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スピノザとセネカにおける自然全体の一体性

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スピノザとセネカにおける自然全体の一体性

著者 大野 岳史

雑誌名 国際哲学研究

巻 8

ページ 55‑63

発行年 2019‑03

URL http://doi.org/10.34428/00010718

(2)

スピノザとセネカにおける自然全体の一体性

大野 岳史

1 序論

近世においてアリストテレスの倫理・政治的体系は説得力を失い、拒絶されるようになった1。そのため、

近世の倫理思想においては、徳の体系構築はあまり見られず、代わりに、ホッブズの自然法の学としての道 徳哲学や、デカルトの情念論が注目される。こうした倫理思想の変遷の背景には、16世紀におけるストア派 の復興がある。実際スピノザによれば、情念と意志の関連について、デカルトとストア派が同じことを語っ ている(cf. E5Praef)。したがって、近世哲学とストア派を対照するときには、情念論に基づく倫理思想が 中核の一つとなりうる。

別の観点からは、スピノザとストア派の哲学を一元論として捉え2、両者の差異を目的論の有無と考えるこ とができるだろう。ストア派は世界における運命や摂理を強調し、スピノザは神の本性の必然性から万物が 生じると主張する。どちらも決定論に通じるのだが、ストア派における運命論からは目的論が明確に読み取 れるのに対して、スピノザは目的論批判を提示している。ただし、スピノザ哲学にも目的論に基づく世界観 を読み取る可能性が開かれている、と解釈することもできる。というのも、『神、人間および人間の幸福に 関する短論文』第一巻第五章で摂理が主題となり、また『エチカ』第四部附録32項にも、摂理という語が 用いられなくとも、同じ背景をもつ立論が見られるからである3

このように、スピノザとストア派の自然観・宇宙観については、決定論や目的論に着目されてきた。つま り、神と自然との関連について考察する形而上学的な論考が行われている。しかしながら、自然観・宇宙観 というテーマは形而上学だけではなく、自然学/物理学にも及ぶ。本稿では、スピノザとストア派の自然観・

宇宙観を対照するが、神と自然との関連を検討する形而上学的な論考は避け、物体的・物質的な自然全体の 理解を深めることを目指す。この観点にかかわるストア派のまとまった立論を見ていくために、セネカ『自 然研究』を検討することから始める。セネカはストア派における宇宙の一体性について論じているが、その 箇所はストア派の中でも「基礎的な理論がこれほどまとまって論じられている箇所は他にない」4と評価さ れている。この箇所における自然観・宇宙観の要点を挙げ、それらについてスピノザがどのように語ってい るのかを見ていこう。

2 セネカ『自然研究』における一体性

5

近代科学の誕生は天体論の変革を伴っている。この変革について、とりわけ天動説から地動説への変更に 注意が向けられるが、アリストテレスの天体論からの変更は別の点にも見られる。例えば、アリストテレス

『天について』において、宇宙全体は月上の世界と月下の世界とに分けられ、天(月上の世界)の物体は円 運動をする不可滅なものであり、地(月下の世界)の物体は直線運動をする可滅的なものである。対して近 代科学にしたがうのであれば、アリストテレスが考えるような天と地の差異はなく、どちらも同じ一つの世 界を構成するものである。

他方、セネカ『自然研究』によれば、空気が天と地の連続性を成り立たせている。というのも、物体同士 の間には空気が存在し、天と地の間にも空気があると考えることができるからである。このことを理解する ために、セネカは連続と接合の差異に言及している。

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「連続(continuatio)とは、相互の間に介在するものがない諸部分の結合である。一体性(unitas)と は、接合(conmmissura)のない連続であり、そして〔接合とは〕相互に結合した二つの物体の接触で ある。」6

セネカによれば、一体性は連続体にあって接合体にはない。そして「一体性」は、数として一つであると いうことではなく、「いかなる外力にもよらず、みずからの一体性によって凝集している物体の自然本性を」7 表示している。したがって、連続体と接合体の差異は、単に一つのものであるかどうかではなく、一体化し ているかどうかの差異である。接合体は数的に一つのものかもしれないが、連続体のような一体性はないの である。

