Kyushu University Institutional Repository
医学図書館の貴重書庫にある変な本について : その 3
古賀, 京子
九州大学情報システム部情報基盤課デジタルライブラリ担当
https://doi.org/10.15017/2344616
出版情報:九州大学附属図書館研究開発室年報. 2018/2019, pp.42-50, 2019-07. 九州大学附属図書館 バージョン:
権利関係:Creative Commons Attribution-NonCommercial-NoDerivatives 4.0 International
九州大学附属図書館研究開発室年報2018/2019
報告
医学図書館の貴重書庫にある変な本について
-その 3 -
古賀 京子
†<抄録>
医学図書館にある和漢古医書の中で興味をひかれた資料について報告する.
<キーワード> 脚気,香月牛山,外台秘要方,山脇東洋,西田耕悦,困学穴法,高木兼寛,梅毒,永富独嘯庵,
黴瘡口訣,黴瘡秘録,黴療新法,和蘭梅瘡秘録,布斂己梅毒篇,加峯柳軒,疔瘡要訣,絵図針灸易学
Rare Books at Medical Library
- 3 -
KOGA Kyoko
1. はじめに
医学図書館貴重書庫内の本を見渡してみると,よく 目につく病名がある.今回は脚気と梅毒に着目した.
今でこそ正しく治療すれば完治するようになったが,
原因が解明される 20 世紀に至るまで多くの日本人が 苦しみ命を落としてきた病である.江戸から明治にか けて出版されたこれらの図書を見ると,医師たちが懸 命に治療法を探求し普及しようとしたことがうかがえ る.
2. 脚気
2.1. 脚気の歴史
† こが きょうこ 情報システム部情報基盤課デジタルライブラリ担当(〒812-8582福岡市東区馬出3-1-1 医学図書館)
E-mail: [email protected]
脚気はビタミンB1 の欠乏による疾患で,ビタミン 発見の端緒となった疾患の一つである.白米ばかり食 べて十分な副食を摂らないと発症しやすく,症状は足 の痺れ,むくみ,動悸,息切れ等があり,ひどくなる と心不全を起こすこともある.20世紀になってビタミ ンB1 が発見され,その欠乏が脚気の原因となるとい うことが解明されるまで,白米を主食とする多くの日 本人が脚気により命を落とした.
日本の脚気の起源については諸説あるが,「脚気」と いうことばと概念は平安時代に大陸より伝来したとさ れている.しかし,さまざまな史料の記述から,脚気 ということばがなかった奈良時代以前にも脚気に相当 する病気はあったと考えられている.
鎌倉時代,武士の台頭により食生活が質実化し,武 家や庶民の間で脚気は減少したが,白米食を常として いた朝廷や公卿には多かった.江戸時代になると,白 米食が普及し,上流階級のみならず武士町人に至るま で脚気が大流行した.しかし,享保年間(1716-36)に 江戸で大流行したときには医者たちは脚気を正しく診 断できず「江戸煩(えどわずらい)」と呼び,奇病とさ れた.
2.2. 牛山先生活套
香月牛山著『牛山先生活套』の中湿の項に江戸煩に ついての記述がある.原因も治療法もわかっていなか ったようで,箱根山を越えて故郷に帰らせれば治療し なくても自然と治るようなことが書かれている.別に 脚気の項もあるが,足の痛みや熱など,現在の脚気と は異なる症状が書かれている.
写真1 脚気に関する古医書の一部
香月牛山(1656-1740)は,名は則真,字は啓益,通 称貞庵,筑前(福岡県)の人.貝原益軒に学ぶ.他の 著書に『牛山方考』『老人養草』などがある.豊前国中 津藩(大分県)の藩医となり,後に京都で開業した.
2.3. 唐王燾先生外臺秘要方
このような脚気についての知識の混乱は,日本の医 学が大陸からの影響を大きく受けてきたことに関係し ている.中国隋・唐時代(581-907)の医書にはすでに 脚気の詳細な記述があり,中には大豆や肉類を摂取す る正しい療法も記されているのだが,宋・元の時代
(960-1368)になるとその知識が失われ,腰脚痛や関 節疾患を脚気としていた.18世紀の日本では,この宋・
元時代の誤った脚気知識を参考にしていたため,正し い診断ができていなかった.富士川游『日本医学史綱 要』によると,当時の大医であった香月牛山さえも,
脚気を脚気と診断できずに江戸煩という奇病とするほ ど脚気は知られていなかったが,「かくの如き病症を見 てこれを脚気とせしは,山脇東洋が『外台秘要方』を 刊行せし以来のことなり」と述べている.
