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パーリ学仏教文化学 (7) - 009書評・島 岩「Stanley Jeyaraja Tambiah : Buddhism Betrayed ?」

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(1)

Society for the Study of Pali and Buddhist Culture

NII-Electronic Library Service Soolety  for  the  Study  of  Pall  and  Buddhlst  Culture

書  評

StanIey

 

Jeyaraja

 

Tambiah

Buddhism

Betrayed

 :

2

L

は じ

 

1993

5

1

目, シ ン ハ ラ とタ ミ ル 民 族 対 立 な か

Premadasa

大 統 領が暗 殺さ れ, 両者の 民 族 対立は現

ますます 混迷 を深めてい る この よう な

態に直 面 した とき, わ れ わ れ が まず 思 うの が,

の 二 つ の 問い で ある、、 (

1

)ど うしてこ んな事態になっ て し まっ たの だろ

2

)なん とか

和解

い の だろ うか。 後者の 現 実 的な問い に答 えるの は とて も困 難だ ,,だ が蔚者の 問い には , その 歴 史 的

経緯

につ い て

える こ とで, なん らかの

えを出 すこ と は 可能だろ う。 そ して こ の 問い に答 えて くれ るの が こ れ か ら紹 介 しよ う とする

Tambiah

1992

) なの である,,

 

著 者の

Tambiah

は, ジャ フ ナ 生 ま れの タ ミル 人で ,

杜会

人類 学 的立場か らの タイ仏

で は, 第 .一・人者 と

っ てい い 人で あ る。 だが , タ イ仏教 に 関する 三部

作 (

Tambiah

 

1970

1976

1984

) を完 成させ たあ と,

近で は ス リラ ン カの 民 族 問題 に たい して積 極 的に発

しは じ め て い る よ うに思わ れ る

Tambiah

 

1986)

。 そ し て,

昨年

彼が 出 版 した本 書 : が, 民族 対立へ の 歴

的経 緯を ,現 時点で は最 もコ ン パ ク ト に かつ 分 か りやす く

明して くれ る も の だ と言えるだ ろ う。 皿、

所 説

紹 介

1

.本書の テ ーマ と構 成 『仏 教

ら れ た か ? リ ラ ン カ にお け宗教 , 政 治,

カ ー一一 』 N工 工一Eleotronlo  Llbrary  

(2)

 L12  

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

ノぐ一リf/’

f

1 

lft

文:イ匕’亨: とい う書 名が示 す ように, 本 書は, ス リラ ン カ にお ける

宗教

的 ・政 治 的

的 対 立の

勃発す

た と えば民族 暴 動や テ ロ ど) と仏 教 との わ りをテーマ に し た もの で ある。 すなわ ち, 「仏 教本 来に は 非暴 力

教で ある に もか かわ らず, ス リ ラ ン カ に は今日 どうし てこ ん なに

くの 政

治的暴力

存 在

するの か。 もし仏 教が

日の 民 族 対 立 と集 団 的暴

に関わ っ て き たとすれば , そ れ は どの ように して なの か。 また, 両者の 関わ りあ る い は民 族 対立や暴 力に関わっ た仏 教 自体に,時代的 な

徴や変 化が認め ら れ る の だろ うか」 とい う問い に

えようとする の が, 本書の ね らい なの である。 その さい

は, シ ン ハ

仏 教

シ ョ リス トの

仏 教 解 釈

と は異 な り,

Mahavamsa

な どとい ような

い とこ ろ に まで 遡っ て, シン ハ ラの 民

族 的

アイ デ ン テ ィ テ ィーの 問題や シン ハ とタ ミ ル の民 族 対立の 問題 をとらえよ うと は しない 。 こ の 問題 はあ くまで近

的 な所 産で ある とい

をと り,

1880

年 代か ら

1980

年代の

100

に限 っ て, この 民 族 対立 と仏 教 と

暴力

の 問 題 を, 歴 史的に説 明 して い こ とするの で

る。 その た め本 書は, 内

的に は

き く二つ に分か れて い る。 一

1880 年代

か ら

980

年代

1

 

0

族 対

立 と仏 教 と暴

の問題 を扱 っ た箇 所 (

2

12

5

128

頁 ) 。 そ して, も う 一

13

 