こうした連続体と接合体の差異は、セネカに固有のことではなく、類似した仕方でアリストテレスやオッ カムにも見られる8。セネカは、連続体についてのアリストテレス的な見解を、天と地の一体性を説明するた めに用いることで、単に天と地とを区別するのではなく、それぞれが一つの宇宙を構成する部分であること を明らかにしたのである。

そしてセネカは物体における連続性の原理を空気であると考えた。この空気が天と地との連続性を成り立 たせるのである。

「〔空気は〕天と地を結ぶものであり、最下部と最上部をつなぐと同時に分離するものでもあるからだ。

「分離する」というのは、中間に入ってくるものだからであり、「つなぐ」というのは、これによって両 者が相互に協調できるからである。すなわち、〔空気は〕何であれ地から受け取ったものを自分の上方 へ送り、また逆に星の力を地上のものに伝達するからである。」9

空気は天と地を分離しているが、このことは空気が天と地の間に存在することを意味するだけで、天と地の 連続性が否定されるわけではない。むしろ空気が天と連続し、さらに地とも連続することによって、天・空 気・地は連続体を構成している。さらに空気は天と地とをつなぎ、そうして力(vis)が天から地へと、ある いは地から天へと伝達している。天と地は空気を媒介とすることで、単にそれぞれが空間的に接しているだ けでなく、少なくとも力が相互に伝達するよう一体化している。こうして宇宙全体という連続体は、力が内 部で伝達している一体化したものとして、理解されるにいたる。

セネカにおける連続体としての宇宙全体の理解は、原子論の否定に結びつく。セネカが提示する原子論の 見解としては、空気を離れた粒子から成ると考えることで、諸粒子間に空虚が存在すると帰結するもの(cf.

NQII,6,2)、空虚によって運動が可能になると帰結するもの(cf. NQII,7,1)、そして狭く空虚な場所に多量の アトムがあるときに風が生じると看做すもの(cf. NQV,2)等がある。どれもアトムそのものについてではな く、明らかに空虚についての見解である。セネカはこれらの見解に対して、空虚が不必要であることを示し、

あるいは連続し一体化した宇宙において空虚はありえないと主張することで、反論している。そして空気の 一体性ないし充実を、水の一体性に喩えている(cf. NQII,7,1)。水の中に物体を入れると、その物体の反対 側から水が流れていく。すなわち充実した水の中に何かが侵入したとき、水の流動によって空虚は埋められ る。そしてこれと同じことが、空気にも生じると考えられている。空気において、濃淡はあっても空虚が生 じることはないのである。

またセネカにおける空気の一体性は、生命活動にまで影響を及ぼすものとして語られている。

「さらに、空気には一体性があるということも、例えば我々の身体が自らのうちに凝集していることか ら理解できる。というのも、身体を維持しているのは、気息(spiritus)以外の何であろうか。我々の 魂を動かすのは気息以外の何であろうか。緊張なしで気息にどんな運動があろうか。一体性によらない

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どんな緊張があろうか。この一体性が空気の中にないとすれば、どんな一体性があろうか。さらに、気 息の緊張と一体性以外の何が、作物やか弱い穀物を生み出し青々とした草を生やし、樹木に枝を伸ばさ せたり、高く生長させたりするだろうか。」10

空気の一体性によって身体が凝集しているだけでなく、空気ないし気息こそ、身体を維持し魂を作用させる。

空気には一体性があり、そのため緊張(intentio)がある。この緊張が、空気の様々な自然現象ばかりでな く、植物の繁殖や成長といった生命現象をも引き起こす。もし空気が連続していないとしたら、空気に張り がなくなってしまい、空気にかかわる自然現象の多くが生じなくなり、さらには人間の魂も作用しなくなる。

以上のことから、生命の機能にかかわるものが、空気の一体性ないし連続性に依拠していることは明らかで ある。もし機械論が、精神や魂なしに自然について論述するものであるとすれば、上記引用箇所は、セネカ の自然学を機械論から遠ざけていると理解すべきだろう。実際、ストア派における自然は、物体と精神とが ともに属するものと見なされ、そのかぎりで、ストア派の自然観は生気論であると解釈される11

他方、ストア派における自然について、自然が物体的であることが最も重要であると解釈される場合もあ る12。実際、セネカにおいて生命現象を引き起こすものは空気という物体的なものである。また気息(spiritus)