『外台秘要方』は唐代の医師王燾がまとめた医書で,
当時存在していた医書からの引用文で構成されている.
諸医家の説を集め,さらに自己の見解を加え,薬に関 しては処方箋のようなものから服用の方法まで記して いる.
山脇東洋(1706-1762)は,その頃普及していた宋・
元時代の医学に疑問を抱き,後漢時代の医書である『傷 寒論』や『金匱要略』に立ち返って処方を行なう古医 方を確立させた.また,『外台秘要方』が日本国内で流 通している数が少なく,欠本などで完全な形で残って いないのを嘆いて,延享3年(1746)に程衍道本の明 版『外台秘要方』を復刻した.
上記写真の本は,中国で出版された版本であるが,
巻末には「大日本 医官 平安山脇尚徳玄飛甫 校刊」
とある.山脇が復刻した版木を,広東の書肆,翰墨園 が同治 13 年に購入して重印したものと思われる.本 学所蔵の日本で発行された延享3年の後印本と比較す ると,版木の切れている部分が一致しており,同じ版 木を使っていることが分かる.
2.4. 脚気提要
享和(1801-1804)から文化初頭(1804-)には,『千 金方』や『外台秘要方』を基礎に,それらの中国医書 において不備な成因論,治療法について実地臨床に基 づく創意工夫がなされるようになった.
西田耕悦の『脚気提要』もその一つで,『千金方』や
『外台秘要方』を引用しており,複数の患者の詳細な 治験の記述がある.また,「食之有益物」として,大麦 小麦,小豆,韮,ニンニクなどが挙げられている.今 日ではこれらの食物にビタミン B1 が含有されている ことがわかるが,この時代にも経験的にこれらのもの 写真 4 唐王燾先生外臺秘要方四十巻 唐王燾撰 明程 衍道訂 日本山脇尚徳同撰按語 同治十三年廣東翰墨 園刊本(ケ-14衛生学2914-220)
写真2 牛山先生活套三巻 香月牛山撰 安永八年浅野弥 兵衛刊本 (コ-47泌尿器科)
写真3 香月牛山の墓 北九州市吉祥寺
(2019年8月10日 筆者撮影)
九州大学附属図書館研究開発室年報2018/2019
に効果を見出していたことがうかがえる.
またこの書の中では,西洋医学が取り入れられ始め た当時の様子がうかがえる次のような記述がある.
「近世西洋(ヲランダ)ノ学ヲ唱フル徒 解体ヲ以テ 無上ノ術トナシ 古医ノ説ヲ廃シテ専ラ窮理ノ事ヲナ ス 其コレヲ云フモノ,脾ヲ挙ズシテ胃ヲ取リ腎ヲ棄 テ精嚢ヲ云フノ類 皆コレ世ヲ惑シ人ヲ強ユルノ左道 ナリ」
18世紀後半,死刑囚の腑分けが行なわれ,西洋医学 書の翻訳が行なわれるなど,日本の医学が蘭学の影響 を受け始める時期である.耕悦は,古くには一般的な 書物にも載っていたような正しい治療法がいつしか省 みられなくなってしまったことを憂い,近年流布され るようになった西洋の学問を無上のものとして古医の 説を廃そうとする人々に警鐘を鳴らしている.
上記写真は,本学に所蔵している『脚気提要』2 部 のうちの一.青柳館文庫,クボ4066・4067の印記あり
(仙台青柳文庫・久保猪之吉旧蔵本).
著者は西田耕悦(尚絅,公錦),江戸後期,伊予吉田
(愛媛県)出身で大阪の医家である.生没年未詳.『国 書人名辞典』西田耕悦の項には「大阪擢屋町に住し,
医を業とする…西田耕耘(こううん)の父西田粟翁と 同一人物か」とある.息子の耕耘も大阪で医業を営ん でおり,墓誌によると天保12年(1841)大阪医師番付 で西大関になっている.また,『愛媛県史』によると,
吉田藩安政4年(1857)の分限帳に医家の一人として「給 人格三人分西田耕雲」とあり,これも縁者かと思われ る.
2.5. 脚気方考
文化・文政(1804-1830)になると脚気の流行は江戸 や京都・大阪などの都会だけでなく,中国・九州にも 及び,天保(1830-)以降は全国に広がった.医者たち も必死に治療法を模索した.
