徳之島の民俗芸 能−特に盆踊りについて一
宜 保 栄 治 郎
− 7 9 −
1.始めに
戦後画一的な皇民化教育から解き放された地方が、自らの地域に目を向け自らの手で地域文 化の掘り起こしや調査を始めたが、奄美も其の例外ではなかった。民俗芸能の分野に限ると鹿 児島県文化財審議委員の小野重朗氏や、久保けんお、小川学夫、向山勝貞、徳富重成の各氏等 である。民俗芸能を分かり安く言えば、歌と踊りと言う事になるが、先記の方々の中で特に此 の分野のみを専門的・重点的に研究しているのは、久保と小川,向山の三氏である。どちらか と言えば、久保氏は芸能を音楽の面から、小川氏は民謡を文学の面から、≦向山氏は演劇の面か ら調査しているようである
O・東京を中心とした本土側では、民俗芸能学会の会長である本田安次や三隅治雄の両氏を始め として岸辺成雄、内田るり子、小島美子、松原武実、山口修の諸氏が十数年前から九学会の調 査を機会に現地調査を行い大きな業績を上げている。一方、沖縄側は、研究者の世代が若い事 と、沖縄諸島、宮古、八重山諸島と言う広大な地域の上に、其処で行われる祭と芸能の多様さ も相まって、其の概要の確認にかまけてとても北にまで手を伸ばせないと言うのが5,6年前 までの実情であった。漸く沖縄の概要が分かり掛けたここ数年来、仲宗根幸市、当間一郎、大 城学其れに筆者等が沖縄と奄美芸能の比較と言う視点から手を染め始めた段階である。
2.徳之島の盆踊り調査
期 日 昭 和 6 0 年 8 月 2 8 日 〜 9 月 1 日
場 所 徳 之 島 町 手 手 戸 数 1 1 0 、 生 徒 数 約 3 0 名
盆 の 行 事
(1)浜下り盆後のツチノエとカノトに行う。浜に小屋掛けをする。
(土を踏んで下り、金を踏んで上がると縁起を担ぐ)
(2)餅貰う(ムチムレー)盆踊りの事
浜下りと餅貰いは本来直接の関係はなかったが、役人の指示により豊年祝いと三つ を一つに纏めさせられたと伝えられている。
午後6時30分
小中校の校庭には既に櫓(地謡用のバンク)がかかれている。生徒達が三三、五五集まっ
て来る。15,6名も集まると東西二手に別れ(男8名・女4名)村の家を巡り始める。其の
うち男1名は太鼓を打ちながら歌を歌い、女の1名も歌を歌う係になる。因みに此の2名は
掛け合いで歌うことになる。
一 別 一
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餅給りの子供たち
鴬
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も の を 貰 う 子 供 の 係
− 8 1 −
衣飾男は普段衣で上衣は半袖のシャツ下半ズボン、頭から白い布(土地の人は敷布と呼ぶ 3尺−5尺)を頭に被り、其の上から帽子(普段用)を被り布を押さえ、右手は日の丸を描 いた扇(末広)を持ち、足にはズックや草履を履く。女は頭は姉さん被りに着物は黒地の浴 衣に娘らしい黄色や青の帯を後結び、足は下駄を履く。両手の指(中指と薬指)の甲に白い 花を挟むb踊り方は左右の手を交互に頭上まで上げてこねり其れに合わせて、左右の足を交 互に出す(沖縄のカチャーシーの踊り方ににている)。昔は娘達も白い布で顔を隠して他人に 分からないようにしていた。たまに他のアグの若者がからかってアンゴウ(娘のこと)の顔 を見ようとして、喧嘩になることもあった。何故白い布を被るのかは分からないという(注、
盆の精霊が顔を隠すためである)。餅給れと言うのはお盆の事(異称)。