も「駆り立てられた空気」(aer agitatus)と規定され(cf. NQII,1,3)、空気と気息とが頻繁に言い換えられ ている。つまり、少なくとも『自然研究』では、生命現象は物質的なものに起因すると理解されているので ある。『自然研究』は、生命や魂についての論述があるかぎりで生気論を含み、さらには摂理についての論 述が見られるかぎり目的論を含むが、生命を含む現象すべてを気息の緊張で説明されているため、機械論的 な側面も認めなくてはならないだろう。

セネカにおける天と地の関係を詳述することで、セネカの自然観・宇宙観についていくつかの要点が浮き 彫りになった。自然全体は単に物体が接合したものではなく、一体化した連続体である。したがってセネカ

『自然研究』における一は、数ではなく、一体性という物体の性質を含意している。そして、自然は空気を 媒介として一体化し、このことは天と地の連続についても同様である。この連続体が成り立つため、空虚の 非存在によって原子論が否定される。さらに、気息によって生命現象が引き起こされる。以上のことが、ス ピノザ(およびデカルト)の物体論において、どのように見出されるのかを見ていこう。

3 スピノザにおける自然観・宇宙観

スピノザ『デカルトの哲学原理』は、そのタイトルのとおりデカルト哲学の解説書であり、自然学につい ては、概ねデカルトの見解を引き継いでいる。まずデカルトとスピノザで共有している天と地の一体性や原 子論についての見解を、『デカルトの哲学原理』第二部で確認し、その後にスピノザに固有な物体論へと進 め、スピノザにおける物体の一体性を明らかにしよう。

3-1 『デカルトの哲学原理』における天と地

スピノザは『デカルトの哲学原理』第二部定理6で、セネカと同じく天と地の一体性を主張しているが、

空気を媒介として提示するわけではない。スピノザによれば、「物質は無限定に延長している。そして天の 物質も地の物質も同一である」13。この定理は、デカルト『哲学原理』では分けて語られている。すなわち、

物質の無限定な延長については第二部 21節で、天と地の物質が同一であることについては第二部 22節で 見出される14。スピノザの証明は、デカルトの説明を簡略したもので、大きな違いはない。まず物質の無限 定な延長は、「無限定」の意味内容をもとに証明される。すなわち、延長ないし物質の限界が表象されると きには、その限界の向こうに続く延長ないし物質の表象が伴わなければならず、それが無限定な広がりにな ると考えられるため、物質は無限定に延長している15。こうした物質の無限定な延長から、いかなる物質も 同じ一つの物質であることが帰結される。

(5)

こうしてスピノザ(とデカルト)は、天と地とを別の物質と考えるのではなく、同じ一つの物質であると 帰結する。ここで天と地における物質の一性と同性が見出されているのだが、このことは、天と地の物質が 同じ一つのものであるだけでなく、質としても同じであるとも解釈される16。この解釈に従うなら、延長の 無限定性によって、天と地の異質性が否定されたことになる。そのため、天と地との間に何ら媒介が定立さ れないまま、天と地との連続性が認められることになる。

3-2 『デカルトの哲学原理』における原子論の否定

セネカは宇宙を連続体として捉え、そこに空虚は存在しえないと考えた。セネカ『自然研究』における原 子論の否定は、もっぱらこの空虚についての見解に基づいている。同様に、スピノザは空虚(ないし真空)

の存在を否定している。ただしセネカのように連続体における空虚の存在を否定しているのではなく、空虚 の定義が語義矛盾をきたしていることを示している。スピノザは、「空虚(vacuum)とは、物体的実体のな い延長である」17と定義している。ところが、スピノザは物質や物体を延長として捉えている。そのため、

空虚の定義は、「延長のない延長である」あるいは「物体のない物体である」と語っているのと同じことに なってしまう。したがってスピノザにとって、空虚はその定義からして存在しえないことは明らかである18

さらにスピノザは、空虚の存在を否定するだけでなく、アトムの存在をも否定する。このこともアトムの 定義から明らかである。スピノザによれば、「アトムとは、自らの本性上不可分な物質の部分である」19。ま た『デカルトの哲学原理』において、物質と延長とは別のものではなく(cf. PPC2P2, G. I, 187)、すべての 延長は、少なくとも思考によって分割されうる(cf. PPC2Ax9, G. I, 184)。そして思考によって分割されう ると理解されるものは、少なくとも可能的には(saltem in potentia)、分割可能である(cf. PPC2Def7, G.

