 、ナ ガ丘 陵 県 は州 知事 の直 轄支 配 か ら県 長官 に よる統 治へ と降格 され たの に等 しか っ たか らで あ る。 そ の後 、 ナ ガ丘 陵で は、 ネル ー政 府 の 報復 と して イ ン ド軍 に よ る攻撃 が あ る とい う噂 が 蔓延 し、多 くのNNC幹 部 が地 下 に潜 る よう に なっ た。 1953年5月26日 に発 布 され た 「ア ッサ ム州(自 治 県)公 共秩 序 維持 法」で は、 「法 と秩序 」 の 名 の下 で、 あ らゆ る集 会 や、 ス ピー カ ー と車 両 の使 用 な ど が厳 し く制 限 され た だ け で な く、 副 警 部以 上 の 警 察官 は、逮 捕 状 無 しで 容 疑者 を逮 捕 す る ことがで きる とされた[Nuh2002:153-4]。 同法 は7月 14日 には、 ナ ガ丘 陵県 に適用 され る よ うにな った。 同年 、 ナ ガ丘陵 県 に9 つ の警察 駐 留地(outpost)が 新 た に設 置 された。 さ らに、 イ ン ド刑 事 訴 訟法 の144条 「4人以上 の 集会 を禁 じる」法律 もコ ヒマで例 外 的 に適 用 さ れ た[Chaube1999:159-60]。 即 ち、 ネ ルー の訪 問後 、 ア ッサ ム州 政 府
ナガ 民 族 自決 運 動 とネル ― 政 権(1947-56) に よるNNCの 活動 へ の取 り締 ま りが 強化 された ので ある。 1953年11月 にア ッサ ム会 議派 の 党首 及 び野 党 のメ ンバ ー か ら構 成 され た 「ナガ友 好 団」 の代表 が ナガ丘 陵 を訪 問 し、 そ の後 ナガ代 表 もア ッサ ム を訪 問 した[Elwin1961:54;Chaube1990:160]。 そ の時 、 ナガ代 表が 提 出 した報 告書 の 内容 は、 ナガの 人 々は、 中央 政府 に よる 同地 の労働力 の 徴用 、 武装 警察 隊(Military Poiice)及 び ア ッサ ム銃隊(Assam Rifles) の 派遣 に断 固 と して 反対 し、 ア ッサ ム州 政府 に よるNNCや ナ ガ村 議会 へ の 禁圧 に抗議 し、ナ ガ人女 性 に対 す る警 察 に よる暴行 を強 く非難 す る、 と い うもの だっ た[Chaube1990:160]。 翌 年 の1954年4月4日 、武 装 警察 隊 がNNCの 書 記 の サ ク リーの家 を襲 撃 し、NNCの 機 関紙 『ナ ガ ・ネイ シ ョン』 を反政 府 宣伝 紙 と して発 禁 に した。 そ れ に対 し、地 下 に潜 行 したNNCの 主要 幹部 らは、 武装 抵抗 の準 備 を開始 した。1955年 末 に イ ン ド軍 の投 入 が 正 式 に決 定 し、 翌 年 ナ ガ丘 陵県 お よび チ ェ ンサ ン地 方 は 「紛 争地 域Disturbed Areas」 と指 定 され るよ うにな った[Yonuo1974:210.4]。 イ ン ド情 報 局初代 長 官 のマ リック(B.NMullik)や エ ル ウィ ンに よれば 、 NNCは 当 初 武 力 蜂 起 の 意 図 は な か っ た[Mullik1972:313-4 & Elwin
1961:55]。 そ れ に もか か わ らず 、武 力 闘 争 が 起 こっ た の は なぜ なの か。 エ ル ウ ィ ンの解 釈 に よれば 、NNCは あ らゆ る手 段 を尽 くした に もかか わ らず 、 自決の 要求 が無視 され、 ネ ルーや イ ン ド政府 との直接 交 渉 を望 んだ が、 失敗 に終 わ っ た こ とに大 い に落胆 した か ら とい うこ とに なる[Elwin 1961:55]。 だが 、 ヨヌオ の解 釈 に よれ ば、 そ れ は イ ン ド政 府 の態 度 に拠 る もの で あ った。 つ ま り、 まず ア ッサ ム州 政府 側 が強 硬 な態 度 に変 わ り、 ナ ガ問題 が 「法 と秩 序 」の 問題 として抑 え られ るだ ろ うとい う噂 が立 った ので 、ナ ガ丘 陵が 恐 怖に包 まれ 、そ の なかで 、ナ ガ独 立 運 動の指 導者 た ち は地下 運 動 に追 い 込 まれ る ことを余儀 な くされ たので あ る[Yonuo1974: 205&211-20]。 