子供の組織昔は、村にアグと呼ぶ子供の集団が幾つもあった。餅貰いの時も此の集団は作 られた。作る時には、中心になる者が新しい帯を買って、自分のアグに入って踊ると言う約 束をする。その時に帯の端っこを裂いて相手に遣り、手形とした。もし約束を破ったら新し いおびを買って弁償するという慣例があった。
家巡り子供たちは道から庭先に繰り込むと、家人の有無を確かめ、了解を得てから輪になっ て踊り始める。輪は左廻り(時計の針と反対の方向)である。先ず男の子が太鼓を叩き大声 で「餅たぼれたぼれ」と歌うと皆はそれにつれて踊り、更に次の歌を女の子が掛け合いの 調子で歌い継ぐと言う方法である。
餅係子供達の中の男の子1名が一輪車をもち其れに段ボール箱を載せて、貰った餅やお菓子 を入れて付いて廻った・金をくれる家も有る。その処分は不明。
(1)節(沖縄の民謡の「漢名節」、俗称唐船ど−いの類曲)
(2)歌詞。
男 餅 た ぼ り た ぼ り 祝 い の 餅 た ぼ り ヨ ー イ ワ ナ ー
惜 ら さ や 有 て ん ぱ 一 つ た ぼ り ハ イ ヤ セ ン ソ ー ソ ラ イ ト ナ ー 女 遠 方 か ら 此 処 に 餅 貰 れ が 来 た し が ヨ ー イ ワ ナ ー
惜 さ や 有 て ん ぱ 一 つ た ぼ り ハ イ ヤ セ ン ソ ー ソ ラ イ ト ナ ー 男 今 年 改 ま て 秋 餅 ぬ 流 行 て ヨ ー イ ワ ナ ー
惜 さ や 有 て ん ば 一 つ た ぽ り ハ イ ヤ セ ン ソ ー ソ ラ イ ト ナ ー 女 此 ん 殿 地 祖 父 や 果 報 な 人 ど や し が ヨ ー イ ワ ナ ー
米 倉 や 前 な ち 床 や 腰 当 て ハ イ ヤ セ ン ソ ー ソ ラ イ ト ナ ー 男 上 田 小 ん ば 吾 田 小 下 田 小 吾 田 小 ヨ ー イ ワ ナ ー
吾 嫁 な て 来 ん 人 や 真 米 丸 抱 き ハ イ ヤ セ ン ソ ー ソ ラ イ ト ナ ー 女 此 ん 殿 地 庭 な 招 き 木 や 植 え て ヨ ー イ ワ ナ ー
南 北 ぬ 真 米 招 き 寄 せ ろ ハ イ ヤ セ ン ソ ー ソ ラ イ ト ナ ー 男 餅 欲 さ て ん 非 ら じ 米 欲 さ て ん 非 ら じ ヨ ー イ ワ ナ ー
昔 親 祖 先 が 簾 き だ れ ん ど ハ イ ヤ セ ン オ ー ソ ラ イ ト ナ ー
(注子供達の踊りはここまでの歌詞で1戸終わる)
一 醜 一
子供達は、今年は9時頃まで巡って、学校に戻って来た。
午後9:00小中校の校庭に盆の送りを済ませた大人達が、続々と集まってくる。地謡を担 当する人(70歳前後の男女)達は三線や太鼓を持って櫓の上に上がる。早速録音された歌に あわせて、賑やかに嚇子始めた。節は終始沖縄諸島で言う「唐船ドーイ」である。沖縄のエ イサーのように節を替える事はしない。櫓の下の芝生の上では2,3歳の子供達が踊る。夜
店も開かれている。
やがて、婦人20名に壮年の男20名位が、木の下で踊りの支度を始める。
支度男は頭に白布(敷布と呼ぶ布巾3尺・長さ5尺位)を被り、其の上に鉢巻き(紐)
を後ろ結びにし布を固定する。上着、下着供とも普段着(半袖のワイシャツに色物の ズボン)を着け、足は下駄や草履を履く。右手に扇(末広)をもつ。
女は、白いタオルを目深に姉様被りをし、着物は白地や紺地の絵かすり(浴衣風)を 着け、帯は紺や黄色で後ろ結び、あしは白足袋に下駄を履き、手甲からは直径12セン
チ位の白い花が覗いている。
踊り支度が揃うと男は右側に10名が縦に1列に並び、女はその左に14,5名が縦1列に並 び一斉に歩きながら節に合わせて踊り始める。
盆の供えものをした仏壇 餅貰いを踊る大人たち