I, 181)。したがって、物質はすべて思考によって分割されうるのだから、可能的には分割可能である。つま りどのような物質であれ、可分性を有する。アトムの定義と物質の可分性が相反することは明らかであり、

アトムは存在しないことが帰結する(cf. PPC2P5, G. I, 190)20。以上のように、スピノザにおける原子論に 対する論述は、原子論における主要概念である「空虚」や「アトム」に矛盾を見出し、それが存在しえない ことを示している。

スピノザはアトムの不可能性と空虚の不可能性を結びつけていないが、空虚の不可能性からアトムの不可 能性が帰結しうるだろう。アトムは分割不可能なものであり、それゆえに延長していないものであるため、

物体の構成要素がアトムだけであるということはありえない。そのため、アトムの間隙を埋める空虚の存在 が帰結する21。しかし空虚は存在しえないため、アトムが物体の構成要素であるなら、物体そのものが存在 しえないものとなってしまうのである。スピノザにとって空虚の不可能性を理解することは、宇宙における 無限小を語るために不可欠であると言えよう。

3-3 『エチカ』第二部における物体論

『デカルトの哲学原理』において、天と地が同じ一つの物質であることが帰結したが、その一体性がどの ようなものなのかは不明瞭のままである。スピノザの物体論における一体性については、『エチカ』第二部 における個体論を見ていくことで明らかになる。

そしてスピノザは次のように個体についての定義を提示する。

「同じ、あるいは異なる量をもつ何らかの諸物体が、相互に接合するように他の諸物体から圧力を受け るとき、あるいは、それら〔何らかの諸物体〕が同じ、あるいは異なる速度で、自らの運動を或る一定 の割合(ratio)で相互に伝達するように運動するとき、私たちは、それらの物体が相互に一体化し、ま たすべてが一緒に、この諸物体の一体化によって他の諸物体から区別される一つの物体、つまり個体を 組織している、と言う。」22

(6)

スピノザにおける個体は、一体化によって形成される。そして複数の物体は二通りの仕方で一体化しうる。

すなわち、他の物体から圧力を受けることで相互に接合する場合と、物体が自らの運動をある一定の割合で 相互に伝達するようにされている場合である。したがって、スピノザにおける個体の成立条件には、各部分 としての物体が相互に密であるという外的状況と、各部分が作用し合いかつ全体として運動と静止の割合が 保たれるという個体全体の内的関係がある、ということになる23。スピノザは後者(個体の内的関係)に着 目して補助定理5から補助定理7まで進める。個体を形成する諸物体間の運動と静止の割合が保たれたまま であれば、各部分がより大きくあるいはより小さくなっても、あるいは運動の方向が転換されても、形相は 変わることなく個体の本性は保たれる(E2Lem5, 6)。また個体は全体としての運動と静止がどのようであ ろうと、各部分が自らの運動を保持し、それを以前と同じように他の部分に伝えてさえいれば、形相は変わ ることなく個体の本性は保たれる(E2Lem7)。また異なる本性の複数個体が複合したとしても、それにもか かわらず本性は保たれる。そうしてできた個体も、別の個体と複合しうるが、スピノザによれば形成された 個体において形相はいかなる変化も被ることはない。こうして無限定に個体は大きくなることが想定され、

「自然全体が一つの個体である」(E2Lem7S)ということが導出される。

前述のように、スピノザは個体の定義を提示する直前に運動と静止に関する公理を二つ挙げている。この ことからも、運動と静止がスピノザの個体論の中核を担っていることは明らかである。そして個体内部にお ける運動と静止の割合が、個体が一体化したものであるための条件になりうる。この運動と静止は、スピノ ザにおける延長属性の様態として、きわめて重要な位置を占めている。すなわち、『神、人間および人間の 幸福に関する短論文』第一部第9章とシュラー宛の「書簡64」によれば、「運動と静止」は延長属性から直 接生じた様態、つまり直接無限様態である。ただし、スピノザは直接無限様態と間接無限様態、そして有限 様態との関連を具体的に記述しているわけではなく、いわば無限から有限への途が欠落している24。そのた め直接無限様態として運動と静止が、個別的な個体の運動と静止とどのよう関連するかは不明瞭である。し かし、運動と静止に基づいて延長属性の諸様態が一体化するということは、明確な根拠がないとはいえ、運 動と静止が直接無限様態であることからすれば、説得力があるように思われる。