マ リックの記 述 に よれば、 当時 人 口の少 な いチ ェ ンサ ン地 方 では、 ナ ガ の 成人 男子1人 に対 し、軍 関係 者1人 の 割 合で軍 隊が 派遣 され た[Mullik 1972:308-313]。 そ の理 由 は、 イ ン ド政府 は当初 か ら迅速 にナ ガ独 立 運動 を消 滅 しよ うと全 力 を挙 げ たか らであ ろ う。一 方、 ナ ガ側 も、第 二次 世界 大戦 中に残 され た 限 られ た武器 を持 って政府 軍へ の抵 抗 を始 めた 。 しか し、 最 初 に衝 突 が起 きた の はナ ガ丘 陵県 で は な く、NEFAの チ ェ ンサ ン地 方
南 アジ ァ研 究第19号(2007年) だ っ た。 ナ ガ丘 陵 県 にい たNNCの 一 部 の主要 幹 部 らが 武力 の使 用 に反 対 したの をみ て、 フ ィゾー がチ ェ ンサ ン地 方ヘ潜 行 し、他 のナ ガ ・トライ ブ の 力 を借 りて武 力 対抗 を試 み た の だ とい う説 もあ る[1bid]。 そ の説 か ら も分 か る よう に、 最初NNCの 内 部 に は武 力使 用 へ の反対 意 見 が強 く、 ナ ガ地下 ゲ リ ラの 規模 は決 して大 き くなか ったの であ る。 V 結 び ― ネ ル ー 政 権 に よ る 対 ナ ガ 政 策 の 背 景 ― これ まで み て きた よ うに、 ネル ー政権 期 前 半 の10年 間 に限 って ナ ガ運 動 に対 す るイ ン ド政府 の対 応 を検討 す る と、 ネルー はナ ガ運動 に対 して妥 協 的 で、一 貫 した辺境 政 策 を用 意 してい た とは言 えない と考 え られ る。東 北 イ ン ドの辺境 政策 の草創 期 に あっ たネ ルー政権 の前 半期 にお いて、 辺境 の諸集 団 に対 して、 ネ ルー は柔軟 な対 策 を打 ち出す余 裕 が なか った と思 わ れ る。 この よ うに判 断 しうる根 拠 は、 以下 の3点 の考察 に よる もの であ る。 第一 に、 本論 が対 象 とす る時期 にお い て、 イ ン ドの 国家統合 が 、東 北 国 境 地域 を含 む 中国 、 ビルマ な ど周 辺諸 国 との 関係 のなか で きわ めて流動 的 であ り、 かつ その対 処 は、 いっ たん 間違 えれ ば危 機 を招 きかね ないか な り 微 妙 な段 階 に あ った た めで あ る。 東 北辺 境 の 保全 の面 にお い て、 中 国 の チベ ッ ト侵 攻 に伴 って 中印 国境が これ までに ない危 険 性 に晒 され始 めた と い う一般 的 な認 識 の も とで 、 ネルー はナ ガ問題 を常 に東 北辺 境政 策全 般 の ―一部 と して考 えてい た と思 われ る。 しか し、1956年 までの段階において、 中国 か らの武力 に よる具 体 的 な脅 威 を過小 評価 したの と同 じよ うに、ナ ガ 問題 に対 して も、 ネ ルー政権 は必 ず しも適 切 な具体 的対 応 策 を考 えてい た とは思 えない 。そ れ は情 勢 則断 の誤 りとい うだ けで な く、 国境線 自体 が 未 画定 で あ り、 と りわ け辺 境政 策 もよ うや く緒 につ いた ばか りの段 階 であ っ たか らで あ ろ う。 第 二 に、 ア ッサ ム州 政府 に よる ナガの 人 々へ の 配慮 に欠 け た対 応 に対 し て も、 ネル ーはそ れ を埋 め合 わせ るだ けの対応 策 をとる こ とが で きなか っ た とい う点 で あ る。す で に触 れ た よ うに、 そ の最 も象 徴 的 な例 は、1953 年 のナ ガ丘 陵訪 問後 、 ネ ルー が フ ィゾー を代 表 と したNNC勢 力 と一 切 直 接 の交渉 を断ち、 ア ッサ ム州政府 にナ ガ問題 を任せ き りにす る とい う失 策 を犯 した こ とで あっ た。そ の前 後か ら、 ネ ルー政府 は、 ア ッサ ム州 政府 の 論調 に合 わせ て、外 部 の イギ リス人 官僚 及 び外 国人宣教 師 か らの影響 とい う根 拠 の薄 い非難 を公 に し続 けた。 そ の一方 で、 ナ ガに よる独 立 の主張 の