輪は男を外円、女は内円にし左まわり(時計の針と反対の方向、沖縄の伝統的な呼び方で は、右手が外側になるので右廻りと呼ぶ)。奄美の節は六調の調子なので歩行が早く、まるで 阿波踊りリズムのようでさっ、さっ、さっと動き壮観である。今年は参加者が少なく櫓の周 囲をパレードする様に見えるが、完全な輪になるのが本来だそうだ。先頭の男(中島一さ ん)は踊り手全体のリーダーで、右手に日の丸の扇を持ち、さらに布を両手で掴まえて、節 に合わせて威厳を込めて両手を上下させて踊りながら皆を引っ張っている。男性は右手に扇 をもち、右手が上がった時に右足を前に出し重心をかけ軽くステップ(膝で1拍子をとる)
し、次に左手を上げ、ひだり足でステップする。つまり舞踊の振りで言う南蛮である。女性 も基本的には、男性と同じ踊り方であるが、両手を沖縄の姉小踊いのように頭上でこれる。
大宜味の女エイサーのように足を前に上げるのではなく絶えずすり足で進む。中島さんによ
一 闘 一
ると、男の踊りは6拍子で右手を上げ、あとの6拍子で左手を上げ、その間に右手を下ろす ようにしているとの事、それは、10年程前に、NHKの「ふるさとの歌と踊り」に村が出演 した時に各人の振りにずれが有ったので、検討の結果6拍子に決めたとのこと。
校庭で5分程踊った後、村人達は地謡と踊り手を先頭にして、学校の西側の井上家へと移 る。庭に入ると先ず地謡達は、片隅の適当な所に男女各々4,5名が陣取る。其処へ踊手達 が男を左(輪の外)、女右(輪の内)にして2列になって繰り込んで来る。5,6節も踊ると一 行は次の家へと向かう。其の間に餅貰い役は其の家から物品を貰うようだ。
当日巡った家(庭の広い家が選ばれた)
1 、 い の う え 2 、 山 田 忠 一 3 、 原 口 実 富 4 、 中 島 テ イ 5 、 平 井 幾 次 6 、 手 島 キ ク
10時30分頃村を巡り終わった餅たぼうりの一行は校庭に帰って来た。一服した後も又 賑やかに踊りまくった。踊りの周期は五分踊って15分休むと言った具合で特に6,70歳の踊 り手も中に混じって居るので中々重労働である。伝統的な餅給れ−の合間には、本土風の盆 踊り「炭鉱節」「鹿児島おはら節」を楽しんでいた。
餅給り(ムチタボウリー)
(1)節名餅給り(沖縄諸島の「漢名節」俗称唐船ど−い)
( 2 ) 使 用 楽 器 太 鼓 、 三 線
( 3 ) 歌 詞
① 餅 給 り 給 り 祝 い ぬ 餅 給 り ヨ ー イ ワ ナ ー
惜 ら さ や 有 て ん ば 一 つ 給 り ハ イ ヤ セ ン ソ ー ソ ラ イ ト ナ ー
② 遠 方 か ら 此 処 に 餅 貰 れ 減 来 た し が ヨ ー イ ワ ナ ー
惜 さ や 有 て ん ば 一 つ 給 り ハ イ ヤ セ ン ソ ー ソ ラ イ ト ナ ー
③ 今 年 改 ま て 秋 餅 ぬ 流 行 て ( 以 下 嚇 子 略 ) 惜 し さ や 有 て ん ぱ 一 つ 給 り
④ 此 の 殿 内 祖 父 や 果 報 な 人 ど や し が 米 倉 や 前 な ち 床 や 後 さ て
⑤ 上 田 小 ん ぱ 吾 田 小 下 田 小 ぱ 吾 田 小 吾 嫁 な て 来 ん 人 や 真 米 丸 抱 き
⑥ 此 ん 殿 内 庭 な 招 き 木 や 植 て 南 北 ぬ 真 米 招 き 寄 し ろ
⑦ 餅 惜 さ て ん 有 じ 米 惜 さ て ん 有 ら じ 昔 親 祖 先 が 膜 き だ れ ん ど
⑧ 山 の 窪 溜 や 雨 降 れ ば 溜 ま る 降 ら じ し ゅ て 溜 ま る 此 ぬ 屋 敷
⑨ 畦 越 ぬ 水 や 塗 や ぐ り ば 止 ま る 吾 が 二 十 頃 や 止 み や な ら ん ど
