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宇治拾遺物語の一本より : 世繼物語私考

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

宇治拾遺物語の一本より : 世繼物語私考

春日, 政治

https://doi.org/10.15017/2559045

出版情報:文學研究. 9, pp.20-54, 1934-10-11. 九州文學會 バージョン:

権利関係:

(2)

相當美麗に堀したものである︒何等の識語もないが︑恐らく近仙初期の書篤に係るものであらう︒さて本は錐一から 昨秋我が九州帝國大學法文學部剛文學研究室に購入した宇治拾遺物語五巻は︑世の通行本と異なるものである︒異なると言っても︑本文から見て別に異本といふべき鴫のではないが︑只普通の宇治拾蓮物語の後に仙繼物語を加へて通篇五巻としてあみ鮎が珍しいものである︒

この書は爲本五冊の完本であって︾各堂縦七寸九分横五寸六分の大和綴装のものである︒表紙は紺紙に金泥の山水

草花の棋様を描いて︑其の見返しは紋金紙を附けてあり︵但し巻三・巻凹には金紙を用ゐてない︶金泥の霞を引いた

短冊形の題鐙︵縦凹寸六分機一寸○分︶には行革縄に﹁宇治姶迩物語鋪一︵二・三・四・五︶﹂と記して表紙の中央

上に貼附してある︒本文は︑九枚若しくは十枚逓一折とした數折の鳥の子に︑一面十行に書いた細めの評慨であって︑

宇治拾遺物語の一本より

eJI報dJI恥一

究錐九脚 l世繼物語私考I

■■■■

春日政

二○︵一○七八︶

(3)

第四までが字涜拾遺に︑後の錐五が世繼物語に充ててある︒宇治恰遼の部分は其の分冊の腿裁こそ蓮へ︑内容は全く

流布本と同一であって︑各巷の竹に目錐を附し第一巻には流布本のやうに序文がある︒宇治拾蓮の四巻本があるかな

いかは知らないし︑新訂増補國史大系第十八巻の凡例に見える二冊本︑二巻八冊本などの分冊に︑或は合ふのかも知

れないが︑未だ當って見ることが川来ない︒この本の分冊は次のやうになってゐる︒

第四御岬郷癖堯岬杵事マデ

第一と雄二との分界は流布十五巻本の鋪三と飾川との分界に一致してゐるが︑他は全く合ってゐない︒説話を雑然

と集めた此の書は何虎で切分けても差支ないやうなものの︑多少話の諏類による断絨も老ふくきことであって︑流布

本が﹁狐家二火付事﹂と﹁狐人に付てしとき食事﹂とを切離したやうに︑この本が流布本節十二の一所に集めた歌の

事を︑第三と節凹とに﹁賀之歌事﹂と﹁來人歌訓﹂とを切分けたなどは︑諭活の麺類を全然老へなかったものであら

う︒この鮎から見たとの本の分冊は只便宜によったものであって︑何の標準もなく没然切分けたものとより外老へ

宇治拾世物語の一本より一二︵一○七九︶

節二秘録詐袖維紅稚華許珈ヨリ 鋪一細豹引幻炸熱一元 迩命阿閣梨於和泉

第三蝿却鋤や鋤誹ヨリ 式部之許祇純五條逝祁抑聴側事ヨリ

(4)

I

さてこの第五と前川巻とが一見して枇然限別されることは︑錐一に其の目録の艘裁の差異である︒宇治捨迩の分の目

録が假名の少い漢字本位に書かれてあるのに對して︑この世繼の分の目録は淡字の少い假名本位に書かれてゐるとと

であって︑この差が暗に雨者の内容の異なりを物語ってゐる︒果して本文#見るとこの巻には歌の多いことが目につ

く︒宇治恰迩にも歌のないことはなく︑殊に巷十一二織布︶の一部には歌の事を集めた個虎もあるが︑全締に一口一つて

は極めて少い︒然るにこの巻は歌物語を集めたものであることが︑一見明瞭なほど別行下げ書きにした和歌の多いと

は︑前四巻と著しく異なる鮎である︒尚諭話の形が径者は概して前者よりも著しく短小であり︑文髄の前者は鎌倉期後

者は平安中期様式のものであるとと等︑両者は決して同一にし得べきものではないことが極めて明瞭である︒それ故

との本五巻は後世人の手に由って︑流布本の如き宇治拾通物語と世繼物語との異諏瀬の雨書が合本されたものであっ

て︑尚前四巻と第五雀と判然分冊されてゐるのでも共の率が知られる況や合本した爲に説話の亜複するものを生じた

のに於てをやである︒只雨者とも小説話の集であり︑而も皆﹁今は昔﹂と誇り始める様式が机通する鮎に於て一所に

すればし得るものであるから︑この鮎で合本して了ったものと見える︒尚世繼物語は一方に宇治大納言物語と題名し 次に第五になってゐる巻は︑説話の数凡て五十五であって︑説話そのもの及び其の順序と共に︑流布刊本の仙繼物

語恥誕輌群諾斗球雌鯉嘩認鋤やと同一であり︑亦緬群垂︑瀬從節九百五十一の世繼物語と同一系統のものである︒只巷

頭に目録を掲げて前四巻と同一様式にしてある軸が流布版本と異なる所である︒この本の目録は便宜上後に掲げるこ

丈誤

られないのである︒

とにする︒

節九棚

二二︵一○八○︶

I

(5)

た川獅のものがあるから︑この合本した際の後者の表題は恐らく宇治大納言物締とあって︑名榊の類似の上からも一

勝宇治拾蓮物語に合本し易かったのではないかと湾へる︒

さてこの本の節五を流布刊本の世繼物語に比べると︑全く同一系統のものであるが︑この篤本にも祁常脱落などが

見えて善本とまでは言ひかねるが︑亦版本の誤脱を正すに足ることも少からすあるご兀來この世縮物語︵宇治大納言

物諦も︶は刊本が善本でないのであって︑中古文を誠み得ない程度の人の鰯した本が蕊となったものと見えて︑意味

の不通な佃虚が多いのである︒宇治大遡一貢物誘刊本症御呼軍部︶の経の鰯本云とした識語の中に﹁間多二舛談一﹂と

ある如くである︒今共の一二例を川すが流布刊本一段二丁ウ八行目﹁宮のたちはき見をくらせ給﹂の下の

に叉御涙こぼるれはついゐさせ給ひてなくさめ奉らせ総て

何三段五丁オ七行目﹁くらきより﹂の歌の後の

とよみ奉りたりけれは御返事にけさと幸一泄はしたりける病つきてうせんとしける日共けさをそきたりける歌のと

くに後世もたすかりけんと目肌度事也︵祁祉︾燧唾岬州群群銅鉱軸︶

とある部分をこの鰯本に脱淵してゐるのなどは︑中に就いてこの鰯本の大きな誤謬である︒次に一七段の歌の句を単

行刊本・綾狐從本及びこの蛎本が一様に

弧をしはのりをきつれば︵

宇治拾辿物橘の一本より

︵いの︑リノ談︶

二三︵一○八一︶

(6)

