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Vol.65 , No.2(2017)081朴 〓娟「大覚国師義天の祖師認識と “宗派”」

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(1)

の道統説,天台宗山家派・山外派論争等を経て,華厳教団も確固たる祖師系譜を 樹立させるようになり,浄源がこれを担当したのである. 義天は浄源のこのような一連の事業を明確に知っていて,義天は浄源の業績を “宗乗を開拓し祖業を追崇した” と評価している3).義天が浄源に送った三度目の 文では,“本宗の七祖のことについて相議して頂きましたが,これを通して高意が 問いを好まれるだけではなく,ますます謙虚でいらっしゃることを審らかに知る ことができました”4)と書かれている.浄源が自分の七祖説を義天におしえ,議論 したことがよみとれる. ところで,この時義天は浄源に “此方でも本講にたよって立てました.後に管 見を略叙して座右にあげます”5)と加えている.自分の立てた華厳祖師系譜が別に あったのである[華厳九祖説:馬鳴―龍樹―天親―仏陀―光統―帝心―雲華―賢 首―清涼].義天がこの手紙を出した時期はおそくとも浄源の入寂(1088)前のこ とであろう. 義天は華厳の祖師系譜を確定しただけではなく,元暁を海東教主・菩薩と高く 謳い6),義相のおかげで海東で円頓之教[=華厳]が諸宗の盟主になり得たと評 価した7).義天の華厳門徒は元暁と義相を,天台門徒は元暁と諦観を開祖とみて いるのである. 義天と浄源は互いに交流をつうじて祖師系譜認識をさらに強化し,これに基づ いて各自高麗と宋で教団の変化を導いた.

3.義天の祖師認識の影響

3.1. 瑜伽業の祖師系譜 高麗前期の仏教界は華厳業,瑜伽業出身の僧侶が高い僧職・僧階をしめていた. 文宗代(在位 1047–1083)には,王子の義天が華厳業に,王室の外戚家門出身の韶 顕(1038–1096)が瑜伽業に出家し,世俗権力と仏教集団との結束力が強まった. 韶顕は 1079 年に金山寺へ行ったが,その年に韶顕は師匠の海麟の碑(「法泉寺智光 国師碑」)の造成をひきいたが,この碑に無着―世親―戒賢―玄奘とつながる祖師 系譜が登場する.これは韓国で唯識学の系譜認識が分かる最初の例である. また,韶顕は金山寺に金堂を建て,盧遮那仏と玄奘・慈恩の像を画いて奉った. 後には,それらにくわえて,海東六祖の影幀も奉安した.このように韶顕は瑜伽 業を整えながら,その正統性を玄奘・慈恩,そして新羅の僧侶からひいている. これは当時瑜伽業と競争関係にあった華厳業の動きと軌を一にするものである. 大覚国師義天の祖師認識と “宗派”(朴) (49)

大覚国師義天の祖師認識と “宗派”

朴  姯 娟

1.はじめに

本稿は大覚国師義天(1055–1101)の祖師認識が 11–12 世紀の韓国の仏教教団の 変化に及ぼした影響について論ずる.『高麗史』の大覚国師伝記に見られる,“始 めて天台宗を創し,国清寺に置いた”1)との表現は,韓国史上宗名が具体的に現れ る最初の事例である.そして『大覚国師集』には “宗” という表現が度々登場する が,これは高麗前期の教団を華厳業,瑜伽業等の “業” と称していたこととは異な る.そのため,これまで韓国史では義天の関係の史料を巡って “宗派” を論じる場 合が多かった. 周知の如く,義天はかつて杭州の晋水浄源(1011–1088)等の宋の僧侶達と交流 し,彼らから多くの影響を受けた.したがって,義天は教学的な側面のみならず, 教団の運営等に関しても彼らと共有するところがあったはずであろう.義天に “宗 派” 認識があったかを判断するには,特に浄源の認識と共に考える必要がある. 以下では,浄源の華厳七祖説,義天の華厳九祖説を中心として,これらの祖師 系譜認識と相互の影響関係を調べ,義天の “祖師” の強調が高麗社会に及ぼした影 響を探っていきたい.