セネカにおいて、連続体は一体化によって説明されたが、一体化したものの内部では力が伝達する。これ に対して、スピノザはどのようにして個体が一体化するのかを明示した。すなわち、外部からの圧力と個体 内部の関係によって一体化する。そしてスピノザにおける一体化は、補助定理五から補助定理七において見 られたように、形相が変わることなく同じ本性が保持されることであると考えられる。セヴェラックによれ ば、個体の可塑性(形相の変化なしに多様化する性質)は、周辺からの圧力ではなく、個体に同一性をもた らす内的関係によって説明される25。したがって、自然全体の形相的な同一性は、自然内部における関係に よって成り立つことになる。単に力が伝達するというのではなく、運動と静止の割合が保たれることで個体 の本性が変わらず保持されることが、一体化していることの核心なのである。

3-4 外部からの圧力がない自然全体(「書簡 32」および「書簡 50」)

『エチカ』における個体は、複合され一体化したものであった。したがって、個体は部分から成ると考え ることができる。このことは、補助定理7備考における自然全体としての一つの個体についても言えるだろ う。それでは自然全体とその部分としての諸物体の関係については、どのように語ることができるのだろう か。

スピノザはオルデンブルグ宛の「書簡32」で、宇宙全体と宇宙を構成する諸部分との関係を、血液とその 構成要であるリンパ(lympha)と乳糜(chylus)の粒子(particula)との関係になぞらえ、『エチカ』第二 部の個体論と同じような論を展開している。つまり、血液中の粒子が血液の外部によって運動の原因を与え られることなく、逆に粒子が血液の外部へと運動を伝えることもないのであれば、血液は常に同じ状態を留 まることになる、言いかえれば、リンパや乳糜の粒子の運動の割合が保たれる(cf. Ep32, G. IV, 172)。この 場合、血液は全体として捉えられている。加えて、外部に何かが存在し、血液の内部に何らかの仕方で影響

(7)

を与える場合、血液は部分となり、全体ではなくなる。スピノザによれば、宇宙を構成する諸物体について も同じように考えなければならない。つまり、宇宙全体におけるすべての物体の運動と静止の割合は同一に 保たれており、もし宇宙の外部に宇宙の内部に作用するものが存在するとしたら、宇宙は全体ではなく、部 分と呼ばれることになる。つまり、「宇宙全体」という考え方自体が、すでに宇宙の外部を排除しているの である。スピノザは宇宙の無限性を肯定しているため、このことから宇宙に対して外的なものが存在してい ないと主張することも可能だろう。このように宇宙全体として捉えられた個体に対して、外部からの圧力を 考える必要はない。圧力をかける外部の物体が存在しないからである。

自然全体の外部には何も存在しないということは、イエレス宛の「書簡50」からも帰結する。物体は形状 を有するのだが、それは物体が無限定なものとして考えられる限りのものではなく、有限で限定された物体 においてのみ形状が見出される(cf. Ep.50, G. IV, 240)。ここでの立論の主要な点は、形状は限定であり、限 定は物の非存在であって否定である、ということにある。したがって、形状を知覚することは、現に存在す る何らかのものの形状を知覚することではなく、事物の非存在を知覚することである。ところが、非存在か らは何ものも知覚することはできない。スピノザにおいて、非存在(無)は何ものも引き起すことはないか らである。実際『形而上学的思想』では、「無からの創造」でさえ否定されている(cf. CMII10, G.I, 268)。

したがって、形状を知覚することは、事物そのものの非存在ではなく、対象(形状をもつもの)の周辺状況 に何らかの存在を想定し、それが実際には存在していないことを知覚することで、対象の輪郭を形作ること であろう。スピノザにおいて自然全体としての一つの個体は無限定に延長しているため、自然の内にも外に も非存在はなく、何ら形状をとることはない。

