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ロンドン世界経済会議と国際経済協力 掲載誌 EX ORIENTE ( 大阪大学言語社会学会誌 ) Vol.15 ( 2008). pp.61 ~ 88. 特集 アメリカ研究の回顧と展望 ロンドン世界経済会議と国際経済協力 千葉大学 秋元英一 1. ロンドン世界経済会議の位置 本稿は 1933 年 6

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1 League of Nations, Monetary and Economic Conference, Draft Annotated Agenda, submitted by the Preparatory Commision of Experts. (January 20, 1933 .) in George McJimsey, ed., , Vol. 17. FDR and the Documentary History of the Franklin D. Roosevelt Presidency DHFDR( )

London Economic Conference Congressional Information Service, 2003 , 19.( )

Goldern Fetters, The Gold Standard and the Great Depression, 1919-1939 2 Barry Eichengreen,

Oxford university Press, 1992 , 188-189.

( )

EX ORIENTE Vol.15 2008 pp.61 88.

掲載誌『 』(大阪大学言語社会学会誌) ( ). ~

《特集 アメリカ研究の回顧と展望》

ロンドン世界経済会議と国際経済協力

千葉大学 秋元 英一 1.ロンドン世界経済会議の位置

本稿は、 1933年 6~7月に開かれたロンドンにおける世界経済会議を再吟味することを通じ て、失敗に終わった経済国際協力の諸原因を時代背景とともにあらためて問い直すことを目的と している。この会議は、もともとは、フーヴァー大統領がすでに1931 年に開催を予定していたもの で、ローズヴェルト政権にとっては、前政権から引き継いだ宿題のようなものであった。国際連盟 は1927年にジュネーブで世界経済会議を開催しており、関税休戦などを決めていた。ドイツに対 する賠償問題については、ヤング案が 1929 年に合意されており、さらに、 1931 年 7月のヨーロ ッパ金融恐慌のさなかにフーヴァーによる戦債と賠償の1年間のモラトリアムが発効した。賠償に 1932 ついては、それまで必死に「履行政策」を行っていたドイツのブリュニング政権が倒れた後の 年 7 月のローザンヌ会議において、事実上停止された。このときにロンドン経済会議の開催につ いて主要国の合意がなされた。 1920 年代の「遺産」としては、アメリカに対するイギリスとフランス の戦債問題が残っていた。

年 月のニューヨーク証券取引所における株価の大暴落で始まった不況は、商品価格

1929 10

の40%に上る下落と全世界で3千万人におよぶ失業者を生み出しており 、主要国では、イギリ1 スが1931 年9月に金本位制を停止していた。 これは、資本主義世界を金本位制国と金本位制 離脱国とに分裂させる意味があり、翌 1932 年には、主要 54 カ国のうち、金本位制に留まってい たのは、21カ国となっていた 。2

多くの場合、金本位制の停止は、その国の通貨切り下げを伴うので、金本位制国に対して輸出 価格が下落し、したがって金本位制を停止した国が競争上優位に立つ。いわゆる「近隣窮乏化」

効果である。これに対して金本位制国が金本位制を維持したままでこれに対処しようとすれば、物 価や為替の調整は困難なので、輸入品に対して関税を増加させるとか、輸入制限を行うとか、の 手段に訴える可能性がある。貿易や関税をめぐる争いが激化するのである。イギリスの国内物価

(2)

3 Barry Eichengreen & Peter Temin, "The Gold Standard and the Great Depression," NBER Working Paper 6060 June 1997 , 20.( )

4 Ibid., 22.

5 Ibid., 31.

Franklin D. Roosevelt 6 J. Ramsey MacDonald to FDR, May 8, 1933. Edgar B. Nixon, ed.,

The Belknap Press of Harvard University Press, 1969 , Vol. I:

and Foreign Affairs FDRFA( ) ( )

Manageing the franc Poincar :

January 1933 - February 1934, 98-101. Kenneth Mouré, é

Economic understanding and political constraint in French monetary policy, 1928-1936 (Cambridge University Press, 1991 :) 山口正之監訳『大恐慌とフランス通貨政策』(晃洋書房、

1997年)、pp. 186-187.

は金本位制停止以降、上昇傾向を保っていた。そして、 1933 年 3 月のアメリカにあって全国的 な銀行破産の渦中で政権を握ったローズヴェルト政府は 4 月にかけて金の禁輸から始まる金本 位制停止を行い、ここでも下がり続けていた国内物価が反転上昇する気配を見せていた。他方、

年代前半に金本位制停止を余儀なくされていたフランスは、 年に過小評価されたフラ

1920 1926

ンで金本位制に復帰した。フランス蔵相マルタン(Louis Germain-Martin)は、物価を操作するため に通貨政策を用いたことが金本位制のルールと抵触して、恐慌を招いたと論じた 3 。必要なこと は、金の非弾力的な動きに合わせて物価とコストが下がることだ、というのである。フランス銀行総 裁のモレ(Clement Moret)) も、人為的な低金利政策は混乱を助長するのみだと論じた。経済評 論家ジャック・リュエフ(Jacues Rueff)は、人工的な低い公定歩合や公開市場操作は賃金など生産 コストが下がるのをを妨げてしまうので、「調整が進むにまかせる」のがよいと論じた 4 。こうした正 統派的議論には、第一次大戦後の金本位制復帰以前の時期にフランスが財政危機に見舞わ れ、インフレに悩まされた経験が背景にある。 イギリスでは、労働党のマクドナルドが首相の座に あり、金本位制の離脱を敢行したものの、イングランド銀行は当初金の流出を恐れて金利の引き 下げには慎重だった。そこでハロッド(Roy Harrod)ら経済学者は低金利政策や減税を求めていた が 、やがて、イギリスも低金利政策に転じた。5

こうして、会議で議論を主導することになるアメリカ、イギリス、フランスのうちで、イギリスが会議 の達成目標としたものは、何よりも戦債の支払い停止であり、世界経済の恐慌からの回復には、

世界の物価の引き上げが必要だとしていた。また、関税休戦も対策として提言していた 6 。フラン スは、当初はイギリスを含む諸国の金本位制への復帰を求め、アメリカが金本位制を離脱すると、

通貨の即時安定に主張の重点を移した。フランスは世界的な物価引き上げ策やフランスに偏在 していた金の再分配を含む方策に反対し、関税障壁の削減についても国内農民の反対により及 び腰であった。他方で、アメリカは政権が変わったばかりの段階で、金本位制の放棄の下でニュ ーディールの諸政策によって物価・賃金の引き上げと需要創出に意を用いていたので、物価の 一層の引き上げにとって障害となるような為替の即時安定には賛成できなかった。さらに言えば、

アメリカでは恐慌下で農産物価格の暴落に悩む農民たちがむしろインフレーションを求めて農民 ストライキを構えたりしていた。フーヴァー政権は金本位制維持、正統的財政政策の原則を変え なかったものの、ヨーロッパと異なってインフレーション政策を求める伝統も他方にあり、ローズヴ ェルトはそうした潮流に乗ろうとしているときであり、諸外国との妥協が困難な条件がそろっていた

(3)

ロビンズ( )はローズヴェルト宛のロンドン会議の様子を伝えた手紙の中で、ユーモ

7 W.R. Robbins

ラスなコメントとして、以下のようなエピソードを伝えている。「フランス代議員団のひとりがコックス 知事にこう話した。「合衆国が通貨のインフレーションを好むことから考えると、われわれは通貨会 議の議長にアメリカ人をあてることには賛成しかねる」。コックス知事はこう答えた。「合衆国は世界 最大の破産国家の人に通貨会議の議長をあてることには賛成しかねる」。いまやみんなが友好的

W.R. Robbins to FDR, June 15, 1933. , Vol. 17., 184.