2.浄源と義天の祖師認識

『大覚国師集』で,“宗”(諸宗,本宗,円宗,性相両宗,宗乗,真宗,吾宗,賢首宗, 宗風,宗門等)と同じくらい多く登場する用語が “祖”(祖師,祖教,吾祖,祖業,祖 道,祖図,諸祖,祖門,宗祖,祖訓,祖祖灯伝,祖譜等)である.浄源は義天に書いた 手紙で自らを “賢首(=法蔵)祖師の教えを伝える老僧” と言っている. 浄源は初め帝心杜順―尊者智儼―賢首法蔵―清涼澄観―圭峰宗密を華厳五祖と し,判教が賢首から始まったため,賢首教とした.後に,馬鳴と龍樹を加えて華 梵七祖を確定し,慧因寺に七祖堂を立てた2).宋代以降,禅宗の伝統系譜,儒家 (48) 印度學佛敎學硏究第 65 巻第 2 号 平成 29 年 3 月 ─ 991 ─

(2)

の道統説,天台宗山家派・山外派論争等を経て,華厳教団も確固たる祖師系譜を 樹立させるようになり,浄源がこれを担当したのである. 義天は浄源のこのような一連の事業を明確に知っていて,義天は浄源の業績を “宗乗を開拓し祖業を追崇した” と評価している3).義天が浄源に送った三度目の 文では,“本宗の七祖のことについて相議して頂きましたが,これを通して高意が 問いを好まれるだけではなく,ますます謙虚でいらっしゃることを審らかに知る ことができました”4)と書かれている.浄源が自分の七祖説を義天におしえ,議論 したことがよみとれる. ところで,この時義天は浄源に “此方でも本講にたよって立てました.後に管 見を略叙して座右にあげます”5)と加えている.自分の立てた華厳祖師系譜が別に あったのである[華厳九祖説:馬鳴―龍樹―天親―仏陀―光統―帝心―雲華―賢 首―清涼].義天がこの手紙を出した時期はおそくとも浄源の入寂(1088)前のこ とであろう. 義天は華厳の祖師系譜を確定しただけではなく,元暁を海東教主・菩薩と高く 謳い6),義相のおかげで海東で円頓之教[=華厳]が諸宗の盟主になり得たと評 価した7).義天の華厳門徒は元暁と義相を,天台門徒は元暁と諦観を開祖とみて いるのである. 義天と浄源は互いに交流をつうじて祖師系譜認識をさらに強化し,これに基づ いて各自高麗と宋で教団の変化を導いた.

3.義天の祖師認識の影響

3.1. 瑜伽業の祖師系譜 高麗前期の仏教界は華厳業,瑜伽業出身の僧侶が高い僧職・僧階をしめていた. 文宗代(在位 1047–1083)には,王子の義天が華厳業に,王室の外戚家門出身の韶 顕(1038–1096)が瑜伽業に出家し,世俗権力と仏教集団との結束力が強まった. 韶顕は 1079 年に金山寺へ行ったが,その年に韶顕は師匠の海麟の碑(「法泉寺智光 国師碑」)の造成をひきいたが,この碑に無着―世親―戒賢―玄奘とつながる祖師 系譜が登場する.これは韓国で唯識学の系譜認識が分かる最初の例である. また,韶顕は金山寺に金堂を建て,盧遮那仏と玄奘・慈恩の像を画いて奉った. 後には,それらにくわえて,海東六祖の影幀も奉安した.このように韶顕は瑜伽 業を整えながら,その正統性を玄奘・慈恩,そして新羅の僧侶からひいている. これは当時瑜伽業と競争関係にあった華厳業の動きと軌を一にするものである. 大覚国師義天の祖師認識と “宗派”(朴) (49)

大覚国師義天の祖師認識と “宗派”