以上のように、自然全体の外部には何も存在しないため、自然全体の一体性は外部からの圧力ではなく、

自然全体内部における運動と静止の割合が保たれ、自然全体の本性が維持されることに存することは明らか である26

3-5 『形而上学的思想』第二部第六章における生命

27

魂の働きや植物の生育が生命現象であるとすれば、セネカは、空気ないし気息の緊張によって生命現象が 引き起こされると考えたことになる。これに対して、スピノザは『形而上学的思想』第二部第六章で「物質 において機械的組織と作用以外には何もない」28と語り、生命の物質への内在を徹底的に排除する。具体的 には、アリストテレスにおける三種の魂(植物の魂・動物の魂・人間の魂)は創作物(figmenta)に過ぎな いと看做す。そして魂と身体が合一したものだけに生命があるとするなら、人間や動物にのみ生命が見出さ れることになるのだが、スピノザによれば物体にも身体から分離した精神にも生命がある。つまり、万物に 生命がある。そのため、物体にも動物にも人間にも共通する働きが、生命になければならない。そこでスピ ノザは生命を、「事物がそれによって自らの存在に保持する力」29と規定する。したがって万物は存在し続け ようとし、そのかぎりで生命をもつと看做されることになる。

こうしたスピノザの生命についての見解は、セネカ『自然研究』におけるものとまったく異なるだろう。

セネカはアリストテレスと同様に、人間の魂が働き、植物が芽吹き生長することに生命を見出しているよう に思われるが、スピノザにおける生命は単に存在しているというだけで認められる。はたしてスピノザの見 解は、生気論であると看做されるだろうか。スピノザにおいて、生命の力は自らの存在を保持するためのも のに過ぎず、また一貫して、物体の運動は外部の物体によって引き起こされる(cf. PPC2P8S et E2Lem3)。

したがって、生命であることによって物体が何らかの作用を引き起こすわけではない。運動しているものが 運動し続けようとし、静止しているものが静止し続けようとするように、存在しているものは存在し続けよ うとするに過ぎない。これらのことは、スピノザの自然学が機械論的な見解に基づくことを示唆している。

スピノザの天体論と個体論から出発した場合、スピノザにおける物体的自然全体は、まさに延長属性の様 態について語られるものであって、個体の一体性も運動と静止に基づくものである。それらの論述において、

思惟属性の様態である精神が導入されることはない。こうして、スピノザの自然学は延長属性の様態につい

(8)

て語るかぎりにおいて、生命や精神なしに展開されることは明らかである。

結論

セネカとスピノザにおける自然全体は、詳細は異なるが、概して類似している。すなわち、天と地は連続 し、個体(連続体)は別のものと一体化し、何ら空虚が生じることなく自然全体が形成される。コイレはデ カルト『哲学原理』における世界を、相互にすっかり分離したものではなく、一体化したものであると看做 したが30、スピノザだけでなくセネカにおいても、同様のことが言えるのである。

スピノザとセネカのもっとも明確な違いは、一体化の原理が異なるという点にある。セネカは空気(の緊 張)を、スピノザは運動と静止の割合を一体化の原理とした。この差異によって、セネカとスピノザにおけ る物体的自然の一体性は、異なる内実を得る。まずセネカにおいては、生命現象をも空気によって語られる が、スピノザにおける物体論において(一般的な意味での)生命に関する記述は見られない。スピノザにと って、物体的自然を語るために精神や生命にかかわる現象について論じる必要はないのである。こうしてス ピノザの自然学は、物体的自然におけるあらゆる作用を、延長属性(より厳密にはその直接無限様態である 運動と静止)に基づき展開することになる。さらに、セネカは自然の一体化によって力が隅々まで伝達され ると考えるが、スピノザにおいては力の伝達(運動と静止)が自然を一体化させる。つまり力の伝達は、セ ネカにとって自然の一体化の結果なのだが、スピノザにとっては自然の一体化の原因である。こうしてスピ ノザにおける自然学は、運動と静止に基づく物理学へと向かい、自然の一体化についての体系的な考究とな る。

