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ニック・アダムズと「伝道の書」 : ヘミングウェイ 作品における宗教観再考

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

ニック・アダムズと「伝道の書」 : ヘミングウェイ 作品における宗教観再考

高野, 泰志

九州大学大学院人文科学研究院文学部門 : 准教授 : アメリカ文学

https://doi.org/10.15017/16879

出版情報:文學研究. 107, pp.68-86, 2010-03-01. Faculty of Humanities, Kyushu University バージョン:

権利関係:

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ニック・アダムズと「伝道の書」  

――ヘミングウェイ作品における宗教観再考 高 野 泰 志

イントロダクション

「インディアン・キャンプ」(“Indian Camp, 1925)は、アーネスト・ヘミ ングウェイの半自伝的登場人物ニック・アダムズを主人公とした一連の短編群 の最初の作品である。ニックの父親ヘンリー・アダムズ医師が、ネイティヴ・

アメリカンの女性に麻酔もかけずにジャックナイフと釣り用の糸で帝王切開手 術を行う物語であり、手術後に夫は妻のあげる悲鳴に耐えきれずに剃刀で首を かき切って自殺してしまう。その自殺したネイティヴ・アメリカンの姿をまと もに目撃したニックは、物語の最後に父親のこぐボートの中で、「自分は決し て死なない」と確信する。作品内容と矛盾するようなニックのこの確信は、こ れまで多くの研究者がさまざまな説明を試みてきた。大半の研究者は「イン ディアン・キャンプ」をニックのイニシエーションの物語と読み、ニックのイ ニシエーションが成功したのか、失敗したのか、という点を中心に議論してい る1

本論は出版直前に「インディアン・キャンプ」から削除された原稿にもとづ き、これら先行研究とは異なる新たな観点から作品を読み直す試みである。ヘ ミングウェイが原稿の前半部分を削除することで、結果的に物語はニックのイ ニシエーションを描いているように見えるが、実はその背後には宗教をめぐる 家族の問題が潜んでいるのである。従来のヘミングウェイ研究では、ヘミング ウェイの信仰心自体が考慮されることがほとんどなく、作品の持つ宗教性に対 して関心が向けられてこなかった。数少ない例外としては、オークパーク時代

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のヘミングウェイの宗教を扱ったラリー・E・グライムズ(Larry E. Grimes) の研究2と、ヨーロッパでカトリックに改宗したあとの、カトリシズムに関す るH・R・ストーンバック(H. R. Stoneback)の研究3がわずかにあるだけ である4。しかしヘミングウェイは、生涯にわたって作品中で信仰の問題を非 常に頻繁に扱っており、一部の作品はほとんど宗教小説と言ってもいい内容で ある。宗教に関して考察される必要性は十分に認識されながら、まだ十分に研 究されているとは言い難いのである。

ヘミングウェイ初期の代表的短編である「インディアン・キャンプ」は、こ れまで宗教と関連づけて論じられることは皆無に等しかったが、ここではこの 作品の隠された宗教性に着目し、従来とはまったく異なる解釈を試みる。まず 始めに出版された作品から削除された部分をあわせて見ることで、後のニッ ク・アダムズ物語にも受け継がれていくニックの闇への恐怖の原因が、実は宗 教の問題と深く関わっていることを明らかにする。続いてそのような宗教的問 題を生んだヘミングウェイの家庭環境を詳しく見ていく。ヘミングウェイ家で は、母親の楽天的な自由主義神学と、父親の厳格な正統派ピューリタニズムと が併存していたのである。そしてこのふたつの宗教の混在が削除された原稿で は重要な意味を帯びていることを明らかにし、その結果、実は当初、「インディ アン・キャンプ」はニックが宗教的な恐怖を克服する物語として書かれていた ことを暴き出す。

.恐怖の引き金

「インディアン・キャンプ」には本来タイプ原稿で約ページにわたる導入 部分があったが、発表直前に削除された。この断片は死後に「三発の銃声」

(“Three Shots, 1972)というタイトルでフィリップ・ヤング編集の『ニック・

アダムズ物語』(The Nick Adams Stories, 1972)に収録される。「三発の銃声」

のあらすじは以下の通りである。父親と叔父のジョージと人で森にキャンプ にやってきた主人公のニックは、夜釣りに出かける父親とジョージおじさんを 送り出して、ひとりでテントで眠ることになる。父親は出発するとき、もし何

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かあったらライフルを三発撃てばすぐに戻ってくると約束する。テントでひと り眠ろうとするとき、ニックは急に森の暗闇が恐ろしくなってくる。恐怖に耐 えられなくなったニックは、ついにライフルを三発撃って父親たちを呼び戻 す。父親もジョージも、ニックがたんに臆病なためにライフルを撃っただけで あるのには気づいていたが、約束通り釣りをあきらめて戻ってくる。ちょうど そこに付近のネイティヴ・アメリカンの集落からの使いがあり、出産の手助け をしてやらなければならなくなる。父親は前夜のようにニックをテントに残し ておけなかったので、一緒につれていくことにした、というところで「イン ディアン・キャンプ」本編へと接続する。

まず最初に物語を動かすきっかけになるニックの恐怖を見てみたい。

Walking  back  through  the  woods  Nick  began  to  be  frightened.  

