モーリス・メーテルランク
『マグダラのマリア』における自己犠牲の主題について
名古屋大学大学院博士課程後期課程
松 尾 訓 宏
モーリス・メーテルランクの作品にはキリスト教的テーマを扱ったもの が数多く読まれるが、リュトの所見にあるように、従来の「メーテルラン ク研究」は、メーテルランクとキリスト教との関係に論及しつつも、その 研究の多くは、メーテルランクが影響を受けたロイスブルークやノヴァー リスなどの思想に着目するものであり、「« 間接的な »影響」の観点から 作品を分析したものである1。そのため今後の作品解釈では、「メーテルラ ンクが直接得た一次的な源泉2」の聖書と劇作家の作品とを比較考察する ことが重要である3。
メーテルランクの三幕劇『マグダラのマリア4』の主人公マグダラのマ リアは、福音書ではイエスの受難や復活の物語に登場する5。そしてメー テルランクの戯曲もまた、第二幕ではラザロの復活を、第三幕ではイエス の受難を取り扱い、「聖書の構想や経過を尊重している」6。このように聖
1 Christian Lutaud, « Maeterlinck et la Bible », in Annales de la Fondation Maurice Maeterlinck, t.16, 1971, p. 39.
2 « la source première où Maeterlinck a directement puisé », ibid.
3 Voir. ibid., pp. 39-124.
4 本稿では以下のテクストを使用した。Maurice Maeterlinck, Marie-Magdeleine, Paris, Librairie Charpentier et Fasquelle, 1922. メーテルランクは、パウル・ハイゼ『マグダラのマリア』(Maria von Magdala, 1903)から二つの状況を借用していることを、序文で言及している。それは 第一幕の終わりにおける姦淫の女のエピソードと、第三幕においてヴェルスがマグダラの マ リ ア に 迫 っ た 二 者 択 一 で あ る。Paul Gorceix, Les Affinités allemandes dans l’Œuvre de Maurice Maeterlinck : Contribution à l’Étude des Relations du Symbolisme français et du Romantisme allemand, Paris, Presses universitaires de France, 1975, pp. 379-380.
5 M. Viller, F. Cavallera, J. de Guibert, « Marie-Madeleine (sainte) », Dictionnaire de spiritualité, Paris, Beauchesne, t.10, 1980, pp. 559-560.
6 Christian Lutaud, op.cit., p.53.
書と『マグダラのマリア』は深い関係にあるため、両者の相違に注目しつ つ、この戯曲を解釈することによって、メーテルランクの独創性に光を当 てられるように思う7。
まず確認されるべきことは、福音書におけるマグダラのマリアの描写に は、ベタニアの女8、罪深い女9、そしてマグダラのマリア10、以上の三人が 関わっており、聖グレゴリウス一世が三者を同一視して以来、ローマカト リック教会はそのマグダラのマリア像を継承したが11、その「同一性はずっ と前から議論されている」12。一方、この戯曲においては、以上の三人に加 えて姦淫の女13の要素がマグダラのマリアの人物像に加えられている14。 そして戯曲では、イエスの受難において、イエスを磔刑から解放するこ とを試みるマグダラの姿がみられるが、そのために求められる行為は、ヴェ ルスに彼女の身を捧げることである15。結局、マグダラは自らの身を捧げ ることを拒み、イエスを磔刑から解放することはできなかった16。リュト
7 リュトは両者の関係について次のように問題提起している。「しかしメーテルランクによる 聖書からの諸々の借用は如何なる性質なのか。」« Mais quelle est la nature des emprunts faits par Maeterlinck à la Bible? », ibid., p. 52.
8 マタイ26 : 6-13 ; マルコ14 : 3-9 ; ヨハネ11 : 1-44, 12 : 1-8. ヨハネではベタニアのマリアと なっている。本稿における、聖書からの引用は以下に拠る。新共同訳『聖書』、日本聖書協 会、2012 (初版1987).
9 ルカ7 : 36-50.
10 マタイ27 : 55-61, 28 : 1-10 ; マルコ15 : 40, 15 : 47, 16 : 1-11 ; ルカ8 : 1-3, 23 : 49, 23 : 55, 24 : 1-11 ; ヨハネ19 : 25, 20 : 1-18.
11 J. E. Fallon, « Mary Magdalene, St. », New Catholic Encyclopedia, New York, McGraw-Hill, v.9, 1967, p. 388.
12 « Marie-Madeleine (sainte) », Dictionnaire de spiritualité, op.cit., pp. 559-575.
なお本稿では、聖書やキリスト教におけるマグダラのマリアについては以下の文献も参照 した。西川宏人、「マグダラのマリアの映像を訪ねて―16・17世紀フランスのマグダラの マリア崇拝を中心に―」、『上智大学仏語・仏文学論集』、n 33、上智大学、1999、p. 89 ; 岡 田温司、『マグダラのマリア−エロスとアガペーの聖女』、中央公論新社、2005、pp. 4-40.
13ヨハネ8 : 1-11.
14 Christian Lutaud, op.cit., pp. 57-59. ただしマグダラのマリアを姦淫の女と同一視するのはメー テルランクに限ったことではない。Cf. Pierre Brunel (dir.), « Marie-Madeleine », Dictionnaire des Mythes féminins, Monaco, Rocher, 2002, pp. 1261-1262.またこの戯曲のマグダラのマリアは ラザロとマルタの姉妹ではない。Christian Lutaud, ibid., p. 57.
15 Christian Lutaud, ibid., p.111.
は、マグダラに求められている身を捧げるという行為を自己犠牲
« sacrifice »
と評しており17、イエスの磔刑にいたるまでの彼女の振舞いに関する解釈が、この戯曲の課題となっている。よって本稿は、自己犠牲の 観点から『マグダラのマリア』を考察し、新たな作品解釈を提示しようと するものである。
1.自己犠牲
そこで確認されるべきことは、イエスの受難における自己犠牲の主題に ついてである。イエスの受難と自己犠牲の関係は次のように説明される。
[...] le premier service que Jésus rend aux hommes est de leur révéler lʼamour du Père (Jean 1, 18). Les hommes le comprennent au moment où « il donne sa vie pour eux » sur la croix (1 Jean 3, 16). Ainsi le service, comme lui-même lʼexplique, comporte le
16 モーリス・ルカは次のように述べている。「四福音書はそこで憎むべき方法でゆがめられた。
[...] もし悔悛した罪の女が卑劣な提案を受け入れていたなら、ゴルゴタの悲劇はまったく別 の結末を迎えていたのだ。」« Les Évangiles y sont abominablement dénaturés. [...] Si la pécheresse repentie avait accepté la proposition infâme, le drame du Golgotha aurait eu un dénoûment tout autre. », Maurice Lecat, Maurice Maeterlinck et son œuvre, Uccle-Bruxelles, t.1, 1950, p.80. モーリ ス・ルカはこの戯曲においてイエスの磔刑がマグダラのマリアの決断に左右されることを 批判している。一方、リュトはイエスの受難における宿命« Fatalité »の概念に注目して次 のように述べている。「[...] メーテルランクは、イエス・キリストを救うためのマグダラの マリアのあらゆる試みが失敗するのを、観客がいかなる瞬間も疑っていないことをよく知っ
ている[...]。 聖書は、はるか昔に書かれたものだから、彼は宿命の概念について豊富なバ
リエーションで改めて書くことができる。彼にとって、意志が強く、宿命に勇敢に立ち向 かうことを決断した主人公(マグダラ)を放つだけで十分である[...]。」« [...] Maeterlinck sait bien que le spectateur ne doute aucun instant de lʼéchec de toutes les tentatives de Magdeleine pour sauver le Christ [...]. Comme le Livre Sacré a été écrit depuis très longtemps, cela lui permet de rédiger une fois de plus de ses brillantes variations sur lʼidée de Fatalité : quʼil lui suffise de lâcher une héroïne volontaire et décidée à braver le Destin (Magdeleine) [...]. », Christian Lutaud, ibid., p.95.