ナガ 民族 自決 運 動 とネル ― 政 権(1947-56) 根 源 にあ る もの、例 えば ア ッサ ム人県 長官 による統 治、 イ ン ド政府 に よる ハ イダ リ合 意 書 の一方 的 な破棄 、 お よび憲 法 第6付 表 に合 意書 の 内容 が反 映 されな か った こ とな どに対 す るナ ガ側 の不 満 の声 に は決 して耳 を傾 け な か った。 その結 果、 イ ン ド政府 か らのナ ガの更 な る離 反 を促 して しまっ た。 第三 に、前 述 の ネ ル ーの書 簡 集 で示 した よ うに、1956年 に なっ て は じ めて、 ネ ルーが ア ッサ ム州政府 の 失策 及 び、 イ ン ド政 府側 の ナ ガに対す る 理解 が 不足 していた こと を認 めた とい うこ とで あ る[Nebru's WOrks Vol.34: 152-4]。1956年9月 の段 階 で 、 ネ ル ー は、 国 防相 の カ ー トジー(K.N. Katji)宛 て の書簡 の な かで、 「ナガ問題 は中 国 に よるチベ ッ ト侵 攻 よ り厄 介 で悩 ま しい問題 だ 」 と述 べ てい る[Nebru's Works Vol.342005:203-4]。 当時 の ネル ー は、 武力 の みで ナガ運 動 を抑 え きる こ との 限界 に気 づ き始 め た ところで、 い よい よ妥協 策 を探 るた めに転換 点 に立 っ たので あ ろ う。 こ う して、 ネル ー政 権 の前 半 期 を通 じた ナ ガに対 す る強硬 策 の 行 き詰 ま りを打 開 す る ため に、 ネル ー政 権 期 の後 半 に なる と、 イ ン ド情 報 局 を 介 して さま ざ まな手 を打 ち 、親 政府 勢力 の 取 り込 み を図 っ た。 そ の結果 、 分 散 した穏 健 派 の結束 を図 り、穏 健 派 を中心 とす るナ ガ人民 会 議(Naga People's Convention,以 下NPC)を 開 くこ とに成功 した[Muliik1972: 316-321]。 さ らに、 イ ン ド政府 は、1963年 に、NPCが 出 した 決議 を基 に、 大 多 数の ナ ガの人 々の感 情 に配慮 し、ナ ガ丘 陵県 を ア ッサ ム州 か ら分 離 さ せ る ことを承諾 し、ナ ガ丘 陵県 はチ ェ ンサ ン地 方 を含 め新 しい ナ ガラ ン ド 州 へ と昇格 した[Mullik1972:326-331]。 この州 昇格 を境 と して、独 立 派 に対 抗す る中間勢 力が よ うや く台頭 す る こ とになっ た。 それ は、 中央 か らの よ り有 効 かつ直接 的な統 治 を 目的 とす る、穏 健 派 に対 す る て こ入 れ の 結 果 であ り、 イ ン ド中央 政府 に よ るナガ集住 地域 の懐 柔 政策 で あっ た と も 言 え よ う。 ア ッサ ムか らナ ガ を分離 させ 、 そ して州 と して昇格 させ る とい った対 策 は、従 来 ナガ運動 側 の勝利 、 あ るい はイ ン ド政府 側 の譲歩 だ と一般 的 に解 釈 されて いた 。 しか し、1959年 に中 国の チベ ッ トへ の武力 鎮圧 をは じめ 、 マ クマ ホ ン ・ライ ンをめ ぐる中印 問の対 立が 高 ま るなか、 窮地 に立 た され た ネル ー に とって、 内憂 であ るナ ガ問題 の早 期解 決 は何 よ り重 要 であ った。 ナ ガ ラ ン ド州 の設 立 は、 ネル ーが窮状 か ら抜 け 出そ う と して突破 口 を求 め た計 算 の結 果 で あ った と考 える方 が事 実 に近 い[Mullik1972:330]。 ナ ガ側 か らみ れば 、独 立 を手 に入 れ る こ とな く、代 わ りに獲 得 した州 へ の昇