He was always a little frightened of the woods at night.  He opened  the flap of the tent and undressed and lay very quietly between the  blankets in the dark.  The fire was burned down to a bed of coals  outside.  Nick lay still and tried to go to sleep.  There was no noise  anywhere.    Nick  felt  if  he  could  only  hear  a  fox  bark  or  an  owl  or anything he would be all right.  He was not afraid of anything  definite as yet.  But he was getting very afraid.  Then suddenly he  was afraid of dying.  Just a few weeks before at home, in church,  they  had  sung  a  hymn, Some  day  the  silver  cord  will  break.   While they were singing the hymn Nick had realized that some day  he must die.  It made him feel quite sick.  It was the first time he  had ever realized that he himself would have to die sometime.  (NAS  13-14)

ニックは夜の森を恐れている。たき火の火は消え、おそらくあたりは完全に暗 闇に包まれている。「何かはっきりとしたものには恐怖を感じない」と述べて

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いることからも、暗闇に潜む、未知のものをニックは恐れているらしい。そし てその未知のものの究極が、自らの「死」であり、ニックはつい最近、自分が 死ぬ可能性にはじめて気づいたというのである。ニックの中で、森の暗闇は自 らの死の可能性と結びつき、恐怖を増幅させる。この後、教会から自宅に帰っ ても暗闇は死と結びつき、ニックをおびえさせることが描かれる。自分の部屋 で眠ることができず、ニックは玄関の常夜灯で本を読むことで、朝までの時間 をつぶすのである。このような、ニックの死への恐怖、夜の闇への恐怖、それ に伴って生じる不眠症というモチーフは、後のニック・アダムズを主人公とし た一連の短編小説に非常に頻繁に見られるものである。しかし「三発の銃声」

で描かれる恐怖は、これ以降の短編とは決定的に異なっている。後のニック・

アダムズ物語で描かれる恐怖は、戦場での負傷が原因とされているが、「三発 の銃声」の場合は、幼いニックの恐怖は戦争とは何のかかわりもないのである。

まだ戦争に行ったことのない幼いニックが、戦場での負傷兵ニックと似た恐怖 に捕らわれていることは非常に重要である。従来は当然のように、ニック・ア ダムズ物語に一貫して現れる闇への恐怖は、戦争後遺症によるものと解釈され てきたからである。

また、もうひとつ非常に興味深いのが、ニックの恐怖の引き金を引いたのが 教会での賛美歌であることである。ここでニックの夜の闇への恐怖を考えてみ る際に、従来の研究のように第一次世界大戦での負傷だけを原因とするのでは なく、ヘミングウェイの経験した宗教をもう少し詳しく考えてみる必要がある のではないだろうか。

.オークパークの光と闇

これまでのヘミングウェイ研究の常識では、ヘミングウェイは故郷オーク パークの宗教に反発していたと考えられてきた。たとえばスコット・ドナルド

ソン(Scott Donaldson)は「[アーネストの]幼少期の教育は、世の中がバ

ラ色をしているかのように教え込んだ。しかしそのようなものの見方は、身の まわりのあらゆるところで出会う、現代の生活の野蛮さとは一致しなかった。

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特に第一次世界大戦は、アーネストがオークパークの宗教にはっきりと幻滅す るきっかけとなったのである」(224)と述べている。ヘミングウェイは第一 次世界大戦を経験した結果、故郷の宗教の説く楽天的な世界観がもはや通用し ないのだということに気づき、その宗教観に反発したのだというのである。し かし、この見解には大きな問題がある。なぜならオークパーク時代のヘミング ウェイを取り巻く宗教的環境は、必ずしも一枚岩ではなかったからである。

ラリー・グライムズは当時のオークパークの宗教的状況を綿密に調べ、町の 大多数の人たちの信仰する宗教を「自由主義神学とヴィクトリア朝的道徳観と センチメンタルな敬虔さの雑多な寄せ集め」(“Religious Odyssey 37)であ るとまとめている。そしてオークパークの宗教の根幹をなす自由主義神学を以 下のように説明している。

[オークパークの抱く]神話の本質は、人間が無垢であるという認識であ り、健全な精神であり、社会の進歩であり、楽天主義である。これらはみ な自由主義神学の特徴である。(中略)ある信者は「もし誰もがずっとオー クパークに住み続けていれば、『人生は生きるに値するか』という質問に は簡単に答えられるだろうし、『伝道の書』が書かれることもなかっただ ろう」と主張している。(“Religious Odyssey 37)

確かにヘミングウェイは、このような楽天的な宗教観には非常に批判的であっ た。たとえば「インディアン・キャンプ」に続く短編「医者とその妻」(“The  Doctor and the Doctor's Wife, 1925)では、ニックの母親がこういった自由 主義神学以上に進歩的なクリスチャン・サイエンスに傾倒している5ことが描 かれるが、ニックは物語の最後で母親ではなく、父親を選択してふたりで森 へと向かう。またニック物語以外でも、オークパークではなくオクラホマに 舞台を設定されているものの、初期の短編「兵士の故郷」(“Soldier's Home,  1925)で涙を流しながら息子をひざまずかせ、神に祈ることを強要する母親 の姿がセンチメンタルなオークパークの宗教を描いたものであることは明らか