知られるのである︒

丈恥研究節九桃二閥Q○八一つ

Oまた夜ふかくもおぼゆるかな︵おもぼゆるかなノ誤︶

と誤り︑術三二段に﹁長明侍從﹂を﹁丁めいし上う﹂とし︑五五段に﹁剛經﹂逓﹁國綱﹂としてある如きは︑三本一

様であって︑同一Ⅲ本の同一誤謬を持縦けてゐるととが明かである︶叉一三ハ段牛佛の條にある假名書きの佛教の文句

が不可解の爲にし誤られて︑軍行列本に

せう佛たうにねはんのうぐなりちさうとくけちえんせよこそ見えたりけれは

Oとあり︑綾類從本が﹁うぐなり﹂のうに︵こイ︶といふ校合のみあって全然同一であり︑この海本は﹁うぐ﹂が﹁う

O○し﹂となり︑﹁こそ﹂が﹁とそ﹂となってゐるだけは勝れてゐるが︑他は亦同一である︒然るに之を原蝦たる榮華物

語︵硫錘月︶に照合すると︑この文句は︑

︑力セフプツタウニフネハンチサクウタケケヂエン迦葉佛営入渥梁の牛なり智者柑得結縁せよとぞ見えたりければ

であるらしいのである︒とlでは三本中この為本がせめても鮫も勝れてゐるものと言はなくてはならない︒以上は一

二例に過ぎないが︑三本とも全然同一系統の本であって︑從って同一誤謬を踏んでゐること︑この窮本が挟脱もある

が亦刊本よりも勝れてゐる鮎もあって︑それらの談を訂正することが出来ることなどを知って貰へぱ十分である︒因

みにこれら三本の同一瓶本から出てゐるととは︑其の漢字・假名の配合に於て同一に書かれてゐる黙が著しいのでも

(7)

自分はこの機會を以て世繼物語に開する小考を武みたいと思ふのである︒この物語に開する研究であって︑私の参

考に供したものは次の諸論文である︒

.−︑類聚名物考︵神締の部︑小世繼物語︶山岡凌明 一︑宇治拾遺物語考︵史隅雑誌錐土悪第二雛︶佐藤誠資 一︑宇治大納言物語に就て︵蕊文飾十三年鋪凹號︶宮田和一郎 一︑宇治大納言物語に就て︵日本文醸誰座十三誉藤田徳太郎

一︑日本文學書目解読三鎌倉時代f︶暑波誹座日本文學︶山岸徳平・

一︑宇治拾遺物語の﹁序﹂に治うて妥畢塗蓉簸五響中島悦次

先づこの物語の内容の捻討から入ることにして︑初にこの寓本の目録を其のま上に掲げることが便利であらうと思

ふ︒只上の恭號は仮に私の加へたものであって原本にはなく︑下の原搬も亦同じである︒目録の文は勿論假名篭の如

き咄原本のま上にしておいた︒

一︑一條院の女御なけかせたまふ説

二︑そちのみやいつみしきふにかよひたまふ事

三︑泉式部小しきふうせてなけく事

四︑みあれのせんしか事

宇沿拾辿物路の一木.より

榮華物譜

和泉式部日祀・後拾迩集

後拾︒拾遥

後拾・︵?.︶

二五︵一○八三︶

I

(8)

文理研究節九脚

五︑むらさきしきふ伊勢大輔か事

六︑伊勢さいしゆすけちかか事

七︑亭子院御くしおろし給ふ事

八︑歌つかひにくたりつかさめしにもれなけく事

九︑土御門の中納言大内山の歌の事

石︑かつらのみとにしきふ卿かょひ給ふ事

二︑亭子院の宮す所の御事

二︑女かたちをゑにかきて歌の事

三︑かねもり人をあはれみ歌の事

面︑中納言よしちか歌の事

玉︑されかた中將鯉染櫻のうたの事

天︑世中あはれはかなき敬の事

毛︑賀茂の臨時の祭の蹄りあそひの事

大︑村上の先帝兵衞識人に欲よめとおぼせらる1事

元︑をの虻ゑの砿の事

舌︑すゑつなの少將の事 二六︵一○八四︶

?.︶伊勢大柿栗・後拾辿柴

後拾迩采

大和物語

築華物語

同同

枕草子

大和物研

lid

L

(9)

二︑職人まさひろか魂

三︑大齋院御歌の事

三︑清少納言梅枝をみていらへたる事

一画︑公任清少納言れんかの事

マ︑宝︑凹條大納言前戦つくるはせ給ふ事

実︑頭中將の事

一毛︑清少納言清水にこもりたる事

天︑源中將のふたかうちふし所の事

晁︑むらさきしきふの事

言︑た上のふの大納言人のこゑ開しり給ふ事

付大赦卿主さみつみ上ときの事

三︑一條院の皇后宮うせさせ給ふ御歌の事

二︑八講の事

一三︑おや逓海におとし入る事 一茜︑池ほるおき芯をみて歌の事

姜︑凹條大納言出家し給ひし事

宇治拾蓮物語の一本より 枕革子築華物祇枕寧子榮華物語 枕車子後拾迩集枕苑子公任集

︵7.︶︵?︒︶

︵?︒︶

二七︵一○八五︶

(10)

@文礫研究節九刺

一美︑牛佛あらはれし事

三賀みちかたの辨琵琶の郡

三へさいと中將二條后宮へかょひし邪

ゞ一元︑側融院かくれさせ給ふ折の亦

團︑・中宮五うにいてさせ給ふ事

四︑御堂出家せさせたまふ事

四一︑宇治殿の御夢の事

篁︑かたの上あま歌の事

・圏︑御たううせさせ給ふ事

一皇︑あへの仲丸もろこしにて歌の堺

異︑をの1たかむらの事

里︑紀の中納言すさく門の見し那

四へ︑まととの右大臣さうのことを引事

里︑はくかの三位の事

吾︑柏はらの御かとらいせい門を御らんの事

︸垂︑陽成院の御事

1

今昔物諦

宇治拾通・今苛物語

今昔物語

︵へ丁非卸︑r︶

伊勢物語

榮華物紙

榮華物語 枕草子

榮華物語

二八︵・一○八六一

I

(11)

二段和泉式部の事は経の﹁ものおもへぱ﹂・﹁奥山に﹂の二首の部分は菩剛集にも見えるが︑其の前の﹁ことわり

や一の歌が後拾遺柴から出てゐるし︑文が亦後拾通により近いから︑三首の事を合せて同じく後拾遺からと見るのが

安営であらう︒三段和泉式部の綾きは一部分榮華物語にも出てゐるが︑河書から見てやはり前に綴いて後拾遺柴から

取ったらしい︒但し歌の末句を思ひちがへ書きちがへてある︒後の﹁くらきより﹂の部分は拾遺集から取ったもの︒

無名草子にも見えるが︑それにはこの二首の間に尚一首入ってゐるのであるから︑多分それからではないだらう︒四

段みあれの宣旨の原擦は私にはまだ不明である︒共の中の﹁はる︐が︑と﹂と﹁とひしさを﹂どの二首は後拾通のもので

あるが︑他の四首は州所がわからない︒前の二首と共の川に入った﹁よそにても﹂の一首に開しては無名草子にも見

覚るが︑咋無名革子の如きは却てか上る種蛾の物語の原搬から引いて來たちのと見なくてはなるまい︒要するに六首を

宇浩拾瞳物捕の一本より二九︵一○八七︶

大部分は知られるのであって︑段に開して下に注意を加へる︒

垂︑みやちのいやますか事今昔物語 妻︑いせのみやす所の事同︒古今集 茜︑ぼんゐんの侍從の事今昔物語 蚤︑國つな大納言の北のかたの事同・十訓抄?