ーシ ンハ ラ ・ア イデ ンテ ィテ ィ ー :去 の 遺 産」

129

182

頁)

で , こ こ で は

2

が論 じられ て い る。 (

1

) シン ハ ・ア イ デ ン テ ィ テ ィー は,

10

世 紀 頃に は じめて成 立 した と考 えられ るが , そ れ は決して 排 他 的 な

性 質

の もの で はな く, その

もタ ミ ル などの異

な要

り込み なが ら,確立 さ れて い っ た もの で あ る。 (

2

>したが っ て , 「仏 教 的 な ル ヒー を分 断 す , 悪 魔 的な もの と み な して 排 除 し ようとする宇 宙 論が,

Mahavamsa

などの

年代 記

か ら現 在の 悪 魔

い の

儀 礼

に まで埋 め込 ま れてお り, それ が現 在の民 族 対 立の 中で の タ ミル へ

暴力

まで 強 力に作 用 して い る

すな わ ちタ ミ ル の 分離 独立へ の き を 悪魔 的な分 断と して暴 力 的に排除 しよ うとす る)」 とする

Kapferer

1988)

の 主 張は 認め ら れ ない 。

 

こ の ように,

2

12章

13

で は る テ

が か な り異

(3)

Society for the Study of Pali and Buddhist Culture

NII-Electronic Library Service Soolety  for  the  Study  of  Pall  and  Buddhlst  Culture

      Stal1]c

}・Jcyaraja Tanibiah:Buddhism Betra}v(・d〜       

113

なっ てお り, また , 私の 関心が現 在の 暴 力 的 な民 族 対 立へ の 歴

的絳

σ)ほ うにある の で , この 書

で は 以 一 ド

2

−−

12

章 に隈っ て

各 章

紹 介

を行っ て い き たい 。

2

、各章の内容 紹 介

 

2

章 「

教復

興の

時代

1860

1915

智 協 会 と

Dharmapala

の 活動が取 り一ヒげら れてい る。 そ して , そ こ に シ ンハ ラ仏 教の 復興 運動 とシ ン ハ ・ナシ ョ ナ リ ズム の 起 源が 求め られ, ま た .こ の時 期に シ ンハ ラ意識 とシン ハ 国民 的デ ン

した とが

摘 さ て い る。 た とえば .神 智 協会に 関 〔、ては . プロ テ ス タ ン トの ミッ シ ョ ン の 教 育独 占に対して・仏教 学 校を設立 した こ との つ 意 義が ,

1940年

代 と

1950

年代 に 再び 生 じ た 仏 教 学 校 設 立運

と の 関 連 で 注 目 さ れ て い る、 ま た

Dhamlapala

に関して は, (

1

)仏典 時代の仏 教か ら規 範 を選択的 に圖復 する

2

)非 仏教 的 な儀 礼 と魔術 的

操作

を非 難 する, 〔

3

)シ ンハ ラの 都 市の 中産 階

に 適 した在 家の

行動

の ため の 法 典の 宣 言を

っ て, ピュ ー リタ ン的性道徳 と家 族生活で の エ ッ トを強調 する.   ハ

4

納 醒 α 刑 ∫α に歌わ れてい る ような{」、 教 とシ ン ハ 文明 過去栄 光

, そ れ によっ て イギ リス支配 に対 し て シン ハ に ナ シ ス テ ィ ク な ィ テ 尊厳を吹 き 込む, とい う ような特 質 を備 えた

の 活 動が

915

年の 反 ム ス リム暴 動で は , タ ミル とム ス リム 排 斥 とい

を と るこ とへ とつ な っ て い っ た とい うこ とが

指摘

されて い る。

 

3

章 「 合 憲 的 進 歩

1915

1946 年 (

1

onoughmore

法時代

)一 で は , イギ リス によ る反ム ス リム暴

鎮 圧以

過激派

が な り を ひ そ め , そ れ に代わ っ て, 漸進 主義 的な政 治 的権 利の獲 得を 目指 し た西欧 化 さ れ たエ リ

 