のようだ」。 DHFDR

8 Gilbert to Harold L. Stimson, January 20, 1933.(DHFDR), Vol. 17. 14-16.

9 League of Nations, Monetary and Economic Conference, Draft Annotated Agenda, submitted by the Preparatory Commision of Experts. January 20, 1933 .( )(DHFDR), Vol. 17., 22.

年 月にケインズは、恐慌に対する処方箋を以下の 項目にまとめている。1)戦債と

10 1931 9 5

賠償の廃棄。2)すべての債務国の債務を外国通貨建てで 3 年間支援する。3)公共事業を融資 するための国際資金の大プール。4)すべての国が低金利政策をとる。5)すべての国が大公共事 業を実行する。

ケインズはイギリス金本位制停止の直後、その決定を支持し、この後は、貿易と通貨価値の変 動を通ずる「競争上の不利益」が金本位制にとどまっている国に集中するだろうこと、したがって世 界経済と世界の景気回復のためにフランスや、とくにアメリカがイギリスにならって金本位制を離脱 する必要を訴えた。彼は翌年ドイツを訪れたときにも、ドイツがなるべく早く金本位制離脱国の仲 間入りをするよう説いている。イギリスが自分の力だけでは恐慌脱出が困難であることは明白であ り、そのためケインズの議論には最初から「国際的パースペクティブ」が伴った。秋元 『世界大恐 慌』(講談社、1999年)、203-207.

7

2.爆弾声明まで

フーヴァー政権から会議の課題を引き継いだ頃(といっても、選挙は 11 月、就任は 3 月という 長い継承=政治空白期間があったが)、会議の課題とされたものは以下のようであった 8 。1)金 本位制国と金本位制離脱国が共存できるような国際通貨体制の構築。 2)小麦の輸出や生産規 制を含む措置による世界商品価格レベルの上昇をはかる。3)為替管理の廃止や国際金融の正 常化。4)恐慌下の緊急措置的な関税引き上げの停止を含む国際協定。たとえば、世界的な物価 下落については、以下のような叙述がロンドン経済会議の準備会議資料に見られる。「近年にお ける商品価格の前例のない下落は、コストと価格のあいだの不均衡を増大させ、あらゆる債務と 固定経費の実質負担をとてつもなく増加させた。それは、事業をますます儲からないものにし、世 界中の失業を継続的かつ破壊的に増加させる結果をみちびいた。世界価格レベルの一定の増 加は非常に望ましいものであり、世界的な景気回復の最初のサインと見なされよう」 9 。ただ、その 対策としてあげられているのは、金融緩和政策くらいであり、ケインズがこの頃主張していたよう な、各国同時の需要喚起型の公共事業等による財政支出を含む積極策とは違っていた10

アメリカの交渉団の中核にいて議長となるハル(Codell Hull)国務長官は、ローズヴェルト宛のメ モで、通貨間の無秩序の是正が困難だと予想される理由として、恐慌が3年を経過し、金本位制

(4)

11 Hull to FDR, February 27, 1933. (DHFDR), Vol. 17., 71-83.

12 J.P. Warburg, Second draft o American policy on monetary and economic topics to be discussed in bilateral conversations and eventually at the Economic Conference. April 3, 1933,

, Vol. 17., 85-94.

DHFDR

13 FDR to Hull, May 30, 1933.DHFDR, Vol. 17., 142.

14 FDR to MacDonals, June 7, 1933.DHFDR, Vol. 17., 163.

行論でなんども出てくる「通貨安定」

15 FDR, June 16, 1933. DHFDR, Vol. 17., 190.

(stabilization)とは、以下の事情を背景にしている。 1933 年4月以降ドルが固定相場を離れ、フロ

ート(変動相場)し始めたので、かつて金本位制や金為替本位制下で通貨間の固定相場にもとづ いて貿易を行っていた経験からすれば、日々たとえばドルとポンドのレートの変更で貿易を支える 基礎的条件が失われたように見えたのは当然である。そこで、一時的にでも主要通貨間でレート を固定し、それを何らかの基金でサポートできないかが検討された。これが一時的安定である。と ころが、ドル自体が毎日のように下落していく現実そのものがこの一時的解決策のアメリカにとって のマイナスを政策担当者に認識させることになった。

に留まる国が少なくなっていることと、多くの国が名目的にのみ金に結びついており、それも貿易 や金融に障害となるような規制を伴ってのことである、としている。それらの規制措置が諸国間の デフレーションを悪化させていると分析している 11 。 国務省のウォーバーグ(J.P.Warburg)が記し たメモには、 以下のような内容がある。まず、アメリカ政府は、通貨の金兌換が過大な経済拡大 に対する健全なブレーキとなると考えるが、他方で、諸規制の撤廃によって国際貿易の自由な流 れを確保することがいっそう重要だと述べている。「合衆国政府は、世界の景気回復にとって国際 金本位制の何らかの形における維持が不可欠であると信ずる。これとの関連で、世界の同質性と 均衡とをもたらすためには、合衆国のようなその通貨を切り下げていない国にとって何らかの犠牲 が必要であるかどうかを偏見なく議論する用意をすべきである」。 また、世界物価の回復という目 標にかんしては、各国政府による2~4年間の同時的支出プログラムが必要であり、その場合、「さ まざまな国によるプログラムは、直接政府支出によるか、民間企業に対する補助金の形で一般的 な目的、すなわち、雇用の自然の源泉を刺激するために同時進行すべきである」 としている 12

ここには、金本位制への信頼とケインズ的な世界同時景気拡大の観念が同居している。

ローズヴェルトは5月末に、戦債と軍縮についてのいかなる議論も、公式だろうと非公式だろうと Ramsey ロンドン会議ではしてはならないと釘をさしている 13 。またイギリス首相マクドナルド(

)宛に6月15日と定められている戦債支払日の猶予などは議会権限との関係や憲法 MacDonals

上の制約から不可能だと回答している 14。 ローズヴェルトはまず、予備会議で通貨を金ベースで 安定させるとしたのは、なにもイギリスやアメリカのみで安定させるのでなく、すべての諸国家が 金、または金銀、をベースにして再確立するという意味であること、ポンドとドルの安定は、現在見 られるような小さい動きにもとづいてではないこと、またドルが上昇してしまうと、アメリカにおいて 商品価格が下落するので、国内物価を維持するトマス修正にもとづいて行うことの可能な行動の 完全な自由を留保しなくてはならない、と述べている15

大恐慌下のアメリカで債務デフレーション理論をもってリフレーション政策の必要性を訴えてい た経済学者フィッシャー(Irving Fisher)の主張を確かめておこう。彼は1933年4月にシカゴにお

(5)

16 "Fisher advocates halt in deflation,"The New York TimesApril 26, 1933.