⑩ 歌 知 ら ん 知 ら ん 歌 い 節 知 ら ん 酒 と う か 杯 待 ち く 習 ら そ
⑪ 酒 と う か 杯 待 ち 来 ち 来 ゆ た る む ん 小 ぬ 習 し 馬 小 乗 ゆ ん ち 手 打 ち ち や ち
⑫ 六 十 一 願 う て 七 十 三 願 う て 八 十 八 願 う て 九 十 九 ま で
⑬ 天 ぬ 群 星 や た だ 読 め ば 五 ち 親 ぬ 寄 言 や 数 や な ら ん
⑭ 久 高 糸 満 や 波 ぬ 子 ど や し が 此 れ 産 ち や る 親 や 神 ぬ 生 ま れ
⑮ 鶏 ぬ 鳴 く 頃 に 起 こ さ り て か ら は 夜 ぬ 十 二 じ ま で 阿 旦 葉 作 て
一 別 一
⑯ 七 月 ぬ 七 日 糸 瓜 染 み 立 て て 白 紙 な 字 書 ち 立 て て 奇 麗 さ
⑰妻なすんち思て草履作て覆まち貰れな来ちゃんち聞ちゃと吾草履戻せ
⑱女童ぬ清ら女童や髪結いぬ清らさ二才ぬ清ら二才や肝ぬ高さ
⑲此ん殿内内庭に入り込んだるお客や明日ぬ太陽加那志上がる迄も
⑳熟まれ稲加那志鎌かけて見欲さ清ら生まれ女子手掛け見欲さ
⑪遠方んどぬ島に吾親一人置つち夕間暮なれば思いど勝る。
⑳ 阿 旦 根 川 ぬ ぐ い ん ぐ い ん 木 小 枝 持 ぬ 清 ら さ 吾 役 目 が 懇 小 手 持 ち 清 さ
⑳ 月 加 那 志 さ え も 雲 ぬ 下 ど な ゆ り 如 何 清 ら は ん 人 ん ば 下 ど な ゆ る
⑭ 元 旦 ぬ 朝 床 向 て 見 れ ば 鶴 や 羽 は た て 舞 い 清 ら さ
なお、此れらの歌詞は、8番までは内容からしてある程度順序が決まっているが、9番以下 は自由であり、知っている共有の歌は際限なく放り込まれる。
注1,「丸抱く(マンダチ)」は、両手で丸抱えにする状態を言う。
2、「手打ちちやち」は手を放したとか、ほったらかす事を言う。
3、「寄言(ユシグト)」は、言いつけ又は格言の事。
4、「数む(ユム)」と読み、物を数える事。
5、「久高糸満」は、奄美で漁夫の事を指す。
6、「阿旦葉作て」は、帽子を作る原料のあだんの葉を製造する事。
7,「糸瓜(ナブラ)染み」は、糸瓜の汁を染料にして染めたものと伝えられている。
8、「貰な来んち聞ちやと」は、余所から嫁に貰いに来たと聞いたので
9「ぐいんぐいん木」は、植物「琉球つげ」の事で沖縄では、ギギチと言う。
3.手手の民謡調査
(1)日時昭和60年8月31日
(2)場所徳之島町手手3262番地
(3)被調査者福山忠徳明治39年6月20日生(巳の人)
福 山 コ メ ( 同 年 生 ま れ )
(4)民謡「まんこい」
節 名 ま ん こ い 歌 詞
① ア マ ー ン ジ ュ ー ガ ー ト ウ ナ ク ヨ ー
(嚇子)マーンコーイー
ワ ー ジ ュ ー ガ ー ワ ー ジ ュ ー ガ ー ミ フ ー ニ ー
( 噺 子 ) マ ー ン コ ー イ ヤ ー ニ ー ヌ マ ー ン コ イ フ ー ニ ナ ナ ツ ウ ク テ
( 嚇 子 ) マ ー ン コ イ ヤ ニ ー ヌ マ ー ン コ イ
(和訳)
あまんじゅうの沖に
吾 の 主 ( 父 ) の 御 船 を
船 七 つ 浮 け て
− 稲 一
② イ チ ー ガ サ ー キ ー ハ ー ユ シ ヨ ー 真先に駆けるのは
(噺子)マーンコーイー
吾 聿 が 新 船 だ ワ ー ジ ュ ー ガ ー ワ ー ジ ュ ー ガ ー ミ フ ニ ー
( 嚥 子 ) マ ー ン コ ー イ ー ヤ ニ ー ヌ マ ー ン コ イ
③ ン キ ョ ー ヌ グ ー シ ー ナ ー ン ヤ ヨ ー 三京(山)後ろに
(噺子)マーンコーイー