↓との物語は作宥が傅説を自らの文章で記し取ったのではなく︑皆既存の文學から而も略交其の原文に即いて移嘉し

たといふべきものであって︑極めて創作性を訣如したものである︒而して共の原披については未詳のものもあるが︑

大部分は知られるのであって︑私の目の及んだだけを前掲の表に脚註しておいた︒其の中に就いて多少考察を要する

| 111

(12)

丈蝶研究錐九帆三○a○八八︶

含んだ一慨としてこの段を見る時原搬は不明である︒五段の﹁いにしへの﹂の歌は詞華集にも出てゐるが︑伊勢大輔

架の訶書の方が近いから多分それからであらう︒この段は其の家集からと後拾遺集から三首探って合せ作ったもので

あらう︒只との段の初めに附けた紫式部の事は︑其の腺擴が問題であるが︑それに就いては後に言ふ︒二二段の﹁立

ちのぼる﹂の歌は後拾通にも和泉式部集にもあって︑共に式部の作となってゐるのに︑この物語では大齋院となって

ゐるのは異傅であらうか︒若し作老の思ひ達ひからだとすれば︑詞書は後拾通の方が近い︒二五段の﹁すぎものを﹂

は仲文集に見えるが︑この物語では叫條大納言の事になってゐるから︑公任雌から採ったものであらう︒三一段の

︒﹁よもすがら﹂は今昔物語にもあるが︑文章から見ると後拾遺に榮華を参へ作ったものであらう︒十訓抄・焼目抄な

どは歌が﹁ょとともに﹂となってゐるから論ではない︒無名草子にも見えるが文が全然異なるものである︒四五段の

﹁あまのはら﹂は古今集・江談抄にあるが︑直接には今昔から取ったらしい︒四六段も前同様であるが︑今昔に宇治

拾鐘の話を加へたものらしい︒四九段の博雅三位の事は江談抄や今昔に見えてゐるが︑それらと説話に差異があって

︑︵逢阪と木幡︑秘調二曲と三曲︑三年と百夜など︶一異傳らしく直接の原擴がわからない︒五一段小松御川の御事は

古事談に見えるが︑それは篭だ簡単であるからこの物語の原擴は他にあるらしい︒五三段の﹁人しらず﹂は古今集・

に力伊勢采・大鏡等に出てゐるが︑文章の上から今昔を探ったことは手は凧ない︒段の経の﹁ほに川でて人を﹂は古今集

から書加へたものであらう︒五四段平仲の事は宇治拾通や十訓抄にもあるが︑是亦今昔が雌も近い︒五五段時平の事

は今昔物語を主として︑経の歌は古今築上一後撰集とにあり︑合せた話は十訓抄にある氷︑歌の語句に災肘があり︑

諾はこれら種糞の原擦から作者自からの所作らしい︒術私の目の及ばない所があらうと思ふから︑識者の補正を得た

h

(13)

さて前掲の表に就いて通随するL︾︑其の同一原擁からと老へたものが︑一所に二段若しくは二段以上連綾集合して

ゐる︵大和物語からの説話の如きは一所に七段もつづいて而も殆ど原擴の順序に世いてある︒︶ことの多いのは︑必

すや直接共の原盤から出てゐることを弧く裏書きするものである︒況して文章を比較すると︑いづれも共の原文に即

いた跡が著しいに於てをやである︒しかし文には自ら仲縮のあったことは勿論︑原推を離合して作り︑又は作者自身

の意を以て作った部分も少数存することは言ふまでもない︒ らぱ幸である︒

私はこの世繼物語について以下二三條の疑問を提州して見たいと思ふものである︒先づ類本の宇治大納言物語の比

較から始める︒この物語の現存の版本に二種類ある︒一はこの嶌本と同じものであって︑世繼物語と題した一冊本で

あり︑一は宇治大納言物語と題した三冊本である︒世繼物語は刊行年月も版元も不明であるが︑︵山岸徳平氏によれ

ば﹁大阪河内屋八兵衛版﹂と記した本があるさうであるが︑私は未見である︒︶寛文書籍目録︵克文八︒九年頃の刊

行といふ︒禿氏滿群氏複刻の﹁書目集蝿﹂本に鱸る・︶によれば︑其の歌書の部に﹁職子治拾遺﹂と共に﹁卜世繼物

語﹂とあるから︑現存の版本は之と見るぺく︑寛文初年若しくはそれ以前の刊行であって︑亦版式から見ても假名草

子時代と一致して正にさう考へられる︒それ故版本は枇繼物語の方が先に出たといふべきであらう︒宇治大納言物語

の現存刊本は天明六年の刊行であるが︑尚同一版を更に重刷して︑﹁天保十一庚子年﹂と追記した本がある︒天明本

宇治拾辻物語の一本より三一︵一○八九︶

(14)

I

文雛研究轆九艸三一︵一○九○︶

には上巷首に一枚の序︵﹁天明六の年丙午春三月洛沿狼居主人響﹂とあり︑字髄は本文と全く異なる︒︶があり︑

下巻末には本文の経に次いで﹁為本云﹂として漢文の短趾があり︑更に一枚を加へて表に高藤系剛を掲げ裏に﹁天明

六年丙午蒜求版校正大坂書坊河内屋八兵術﹂と列記を附けてある︒然るに又本文の部は全然天明本と同一であり

ながら上巻首の序も下巻尾の商藤系個及び列記のない本がある︒私の借蝿したものの中︑祁宮文庫所賊の木が是であ

る︒この本は表紙も題疑も天明本とは逮ってゐるが︑其の本文を比較して見ると︑字形及び匡廓の線の峡撹など主で

同一であるから︑同一版木であると認めなくてはならない︒只無刊記本は各段の初行の匡廓の上に目標として熱の三

角形を澄いてあるが︑天明本にはないし︑又無刊記本は版心の上下に蝋い魚尾があるが︑天明本にはない︒而して精

細に比較すると濁鮎と句鮎との有無が相連してゐて︑総じて無刊記本の峡いてゐるそれら左天明本が袖足してゐると

見えるものが多い︒それ以外は全然同一であるから︑同一版木に小部分の増減と加へて共のまL襲用したものと言は

なくてはならない︒而して無刊記本の方が共の表紙・題鐙から見ても︑版の燐滅の度から見ても︑先に出たものと認

むぺきである︒殊に天明本の序が本文と別筆であり︑下巻の経の高藤系皿及び刊記は亦本文と別物であるから︑後に

添加した跡が鮮明である︒

次に天明本がもと列記のあった版から亜刷したものであることは︑其の刊記の部分が取換へられた填木になつイ

ゐるので明かである︒然るに天明本の序によれば︑貞享山年刊行の版木︵四枚失はれてゐたものを見出して︶を以て

軍川したとあるから︑この版の列記の部分はもと貞享四年云交の文字があったと見える︒蹴って祁宮本は其の刊記の

部分が全然ないのである︒それ故仏にはかう老へられる︒この宇治大納言物語の妓初無刊記で出たものが肺宮本であ

(15)

り︑それに下巻尾の高藤系Ⅲ及び貞享四年刊記の一枚を加へたものが貞享本であり︑更にそれに上巻首の序を加へ刊

記を天明六年にしたものが天明本であり︑天明本を共のまL亜刷して︑天保十一年の奥附を添へたものが天保本であ

ると恩ふ︒つまり宇治大納言物語刊本は時代順に無刊記本・貞享本・天明本・天保本と四種類あるが︑始から経まで

同一版木を襲用したものであって︑細部に多少の手は入ったが︑本文は全然同一のものであると言ひ得る︒

この宇治大納言物語の名は前描の寛文書締目録には見えないが︑元職書総目録︵元臓五年刊︑前拙側様﹁書目集

覧﹂本に擦る︒︶の歌書付狂歌の條に愚宇治拾辿物諏鋤辨榊寄榊諏鯉硫恥﹂と共に﹁四︑同大組一声物語﹂と﹁一︑世

綾物語﹂︵頭書の数字は冊数︶とが見える︒この宇治大納言物語が無刊記本若しくは貞享本と見なくてはならない・

四冊とあるのは多分三冊の談であらう︒世練物語が寛文評締目録の世繼物語であることは勿論であって︑無刊記本は

それよりも後れて︑寛文八・九年以後貞享四年以前十数年の間に出たものと思はれるのである︒

さてと上に仙繼物語と宇治大納言物研とを比較すると︑大柵同種の本であるが︑説話の種類の出入︑順序の先後︑

章段の数にも乗があって︑Ⅲ一本とは言はれない︒今宇治大納言物語の順序に前掲の世繼物語の目蛛に於ける章段の

番號を充てて︑比較して兇ると次の如くである︒表の算用数字は宇治︑日本敷字は世繼の番號である︒

一喝

一一垂 一丁L一一

宇治拾迩物詔の一本より

天14 二2

毛15 三3

穴16 lm4

元17 五5

弓18 六6

(甲)19 七7

三20 九8

三21

一一 ぢ9

三22 二10

=11

三三︵一○九一︶ 宝24

西12

(16)