17 リュトは次のように述べている。「[...]『マグダラのマリア』において、作者は卑しい脅しの 概念を回復させる[...]。[...] 自己犠牲の耐え難い側面を、メーテルランクが『マグダラのマ リ ア』 で« 復 元 »し て い る の だ。」« [...] dans Marie-Magdeleine, lʼécrivain reprend lʼidée du chantage ignoble [...]. [...] il le [=le côté pénible du sacrifice] « restitue » dans Marie-Magdeleine. ».
Christian Lutaud, ibid., p.111.
don de soi (Jean 17 , 19 [...]). Être solidaire de ses frères signifie « les aimer jusquʼau bout » (Jean 13, 1) [...]. [...] mais cʼest sur la croix que sʼaccomplit le sacrifice définitif, que lʼamour solidaire parvient au plus haut degré, à lʼ« amour le plus grand » [...]18.
ここで強調されているのは、イエスは自らの意志で磔刑を受け入れてお り、人間に対する最上の愛がこの自己犠牲によって示されたということで ある19。
戯曲においても、イエスが受難において自らの意志で磔刑を受け入れて いることが描写されている20。イエスが逮捕された後、マグダラのマリア はイエスを救うことを強く主張しているが、それに対してアリマタヤのヨ セフという人物は「彼は命を絶たんとしているのだ21」と磔刑に対するイ エスの意志について語り、さらに次のように言う。
18「イエスが人間にした最初の奉仕は、父なる神の愛を人間に示したことである(ヨハネ
1 :18)。人間はそのことを十字架で« イエスが人間のために自らの生命を捧げた »ときに理
解した(1ヨハネ3 :16)。こうして、その奉仕は、彼自身が説明しているように自らいけに えとなったことを含んでいる(ヨハネ17 :19)。彼の兄弟たちに対して連帯するということ
は« この上なく彼らを愛する »ということを意味する(ヨハネ13 :1) [...]。[...] 十字架で、
決定的な自己犠牲が成就して、そして、兄弟への連帯の愛は頂点に達した、つまり、« 最 上の愛 »に達したのである[...]。」M. Viller, F. Cavallera, J. de Guibert, « Passion », Dictionnaire de spiritualité, Paris, Beauchesne, t.12-1, 1984, p.314.
19 従来、イエスの受難に供犠的性格が見出されているが、ルネ・ジラールはそのような解釈 を次のように批判している。「まずキリストの死の非供犠的性格を強調しなければなりませ ん。イエスはまさに、供犠のさなかに死ぬのではなくて、あらゆる種類の供犠に逆らって 死ぬのです。もう二度と供犠が行なわれることがなくなるように願って死ぬのです。それ はイエスのうちに「神のことば」そのものを、つまり「私が望むのはあわれみであって、
いけにえではない」〔マタイ、九の一三、一二の七〕を認めることにほかなりません。」、ル ネ・ジラール、『世の初めから隠されていること』、訳・小池健男、法政大学出版局、
1984、p.343 ;「キリストは人間を生かすために死を受け入れます。その行為を供犠と定義す
ることは、たとえわれわれにその行為を意味することばやカテゴリーが欠けているにして も、避けなければなりません。」、ibid., p.392.
20 Cf. Fabrice Polderman, « Maeterlinck et Heyse », in La Société nouvelle, janvier-février-mars 1913, Revue internationale, Dix-Huitième Année, t.3, p.266.
21 « JOSEPH DʼARIMATHIE: [...] Il a voulu se perdre... [...] »(A.3, S.2), Maurice Maeterlinck, Marie-
Magdeleine, op.cit., p.130. 『マグダラのマリア』からの引用にあたっては、その箇所の幕、場
を、A., S., と略記して括弧内に示した。また、ト書の箇所はイタリックで示した。
JOSEPH DʼARIMATHIE : [...] Mais je connais sa volonté et ne puis lui désobéir...
Pierre voulait le défendre et a tiré lʼépée... Il lʼa fait remettre au fourreau.. [...]22
このように、戯曲では聖書と同じく、イエスが逮捕される際、それに抵 抗したペトロの様子も描かれており、磔刑を受け入れていたイエスは、そ れを妨げようとする弟子たちを諫めている23。こうして、イエスが磔刑を 自らの意志で受け入れていることが示され、自己犠牲の主題はこの戯曲に おいても重要なものとなっている。そして、自己犠牲はキリスト教徒にとっ て重要なものであり、イエスが愛する人々のために身を捧げて最上の愛を 示したように、彼らの人生は自己犠牲という「実践的な選択をするよう促 している」24。その観点から、自身の愛の極限に向かうように、マグダラ はイエスを救うために、ヴェルスに身を捧げることを受け入れる必要が あったのだろうか。
しかし、戯曲の結末におけるマグダラの声は、「怒りはなく、つつましく、
平和に満ち、神々しい確信と澄明に満たされ、超然とした25」ものとして 描写されている。このような彼女の姿は、イエスの解放の挫折を反映した ものではないように思われる。
22「アリマタヤのヨセフ : [...] しかし私は彼の意志を知っており、彼に背くことはできないの だ。ペトロは彼を守ろうとして剣を抜いた。しかし彼がペトロにその剣を鞘に納めさせた のだ。[...]」(A.3, S.2), ibid., p.134.
23 Christian Lutaud, op.cit., p.53.
24 キリスト教徒と自己犠牲の関係については次のように説明されている。「[...] イエスが[...]
宣教を遂げて、彼が愛する者たちのために身を捧げて« 己の愛の極限 »に進んだので(ヨ
ハネ13:1、15:13)、キリスト教徒の人生は是非にも実践的な選択をするよう促している、
つまり« 自己犠牲 »である。」« [...] si Jésus [...] accomplit sa mission et va à lʼ« extrême de son amour » en donnant sa vie pour ceux quʼil aime (Jean13, 1 et 15, 13 ), la vie chrétienne appelle nécessairement des choix pratiques et donc des « sacrifices ». », M. Viller, F. Cavallera, J. de Guibert,
« Sacrifice », Dictionnaire de spiritualité, Paris, Beauchesne, t.14, 1990, p.56.
