Kyushu University Institutional Repository
Changes of the Agriculture in Loir-et-Cher during the 19th Century
湯村, 武人
https://doi.org/10.15017/4474768
出版情報:經濟學研究. 43 (2), pp.1-22, 1977-08-10. Society of Political Economy, Kyushu University
バージョン:
権利関係:
経 済 学 研 究
第 4 3 巻 第 2 号
June 1977 Vol 43 No.2
1 9 世 紀 フ ラ ン ス に お け る ロ ワ ー ル ・
エ ・ シ ェ ル 県 農 村 の 動 向
湯 村 武
人
目 次
まえがき
第1章 ロワール・エ・シェル県の自然的構成 第2章 18世紀末のボースとソローニュ
第3章 19世紀におけるロワール・エ・シェル県農 業の発達
第4章経営様式別農家構成および土地所有構成の 変化に関するG・デュフ゜ーの見解 第5章 デュプーの見解についての補足的検討
まえがき
フランス第一の長流ロワール河 (laLoire) は,源を中部山岳地帯のセヴェンヌ山脈に発し てまず北流し,ついでロワール県内で大きく屈 曲して西流し,やがて大西洋に注ぐ。他方,こ の ロ ワ ー ル 河 に 流 れ こ み そ の 支 流 の
1
つ と な る, ロワール (leLoir)と い う 川 が あ る 。 こ の川は,ウール・エ・ロワール県に発して西流 し た あ と , ま ず サ ル ト 川 (laSarthe)に 合 流 し, さらにマイエンヌ川 (laMayenne)と な って南流し,結局は前記のロワール河に流れ込む。逆に,まず中部山岳地帯の西縁に発して北 流し,ついで西流して同じくロワール河に南か ら流れ込む川に, シェル (leCher)と い う 川 がある。ロワール・エ・シェル県は,それぞれ 東から西に向って流れるこの3つの河川,すな わち,北にロワール川を,南にシェル川を,そ して中央にロワール河中流をもつフランス中西 部の県であると規定できよう。
ジョルジュ・デュフ゜ー著『ロワール・エ・シ ェ ル 県 の 社 会 的 ・ 政 治 的 歴 史 の 諸 様 相1848‑
1914
」
(GEORGESDUPEUX. Aspects de l'histoire sociale et politique du Loir‑et‑C‑ her. 1848‑1914, Paris,1962)は, 19世 紀 中 葉 から2 0
世紀初葉にいたるこの県を対象とした政 治社会学的業績である。この研究の目的とするも の は こ の よ う に 政 治 社 会 学 的 な も の で あ る が, 630頁にも及ぶこの浩禰な著作は, その大 半の努力を,そうした政治的・社会的な構造を 規定する基礎的な要件としての,農村社会の構 造とその変化の分析にあてており,後者自体が
‑ 1 ‑
独立に,フランス農村史の研究に従事するわれ われの興味を惹くのに充分である。
さらに,この県をその一部として含む広くロ ワール河中流域については,その18世紀末の状 態に関して,ジョルジュ・ルフェーヴルの『オ ルレアネ研究
l J (GEORGES LEFEBVRE, E ‑
tudes Orleanaises)が あ る 。 こ れ は , 大 革 命 社会経済史委員会による「記録及び史料」の第 15集1)をなすものであり,その第一冊「18世紀 末における社会構造の研究への寄与」 (Cont‑
ribution
a
l'etude des structures social esa
la fin du XVIII0 siecle, Paris,1962)は, 18 世紀末のこの地方をその一部として含むオルレ アネ州に関する知識を与えてくれる。
以下,上記の2つの研究書を主たる典拠に,
他にいくつかの著作や統計を参照しながら, 18 世紀末から
2 0
世紀初めにかけてのロワール・エ・シエル県の農村の動向を,特にその特徴的な
2
大地方であるボースとソローニュとに焦点を あてながら,検討することにする。第 1
章 ロワール・エ・シェル県の自然的 構 成ロワール・エ・シェル県は,その大部分の地 域が,パリ盆地の南部にみられるものと共通の 特 徴 , す な わ ち , 穏 や か な 起 伏 , 静 か な 水 平 線,平坦か僅かにうねりをみせる広々とした地 面を特徴としている。その最も低い地点,すな わち,西隣りのアンドル・エ・ロワール県との 境界点をなすロワール河谷で海抜56メートルで あり,大部分の地域は
1 5 0
メートルの等高線内1 } Commission d'histoire economique et soci‑ ale de la Revolution, Memoires et Docume‑
nts, XV.
におさまる。最高は県の西北部に位置するコル モン小丘であって
2 5 0
メートル。県の中央部を ロワール河が東から西に向けてゆるやかに横切 っている。けれども,起伏の単調さにも拘わらず,地方 によって景観は大いに異っている。まず,サル ト県およびウール・エ・ロワール県と境を接す るロワール川右岸の地方が,ペルシュ (lePe‑
rche)地方である。この県のうち,この地方だ けが比較的に起伏に富んだ唯一の地方である。
小さな森,林や生垣にところどころを断ち切ら れた緑の丘,小川のほとりの湿潤な川谷,フラ ンスの西部地方にしばしば見られるいわゆるボ カージュの景観 (unpays de bocage)がみら れる。
し か し , ロ ワ ー ル 川 を 渡 る と 様 相 は 一 変 す る。樹木の全くない広大な平原が展開し,その 真中を真直な道路が走っている。ところどころ に村落が出現し,家々は塊まり合っている。ボ ース台地 (leplatea~ de Beauce)である。そ して,このボース台地がやがてロワール河谷上 に雪庇状をなして終ると,そのロワール河を東 に渡ったところから,ゆるやかな傾斜をなして ソローニュ地方 (laSologne)が展開する。池 や沼が多くなり,雨が降れば多くの場所で水は 地表に停滞し,池や沼に吸いこまれたり,コソ ン川 (leCosson),ブーヴロン川 (leBeuvr‑
on),ソールドル川 (laSauldre)などの諸川 に流れ出たりする。ヒースの生えた荒蕪地と林 とが交替し,貧弱な畑や牧草地が林の空き地に 姿をみせる。
そして,このような景観の違いは土壌の性質 によるところが大きい。この県の底土は全域に わたって水成岩であり,その最も古いものは白 亜質組織に属する。そのために,ロワール川,
第1図 県 の 自 然 的 構 成
し
四 白 亜 質 お よ び 珪 石 を 含 む 粘 土 疇ボースの石灰岩と諸台地の;中積土 陸、ノローニュの砂と粘土 /
● 貝 灰 泥
シェル川,およびブロワ (Blois)から下流のロ ワール河の諸河谷では,その腹面に白亜が姿を みせ,しばしば石切り場として経営されてい る。しかし,例えばペルシュ地方では,そうし た白亜層の上を厚さ10メートルから12メートル に及ぶ粘土層が掩っている。 この粘土層は石 灰分を殆んど全く欠いでおり,しかも容易には 水を透さない。それはいわゆる<弾い土地>
(des terres fortes)を形成し, あまりに湿潤 であるために,牧草地や果樹(リンゴ)の栽培 には適するが耕作には不向きである。耕作のた めには泥灰石の施用を必要する。また,粘土中 に珪石の含有が多い場合には,もはや森林にす るほかはない。
ボース台地の地表は,
0 . 5
ないし2
メートルの,褐色の,滲透性に富んだ沖積土からなって いる。この県の最もすぐれた農業地帯である。
しかし,この地方の土壌は.これはまた余りに も滲透性に富んでいるために,水路網の形成を 全く許さない。ただし,ボースでも南の部分,
一般に小ボースないしボースの尻尾 (Queue de Beauce)と呼ばれている地方になると,時 としてそうした沖積土が姿を消し,粘土が多く なる。
ロワール河とシェル川との間の地域,すなわ ち,ソローニュ地方になると,土壌は砂と粘土 とに取って替わられる。粘土の層が厚い地域で は不滲透性が絶対であり,逆に砂の地域では乾 燥が甚しい。しかも,この地方の土壌には石灰 分と燐酸分とが乏しいので,ソバやライ麦など
のいわゆる貧困作物 (descereales pauvres) の栽培や,射倖耕作 (laculture aleatoire)し か許されない。
ロワール・エ・シェル県を形成する諸地域と しては,上記のペルシュ,ボース,ソローニュ という 3大地方のほかに,諸河川の河谷諸地域 の存在を忘れてはならない。それらの河谷地域
. . .