I

︲丈騨研究弟九脚三四Q○九二︶

rl

−雪評訶評認識認識一諦認誠討

﹂釘鉛鋤如迎甥鈴妬釘蝿

一元四一里丙凰圀里呉曜実児昊

Ff︑

一甥釦副硯郷馳叩・ゆ︒恥・わは泄繼になく︑八︒一二︒

−玉︺丁彗一五一五一韮ヨセパ川αo垂凹は宇治にない︒

右に依って古く刊行された仙繼の順序は︑新しい刊行の宇治に於て少からず動いてゐることが知れるし︑又世繼にな

い話が宇治に四段あり︑枇繼にある話で宇治にない話が五段あって︑宇流は都合五十四段あるといふととになる︒さ

て宇治にのみある説話四段は共の文を樋して見ると︑佐藤誠疫博士が巳に﹁そはさながら十訓抄より取れるなり︒﹂

と言はれた如くであって︑読祇は即ち左の如くである︒

丁螢火飢飛の事而してこれらが直接十訓抄から探られたことは文章の類似に曲って否むことは出来ない︒試みに左に香峨峯の雪の蕊

( 丁

一條を例出して見よう︒

)(丙)(乙)(甲)

いまはむかし︒一條院の御時︒聯いとおもしろく降りたりける糊︒はし近く川させ給ひて︒雲御随じけるに︒香 香鱸峯雪の事 堆規好事の事上來門院御産の事

(17)

1

艫峯のありさま︒いかならんと仰られければ清少納言御前にありしが︒申ととなくて・御旅を還しはりたりけり︒

世の末まで︒ゆふなるためしにいひつたへられけり︒彼香峨峯の事は︒樂天老の後︒此山に一シの革鎚をしめて

往ける畔の詩二云

迩愛寺銃欲し枕雛香峨峯雲縦し雌宥

マ︑とあるを︒御門仰出されけるによりて?御脈をあげける也︒此清少納言は・天歴の御時︒梨壺の五人の歌仙也し︒清

︲原元輔女にて︒大和ことばも家の風吹ったへたりけるうへ・心ざま︒わりなくゆふにて︒折につけたる︒振舞︒

いみしき事おほかりけ・り︒︵宇治大納請物話︶

同院︑罫いと而白く降りたりける朝︑端近く川脈させ総て︑弊御礎じけるに︑﹁秀慨米のありさまいかならん﹂と仰られければ︑

イ生な消少細一両御前に候ひけるが︑巾郡はなくて︑みすをおしあげたりける︑枇の末まで︑侭なる例に云仰られけり︒彼芥烟雌の邪は︑

︑架天老の後︑此山のふもとに︑一の軍錐をしめて︑住ける昨の識に︑

迩愛寺鋪欲し枕聴︑悉姻峰雲接し簾禰

とあるを︑帝仰川されけるによりて︑御簸をぱ今のげLるなり︒彼術少納荷は︑天肝の御昨︑梨碓の五人の樅仙の内︑浦脈元輔女

にて︑批家の風吹仰へたりける上︑心ざまわりなく催にて︑折につけたる振舞︑いみじき郡多かりけり︒︵十洲抄︶

原文在殆どそのま上探ったものである︒元来との物語の他の段は︑他書から探っても︑陳文に即くといふまででそれ

を其の催移篤する如きはない所である︒其の上仙繼の方左見ると匝接十訓抄のみから探ったものはないといふべきで

ある︵五川段・五五段は十訓抄に開係があるらしいが︑それ・も主として今昔を採ってあるし︑かっとの物祇の後半の

部分それ自身が︑後に述ぺる如く或疑鮎を存するものである︒︶のに︑宇流の方にのみ際立った此の川筋の介入して

宇胎拾鐘物誰の一本より三五二○九三︶

I

(18)

0

殊に奇異に感ずる一事は︑この香鱸峯雪の話が︵其の総特にこの段を例出したのであるが︶経に清少納言の小傳を

十訓抄のまL附記してあることであって︑之は少くも全備を通じて同一手の筆でないことを暴露してゐる︒この宇治

の方でも己に夙く清少納言の事は五段︵翠・羽・邪.・羽︶も出てゐるのに︑何を困しんで今更に彼の女の仲を掲げる

要があらうか︒枇繼の方は全鯆を通読して見て︑清少納言の事でも紫式部の事でも︑か上る破綻は決して見せてゐな

い︒殊に紫式部に開しては︑源氏物語作成の異なる二論を異なる段に出しながら︑よく前後の承唯をつけることを忘

コレノリ

○○︑︑︑︑

れなかった︒尚甲の説話の惟規の名を雅親といふ字に見誤ったものであらう︑すべてまさちかと仮名書きにした如きは笑ふくきの護だしいものであって︑古人ならば決してそんな誤はしなかったであらう︒而もこれらの四段が内容上

装だ相似たもののみであって︑十訓抄初弧の節一可定心操振舞事からのみ取ってあることが疑はしいのである︒誠に

一寸した俄細工をしたやうに老へられるからである︒尚順序の異同についても宇治大納言の方が動かした疑がある︒

例へぱ祉繼の三四・三五・三六の三段は榮華物語から取ったので連縦してゐるのに︑宇治の方では全く離れ人II孤立

させて了った如きが是である︒世繼物語が先に上版されながら︑か上る話の片影さへ見えないのを兇ると︑恐らく宇

治大納言物語の一初めて上版の時︵多分無刊記本上版の時︶あらぬ柿入をしたもの︑叉他の前後出入をも行ったもので

あらうと疑ふのである︒私は世繼物語と呼び︑宇治大納言物語と呼ぶに拘らナ︑徳川時代の初までは同一内容の物語

女雛究究飾九櫛

ゐることは先づ疑はなくてはならない︒

であったと考へるものである

ーロ→

ノ、

(19)

宇治大納言物語が比較的近き世に於て︑或手が入れられたらうことを述ぺたが︑更に肚繼物語に就いて見ると︑私

には之が亦前後二色に分れて見えてならない︒而して其の後部に附して或疑間をもってゐるものである︒即ち川五段

以下︑言換へると原推を今昔物語に右するものの多い部分が︑それより以上の部分と異色に恩はれることである︒そ

れは今まで一綿も見えなかった今汁陳椴のものが急出したこと︑この物語の木価である和歌に開する物諦の少いこと︑

前部に比して不椛衡な長端の採られてゐること︑文章の様式の愛化が見えると入|等からである︒

後部十一流の中今昔物諾に關係を見出し得ないものは︑四○段柏原御門の御事と五一段陽成院の御事一篇である︒

この物緬の説話の順序が原擴に由って群をなしてゐることは已述の如くであるから︑今昔出自の論話がかく一所に後

部に集合して表れることは︑何も怪しむに足らないと言へぱそれ壷でであるが︑私の疑をもつのは︑この物語が元来

今昔様式の説話集でありながら︑川川段まで未だ一つの今昔原擁の話遊探らなかった川に在る︒惟ふに脈作希は今昔

に摸して説話集を作りながら︑今苛から避けて之を取らないのが初の意川であったらしい︒無論宇治拾遺も前部には其

の叶形だに見せないでゐて︑後部に至って一二共の顔を表してゐるのである︒この軸は少くも後部に至って説話蒐集

の方針に鍵化があったものと見られないであらうか︒次に歌物語の少いととである︒無論前部に於ても歌謡をもたな

い段もないではないが︑︵望一・二六・二八・二九・三○・三七・凹二の七段の如き︶飛びj︑に介在してゐるのに

後部に於ては十一篇叩七筋あって而も六筋は連綴して表れてゐる︒この物語が湫描娩話の岬築逓簸初の意州としてゐ

宇治拾通物語の一本より三七Q○九派︶

(20)