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である。つまりオークパークの自由主義神学は、ヘミングウェイ作品では母親 に代表されているのである。そして実際ヘミングウェイの母グレイス(Grace 

Hall Hemingway)も、このようなセンチメンタルで「健全な」信仰を持っ

ていたことが知られている(Grimes, Religious Odyssey 44)。これまでヘ ミングウェイは故郷オークパークの宗教に反発していたと解釈されてきたが、

ヘミングウェイが反発していたのは、こういったセンチメンタルな信仰心であ り、母親の宗教なのである。

その一方でヘミングウェイの父親はこのような自由主義神学を信仰しては いなかった。楽天的で人間の善を信じるグレイスとは違って、父クラレンス

(Clarence Edmonds Hemingway)は非常に厳格な宗教的規律で子供たち をしつけていた。その厳格さは、これまでヘミングウェイ研究者が考えてい た以上に激しいものであったようである。モリス・バスク(Morris Buske) は、ヘミングウェイの一歳年上の姉マーセリーン(Marcelline Hemingway 

Sanford)が書いた伝記から、出版の際に削除された原稿を検証し、これまで

知られていなかった父クラレンスの家庭内での姿を暴き出している。クラレン スはしばしば子供たちに暴力的に体罰を加え、自分が悪いとみなしたことをす ると、急に性格が変貌し、手や革紐で子供たちを何度も叩いた。

折に触れ、私たちが幼かった頃はほとんど何をしても叩かれていたような 気がする。なぜ叩かれるのか説明されることはなかったし、私たちのこ とを理解しようともしてくれなかったし、私の見たところ、なぜ私たち がそんなことをしたのか分かろうと努力してくれているようには思えな かった。(中略)両親や召使いが行儀が悪いと考えることを私たちがして しまったら ― 彼らの考える悪いことを私たちがしたら、私たちは叩かれ たし、どうしてそんなことをしたのか尋ねられることもなかった。よく覚 えているのだけれど、お母さんとお父さんが旅行でいなかったときなど、

帰ってくる日になって、子守の女の子やコックや私たちの世話をすること になった人たちに「私いい子だったよね?いい子だったって報告してもい

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いよね?」とよく聞いたものだった。なぜなら悪い子でした、行儀がよく ありませんでした、言うことを聞きませんでした、と報告する羽目になっ たら、あるいは両親が家に入ってきて「アーネストはいい子だったかい?

マーセリーンのお行儀はよかった?」と聞いたとき、メイドが「実は時々 ちょっと行儀の悪いときもありました。たまに私の言うとおりにしようと しなかったんです」などと答えたら、それ以上一言も喋らずに、ただ私た ちはお父さんの診察室に連れて行かれ、膝に載せられてさんざんに叩かれ ることになったからだ。手で叩かれることもあったし、定規で叩かれるこ ともあったし、剃刀の研ぎ皮で叩かれることもあった。 (qtd. in Buske  75-76)

ここには子供たちが父親の体罰をひどく恐れていたことが表れている。両親が 不在のとき、子供たちは体罰を受けるのがあまりにも恐ろしく、両親が帰っ てくる前に子守の女性や料理人に言いつけないようお願いしなければならな かった。そしてそのような体罰が終わった後、「いつもひざまずいて神に許し を請うよう命じられた」(Sanford 31)というのである。まだ幼い妹のサニー

(Madelaine Sunny Hemingway)があまりにもひどく体罰を加えられる のに耐え難くなり、マーセリーンが必死に父からサニーを守ろうとする記述 も印象的である。結局マーセリーンも父親に殴られた後、部屋を追い出され、

「[そのときのサニーの]悲鳴は(それまでにお父さんは本当に激しく怒り狂っ ていたので)決して忘れられないものとなった」(qtd. in Buske 77)と語ら れる。ヘミングウェイ家は、しばしば叩かれた子供の悲鳴が鳴り響く家庭で あったのである。

このようなクラレンスの信仰をグライムズは以下のように説明している。

父[アンソン、ヘミングウェイの祖父]の感化のもとで得た若い頃の宗教 的経験はクラレンスに強い影響を残し、そのせいでクラレンスは人間の罪 と過ちをはなはだしく意識するようになり、憂鬱で厳格で生真面目な道徳

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家に育った。クラレンスの宗教的気質は、心理学的には強度の鬱病と判 断してもよいものであったが、同時代の最も偉大な心理学者ウィリアム・

ジェイムズは、クラレンスのような性格の人物を宗教的な言葉遣いで捉え ている。そういった人物は病んだ魂に蝕まれているのである、と。ジェイ ムズの理解によると、健全な精神を持つ新しい自由主義的で進歩的な神学 がアメリカで広まりつつあるのだが、かつての正統派のアメリカのプロテ スタンティズムもまだ、ジェイムズが「病んだ魂の宗教」と名づけたもの を伝え広めようとしていたのである。この古い正統派の核心にあるのは、