凡例

スピノザのテクストはゲプハルト版全集(G)を用い、略記号はStudia SpinozanaのCitation Conventionsに従う。

デカルトのテクストはアダン・タヌリ版全集(AT)を用いる。

セネカ『自然研究』のテクストは、L. ANNAEI SENECAE, NATVRALIVM QVAESTIONVM, ed. Alfred Gercke,Verlags, 1970(NQ)を用い、ローマ数字で巻数、アラビア数字で章及び節番号を記す。邦訳は『セネ カ哲学全集3自然論集I』(岩波書店)を参照し、適宜変更した。

1 アラスデア・マッキンタイア『美徳なき時代』みすず書房、1993年、279-280頁;ドロテア・フレーデ

「徳倫理学の衰退の歴史」(『ケンブリッジ・コンパニオン 徳倫理学』ダニエル・C・ラッセル編、立花幸 司監訳、春秋社、2015年)204-205頁参照

2 ミラーによれば、スピノザにおける実体の一元論は認識論・心理学・道徳思想にまで通底するが、ストア 派における一元論は哲学的な探求にそれほど寄与することはないという点に、両者の差異がある。(cf. Jon Miller, Spinoza and the Stoics, Cambridge University Press,2015, pp.30)

3 近藤智彦「自由意志と目的論の帰趨――ストア派とスピノザ――」(『スピノザーナ10』2010年)55-79頁 参照

4 『セネカ哲学全集4』岩波書店、2006年、438頁(『自然研究』解説)

5 本稿は物体的・物質的自然についての論考であるため、« unitas » は概ね「一体性」と訳し、別のコンテ クストの場合には、「一性」とする。

(9)

6 « Continuatio est partium inter se non intermissa coniunctio. Unitas est sine commissura continuatio, et duorum inter se coniunctorum corporum tactus. » (NQII,2,2)

7 « ad naturam nulla ope externa sed unitate sua cohaerentis »(NQII,2,4,)

8 「また「連続一体的なもの」とは、まさに連接的なものでもあるが、接触しているもの双方の境界が同じ 一つのものとなり、その名称が示しているとおりに連続一体化している場合に、それを私は連続一体的な ものと言う」(『アリストテレス全集 第四巻』岩波書店、2017年272-273頁)

「連続体と接続体(contiguum)の相違は、連続体の諸部分は一なるものを形成する(faciunt unum)

が、接続体の諸部分は一なるものを形成しない、ということである。」(Guillelmus de Ockham, Opera Philosophica et Theologica, Opera Theologica IX, Quodlibet I, q. 9, St. Bonaventure University, 1967- 1985, p.59)

9 « Qui caelum terramque conectit, qui ima ac summa sic separatm ut tamen iungat: separate, quia medius intervenit; iungit, quia utrique per hunc inter se consensus est: supra se dat, quicquid accepit a terries, rursus vim siderum in terrena transfundit. »(NQII4)

10 « esse autem unitatem in aere vel ex hoc intellegi potest, quod corpora nostra inter se cohaerent : quid enim est aliud, quod tenet illa, quam spiritus ? quid est aliud, quo animus noster agitatur ? quis est illi motus nisi intentio ? quae intentio nisi ex unitate ? quae unitas, nisi haec esset in aere ? quid autem aliud producit fruges et segetem imbecillam ac virentes erigit arbores ac distendit in ramos [aut in altum exigit] quam spiritus intentio et unitas ?. »(NQII6,6)

11 Cf. A. A. Long, Hellenistic Philosophy, 2nd edition, University of California Press, p.154

12 Cf. Jon Miller, Spinoza and the Stoics, Cambridge University Press,2015, p.31

13 « Materia est indefinitè extensa, materiaque coeli, et terrae una eademque est. »(PPC2P6, G. I, 191)

14 デカルト『哲学原理』第二部22節では、物質的世界が一つであることにまで言及されている。つまり、天 の世界と地の世界が別の世界であるという見解を退けている。このことは、物質の無限定な延長から直接 帰結するため、スピノザも認めるだろう。というのも、もし物質的世界が複数存在するのであれば、或る 世界は別の世界によって限界づけられることになり、物質の無限定な延長を否定することになってしまう からである。