は早くからぶどう栽培地方として知られ,上記 の3地方とは甚だしく性格の違う特異な農業地 帯として知られている。しかし,以下において は,そうした4つの地方のうちから特にボース およびソローニュの2地方を選び,出来るだけ この 2つの地方に焦点を絞りながらその農業進 化を明らかにすることに努めたい。この 2地 方 こそがこの県の農業の進化の特徴を最も鮮明 に提示すると見倣しうるからである。ロミュー 夫人の『19世紀フランスの農民と農業』 1)も言 ぅ, 「ロワール・エ・シェル県は,はっきりと 区別された 2つの部分に分れる。豊かで肥沃な 地方であるボースと,貧しく不毛の地方である ソローニュである。•……••ソローニュは,最近 数年間に営まれた諸事業にも拘わらず,依然と してまだ,家畜の放牧に利用されている多大の 未墾地とヒース地とをもっているが,ボースは そうした土地を殆んどもっていない。」
第
2
章1 8
世紀のボースとソローニュジョルジュ・ルフェーヴルはその『オルレア ネ研究』の第
1
巻 第1
章をボース地方の検討に あてているが,その冒頭で次のように述べてい る。1) MADAME ROMIEU, Des paysans et de
!'agriculture en France au XIX0 siらcle,1865, P.647.
「その(地盤をなしている)石灰岩層を掩う 泥土質のマントの乾燥のゆえに,ボースは,そ の経済が小麦の栽培と羊の飼育とに基礎をおく
<シャンパーニュ型>農村1)の 古 典 的 地 方 で ある。ヒ゜ティヴィエ区 (ledistrict de Pithiv‑・ iers)で, 1793年の収穫調査書は,耕地の
5 6
は 小麦にあてられ,残りがメテーユ麦とライ麦に あてられていたことを示している。春蒔耕圃で は,燕麦が小麦の後を,大麦がそれ以外の穀類 の後を引き継ぐ。これは肥沃な地方であった。3
回の耕転のあとでアルバン当り9
ボワソーの 種子が蒔かれ, ヌーヴィル区 (ledistrict de Neuville)では,それから最低でも 3倍強から 最高は7倍の収穫が得られた。平均生産高はヘクタール当り14ヘクトリットル砂だった。
ボースの弱点は,この地方が殆んど全く牧草 地を欠いでいることだった。ただ最も肥沃度の 劣るコミューンだけが,隣接の森や,それらの 森に至る手前に在る小さな林から,いくらかの 資源を得ていた。牝牛や豚は畑の切株の間に,
羊は休閑地に送り込まれた。けれども,この乾 燥した地方では殆んど草が生えない。したがっ て,一年のうち%の期間,家畜は小屋の中で,
藁や,キャベッ,ぶどう,ないしは木の葉,そ れらの木の葉を微温湯で軟らかくしたもの,春 の道路脇で刈取った草,で飼われた。充分な家 畜を飼えないので,農夫たちは堆肥の不足を嘆 いた。」 2)
大革命に至るまで,休閑を伴った三圃制輪作 が依然として強制的であり,囲鏡は禁じられて いた。憲法制定議会の農業法が耕作の自由を認 めた時にも,耕作者たちは,意のままにその自由 を行使することはできなかった。耕地の集団化
1)開放耕地制・村落居住型の農村を意味する。
2)ルフェーヴル,前出書, p.17‑18.
を欠いでいたので囲い込みは不可能だったし,
刈跡地共同放牧権が存続していたので家畜に収 穫物を喰い荒らされるのを見ないでは,休閑地 に蒔き付けることはできなかった。小作契約も また,伝統的輪作方式を強制し続けている。た だ,旧制度の末期になると,休閑の実施は,さ すがに,もはやすべての人々に同じような厳格
さで守られてはいなかったようである。
貴族所有地が,若干の教区では面積の%近く を占めていたし,おそらくは全地域の半分を占 めていた。僧族所有地の占める割合は低く,ぉ そらくは全体の5%に達しなかった。ブルジョ ワもまた
1 0
%以下であったが,但しこれは,次 第に増える傾向にあったようである。農民の所 有地は%近くであった。いずれにしても,貴族 こそは「真にボースの主人」であったと見倣さ れねばならない。農民所有地は,その割合が教区毎に大きく 異なり,且つ極端に細分化されていた。ただ
し,その農民層自体の内部にどの程度の階層分 化が進んでいたのか,その詳細はわからない。
ルフェーヴルは,このボース地方を,北部フラ ンスのカンブレジ地方に似た地方,すなわち,
「農民家族のうち独立して生活するのに充分な 土地を所有しているものは
5
ないし6
%にすぎ ないが,他方で,全く所有地のないものは1 0
%を超えなかったと思われる」地方と同じか,
あるいはそうした比率がカンブレジよりやや下 廻る,つまり,独立可能な人々の割合がより低い 地方であっただろうと推測している。そして,
彼はまた,この地方はカンブレジ地方と同じよ うに「大農場の地方」 (lepays de grandes fermes)であったことは確かである,とも述べ ている。
ルフェーヴルはまた,ボースは「大耕作の地
方」 (lepays de grande culture)であった,
という規定もしている。上記ヒ゜ティヴィエ郡の 郡長が
1 8 0 8
年に遺している記録によると,総面 積1 , 0 0 0
アルパンの或るコミューンにおいて,%ないしは少くとも砂の土地が多くの梨をもつ 農場によって占められており,
1
梨 は 通 常1 0 0
アルパン,すなわち約50ヘクタールにあたり,
その耕作には馬3頭を要した。また, 60戸から なる村落であったウエトル (H遥tre)で, 3 梨
( 1 5 3
ヘクタール)の農場1, 2
梨( 1 0 2
ヘクタール)の農場
7'
及 び1
梨の農場7
が数えら れた。スージィ・アン・ボース村 (Sougy‑en‑Beauce)は,
2
ないし3
梨 の 農 場7
と,1
却 の農場1
をもっていた。大農場の数がもっと沢 山ある村もある。また,アランヴィル (Allai‑ nville)所在のパリ高等法院議員ロラン氏所有 の農場は,3 9 4
アルパン( 2 0 1
ヘクタール),す なわち4梨の大きさだった。ただし,このよう な大農場として貸付けられているもの以外の貴 族所有地は, 「小面積の小作地 (locatures ou manoeuvries)に分割されていたし, その理由 は,疑いもなく,人手を少なくする為めであっ た。」 3)そして,このような零細小作地の借受けを願 う人々の数は多かった。前記ウエルト村の陳情 書は,それらの小作地が「大農場よりも高い小 作料で貸付けられ,額に汗して自分と家族と のパンを稼ぐために日々困難かつ休みない労働 によって辛うじて収入を得る被庸者階級の人々 (des mercenaires)によって借受けられてい た」 4)と述べている。そしてこの場合は, 「総 小作人」 (fermiergeneral)と 呼 ば れ た 中 間 者が介在することもあった。彼ら総小作人は,
3)]レフェーヴル,前出書, p.23. 4)ルフェーヴ]レ,前出書, p.23.