25 Maurice Maeterlinck, Marie-Magdeleine, op.cit., p.180.
2.自己犠牲と愛
イエスは磔刑を受け入れるという自己犠牲によって、人間に対して最上 の愛を示したわけだが、この戯曲において、愛はマグダラのマリアを通し てどのように描かれているのだろうか。
まず、この作品には、二種類の愛の対置が表現されている26。一方では、
マグダラのマリアのヴェルスに対する愛、他方ではマグダラのイエスに対 する愛である。ポルダーマンは、「メーテルランクの主人公は肉体的な愛で」
ヴェルス「を愛し、神秘の愛でキリストを愛している」と述べている27。 しかし、マグダラのマリアのイエスに対する関心は始めから「神秘の愛」
と形容できるものではなかった28。ガリラヤ人のマグダラのマリアは高級 娼婦であり、世俗の快楽、「肉欲にふける人物」であり、霊的なものとは かけ離れていた29。そのため、第一幕において、マグダラはナザレ人のイ エスやその仲間を快く思っていなかった。物語の冒頭で、自分が盗みに遭っ
26 Fabien Honoré Kabeya Mukamba, De «La Princesse Maleine» au «Miracle des mères» : l’imprégnation religieuse dans le théâtre maeterlinckien, Literature, Université de la Sorbonne nouvelle - Paris III, 2009, French, pp.185-186. https://tel.archives-ouvertes.fr/tel-01011175
27 « Lʼhéroïne de Maeterlinck aime Flavius[sic] dʼamour charnel et aime le Christ dʼamour mystique. »,
Fabrice Polderman, op.cit., p. 252. [ ]内は筆者による。またミュカンバは、前者をエロース、
後者をアガペーと評している。Fabien Honoré Kabeya Mukamba, ibid., p. 185. C.リンドバーグ は、ニーグレンによるアガペーとエロースに関する定義を次のように簡潔にまとめている。
「アガペーは、たとえそれが人間によって表現される場合でさえ、まず第一に神の愛である。
アガペーは、神から人類へと下降する贖いの愛である。アガペーはまったく非利己的である。
それは犠牲を払う愛である。アガペーは他者を愛し、それによって他者の中に価値を創り 出す。他方でエロースは、獲得しようとする欲望である。それは、(どのように受け取られ ようと)神に到達しようとする人間の試みであり、上昇しようとする運動である。エロー スは自己中心的であり、自己主張の最高形式である。それはまず第一にその対象を、その 中に見いだされる価値のゆえに愛し、獲得しようとする欲望である。」、C.リンドバーグ、『愛 の思想史』、訳・佐々木勝彦、濱崎雅孝、教文館、2011、p. 34.
28 Cf. Fabien Honoré Kabeya Mukamba, ibid., p. 186.
29 Granville Forbes Sturgis, The Psychology of Maeterlinck : as shown in his dramas, Boston, Richard G.
Badger, 1914, p. 89.
マグダラのマリアはヴェルスに次のように言っている。「マグダラのマリア : 以前よりも自 分を巧みに高く売るのです。」 « MARIE-MAGDELEINE : Que je me vends plus habilement et plus cher quʼautrefois. »(A.1, S.3), Maurice Maeterlinck, Marie-Magdeleine, op.cit., p. 28.
たことをヴェルスなどに訴えたマグダラは、その犯人がイエスの一団にい るのではないかと疑い、その一団を街から追い出すこと、さらに、その首 領であるイエスが逮捕されることさえも望んでいる30。
MARIE-MAGDELEINE : [...] Je suis sûre maintenant quʼil faut chercher les voleurs parmi cette bande de vagabonds et de rôdeurs qui depuis quelque temps infeste le pays...
SILANUS : La bande déjà fameuse du Nazaréen...
MARIE-MAGDELEINE : Justement. Leur chef, mʼa-t-on dit, est une sorte de brigand malpropre [...]
VERUS : [...] si vous le désiriez, il me serait facile dʼarrêter leur chef...
MARIE-MAGDELEINE : Je vous en prie, et le plus tôt possible... [...]31
このようにマグダラはイエスの一団に対して嫌悪感を抱いている。また ここでは、もともと「私はマグダラのマリアが欲しいのだ、いまだかつて 求めたことがないかのごとく、あの女性を望んでいるのだ32」と語ってい たヴェルスが、その欲望によって、マグダラの期待に応えようとしている。
これらの科白から、ヴェルスのマグダラに対する愛が、欲望に過ぎないこ とが読み取れる。ヴェルスの愛は欲望と一体化しており、彼のマグダラに 対する愛は、肉体的、物質的なものであると言える33。
一方、マグダラは、イエスが示す言動によって、次第にイエスに魅了さ れるようになっていく34。あるときイエスの声が聞こえたときに、マグダ
30 Fabien Honoré Kabeya Mukamba, op.cit., pp. 179-180.
31「マグダラのマリア : [...] 私はいま確信しています、しばらく前からこの国にはびこる放浪 者や無頼漢の一味の中に盗賊を探すべきだと。/シラヌス : 既に有名なナザレ人の一団で す。/マグダラのマリア : まさにそうです。一団の首領は汚い悪党と聞いています[...]/ヴェ ルス : [...] あなたがお望みなら、その首領をたやすく捕まえられます。/マグダラのマリ ア : お願いします、できるだけ早くに。[...]」(A.1, S.2), Maurice Maeterlinck, Marie-Magdeleine, op.cit., pp.22-23.
32 « VERUS : Je lʼai désirée, je la désire encore comme jamais je nʼavais désiré une femme... » (A.1, S.1), ibid., p.10.
33 Cf. Granville Forbes Sturgis, op.cit., p.89.
ラはその声のもとに向かう。その声の内容は次のようなものである。
LA VOIX : « Bienheureux les pauvres dʼesprit, car le royaume des cieux leur appartient ;
« Bienheureux ceux qui sont doux, car ils possèderont la terre ; « Bienheureux ceux qui pleurent car ils seront consolés.
[...]
LA VOIX : « Bienheureux ceux qui ont faim et soif de la justice, car ils seront rassasiés ;
« Bienheureux les miséricordieux, car ils obtiendront eux-mêmes miséricorde!... » [...]
LA VOIX : « Bienheureux ceux qui ont le cœur pur, car ils verront Dieu!... » [...]
LA VOIX : « Bienheureux ceux qui sont pacifiques, car ils seront appelés enfants de Dieu!... »
« Bienheureux ceux qui souffrent persécution pour la justice, car le royaume des cieux est à eux. »
[...]
LA VOIX : « Bienheureux serez-vous lorsquʼon vous insultera, quʼon vous persécutera!...
Réjouissez-vous! soyez dans lʼallégresse, car votre récompense est grande dans les cieux! »
[...]