朴  姯 娟

1.はじめに

本稿は大覚国師義天(1055–1101)の祖師認識が 11–12 世紀の韓国の仏教教団の 変化に及ぼした影響について論ずる.『高麗史』の大覚国師伝記に見られる,“始 めて天台宗を創し,国清寺に置いた”1)との表現は,韓国史上宗名が具体的に現れ る最初の事例である.そして『大覚国師集』には “宗” という表現が度々登場する が,これは高麗前期の教団を華厳業,瑜伽業等の “業” と称していたこととは異な る.そのため,これまで韓国史では義天の関係の史料を巡って “宗派” を論じる場 合が多かった. 周知の如く,義天はかつて杭州の晋水浄源(1011–1088)等の宋の僧侶達と交流 し,彼らから多くの影響を受けた.したがって,義天は教学的な側面のみならず, 教団の運営等に関しても彼らと共有するところがあったはずであろう.義天に “宗 派” 認識があったかを判断するには,特に浄源の認識と共に考える必要がある. 以下では,浄源の華厳七祖説,義天の華厳九祖説を中心として,これらの祖師 系譜認識と相互の影響関係を調べ,義天の “祖師” の強調が高麗社会に及ぼした影 響を探っていきたい.

2.浄源と義天の祖師認識

『大覚国師集』で,“宗”(諸宗,本宗,円宗,性相両宗,宗乗,真宗,吾宗,賢首宗, 宗風,宗門等)と同じくらい多く登場する用語が “祖”(祖師,祖教,吾祖,祖業,祖 道,祖図,諸祖,祖門,宗祖,祖訓,祖祖灯伝,祖譜等)である.浄源は義天に書いた 手紙で自らを “賢首(=法蔵)祖師の教えを伝える老僧” と言っている. 浄源は初め帝心杜順―尊者智儼―賢首法蔵―清涼澄観―圭峰宗密を華厳五祖と し,判教が賢首から始まったため,賢首教とした.後に,馬鳴と龍樹を加えて華 梵七祖を確定し,慧因寺に七祖堂を立てた2).宋代以降,禅宗の伝統系譜,儒家 (48) 印度學佛敎學硏究第 65 巻第 2 号 平成 29 年 3 月 ─ 990 ─

(3)