『脚気方考』著者の長谷川松山は越後国尼瀬(新潟 県)の人.他の著作に『痘疫論』,『瘍医外伝』などが ある.通称は松山,号は看花弄月翁.古方派の儒医.
祖先は長岡の牧野侯に仕えた武士であったされるが,
生没年等詳細なことは不明である.この書でも『千金 方』や『外台秘要方』にある処方を試みた治験が書か れている.
2.6. 困学穴法
脚気には薬の処方だけでなく鍼灸による治療も行な われていた.
『困学穴法』は滑寿(1304-1386)の『十四経発揮』
を参考に撰したものである.後半の「困学奇兪」の「脚 気八処穴 治脚気諸症」の項では,脚気に効く8つの 写真7 困学穴法一巻困学奇兪一巻 石塚汶上尹撰 天 保六年刊本 汶上矮屋蔵版(コ-170 眼科4211)
写真6 脚気方考一巻 長谷川松山撰 文化十三年 山城 屋佐兵衛刊本(カ-139 眼科6407)
写真 5 脚気提要二巻附録一巻 西田耕悦撰 文化四年 大阪今津屋辰三郎等刊本 (カ-59 泌尿器科2913・2914)
経穴が示されている.すなわち,風市,伏免,犢鼻,
膝眼,三里,上廉,下廉,絶骨であり,図を参照する とすべて脚部にある経穴である.
2.7. 赤小豆処方箋
脚気患者に処方されていた漢方薬の種類は症状によ って様々である.その中の一つに赤小豆(せきしょう ず)というのがある.『脚気提要』下巻の「諸薬方」の 中では「赤小豆湯」の項に「年少血気俱ニ熱シ遂ニ瘡 疥ヲ生シ変シテ腫満ト為或ハ煩或渇シ小便利セ不ル者 ヲ治ス」とある.
当館所蔵の青木家文書に赤小豆に関する資料があっ たので紹介する.「赤小豆薬之方」には白木,茯苓,半 夏等の十六種の薬剤が記されている.また「東都ノ医 赤小豆剤」には「脚気腫満,小水不利,短息,此方最 有験」とし,分量や服用法が書かれている.『脚気提要』
の赤小豆湯と同様,腫満(体の腫れ)や尿が出づらく なる症状に効くとする.
福岡藩医青木家の文書は,医学史料,中世文書(赤 尾家文書)の写,近世文書,詩文等からなり,医学史,
中世史,地域史,文学史研究上貴重な資料が含まれて いる.
2.8. 脚気論
明治になって脚気による死亡者は年間2万人にも達 し,政府は明治10年(1877)12月各府県に脚気の原 因究明と治療法の調査を命じた.特に外地に駐屯して いる陸海軍内で蔓延しており,軍当局も調査を始めた.
脚気の原因には細菌感染説,真菌説,タンパク質や脂 肪の欠乏説など諸説あった.
陸軍軍医上層部は大学東校(後の東京大学医学部)
出身者で占められ,彼らにとってはドイツ人教師が教 えるドイツ医学が金科玉条であった.ベルツ,ショイ ベが脚気細菌説を唱えたため,彼らはその説に絶対的 な信頼を置いていた.
石黒忠悳著『脚気論』では,脚気の原因は「ピルツ」
(pilze ドイツ語で菌のこと)であろうという仮説を明 治6年に提示するも,顕微鏡で菌を見つけることはで きず,断言はできないと述べている.
「…脚気ノ毒質ハ必ス一種の「ピルツ」ニシテ東京大 阪ノ如キ人口衆多ノ都会市街ニ於テハ腐敗汚穢ノ有機 物地中ニ浸淫スルコト多ク終ニ此毒質ヲ化生シ其毒大 気ニ散シ飲水ニ混シテ体中ニ入リ先ツ脳脊髄中枢ヲ侵 シ…」
石黒忠悳(1845-1941)は西洋医学の移入,陸軍衛生 部の確立などに尽力した.日清・日露戦争で活躍し,
陸軍軍医総監となった.
2.9. 海軍vs陸軍
脚気問題をめぐってよく対比されるのが当時の海軍 と陸軍であり,その代表として名が挙がるのが海軍省 医務局長であった高木兼寛(1849-1920)と陸軍軍医 であった森鴎外(1862-1922)である.