土地所有者からその貸付地を一括して借受け,
それを小別けして出来るだけ高い値段でそれを 又貸することになる。
ボースはまた「農場統合の地方」 (le pays de reunions)でもあった,と)レフェーヴルは 指摘している。その統合の仕方は,少くとも17 世紀においては,交換ないし購入によって「隣
り合った地片の所有を確保し,それを単一の畑 にまとめる」という形式をとったが,
1 8
世紀に なると,農場それ自体の統合を企てるように変 り, 2つないしそれ以上の農場が唯一つの農場 に統合された。しかし)レフェーヴルは,こうし た統合について,その事情を説明して次のよう に述べている。「土地所有者たちは,重農学派の人々の教え やイギリスの事例に応じたわけではなかった。
統合は彼らの世襲財産の管理を容易にしたし,
経営用の建物の取壊しによって修理費用を減じ たのである。」 5)
「いずれにしても,それらの農場はイギリス 農場に比較しうるものではなかった。ウール・
エ・ロワール県は共和暦第2年ジェルミナール 14日に述べている,<多くの耕作者 (cultivat‑ eurs)が大量の雇傭労働者を抱えているが,彼
らはこのように大量の雇い人を抱えながらも,
休 閑 地 を 耕 作 す る の に 当 然 に 必 要 と な る だ け の分量の,眠肥を入手するのに必要な家畜を 持つことが出来ない。したがって,これらの厖 大な量の雇傭者の数を減らし,精々200アルパ ンの土地しか経営しないように,それぞれの耕 作者当りの経営地面積を引下げねばならない。
このようなやり方によって耕作者の数を増やす ことが出来るだろうし,土地は今まで以上に良
5)ルフェーヴル,前出書p.23.
<耕やされることになるだろう)>,と。」 6)
「大農場」, 「大耕作」, 「農場統合」とは 云っても,その経営的安定度は,わたしが他の 機会に北部フランスのノール県について検証し たりょうに,きわめて脆弱なものであったと見 倣すことが出来ょう。
最後に,}レフェーヴルのボース地方について の概括を掲げておく。
「ボースは,ピカルディ平原やカンブレジ地 方を想起させる。これらの地方と同じように,
ここボースでも,一掴りの領主的ないし農村的 な専制君主たちが,少数の中流階級と,職人や 日雇農からなる旭大な量のプロレタリア階級と に対面していたし,それらの地方におけると同 様にここボースでも,人々は緊密に結集された 村落に集中していたし,それらの村落では,エ 業によって既に都市的空気を与えられてしま ぃ,協同的行動は既に独りでに消え去っていた ように思われる。農民革命がなぜボースではヒ°
カルディにおけるのと同じだけのエネルギーを 持たなかったか,という理由を知ることは
1
つ の問題である。おそらくは,ボースは,農民が あまりにもひどく土地を失っていたし,ビカル ディに較べると力の劣る工業によって不充分に しか助けられていなかったので,あまりにも貧 乏にすぎ,敢えて自分自身の立場を掴むことが 出来なかったのであろう。」 8)X
x x
Xこんどはソローニュ地方について見ておく。
ソローニュ地方に踏み入ると,人々は全く囲 続耕地地方に身をおくことになる。耕地は,こ
こでは,未墾地と荒野とからなる無人の野の只
6)ルフェーヴル,前出書, p.24. 7)本 誌 第42巻合併号所載の論文.
8)ルフェーヴJレ,前出書, p.27.
中に散在する。アーサー・ヤングもこの地方の 大部分は囲い込まれていると証言している。そ れ ぞ れ の 農 場 (lametairie)に は 大 量 の 未 墾 地が付属しており,放牧地として利用されてい た。革命期の陳情書は,耕地
4 0
ないし5 0
アルパ ンに対して未墾地ないしヒース地が8 0 0
ないし1 , 0 0 0
アルパンにも上っていたと語っている。しかし,ソローニュは,
1 4
ないし1 5
世紀頃に は , そ れ で も , か な り に 繁 栄 し 且 つ 相 当 に 人 口 も 多 い 小 耕 作 の 地 方 で あ っ た と 言 わ れ て い る。 9)ただし,おそらくは当時から既に,貴族 所有地がこの地方の多くを占めていたし,彼ら 貴族たちは,その後ますます,農民経営の追放 によってその所領を拡げていった。その理由と して,もともとこの地方では,耕地の比率が未 墾地や池沼のそれに比較してきわめて小さく,むしろ狩猟地としてタイユ税を免かれるほうが 有利であったから,と言われている。休閑と交 替に辛うじて栽培されるライ麦やソバの収量も 低かった。各種の文書は,一致して,農民の経 営は家畜の飼育にしか期待しえないと証言して いる。而も,この家畜にしても,飼料不足のた めに馬や牛ではなくて羊であり,この羊飼育自 体もさらに,農民自身の所有としてではなく,
折半貸付という形式をとって行なわれていた。
こうしたソローニュ地方の貧しさは,次のよ うなサン・フロラン (Sant‑Florent)の 陳 情 書 に余すところなく読み取ることが出来よう。
「年雇労働者たちの,いや農夫さえもの子供 たちは,こうした重荷に圧し潰されてしまうこ
とを危惧して,稀にしか結婚しなかったので,
その結果として,それらの貧しい人々の間では
9)古い時代のソローニュについては, ISABEL‑
LE GUERIN, La vie rurale en Sologne aux XIV0 et
x v e
siらcles,1960などを参照のこと。子供の誕生が少なかったし,そのうえに,彼ら の一部分は都市に向って村を去った。そのため に,もしも租税負担が半分以上軽かったベェリ 州がソローニュにむけて年雇労働者を供給して
くれなかったとしたら,この貧しい地方の人口 は,現在そうであるよりもなおもっともっと甚 しく減っていただろう。」 10)
第3章 19世紀におけるロワール・エ・シ ェル県農業の発達
A, 19世紀中葉における概観
まず,
1 8 5 2
年の「農業調査」 Cl'Enquete agicole)の示すところに従って,1 9
世 紀 中 葉 におけるこの県の農業状態を概観することから 始めよう。県全体としてみると,耕地が面積の6 1 . 5
%を占め,それがさらに穀物畑( 3 9 .3%),
栽培牧草地(6%)
,休閑地(14%)
,及びそ の 他 の 作 物 地 に 配 分 さ れ て い る 。 ほ か に 森 林(13.5%)
,荒蕪地・放牧地・池沼(13.2%) . . .
自然牧草地
(4.4%)
, そして最後にぶどう園(4%)
という構成であった。但し,こうした構 成比は,むろん地方毎に大幅に異なる。以下,われわれの当面の研究対象であるボース地方か らウズーエ・ル・マルシェ (Ouzouer‑le‑Marc‑
he)
・カントンを, ソ ロ ー ニ ュ 地 方 か ら サ ル ブリ (Salbris)・カントンを選んでその構成比 を示すと,次の如くである。まず,ウズーエ・ル・マルシェ・カントンに ついてみれば,その
5 8
%の土地が穀物の栽培に あてられており,ほかに休閑地10%
,森林7%
が主なものである。荒蕪地は僅かしかない。森 林の
7
%は,このカントンを横切ってマルシュ10))レフェーヴ)レ,前出書, p.47.
‑ 7 ‑
ノワール (Marchenoir)の森があるためで,
殆 ん ど す べ て の 土 地 が 耕 地 か ら な る と 言 え よ う。 「要するに,領域の僅かに十分の一が梨を
. . .