トた ちが政 治 的主

権 を握っ た時代が

り ト:げ られ , こ の

に お 治 的 ・宗 教 的

きが紹

さ れ て い る。 す な わ ち ま ず,

1916年

に は

Ceylon

Rcf

〔〕rm  

Leaguc

が結成 さ れ , そ

1919

Ceylon

 

National

 

Congress

CNC

)に衣 替 えを し, 植 民地 支配の 中で エ リ

トが

表権

よ う と す る運動 を展 開する。 そ して , その 成 果が,

Donoughmore

法 制 定で , そこ

(4)

 114      /t一リ学

f

.ム教文イヒ学 では(1)普 通 選挙

獲得

1931 年)

と(

2

国会

の 内 的 自治の拡 大

すな わち

61

入の 議 員

50

人 が

通 選

で選 ば れ る

が実 現 さ れた。 だ が, 同 時に シ ンハ ラ とタ ミル の対立

2

で 浮 き彫 りに なっ て きた。 すな わ ちそ れ は, (

1

)多 数の コ ミュ ニ ー が国

支配す

権利

少数派

保護

の 問 題

と, (

2

)公 共 機 関 へ 採 用基準問 題

タミル 人の 採用

す ぎる

で あっ た。 ま たこ の

期に は以 ドの

2

点で 重 要な展 開が認め られ る。

なわ ち,

U

)世俗 的に は

翼政

結成

であ り,

  宗教 的

には比丘 の政 治

参加

の出 現で ある。 まず 前 者 に関 しては ,

CNC

主導の政 治 状 況へ の

不 満か ら,

1935

に は マ ル キ ス ト政 党

Lanka

 

Sama

 

Samaja

 

Party

LSSP

が結 成 され,

1943

には こ こ か ら共 産 党

CP

が分 裂 した。

方,

者に

関 して は ,

地 域 の 仏 教 社 会 を 覆 う 傘の よ う な 組 織 で あ る

All

 

Ceylon

Buddhist

 

Congress

ACBC

Sinhala

 

Maha

 

Sabha

SMS

1935

S

W

R

D

. 

Bandaranaike

に よ

さ れ , その 中で も特に

SMS

は, 階級 問の 利 害の対立 を説 く左 翼政

に対 して シ ンハ ラ と タ ミ民 族 的 宗教 的, 言 語 的 な利

立を

強調

し た。 だ が,

SMS

1930

年代 後半

には,

Bandaranaike

の 指

の もとで

して ゆ

。 その た め, そ れ にあ きた ら ない 比 匡た ち

た とえば

Sirisena

, 

Cumaratunga

な ど

SMS

か ら脱退 し, こうし て政

治的

に ラ デ ィカ ル な比 丘 が 出 現 して くるこ とになっ た,, そして彼 ら は ,

左の 主

と シンハ 仏 教の 主張を

け, 両

の融

を図ろ

と したの で あっ た。

 

4

章 「ラデ ィ カ ル な 比 丘 と比丘 の 政

治参

加の 正 当性」 で は, 二 人の ラデ ィカ ル な比 丘 と彼 ら を

む 政 治 的比 丘の 組織 につ い て論 じ ら れてい る。

代 的には まず, ラ デ ィ カル な比丘 の 先 駆 者 と して ,

1935

年 の

LSSP

結 成 を支

し た比 丘た ち

なかで も

Udakandawela

 

Siri

 

Saranankara

が最 も

存在が あ っ た。 だ が, その 存 在は ま だ サ ン ガ の 中の ほ ん の 一す ぎ な か っ た。 の ちに影響を与える よ

なラデ ィ カル な比丘 たちが数 多 く登 場 して くる の は,

1940

年代 半ばになっ てか らの こ と で ある。 彼 らは, (1)比 匠の 政 治参 加 の権 利 と責任 を明確 に宣言 し,   政

に従

する圧 力 団体 と して 意味が

(5)

Society for the Study of Pali and Buddhist Culture

NII-Electronic Library Service Sooiety  for  the  Study  of  Pali  and  Buddhist  Culture

_S1nnlc}:一』cyR 【

aja

 Tambiah:βL44 れな刀z Be”・‘8‘ノ〜. 115

ある だ けの

団を結 成 した。 こ うして この

時期

に政

的比 丘の

存在

立 さ れ た の で る。 そ して , 彼 らの 中で

指 導

的地位 に あっ た の が ,

Walpola

 

Rahula

K

. 