17 Fisher to Alvin H.Hansen, June 13, 1933.

18 "Fisher lauds plan to set price levels,"New Haven Register, July 7, 1933.

ける「インフレーションとデフレーション」というタイトルの講演でこう述べている 16。アメリカはデフレ ーションを止め、国中の債務者、債権者、そして働く人々が利益を得られるような時点までリフレ ートすべきである。それから物価水準を安定させ、その場合、そのステップは、ドルを安定化させ よう。「われわれはデフレーションを止めて反転させることによってのみ、将来的な不況を回避する ことができる。これは、金ドルを切り下げ、合衆国紙幣か連邦準備の信用によって債券を買い、し ばらくのあいだ銀行預金を保証し、通貨流通速度を加速させ、労働者の再雇用を援助することに よって可能となる。さもなければ、清算するしかない。これはまだ始まっていない。それには数年か かるであろう。銀行や生命保険会社、鉄道の破産につながるであろうし現在よりもはるかに多くの 失業につながり、政治的な革命がありうる。アメリカはドルの価値が 80%も上昇してしまったことを まだ気づいていない。それはちょうど[第一次大戦の]戦後ドイツで、マルクが 98 %も下がったこと に気づかなかったのと似ている」。この現象をフィッシャーは、「貨幣錯覚」と呼ぶ。

フィッシャーのアルヴィン・ハンセン(Alvin H. Hansen)宛の手紙にはこうある17。「私の『債務理 論』は、ご存じのように、とりわけ不況は、とくに大きな不況の場合には、おそらくは債務価値が、と くに短期債務だが、とてつもなく過大なために、それを清算しようとする努力そのものが物価を引 き下げ、したがってドルの価値を増加させることによって、……実質債務を増加させた。これが起 きると、債務者が自分が負っている債務以上の額を支払うので、清算努力を開始させたのと同じ 原因が続くことになり、不況を深化させる」。

ローズヴェルトのロンドン会議に対する爆弾声明(後述)について、フィッシャーは、こう述べて いる 18 。「もしもローズヴェルト大統領の批判者たちが通貨の安定を構成するものが何であるかに ついて何らかほんとうに理解できていれば、彼の先週の月曜日の声明は爆弾ではなかったことに 気がつくであろう。逆に、金本位制諸国ですら、大統領を彼らの代表演説者であるとして喝采を送 ったであろう。大統領は必ずしも矛盾していない。彼のこれまでの、通貨安定を支持する声明は 商品に比しての安定を意味していたのである。そしてもしも彼の言う意味がたんにフランやソヴリ ン[ポンド]に比しての安定ということであれば、彼はこれらの通貨単位がすべて商品に比して実質 的安定を達成した後にそういう事態が来ることをわかっていたのである。金ブロック[フランス、スイ ス、オランダなどが世界経済会議後に結成した通貨ブロック]は、じっさいは「ドルの安定化」という 用語を盗んだのである。この用語は、長いこと、ドルの購買力が商品全般に対して安定する意味 で用いられてきたし、それは、たんに金や外国通貨に対するその購買力を意味していたわけでは ない。たんに、ある一国の通貨を他の一国の通貨に対して安定化させるのは、真の安定と比較し てたいした結果をもたらさない。そしてアメリカが現在のリフレーションの移行期を経過していると き、すなわち、価格水準を高めてドル価値を下げているときには、リフレーション自体を止めること なしに金に対して通貨を安定させるのは不可能である。もしも大統領がドルを金に対して安定化 させ、なおかつ価格水準を 1926 年レベルまで上昇させようとしているのなら、彼は自らを愚弄し ていることになる。彼は、そんなことはできなかったろうし、フランスによるいかなる通貨安定要求 も、大統領がコミットしてきた、かつアメリカの不況脱出策でもあるリフレーションを断念させることを

(6)

19 "He made the dollar what it is today; We hope you7re satisfied," Bridgeport Herald July 16, 1933.

20 Immediate Release to the Press, June 15, 1933.DHFDR, Vol. 17., 185.

要求しているからである」 。

「われわれはドルを恒久的に金の一定量に固定して、真の安定化を達成することはできない。

金はそれ自体きわめて不安定だから。しかし、大統領がどうやって物価水準を引き上げてその後 それを安定させることができるのか。換言すれば、彼はどうやって商品価値で見たドルの価値を下 げて、その後それを安定化させることができるのか。……」過去の経験として「スウェーデンは物価 水準を1年半以上安定させている。金本位制諸国が物価水準を 20 %下げているのに、スウェー デンはそれを2%以内、通常は1%に固定してきた」。その方法は、中央銀行の再割引率操作と 外国為替の買いオペレーションである。アメリカにおいても 1921-29 年間はドルの購買力が商品 に対して安定していた。それは、ニューヨーク連銀総裁のストロング(Benjamin Strong)による再割 引率操作と買いオペレーションによってである。ところが 1928 年の彼の早すぎる死によって連邦 準備理事会はその方法を終わらせ、結果的に恐慌をはるかに悪化させてしまった。結局のとこ ろ、現在の物価水準の到達目標として1926 年水準が取りざたされているように、たとえば1オンス

= 35 ドルと決めることもできるが、それは永遠にではない。物価水準こそが基準となるべきであ る。

ある新聞はローズヴェルトの政策とフィッシャーの理論との関連をこう解説している 19 。「ローズ ヴェルト大統領の「ブレイントラスト」はこの考え[ローズヴェルトのインフレーション論]に責任があ る。だが、はるかな遠景にあって大統領の多くのおしゃべりの暗い境界地のなかでさえずっている のは、イェールの教授、アーヴィング・フィッシャーのよく整ったスタイルの物言いであった。彼は 大統領の通貨安定についての態度表明におそらくだれよりも責任がある。フィッシャー教授はき わめてしばしばワシントンにいる。しかし彼は静かに行き来する。きわめて慎ましやかなので、彼の 動静はしばしば不明であり、そこで、イギリスのジョン・メイナード・ケインズがアメリカで一流の経済 学者とみとめるこの人が大統領人形を操っている、すなわち、この大統領の通貨安定政策全体に ついて糸を引っ張っているのだと推測するのもありえることであった」。むろん、フィッシャーも大統 領もそんなことは否定するだろう。「おそらく、彼ほど現在の通貨政策に大きく関係している人はい なかった。彼のことを数年間あざ笑ってきた人々も、彼がわが国における一流の経済学の権威だ と認めるようになってきた。イギリスの傑出した経済学者ケインズは、フィッシャーを荒野を照らす 光と呼んだ」。

ローズヴェルトの会議に対する当初の方針は不明だが、 1933年 6月 15日には、財務省が以 下のような一種の警告声明を発表している 20。その内容は、ロンドンからアメリカ代議員団による、

通貨安定にかんする提案について、さまざまな情報が流れてくるが、そのような提案は事実にもと づいてはいない。通貨安定についてのいかなる提案もロンドンで議論するのはかまわないが、決 定はあくまでもワシントンにおいてなされるのだ、と。ローズヴェルトは翌日のメモにおいて、ワシン トンの予備会議で合意した内容における、金本位制にもとづく諸通貨の再編とは、すべての国を 含むものであり、3~4カ国だけの話ではないとし、原則として、ポンドとドルの現状におけるのと近

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21 FDR memorandum, June 16, 1933.DHFDR, Vol. 17., 189-191.