ン ギ ャ ー ミ ー ジ ー ン − ギ ャ ー ミ ー ジ ー ヌ ア ン テ ー ン ド ー 苦 水 が 有 る っ て さ
(噺子)マーンコーイー
女 在 振 る 男 を
④ ト ウ ジ ー フ ー ユ ー ル イ ー ン ー ガ ヨ ー
(嚥子)マーンコーイー
ソ ー テ イ ー イ ー ソ ー テ ー イ ー ジ ー ヌ ー マ ー ソ ー 連 れ て 行 っ て 飲 ま そ う よ
( 嗽 子 ) マ ー ン コ ー イ ヤ ニ ー ヌ マ ー ン コ イ ー
男を振る女を
⑤ ウ ト ー フ ユ ー ル ー ウ ー ナ ー グ ヨ ー
(嗽子)マーンコーイー
ソ ー テ イ ー イ ー ジ ー ソ ー テ イ ー イ ー ア ミ ー サ ー 運 れ て 行 っ て 飲 ま そ う
( 嚥 子 ) マ ー ン コ ー イ ヤ ー ニ ー ヌ マ ー ン コ イ
未 だ 子 供 な の で
⑥ ナ マ ー ワ ー ラ ー ピ ー ナ ー テ ー ル ヨ ー
(嗽子)マーンコーイー
女は男を振りました ト ー ジ ー ヌ ー ウ ー ト ー ン バ ー フ ヤ ピ タ ル ー
( 噺 子 ) マ ー ン コ ー イ ー ヤ ニ ー ヌ マ ー ン コ イ ー
大島から此の島に
⑦ ウ シ ー マ カ ー ラ ー ク ヌ シ マ ー ニ ヨ ー
(噺子)マーンコーイー
ヌ ー ヌ ユ ー ジ ー ヌ ー ヌ ユ ー ジ ー シ ケ ー タ ー ン ガ ー 何 の 用 事 で 来 た の か い
( 嚥 子 ) マ ー ン コ イ ヤ ニ ー ヌ マ ー ン コ イ ー
黒砂糖と細かい砂糖を
⑧ フ ル ザ ト ー ト ウ サ ー ン ザ ト ウ ヨ ー
(嚥子)マーンコーイー
積みに来たのだよ チ ー ニ ー ガ ー チ ー ニ ー ガ ー ケ ー タ ー ン ド ー
(畷子)マーンコーイーヤーニーヌマーンコイ
注1、アマンジュは人名か地名かは不明と言う。奄美渡の意か。
2、マンコイは人名か、恋歌と言うイメージは此の言葉からくるようだ。
3、イチガサキは「一が先き」で一番真先のこと。
4、ンキョウは「三京」と書き徳之島に有る字名。
5、ンギャミジは「苦水」と当て、塩辛い水の事。伊平屋村田名にも古くから民謡に歌
わ れ た ン ジ ャ ミ ジ が あ る 。
田 名 の 後 な か い 苦 水 の あ ゆ ん
一 筋 一
夫 振 ゆ る 女 あ れ に 浴 み し 夫 も 振 や く ら ぬ 姑 も 振 や く ら ぬ
な ま 童 や て ど 一 人 や 振 た る
6、ウトは本来は夫の意であり、トジは妻の事である。此の歌の場合は男と女と解した
方が意味が通るようだ。
特徴と伝承
民謡のまんこいは大島本島にも分布する歌で、順風を受けて走る船足のような軽快なリズ ムと僅かに哀愁を帯たメロデーは聞く人を盧にする素晴らしい歌である。メロデーが哀愁を 帯びていると言うことは恋歌であり、船に乗っているワージュウ(吾が主人)は愛しい人で ある可能性がある。大島本島のものと徳之島のものは元は一つの歌であった可能性があるこ とは、比較するとよく分かるが、どちらかと言えば大島のものは小節が効いて繊細な歌い方 になっているのに対して、徳之島のものは飾り気が無く素直(素朴)に歌っていると思われ る。野原や山で遠くまで届く為には搦々と響くような歌が要求されたからであろうか。
徳之島でも若い頃から近隣に鳴り響くような歌い手であった福山コメさんは、この歌を母の 堀田タマガネ(巳の人、明治15年生)から少女の頃に習った。父の徳栄は三味線が好きで、