免れているにす苔ない。牧草地もぶどう園もな ぃ。この沖積土々壌の上では,農夫が王様であ る」, とデュフ゜ーは概括している。
他方のサルブリ・カントンは,それとは全く 対照的な構成であった。耕地の%は45.5に狭ば まるうえに,休閑地の占める割合が大きいので 穀物の栽培にあてられるのは20%以下になる。
而も,自然牧草地の占める割合も小さく,その 質も悪い。逆に,池沼や荒蕪地の占める割合が 大き<,40%にものぼる。 「ソローニュ地方 は,広大ではあるが,その有用面積は全領域の 三分の一以下でしかない。」
作 物 構 成 の 点 で も 両 地 方 の 対 比 は 明 瞭 で あ る。ボース地方が殆んど専ら冬作物としての小 麦と春作物としての燕麦の組合せであったのに 対して,ソローニュ地方ではライ麦とソバの組 合せである。その生産性の点でも両者の対比は 顕著であった。サルブリ・カントンの
1
ヘクタ ールの穀物畑は91.80フランの粗収入しかもた らさないが,ウズーエ・ル・マルシェ・カント ンのそれは268.90フランである。次に牧畜についてみると,もともと牧草地に 恵まれないボース地方も,冬は水浸しになり夏 は乾燥する牧草地しかもたないソローニュ地方 も,その何れもが,より適合した牧畜地方と言 えるペルシュ地方に較べると,共に明らかに見 劣りがする。しかし,ボース地方では栽培牧草 地がいくらかは増え始めていたようである。そ の家畜は舎飼いされ,その構成は,牛と,とり わけ羊であった。その平方キロ当りの密度は,
「大経営の地帯であるウズーエ・ル・マルシェ,
マルシュノワール,及びスロンヌ (Selomnes)
の諸カントン」 1)で特に高い。
これに反してソローニュ地方は,なるほど羊 の飼育頭数ではこの県第2の地位を占めるが,
そこで飼育されているソローニュ種と呼ばれる 羊は,この地方の痩せた土壌に適応する能力は あるが,その羊毛生産高は半分でしかない。要 するに, 「最も良く耕やされ最も生産的である 地方が,同時に,最も良く家畜を,しかも価値 の高い家畜を持つ地方であった。」 2)
次に人口についてみれば, 1851年におけるこ の県の総人口は 261,892人,その平方キロ当り の密度は40.8人であった。 フランスの県のう ち,この県より総人口の少ないのは8県だけ,
人口密度がこの県より低いのは 5県 だ け で あ る。
このような結果をもたらしている最大の原因 は,いうまでもなく,平方キロ当り20人以下と いう低い人口密度をもち,しかも領域としては 大きいソローニュ地方の存在にある。この県で も河谷諸地域は60,...,100という高い人口密度を もっており,ことボースや河谷諸地域に関する 限り,この県が特に人口稀薄であるわけではな
し ヽ 。
B,
1 9
世紀中葉期の農業構造a.土地所有の構造。一ーこの当時の土地所 有の状態について知るための資料は土地台帳以 外にないが,これは決して,ある特定の年次に 県内のすべてのコミューンで一斉に作成された ものではない。 3)したがって,その利用には慎
1)デュフ゜ー,前出書, p.82. 2)デュフ゜ー,前出書, p.82.
3)この県における土地台帳の作成過程をみると,
最初の諸コミューンが土地台帳の作成に取りかか るのは1822年であり,以後3年間におよそ三分の ーのコミューンがその作成を終えた。しかし,そ の後の作成事業の進行速度はにぶり, 1830年にな っても,およそ半分のコミューンが作成を終った
重 で あ ら ね ば な ら な い が , 今 は 差 し 当 り , デ ュ プ ー の 作 成 に か か る 右 の 表 を 掲 げ て お く 。 た だ し , こ の 表 の 参 照 に あ た っ て は , も と も と コ ミ ュ ー ン 毎 に 作 成 さ れ る 土 地 台 帳 を 資 料 と す る 以 上 は 当 然 に , 実 際 に 較 べ て , 小 土 地 所 有 は 過 大 に , 大 土 地 所 有 は 過 小 に 評 価 さ れ る こ と に 留 意 すべきである。
第1表 土地台帳に拠る土地所有の構成 所有地の規模
I
コット数! 総面積 1総門貴の 5ヘクタール未満 81,754 75,798 12.5 5 9ヘクタール 5,957 41,235 6.8 10 19ヘクタール 3,316 46,216 7.6 20 29ヘクタール 1,201 29,294 4.8 30 39ヘクタール 709 24,532 4.140~49 ヘクタール 499 22,224 3.7 50 99ヘクタール 1,098 76,266 12.6 100ヘクタール以上 1,053 289,612 47.9 計 ¥ 95,587¥ 605,1771 100.0 こ の よ う な 土 地 所 有 の 構 成 は , 当 然 に も 地 方
毎 に 異 な っ て い る 。 し か し , わ れ わ れ の 当 面 の 対 象 で あ る ボ ー ス と ソ ロ ー ニ ュ の 両 地 方 に 関 し て は , そ の 何 れ も が 大 土 地 所 有 の 支 配 的 な 地 方 で あ っ た こ と は , 第2図 に 明 ら か で あ る 。 デ ュ
プーは述べている, 「ソローニュ地方はすぐれ て 大 土 地 所 有 , お よ び 巨 大 土 地 所 有 さ え も の 地
1 1 1 1
小土地所有 屁 回 中 土 地 所 有 ヒ コ 大 土 地 所 有第2図 19世紀前半期における土地所有の分布
デュプー,前出書, 100ページ。
にすぎない。全体の作業が終るには,さらに9年 方てである。
2 0 0
ないし5 0 0
ヘ ク タ ー ル の コ ッ ト が を要した。したがって,全県にわたって土地台帳が揃うまでには,ほぼ20年を要しているわけであ 一般的な標準であり,
1 , 0 0 0
ヘ ク タ ー ル 以 上 の る。また,土地台帳の作成方式にコミューン毎に ものに出会う•ことも稀ではない。オルレアン伯 若千の差異があるという。詳細については,デュプー,前出書, p.98.参照のこと。 爵はサルブリ・カントンのテーレィ (Theillay)
で,
2 , 1 3 7
ヘクタールを所有していたし,デュ ルフォール・ド・ロルジュ候爵は, ヌーング・カントンのラ・フェルテ・サン・シール (la
F e r t e ‑ S a i n t ‑ C y r )
に2 , 8 7 6
ヘクタールを所有していた。..…•大土地所有の最も好む・地域は,し たがって,県内で最も貧しい地方であるソロー ニュである。けれども,ボースもまたそうであ る。マルシュノワール及びウズーエ・ル・マル シェの両カントンでは,土地の大部分は大地主 の所有に属し,時として数百ヘクタールの大所 有地が拡がっている。もっと南に下り,スロン ヌ,メール
(Mer)
,およびエルボー(Herb‑
a u l t )
の諸カントンになると,5 0 , . . . . ̲ ̲ ,1 0 0
ヘクタ ールの所有地が支配的になる。けれども,ロワ ール河に近ずくにつれて次第に中土地所有が重―要性を増す。」 4)
b. 経営の様式。一•ー農業人口の経営様式カ テゴリ毎の構成は,
1 8 5 1
年の人口調査の「職業 別表」C e t a t s p a r p r o f e s s i o n )
に よ っ て 初 めて提供される。この表の教える農業関係の男子 有業人口数
( l ap o p u l a t i o n a c t i v e m a s c u l i n e )
は以下の如くである。ィ.くその所有地からの収入で暮している>
地代生活者
3 , 7 2 2
ロ.自らその所有地を経営する土地所有者1 3 , 2 2 5
ハ.所有地をもつ,小作農,分益農,ないしは日雇農
8 , 7 1 5
二.職業的小作農( f e r m i e r sde p r o f e s s i o n )
4 , 7 2 8
ホ.職業的分益農( m e t a y e r sde p r o f e s s i o n )
4 7 6
へ.日雇農,木樵,農業年雇3 4 , 3 9 5
上表の口,ハ,二,ホを合計すれば2 7 , 1 4 4
という人数が得られるが,デュプーは,一部の 日雇農を加算して,2 7 , 7 2 5
という数を示していー
。5)また,
1 8 5 2
年の「農業調査」によれば,この数は
2 7 , 6 5 5
になっている。しかし,この 第 3図1 8 5 1
年における農業経営様式の分布ーー職業別人口調査によるE
コ小作地帯自作農数が所有地をもつ日雇 臨}農数を上廻る地帯
回所有地をもつ日雇農数が自作 農数を上廻る地帯
4)デ五プー,前出書, p.100101.