22 Hull to FDR, June 16, 1933.DHFDR, Vol. 17., 193.

23 Memorandum by William Phillips, June 20, 1933.DHFDR, Vol. 17., 197.

24 William Phillips to FDR, June 22, 1933.DHFDR, Vol. 17., 211.

25 Dean Acheson to Rudolf Foster, June 27, 1933.DHFDR, Vol. 17., 215-218.

似したレベルでの安定には反対である、と述べている21。ちなみに、1933年6月の平均レートは 1ポンド=4.13ドルであり、1ポンド= 5ドル近辺まで上昇してから<安定>させようとしていたロ ーズヴェルトにとっては、高すぎるドルのレベルであった。「もしも、ドルがわが国における商品価 格の下落という結果となるような、別の方向に向かう[上昇する]ならば、われわれとしては、国内物 価水準を維持するために、トマス修正のもとでの完全な行動の自由を保たなくてはならない」。ハ ルは、代議員団の立場から、現在の「通貨安定」が間違いだとする人々は、そうしない場合の、諸 国間の経済的平和を達成するについてのアメリカの主導的役割が失われるマイナスを考慮すべ きだとしている 22 。代議員団のウィリアム・フィリップスがローズヴェルト宛に作成したメモは、アメリ カの立場の譲歩可能性のぎりぎりのところを示している 23 。「結局のところ、あなたが言っていたよ うに、この会議はたんに通貨安定目的で招集されたわけではない。考慮されるべき、重要な別の 課題もある。さらに、会議は通貨安定の基準について委任権限をもたない。目的は課題を検討す ることだけである。代議員団の立場は、大統領が最後にはわが国が合理的な通貨安定を達成す る意志があることを再確認することで、強化されるのである。しかしながら、最終的に決められる数 字は、われわれの経験と必要にもとづいてわれわれが決めるものになるであろうし、他の諸国がわ れわれに課そうとするものではない。もしも彼らがそんなことをするのなら、彼らは対外経済のみな らず、わが国内経済に対しても部分的ではあるがかなり実質的な統制権を行使することになって しまう」。同じフィリップスによる電報は、以下のようである 24 。「諸通貨の一時的な、事実上の安定 に向けたプランについて必要以上の強調がされている。事実は、このことは一度も代議員団の検 討項目となったことがないということである。それは、アメリカ、イギリス、フランスの財務省と中央銀 行の代表が考察し、スプレイグ博士がアメリカの財務省を代表するために送り込まれた。ワシント ンのアメリカ政府は一時的通貨安定は時期尚早だと考えている。それが時期尚早だと考えられて いる理由は、アメリカ政府が、最大のなしうる貢献は物価を引き上げる努力だと感じていて、それ らの努力に干渉し、可能性として猛烈な価格不況の原因となるようなことについては、一時的な通 貨安定のための緊急的な協定の欠如よりも、はるかに有害だと考えるからにほかならない」。

月 日にローズヴェルト宛に届けられた電報は、こう訴えている 。「それにもかかわらず、

6 27 25

いまや以下の事実にあなたが注意を向けてほしい。すなわち、一国対一国の行動とは、金を[アメ リカが]輸出することによって、ドルを買うということであり、ドルの上昇やポンドとフランの下落を防 止することはできないだろう。他方で、3国間の行動とは、協定された範囲内ではあるが、ドルのみ ならず、他の諸通貨の下落を防止するであろう」。したがって、この時点における代議員団の意向 は、ドル、ポンド、フランをともに上昇させるような三国間での緩い形での一時的な合意の線でまと めたいということであった。

月 日の大統領宛の電報では、会議向けの協定草案が示されているが、あらためて、目標

6 29

(8)

26 William Phillips to FDR, June 29, 1933.DHFDR, Vol. 17., 227-229.

27 FDR to William Phillips, June 30, 1933.FDRFA,Vol. 1., 265.

28 FDR to William Phillips, July 2, 1933. FDRFA,268-269.

29 Wilbur J. Carr, to FDR, July 3, 1933.DHFDR, Vol. 17., 296.

30 Fisher to FDR, July 5, 1933.FDRFA,273.

31 Press COnference, Executive Offices of the White House, July 5, 1933.FDRFA,273-279.

が金にもとづいた国際的金本位制を再確立することだとされている 26。ローズヴェルトは6月30日 のフィリップス宛の無電で、こう述べている 27 。「こういう事実を明らかにしたい。イギリスは金本位 制を離脱して、2年近くになるが、やっといまになって通貨安定を求めている。それと、フランスは3 年以上も通貨安定しなかった。もしもフランスが、われわれが彼らの定理を受け入れるのを拒否し ていることを理由に会議を破綻させようとするなら、われわれは以下のような堅実な立場をとるべき だと思う。すなわち、この経済会議は世界経済の恒久的な解決策について議論し、同意に達する ために開始され、招集されたものであり、集まった 66 カ国のなかの一国の国内経済政策を議論 するためではなかった」。

ローズヴェルトのいわゆる「爆弾声明」が無電で発信されたのは、7月2日、戦艦インディアナポ リス上からであった 28 。「一国の健全な国内経済システムは、変動する他国通貨の尺度で見たそ の国の通貨の価格よりも、その福祉にとってより大きな要因である。政府のコストの削減、十分な 政府収入、政府債務の履行能力がすべて究極の安定にとってきわめて重要である所以は以上の 理由による。そこで、いわゆる国際銀行家たちの古い物神崇拝が国民的貨幣をつくりだす努力に 取って代わられつつある。その目的は、商品価値から見て、また近代文明の必要から見てあまり 大きくは変わらない継続的購買力をこれら通貨に与えることである。合衆国は、数十年にわたって 不変の購買力と債務償還能力を持続するような価値をもったドルをわれわれは近い将来に達成 したいと望んでいることを、率直に申し上げたい。その目的は、ポンドやフランを尺度にした1~2 か月間の固定レートよりも他の諸国の福祉に役立つであろう。

われわれのより広汎な目的とは、すべての国の通貨を恒久的に安定化させることである。金や 金・銀は、これら通貨の金属準備としての役割を十分に担うことができるであろうが、いまは金準備 の話で時間を浪費すべきではない。 大多数の国が均衡予算を生み自己の生活の資の範囲内 で生活できるように、世界が協調的政策を創出できるならば、われわれは世界の金と銀が諸国通 貨の準備基盤としての役割を果たせるように、より良い分配について適切に議論できるであろう」。

この声明に対して、「5つの金本位国は非常に怒りを覚えると告白した。マクドナルドはしばらく の間まったく意気消沈していた」29

フィッシャーは、数日後に、ローズヴェルトの声明を絶賛している30。「経済会議に対するあなた の声明は、私をもっとも幸福な人のひとりにしてくれています。仮りにそれが会議を終わらせること になったとしても(私はあなたがそうならないようにできることを希望していますが)、国内に対して も、海外に対しても偉大な善行をしたことになるでしょう。それは、すべての人々にとってまことに 不可欠な、債務の安定的な単位をもった新時代の急速な到来を確保するものです」。

7月5日の記者会見で、ローズヴェルトは、こう述べている 31 。「質問: ヨーロッパ諸国は通貨 安定が最初に決着しないかぎり、関税問題の話はできない、と言っている。これについてはどう思

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32 Interview of Louis M. Howe, NBC network, July 9, 1933.DHFDR, Vol. 17., 343-345.