南 ア ジァ研 究 第19号(2007年) 格 は、あ くまで も運 動路 線 の分岐 下 の派生 的 な結果 で あ った。 つ ま り、 そ れ は穏 健 派 と呼 ば れ る人 々 とイ ン ド政 府 との 問の妥 協 であ り、 ナ ガ内部 の 一 部 の意見 に過 ぎなか った わけ で、穏健派の代表性にも疑問が投 げかけら れた 。そ の後 、運動 は表 面上 弱体 化 して い ったが 、決 して真 の 意味 での解 決 には繋 が らなか った 。 皮 肉 に も、 晩年 の ネルーが 柔軟 な姿 勢 を示 しは じめ た時期 は、実 は ナガ の独 立運 動 が もっ と も拡 大 した時期 で もあ った 。運 動 は近 隣 のNEFAや マニ プー ルの ナ ガ居 住地 域 のみ な らず 、 隣国 の ビルマ や(東)パ キス タ ン に も広 が った。 さ らに、NNCの 最 高指 導 者 であ るフ ィゾ ー は イギ リス に 亡 命 し、反 政府 キ ャンペ ー ンを繰 り広 げ は じめた 。 ネルー の晩年 に、む し ろナ ガ運動 は頂 点 に達 した とも言 えるだ ろ う。 ネルー の死 の直前 の1964年 に、ナ ガ ラ ン ド州 で最 大規模 を誇 るバ プテ ィ ス ト教 団 の要請 で、 名高 い イギ リス人 宣教 師マ イ ケル ・ス コ ッ ト(Michael Scott)を は じめ 、J.P.ナ ー ラー ヤ ン(Narayan)、 及 び 当時 の ア ッサ ム州首 相 のチ ャ リハ ー(B.P.Chaliha)の3名 で構 成 され た ナガ平和 使節 団(Peace Commission)が 結 成 され、 イ ン ド政府 とナ ガ地 下政 府 との 問 に立 って交 渉 を行 っ た[Scott1966:8-28 & Gundevia1975:85-7]。こ の こ とか ら、
ネル ー を代 表 とす る中央 政府 も、 州昇 格が ナ ガ運 動の最 終的 な解 決策 で あ る とは、必 ず しも考 え てい なか った こ とが わか る。 ナ ガ ラ ン ド州 の成 立が ナガ問 題 の解 決 に 関 しては不 完全 な もので あ った こ とは、そ の後 も分 離主 義 運動 が州 民の 暗黙裡 の支持 を獲 得 しつづ け て きた こ とか ら明 らか であ る。 また、 ナ ガ ラ ン ド州 の設 置 は、東北 イ ン ド全 体 の 自治運 動、 自決 運動 に大 きな影響 を与 え、州 設置 を1つ の獲 得 目標 とす る運動 は、 ナガ運 動 の後 を 追 う形 で、 その後 も絶 えなか っ た。 ネ ルー政権 期 にお け るナ ガ対 策 の よ り深 い評価 の ため に は、 国境 政 策 の 一環 と しての東北 辺境 全般 に対 す る政 策の考 察 が不 可欠 であ る。 また言 う まで もな く、 ナガ運動 の全 貌 もよ り正確 に把 握 す る必 要 があ る。 ネ ルーの 個 人文書 や イ ン ド外務 省 の資料 の早 期公 開を待 ちつ つ、今 後 よ り多 くの1 次 資料 に基 づい て さ らに精 密 な歴 史的 な考察 を行 う ことを筆者 の課 題 と し た い。
ナ ガ民 族 自決 運 動 とネ ル ー政 権(1947-56)
註
1 「ナガ(N
aga)」 と呼 ばれて いる人々は、本 稿 の扱 う時代 まで は、 自称 で はな く、「ナガ丘 陵 と そ の周辺 に住 んで い る人々」 とい う他 称 認 識 の意 味 合 いで用 いた場 合 が 多い 。 自称 す る場 合 は、む しろそ れぞ れ の族 名や トライブ名 、つまりアオ(Ao)、 ア ンガ ミ(Angami)、 ロタ(Lotha)、
セマ(Sema)、 コンニャク(Konyak)な どを使 うのが 自然 であ った。 トライブ とはイギ リス時 代 以 来、 ヒンドゥー教 徒 やイスラーム教 徒 で はない人々を一 括 して総 称 す るもの であ る。 本 稿 で は、「ナ ガ」 を使 う場 合 は、 基 本 的 にナ ガ丘 陵 県 を中心 とす る複 数 の ナガ系 トライブの 集合 を 指 す。 アオ ・ナ ガや ア ンガ ミ・ナガ を使 う場 合 は、 ナ ガを構 成す る個 別 の トライブ を指 す ことと なる。 ナ ガ丘 陵 県 は1874年 の 「指 定 地 域 法 」が 適 用 されて以 来、 トライブの集 住 地域 である 理 由か ら、通 常 の法 行政 体 制 より除外 され る対 象 となった。