した.12 世紀以降,瑜伽業は慈恩宗に,曹渓業は曹渓宗へと教団名が変わった が,これは祖師の強調と無縁ではない.また,芬皇宗(元暁)・南山宗(道宣)の ように祖師を掲げた宗名を使用する教団も登場する.  1)『高麗史』巻 90,列伝 巻第 3,宗室,大覚国師煦.  2)王頌 2008, 34–37.  3)『大覚国師文集』巻 10(『韓国仏教全書』4, 543b6–13).  4)『大覚国師文集』巻 11(『韓国仏教全書』4, 545c13–15).  5)『大覚国師文集』巻 11(『韓国仏教全書』4, 545c17–18).  6)『大覚国師文集』巻 16(『韓国仏教全書』4, 555a10).  7)『大覚国師文集』巻 1(『韓国仏教全書』4, 528a24–b2).  8)「崔継芳墓誌銘」『韓国金石全文』中世上,558.  9)「断俗寺大鑑国師碑」『韓国金石全文』中世下,820. 10)「寧国寺円覚国師碑」『韓国金石全文』中世下,847. 11) 朴姯娟 2012, 221–231. 12)南東信 1999, 93–98. 〈一次文献〉 『大覚国師文集』(『韓国仏教全書』4,http://kabc.dongguk.edu/). 『韓国金石全文』亜細亜文化社,1984. 〈二次文献〉 金映遂 1937「五教両宗에対하야」『震檀学報』8: 74–101. 許興植 1986『高麗仏教史研究』一潮閣. 南東信 1999「元暁와芬皇寺関係의史的推移」『新羅文化祭学術発表論文集』20: 77–110. 王頌 2008『宋代華厳思想研究』宗教文化出版社. 朴鎔辰 2011『義天――生涯와思想――』慧眼出版社. 朴姯娟 2012「高麗前期仏教教団의展開様相―― “業” 과 “宗” 의用例를中心으로――」『韓 国中世史研究』44: 211–242. (2011 年度政府(教育科学技術部)の財源で,韓国研究財団の支援による研究成果の一部 である[NRF-2011-361-A00008].) 〈キーワード〉 『大覚国師文集』,義天,祖師,宗派,宗祖,晋水浄源,高麗,教団 (東国大学校 HK 研究教授,文博) 大覚国師義天の祖師認識と “宗派”(朴) (51) 海麟の碑文の纂述年代は 1079–1080 年頃で,義天の華厳九祖説は 1088 年以前と いうこと以外は分からない.ただし,瑜伽業の場合海麟碑以前には,祖師認識に 関する記録が全く見られないため,義天の影響とみる方が自然であろう. 3.2. 教団名の変化 12 世紀半ばまでは,教団名に公式には “業” が使われたが,徐々に “宗” があら われてくる. ① 有弟三人 一曰尚之 出家為慈恩宗僧統8) ② 高麗国曹渓宗崛山下断俗寺大鑑国師之碑銘幷序9) ③ □□□□台宗贈諡円覚国師碑銘幷序10) ① “慈恩宗” は高麗の教団名に “宗” が使われた二番目の例で,1117 年の記録で あり,② “曹渓宗” は 1172 年,③ “台宗” は 1180 年の記録である.②③ のように, 碑題に “宗” が使用されていることは,大きな意味を有する11) 瑜伽業から慈恩宗への名称の変化をみると,“業” には教学が,“宗” には祖師の 名前が付いている.このことにより,宗名の登場が祖師系譜を強調する雰囲気と 無関係ではなかったことが分かる.宗名の使用がすなわち “宗派” の登場とは言い 難いが,教団の性格変化を象徴的にあらわすこととみてもよいであろう. 3.3. 芬皇宗の登場 芬皇宗の “芬皇” は芬皇寺の元暁をさす表現で,芬皇宗は元暁を祖師としてまつ る教団である.義天は芬皇寺へ行って元暁像を参詣し, “海東教主元暁菩薩” の文 章からはじまる祭文を書いた.義天は入寂前に,粛宗に元暁を和諍国師に追奉す るよう進言し,「和諍国師碑」の建立も建議した.その後明宗代(在位 1171–1197) に「和諍国師碑」が建てられることにより,元暁と芬皇寺の関係が確実になり, これを契機として芬皇宗が現れたとみなす.芬皇宗は海東宗とも称するが,海東 も海東教主の元暁をしめす言葉である12) 芬皇宗の登場は 13 世紀頃であり,中国の祖師ではなく,この地の祖師を宗祖と する教団が成立したという点で意味がある.また,韓国で新たな教団の成立に宗 祖の役割が大きかったことも確認できる.13 世紀に初めて登場する南山宗は道宣 を宗祖とし,律を強調する集団であった.

4.おわりに

義天の祖師系譜認識は 12 世紀以降,仏教教団の “宗派化” に大きな影響を及ぼ したと評価できよう.瑜伽業でも祖師の系譜を立てて,新羅の元暁と太賢を顕彰 (50) 大覚国師義天の祖師認識と “宗派”(朴) ─ 989 ─

(4)