デュプー, p.112.
5)デュプー,前出書, p.111.
「農業調査」には一部のカントン分が欠落して いるという理由から,結局デュフ゜ーは,この時 期の農業経営者総数を29,000‑‑‑....30,000人を見積 っている。
すべてのカテゴリの経営様式のうち,最も多 いのは自らその所有地を経営する土地所有者 であり, その人数は, 「職業別表」によれば 13,225人である。次が小作農の7,262人。分益 農は経営者総数の僅かに3.7%にしかあたらな い1,020人であり,しかもその重要な地方的分 布は,ソローニュ地方とペルシュ地方とに限ら れている。われわれはなお,第3図によって,
ソローニュ地方が,いくつかのコミューンにお いて上記のように分益農の存在が認められると はいえ,基本的には殆んど全く小作農による経 営が支配的な地帯であることを知る。これに反 してボース地方は, 図の教える通りに, 自作
農,小作農,及び自作兼日雇農といぅ 3つの経 営様式が併存する,複雑な構成を示す地方であ
る。
C,世紀半ば以降の諸発達
以下,世紀半ば以降における各種の発達を概 観するが,こうした事情の論証は資料も比較的 に豊富であり,且つ,フランス全体について多 くの人々によって論証済みのものと大同小異で あるので,主としてデュフ゜ーの著書に拠って,
その大要を粗描するに止める。
a.
土地利用度の向上。ィ.荒蕪地の後退。一ー「10年毎農業調査」
(l'Enquete agricole decennale)や「年次農 業統計」 (la Statistique agricole annuelle) を利用してデュフ゜ーの作成した表が,次の第 2 表である。
第2表 種 目 別 土 地 構 成 の 推 移
左 の % 年 次 可耕地(a) 林地及(bび)森林 荒蕪地(c) 非耕地(d) a
I
bI
CI
d1851 452,546 68,951 91,725 21,870 71. 5 11. 0 14.5 3.0 1852 452,110 87,544 76,591 20,937 71. 5 13.8 12.0 2.7 1862 451,144 107,904 59,988 16,056 71. 0 17.0 9.5 2.5 1882 456,343 130,053 24,893 23,813 72.0 20.5 4.0 3.5 1892 455,990 136,791 17,453 24,858 72.0 21. 5 2. 7 3.8 1908 457,366 137,765 13,710 28,014 71. 8 21.6 2.1 4.5 1913 455,063 143,684 12,540 24,353 71.3 22.5 1. 9 4,7
デュフ゜―,p.201.
まず, 「可耕地」がきわめて安定的であるの ニュ地方においてであった。 もともと「荒蕪 が目につく。次は「林地及び森林」の漸次的増 地」の存在するのは主としてソローニュ地方に 加と「荒蕪地」の著しい後退。但し,この「林 おいてであり,このソローニュ地方において,
地及び森林」と「荒蕪地」との交替には著しい 第二帝政期に「荒蕪地」の「林地及び森林」へ 地域性がある。ボース地方と河谷諸地域とには の転換が大規模に進行したのである。ボース地 その変化が殆んどなく,増加がみられるのは一 方や河谷地方では,すでに19世紀の初期に土地 部分はペルシュ地方,とりわけ顕著にはソロー 利用は可能なぎりぎりの限界まで押し進められ
‑ 11 ‑
ており,それ以後における大きな変化の余地が なかった。
ロ. 「可耕地」における休閑地の後退。
前項でみたように可耕地の面積それ自体には 大きな変化がない。然し,このことは停滞を意 味しない。休閑地の後退による土地利用度の向 上が著しい。依拠しうる最初の統計である1840 年の「農業調査」によれば,休閑地の面積は 93,373ヘクタール,すなわち可耕地面積のほぼ 四分のーを占めていた。 この数字は1852年も 90,000ヘクタールと依然大きいが, 1862年には 85,874ヘクタール, 1882年には76,152ヘクター ル, 1892年には67,776ヘクタールと規則的に大 幅に減少する
ハ.栽培牧草地の発達。
栽培牧草地のこの県への最初の導入は既に 18世紀末であったとされているが, 1840年にお けるその面積はまだ16,000ヘクタールでしかな く,決定的な発達が行なわれるのはその後の10 年間においてである。 1852年には38,931ヘクタ ールにふえる。この増加は主としてボース地方
(マルシュノワール及びウズーエ・ル・マルシ ェの両ヵントンだけでi0,000ヘクタール)と,
一部分はペルシュ地方においてであり,ソロー ニュ地方では全く認められない。 1862年までに さらに3,000ヘクタールがふえるが,以後は増 加の速度がにぶり, 1873年に37,765ヘクター ル, 1882年には逆に36,316ヘクタールに後退す る。 1892年以降再び増加し始め, 1913年にはほ け:50,000ヘクタールになる。
b.農具の発達。
肥料などについては正確な資料が欠けているの で,最も把握し易い梨その他の農具について,
その発達のあとを辿っておく。
1852年の「農業調査」は,当時の県内に15,0
00台をやや上廻る梨が存在したことを教えてい る。殆んどが二輪梨 (14,660)であり,残りが ソローニュ地方で利用される一輪式のものと,
...
ぶどう栽培用の無輪梨であった。他に,多少と も近代的な攪土器, 除草器, その他の用具で 162台である。畜力脱穀機が若干,ブロワ郡に
9
台,ソローニュ地方に5
台,サヴィニィ・カ ントンに2台あったが,蒸気を動力とするもの はない。1852年から1862年の間に顕著な発達がある。
梨の台数は22,000にふえ,増加分は殆んどすべ て改良型である。 また新しい機械類が姿をみ せ,播種機94台,草刈機若干。脱穀機の使用が 普及し,その台数は10年間に300台にふえた。
蒸気脱穀機も初めて 6台が記録されている。
1862年から 1873年にかけては大きな発達はな く,脱穀機が455台になり,そのうち52台が蒸 気を動力とするものであった。この蒸気脱穀機 を所有するのは,ボース地方のマルシュノワー ル,メール,ウズーエ・ル・マルシェの諸カン
トンである。
1882年以降1892年の期間は,梨の台数は大幅 にふえるが,上記の機械化された用具,すなわ ち草刈機,刈草乾燥機, 収 穫 機 等 の 数 は 停 滞 し,動力脱穀機台数はむしろ後退する。 1909年 に農業省農業情報局は次のように述べている。
「ソローニュ地方における農業用具は大中規模 の経営ではきわめて完全(播種機,収穫機,馬 力耕,草刈機, クリーム遠心分離機)である が,小経営では幼稚なままである。…・・・ボース 地方及びペルシュ地方でも,用具は大中規模の 経営では同じくきわめて完成されているが,小 経営ではかなり幼稚である。この3つの地方で は,組合員の農場を廻って作業をする脱穀機を 共同購入する,まぎれもない協同組合である脱
穀機組合が存在する。そ れ以外の協同組合も各種 の機械の購入のために結 成される途上にある」 6)
第4図 穀物の単位面積当り生産高の長期的動向 250
200
Froment Seigle Avoine
ぷ•.......:
C. ヘクタール当り収 穫高の増加 単位面積当りの収穫高 の変化を知るために,県 知 事 の 「 収 穫 報 告 」 や
「年次別農業統計」など を利用して作成されたも
150
100
60
1840 1850
のが第4図である。年次毎の気候条件の違いか らもたらされる影輻を取除くために, 9年単位 の移動平均法
(4
年前,その年次,4
年後)に よって作成されている。D,標準的な農民家族が独立に必要とする 土地面積の縮少
デュプーはさらに,これまでに見てきたよう な諸発達,たとえば休閑地の後退,単位面積当 りの収穫高の増加,等々の農家収入の増加をも たらす諸要因のほか,生活費,小作料,公租公 課,賃金,等々の農家支出の側面の諸要因をも 考慮して,標準的な農民家族がその暮しを支え
.