堕罪の教義であり、その恐ろしい結果として人類に与えられた死刑宣告で あった。ジェイムズの議論によると、この暗澹たる正統派神学は「伝道の 書」の宿命論と自然神学に酷似していた。(“Religious Odyssey 47)

ここで明らかなように、父親の信仰は先ほど見た「伝道の書」の世界観を否定 する母親の自由主義神学とは全く異なったものである。『日はまた昇る』のタ イトルとエピグラフに「伝道の書」の一節を用い、短編「清潔で明るい場所」

で「伝道の書」の虚無主義のエコーを響かせるヘミングウェイは、母親のセン チメンタルな信仰ではなく、「伝道の書」の世界観を神学的よりどころとする クラレンスの宗教観をある程度受け継いでいると言えるだろう。

ヘミングウェイが母親の宗教よりも父親の宗教の方に親近感を覚えていたこ とは「インディアン・キャンプ」の続編とも言える「医者とその妻」において も明らかである。この作品には楽天的な明るい信仰を持つ母と、ジェイムズが

「病んだ魂の宗教」と呼んだ信仰を持つヘンリー・アダムズ医師の暗い心の闇 が明確に対比されているからである。医者の妻はクリスチャン・サイエンスに 傾倒しているが、クリスチャン・サイエンスとは、神についての真の知識を得 れば、物質的な薬や治療を行わなくても病は治るとする宗教であり、医者の妻 がこの宗教を信じていること自体が非常に皮肉な状況であるといえるだろう。

たった今、ネイティヴ・アメリカンのディック・ボウルトンとのいさかいで やり込められ、怒りに震えるアダムズ医師は、自分の部屋で銃の手入れをして

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怒りを静めようとしている。妻は頭痛がすると言って、隣の部屋をブラインド で閉め切って暗くし、ベッドに横たわっている。

“Henry, his wife called.  Then paused a moment.  Henry!

“Yes, the doctor said.

“You didn't say anything to Boulton to anger him, did you?

“No, said the doctor.

“What was the trouble about, dear?

“Nothing much.

“Tell me, Henry.  Please don't try and keep anything from me.  

What was the trouble about?

“Well, Dick owes me a lot of money for pulling his squaw through  pneumonia  and  I  guess  he  wanted  a  row  so  he  wouldn't  have  to  take it out in work.

His  wife  was  silent.    The  doctor  wiped  his  gun  carefully  with  a  rag.    He  pushed  the  shells  back  in  against  the  spring  of  the  magazine.  He sat with the gun on his knees.  He was very fond of  it.  Then he heard his wife's voice from the darkened room.

“Dear, I don't think, I really don't think that any one would really  do a thing like that.

“No? the doctor said.

“No.  I can't really believe that any one would do a thing of that  sort intentionally.  (NAS 25-26)

会話自体に、妻が夫に対して優位な立場にあるらしいことが見て取れる。夫は 妻に、ディック・ボウルトンが治療費を踏み倒すためにけんかをふっかけてき たのだと説明するが、妻は人が意図的にそのような悪意ある行動をするなど信 じられないと言って、夫の意見を否定する。ここで人間に悪意があることを信

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じようとしない妻の姿と、世の中に悪が存在することを知っている夫の姿との 対比が非常に鮮明に描かれている。ここには先ほどまで見てきたヘミングウェ イ家でのふたつの宗教観がはっきりと表れていると言えるだろう。楽天的でセ ンチメンタルな自由主義神学は人間の悪を否定するが、虚無的で「病んだ魂」

の宗教はこの世に悪が存在することをはっきりと知っている。

この作品には、表面的には暗い部屋にとどまる妻と、物語の最後で明るい森 へと向かう夫との、光と闇の対比が描かれているが、実際に人間の悪意を知る 闇を心に抱えているのは夫の方なのである。光と闇の二重の対比の中に塗り込 められるアダムズ医師の心の闇は、先ほどのグライムズの引用に現れる、ウィ リアム・ジェイムズ(William James)の言う「病んだ魂の宗教」を体現して いるのである。

「医者とその妻」の結末部分でニックは母よりも父を選択することが描かれ るが、この数年後に書かれた短編「父と子」(“Fathers and Sons, 1933)では、

体罰を加える厳格な父親を恐れながらも、その父親に対して愛情を持ち続ける という、ニックの矛盾した感情が描かれる。

Nick loved his father but hated the smell of him and once when  he had to wear a suit of his father's underwear that had gotten too  small for his father it made him feel sick and he took it off and put  it under two stones in the creek and said that he had lost it.  He  had told his father how it was when his father had made him put  it on but his father had said it was freshly washed.  It had been,  too.  When Nick had asked him to smell of it his father sniffed at it  indignantly and said that it was clean and fresh.  When Nick came  home from fishing without it and said he lost it he was whipped for  lying.

Afterward he had sat inside the woodshed with the door open, his  shotgun loaded and cocked, looking across at his father sitting on 

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the screen porch reading the paper, and thought, I can blow him to  hell.  I can kill him.  Finally he felt his anger go out of him and he  felt a little sick about it being the gun that his father had given him. 