I

文躍研究節九脚三八︵一○九六︶

たことは︑一見誰も認められる所であるのに︑今昔出自の論話と共に和湫のない説話の多簸に探られたことは︑亦卿

柴方針の愛化を示すものである︒第三に前部に比して説話の形の長大なものの多いことである︒この物語の各説諦は

何れも今昔や宇治拾遺に比しては極めて短小なものであって︑歌物語であると共にむしろ伊勢物語や大和物語に比す

ぺきものである︒然るに後部に於ては不樵術な長大筋を採ってゐることである︒試みに版卒について見ると︑全巻凡

五十枚であるが︑前部四十四楠が約二十三枚半︑後部十一筋が二十六枚半といふ割合で︑如何に其の長さの不椛衡で

あるかが知れる︒後部の中にも殊に後半に妓も長大なものが表はれてゐて︑五○・五一の如きは未だしも︑更に五

二・五四・五五の三段の如きに至れば一段庇に七枚に垂んとするものもあって︑版本宇治大納言物語は五十四鯆中五

二・五一・五五の三流だけを以て下巻一冊をなしてゐるのでも︑共の渋だしい不椛衡さを知るであらう︒是も亦後部

に於て最初の方針を無硯してゐるものである︒経に文章の鍵化は上の事から自然に起り來ることであって︑前部が平

安初中期の假名文脈であり︑後部が平安末から鎌倉初へかけての文脈であることは勿術︑殊に後部の長大筋が對話の

部分塗多くして共の對話の部分には﹁候ふ﹂といふ丁率の動詞若しくは助動河の多く表れて來る結果を來した︒この

事は原搬の如何による事であるから︑作者には無意識に起ったことであるが︑亦不統一なる一鮎である︒尚題材の異

なり從って聯集若に男女の異なりのあるらしいことは後に言ふ︒陸地部球翻幟嬬誠轍郡確岬幽覗磁垂狐

私は以上のやうな考察鮎から︑前部と後部とが異色に見えるのであって︑少くも共の聯集方針に錘化のあることを

恩ふ︒而してそれは同一人でもあり得ることではあるが︑私は後部は前部の方針を全然老へなかった異なる手に由っ

て︑綴修されたものではないかと疑ふのである︒それに就いても何虚を分界とするかは問題であって︑斑は四五段仲

(21)

暦の事の如きは︑歌をもち︑形も短いものであって︑文脈から見ても︑古今集の詞書とも見られるが︑次の四六段茎

の事は己にすぺてが今昔様式更に学油給迩様式になってゐるから︑この二人の事が今昔に於て一所に燈かれてゐるや

うに︑岡時に今昔から取ったものと考へて︑と上を後部の初と見たのである︒要するに今昔物語を原擴としたといふ

條件が亜きをなしてゐることにたる︒五○・五一の如きは今昔からではないが︑位置上川時に他から採られたものと

見て亦兼支なからう︒是が私の第二の疑問である︒

類聚名物考は共の書籍の部に小世繼物語を掲げ︑栗本英雌の論を引用して次の如く言ってゐる︒

此小世繼といふ物のうちに源氏物語の事をいひし二段有りて︑前後の跡相達せる遼思へぱ︑末の世に意をも用ゐず

みだりに抜書せしものなりけり︒但原本には源氏の事一段布りしにや安藤億章が源氏七論に宇治大組一言物語唾唯一︑︑マ︑繩畷に箪則守嬬時源氏は作りたるなり略︒征萌抄云大辨院より上東門院へつれトーなぐさみ喝へき物語やさふら

ふ略︒紫式部云為源氏は作りてまゐらせたりける云篭源氏七論にかくしるせるを思へぱ︑爲章が見たる小世繼

はよき本なりしにや︒もし剛説なから今の如く小枇繼にあらは無名抄を引すして︑是も小世繼遂引ぺきなり︒

との源氏物語の事を言った二段といふのは︑世繼の涯段伊勢大輔の事の初に︑

今は昔紫式部上束門院に歌よみゆふの物にて侍しに齋院よりさりぬべき物語やさふらふと尋申させ給けれは御双

紙とも取出させ給て何れ在か参らすぺきと再たせさせ給秘に紫式部みなめなれてさぶらふにあたらしく作て参ら

宇治拾蓮物語の一本より三九︵一○九七︶

︿

(22)

とあるのと︑二九段紫式部の事に

今は昔越前守爲時とてざえある世にやさしかりける人は紫式部が親也此爲時が源氏は作たる也とまかなる事共は

むすめにはか上せたりけるとぞ前齋院の宮との事聞召てむすめをめし川たりける︵中略︶此源氏作たる事さま

人11に申仰たり参て後に作たりとも巾いづれかまことならん︒

とあるのとの事である︒麺聚名物考が﹁前後の跡相達せるを恩へぱ︑末の世に意をも用ゐずみだりに抜書せしものな

りけり︒﹂とあるのは大瀞営つた見方であるが︑私は後の段に﹁参て後に作たりとも申いづれかまことならん︒﹂と

言ったのは︑前出五段の事を受けてゐるのであって︑獅集者に十分前後承唯の用意があったと見たいのである︒

さて紫家七論が正体誘誤の條に﹁宇治大納言物語に云﹂として︑二九段の文を引きながら︑五段と同意味の説をこ

の書から引かすに﹁無名抄に云﹂として別な川所を學げてゐる︒類聚名物考はその鮎に疑を懐いて︑爲章の見た小世

繼には五段の説がない本であって︑善本︵矛盾した一読がないから︶であったらうかと言ふのである︒しかし紫家七

論のこの條は花烏除怖の﹁作意﹂の文を共の催孫引したのであって︑其の際無名抄の事などは徹底的に調べなかった

らしい︒尤も花鳥餘惰には後の部が﹁鵬長明無名抄に云﹂としてあるのを︑紫家七論が﹁無名抄に云﹂としたのは︑

或は鵬長明の無名抄を調べて︑この文が兇えなかった漁に没然無名抄とのみして遇いたものかとも恩はれるが︑これ

が無名章子の文であること︵推唖嘩錐︶までは氣附かなかったらしい︒

丈恥究︐先第九枇岡○︵一○九八︶

せさせ給へと申ければさらばつくれとおほせられければげんじは作て参らせたりけるいよノー心ばせすぐれてめてたき物にて侍る︒

(23)