Pannasara

であっ た。 前 者 は, 

Bhiksuvage

 

Urumaya

The

 /

feritage

 of the 

Bhikku

1946

)を出版

過 去

には比 丘が政 治に

してい た こ とを

証 し よ

と し た。

 

Vidyalankara

 

Pirivena

の 校 長で

あっ た

者は

Bhikkhus

 and  

Politics

946

に お い て 政 治は公 共福 祉 の すべ 側 画 を含む か ら,それ にわ る

1Tz

天 職 で ある と主張 して, 既 成の サ ン ガ と

UNP

の 政

家か らの 批判 (すな わち比丘 は 出家なの で 政 治 に関わるべ は ない とい う批 判 )

反論

した 。 か くして ラ デ ィ か レ丘 た ち は

194碑 6

月に は

L

・・

k

Ek

・ath 

Bhikkh

M

・nd ・

1

y

・ (

LEBM

, the 

Ccylon

 

Union

 of 

Bhikkus

)を結 成す る にい た り, 比 丘 の 政

加 を唱 えて, 当時の

UNP

資 本 主

政府の打 倒 を公

と論 じ,

1946

47年

の ゼネス トにも積 極 的に参 加 して い っ た,, また,

1947年

の 最 初の

通 選挙で は,

ら は ,

翼 政 党 を 支

して . 選 挙 応 援 を

っ たが ,

UNP

に敗北 を き した。 そ し て その

厂 仏 教をマ ル クス

か ら

えご とい

に抵 抗で きずに消 滅 してい っ たの で あっ た。 だ が, 彼らの運動 は, その の ち 政治 的比 }モがマ ル クス 主義を

て て 仏 教ナ シ ョ ナ リス ト的立場 をと る な り , 雀

956 年

の 普通 選

で は 政治 的 な勝

を お さめ るよ うになっ て い く,先駆 的 な 動 き と して, 大 きな

意義

を持つ もの で あっ た。

 

5

章 「 仏 教の 切 りと回復…

 

難と対 処一一 .一 と

6

仏 教

切 り :調 査 委 員 会の 報

で は, イ ギ リス 植 民 地 ドで , 政治との 関わ りを

つ シン ハ

指導

者 が か の正 当な位 置へ の 回復., 「 仏教 の 裏 切 り1 が何 を 意味 して い たか につ い て

察 さ れ る、、 その さい そ の 代 表 的な 見解を示 す もの と して,次の 置つ の

が表 明 して い る見 解が取

り .

L

げ ら れ て い る。 (1)

Wa

pola

 

Rahula

 

Bhil

〈suwage {ノrumaya

The

Uei

itage

 o l 

the

 

Bhikku

1946

), (

2

:] 

Buddhist

 

Commitee

 of 

Inquiry

, 

The

B

・t・ay・

1

 ・

f

B

ddhi

・m (

1956

3

D

C

 

Vij

y

・w ・・

dh

・n・ 

Dh

・・ma −

Viiaya

or  

The

 

Revolt

 

in

 the 

Temple

1953 )

。 こ れ らの 著 作 は, 以 下の

3

点に

点 を

(6)

116

パ ーリ学 仏教 文 化 学 あて て い る とい

で , イ デオ ロ ギ ー

明 として重 要 な もの で ある。 (

1

> 比 丘 が

時代か ら政治 的活動を行っ て きた とい う点 を積 極 的に評 価 して, 比 丘 の政治

加 を正

当化

してい る。 (2)仏教, サ ン ガ,

在家

仏 教 徒に

を与え る もの と して イギ リス 植 民地 支配 を批 判 し て い る。 (

3

)仏教 とサ ン ガの 正

な 地位へ の

の た め の プロ グラム を提 示 し てい る。

 

これ ら三つ の 著 作の うち

も重 要 なの が,

Bhiksuwage

 

Urumaya

で ある。

著 者 で あ る 比 匠

Walpola

 

Rahula

は, 

IPVhat

 

the

 