LA VOIX: « Et je vous dis, à vous qui mʼécoutez : Aimez vos ennemis, faites du bien à ceux qui vous haïssent!... Bénissez ceux qui vous maudissent, priez pour ceux qui vous maltraitent!... »35
ここでメーテルランクによって、聖書におけるイエスの山上の垂訓から
八福
« Béatitudes »
と愛敵の言葉が引用されている。八福は「世俗の富に執着がない、貧者に対する共感」、「怒れる人に暴力を以て向かわず、柔和
34 Fabrice Polderman, op.cit., p. 148.
で平和であること」、「あらゆる侮辱を赦し憐れみの精神を実行すること」
が説かれている36。さらに「汝の敵を愛しなさい」という愛敵の概念につ いてドニ・ド・ルージュモンは次のように説明している。
Que signifie : Aimez vos ennemis? Cʼest lʼabandon de lʼégoïsme, du moi de désir et lʼangoisse [...]37
このように、イエスの八福と愛敵の言葉によって、貧者などに対する共 感や憐れみ、欲望や怒りのない柔和で平和な態度、利己主義を放棄した他 者への献身が人々に説かれている。こうしたイエスの言葉に魅了されたマ グダラは、イエスの声を聞きに行くが、そこでマグダラは、イエスの周り に集まっていたユダヤ人たちに命を狙われることになる38。彼女の存在に 気づいたユダヤ人たちは騒ぎ始める。
35「声 : « 心の貧しい人々は幸いである、なぜなら天国はその人たちのものだからだ。/ « 柔 和である人々は幸いである、なぜならその人たちは地を有するからだ。/ « 悲しむ人々は 幸いである、なぜならその人たちは慰められるからだ。/ [...] / 声 : « 義に飢え渇く人々 は幸いである、なぜならその人たちは満たされるからだ。/ « 憐れみ深い人々は幸いである、
なぜならその人たち自身が憐れみを得るからだ!» / [...] / 声 : « 心清き人々は幸いであ る、なぜならその人たちは神をみるからだ!» / [...] / 声 : « 平和を好む人々は幸いである、
なぜならその人たちは神の子と呼ばれるからだ!» / « 義のために迫害を受ける人々は幸 いである、なぜなら天国はその人たちのものだからだ。» / [...] / 声 : « あなたがたが罵ら れ、迫害されるとき、あなたがたは幸いだ!/ 喜びなさい!大喜びするのだ、なぜならあ なたがたの報いは天国では大きいものだからだ!» / [...] / 声 : « そして私はあなたがた に、私の声に耳を傾けるあなたがたに言う、あなたがたの敵を愛しなさい、あなたがたを 憎む人たちに善を施しなさい!あなたがたをのろう人たちを祝福しなさい、あなたがたを むごく扱う人たちのために祈りなさい!»」(A.1, S.4), Maurice Maeterlinck, Marie-Magdeleine, op.cit., pp. 49-54.
36 Jacques Bénigne Bossuet, Méditations sur l’Évangile, Versailles, J.A.Lebel, t.1, 1815, pp. 5-25.
37「« 敵を愛しなさい » という言葉は、なにを意味しているのか。それは利己主義の放棄であ り、欲望と苦悩にとりつかれた自我をうち捨てることだ。[...]」Denis de Rougemont, L’Amour et l’Occident, Paris, Librairie Plon, 1972, p. 70. 翻訳は、ドニ・ド・ルージュモン、『愛につい て―エロスとアガペ―』、訳・鈴木健郎、川村克己、岩波書店、1959、p. 88.
38 Cf. Fabrice Polderman, op.cit., p.148 ; Patrick Mahony, The Magic of Maeterlinck, New York, Kraus Reprint Co., 1969, p. 118.
« C’est la Romaine! la Romaine!... l’adultère!... Honte! Honte! Honte!...
Magdeleine!... la catin!... chassez-la!... chassez-la!... » [...] « Honte! Honte!... Lapidez!...
Lapidez!... A mort!... A mort!... Les pierres! etc… »39
このとき、マグダラのマリアに投石しようとする人々に向かって、イエ スは「あなたがたの間で罪のないものが最初の石を彼女に投げるのだ40」 と言う。このイエスの言葉によって騒動はおさまる。メーテルランクはこ こで聖書の節を引用して、マグダラに姦淫の女の要素を付しているが、ス タージスが述べているように、この一連の出来事によって、「イエス・キ リストがマグダラの生命に八福を以て入り込み」、彼女は「彼の言葉に感 銘を受け、自分の罪の生活に背を向けるようになる」のである41。 その後、第二幕において、マグダラとヴェルスは彼女の家で再会する。
マグダラのことを愛してやまないヴェルスに対し、彼女は次のように言う。
MARIE-MAGDELEINE : [...] Mais je nʼai dʼautre asile que tes bras, et je me sens perdue si je te perds aussi... [...]42
ここで、マグダラはヴェルスに対する愛について語り、二人はお互いが 恋人関係であることを認める43。しかし、マグダラがヴェルスに対して示 す愛が利己的なものであることが次の科白から読み取れる。
39「« ローマ人だ!ローマの女がいる!姦淫の女だ!恥を知れ!恥を知れ!恥を知れ!マグダ ラ!娼婦よ!追い払え!追い払え!» [...] « 恥を知れ!恥を知れ!石を投げつけろ!石を投 げ つ け て 殺 す の だ! 殺 し て し ま え! 殺 し て し ま え! 石 だ! 等 »」 (A.1, S.4), Maurice Maeterlinck, Marie-Magdeleine, op.cit., p. 54.
40 « LA VOIX : « Que celui dʼentre vous qui est sans péché, lui jette la première pierre!... » »(A.1, S.4), ibid., p. 55.
41 « Into the Magdaleneʼs life comes the Saviour with His Beatitudes. Mary is so impressed with these words that she is moved to revolt from her life of sins [...]. », Granville Forbes Sturgis, op.cit., p. 89.
42「マグダラのマリア : [...] でも私はあなたの腕以外には安らぐところがないのです、あなた を失ったら私自身も失われると感じるのです。[...]」(A.2, S.1), Maurice Maeterlinck, Marie- Magdeleine, op.cit., p. 64.
43 Fabrice Polderman, op.cit., p. 152.
MARIE-MAGDELEINE : [...] Prends-moi, [...] loin de moi, loin dʼici et de mon inquiétude... Toi seul peux me sauver, et je nʼai dʼautre vie que celle que tu me donnes...[...]44
この科白は一見、マグダラのヴェルスに対する深い愛、信頼の吐露のよ うにもみられるが、ここでマグダラが語っている愛は、ヴェルスに与えら れる安心を期待するものである。しかし、先ほどイエスの科白によって示 された愛の概念は、他者のために自ら行動するというものである。
さらに、マグダラは、イエスのことをたびたび気にかけ、ヴェルスにイ エスの現状について問う。そして、彼女のイエスに対する思いは次のよう な科白で表現されている。
MARIE-MAGDELEINE : [...] Moi-même, qui ne lʼai vu que le temps dʼun regard, entre les oliviers, jʼai senti que la joie sʼélevait dans mon âme, comme une sorte de lumière qui gagnait mes pensées... [...]45
マグダラはヴェルスの腕に自らの身を預け、彼に対する愛を語っていた にもかかわらず、ここで彼女の心情は、イエスをみたときに魂の中に湧き 起こった歓喜として描かれている。このように、マグダラのイエスに対す る関心、あるいはイエスとの関係は、霊的な次元で表現されるようにな る46。
44「マグダラのマリア : [...] 私を自分から、ここから遠く離れたところへ、不安から離れたと ころへ連れて行ってください。[...] あなただけが私を救うことができ、私にはあなたが与え て く れ る 生 命 だ け が あ る の で す。[...]」 (A.2, S.1), Maurice Maeterlinck, Marie-Magdeleine, op.cit., p.64.
45「マグダラのマリア : [...] 私も、オリーブの樹々の間で、一目彼をみただけですが、歓喜が 私の魂のなかで湧き起こるのを感じたのです、それは光のようなものが私の心をとらえた ようでした。[...]」 (A.2, S.1), ibid., p.71.