(NAS 265)

ここでニックは、父親は好きなものの父親のにおいには耐えられず、父親から のお下がりのシャツを森に捨てて帰るのである。ニックはシャツを捨ててきた ことで父親にむち打たれるが、その怒りからニックはこっそりとライフルで父 に狙いをつける。父親を撃ち殺すことができるのだ、と考えて満足するのだが、

やがてそのライフルを父にもらったことを思い出し、気分が悪くなる。ここに は父親に対する愛情と、父親の体罰に対する怒りとの、矛盾する感情にニック が捕らわれていることが表れている。この引用箇所以外でも頻繁に描かれるよ うに、ニックはアウトドア活動の手ほどきをしてくれた父に対して愛情を感じ ている。その反面、父親の一部の側面には反発を覚えており、とりわけ父親の 体罰に対しては、たとえ空想上のことにせよ、殺すことを考えるほど激しい憎 しみを抱いているのである。

ヘミングウェイもニックと同様、恐怖と愛情の混じった矛盾する感情を父親 に対して抱いていたらしいが、ちょうどこれらニック・アダムズ物語で描か れるミシガン時代に、ヘミングウェイの父親は徐々に鬱病的傾向を強めてい く。息子が最も父親を必要としていた時期に、父は一家の夏の間の避暑地で あるミシガンの別荘には現れず、ひとりオークパークに残っていたのである

(Reynolds 101-102)。そして息子が作家として成功して間もなく、父クラレ

ンスの文字通り「病んだ魂」は彼を自殺へと追いやってしまうのである。

.“Saved by Grace” と「伝道の書」

これまで見てきたように、ヘミングウェイ家では母親の楽天的な宗教観と、

父親の「病んだ魂の宗教」とが併存していた。このようにまったく異なったふ たつの信仰が混在していたことは、「三発の銃声」では大きな意味を帯びてく

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る。ニックの恐怖の引き金になった「いずれ銀のひもが切れるとき」という歌 詞の含まれる賛美歌は、グライムズや前田が指摘しているように、有名な賛美 歌作者ファニー・クロスビー(Fanny Crosby)6の “Saved by Grace” である。

Some day the silver cord will break

  And I no more as now shall sing;

But Oh, the joy when I shall wake

  Within the palace of the King! 

  And I shall see Him face to face,   And tell the story̶Saved by grace.

Some day my earthly house will fall;

  I cannot tell how soon 'twill be;

But this I know̶my All in All

  Has now a place in heav'n for me.

Some day, when fades the golden sun

  Beneath the rosy tinted west, My blessed Lord will say, Well done!

  And I will enter into rest.

Some day; till then I'll watch and wait,

  My lamp all trimmed and burning [bright], That when my bright Savior ope's the gate,

  My soul to Him may take its flight. (Bowlin 63)

この歌詞を見て明らかなように、クロスビーの賛美歌は極めてセンチメンタル

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で、当時のオークパークの主流であったセンチメンタルな信仰心の典型である ことが見て取れる。ここで試みられているのは、死の恐怖の緩和である。死を 受容するために、死を第二の誕生であるとみなすレトリックは、キリスト教に 限らずさまざまな宗教で用いられる戦略であるが、非常に皮肉なことに、死へ の恐怖を緩和させるための歌詞であるにもかかわらず、ニックに対してはその 恐怖を緩和するどころか、むしろ逆に死への恐怖をかき立てる結果になってい るのである。ではなぜ、恐怖の緩和のレトリックがニックにはうまく機能して いないのだろうか。当時71歳のクロスビーにとって、死は間近に迫るものであ り(実際には94歳まで生き続けるのであるが)、その死をセンチメンタルな装 いで包み込み、楽観的に受容するための賛美歌を書くのは極めて自然なことと 言えるだろう。つまり死の緩和のレトリックは、すでに死を意識していること が前提であり、すでにある死への恐怖を和らげることが目的なのである。それ に対してそれまで死を意識することのなかったニックにとっては、この賛美歌 が改めて死の可能性を教える結果にしかならないのは当然のことと言えるだろ う。

しかし、ここにはそれだけではないもっと深い意味が隠されているように思 える。この賛美歌を聴いた後のニックの様子を見てみたい。

That night he sat out in the hall under the night light trying to  read Robinson Crusoe to keep his mind off the fact that some day the  silver cord must break.  The nurse found him there and threatened  to tell his father on him if he did not go to bed.  He went in to bed  and as soon as the nurse was in her room came out again and read  under the hall light until morning.  (NAS 14)

ここでニックは銀のひもが切れるときのことから目をそらせるために、玄関の 明かりのあるところで夜をやり過ごしている。そしてその直後に子守の女性に 発見され、「父親に言いつける」と脅されて一度自分の部屋に戻ることが語ら