こ上で花鳥餘怖の一鴨長明無名抄に云﹂︵私の調べた範困では花鳥餘情のいづれの本も皆さうなってゐる・︶とい

ふ文の事を附記したいが︑宮田氏は己にこの文が花賜除怖のものであること︑しかし長明の無名抄の中に見えないこ

とを調べられて︑この鮎に疑問をもたれ後勘を待つと言はれた︒其の後山岸徳平氏は﹁源氏物語初期の研究﹂に於て

峡江入楚に出てゐる同文について︑之を無名草子の丈であると氣附かれ︑更に杉山敬一郎氏が﹁無名草紙老﹂に於て

花鳥除怖の序文に長明の無名抄として無名草子の文の州かれてゐることを言はれた︒つまり眠江入楚も紫家七論も皆

花鳥餘傭から引用したのであって︑而も通勝も爲章も無名草子の文であることを知らなかったらしい︒そこで花鳥餘

情が無名草子の文逓長明の無名抄としたのは如何なる談であるか問題であって︑名稻の似寄からふと思ひ遠へたもの

か︑或は後人が書歪めたものかでなくてはならないが︑恐らく前者であらう︒杉山氏も

此の談は抄と草子との一音頽上の類似に因るものと老へられ云堂

と言はれてゐるが︑或は兼良が抜書しておいたこの文に﹁無名﹂など心蝿えに書いておいたのを︑後に花鳥餘怖に入

れる際に雌名抄と恩ひ誤って了ったのなどではあるまいかと私は想像するのである︒

それはともかく前に立通って︑額衆名物考が疑った鮎はそのま︑花賜餘怖に向けらるべきであるが︑兼良の見た宇治

大納言物研には果して︑五段の話がなかったのであらうか︒元来この段は伊勢大輔のことが主であって︑大輔家集と

後拾遺蝶とを合せて作ったものらしく︑其の初に紫式部の事而も源氏物語の事などを出すのは︑なるほど不自然に

も見えるが︑しかし年毎に八亜櫻の取次ぎに川る紫式部が今年は伊勢大柿に譲ったといふので︑其の州係上紫式部の

事を川して來るのはむしろ自然である︒況やこの物語に於ては紫式部の郡がとkに始めて表れるのであり︑而も伊勢

宇流拾迩物蹄の一本より四一Q○九九︶

(24)

又いをだ宮づかへもせで里に侍りけるをり︑さる物つくりいでたるによりてめしいでられて︑それゆゑ紫式部と

云ふ名はつきたると申す︒いづれか誠にて侍らん︒

とある語は︑無論宇治の五段にはないものであるが︑花塒が節一説として引いた前文︵宇治の二九段︶によく雌ずる

ものである︒殊に紫式部と名づけられた説の如きは︑河海抄の説の一部に見えた事柄であり︑秀糞無名草子の文を拙

く方が︑宇治大納言の油短なものよりも︑種だの意を識して︑より勝ってゐたからであらうと考へる︒それ故私は飛

良の見た宇治大納言物語には共の五段に紫式部の事があったのであるが︑極交の使立上無名草子の文を樺んだのでぁ 今花腸に引いた無名草子の丈を見ると︑分離した二佃所に出てゐる文を合せて一しょにしてある︒始めの部分﹁さ

ても此源氏つくり出たる事こそ﹂から﹁凡夫のしわざとはおぼえぬ事なりなどいへる﹂までは︑原本に於ては源氏の

批評にか上る蚊初に出てゐる語であって︑源氏物語の成ったのも︑亦物語そのものも非凡であるとの賞讃である︒

さて後の﹁くり事のやうには侍れど﹂以下は原本に於ては︑源氏の事閥経り他の種盈の物語の事も述終った末に州て

來る語であって︑源氏作成の次館を述べるとと宇治大納言の丘段と同意ではあるが︑尚それよりも委細を識してゐる︒

丈畢研究節九秘川二二一○○︺

大輔との比較上︑北あ人物を記さなくてはならないに於てをやである︒叉源氏物語の作成についての異なる二論を梁

げる矛府を非難するのも一理ではあるが︑私は巳述のやうに江段と二九段との間には立派に承應がついてゐると思ふ

のである︒それ故私は兼良の見た宇治大納言物碕にもこの五段があり︑︑而も紫式部の源氏作成の説が出てゐたと考へ

而して雌後の︑ るのである︒

(25)

との物語の作成年代や作者に附しての考定はなかノIの難事であって︑私には未だ手掛りが見出せない︒宮田和一

郎氏は︑花鳥餘惰を測ること︑近くしては源氏物語提要まで四十年︑速くしては河海抄まで約百年の川に生れたらう

と推定され︑藤田徳太郎氏も亦︑四辻善成と一條兼良との間︑室町前期に作られたものと恩はれると言はれた︒その

邊の虚が安常かも知れない︒しかし私は一堂の原推を松したことに曲って懐いた疑が更に疑を生んで︑却って作成の

年代についても蜜は見常がつかないのである︒

と駒かく此の物語の名の見えた花鳥餘怖以前であることはたしかであるが︑其の以前を何時まで限るかが問題であ

る︒此の物語の原擦と内容との如何から見ると︑私は相糊古い所に世かなくてはならないやうに恩ふ︒先づこの物語

を杢冊として老へる時︑其の経の部分に原搬として今昔があることは勿論︑宇治袷遥や+訓抄の影も僅かながら見え

宇治拾通物語の一木よりⅢ三Q︐一○己

あったことは確かである︒ とある︒文は多少簡約されてゐるものの︑源氏物語の事も川てゐるから︑雑交集の作者の見た宇治大納言物語にも亦 て︑其の初には亦 ると恩ふ︒筒との物語から書取って入れたと見るべき雑糞集

今は昔紫式部は上東門院の宮女にて侍︒才智世にすぐれたるにより日本記のっぽいとも云也︒上爽門院の仰にて

源氏物語をこの人華作すとかや︒

︵錘唖呼錐︶にも同じく﹁六︑いせたいふの事﹂があつ

(26)

丈雛研先簸九鮴門川︵二○二︶

るから︑無論それら以後に成ったと言はなくてはならない︒宮川氏も初一たびは妓商の限界を古今等川集に取られた

が︑私も先づ共の邊に目標逓世くぺきであらうと恩ふ︒しかし韮にも老へた如く︑前後二部異色として見る時は︑其

の前部だけが先・つ成立ったのではないかと恩ふ︒かくて前部の原推を見ると鎌介期のものはないやうである︒無術十

訓抄・著聞集又は無名草子などに通ふものもあるが︑それらから取ったのでなくて直接の原擴が皆平安朝の文學にあ

ることは己述した如くである︒先づ物語狐では榮華物語が中心をなしてをり︑而も蛾も新しい養料に厩する︒さうし

て其の伽の林の巻喧二まで取られてゐるのであって︑内容上からは道長蕊去の年までになってゐる︒更に勅撰集でい

へぱ後拾遺集が妓も新しいものであって︑而も之から取ったものが舷も多い︒この集の時代は榮華物譜よりは更に五

十餘年下るのである︒原擴の不明なものに就いて見ても︑内容の時代は皆榮華物語若しくは後拾遺集までの事として

大差はない︒それ故仮に前部をのみ見る時は︑原擁上には平安朝末約面年内に測り得る︒而してこの職のみからは今

昔物語の成立よりも前に置き得るかも知れない︒

只故にやL注意すぺきは︑節四段みあれの宣旨の事であるJとの段全慨としての原擴は未詳であるが︑この碗話に只效にやL注意すぺきは︑節︑

限って特殊な左註が附けてある︒

御堂のなかひめ君三條院の御時后皇后宮と申たるが女房也本院の侍從みあれのせんじと申たる侍從ははるかの昔

のへいちうが世の人此みあれのせんじは中比の人されば昔今の人をひとつでにてぐして申たるなめり︒

と言ふのである︒この文の内に︑本院/侍從を遥か昔の平仲時代の人︑三條院の皇后の女房であった御形ノ宣旨を中比

○○の人と言ってゐる︒中比といふ表現も漠然としてゐて︑昔と今との間を灰くいふのならば尺度とならないが︑今假に

(27)