高木は 1882~84 年に海軍の遠洋航海訓練中の食事
写真9 東都ノ医赤小豆剤(青木家文書)
写真8 赤小豆薬之方(青木家文書)
写真 10 脚気論一巻 石黒忠悳撰 明治十一年島村吉 松刊本(カ-14 眼科5079)
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改善で脚気の予防に成功した.脚気の原因がタンパク 質の不足にあると考え,兵食を質素な和食から,タン パク質と脂質に富む洋食に変更した.原因は間違って いたものの,結果的には海軍内での脚気病患者が激減 した.パン食を嫌う兵が多かったため,後に麦飯に変 更された.
一方,陸軍では白米食に原因があると感づきながら も,兵站の問題や細菌感染説に執着する軍中枢部の圧 力などにより食事改善に踏み切れず,日清・日露戦時 中に戦死者をはるかに上回る多くの脚気死者が出た.
森は陸軍の白米食を擁護し,陸軍の脚気惨害を助長 したとされ,高木は是,森は非という対比がなされる ようになった.実際のところ責任は断固として兵食の 変更を認めなかった石黒忠悳にあったのだが,のちに 文豪としても有名になる部下である森に注目が集まり 誤解されてしまったようだ.
2.10. 脚気の終息
明治43年(1910)に鈴木梅太郎は特定物質の抽出に 成功し,アベリ酸のちにオリザニンと名づけた.翌年,
ロンドンのリスター研究所でフンクが同じく特定物質 を純粋な形で抽出することに成功し,ビタミンと命名,
これが世界的に認められ,ビタミン発見の第一号とな った.かくて脚気の原因が判明し,治療法が確立した.
しかし,1923年(大正12)には2万7000人もの死者 を出したほど日本には典型的な脚気が多発し,国民病 として恐れられた.近年は栄養改善に伴い脚気の発症 は激減したが,今日でもなお散発的に報告がある.
3. 梅毒
3.1. 梅毒の歴史
梅毒は,20世紀にペニシリンが発見され治療法が確 立されるまで,欧米を中心として世界中で流行した病 である.起源は諸説あるが,コロンブス隊が新大陸で 感染し,ヨーロッパに持ち帰ったとされる.
日本では,楊梅瘡,黴毒,梅毒,黴瘡等,複数の呼 称,表記がある.梅毒がいつ日本に入ってきたのかは 諸説あるが,江戸時代には江戸や大阪,長崎等の都会 で大流行していたことが複数の医書からうかがえる.
3.2. 黴瘡口訣
永富独嘯庵の『黴瘡口訣』によると,「肥前長崎,或 ハ京大坂,江戸ナドノ如キ,都会繁華ノ地ハ,十人ニ 八九人ハ,此病ヲ病」とあり,多くの人がこの病を持 っていたとする.
写真 13 黴瘡口訣一巻付録一巻 永富独嘯庵撰 天 明八年序播磨屋新兵衛刊本 (ハ-23 泌尿器科1142)
写真11 高木兼寛の墓 東京都青山霊園
(2019年7月4日 筆者撮影)
写真12 梅毒に関する古医書の一部
永富独嘯庵(1732-1766)は,江戸中期の医師である.
長門国豊浦(山口県)に生まれ,京都の山脇東洋に師 事して古医方を学んだ.その他の著書に『漫游雑記』
や『嚢語』がある.
3.3. 黴瘡秘録
中国では1632年に陳司成(生没年不詳)により『黴 瘡秘録』が著された.日本では,享保10年(1725)に 和刻本ができ,医家の間で広く読まれた.
永富独嘯庵は『黴瘡秘録』について,『黴瘡口訣』に 次のように述べている.
「凡,此黴毒ノ一症ハ,中古以来ノ病ニテ,中華ニテ モ決定端的ノ方書無シ,陳九韶ガ,『黴瘡秘録』ト云ヘ ル,一書アレドモ,下手医者ノ,著タル書ナレバ,治 療ノ手本トナシ難シ」
上記写真の本は,衛生学教室旧蔵の唐本コレクショ ンの一つで,上海会文堂書局で発行されたものである.
刊記に「享保十年乙巳十一月穀旦 江戸日本橋南二丁
目 戸倉屋喜兵衛寿梓」とあり,一見すると日本の享 保十年刊本の版木を利用して上海で印刷されたものの ように見える.しかし,鎌田共済会郷土博物館所蔵の 享保十年刊本と比較すると,版面は似せているが匡廓 が小さい.衛生学教室旧蔵本は,享保十年刊本を元に 新たに製作された版木により縮刷されたものであるこ とが推測される.
3.4. 黴療新法
1943 年にマホニーらがペニシリンによる治療を成 功させるが,それまでは様々な治療が試みられていた.