46 Cf. Granville Forbes Sturgis, op.cit., pp.90-91. マグダラは次のようにも語っている。「ならば彼 の魂をみたのは私だけなのか?」 « Suis- je donc le seul être qui ait vu dans son âme?... » (A.3, S.4), Maurice Maeterlinck, Marie-Magdeleine, ibid., p.155.
モーリス・ボワサールが指摘しているように、この戯曲上の演出でイエ スは舞台上に現れず、その声で登場する。イエスが舞台に姿をみせないの は、マグダラとイエスとの関係における物理的な影響力というよりは、む しろ霊的な影響力を強調しているように思われる47。「罪の女に作用して いるのはイエスの完全な霊的影響であり、彼女の行動を支配しているのは その影響力だけである48」とボワサールは考えている。
さらに、第二幕の終わりには、イエスによって死から復活したラザロが 現れ、マグダラに対し「来なさい、師があなたをお呼びだ49」と言う。マ グダラはラザロの言葉に従いイエスのもとに向かう。ラザロの復活の奇蹟 を受け入れるマグダラの描写は、彼女を魅了したイエスの霊性を際立たせ ている50。
しかしながら、イエスを逮捕する命令を受けていたヴェルスは、このよ うなマグダラの変化に気づき、「嫉妬や絶望感によって、イエスの命を危 険にさらす」決意をするのであり、ヴェルスにとってイエスはもはや愛の 対抗者にすぎないのである51。
3.マグダラのマリアの自己犠牲
第三幕において、マグダラのマリアは逮捕されたイエスを救おうとする。
しかし、イエスの弟子たちは恐怖で逃げ52、イエスの奇跡によって病を治 してもらった人々は、より安全なところに逃げようとする53。そのような
47 Maurice Boissard, « Théâtre », Mercure de France, 103, Paris, 16 juin 1913, p. 847.
48 « Cʼest lʼinfluence toute spirituelle de Jésus qui agit sur la pécheresse, cette influence seule qui règle sa conduite. », ibid.
49 « LAZARE [...] : Viens, le Maître tʼappelle. » (A.2, S.3), Maurice Maeterlinck, Marie-Magdeleine, op.cit., p. 102.
50 Bettina Knapp, Maurice Maeterlinck, Boston, Twayne Publishers, 1975, p. 130.
51 Fabien Honoré Kabeya Mukamba, op.cit., p. 186. ヴェルスは次のように言う。「ヴェルス : [...] 好 敵手を当然受けるべき死からさらに救い出して、私が愛する、愛することができるであろう あなたを失わなくてはならないのか?[...]」« VERUS : [...] Jʼirais, pour arracher un rival préféré à une mort dʼailleurs méritée, perdre la seule femme que jʼaime et que je puisse aimer?... [...] » (A.3, S.4), Maurice Maeterlinck, Marie-Magdeleine, op.cit., pp. 148-149.
状況のなか、磔刑を受け入れるイエスの意志について語るアリマタヤのヨ セフや、イエスが抵抗を放棄したことについて語るニコデモに対して、マ グダラは次のように言う。
MARIE-MAGDELEINE : Vous ne voyez donc pas que cʼest pour éprouver votre foi, votre force, votre amour!...54
ここでマグダラによって、イエスの救済を試みることは我々の信仰、力、
愛を試すことであると語られる。そのため、彼女はヴェルスに協力を求め ることにしたが、彼女を獲得したい欲望を持つヴェルスは、イエスの命を 引き換えにした、次のような取引をマグダラに対して提案する。
VERUS : [...] cʼest toi que je veux [...] Tu veux sa vie, je veux la mienne, et tu lʼauras sa vie, mais moi je tʼaurai, toi, avant quʼil nʼéchappe à sa mort... [...]55
イエスの命を救う代わりに、マグダラに対して身を捧げるようヴェルス は迫る56。ヴェルスの提案は肉体的な、物質的なものとなっている57。そ して、このヴェルスの肉体的、利己的な提案を、マグダラは拒絶する。彼
52「クレオファス : [...] 12 人の弟子はどこにいる? / マルタ : 分からない。[...]」« CLÉOPHAS : [...] Les douze, où sont-ils?... / MARTHE : On ne sait... [...] » (A. 3 , S. 1 ), Maurice Maeterlinck, Marie-Magdeleine, ibid., p. 122.
53「奇跡を受けた人 : [...] 我々はここよりも安全なところにいることにする。」 « LE MIRACULÉ : [...] Nous serons plus en sûreté quʼici... » (A.3, S.1), ibid., p. 115.
このように、戯曲においてもイエスが捕まった後の、人々の裏切り行為がみられる。つま り聖書に描写されたイエスに対する人々の裏切りや背反は、メーテルランクの戯曲にも表 現されている。Christian Lutaud, op.cit., p. 54.
54「マグダラのマリア : あなたがたはだから、それがあなたがたの信仰、力、愛を試している ということが分からないのです。」 (A.3, S.2), Maurice Maeterlinck, Marie-Magdeleine, ibid., p. 132.
55「ヴェルス : [...] 私が欲しいのはあなただ [...] あなたは彼の命を望む、私は自分の命を望む、
そしてあなたは彼の命を得ることになるが、私はあなたの命を得ることになるのだ、あな たの命をだ、彼が死から逃れる前にだ。[...]」 (A.3, S.4), ibid., pp. 153-154.
女にとって、ヴェルスはもはや「軽蔑すべき人物であり、身を捧げること を拒んだ」のであった58。しかしながら、ヴェルスの提案を受け入れなかっ たことは、マグダラの自己犠牲の限界を意味することになるのだろうか。
ヴェルスの提案を拒絶した後、マグダラは「理解するには少し時間が必 要です」、「魂が堕落するのです」と語り59、さらに次のように言う。
MARIE-MAGDELEINE [...] : [...] Si jʼobtenais sa vie au prix que tu me dis, il ne survivrait quʼà la mort de tout ce quʼil voulait, de tout ce quʼil aimait!...60
マグダラはここでイエスが望み愛したものすべてを失い、自らの魂を犠 牲にすることを避けようとしている61。マグダラがここで言う、イエスが 望み愛したすべてのものとは、この戯曲において、イエスによって示され た八福と愛敵の概念で表現されるものと思われる。なぜなら、それはマグ
56 マホニーは、ヴェルスが示した条件について次のように述べている。「ヴェルスは、代価が マリアの体であることを彼女に言う。」« Verus tells her[=Mary] that the price is her body. », Patrick Mahony, op.cit., p. 119. [ ]内は筆者による。
57 ヴェルスの提案についてミュカンバは次のように指摘する。「ヴェルスによって提案された 忌まわしい取引は、ナザレ人の死を避けるためのものであるが、あらゆる実利・所有欲・
肉欲のないアガペーの愛の意味を神聖視しないことによって引き起こされたものである。
[...] ヴェルスの愛は肉欲や利己主義の欲望に帰する。」 « Le marché odieux proposé par Vérus pour empêcher la mort du Nazaréen procède de la désacralisation du sens de lʼamour-agapè qui est exempt de tout profit, de toute convoitise de la chair. [...] Le sien se résout à un désir charnel et égoïste. », Fabien Honoré Kabeya Mukamba, op.cit., pp. 186-187.