15 ここで「無限定」(indefinitum)とは、「その限界(もしそれがあるならば)が人間の知性によって探求さ れえないもの」(PPC2Def4, G. I, 181)である。

16 レクリヴァンは、物質の一性と同性(l’unité et l’identité)を同質性(homogénéité)と言い換えている

(cf. André Lécrivain, "Spinoza et la physique cartésienne(1) La partie II des Principia", Cahiers Spinoza II, Réplique, 1978, p.131)

17 « Vacuum est extension sine substantia corporea. » (PPC2Def5, G. I, 181)

18 スピノザはオルデンブルグ宛の「書簡13」でも空虚の不可能性を主張し、この主張を仮説と看做すボイル を批判している(cf. Ep13, G. IV, 65)。

19 « Atomus est pars materiae sua natura indivisibilis. » (PPC2Def3, G. I, 181)

20 物体を連続体として捉え、何であれ物体であれば分割可能であるということは、アリストテレスにおいて 既に見られる考え方である。すなわち、『天界について』第一巻で、「連続的であるのは分割可能なものへ と常に分割されうるもののことであり、あらゆる方向で分割可能であるのが物体である」(『アリストテレ

ス全集5』岩波書店、16頁)とされる。

21 ガリレオ『新科学論議』で、連続体を無限に多くの不可分者(アトム)とその間にある無数の空虚から成

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るものとする。そして、物質が一体化している原因を真空嫌悪(horror vacui)であると考える。ガリレ オの連続についての理解は、明らかにアリストテレスやセネカとは異なる。ガリレオとアリストテレスや セネカ、ひいてはデカルトおよびスピノザとの差異は、ゼノンのパラドクスについての見解に基づく。無 限分割をめぐる見解の歴史的な変遷を明らかにすることで、デカルトやスピノザにおける連続体の理解は 確固たるものとなるだろう。この問題については、本稿では問題提起にとどめ割愛する。

22 « Cum corpora aliquot ejusdem, aut diversae magnitudinis a reliquis ita coërcentur, ut invicem incumbant, vel si eodem, aut diversis celeritatis gradibus moventur, ut motus suos invicem certa quadam ratione communicent, illa corpora invicem unita dicemus, et omnia simul unum corpus, sive Individuum componere, quod a reliquis per hanc corporum unionem distinguitur. »

(E2P13Ax2Def)

23 外的状況と内的関係が連関しており、結局のところ諸物体の合一化は一つの原理に基づくという解釈もあ りうるだろう。例えば、物体の運動伝達を確固たるものにするのが周囲からの圧力である、と考えること ができる(Cf. Épaminondas Vampoulis, “La conception de la Nature entière comme un seul individu dans la philosophie de Spinoza’’, Spinoza Nature, Naturalisme, Naturation, Textes réunis et édités par Charles Ramond, Press universitaires de Bordeaux, pp.33)。対してゲルーは、これらは別個の一体 化であって、外的状況による一体化によって個体は硬いものとなり、内的関係による一体化によって個体 は軟らかくなったり流動的になったりする、と解釈する(cf. Martial Gueroult, Spinoza II-L’âme, Aubier, 1997, p.166)。

24 Cf. Emilia Giancotti, “On the Problem of Inginite Modes”, God and Nature: Spinoza’s Metaphysics, ed.

Y. Yovel, E. J. Brill, p.97

25 Cf. Pascal Sévérac, Spinoza, Vrin, 2011, p.131

26 ストア派においては、宇宙が無数の空虚に取り囲まれていることが、宇宙の有限性の証である(『初期スト ア派断片集3』山口義久訳、京都大学学術出版会、2002年、16-22頁参照)。

27 この箇所に関する詳細な研究は、笠松和也「『形而上学的思想』における生命概念をめぐって」(『スピノザ ーナ16』2018年)193-211頁を参照。

28 « in materia nihil praeter mechanicas texturas » (CMII6,G. I, 259)

29 « vim, per quam res in suo esse perseverant » (CMII6,G. I, 260)

30 Cf. Alexander Koyré, From the Closed World to the Infinite Universe, Johns Hopkins Press.1957p.105

キーワード:連続体、空虚(真空)、空気、運動と静止

参照

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