漢方薬ではユリ科の生薬である山帰来がよく用いられ ていた.また,軽粉,生生乳といった水銀を使った薬 も複数の医書に書かれている.水銀は古くより中国で は梅毒以外の病にも広く薬剤として使われていた.『黴 瘡秘録』にも水銀を使った療法が記載されているが,
水銀には強い副作用があり,またその水銀製剤の精製 法が難解であったことから日本の医者たちは試行錯誤 を繰り返した.
『黴瘡口訣』にも,「軽粉水銀モ,用ヒザレバナラヌ 事モアレドモ,至テ峻険ノ薬ナレバ,素人業ニハアブ ナキ事ナリ」とあり,水銀の効力は認めつつも,その 危険性を示唆する記述がある.
香月牛山の『牛山先生活套』でも楊梅瘡の処方薬と して水銀を含む丸薬が記されている.その名も「涎薬
(よだれくすり)」といい,服用すると「歯根ヨリ血出 テ咽爛テ病人死スルホドニ苦ム」,「虚弱ナル人ハ必ズ 死スル」などと激しい副作用があることが書かれてい る.歯肉・口中がただれ,大量の涎があふれ出すのは 水銀中毒の症状である.
『黴療新法』の著者沙夕新頓は,George Burce Newton
(1830-1871).イギリスの軍医.1867年,横浜吉原町に
日本で初めて梅毒病院が設置され,Newtonはその責任 写真 15 黴瘡秘録一巻 明陳司成撰 会文堂書局 據享
保十年戸倉屋嘉兵衞刊本(ハ-9 衛生学2914-078)
写真 16 黴療新法二巻図一巻黴毒院表一巻 英国沙夕 新頓著 荻野為臣閲 明治四年刊本(ハ-20 泌尿器科 2535)
写真14 永富独嘯庵の墓 大阪市蔵鷺庵
(2018年10月14日筆者撮影)
九州大学附属図書館研究開発室年報2018/2019
者となった.挿図は水銀を使った蒸気浴の様子である.
丸藤を編んだ椅子に患者を座らせ,椅子の下で水と甘 汞(塩化第一水銀)を入れた容器を下から熱する.全 身は大きな竹篭で覆う.竹篭には油を塗って乾かした 紙が貼られ防水加工が施されており,首から上が外に 出るように穴が開けられ,首周りには布を巻いて蒸気 が漏れないようにしている.
3.5. 和蘭梅瘡秘録と布斂己黴毒篇
土肥慶蔵著『世界黴毒史』によると,プレンキ(Josephi Jacobi Plenk 1733-1807)が著した Doctrina de morbis
venereis.(花柳病論)は杉田立卿の『黴瘡新書』及び吉
雄耕牛の『布斂己黴毒論』の原本とある.日本古典籍 総合目録データベースで検索すると,本学には両方所 蔵されているはずだが,残念ながら『黴瘡新書』の現 物は確認できていない.別の本で『和蘭梅瘡秘録』と いう書名の写本を所蔵しているが,中を比較してみる と『布斂己黴毒篇』とほぼ同じであることがわかった.
『布斂己黴毒篇』にも「水銀ノミ是ヲ全ク根治スル事 ヲ得ル者也」とある.しかし水銀を用いることによっ て起こる病についても次のように書かれている.「銀因 ニヨリ起ル処ノ病ヲ毎々梅毒ト見誤テ其上ニ水銀ヲ用
テ殺ス者アル也」また治方として「刺絡」という言葉 が複数回出てくる.鍼灸術のことと思われるが,身体 のどの部分をどう処置するかまでは書かれていない.
『布斂己黴毒篇』は壱岐出身の平戸藩士長嶋元長の 蔵書印である「壱州須氣長嶋文庫」が押印されており,
耳鼻咽喉科教室が昭和9年6月に雄松堂から購入した 長嶋元長旧蔵蘭方医書のうちの一つである.退官直前 の久保猪之吉が教室のために購入したものであろう.
3.6. 加峯先生瘡瘍家言
加峯柳軒(1772-1834)は秋月(福岡県)の医家.姓 は橘,字は士粲,諱は英正,西洋と号する.19歳のと き長崎の吉雄耕牛に師事する.
瘡瘍は化膿性の皮膚疾患のことである.「楊梅瘡」や
「結毒」の項に生薬の土茯苓(山帰来)のほか,銀花,
化毒丹など水銀剤の名前が見られる.
2.7.で紹介した青木家文書には,薬剤や処方箋のよう なものを書いて折りたたんだ小紙片が複数あるが,そ の中に化毒丸などの梅毒の薬も含まれている.