夜は三味線を取り出して弾き、母はそれに合わせて歌うというのが日課であった。コメさん も幼少のころからその影響を受けて歌が好きであった。特に此のまんこいが好きであったの で、母にせがみわざわざ畑で大声を張り上げて心行くまで伝授して貰った思い出の歌である
と言う。
(5)道歌(一名ボウジガニョウニョウ)
① ハ ー レ ー ヤ ナ ギ バ ナ イ キ テ ー 柳 花 を 活 け て ト ラ ヌ エ ー ヤ ー マ ー タ ー タ ー テ ー テ ー 虎 の 絵 も ま た 立 て て セ ン リ ー ハ ー ル フ ー ネ ー ヤ ー 千 里 走 る 船 は ヤ ー レ イ ー ト ウ ー ヌ マ ー タ ー ウ イ ー カ ー ラ ー 絹 の 上 か ら
ウ イ ー カ ー ラ ー
( 聡 子 ) ポ ー ジ ガ ニ ョ ウ ー ニ ョ ウ ー 坊 主 が 南 無 南 無
チ ュ ラ ー ギ ン グ ワ キ ッ チ ー イ ー モ ー リ ー き れ い な 着 物 を 着 て い ら っ し ゃ
い
② ハ ー レ ー タ ー ビ ヤ イ ク タ ピ ヌ ー 旅 は 幾 度 も カ ー リ ユ シ ー ル ー マ ー タ ー ニ ゴ ー ル ー 嘉例吉こそ願う ハ イ ム ー ド ウ ー イ ー ム ー ド ー イ ー 何 時 で も 戻 る の は ヤ ー レ ウ ー ヤ ヌ ー マ ー タ ー メ ー カ チ ー メ ー カ ー チ ー 親 の 前 に
(聡子)イキイキサンゴービングワー 満てるよ三合瓶小
ス ダ シ ヨ ー シ ジ リ フ タ ダ ワ 磨けよ御馳走入れ箱を
− 8 7 −
③ ハ ー レ ー ヤ マ ト タ ビ ス リ バ ー 遠ういい大和旅をしても ミ ツ ナ リ ー バ ー マ ー タ ー カ ー エ ー ル ー 三 年 も す れ ば 帰 っ て 来 る
ゴ ソ ガ ー タ ー ビ ー ス ー リ ー バ ー 後生の旅をしでかすと ヤーレーカーエールーマーターミチヤネーラーンドー帰る道はないぞ
( 嚥 子 ) ボ ー ジ ガ ニ ョ ウ ー ニ ョ ウ ー : 坊 主 が 南 無 南 無
チュラージングワーキッチイモーリー清ら着物を着ていらっしゃい
注1,
2 、
柳は末長くという縁起物。
虎は千里離れた所からも自分の住んでいた所にかえって来るという縁起にあやかつ
たもの。
ニョウニョウは意味不詳。坊主がお経を詠む状況か。
ハイムドイは行っては戻ること。
イキイキは不詳、三合瓶は三合入る小さい酒瓶のこと。
シジリフタは硯箱に似た御馳走入れのこと。
︑︑︑︑ 3456
特徴と伝承
此の道歌は内容の示す通り旅立ちをする人が、旅を終えて無事親の居る故郷へ帰って来る ことを願う、所謂嘉例吉の歌で、船のリズムを思わせる軽快な調子である。嚇子が椰楡的で あるのも面白い。近くの花徳村にも道節(二上がり・奄美徳之島民謡傑作集・セントラル楽 器)が有る。内容は恋歌になっている。節も結構違いがある。今のように画一化されないで、
耳から耳へ口から口へと伝わった頃の民謡はこのように島ごとに村毎にカラー(風)が有っ た。それが自然な姿であろうか。
覚え書き
ア徳之島で使用される楽器(三味線、太鼓)は全て大島本島と同じ物である。
イ三味線の演奏法も大島本島と同じ、沖縄と大きく違うのは「クワーイリ(子入れ)」と呼 ぶ技巧、つまり、弦を押さえる左手でも弾くことである。此の技巧により三味線は物を 言うことになる。(注沖縄の演奏技巧よりは複雑である)。
ウ奄美では六調を弾くと祭(踊り)は終わりになる。沖縄の「唐船ど−い」に似た性格の 歌であろう。
エ浜下りはハマクダリと呼んでいるが、昔はハマオリと呼んでいたのであろう。祈願の文 言等にハモリという詞がある。