即 ち、トライブの慣 習 法が 尊 重 され 、 アッサム州 議会 の 管轄 が及 ば ず、ナガ県 長官 が アッサム州知 事 の直 轄 下で、緩 や か な統 治 を行っ ていた。 2 ナガ ランドの人 口 は 、1961年 は369200人 、1971年 は516,449人 であ る。 そ の うち、 キ リス ト 教 徒 の 割合 はそ れぞ れ52.98%と66.76%に 達 し、16以 上の ナガ系 諸 トライブが ナガの総 人 口 の85%以 上 を占め ている。 人種 的 にはモ ンゴ ロイド系、 言 語 的 にはチベ ット・ビルマ 語派 に属
してい る[Government of Nagaland 1967:17&28; Census 1971]。
3 従 来 か ら、「ナガ運 動 」 をどう見 るか につ いて、 少 な くとも二 通 りの、全 く異 なる見 解 が あ る。
1つ は、 旧 イギ リス人 官僚 や 外 国 人 宣教 師の 煽 動 に よる極 少 数 の分 離 主義 者 の運 動(イ ンド 民 族 主 義者 の主 張)[Nebru's Letters Vol.3, 1985:150]で あ るという見 方、 もう1つは、民 族 自 決 運 動 や ナガ ・ナ シ ョナ リズ ム(マ ル クス主義 者 や ナ ガ民 族 主 義者 の主 張)で あるとい う見 方
[Ramasubban 1978; Misra 1978]で あ る。 以上 のような運 動 の本 質 論 を論 じるアプ ローチ で
は な く、 政 治 学理 論 の観 点 か ら、 自決 運 動 はエスニ ック集 団 による既 存 の 国家体 制へ の挑 戦 や政 治 参 加 の一形 態 であ ると捉 える見 方 もあ る[Handke1980; Atul Kohli 1998;佐 藤1988: 6-9]。本 論 文 は、基 本 的 に政 治 学 的 な観 点 を踏 まえて、 ナガの 自治 要 求 と分 離独 立要 求 の発 生の 背景 に着 目し、 運 動 の歴史 的 な経 過 及び 政 府 の対 応 を中心 に検 討す ることを目的 とす る。 4 1975年11月10日 に結 ば れ たシロ ン協 定(Shillong Accord)の 内 容 は、 地下 組 織 の 代 表 者 は インド憲 法 を受 け入 れ ること、 地下 運 動 家 の持 つ 武 器 を放 棄 する こと、 地下 運 動 家 は然 る べ き期 間 を設 け、 その他 の問題 の 最 終 的解 決 を話 し合 うことの3点 であ る[V.K. Nuh 2002: 331]。 5 Gopal
,S. etal. (eds.), Selected PVorks of lawaharlal Nilhru (以 下Nebru's mrksと 略 記) ParthasarathiG., (ed.), Jawabarlal.ZVehru' Letters to CbhiefMinisters (Ndbru's Lettersと 略 記)。
筆 者 が み た限 り、後 者 で抜 け ている東北 辺 境 に 関する記 述 が 、前者 によって復 元 されてい る。 6 本 稿 は筆 者 が2002 ∼2004年 日本 学 術 振 興 会 の 特 別研 究 員 として行 った 「ネル ー政 権 下 に おける東 北 インドの辺 境 及 び トライブ政 策」 という研 究 課題 の成 果 の一 部 である。 7 1950年 まで 藩王 国 の地 位 を保 つて いたマニプール 州 はナガ丘 陵 の南 に位 置 し、州 の中 央 盆 地 に住 む住 民 の殆 どはヒンドゥ-教 徒 で あ り、残 る半 分 弱 の住 民 は、 ナガ とクキ(Kuki)と 呼 ば れ る2大 トライブ集 団 か ら成 り、 中央 盆 地 を囲む9割 以 上 の面積 を占め る広 大 な丘 陵地 帯 に分 布 する。 8 クランは トライブや村 より小 さい氏族 単 位 で、 概 ね同姓 や 近親 者 と理 解 してよい。 91946年8月 に第1巻 第1号 を発 行 した。 当初 の紙 名 はTimes of KObimだ ったが、 同 年 の10