‑
・
I ‑....... ̲....
Indices calcules sur la base 100 en 1850
1860 1870 1880 1890 1900 1910 デュフ゜— ,p.221.
、体として,ますます小さなヘクタールをしか必 要としなくなった。現象は1850年から1864年に かけて明白である。次いで緩慢化し, 19世紀の 最後の10年間まで続く。この領向はそこで逆転 するが,ほんの暫くの間であって1902年までで ある。 1910年以降,自ら経営する土地所有者に とって, 1850年と同じ実質収入を得るのに半分 の面積があれば充分である。この論証は,言葉 をかえれば,半世紀をやや上廻る期間内に,自 ら経営する土地所有者はその実質収入を倍にし たということになる。」 7)
るために必要と 第5図 一家族の生活に必要とされるヘクタール量の動き (1845‑1914) する土地面積の 150
推移を示す第 5 図を作成してい る。而して,彼 はいう。
100
50 40
「自らその所 有地を経営する 土地所有者は,
その暮しを確保 するために,全
1840 1850 1860 1870 1880 1890 1900 1910 1920
デュプー, p.280. 6)デュフ゜ー,前出書, p.213. 7)デュフ゜ー,前出書, p.279‑280.
‑ 13 ‑
第
4
章 経 営 様 式 別 農 家 構 成 お よ ぴ 土 地 所 有構成の変化に関するデュプーの 見 解ロワール・エ・シェル県の農村が19世紀の中 葉から
2 0
世紀の初めにかけて達成した諸発達に ついて前章でみたような検討をおこなったうえ で,デュフ゜ーはさらに,次のようなきわめて注 目に値する指摘をおこなっている。A,経営様式別農家構成の変化
デュフ゜ーは,すでに前にもみた1851年の「職 業別人口調査」と1872年のそれとを比較するこ
とによって,様々の経営様式の農業者が総有業 人口中に占めている%の点で,この期間内に次 のような変化が生じたことを示しいる。 1)
1851年 1872年 地代生活者
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
3.9% 4.1%自らの所有地を経営する経営者… •••12.8
所有地をもっ,小夏翫篇奮農,... 9.1l22.9l25,.5 職業的小作農・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・• 4.9 6.5 職業的分益農・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・"・・・・・・・ 0. 5 1. 4
日雇農, 木樵, 農業年雇・・・・・・・・・・・・・・・35.7 27.2 ここには,所有地をもつ経営者群, とりわけ 自作経営者の占める%が大幅に増加し,逆に,
日雇農や農業年雇などの被雇傭者階層の占める
%が大幅に減少するという現象が,明白に読み とられる筈である。これは一体どんな理由によ るのであろうか。一方における経営の集中,し たがって経営者数の減少,他方における賃労働 者数の増加,こそが経済学の古典理論の教える
ところであるというのに。げんに,同じ資料に よって商工業関係についての状況をみれば,事 1)デュフ゜ー,前出書, p.421.なお, 1851年と1872
年を比較したのは, 1862年のそれは調査の基準に 違いがあって比較できないからである。
態は次の如く明白に,一方における経営者比率 の大幅な後退,他方における賃労働者比率の大 幅増加を示している。
1852年 1872年 商業及び手工業における経営主 13.9% 9.1%
製造業労働者 2.2 2.2 商業及び手工業にお及けびる使労働用者人 8.2 13.5 かくしてデュフ゜ーは,次のように要約してい る。 「このようにして,経済部門の異なるに応 じて逆の方向に働らく,
2
つの修正が認められ る。1
つは経営主の比率が約三分の一減少し賃 金労働者のそれが三分の二だけ増加した商業及 び手工業における集中化現象。そしてもう1
つ は,土地を所有する経営者の比率が十分の一だ け増加し賃金労働者のそれが四分のーだけ減少 した農業における細分化現象。」 2)B,土地所有構成の変化
デュプーはまた,土地所有構成の面にも同じ よ う に 注 目 す べ き 変 化 が 生 じ た こ と を 指 摘 す る。彼は,
1 9
世紀の初めの三分の一期における 土 地 所 有 の 状 態 を 示 す 最 初 の 土 地 台 帳 , 及 び 1913"‑'1914年にかけて作成された第二次土地台 帳のほかに,不幸にも全県的な数字についてし か知りえないがこの中間の状況を示す1884年の 統計,の3
者に拠って次の第3
表を作成している。 3)
表にみる通り,最も重要な変化は1884年 以 前 に生じている。それは,一方で
2 0
ヘクタール以 上のカテゴリの占める面積がすべて多少とも後 退し,他方で19ヘクタール以下のカテゴリの占 める面積がすべて増加するという形をとってい2)デュフ゜ー, 前出書, p.421.
3)デュフ゜ー,前出書,
p .