うか?

大 統 領: ま ず 言 葉 の 定 義 に ま で 遡 る 必 要 が あ ろ う 。 … … す べ て の 問 題 は 『 通 貨 安 定 』

(stabilization)という用語に帰着する。われわれは、この言葉の定義に非常に異なった考えをもっ

ている。すなわち、大陸のいくつかの国、ヨーロッパでなく、大陸諸国の若干の国だが、とは違っ て。換言すれば、彼らは、彼らの国、彼らの経済学において彼らはきわめて適切にも、他の通貨 から見た自国の通貨の現在の為替レートに非常に関心がある。彼らにとってはそれが重要であ る。われわれにとってはそれは重要ではない。われわれは基本的に、異なった形の安定化を追求 している。言いかえれば、それぞれの国の X という財貨の量に対して多かれ少なかれ等価な価 格水準にもとづいた通貨安定である。われわれは最終的には、世界の各国がその国自身の国内 購買力の範囲内で安定的であるような通貨を持つべきであろうと望んでいる」。5~6カ国がそれ ぞれの通貨間の為替レートを一時的に安定させるためにある種の特別基金を設けて、為替変動 をコントロールしようとしていた。もしもわが国がその基金に加入すれば、基金がアメリカの金輸出 の基準価格を低くしようとしてアメリカから大量の金を引き出すように要請した場合、 われわれは それに従わなければならなくなる。われわれは実のところ、金本位制をやめてから3か月に過ぎ ず、金を輸出する用意はできていない。

それでは商品の価値にもとづいた通貨とはどういうものか。商品価格の指標と結びつけるのか という質問に対して、ローズヴェルトは「あなたは『商品[複数形]』ということはできない。というの は、私が戻ってきて『どんな商品だ、10個の主要商品か、 750個の商品か』と質問できるからだ。

それから詳細な検討に入ることになる。」指標とすべき購買力の基準年はどうするのか。「すべて の品目についてひとつの日付ということはありえない。……ある種の製品は 1928 年や 1929 年が 最も平均値だったが、他の産品は10年15年遡るかもしれない。われわれは平均値を求めなくて はならない」。 他方で、ヨーロッパ諸国は、金の将来像について、国際通貨の役割を重視してい るが、ローズヴェルトは、金も銀も紙幣発行の担保として使われるべきだと考えた。将来において 金はおそらく金地金としてのみ存在しそれはすべて政府所有であり、一国通貨の恒久的担保とし て国内に保持され、蒸気船に乗って行ったり来たりしない。

記者がそれはフィッシャーの商品指標ドルと同じではないか、との質問にローズヴェルトはその ことは全然知らない、と答えている。記者は続けて、いままで説明されてきたのは、たしかに商品 指標ドルだ、と述べた。重ねてローズヴェルトは「私は知らない」と繰り返した。

さて、ローズヴェルトは、フランスとアメリカが合わせて世界の金総量110億ドルのうちの70億ド ルを持っているが、きちんとした通貨安定が合意されれば、とくに小国に必要な金を供給したり、

金の国際的再分配を考えることは可能であろうと述べている。

7月9日、大統領補佐官ルイス・ハウ(Louis M. Howe)はラジオでの会見でこう述べている32

「無線というのはすばらしい発明だが、私はときどきロンドンからのニュースが帆船によって伝えら れた時代をなつかしく思うことがある。だれもが静かで平和的で幸福なところへ、無電のオペレー ターから、 600 語のメッセージがロンドン会議から来るところだと連絡が来るのだ。そしてその後、

おしゃべりはおしまいになる」。記者が爆弾声明を書いたときの様子を尋ねると、ハウはこう答え た。「その通り、彼はたいていいつも重要な声明を最初に普通の書体で書く。あの有名な文書もイ

(10)

33 Robert W. Bingham to Hull, July 11, 1933.DHFDR, Vol. 17., 349-350.

ちなみに、ヨーロッパの軍 34 William C. Bullitt, to FDR, July8, 1933. FDRFA, Vol. 1., 289-294.

事的状況について、ブリットはこう書いている。「フランスがいかなるものであれ軍縮協定を受け入 れるかどうかについて、私は懐疑的だ。こちらでの一般的空気はヨーロッパにおける戦争が不可 避だというものである。もしも戦争が今すぐ起きれば、フランスとポーランドが勝つだろう。ドイツが 再軍備した後に戦争となれば、ドイツが勝つだろう」。

35 Kenneth Mouré,山口正之監訳『大恐慌とフランスの通貨政策』前掲、211.

ンディアナポリス号の艦長室で書かれた。1時間ほどの間隔で入ってくる無電が大統領にますま すもって、彼にわが国の立場を疑問の余地なきように表明すべき時期だと確信させた」。また、声 明の内容については、「あなたも、おそらく多くの人々もあれが何ら新しい決定ではなく、数ヶ月前 に出された決定にたんにしたがっているだけだということを理解できないだろうという点は私にとっ て明瞭なのだ。そして実際は、フーヴァー大統領の最終の時期にこの会議のためにプログラムを 起草した専門家委員会が指摘した政策に沿ったものなのだ」。

Raymond ところで、国務副長官でローズヴェルト自身にきわめて近いレイモンド・モーレイ(

)が会議の後半に急遽派遣され、代議員団内部は複雑な構成になった。次の手紙はその Moley

間の事情を多少伝えている33。「それにもかかわらず、彼はやってきた。その結果、ロンドンやパリ の新聞はもともと、最初は戦債について、次には一時的通貨安定について(このいずれも代議員 団として何もできなかった)、アメリカ代議員団を不当に攻撃していたのだが、この彼のロンドンへ の航海中の8日間というもの、こんどは大統領の代わりに演説し、行動するために来たものであり、

ロンドンにおけるアメリカの利害に責任があるということでモーレイを劇中人物のように仕立て上げ るところまで行ったのだ。その結果、モーレイがどうやって世界中のすべてに対して救済を施すの か、とくにここで未決のままのことがらに直接かかわるかもしれないことについて朝晩大きな見出し に直面して、アメリカ代議員団は機能停止に陥ったのだ」。 むろんそのモーレイの努力も、結局 はローズヴェルトの声明によって無力化されてしまう。

爆弾声明のあと、通貨の一時安定にかんする協議は中止され、会議自体も風前の灯火となっ た。国務次官補ウィリアム・ブリットは「声明」後の事務局会合の様子を書いている34。イギリス首相 で会議全体の議長、「マクドナルドが開会を宣し、この会議の決裂の責任をあなたの声明に負わ せる演説を行い、その後会議閉会提案を読み上げた」。その後マクドナルドとハルの間に若干の やりとりの後、「[ハル]長官がふたたび立ち上がり、大いなる威厳を持って、世界の苦難をやわら げるために招集された会議の閉会の責任を引き受けるのは、正当なことではない、現状と将来計 画が完全に明瞭にならないかぎりは、と指摘した」。結局この事務局会合自体は数日間中断し