58 Christian Lutaud, op.cit., p. 111.
59 « MARIE-MAGDELEINE: [...] Il faut un peu de temps pour quʼon se rende compte... [...] lʼâme tombe [...] » (A.3, S.4), Maurice Maeterlinck, Marie-Magdeleine, op.cit., p.155.
60「マグダラのマリア [...] : [...] あなたが言ったことの対価として、彼の命を得たら、彼は、彼 が望んだことや愛したことすべてのなきあとを生きるしかないのです。」(A.3, S.4), ibid., p.159.
61 ポール・ゴルセーは次のように述べている。「しかし悔悛した罪の女は自己の魂と引換えに イエスを救うことを望まなかった。それはキリストの精神を裏切ることになり、贖罪とい う神の計画を危うくするものだ。」 « Mais la pécheresse repentie ne veut pas sauver Jésus au prix de la perte de son âme. Ce serait trahir lʼesprit du Christ et compromettre le divin projet de la Rédemption [...]. », Paul Gorceix, Maurice Maeterlinck : l’Arpenteur de l’Invisible, Bruxelles, Le Cri, 2005, p.451.
ダラの魂に歓喜を湧き起こさせたものだからである。
さらにマグダラは次のように言う。
MARIE-MAGDELEINE : [...] Mais tu viens demander tout ce quʼil a donné, et ce quʼil a donné est bien plus que sa vie et vit plus en nos cœurs quʼil ne vit en lui-même!...
Si je le perds en moi, je le détruis en nous!... [...] Je le ferais peut-être si mon âme était seule, mais ce nʼest plus possible et Dieu ne voudrait pas!...62
マグダラが考えることは、人間がイエスによってもたらされたものを失 うことを神は望んでいない、ということである。ここで、イエスが神の子 として示す自己犠牲と、ヴェルスの要求に応ずるマグダラの自己犠牲とが、
対置されているように思われる。
ビセルは、「仮に、イエス・キリストを死から救ったとしたら、それは マグダラのマリアにとってイエスに忠実ではないことになってしまうので あり」、「イエスの教え、イエスの魂のエッセンスが汚されてはいけないの である」と指摘している63。
またミュカンバは、このようなマグダラの態度について、「彼女は罪に よって汚されない限りで、ナザレ人を救うことを望んでいる64」と述べて いる。姦淫の罪を赦されたマグダラは、ここで罪を犯すことを避けようと している65。ヴェルスの要求を受け入れることは、姦淫の罪を赦す動機と
62「マグダラのマリア : [...] しかしあなたは彼が与えたものすべてを求めているのです、彼が 与えてくれたものは、彼の生命よりも重要であり、彼自身よりも私たちの心のうちに生き ているのです!もし私が自分のうちで彼が与えてくれたものを失えば、私たちのうちにあ るそれを私が滅ぼすことになるのです![...] 私の魂が一人であれば、私はそうするかもしれ ません、がそれはもはや不可能なことであり、神はお望みではないのです!」(A.3, S.4), Maurice Maeterlinck, Marie-Magdeleine, op.cit., p.161.
63 « [...] she[=Mary Magdalene] would be untrue to Him[=Christ] in her if she were to rescue Him from Death ― [...] His teaching, the essence of His Soul, must not be soiled [...]. », Jethro Bithell, Life and Writings of Maurice Maeterlinck, London, The Walter Scott Publishing Company, 1913, p.148. [ ] 内は筆者による。
64 « Elle[=Marie-Magdeleine] désire sauver le Nazaréen sans pour autant se souiller par le péché. », Fabien Honoré Kabeya Mukamba, op.cit., p.187. [ ]内は筆者による。
なった愛の概念を否定することであり、それはイエスによって与えられた ものを失うことを意味するため、マグダラはイエスの精神を裏切らない範 囲で自己犠牲を実践しようとする66。
また、マグダラは「もし私が彼を失えば、私に何も残らないが、もし私 が彼を救えば私たちに何も残らないのです67」と言っている。ゴルセーは この科白について、「マグダラのマリアは相当に観念的な人物のままであ り、この人物では、メーテルランクは高潔な魂、気高い思想、自己犠牲と いったキリスト教の美徳を具象化することに成功していない68」と述べて いる。しかし、このマグダラの科白が、ヴェルスの要求に対する文脈上に あることを鑑みれば、これは彼女の自己犠牲が利己的なものではないこと を例証しているのではないか69。マグダラは、ヴェルスの欲望を受け入れ ることは、イエスが我々にもたらしたものを我々が失うことを意味してお り、それは我々のためにならないことだと考えている。本章の冒頭で引用 したマグダラの科白にもあるように、彼女がイエスを磔刑から救済しよう とする行動は、何よりもイエスによって説かれた八福と愛敵の概念に支え られている。そこでは、利己主義を放棄した他者への献身が人々に説かれ
65 エドモンド・セは次のように述べている。「しかしマグダラのマリアはこの自己犠牲をもは や実行し得ない。彼女はそれをもうできないし、もはやすべきではない。[...] 彼女はナザレ 人が望み願っていることを理解している。[...] 罪深い女はもう罪を犯さないのである!」
« Mais Marie-Magdeleine ne peut plus accomplir ce sacrifice. Elle ne le peut plus, et ne le doit plus.
[...] elle voit ce que veut et souhaite le Nazaréen. [...] elle[= La Pécheresse] ne péchera plus! », Edmond Sée, « Marie-Magdeleine », Le Théâtre des Autres, Paris, Ollendorff, Deuxième Série, 1914,
p. 252. [ ]内は筆者による。
66 ポルダーマンは次のように述べている。「マグダラのマリアの態度は、イエス・キリストの 教義を否定して彼を救うことを拒むことである」 « [...] lʼattitude de Marie-Madeleine, refusant de sauver le Christ en reniant sa doctrine [...]. », Fabrice Polderman, op.cit., p. 263.
67 « MARIE-MAGDELEINE : [...] Il ne me reste rien, si je le perds, il ne nous reste rien si je le sauve!... » (A.3, S.4), Maurice Maeterlinck, Marie-Magdeleine, op.cit., p. 162.
68 « Marie-Magdeleine reste un personnage assez abstrait, dans lequel Maeterlinck nʼa pas réussi à incarner les vertus chrétiennes : grandeur dʼâme, élévation de pensée et sacrifice. », Paul Gorceix, Maurice Maeterlinck : l’Arpenteur de l’Invisible, op.cit., p. 453.
69 ポルダーマンは、マグダラのマリアが「利己主義の喜びを、世界の永続的な幸福に」捧げ たことを指摘している。Fabrice Polderman, op.cit., p. 259.
ていた。
そのため、ヴェルスの提案を拒んだ後、マグダラはイエスを救おうとヴェ ルスに対して次のように懇願する。
MARIE-MAGDELEINE [...] : [...] Mais ne demande pas la seule chose impossible...