423及びp.574の両表か ら作成した。なお, p.574の表は%しか示してい ないので, 191314年の数字は実数を表示できな い。る。かくしてデュ プーはいう, 「こ うした運動をみれ ば,帝国(第二帝 政)はロワール・
エ・シェル県にお
第3表 土 地 所 有 構 成 の 変 化
所有地の大きさ
I
最初の土地台帳l
その%I
1884年I
その% 11913‑1914の%ける小土地所有の 黄 金 時 代 で あ っ た よ う に 思 わ れ る。」 4)
1884年以後は運
5ヘクタール未満 5 9ヘクタール 10‑19ヘクタール
20~29 ヘクタール
30 39ヘクタール 40‑49ヘクタール
50~99 ヘクタール
100ヘクタール以上
動に若干の変化が生じ,小土地所有のうち 5
へ
クタール未満の小コットの占める面積は若干後 退し,代りに30 39ヘクタールの中土地所有の カテゴリが増加に転じている。しかし,概括し て大土地所有の解体と小中の土地所有の増加が 認められ, 50ヘクタール以上の大土地所有は,
19世紀の初めの三分の一期には土地面積の60. 46%を占めていたのに, 1913,...,1914年には, も はや50.99%しか占めていない。
デュフ゜ーはさらに,上記のような諸現象を説 明して次のように述べている。とくにボースお よびソローニュに関する部分に重点をおいて引 用しよう。
「ボース地方では耕作者 (culti va teurs)の数 は一般に倍加し,ウズーエ・ル・マルシェとか サン・アマンとかのような幾つかのカントンで は3倍にさえもなった。この地方は, 1848年に は所有地をもつ日雇農のカテゴリが特に多数で あったことを記憶するが,彼らのうちの著しい 部分が所有地をもつ経営者 (exploitants‑pro‑ prietaires)というヨリ上級のカテゴリに移行す
るのに充分なだけの土地を購入することに成功 したようである。ソローニュ地方では耕作者の
4)デュフ゜ー,前出書, p.423
ヘ タ タ ー ル
12. 5劣3 │
ヘククー)レ 1 % %
75,798 107,733, 17.80 17.49 41,235 6.81 53,930 8.91 9.40 46,216 7.63 50,353 8.31 9.80 29,294 4.84 28,630 4.73 5.40 24,532 4 9.06 21,956 3.62 3.98 22,224 3.67 16,583 ,'2. 73 2.94 76,266 12.60 61,578 10.20 9.88 289,612 47.86 264,441 43.69 41.11
カテゴリの増加はもっともっと顕著である。彼 らの数は,サルブリでは2倍に,ラモット・ブ ーヴロンでは
4
倍に,ヌーングでは5
倍になっ た。もっとも,この後の2つのカントンでは,基 礎 に な る 数 が き わ め て 小 さ か っ た (1848年 に,ラモット・ブーヴロンの耕作者数137, ヌ ーングのそれは 139)ことは確かである。そし て, :1848年に既に多数の耕作者をもっていたマ ンヌトウ (Mennetou)及びセル・シュール・
シェルという 2つの川沿いのカントンでは,増 加率はそれに較べるとずっと弱かった (29%と 34%の増加)。したがって,所有地をもつ経営 者の増加という形で重要な変化が土地経営様式 中に生じたのは,昔は殆んど専ら小作制ないし 分益小作制に委ねられていた内部ソローニュ地 方においてであった。」 5)
他方,農業賃金労働者のカテゴリについては どのような変化が見られたか。
「農業賃金労働者(日雇農,年雇,および木 樵)のカテゴリは, わ れ わ れ が 既 に み た よ う に,逆の進化を辿った。 1848年には,選挙人名 薄上に17,000人の賃金労働者が数えられたが,
1914年には, もはや14,000人しか見出せない。
5)デュフ゜ー,前出書, p.560.
‑ 15 ‑
この減少の大きさは地方によって大幅に異る。
……ソローニュ地方は,全体としてみると,こ うした動きを免れている。なぜなら,有権者中 に占める農業賃金労働者の割合は,サルブリと ヌーングの両カントンでは幾らか減じている が,ラモット・ブーヴロン,ロマンタン,及び セル・シュール・シェル諸カントンでは,同じ く弱い比率ではあるが増加しているからであ る。……けれども,変革が最も深刻なのはロワ ール河よりも北の地方においてである。ペルシ ュ地方(四分のーから三分の一の減少),ヴァ ンドモワ地方(三分のーから二分の一の減少)
そしてとりわけボース地方(二分の一以上の減 少)。」 6)
そしてデュフ゜ーは,最後に,以上を取りまと めて次のように総括している。
「選挙人名簿の検討によって,職業構造は,
農村では,経営者カテゴリの増加という形で進 行したと結論することが出来る。この進化のプ ロセスは,次のように再構成できるように思わ れる。おそらく第二帝政期に合致すると思われ る第1の段階では,日雇農及び自作兼日雇農の 一部は所有地を手に入れたりその小土地片を増 やしたりした。農業恐慌期と時期を同じくする 第2の段階においては,農業賃金労働者の一部 分,おそらくは最も年若かで最も冒険心に富ん だ者達が,離村者の主要構成員を提供した。」7)
X X X X
ところで,問題は,このような現象がなにゆ えに生じたか,というその説明である。然しデ ュプーは, もともとがその著作において政治社 会学的な分析を目的としており,農村構造の変 化それ自体の究明を目的としていないので,こ
6)デュプー,前出書, p.561. 7)デュフ゜ー,前出書, p.562.
のような問いに対しては,明確な形では何ら答 えを提示していない。
そこで,あるいはデュプーは,前章末尾に紹 介しておいた彼の強調点,すなわち, 「標準的 な農民家族がその独立に必要とする土地面積の 減少」という現象,を重視しているのではない かという推測さえ可能である。すでに引用して おいた彼の説明文の表現, 「自らその所有地を 経営する土地所有者は,その暮しを確保するた めに,全体として,ますます小さなヘクタール しか必要としなくなった。……1910年以降,自 らその所有地を経営する土地所有者にとって,
1850年と同じ実質収入を得るためには半分の面 積があれば充分である」という表現が,多分に そのような推測に導く。
然し,これは農民的小経営の増加を説明する
1
つの理由ではありえても,そのすべての理由 を明らかにするものではない。それは, ヨリ小 規模の経営であっても独立が可能になったとい うことを教えはするが,逆に,そうした小経営 の増加を可能にする理由,つまり既存の大規模 経営が解体する理由を説明しはしない。げんに デュフ゜ー自身が, 前記の引用個所に続けて,「この論証は,言葉をかえれば,半世紀をやや 上廻る期間内に,自ら経営する土地所有者はそ の実質収入を倍にしたということになる」,と 述べている。つまり,この同じ事情は,逆に大 規模経営や大土地所有を増加させる方向にも作 用しうるわけであり,それだけで,大規模経営 や大土地所有の解体現象を説明してくれはしな い。
かくして,後者の現象を説明するためには,
これまでには触れられていないもう
1
つの目立 った現象,すなわち農民離村現象を取上げねば tょらないことになる。農民離村現象を取上げる場合,まず指摘され るのは交通手段の発達である。ロワール・エ・
シェル県は,
1 8 4 8
年に既に,2
つの鉄道線路によ って横切られていた。1 8 4 6
年4
月に開通したオ ルレアン→ツール線と,1 8 4 7
年1 1
月に開通した オルレアン→ヴィエルゾン→シャトウルー線が それである。また,パリ→オルレアン間には,すでに
1 8 4 3
年5
月にに鉄道が開通していた。年 次は遅れるが1 8 8 0
年の統計によれば,県の面積 と鉄道の延長との比率は,フランス全国の平均 が1 0
平方キロ当り0 . 7 6
キロメートルであるのに 対して,この県のそれは0 . 8 1
キロメートルであ った(全国で第2 7
位)。人口と鉄道の延長との 比率でみても,全国のそれが住民1 , 0 0 0
人当り1 . 0 9
キロメートルであるのに対して1 . 8 9
キロメ ートルである(全国で第4位)。こうした事情 がこの県における農民離村現象と深い関係をも っていることは確かである。しかし,この県の総人口は
1 9
世紀末の農業恐慌期までは依然として増加し続けており,
1 8 9 1
年に最大値( 2 8 0 , 3 9 2
人)に達したあと,1 9 1 1
年( 2 7 1 , 2 3 1
人)になってやっと1 8 5 1
年( 2 6 1 , 8 9 2
人)の水準にまで減少したにすぎない。いや,特にソローニュ地方に関する限り,第 6図の示 す通り,
1 8 5 1
年以降もなおその人口は増加し続. . .