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れる。もちろん子供に対しての「父親に言いつける」という脅し文句は、多く の家庭で極めてありふれたものであろう。しかしヘミングウェイ家ではこの脅 し文句は特別の意味を持っていた。それはマーセリーンの自伝ですでに見たよ うに、父親に言いつけられることがすなわち激しい体罰を意味していたからで ある。もちろん「三発の銃声」でははっきりと父親への恐怖が描かれているわ けではない。しかし作者ヘミングウェイの父親の体罰に対する恐れを考慮に入 れると、ここで「父親に言いつけられる」ことに言及していることは示唆的で ある。「銀のひも」が切れることへのニックの恐怖を描きながら、そのときに ヘミングウェイが幼い頃の父親の体罰への恐怖を思い起こしていたのは想像に 難くないだろう。こういった伝記的事実をあわせて考えると、ここでニックは 父親に体罰を加えられる危険を冒しているのであり、父親の恐怖を凌駕するほ どの大きな恐怖を死に対して抱いていることになるのである。

また聖書になじみのある読者にはすぐに分かることであるが、この “Saved 

by Grace” という賛美歌は、「伝道の書」の一節をもとにして書かれている。

Or ever the silver cord be loosed, or the golden bowl be broken,  or the pitcher be broken at the fountain, or the wheel broken at the  cistern.

Then shall the dust return to the earth as it was: and the spirit  shall return unto God who gave it.

Vanity of vanities, saith the preacher; all is vanity (Ecclesiastes  12: 1-8)

“Saved by Grace” と「伝道の書」のこの箇所は、どちらも人の死を描いてい

る。「伝道の書」の場合、肉体は塵となって大地に帰り、魂は、もともとそれ を与えた神のもとへと戻る。つまりすべてが無に帰るのである。しかしクロス ビーの賛美歌では、同じように死を扱いながら「伝道の書」とはニュアンスが まったく異なっている。賛美歌では死後、恩寵のおかげで天上の世界に行き、

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神と向かい合うことのできる幸せが歌われるのである。いわば厭世的で虚無的 な「伝道の書」の世界を、自由主義神学の立場から書き直し、センチメンタル な装いを加えたものがこの賛美歌であると言えるだろう。しかしニックにはそ のセンチメンタルな装いは機能せず、死の可能性のみが見えてしまうのであ る。つまり賛美歌のもとになった「伝道の書」の世界観を、死を恩寵としてで はなく、死を虚無としてみる世界観を、覗いてしまうことになる。いわば母の 楽天的な宗教を遥かにしのぐ存在感で、その背後に父親の病んだ魂の宗教が、

父親の心を覆う闇が、ニックをおびやかしているのである。そういう意味で、

ニックを取り囲む森の闇は、父親の抱える心の闇でもあった。ニックの死への 恐怖は伝記的に再構成する限り、父親の世界観に対する恐怖に他ならないので ある。

.恐怖の克服

「三発の銃声」に描かれたニックの恐怖をあわせて見ると、「インディアン・

キャンプ」はニックのイニシエーションの物語ではなく、恐怖の克服の物語に 転じる。ニックは賛美歌によって死への恐怖を引き起こされるが、結末のニッ クの確信で明らかなように、インディアン・キャンプでの出来事を経験した結 果、その恐怖が解消されるのである。賛美歌 “Saved by Grace” は死と誕生 とを一致させることで恐怖を和らげようとしていたが、その賛美歌の状況をそ のまま再現するかのように、「インディアン・キャンプ」では文字通り死と誕 生が同時に発生している。ネイティヴ・アメリカンの女性が子供を産むのとほ ぼ同時に夫が自殺しているという点で、誕生と死が同時に発生しているからで ある。しかし「インディアン・キャンプ」で描かれた状況は、センチメンタル な自由主義神学やクロスビーの賛美歌の世界とほど遠いことは明白である。恐 怖を緩和するどころか、誕生そのものが極めて暴力的であり、ネイティヴ・ア メリカンの夫の死も、賛美歌に歌われるような安らかな死とは遠くかけ離れた ものである。

それにもかかわらず、作品の最後でニックが恐怖を克服しているように見え

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るのは奇妙に思えるかもしれない。それはある意味で父親以上に「伝道の書」

の世界観を深く理解したからなのである。「インディアン・キャンプ」の結末 部分は以下の通りである。

They were seated in the boat, Nick in the stern, his father rowing.  

The sun was coming up over the hills.  A bass jumped, making a  circle in the water.  Nick trailed his hand in the water.  It felt warm  in the sharp chill of the morning.

In the early morning on the lake sitting in the stern of the boat  with his father rowing, he felt quite sure that he would never die.  

(NAS 21)

太陽が昇りつつある中、池の水に手を浸すニックは自然との限りない一体感を 感じている。夜の闇に朝日が差し込む中、ニックは自然のサイクルを実感して いるのである。ここでニックの「決して死なない」という確信は、ニック個人 の一度きりの生命のことを言っているのではなく、もっと大きな視点から自然 の循環の中に取り込まれる生命のことを言っているのである。そのような発想 は、「伝道の書」の世界に通じるものである。以下の引用は、後にヘミングウェ イが『日はまた昇る』のエピグラフに使った「伝道の書」の一節である。

Vanity  of  vanities,  saith  the  preacher,  vanity  of  vanities;  all  is  vanity.

What profit hath a man of all his labour which he taketh under  the sun?