三條天皇の長和晩を︑時平・貞文の寛牛丹泰時代から今日までの中程と老へるならば︑共の今日はやはり少くも平安

朝末Ⅷ五十年間であらう︒下して見て鎌倉一初期であらう︒著剛集の作者は約百丘六十年を測った大江雁腸の時代を中

比といってゐるのを目安にしても大凡そ共の邊に落着くのではなからうか︒かくて如何に早く見ても︑この物諦以前

に今昔物諦は存在したと見なくてはならない︒やはりこの物語は今昔を倣ったものでなくてはならない︒しかし宇治

拾蓮物語との先後についてとなると︑この物語の前部の限りでは荘だ明かでない︒私はこれ以上老へる手掛りはない

のであるが︑只との物語の原推や内容から考察すると.相術古い虚に掻かれ得ると恩ふ︒と上で想像が加へられるな

らば︑この物語の前部は巳に鎌倉一初期に成ってゐたのであって︑宇治扮迩が出來︑十訓抄が表れてから若干年の後︑

之に今昔を主として︵宇治拾迩・十訓抄なども加味して︶後部が附加されたものではないであらうか︒私は物語の名

の物に表れない事が必ホしも共のものの無かったことにはならないと思ふ︒作者の魎名を命じない本が存在した例は

いくらでもあるからである︒而してこの物語の他諜に引用されない一つの理由は︑其の内詳の依推した原本が殆どす

ぺて存してゐることであって︑言換へるとかkる二次的なものを引かなくてもよいからであったらうと恩ふ︒︑

作考を誰といふとと江どは恩ひも掛けられないことであるが︑私は説話の内容から見て前部は女子の聯集であり︑

後部は男子の補修であったやうに感ずる︒前部の説話の半数は女性に閲するものであって︑殊に巻竹の一段から五段

までは女の歌物語づくめであって︑堀川女御・和泉式部・御形ノ宣旨・紫式部・伊勢大輔を鮎出し來り︑やがて清少

納言・小犬君より又多くの貴族の女性までを架げてゐる・との女性讃美者は必ずや亦女性であったやうに恩はれる︒恰

も鉦名車子の作考のやうに物研峠代の淑女・才媛にあこがれた附秀の仕業であったらう︒恐らく無名草子と同時代の

宇治拾迩物冊の一木・より四五二一○三︶

(28)

この世繼物語に關係したものに今一つの書物がある︒それは祁宮文庫所藏の異本宇治大紬一言物語である︒この本は

上下一歪の合本であって︑表紙には﹁宇治大魎一言物語異本﹂と書外題があるが︑巻首の第一紙即ち内表紙には﹁雑盈

集上﹂と記してあるから︑本名はさう呼ぶ方が邇常であらう︒上三十七枚下二士一枚都合五十九枚の美淡紙大形の篤

本であって︑一面十行可なり巧みな手跡で記したものである︒やはり徳川初期以後の書鰯であらう︒内容は上下各二

十話つつ合せて川十話の叢話集である︒︵但し二八段には﹁今は昔﹂が二つ入ってゐる︶昨年末川た東京弘文飛の待班

古書目錐第二晩に載った雑燕集二冊は未見であるが︑其の解読によると︑全く祁宮本と同種の本であると見える︒

私はこの世繼物語の訓読の爲に︑この程急に祁宮文庫に乞うて借蝿したのであって︑未だ十分に訓禿する時間がな

かったが︑精密な調奔は他日に談って︑今まで見た所産概略述べて見ることにする︒この本の読話も亦すべて﹁今は

昔﹂といふ語で始めてゐるととは世繼物語と同一であるのみならず︑上巻の巻廿から十五話だけはこの枇繼物語と同 ・UJ1﹄叩師ル0

文祭研究卸J巾凹六︵二○川︶

女性によって赫集されたものではないかと恩ふ︒之に反して後部は男性を主魍としたものが大部分である︒その内伊

勢や本院ノ侍從などが女を主としたものであらうが︑仲麻呂・筑・長谷雄・源雅・椰雅三位・樋武天皇・光孝天皇な

どは︑醇粋に男性だけの題材であn︑高藤・時平などの事には女性もゐるが︑やはり男性の方が主になってゐる︒か

上る話柄の艸集は前部のそれと全然其の態度を異にするものであって︑それら大部分が今昔原擁であると共に︑獅集

者も恐らく男性であったらうと思ふのである︾

(29)

一であるか︑若しくは之に閑して増補したものであることである︒世繼に開係ありと言ったのはこの鮎である︒十六

段以下は全然世繼には關係しない紙︑すべて亦歌物語である︒︵但し二四段・四○段だけには歌がない︒︶資料は主

として勅挽集から取ったらしく︑他の物語や歌學書などから取ったらしい少数が加はってゐる︒勅撰集は無論後拾辿

集以後のものがあって︑殊に撰集妓後の新緬古今集から取ったものがあるから︑内容の事質が世繼より遥か後代のも

のの加はってゐるととは勿論︑文章に心噸る後世風のものがある︒三七段の﹁いろはの言葉の事﹂なども古いもので

はなく︑少くも室町期のものであらうし︑四○段の﹁伊勢や日向の物語の事﹂の如きは其の題名から巳に後世的であ

ることが知れる︒用語には或は徳川期まで下るかとも思はれる後世風のものが交ってゐる︒

さてこの初の部分十五話が世繼物語と阿一の話であって︑而もそれが一所に集合されてゐるとと︑かつそれが世繼

の一・二・三・四・五・六︒四二・四六・四九・五一・五二・五三・五四・丘五との諸段に當ってゐて︑順序は多少

前後して瞳かれてあるにせよ︑恰も世繼の始と経との部分になってゐること︑又十六段以下に決して世繼と共通の話を

含まないことなどは︑この集が世繼から識取ったものであることと明かにしてゐる︒しかし文章は多少異なる部分があ

り︑又轆補した部分がある︒例へぱ紫式部の事が簡約してあり︑坤雅三位の事が今昔に近く改まってゐる如き︑和泉式

部の事の肚繼に二段となってゐるの駐︑この集では三段に増大してあり︑小野通の事が江談抄・今昔物語によって補加

してあるが如きは是である・さればこの集の初の十五段は大腿世繼に擦りながら多少書改めたものと見るぺきである︒

この集の作成年代も作者も明かでないが︑撰堆の欣を取ったものの内に︑三六段﹁遊女の歌の事﹂があって︑﹁死

ぬばかり﹂といふ塊拙あこの歌について︑

宇治拾蓮物語の一本より

1 1

四七Q一○五︶

(30)

丈學研究錐九脚川八︵二○六︶

其比しよく古今集撰ぜられけるに入られ侍となんいひつたへける︒

と言ってゐる︒﹁しよく古今集﹂は﹁新しょく古今集﹂の談らしいが︑この表現は新綾古今集の撰進當時を巳によほ

ど以前のことと見てゐる語調である︒新綾古今は永享十一年︵二○九九︶の撰集であるから︑それから約百年後とす

れば︑室町末期になる勘定である︒私はこの集の作成を只今の虚近古末或は近世初の見當に考へてゐる︒

次に雑交集に取られた世繼の全貌〃一想像すると︑雌の作者の見た価繼は徳川初期に版木となったものと大冊同一の

ものであったことが知られる︒已述の疑問であった伊勢大輔の事の頭に附けてある紫式部の事も︑簡約されながら同

じ意味の話が存してゐるし︑世繼が今昔から採った経の一群も明かに存してゐるととが幸に見られるのである︒而し

て刊本宇治大納言物語のやうな形でなかったらしいことも︑亦この雑觜集を以て證擴立てられる︒即ち刊本宇治に落

ちてゐる世繼の五四段がこの集に明かに取られてゐるととが是である︒無諭かの十訓抄肌自のⅢ段の如きは典の一つ

もが引かれてはゐないのである︒

花鳥除情がこの物語を宇治大納言物語といったのを見ると︑さう呼ばれたのが古いと見るべきであるが︑この名は

原作者の命じたものか如何は無論不明である︒しかし原作者が今昔以外の説話を︑而も勝代的には今昔成立以前の説話

を今昔風に集めようとしたのが︑抑盈の意州であったらしいことは己述の如くであるので職古名宇治大納言物語などに

擬しようとした心はなかったらうと忠はれるし︑恐らくは作者自からさう呼んだものではなかったらうと思ふ・とにか

1

(31)