した.12 世紀以降,瑜伽業は慈恩宗に,曹渓業は曹渓宗へと教団名が変わった が,これは祖師の強調と無縁ではない.また,芬皇宗(元暁)・南山宗(道宣)の ように祖師を掲げた宗名を使用する教団も登場する.  1)『高麗史』巻 90,列伝 巻第 3,宗室,大覚国師煦.  2)王頌 2008, 34–37.  3)『大覚国師文集』巻 10(『韓国仏教全書』4, 543b6–13).  4)『大覚国師文集』巻 11(『韓国仏教全書』4, 545c13–15).  5)『大覚国師文集』巻 11(『韓国仏教全書』4, 545c17–18).  6)『大覚国師文集』巻 16(『韓国仏教全書』4, 555a10).  7)『大覚国師文集』巻 1(『韓国仏教全書』4, 528a24–b2).  8)「崔継芳墓誌銘」『韓国金石全文』中世上,558.  9)「断俗寺大鑑国師碑」『韓国金石全文』中世下,820. 10)「寧国寺円覚国師碑」『韓国金石全文』中世下,847. 11) 朴姯娟 2012, 221–231. 12)南東信 1999, 93–98. 〈一次文献〉 『大覚国師文集』(『韓国仏教全書』4,http://kabc.dongguk.edu/). 『韓国金石全文』亜細亜文化社,1984. 〈二次文献〉 金映遂 1937「五教両宗에対하야」『震檀学報』8: 74–101. 許興植 1986『高麗仏教史研究』一潮閣. 南東信 1999「元暁와芬皇寺関係의史的推移」『新羅文化祭学術発表論文集』20: 77–110. 王頌 2008『宋代華厳思想研究』宗教文化出版社. 朴鎔辰 2011『義天――生涯와思想――』慧眼出版社. 朴姯娟 2012「高麗前期仏教教団의展開様相―― “業” 과 “宗” 의用例를中心으로――」『韓 国中世史研究』44: 211–242. (2011 年度政府(教育科学技術部)の財源で,韓国研究財団の支援による研究成果の一部 である[NRF-2011-361-A00008].) 〈キーワード〉 『大覚国師文集』,義天,祖師,宗派,宗祖,晋水浄源,高麗,教団 (東国大学校 HK 研究教授,文博) 大覚国師義天の祖師認識と “宗派”(朴) (51) 海麟の碑文の纂述年代は 1079–1080 年頃で,義天の華厳九祖説は 1088 年以前と いうこと以外は分からない.ただし,瑜伽業の場合海麟碑以前には,祖師認識に 関する記録が全く見られないため,義天の影響とみる方が自然であろう. 3.2. 教団名の変化 12 世紀半ばまでは,教団名に公式には “業” が使われたが,徐々に “宗” があら われてくる. ① 有弟三人 一曰尚之 出家為慈恩宗僧統8) ② 高麗国曹渓宗崛山下断俗寺大鑑国師之碑銘幷序9) ③ □□□□台宗贈諡円覚国師碑銘幷序10) ① “慈恩宗” は高麗の教団名に “宗” が使われた二番目の例で,1117 年の記録で あり,② “曹渓宗” は 1172 年,③ “台宗” は 1180 年の記録である.②③ のように, 碑題に “宗” が使用されていることは,大きな意味を有する11) 瑜伽業から慈恩宗への名称の変化をみると,“業” には教学が,“宗” には祖師の 名前が付いている.このことにより,宗名の登場が祖師系譜を強調する雰囲気と 無関係ではなかったことが分かる.宗名の使用がすなわち “宗派” の登場とは言い 難いが,教団の性格変化を象徴的にあらわすこととみてもよいであろう. 3.3. 芬皇宗の登場 芬皇宗の “芬皇” は芬皇寺の元暁をさす表現で,芬皇宗は元暁を祖師としてまつ る教団である.義天は芬皇寺へ行って元暁像を参詣し, “海東教主元暁菩薩” の文 章からはじまる祭文を書いた.義天は入寂前に,粛宗に元暁を和諍国師に追奉す るよう進言し,「和諍国師碑」の建立も建議した.その後明宗代(在位 1171–1197) に「和諍国師碑」が建てられることにより,元暁と芬皇寺の関係が確実になり, これを契機として芬皇宗が現れたとみなす.芬皇宗は海東宗とも称するが,海東 も海東教主の元暁をしめす言葉である12) 芬皇宗の登場は 13 世紀頃であり,中国の祖師ではなく,この地の祖師を宗祖と する教団が成立したという点で意味がある.また,韓国で新たな教団の成立に宗 祖の役割が大きかったことも確認できる.13 世紀に初めて登場する南山宗は道宣 を宗祖とし,律を強調する集団であった.

4.おわりに

義天の祖師系譜認識は 12 世紀以降,仏教教団の “宗派化” に大きな影響を及ぼ したと評価できよう.瑜伽業でも祖師の系譜を立てて,新羅の元暁と太賢を顕彰 (50) 大覚国師義天の祖師認識と “宗派”(朴) ─ 988 ─

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