Je serai ton esclave, je veux vivre à tes pieds, te servir à genoux [...]70
マグダラがここで言う奴隷という存在は、この戯曲では門番などをする 召使いのように描かれているが、マグダラが「唯一不可能なことだけは頼 まないでください」と言った上で、自ら提案していることを鑑みれば、彼 女にとって、それは不可能なものではなく、自分自身の魂を犠牲にしない ものなのである。
一見、このマグダラ自らの提案は、ヴェルスの要求に劣らないもののよ うに思われる。マグダラは自分自身の自由をヴェルスに捧げようとしてい る。しかしヴェルスはこの提案を拒む。ヴェルスの要求に示されているよ うに、彼がマグダラに求めていることは、肉体的欲望に屈服することによっ て、彼女がイエスと決別することである。マグダラによる提案は彼女の魂 を汚すものではないため、ヴェルスはそれを受け入れられない。
それから、マグダラの提案がヴェルスによって拒絶されたのち、一時席 をはずしていた人々が、二人のいる部屋に戻って来る。このとき戻ってき た人々というのは、イエスによって病を癒された人であったり、治しても らおうと集まっていた人であったりするが、何よりも彼らはイエスを磔刑 から救うことを唱えたマグダラに従わなかった人々である。そこで、ヴェ ルスはマグダラとの取引の中身は言わずに、彼女がイエスの命を救える提 案を拒んだことだけを人々に伝え、彼女の不貞を訴えた71。
70「マグダラのマリア [...] : [...] しかし唯一不可能なことだけは頼まないでください。あなたの 奴隷になります、あなたの足元でくらしたいのです、あなたの膝元に仕えたいのです。[...]」
(A.3, S.4), Maurice Maeterlinck, Marie-Magdeleine, op.cit., p. 165.
すると人々は、ヴェルスの提案を受け入れなかったマグダラに罵詈雑言 をあびせる。彼らがマグダラを責め立てるのは、イエスを救えなかった後 悔の念からではなく、彼女が自分たちの生命を危険にさらしたと考えるか らである。彼らは、イエスとともに罰せられるのではないかと恐れており、
彼女に対し激しい怒りと憎悪を向けている72。
その上、イエスの逮捕に際して、イエスの意志について語っていたアリ マタヤのヨセフさえも、混乱し、ヴェルスを引き留め「行かないでくださ い!彼女は思い違いをしているのです」と言う73。この科白は、アリマタ ヤのヨセフがイエスの意志に従っていた動機が、自らの命の安全のためで あったことを示している。こうして、マグダラの周囲には、肉欲を提案す るヴェルス、そして自分たちも罰せられるのではないかという恐怖で騒ぎ 立て、彼女を責め立てる人々しかいなくなる。
そして、イエスを十字架に連れて行く群衆の喧騒が部屋の外から聞こえ てくる。その音はやがて家の近くにまで寄って来て、物語は次のような結 末を迎える。
VERUS : Magdeleine, je te promets encore...
MARIE-MAGDELEINE, sans bouger, sans regarder Vérus, sans colère, simplement, d’une voix d’outre-vie, pleine de paix, de clartés et de certitudes divines : Va-tʼen!...
[...]
Le tumulte, les cris de mort reprennent et redoublent dans la rue. Vérus sort lentement en regardant Marie-Magdeleine qui est demeurée immobile, comme en extase, et tout illuminée de la clarté des torches qui s’éloignent74.
この結末の描写からはマグダラの平和に満たされた表情がうかがえる。
71 Granville Forbes Sturgis, op.cit., p.91.
72 Cf. Macdonald Clark, Maurice Maeterlinck : Poet and Philosopher, London, George Allen & Unwin LTD, 1915, p.250 ; Patrick Mahony, op.cit., p.119.
73 « JOSEPH DʼARIMATHIE, l’arrête, suppliant. : Seigneur, je vous en prie, ne partez pas ainsi!... Elle se trompe [...] » (A.3, S.5), Maurice Maeterlinck, Marie-Magdeleine, op.cit., p.171.
彼女の声は「つつましく、平和に満ち、神々しい確信と澄明に満たされ、
超然とした」ものである。彼女は、クラークがたとえるように、「霊感を 受けた預言者のように話している」75。マグダラはヴェルスに対して「行っ てしまいなさい」と言い、イエスを救う選択を完全に捨て去る。それはイ エスの磔刑を受け入れた彼女の姿を示しており、イエスの命を犠牲にする という「彼女の自己犠牲は、神の愛というイエスの信条に、肉体的にも精 神的にも従っている」76。そして、この戯曲におけるラザロの復活の物語 に注目したポルダーマンは、「マグダラの自己犠牲は魂の存続の信仰に基 づいており77」、「彼女においてイエスは肉体的に死ぬのではあるが、それ はまた彼女においてイエスの霊的生命が存続することでもある78」と指摘 している。
4.自己犠牲と贖罪
このようにマグダラのマリアは、イエスを磔刑から救う試みにおいて、
まずヴェルスの肉欲の要求を拒む。次にヴェルスの奴隷になること、足元 にくらすことを自ら提案するが、それはヴェルスに受け入れられない。そ して「マグダラのマリアは最後にもう一度、ヴェルスの求めを拒絶する79」。
74「ヴェルス : マグダラ、まだ私は約束する。/マグダラのマリア(動かず、ヴェルスを見ない、
怒りはなく、つつましく、平和に満ち、神々しい確信と澄明に満たされ、超然とした声で): 行ってしまいなさい!/[...]/(道に喧騒と死を叫ぶ声が再び湧き起こり、繰り返される。
ヴェルスはマグダラのマリアをみながらゆっくりと出ていく、彼女は身動きせず、恍惚と しているかのように、遠のく松明の明かりに照らされている。)」(A.3, S.5), ibid., p. 180.
75 « Mary Magdalene [...] speaks like an inspired prophetess [...]. », Macdonald Clark, op.cit., p.251.
76 « Her sacrifice complies physically and spiritually with His credo of divine love. », Bettina Knapp, op.cit., p.132. クナップは一方で、物語冒頭におけるマグダラのマリアの攻撃的な人間性や、
彼女の過大な情熱について言及し、イエスの「兄弟愛の教義が彼女の性質を変えた」とは 考え難く、最後の彼女の自己犠牲は、宗教的というよりは、むしろ「マゾヒズムの精神錯 乱の行為」だと見做している。ibid., pp. 132-133. しかしながら、最後のマグダラの様子は、
精神錯乱の姿とはかけ離れているように思われる。
77 « Cʼest que le sacrifice de Marie-Madeleine est basé sur la croyance à la survie des âmes [...]. », Fabrice Polderman, op.cit., p. 260.
78 « Cʼest en elle quʼil meurt de sa mort physique, mais cʼest en elle aussi quʼil continue à vivre de sa vie spirituelle. », ibid., p.266.
この一連のマグダラの行動における、ヴェルスの肉欲の提案を拒絶した 後のマグダラ自らの提案について、ミュカンバは次のように述べている。
Tout compte fait, le zèle de Marie-Magdeleine quoique sincère manque dʼintelligence, mieux encore de foi au plan divin de la rédemption de lʼhomme80.
ミュカンバはマグダラのことを、人間の罪の贖いという神の計画に対す る信仰が欠けた人物と見做している81。
確かに、受難において、イエスは自らの意志で磔刑を受け入れて人間に 最上の愛を示した。それを鑑みれば、ミュカンバの言うように、マグダラ の言動は、イエスの意志に反するものと考えられる。そのため、彼女自ら の提案もまた、利己的な自己犠牲の行為となっているのかもしれない。
しかし、ここで確認されるべきことは、本戯曲におけるマグダラの人物 像には聖書における姦淫の女、罪深い女の要素が組み込まれているという ことである。姦淫の女のエピソードでは、イエスが、人々が有する罪を喚 起することによって、マグダラを投石から救い、罪深い女のエピソードで は、イエスはその者の改心に対して罪の赦しを告げている82。とくに後者 は「愛と赦しを結びつけている83」。そのような性質を有するマグダラは、
ヴェルスの提案の前に、イエスについて次のように言っている。
79 « [...] Marie-Madeleine repousse une dernière fois lʼoffre de Verus [...]. », ibid.