写真 18 布斂己黴毒篇 天保十三年写本(ラ-4 耳鼻咽 喉科1729)
写真17 和蘭黴瘡秘録 写本(オ-31 教室不明)
写真20 化毒丸(青木家文書)
写真19 加峯先生瘡瘍家言三巻 加峯柳軒撰 明治三年村 岡李元写本(カ-118 教室不明)
3.7. 梅毒の終息
水銀,ヒ素,マラリア療法等,危険な治療がおこな われていた梅毒も,ペニシリンの発見により急送に患 者を減らした.しかし,日本国内では近年になって梅 毒患者の増加が報告されている.
4. 衛生学教室旧蔵の唐本
衛生学教室では,昭和4年2月16日に293部の唐 本を購入している.多くは19-20世紀初の石印本だが,
木版本も含まれている.大きさや発行元は様々だが,
帙の装丁・形式がある程度揃っていることから,中国 の書店が医学分野の本を独自にセットにして売り出し ていたものと思われる.購入当時は珍しいものではな かったかもしれないが,現在では残っておらず,他機 関に所蔵が確認できない稀覯書も多い.これらの唐本 のうち,本稿に関係する資料をいくつか紹介したい.
4.1. 疔瘡要訣
「疔」は皮膚に発生する化膿性のできもののことで,
顔にできるものを面疔と呼ぶ.『加峯先生瘡瘍家言』の
「疔」の項では,「疔ハ釘也 外面ニ生直ニ筋骨ニ達ス 釘ヲ打ツガ如シ 故ニナツク」とある.また,「朝ニ発 シテ夕ニ死ス 油断スヘカラス」とその急性と危険性 が書かれている.「面部ノ者殊ニ恐ルヘシ」とあるが,
本稿 2.8.で触れた陸軍軍医総監であった黒田忠悳の母
親もこの面疔で亡くなっている.
『疔瘡要訣』には,様々な種類の疔が描かれており,
関連する経絡と服薬による治療法が記されている.例 えば唇と鼻の間の部分にできる人中疔については,関 連する経穴は「唇内,地合,印堂,尾閭,百労三節」
とある.巻頭の穴図を参照してそれぞれの経穴の場所 を確認すると,唇内,地合,印堂は顔,百労三節は背 中にある.また服薬として甘露飲や五利大黄湯等が挙
げられている.挿図は独特であり,人物は手に花を持 ち楽しげに微笑んでいる.他の項でも患者はさまざま なポーズをとっている.
4.2. 絵図針灸易学
本学が所蔵する和漢古医書には経絡や鍼灸に関する 資料が多くある.『絵図針灸易学』は経穴の場所を図入 りで説明したものである.付録として本編の後に『七 十ニ翻』が付されている.七十二種類の症状が書かれ ており,烏鴉狗翻,長蛇翻,馬翻,水牛翻など動物の 名前を含むものは,症状が動物の姿態に似るものであ るため,動物と人間を並べて描いている.人物は皆苦 しそうな表情をしている.
駱駝翻は,寝ている牛のような状態になり,口には 泡を発し,耳の後ろに紫色の疔ができる.その疔を針 で刺し破り,乾牛糞・焼灰・香油を調合して塗るとと てもよく効く,とある.
写真 22 絵図針灸易学二巻七十ニ翻全図一巻 清李守 先撰 道光ニ十七年序萃英書局石印本(シ-34 衛生学 2914-106)
写真 21 新増疔瘡要訣一巻太上感應篇一巻 民国七年 千傾堂書局石印本(チ-16 衛生学教室2914-128)
九州大学附属図書館研究開発室年報2018/2019
4.3. 終わりに
今回は医学図書館所蔵の脚気と梅毒に関する古医書 を紹介した.このように特定の疾病について複数の医 書を参照することにより医家たちの試行錯誤の歴史を うかがうことができるだろう.
5. 参考文献
[1] 山下政三.脚気の歴史-ビタミン発見以前-.東京大学出 版会,1983.
[2] 山下政三.明治期における脚気の歴史.東京大学出版会,
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[17] 石黒忠悳.懐旧九十年.岩波書店,1983.
[18] 劉桂平編.中医基本用語辞典.東洋学術出版社,2006.
本著作の著作権は著者に帰属します。注があるものを除い て、本著作の内容物はクリエイティブ・コモンズ表示 4.0 国 際(CC BY 4.0)ライセンスの下に提供されています。
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