7 27

た。その後会議は通貨安定と関連のうすい関税と生産規制の分野で小委員会を続け、 月 日に休会となった。

会議が正式に閉会とならない7月上旬にフランス、オランダ、スイス、イタリア、ポーランドは金本 位制の維持と現状の金平価で自国通貨を維持するという決意を表明して、いわゆる金ブロックを 結成した 35 。しかしながら、 1935-36 年間にイタリア、ベルギーからはじまって、最後はフランスが 平価切り下げを行って、金ブロックは解体した。

(11)

36 Suggested statement to the World Economic Conference, July 12, 1933.DHFDR, Vol. 17., 354.

37 James P. Warburg, Memorandum for the President, "Domestic Currency Problems," DHFDR, Vol. 17., 364.

38 Cordell Hull to FDR, Memorandum, July 25, 1933.DHFDR, Vol. 17., 432-433.

39 Cordell Hull to FDR, Memorandum, July 25, 1933.DHFDR, Vol. 17., 439.

3.通貨政策と雇用政策

ローズヴェルトの補佐官のファイルにあるメモには、以下の文言がある 36 。「1.工業と農業がい ま一度現在の大量失業者に対して雇用を与え、また、公的・私的債務を支払うことができるように するために十分な程度まで価格を回復することは、合衆国の目的である。また、これらの目的のた めに必要な限度を超えて価格水準が上昇するのを防ぐことも合衆国の目的である。

2.他の諸国がこれらの目的達成のためにわれわれと協調して努力することが合衆国の希望であ る。

3.これらの目的を最もよく達成するために最適なレベルと期間、為替レートの安定のためにそれ らの国々と交渉に入ることは、合衆国の希望するところである」。

だが、通貨問題の「混乱」は、回復をねらうニューディール諸施策にも影を落としていたことが、

以下のウォーバーグ(James P. Warburg)のメモにも読みとれる37。「私の判断では、この政権は今 日ほど深刻な状況に直面したことは一度もないと思う。その政策の中心である回復政策全体が通 貨の分野の不安定と懐疑によって危うくされている。もしも、未知の額の通貨切り下げという恐れと 通貨的な実験についての恐れとがあれば、産業再建法はおそらく機能停止してしまうだろう。す でに資本のものすごい量の逃避が起きている。しかもこの逃避は不安定が続く間はますます増大 するペースで続くであろう。

さらに、インフレーションの脅威がもともと商品購入への刺激となっており、したがって生産と商 業の刺激となっていたのだが、物価と生産の上昇は通貨不安に刺激されて、現実をはるかに追 い越してしまい、いまやそれ自体が脅威となっている。

国際的領域では、われわれがよく秩序だったプログラムに乗り出したという感情が、われわれは 暗闇のなかで手探り状態であり、われわれの現在の不明瞭な通貨政策の継続が不可避的に他の 諸国の一層の通貨的混乱に結果するのだという感情に変わってきている」。

コーデル・ハルによれば、 1933年だけで 40億ドルも増加した国際貿易こそが、労働者に雇用 を与え、市場に余剰を与えることができる。「過去においては、各国間で軍備のためのすさまじい 競争があった。しかしながら、それらの最も野蛮な対決状態も、全世界の人民大衆のうえにすさま じい危害を加えるような経済的軍備を諸国が推進する現在の狂気の競争とその危険度において さして変わらないのである」 38 。彼は別のメモで、各国が国内政策として可能な限りの回復政策を とるべきであり、その目的は雇用の増加と景気の回復であると述べている39

他方で、上院議員ピットマン(Key Pittman)は、経済会議でヨーロッパ諸国が団結して行動した 背景には、互恵通商協定をねらっていたふしがあると分析し、むしろ最恵国待遇の適用には彼ら は関心がないようだと述べた。したがって、ヨーロッパ諸国は彼らの市場を自分のために確保して おくことが優先した。アメリカはヨーロッパに対して相当額の輸出拡大を望める状況ではない。そ

(12)

40 Address by Senator Key Pittman, of Nevada, made over a NBC network, August 18, 1933.

, Vol. 17., 507.

DHFDR

41 Address of the President, delivered by radio from the White House, October 22, 1933.DHFDR, Vol. 10., 639-651.

れとは反対に、「合衆国、メキシコ、中国、そして南アメリカのほとんどすべての諸国が共通の利益 を見出し、一緒に立ち上がり行動した。このこの連合体はこのグループの諸国の間でより良い理 解をもたらしてきた。そしてより緊密な社会的、かつ商業的関係の基礎を築いたのである。ただち にわれわれがメキシコ、南アメリカ諸国、および中国との間で互恵通商協定を完成する努力をす ることがわれわれの義務であることをこの会議は、示したのである。これらの諸国はわれわれのナ チュラルな市場であり、われわれはそれらの諸国にとってナチュラルな市場である。それら諸国は われわれの通常の余剰生産物をすべて取り込むことができる」40

1934 29

実際のところ、国務長官ハルを中心に 年に互恵通商協定法が制定され、そのもとで カ国との協定締結に成功した。このアメリカによる貿易拡大路線への転換は、アメリカ貿易政策そ のものの孤立主義路線からの転換でもあった。また、大統領に協定締結にかかわる関税率の引き 下げ権限などが与えられ、これ以降、通商協定は行政府主導で締結が進められてゆく。当初の 締結国はピットマンの予言どおり中南米諸国が多かった。

ローズヴェルトは、 10 月のラジオ演説のなかで回復政策全般に占める物価引き上げ政策の位 置について、こう述べている 41 。「最後に、私は多くの場面で言ってきたことを繰り返そう。3月以 来ずっと政府の明瞭な政策は商品価格水準の回復だったということである。その目的は、農業と 工業がいま一度失業者により多くの仕事を与えることができるようなレベルを達成することだっ た」。それは、公的私的の債務を支払いやすくするのみならず、価格構造の均衡を回復して、「農 民はその農産物をを工業生産物とより公正な交換ベースで交換できるようになる」 。農産物にし ても工業製品にしても、非常に多くの種類があり、数ヶ月で目標達成は困難で、3年ほどかかるか もしれない。「われわれの状況についての単純な事実を考える人々はだれも、商品価格、とくに農 産物価格が十分に高いとは考えていない。ある人々は、カートを馬の前にくくりつけている。彼ら はドルの恒久的な再評価を望んでいる。最初に価格を回復することは、政府の政策である。私 は、ドルの恒久的な価値がどのくらいか、ということはわからない。だれもきちんとは言えないだろう が。いま、恒久的な金の価値を推測するためには、今後の事実が変わることによって生ずる今後 の諸変化を組み入れる必要があろう」。ドル価値の切り下げのために、政府は国内産の金を買い 上げることとし、その価格を引き上げていった。やがて、金本位制当時のレートのほぼ 41 %安の

オンス= ドルという金価値を定め、 年 月の金準備法の制定となる。

1 35 1934 1

金政策を「階級的」視点から捉えていたのは、政権内部でも比較的ラディカルなタグウェル

(Rexford G. Tugwell)である。「銀行家の大多数や債権者、一般的に金持ちグループは、この政

策を支持せず、それに抵抗するだろう。それは債務者、低所得の人々や農民を利する。これらの 人々はそれを好み、支持するだろう。……疑いもなく、彼らは大統領がすぐに次の論理的なステッ プ、すなわち、商品ドルの創造を行うことを期待している。商品ドルは、金の重さの一定量にもとづ

(13)

42 Rexford Guy Tugwell, "The President's Monetary Policy," November 5, 1933.DHFDR, Vol.

10., 678-685.