く今背や宇治拾通の外のものであって︑それらに似たものであるから︑佐藤博士の言はれた如く︑

宇治大納言物語といふ名は︑宇治拾通物語を宇治大納言物語の補迩と心得て︑これぞ共の正細といへるなるべし︒

とまでではないにしても︑少くも宇治拾通の序に見える宇治大納言物語といふ名を︑今昔物語︒宇治姶辿以外のこの

類似物に世人が漫然命することもあり得ることである︒私は後人が没然さう呼んだものではなからうかと恩ふ︒

さて徳川時代に至れば︑種だの名が表はれて來る︒版本は已述の如く世繼物語一審本と宇治大納言物語三巻本と二

極あって︑世繼の方が先の刊行であるらしい︒然るに類聚名物考が指摘したやうに︑かの倭版書籍考︵元職十五年刊︶

今︿背ノ物語一巻アリ古今偉聞ノ雑読ヲ霄集メタル書ナリ

とあり︑年山紀開巻山にも﹁今は昔物語一蚕とあるのも︑多分この書と同類のものであらう︒倭版書籍考は無論版本

について言ったものであるが︑現存のものにしてか上る題護若しくは内題を附した本があるであらうか︑私は未見未聞

であるし︑これより以前元職五年刊の書締目録にさる一巻本の見えないのも疑問である︒私かに惟ふに之は題護の失

はれた本の本文に擦って︑假にさう呼んで睡いたものではなかったらうか︒寛文以前の版本と見られる世繼物語は内

題がないから︑題鐙が失はれれば書名は不明であるからである︒私は一巻本について言ってゐろ倭版書籍考は世繼物

語を見たのではないかと思はれる︒しかし安藤爲章もさう言ってゐるのであるから一部にはかう呼ばれたことだけは

認めなくてはならない︒ には

大日本史は共の引用に仙繼物研を採り︑季吟の大和物語抄にやはり共の名を川ゐ︑絞群書類從も亦さうである︒か

宇治拾通物語の一本より川九Q一○七︶

(32)

I

文畢研究節九脚五○︵二○八︶

く徳川時代の一部の人には︑この古版である枇繼物語を用ゐてゐたものと見えるが︑又この物語に小世繼といふ名が

ある︒棄永七年の辨疑書Ⅱ鋒には﹁世繼物語評啼韮岬一我小よつぎ卦五孵稀哉毅奉罪癖祁暦とある︒此の書を引用し

た山城名勝誌に就いては夙く類聚物名考が指摘してゐるし︑宮田氏も亦訓禿をされたが︑これには小世繼物語叉は只

小枇繼と呼んでゐる︒群書一蝿には宇治大納言物語三巻としてあるから︑多分三巻刊本によったのであらう︒而して

これは本名小世繼といふもの也又一巻の刊本に世繼物語と題せる本あり此書と同文也

とある︒﹁同文也﹂は見方がや上粗漏であるが︑﹁本名小世繼﹂といふのを見ると︑山城楽勝志の引用に照して一般に

行はれた名らしい︒類聚名物考は﹁小世繼物語一名宇治大納言物語﹂として︑やはり小世繼物語を本名としてゐる︒し

かし小祉繼若しくは小世繼物語と題した本の有りや無しやは知らない︒靜嘉堂文庫國書分類目録に﹁小世繼物語一

巻﹂が見えるから調べて貰ったら︑原題鐙が失はれて後人の書外題である曲の︑答を︑川瀬一馬氏から受けたのであ

る︒この世繼若しくは小世繼心名を以て命じたのは宇淌大納言物語の名よりも後の事らしいが︑之については︑佐藤

といはれてゐるが︑世繼の名は首の一段からばかりでなく︑榮華物語の話の多いことから出たものではなからうか︒小 博士が

負はせたるなる︒へし︒ 繼といふ名は榮華物語又は大鏡の一名なるを︑それに比べてはいと短き故唱小世繼とは叉後の人のさかしらに たらんを︑題號の知られぬまょに︑之を取りて題號としたるならん︒群書一随に或は小世繼と號すといふは︑世 余が思ふには︑此物語は例の題號を失ひたるが︑甘の一段は世繼︵嘩拝榊蠕︶に出でたれば︑上層に世繼物語と記し

(33)

世繼の稲呼についてはもとより椰士の誰の如くであらう︒この剛名の先後なども勿論不明であるが︑私はかの御伽草

子に小敦盛・小落窪などいふ名のあるやうに︑小枇繼の名が近古末に存した古い名であって︑世繼物語と大きな名に

なったのは︑この本を版にした時にさう命名したのではなからうかと恩ふ︒群書一随が﹁本名小世繼﹂といふやうに

小批繼の方が古かったので︑一般には共の方が通川してゐたのではないかと︑洪然考へてゐるのである︒術佐藤博

と言はれたことは︑徳川時代の版本だけに就いていへぱそれでもよいがへ測って老へれば已述の如く宇治大納言物語

といふ名が錘も古く表はれてゐるのであるから︑さうは言はれないのである︒私は宇治大納言物語・小世繼・世繼物

語の順序に生じて來たのではないかと思ふ︒

経に我が九大本のやうに宇治拾遼と合本されたのは何時顔であらうか︒第一か上る本が他にもあらうか︑私は未見

未聞である︒宇治拾遺物語と宇流大納言物研とが名榊の上からも又内容の上からも合本され易い可能性はあるが︑古

くから.永く別産になってゐた本である︺本刺書癖目録に﹁宇治拾遺物誠Ⅷ廿巻恥僻﹂とあるが現存の宇治拾遺が十五

巻であるから︑之に宇治大納言物研を加へて竹巻としたのだとも老へられないのでもない︒なるぼど今の拾通は十五巻

宇治拾辿物語の一本より五一全一○九︶

士が

此普は初めに題號を矢ひたるものを︑世繼物語と名づけ︑後に増して

るぺし︒

0

︵程睦誹味釧札︶宇治大納言物語といひしな

1

(34)

I

丈艇肝究錐九岬五二二一一○︶

に別けてあるが︑二巻本あり八巻本あり︑現にこの九大水の袷迩の部分のやうに川を本にもなり得る性伐のものでも

あるので︑拾遺の巻数が初めから明瞭に分ってゐたものなりや否やも明かでない鯉であって見れば︑班に現行本を標

準にして本州書籍目録の本が︑字流鈴迩に何か加はったものだなどとは一概に言はれないのであらう︒とにかく姶迩

と枇繼とは多くの本が別物として近世まで來てゐるのであるから︑雨者の合併はこの本に於ける特殊な事件のやうに

恩はれる︒しかしこの本が剣めてしたことだとも言はれない鮎があって︑この本の前に己にあったらしいのである︒

版本を見ると一巻本にも三春本にも目録がないのであるが︑この本には巳述の如く目録があって︑これは拾通に合せ

るために作ったものらしい︒然るにその目鋒を見ると文字を応し決ってゐる︒

中宮五うに出てさせ給ふ事︑

○○○○といふのが是である︒この五の字の下は節字である袴なのに節の車書が郎の草書に近い虚から︑書誤ったものである︒

0つ若しとの蒋本の主が始めて作った目録ならば︑本文には五節と明かに記してあることでもあり︑決して級ることはな

○O

かつたらう︒然るにか上る渓をしたのは︑巳に出来てゐた目録の文字を堀す際に︑機械的に摸扇して︑節字を郎字と

見誤ったものではないかと恩ふ・かLる軸から己に合本したものが︑この席本以前にあったらうと老へられる︒それ

も何れ徳川期に入ってからだらうとは思ふが︑とにかく形だけでも珍しい一本とは言ひ得ようと恩ふ︑

︵追補︶靜嘉堂文庫所職の諸本については・浅野知三郎︒川瀬一馬叩氏の厚意による報告を得たから︑剛者を合せ考

へて︑参考の爲に餓に補註することにする︒ ︵昭和九年九月十六冊稲︶

参照

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