オ大正の頃の若者男女の付き合いは、日が暮れると娘達は、女達(イナグダチ)の家によ なべ(主に糸紬)をするために集まるので、其処へ若者も遊びにきた。
また、若者は直接娘の家に忍び込むこともあった。
一 配 一
覚え書き2(中島一さんから)
餅貰い(盆踊り)
し じ
最初は井上家から始まる慣例になっている、理由は此の家は精気高い家だからである。其
の後は年毎に村の東と西と交互に始める。
昔は、仲間(アグ)どうしが組を作って廻った°
女の踊り子は昔は布で顔を包み他人に顔を見せなかった。他のアグが無理に顔を見ようと して喧嘩になった事があるほどであった。近頃は顔を隠す事はしなくなった。
初盆の家(前年の盆後に死者の有った家)は廻らないのが建前で有るが、死者が天寿を全 うしたとか、前の盆の直後に死んだので忌みが開けたとして其の家から特に要請が有った 場合は廻った。普通はパスをする。各家庭では廻って来る子供達に餅を振る舞った。たま
には明かりを消している家も有ったが、その時には歌でからかった。
子供達の踊り方子供達の踊り方は、昔と今では違ってきている。昔の踊り方は、右手を上 に右足をとんとんと踏む(ツーステップになる)、続けて左右をとんとんと踏むと同時に左手 を上げて踊った(注南蛮と呼ぶ振り)。いまは大人と同じ踊りを踊る。(大人の踊り方はツー ステップはせずに小刻みに歩きながら左右の手を交互に上げる)。男は巡査(学生帽を被るの で)、女の子はアンゴウ(娘の事)と呼んだ。
覚え書き3
年中行事録(昭和45年伊仙町西部地区森屋徳良外伊仙町社会教育課編より)
(字伊仙付近のもの)
正 月 1 日 正 月 の 歌 と 踊 り
2日み−やん祝い新築した家でやる。ハライ(祓い)とトネー(唱え)。
昔、子供達(小学生・中学生)が廻った°現在はやらない。
大人は輪踊りである。一定の決まりがあり、最初に御前風、口節、六調の 順である。残っているのは伊仙と阿権である。
3月3日浜下り初日村人皆下る、各血縁で集まるが、其の場所は決まっている。
2日闘牛で楽しむ。裸馬競争がある。トヨミ踊りがある。元歌が あったが今は替え歌で済ませている。
3日前年に生まれた赤児に、ミーバマクマス(最初の浜を経験さ せる)と言って必ず連れて来て、夕方まで浜で遊ばす。今は 子供の生まれた家だけが細々とやっている。
カ シ リ 藁 で 作 っ た 輪 。
徳之島町井の川は今でも盛んである。
6 月 し き ょ ま 稲 の 初 穂 を 床 柱 に 結 わ え る 。
8月15夜ハチグワチジュウグヤ
綱引き
角 力 沖 縄 式 の 角 力
8月踊り歌や踊りがあり、地域によってやり方が違う。
8月踊りは沖縄から伝わったと言う。
阿権ナオトミの歌(伊仙町誌P.642)
(直富よ姿卑し者ぐわぬよハレ唄うとち)
歌は最初はゆっくりだが次第に早くなる。(喜念が盛ん)
9月9日(クグワチクニチ)
目的は豊年祝で、昔は各地の浜で闘牛を盛んにやった。
正月7日送り正月血縁の絆を固める祭。歌も多い。
一 関 一
覚 え 書 き 4 書 き 4 伊 仙 町 犬 田 布 の 芸 能 日時昭和59年12月19日 被調査者木場篤哉(85歳)
(概要)此の村には7月と言う踊りがある。他の村の踊りは男女とも同じ手振りで踊る が、此処の踊りは男女とも違う手振りである。また、他の村の歌と歌詞は同じ だが節回しが違う。ヤマダシ(歌の打ち出しの事)旧暦8月15日に行う。
旧6月にはシキュマがある
旧 7 月 に は 浜 下 り 此 の 3 祭 は 最 も 重 要 で あ る 。 旧8月には8月15夜があり
旧9月9日シマイセックは廃れた。
手踊りとは自分で歌って自分で踊るものである。
町の文化財に指定されている民俗芸能は