43 Russell C. Leffinwell, "Gold, Money and Prices," December 26, 1933. DHFDR, Vol. 10., 856-865.

フィッシャーのニューディール観については、秋元「アーヴィング・フィッシャーとニューディー 44

ル」『成城大学経済研究所年報』第13号(2000年4月), 107-137.を参照。

The Collected Interwar 45 Harrod et al, to FDR, November 20, 1933, Daniele Besome, ed.,

. Vol. I: COrresponence, 1919-35., 236-244.

Papers and Correspondence of Roy Harrod

くという現在のベースからこの通貨媒介手段を完全に分離するであろう」42

ITT Russell

財界のなかでも、当時 (アメリカ電話電信会社)の重役であったレッフィングウェル(

)は、ローズヴェルトの金政策に賛意を表し、こう述べている 。「過去 年間の困

C. Leffinwell 43 20

難については金が悪かったのでもなく、金量が不十分だったわけでもない。問題は、そこにはな く、戦争とその決着のしかた、戦中インフレーションと戦後インフレーション、そして、われわれが見 てきたように、戦後の価格水準とドルとポンドの戦前の金価値の乖離にあった。しかし、全世界で 展開されなくてはならない新たな通貨システムにおける金の機能は、第一に、通貨の国内におけ る信用についてのチェックないし機能であり、証拠であり、そういうものとしてきわめて重要となろ う。金はおそらく流通には戻らないだろう。しかしながら、金は通貨の信用のための価値の高い、

かつ必要な要素となろう。人間は金への兌換性を無視して恒久的に通貨を管理できるほど善良 でもないし、賢くもないのだ」。彼のメモの冒頭に、 ・J P・モーガンの1933年4月の声明が引用さ れている。「私は、金の輸出に対して大統領と財務長官が禁止措置を講じたと伝えられたことを歓 迎する。ドルの交換価値を、プレミアムのついたままで価値下落した外国通貨に対して維持しよう と努力するのは、すでにひどく価値下落しているアメリカの物価や賃金に対してデフレーション効 果を与えることは私にとって明瞭となっている。不況から脱出する方法は、このデフレーション的 諸力と闘い、それらを克服することにあるのは明らかだ。それゆえ、私は、現在とられている行動 が現在の環境下では、可能な最良のコースだと考える」。

ローズヴェルトの通貨政策については、経済学者ではケインズとフィッシャーがほぼ全面的な Roy 賛意を示していることは、すでに明らかにされているが 44 、ケインズに近い立場のハロッド(

)が、 年 月にオクスフォード大学の他の経済学者と連名で、ローズヴェルト宛に政

Harrod 1933 11

策支持表明とその経済学的根拠を明らかにする手紙を送っている45。彼はまずニューディールの

「拡大主義的政策」を歓迎すると述べ、 10 月のローズヴェルトの商品価格引き上げを支持すると した。そして、以上の政策が効果的になるための条件を提示したいとしている。その場合、流通通 貨の増加ではなく、所得の増加をもたらすことを目標にすべきだとしている。所得の増加は、以下 の4つのチャンネルを通じて可能である。

1.資本財の生産増加は市場の消費財の数量を増加させることなく、資本財生産に携わる人々 の支出を増加させる。したがって、それはそれら消費財の価格水準を増加させる傾向がある。資 本財の生産増加は、低金利、とくに長期金利の低さによって刺激されよう。この理由から、公開市 場操作によって連邦準備理事会が長期証券を買うことが推奨されるべきことが重要である。

2.われわれは、物価を引き上げるための主要な武器は公共事業という一大キャンペーンであ

(14)

46 Frankfurter to Harrod, January 11, 1934. inibid., 262-263.

ると信ずる。直接的に雇用を付与することに加え、公共事業はまた、必要な原料や資本設備を生 産する業種に対して最初に雇用を与える。すでに述べてきた雇用に従事する人々に支給される 賃金俸給は、ほぼ消費財に大きく支出される。したがって、商品価格を引き上げ、消費財産出拡 大に資する方策をとるべきである。

3.コストを増やすことなく購買力を上昇させるいま一つの方策は、借入金による失業救済とそ の他の社会サービスによって、所得を分配することである。これらの施策が課税によって金融され てはならないことは必須なことである。課税による資金では、ある人の財布に入っていくお金はほ かの人の財布から取り出されたものであり、ネットの購買力の増加もなければ、物価上昇傾向も発 生しない。

4.建設事業において民間企業を推進するあらゆる方法が追求されるべきである。

5.上記の目的のために借入を行う場合、それが長期金利を引き上げることのないようにするこ とが重要だと考える。

では、フィッシャーらの提案との関連はどうか。「アーヴィング・フィッシャーはかなり前に、ドルの 金量を変えることによってドルの商品価値を安定させる計画を提案した。この計画は、過去に多く の傑出した経済学者たちによって正しい理論という位置に置かれてきた。しかし、われわれは現 在の状況では、それは効果的だとは考えない。その効率のためには、2つの条件が必要である。

( )デフレーション(ないしはインフレーション)が来そうだという何らかの兆候がある場合には、すぐi に行動を起こさなくてはならない。そうすればスランプかブームかの諸力が勢いを増す前にチェッ クが可能である。

( )世界のその他の部分、ないしは、ほとんどが金本位制でなくてはならない。もしも、世界のそのii 他が金本位制でなければ、金のドル価格を引き上げることが、ドル価格の一般水準に対して大き な影響を与えそうもないからである」。

ドル為替の切り下げといういかなる政策も、アメリカ購買力の国内における活発なインフレーショ ンが伴わなければ、外部世界に対してそれを弱める効果をもつ。……国内インフレーションを伴 わない対外切り下げは、(外国の)価格を低下させる。アメリカ人が、世界の財貨に対する彼らの 需要を直接に増加させることなしに、彼らの商品を輸出向けに出荷する時の価格を。これによっ て外国の不況は深化し、アメリカに対する影響について言えば、ドルの切り下げに直接起因する 輸出者としてのアメリカの位置の相対的改善を無効にしてしまうだろう」。

以上の提言には、フィッシャーがあまり重点を置かない、というよりは、反対であった公共事業と いう具体的な形で雇用される労働者の支出 購買力 需要を喚起することを通じて、物価を引き上= = げるという、ケインズ的なフレームワークが明瞭に看取される。

Felix この手紙をローズヴェルトに仲介したのは、ローズヴェルトの盟友フランクファーター(

)である。ハロッド宛にフランクファーターが返事を書いたのは、 年1月の初めであ

Frankfurter 1934

46 。そこに引用されているローズヴェルトの反応は以下のようである。「私はあなたのオクスフォ ードの友人たちが私のアドバイザーの小グループにあてたメモを読みました。われわれのコンセン サスでは、オクスフォードの経済学者たちは一般にわれわれと同じ線に沿って考えているというこ

(15)