80「結局、マグダラのマリアの情熱が真摯なものであっても、それは知性を欠いており、しか も人間の罪の贖いの神の計画に対する信仰を欠いている。」 Fabien Honoré Kabeya Mukamba, op.cit., p. 187.
81 パウロはイエスの磔刑について次のように述べている。「キリストは、わたしたちの神であ り父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわ たしたちの罪のために献げてくださったのです。」(ガラテヤの信徒への手紙1 : 4) ;「わたし が今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子 に対する信仰によるものです。」(ガラテヤの信徒への手紙2 : 20) イエスが人間の罪のため に自分自身を捧げたこと、「それは人間への愛ゆえになされたこと」がここに示されている。
「購い」、『聖書思想事典』、編・X.レオンデュフール[他]、訳・小平卓保、河井田研朗、
三省堂、1973、p. 13.
MARIE-MAGDELEINE [...] : [...] Il supporte tout, par bonté, pour les péchés du monde, mais nous ne voulons point quʼil sʼimmole pour nous... Un seul de ses regards, une seule de ses paroles valent toutes les vies de tous les autres hommes…84
この科白にあるように、マグダラはイエスが人々の罪を背負っているこ とを理解している。その上で重要なのは、イエスの眼差しや言葉であると 語っている。マグダラはここで罪の概念を絶対視していないように考えら れる。聖書における姦淫の女や罪深い女の要素が組み込まれているマグダ ラが、そう述べることによって、罪の概念を絶対視しない姿勢がより強調 されているように思われる85。このマグダラの科白に表現された、人間の罪
82 メーテルランクのマグダラのマリアには、罪深い女の要素が与えられている。:「マグダラ のマリア : [...] 私は彼の足に口づけし、自分の髪でふいた。」« MARIE-MAGDELEINE : [...] je baisais ses pieds, que jʼessuyais de mes cheveux... » (A. 3 , S. 4), Maurice Maeterlinck, Marie- Magdeleine, op.cit., p.156 ;「マグダラのマリア : [...] 私が口づけした彼の足 [...]」« MARIE- MAGDELEINE : [...] Ses pieds que jʼai baisés [...] » (A.3, S.4), ibid., p.163. Cf. Christian Lutaud, op.cit., pp. 57-59. 聖書における罪深い女のエピソードでは、イエスはその者の改心に対して 罪の赦しを告げている。C.リンドバーグ、op.cit., p. 53. 「後ろからイエスの足もとに近寄り、
泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油 を塗った。」(ルカ7 : 38) ; 「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わ たしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」そ して、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。」(ルカ7 : 47-48)
83 C.リンドバーグ、ibid.
84「マグダラのマリア [...] : [...] 彼は善によって、この世の罪のためにすべてを背負っているの です、しかし私たちはあの方が私たちのためにご自分を捧げることを少しも望んでいない のです。あの方の眼差しの一つが、あの方の言葉の一つが、すべての人間の生命全体に値 するのです。」(A.3, S.3), Maurice Maeterlinck, Marie-Magdeleine, op.cit., p.140.
85 ミュカンバは、メーテルランクが罪の概念を神聖視していないことを指摘している。Fabien Honoré Kabeya Mukamba, op.cit., pp. 191-196. メーテルランクは次のように述べている。「諸々 の罪に関心のあるものたちは、偉大な事柄、不思議な謎、広大な問題にかかわっていると 心から思っている。しかし実際は、彼らはささいな虚無を研究しているにすぎない。大罪 よりも取るに足らないものは、もはや何もないのである。」 « [...] ceux qui sʼintéressent aux péchés sʼimaginent volontiers quʼils touchent à de grandes choses, à dʼétranges énigmes, à de vastes problèmes : au fond ils nʼétudient que lʼinfiniment petit dans le vide. Rien nʼest plus petit quʼun grand péché. », Maurice Maeterlinck, La Grande Porte, Paris, Fasquelle, 1939 , p. 241 . Cité par Fabien
Honoré Kabeya Mukamba, ibid., p. 191.ここでメーテルランクは、罪を取るに足らないものと
している。このような罪に対するメーテルランクの態度を、マグダラの科白が表している ように考えられる。
を背負うことよりも重要なイエスの言葉、それはこの戯曲において、具体 的に描写されたイエスの言葉であり、マグダラの魂のうちに歓喜を湧き起 こすきっかけとなった八福と愛敵の言葉を指しているのではないだろうか。
イエスの八福と愛敵の言葉によって、貧者などに対する共感や憐れみ、
欲望や怒りのない柔和で平和な態度、利己主義を放棄した他者への献身が 人々に説かれているが、その概念はマグダラにおいて徐々に実践を伴った ものとなっており、第三幕において、彼女は所有していた富を貧しい人々 に分け与えていることが描かれている86。
よって、マグダラがイエスの八福と愛敵の言葉に魅了された点、罪の概 念よりもイエスによって示された言動の方に価値を見出した点、それらを 鑑みれば、マグダラによってなされた二つ目の自己犠牲の提案は、確かに イエスの死によって人間の罪を贖うという神の計画に対する信仰の欠如と 言えるかもしれないが、イエスの説く八福と愛敵の教えを具体的に実践し ている姿であると考えられるのではないか。つまり、自己犠牲という実践 的な選択をマグダラがしていると思われる。
第三幕において、まずマグダラは、ヴェルスの肉欲の要求を、イエスの 霊性によってもたらされたものを守るため、つまり自分の魂が汚されない ために拒絶した。次にヴェルスの奴隷になること、足元にくらすことを自 ら提案することによって、自己の主体性を堅持しつつ利他的な自己犠牲を 試みた。そして結末において、マグダラは人々の利己的な怒りに囲まれ、
姦淫の罪で石打刑に直面したときと同じような状況に身を置くが、そこで 彼女が示した態度は怒らず穏やかで平和な姿であった。
つまり、マグダラは第三幕を通じて、利他的な自己犠牲を実際に試みる 愛敵の概念と、憐れみ深く、欲望や怒りもなく、柔和で平和であることを
86 Edmond Sée, « Marie-Magdeleine », op.cit., pp. 251-252. マグダラは次のように言う。「マグダ ラのマリア : [...] 私はもう何も持っていません。先晩、貧しい人々に分け与えたのです。」
« MARIE-MAGDELEINE : [...] Je ne possède plus rien... Jʼai tout distribué aux pauvres lʼautre soir... »
(A.3, S.4), Maurice Maeterlinck, Marie-Magdeleine, op.cit., p.153.
説く八福の概念とを、読者や観衆に示していると思われる。
メーテルランクは、姦淫の女や罪深い女という、罪の概念と深い関係に ある聖書の人物像をマグダラのマリアに与えた。そのマグダラが、人々の 罪を背負うことよりもイエスの言葉が重要であると言うことによって、イ エスの説く愛の概念の具体的な実行、その必要性が強調されていると考え られる。