1、東犬田布の「手踊り」4、徳之島一円民謡「前原口説」
テ イ ン チ ユ ア モ レ
2、喜念目手久の「八月踊り」5、伊仙地区の「天人女房口説」
3、犬田布の「イッサンサン(秋餅もらい)」
犬田布の手踊り
1 、 男 あ た ら し ち ぐ わ つ や み ふ ゆ な し ゆ せ に ほ − け ヤ ー ハ レ
(勿体ない七月を冬にしてしまって。)
女 あ た ら し ち ぐ わ つ ヤ み ふ ゆ な し ゅ せ に ほ − け ヤ ー ハ レ 2 、 男 く い あ し − び し た て − び や − か ち む る ら り よ − み
ヤ ー ハ レ ソ ラ ヨ イ ヨ イ 女 ( 上 に 同 じ 歌 詞 )
3 、 男 う り た わ − き や ゆ − る い つ や
い じ ゃ る し ち ぐ わ ち ぬ ハ レ な ん か ぬ
ソ ー ラ ソ ー ラ
一 卯 一
棒踊り鹿児島谷山の人で田島鼎時から習った。今から67,8年前 木場さんが17,8の頃である。1番、2番、と続く。6尺 棒を使う。短剣を腰に差しそれを使って演技もする。
現在は犬田布小学校生が運動会で演っている。中学にはその 録音もある。但し録音状態が悪い。
4 、 イ ッ サ ン サ ン
旧暦8月15夜の終わり頃イッサンサンと呼ぶ祭があり、餅たぼり または、秋餅む−れとも言う。此の行事は新しいと思われる。米を作
っていた村が古いようだ。
3.まとめ民俗芸能への認識
徳之島の社会が沖縄のように影響力の強い大和文化や外国(米国)文化に直接曝されていな いので、民俗意識が強烈でないせいもあり、徳之島が持つ民俗芸能が民俗の魂の拠所であると 言う認識までには到っていないようで、手手の場合も単に村落共同体の慣例で大人も子供も祭
に参加しているようだ。
民俗芸能は信仰を一つにする共同体(徳之島の場合は農業社会)の中で、創造あるいは伝承 活動は一人の力ではなく皆の力で為されるが、それが商・工業社会になり、個人の生き方が認 められると歌や踊りにも創作者が出てきて、芸術の域まで高められるようになる。其の事はと
りもなおさず、共同体で所有する信仰とは無縁の歌や踊り或いは歌い手や踊り手が派生してく るようになると思われる。大島本島には既に歌い手としては竹下和平、壷山豊、築地俊造等著 名な歌手が出てきているのがその左証であろう。
これまで日本国内であまり知られていなかった奄美の民謡が氏等の活躍によって漸く全国的 に知られるようになってきた。然し三氏とも大島本島の出身であるだけに、個性の強い民謡を 持つ徳之島を始めとする他島を充分にカバー出来るとは思えず、土着性を大切にする民謡の性 格からすれば必ずや、地元出身の歌者を要求することになる。其の要求によって出て来たのが、
亀津の福田喜和道、広田勝重、米川正夫、福山コメ、元村徳満氏等(奄美徳之島民謡傑作集セ ントラル楽器)である。中には歌手と言うには既に老齢の方もおられるが状況としてはプロの 歌手を要求される時期にきていると推察される。農業を基盤とした共同社会意識とそれを支え る信仰が希薄になりつつある徳之島の現況では、民謡を残す方法としては残念ながら其の方法 しか残されていないようだ。もう一つの方向としては、今の沖縄の初中校に芽生えているよう な学校で教材として取り上げる事も考えられるが、此のことは相当な期間を必要とする。えて して文化財的な物は消滅寸前に保護が為されるという当然な軌跡をもつ。その意味では徳之島 の社会は大きな音をたてて、古い精神文化が崩壊し、新しい別の文化社会へ移行する過程にあ
るといえそうだ。
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