One  generation  passeth  away,  and  another  generation  cometh: 

but the earth abideth for ever.

The sun also ariseth, and the sun goeth down, and hasteth to his  place where he arose.  (Ecclesiastes 1: 4-5)

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「空の空、すべては空」という言葉で始まり、人間の行為の無意味さをとく「伝 道の書」は極めて虚無的で厭世的に見えるが、大地を主役として考えれば、世 代が移りゆく中、大地の永続性が説かれる書でもある。行目以降を中心に見 ると、ニックの確信は、この「伝道の書」の世界観に極めて近いものであるこ とが分かるだろう。ヘミングウェイは『日はまた昇る』の第版が出版された 際、エピグラフから上の引用の最初の行を削除するよう、出版社に指示して いる。ヘミングウェイはその理由を次のように説明している。「この本のポイ ントは大地が永遠に続いていくことなのだ。大地には愛情とあこがれを持って いるが、世代のことはそれほどでもないし、虚無

4 4

(Vanities)のことなどど

4 4 4 4 4 4

うでもいいのだ4 4 4 4 4 4 4。(中略)私はこの本を空虚で辛辣な風刺にするつもりはなく、

大地が永遠に主役として存在し続ける

4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

悲劇を書きたかったのだ」(SL 229、傍 点引用者)。ここでヘミングウェイが「伝道の書」を虚無的に解釈していない ことは明らかである。ネイティヴ・アメリカンの父親の死と子供の誕生を目 撃し、そして父親のこぐボートに乗って自然のサイクルを実感するニックは、

“Saved by Grace” のように表面的ななぐさめに頼るのではなく、また父親の

ように心の闇に覆われるのでもなく、より深い意味で永久に存在し続ける大地 の一部であることを、感覚的に学んだことを描いているのである。

「伝道の書」の世界観は、ヘミングウェイ作品全般に見られる共通した世界 観であるが、前半部分が削除される以前の「インディアン・キャンプ」は、そ の世界観を表現した最初の作品になるはずだったのである。

結論

最終的にヘミングウェイがこの「三発の銃声」にあたる部分の原稿を削除し たのは、極めて現実的な選択であったと言えるだろう。おそらく賛美歌 “Saved 

by Grace” を、ニックの恐怖を発動させるきっかけとして選んだ時点で、ニッ

クの恐怖の物語が、あまりにも父親をめぐる家族の問題を巻き込むことに気づ いたのであろう。「父と子」で「[ニックは]作品に書くことで多くのことを取 り除いてきた。しかしそのこと[父親のこと]を書くにはまだ早すぎた。まだ

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あまりにも多くの人が生きていたからだ」(NAS 259-60)と語るように、ニッ クにとって(おそらくヘミングウェイにとっても)、作品に描くことには一種 の治療効果があった。しかしオークパーク時代の家族のことを描くと多くの人 を傷つけることになるのが分かっていたために、作品化できることはきわめて 限られていた。「インディアン・キャンプ」を書くときもまた、父親が存命であっ たために、ニックの恐怖の対象としての父親を正面から描くことはできなかっ たのではないだろうか。結局、宗教の問題をめぐるニックの恐怖を隠蔽するこ とで、ヘミングウェイはこの作品を恐怖の物語から主人公のイニシエーション を描く物語に変える決断を下したのである。しかし、改めて作品から隠蔽され ることになった宗教観を掘り起こし、ヘミングウェイが最初期の短編から「伝 道の書」の世界観を下敷きにして作品を創作していたことを把握するのは、生 涯一貫して宗教を主要なモチーフのひとつとして作品を書き続けたヘミング ウェイ作品全体を理解し直す意味でも、非常に重要なことであると言えるだろ う。

*本稿は日本英文学会九州支部第62回大会(20091024日、宮崎大学)における口頭発表 を加筆修正したものである。

 これまで伝統的にこの作品はニックのイニシエーションの物語であると捉えられてきた が、作品最後のニックの確信に対する解釈はおおむねニックのイニシエーションが失敗に 終わったのだとする解釈と、成功したとする解釈のふたつに分かれる。前者の意見によれ ば、ひとりの人間の命が暴力的に絶たれたのを目の当たりにして、なおかつ死なないこと を確信するのは現実から目をそらしているからだということになる。たとえば「非現実的 で子どもっぽい」(DeFalco 32)、「希望に基づいた、自己防衛的な」(Spilka 194)、「子ど もらしい幻想」(Griffin 68)などである。その一方で後者の意見によれば、ニックの死な ないという確信はなんらかの条件に限定されたものであり、ニックの通過儀礼は果たされ たと考えられる。たとえば「いくぶん子どもらしい非現実的な不死の感覚であるが、この 主張は決意でもあるのだ。(中略)彼は自分が決して死なないだろうと決意するのだ。なぜ なら自分が自殺をすることはないと確信しているからである。彼は失意の父親が死んだよ うには決して死なないだろう、と考えているのだ」(Monteiro 154)、「早朝に、かつ4 4湖の 上で、かつ