けており,減少は,ぶどう虫の被害によって深 刻な打撃をうけた諸河谷地帯と,農業恐慌によ る小麦価格の崩壊の被害へ大きいボース地方な どにおいて見られるにすぎない。 「ソローニュ 地方における増加は人口の運動の最も人目を惹
く諸現象の1つである。事実, (唯1つのコミ ューンを除いて),こうした増加は一般的であ り,顕著な規模において現われる。ラモット・
ブーヴロン,ヌーング,サルブリ,及びロモラ ンタンという純粋にソローニュ的な4つのカン トンについてみると,
1 8 5 1
年の平均的な人口密 度2 1
人であったが,1 9 1 1
年には2 8
人,すなわち 四分の一の増加である。ソローュ地方は,それ第
6
図1 8 5 1
年と1 9 1 1
年の人口密度の推移減 少 増 加
E コ
I‑ 9% 仁コ 0‑ 4%E コ
10‑19% 國 5‑ 9%騒醤+de20% 厖齋10‑24%
一 +
de25%でもなお高い人口密度の地方に仲間入りするこ とからは程遠いが,少くとももはや無人の地方 であることは止めたのである。」 8)
事柄は,したがって,一般的な鉄道の発達や 農業恐慌によっては説明できない。農村それ自 体の内部における社会的構造,農業生産の社会 的構造の変化を考えない限り,事態は決して正 しくは解明されえないであろう。
第
5
章 デュプーの見解についての補足的 検討前章で引用しておいたデュプーの総括を,そ の要点についてだけもう一度引用しよう。
「職業構造は,農村では,経営者カテゴリの 増加という形で進行した。•…••この進化のプロ セスは次のように再構成できるように思われ る。おそらくは第二帝政期に合致すると思われ る第
1
の段階では,日雇農及び自作兼日雇農の 一部は所有地を手に入れたりその小土地片を増 やしたりした。農業恐慌期と時期を同じくする 第2の段階については,農業賃労働者の一部 分,おそらくは最も年若かで最も冒険心に富ん だ者達が,離村者の主要構成員を提供した。」この要約では,日雇農及び自作兼日雇農の一 部が, 第
1
段階, すなわち第二帝政期になぜ「所有地を手に入れたりその小土地片を増やし たり」,つまり自作農化したりその経営地を増 やしたりすることが出来たのか,という理由が 明らかにされていない。また, 「農業賃労働者 の一部分……が,離村者の主要構成員を提供」
するのは,あたかも第2の段階,つまり農業恐慌 期になってからであるかの如くに読み取れる。
. 然し,事実は果してそうであろうか。農業賃 労働者は果して第2段階になって始めて離村者
8)デュプー,前出書, p.556.
の主要構成員になるのだろうか。事実は,既に 第
1
段階において, あ る い は 既 に そ れ 以 前 か ら,彼らの離村は始まっており,そのことが,デュフ゜ーのいわゆる第
1
段階における「日雇農 及び自作兼日雇農の一部」,すなわち,それに も拘わらず村に残留し続けていた日雇農や自作 兼日雇農部分をして, 「所有地を手に入れたり その小土地片を増やしたり」することを可能に したのではないだろうか。つまり,それまでは 離村した賃金労働者部分(特に年雇労働者)の提供する労働力に依拠していた古い型の大 農場の経営が彼らの離村によって行き詰り,そ のことが「日雇農及び自作兼日雇農の一部は所 有地を手に入れたりその小土地片を増やした り」することを可能にしたのではないだろう か。既に引用し文章の中で,デュプー自身が,
ボース地方について, 「この地方は, 1848年に は,所有地をもつ日雇農
C J
ournaliers‑propri‑ etaires)のカテゴリが特に多数であったことを 記憶するが,彼らのうちの著しい部分が所有地 を も つ 経 営 者C
exploitants‑proprietaires)と いうヨリ上級のカテゴリに移行するのに充分な だけの土地を購入するのに成功したようである」,と述べていた。
また,ボースやソローニュにおける18世紀末 の大規模経営が年雇労働力に依存する古い型の 経営であったことに関しては,むろんまだ極め て不充分な形においてだが,われわれは既にこ の論文の第
1
章において,検討を終えている。そして,その19世紀中葉における状態について は, こんどはデュフ゜ーの著書の中から,次のよ
うな個所を引用することが出来る。
「賃労働者は,小土地所有が支配的なすべて
. . .
の地方において,そしてとりわけぶどう栽培地 方においては極めて少数である。利用されてい
る労働力は, とりわけ家族労働力であり,自作 兼日雇によってその不足分が補われている。・・・
これに反して, ボース地方の小作農業者たち は, 多数の年雇 (domestiques
a
l'annee)を 雇傭している。かくして,小作制度が支配的な 諸コミューンでは, 年 雇 数 が 日 雇 農 数 を 上 廻 る 。 事 態 は ソ ロ ー ニ ュ 地 方 に お い て も 同 じ だ が,人口調査書の作成者は,この地方の場合に は,国有の意味での農場年雇 (domestiquesde ferme proprement <lits)と森林の監視や密猟 の取締りのために多数雇傭されている専門監視 人とを,同じカテゴリである<経営に付属せしめられている年雇)>(domestiques attaches
a
l'exploitation)に 分 類 し て い る 可 能 性 が き わ めて濃厚である。」 1)
そして,このような年雇型の経営がこの頃に なると行き詰っていたという事情を示すものと しては,事柄はソローニュ地方についてだが,
土地からの収入の評価のために
1 8 5 1
年に域内を 視察して廻った税務官吏の,次のような報告を 掲げることが出来よう。「すべての小作農業者は,その経営内の年雇 の数を出来るだけ減らして彼の自由になる日雇 労働者を手に入れる目的で,園地,
3 〜 4
ヘク タールの土地,及び牝牛1頭と山羊1頭分の放 牧権の付いた小さな家屋を,多数の家族に又貸 ししている。これがロカテュール (locature) と呼ばれているものである。<それはコミュー ン内に1 1
存在する> (ラモット・ブーヴロン)。ロカテュリエ(locaturiers)の家族はく彼らの 提供する労働日によってその借家料を支払う>
(プリュニィエ・コミューン)。かくしてソロ ーニュ地方には,地主,小作農業者.ロカテュ リエからなる極めて厳格なヒエラルキーが存在
1)デュプー,前出書, p.119.
する。そしてこのヒエラルキーは,<各小作農 業者は彼の従属下に
1
人ないし2
人のロカテュリエをもっている> (ラモット・ブーヴロン・
カントンのヴーゾン・コミューン)という描写 によって完璧に図解される。」 2)
精密な分析を許すような統計や資料類がきわ めて少ないために事柄の詳細な分析は望みえな いが,以下,可能な限りの検討をわたし自身の 立場から試みておこう。
依拠しうる統計は,まず
1 8 5 1
年の「職業別人 口統計」 (le recensement de1 8 5 1 )
と,1 8 6 2
年及び1 8 8 2
年の「農業統計」 (la statistique agricole de1 8 6 2 , 1 8 8 2 )
である。前者は1 8 5 1
年4
月から6
月にかけて内務省によって行なわ れたものであり,デュフ゜ーも, 「成果を伴って 利用しうる,貴重な,日付的にみて最も古い資 料」 3)とか, 「ただ単に住民数のみならずその 職業についても考慮された最も早い年次の人口 調査の1
つ」 4)と評価しているものである。ま た,後者である「農業統計」は,農業・商業・公共事業の3省によるきわめて信頼度の高い統 計であり,一般にも最もよく利用されるもので ある。この統計は,また,初めて経営規模別農 家構成についても調査したものとして特別に高 い意義をもっている。但し,これはわざわざ言 うまでもないことだが,前者は人口統計,後者 は農業統計とその性格を異にしており,さらに 言えば後者それ自体の間でも,
1 8 6 2
年のそれと1 8 8 2
年のそれとでは,分類基準等にいくらかの 違いがある。したがって,その利用にあたって ば慎重な取扱いと若干の加工とを必要とする。この 3つの統計を相互に比較しうるような形 2)デュフ゜ー,前出書, p.118.
3)デュプー,前出書` p.83, 4)デュプー,前出書, p.88.