47 以下の叙述は、Julian Jackson, The Politics of Depression in France, 1932-1936 Cambridge( ) による。

University Press, 1985 , 167-173

とです。彼らの提言のうちのいくつかは、ところで、すでに取りかかられています。あなたの友人た ちに大変ありがとうと言ってください。そして彼らに、私はいつでも時機が到来したと考えられるとき には、彼らの見解を受け入れる用意があると伝えてください。われわれは来年はきっと今年の2倍 の公共事業支出を行う予定です。しかし、オクスフォードの教授たちに、われわれの借入余力に は実際上の限界があることを言っておいてください。とくに、銀行が少なくとも無言の抵抗をこころ みて以降ますますそうなのです」。

4.おわりに

フランスの立場から見た経済会議前後の米英仏三国の協議の経緯を見ておこう47

最初の準備会議は、 1932 年 11 月に行われ、イギリスとフランスの見解の相違が表面化して、

デッドロックとなった。ただ、このときは、すでに金本位制離脱を行っていたイギリスだけが金につ

1933 2

いて異なったスタンスをもっており、アメリカはむしろフランス寄りと見られた。 年初頭の第 回予備会議では、イギリス代表のリース=ロス(F. W. Leith-Ross)が、イギリスが金本位制に復帰す る条件を述べ立てた。世界価格の上昇、公開市場操作ができるように中央銀行が構造変化をと Charles げたうえでの金の再分配、関税と割当制の自由化、戦債問題の解決。フランス代表リスト(

)は、フランスの立場から、世界価格を人工的に引き上げる試みには反対、世界貿易の前提と Rist

してのイギリスの金本位制復帰。関税や割当制の一般協定よりも二国間協定を優先する。このと きもアメリカはフランス寄りだった。そして会議用の協議草案を作成した。完璧に機能する金本位 制の回復、関税、割当制などの貿易制限を緩和すること。だが、フランスが米英に要求しているこ とが受け入れられたとして、当初からフランスが貿易の自由化について譲歩を行える余地は限ら れていた。フランスの市場は通貨切り下げをすでに行った国々からの輸入品に浸透されており、

協議草案の貿易制限の撤廃についてすでに、農業団体から抗議の嵐が巻き起こっていた。

ローズヴェルトが就任後すぐに金本位制を停止したのを受けて、3月にイギリス蔵相チェンバレ ンとフランス蔵相ボネ(Georges Bonnet)のあいだで会合がもたれた。フランスから見ると、イギリスは 若干為替安定の方向へ踏み出したと見えた。4月に入るとローズヴェルトは金の禁輸を決定した。

このときエリオはローズヴェルトと会談したが、通貨安定についての要望に対してアメリカ側は会 議開催期間中のドルの 15 %切り下げと、それを維持するための三国安定基金の創設を主張し た。アメリカの国務次官補ブリットが、フランス政府が安定基金に対して積極的でないために、経 済会議に対してアメリカは悲観的だと述べたと伝えられた。ドルがさらに下がると、金本位制に留 まっている諸国が大きな圧力を受けることになるので、通貨安定にかんするいかなる提案もフラン スにとって歓迎すべきものとなる。

こうして、ドルの減価という可能性が現実のものとなることによって、フランスの立場が微妙に変 化することを余儀なくされた。会議では、ドルとスターリングの事実上の安定をただちに行うことを めざし、その後に、貿易自由化の議論を行う、という態度に変化したのである。5月半ばに開始さ れていた秘密裏の通貨安定交渉の正否に、フランスの立場はかかっていた。6月 15 日に通貨安

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48 Patricia Clavin, "The World Economic Conference 1933: The Failure of British Internationalism," The Journal of European Economic History Vol. 20 1991 , 489-527; do, "'The( ) Fetishes of So-Called International Bankers': Central Bank Co-operation for the World Economic Conference, 1932-3,"Contemporary European History, Vol. I 1992 , 281-311.( )

49 Clavin, 1991,op. cit., 507.

定の一時的合意ができ、翌日ハルからローズヴェルトに打電された。しかし、合意の中味が噂で 広がると、アメリカの商品価格は急落した。6月22日、ローズヴェルトはこの案を拒否した。

他方で、イギリスの事情から見て、ロンドン会議を挫折させたのは、ローズヴェルトの「爆弾声 明」というよりはむしろ、イギリス政府の戦債問題へのこだわりとオタワ体制と呼ばれる帝国特恵関 税制度をそのままにして世界経済の問題を論じようとしたイギリス政府に多くの責任があると主張 したのが、パトリシア・クラヴィンである48。1932年11月、ジュネーブで開かれた世界経済会議の 専門家による予備会議でも、イギリスの金本位制離脱以降のポンドのフロートについては、参加 国から明瞭な敵意が示された。しかも、イギリスのこの時点での方針はすでに、金融経済問題の 議論以前に戦債問題の決着が前提されるというものであった。ヨーロッパ諸国では、戦債と賠償と が大恐慌の原因として都合よく持ち出された。カッセルらは世界の金準備の偏在によって悪化し た利潤圧縮こそが原因と論じていた。ドイツの賠償金支払いがなくなってからのイギリスやフランス からのアメリカに対する戦債支払いがいかにも窮屈になったであろうことは、容易に想像がつく。

年 月 日に予定されている支払いはアメリカに対する4年分の輸出額に相当するとイギ

1932 12 15

リス政府は主張した。結局支払いは金の現送によってなされた。ローズヴェルトが政権につく前に マクドナルド首相がワシントンを訪問してハル長官らと懇談したさいには、アメリカ側の関心は関税 の引き下げに大きなウエイトがあったと見られる。その後ふたたび、世界経済会議の開催月である と同時に、戦債の支払日である 6 月がやってくると、米英は「名目的」支払いに同意して、イギリス は前回のほぼ10分の 1である1千万ドルを銀で支払った。これによって会議開催中は戦債問題 は持ち出されないものとアメリカ側は理解した。

ところが、マクドナルドは、会議の開会のあいさつの中で、戦債問題を早々に決着させる必要が あると原稿にない発言を行ってアメリカ代議員団を激怒させた。これをクラヴィンは「マクドナルド の口から出た爆弾声明」と呼んでいる 49 。いま一つの問題はオタワ会議による帝国特恵と、イギリ スの最恵国待遇(MFN)原則の矛盾である。イギリスは、オタワ会議につづいて、デンマークなどと 双務的貿易協定を結んだが、一次産品に限定されていた。もっとも、関税の一律削減に向けた交 渉について熱意を持っていたのは、ハル長官のみで、ローズヴェルト政府はこれを問題化するこ とを避けた。会議期間中にドルが下落していったことで、イギリスの工業連盟は自国の経済利害を 守るよう政府に進言した。結局のところ、経済会議をリードできる国があったとすれば、議長国であ り、開催国でもあったイギリスをおいてほかになかった。だが、首相のマクドナルドには、戦債につ いての譲歩をアメリカから引き出すについてアメリカに見返りを考える識見もなければ、オタワ体制 により囲い込まれた自らの市場を守る以上の関税削減イニシャティヴを提案することもできなかっ た。だからといって、終始会議から距離を置いていたローズヴェルトのスタンスを擁護できるわけで もない。今日から見て感じるのは、ヨーロッパとアメリカの距離感である。

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