4 4

ボートの船尾に腰掛けて、かつ

4 4

父親が漕いでいるときにだけ

44

、ニックは「自分

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は決して死なないだろうとすっかり

44 4 4

確信」することができるのだ」Smith 39)などである。

 ヘミングウェイのオークパーク時代の宗教的環境から初期作品を読む著書The Religious Design of Hemingway's Early Fictionと、オークパークの宗教的環境を概観した短い論 文 “Hemingway's Religious Odyssey: The Oak Park Years” のふたつがある。前者は ヘミングウェイの文学理論の「第五次元」を宗教観から説明するものであるが、後者の研 究は、新聞などに採録されたオークパークの牧師の説教などから町の宗教的状況を再構成 する非常に重要な研究であり、本論文もこの研究を大きな土台として参照している。

 ストーンバックの研究は残念ながら、まだ著書の形でまとめられていないが、主にヘミ ングウェイのカトリシズムを中心にして作品の読み直しを図っている。従来ヘミングウェ イのカトリック改宗は、ハドリー(Hadley Richardson)と離婚してカトリック教徒のポー リーン(Pauline Pfeiffer)と結婚をするための「名目上」のものであると考えるのが定 説であったが、ポーリーンと出会うより以前からヘミングウェイがカトリックに興味を 持っていたことを明らかにした “In the Nominal Country of the Bogus: Hemingway's  Catholicism and the Biographies” を始めとして、非常に重要な論文を数多く発表して いる。

 これら以前にも宗教を扱った研究がなかったわけではなかった。ジュランヌ・イザベル

Julanne Isabelle)のHeminwgay's Religious Experienceが事実上唯一の研究と言えるが、

この本は事実関係に誤りも多く、内容に関しては必ずしも信用できない。

 グレイスはクリスチャン・サイエンスに入信していたわけではなかったが、スピリチュ アリズムに傾倒しており、手紙などでクリスチャン・サイエンスにも興味を示している。

しかし「医者とその妻」とは違って、実際のグレイスは夫にはばかって、夫の死後までス ピリチュアリズムにあからさまに没頭することは控えていた(Reynolds 131-32)。

 クロスビーは盲目の女性で、生涯に8000以上の賛美歌を書いたベストセラー作家である。

クロスビーが “Saved by Grace” を初めて一般に披露して歌ったのは当時著名な牧師で あったDL・ムーディ(D. L. Moody)の会合に出席したときだった。クロスビーが聴 衆に混じっていることを知った人が、彼女に何か歌ってくれるようせがんだのである。こ の牧師ムーディは、当時著名な福音主義者でヘミングウェイの祖父アンソン・タイラー・

ヘミングウェイの知人であった(Donaldson 222)。

Works Cited

Bowlin, William R., ed.  A Book of Personal Poems.  Miami: Granger, 1977.

Buske, Morris.  Hemingway Faces God.  The Hemingway Review 22.1 (Fall 2002): 

72-87.

DeFalco, Joseph.  The Hero in Hemingway's Short Stories.  Pittsburgh: U of Pittsburgh P, 

(21)

1963.

Donaldson,  Scott.   By Force of Will: The Life and Works of Ernest Hemingway.    NY: 

Viking, 1977.

Griffin, Peter.  Less Than a Treason: Hemingway in Paris.  NY: Oxford UP, 1990.

Grimes,  Larry  E.   The Religious Design of Hemingway's Early Fiction.    Ann  Arbor: 

UMI, 1985.

――.  Hemingway's Religious Odyssey: The Oak Park Years.  Ernest Hemingway:

The Oak Park Legacy.    Ed.  James  Nagel.    Tuscaloosa:  U  of  Alabama  P,  1996.  

37-58.

Hemingway,  Ernest.   Ernest Hemingway: Selected Letters, 1917-1961.    Ed.  Carlos  Baker.  NY: Scribner's, 1982.

――.  The Nick Adams Stories.  Ed. Philip Young.  NY: Scribner's, 1972.

Isabelle, Julanne.  Hemingway's Religious Experience.  NY: Vantage, 1964.

Monteiro,  George.   The  Limits  of  Professionalism:  A  Sociological  Approach  to  Faulkner, Fitzgerald and Hemingway.  Criticism: A Quarterly for Literature and the Arts 15.2 (Spring 1973): 145-55.

Reynolds, Michael.  The Young Hemingway.  NY: Norton, 1998.

Sanford, Marcelline Hemingway.  At the Hemingways.  Moscow: U of Idaho P, 1999.

Smith, Paul.  A Reader's Guide to the Short Stories of Ernest Hemingway.  Boston: G. K. 

Hall, 1989.

Spilka, Mark.  Hemingway's Quarrel with Androgyny.  Lincoln: U of Nebraska P, 1995.

Stoneback, H. R.  In the Nominal Country of the Bogus: Hemingway's Catholicism  and  the  Biographies.   Hemingway: Essays of Reassessment.    Ed.  Frank  Scafella.  

NY: Oxford UP, 1991.  105-40.

前田一平「「三発の銃声」に隠された不安の源――「あいのこ」と「銀のひも」」『ヘミングウェ イの時代――短編小説を読む』日下洋右編著(彩流社、1999年)45-75

参照

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