Buddha

 

Taught

1959

History

()

f

 

Buddhism

 

in

 

Ceyton

1956

な ど を著 したす ぐれ た 仏 教

者であ

る と同時に, 仏教 社 会の 利 益

代 表

する プロ パ ガ ン テ ィス トで あり

活動

家で もあっ た 人で あ る。 彼は まず,パ ー リ聖

お よび注 釈を

根拠

に, 仏 陀や比 丘 たちが過

におい て は社 会の 福 利お よ び政 治に関わ り, 比 丘 た ち が シン ハ

文化

の発 展 に貢

し たこ とを論 証 して,

他者

へ の 社 会 的奉 仕に従

すべ き比 丘 が政

治参

加 するこ との 正当性へ 理 論 的基 盤 を

供 した そ して ,仏 教が シ ンハ 人の

に なれ ばt ナ ショ ナ リ ズム と国民文 化 を宗 教 (仏教

か ら 切 り

すこ と はで き ない の だ と説い た。 その た め

は, 「宗 教 的 ナ ズ ム, 「

宗教

国主

」 とい う表現 を好ん で用い て い る。 また

は, こ の よ

な比丘 の政

的 ・社 会 的役

骨抜

きになっ たの は , イ ギ リス 植 民 地 支 配下 にお ける比丘 と在 家の分 断政

, 具体 的に は キ リス ト

保護

と仏 教の 弱

体化

の せ い であると も 主

して い る。 すな わ ち , イ ギ リス植 民 地 政

は, 一

比 丘 を政

につ 懐 柔 し て寺 院勢 力 を

他 方 で は キ リ ス ト

の伝 道 師に教 育, 社会 福 祉

動 を取 っ て か わ ら せ る こ とによ っ て 在 家の 人 々 に比丘へ の 軽蔑 を

付かせ た。 その た .

to

 

IR

在では, キ リス ト教へ

改宗者

ばか りか上流 階 級の

富裕

なシ ンハ

彼 ら は西欧キ リス ト 教 的環 境の 中で育っ た

も, 比 丘 を軽 蔑し,比丘 の 政 治

加の

意義

に つ い て 理 解で きない の である。 こ の よ

に彼は 主張したの である。

 

次の

The

 

Betrayat

 of 

Buddhism

は,

1953 年12

月に開催され た

ACBC

の 年

次 大 会の決

け て 設 置 され た

Buddhist

 

Commitee

 of 

Inquiry

成 し

(7)

Society for the Study of Pali and Buddhist Culture

NII-Electronic Library Service Soolety  for  the  Study  of  Pall  and  Buddhlst  Culture

         Sta壟 y Jeya・a}a T・亜 iah:一g,gbtdhis.fI Bett… 壁一        117

の あ る

く,その ため この 報 告

は 説 に, 政

治 的

比丘 と は異 なる穏

リベ ラ ズム の 立場か らか れ い る、, こ の

報告

書は まず,次の よ うな シン

の 歴史につ い の 悲劇 的 見解で 始 まっ て い る。 すな わ ち, ス リラ ン

は ,過 去に は,

Devanampriya

 

Tissa

Asoka

 

E

か ら仏 教 を

け取っ た モ ) ,

Dutthagamani

タ ミル

E

】ara を

り.

E

一一して

Anuradhapura

時 代

D

Parakrama

 

Bahu

 

・. 肚 (島を統一一した

Polennaruwa

 

l1

寺代

英 雄 ) うよ うな シ ンハ ラ の 時代 を

た が , その

は ポル ト ガ ル, オラ ン ダ, イ ギ リス の侵

けて, 絶え聞ない 没 落の 道を進ん で きたの で 独立 を契 機に復興の必要が ある とする見

である、, そ して 中で も シ ンハ ラ仏

没 落の 原 因を }モに イ ギ リス

地 ドにお ける教

問題に求め, 当

のキ リ ス ト

ミッ シ ョ ン と サ ン ガ を次の二 で 比 較 して い る。

U

)ミ ッ シ ョ ンは効 果 的な続…組 織 を持 ち, かつ その 活 動は 政府の 保

けた が サ ンガ は分 裂 し活動に制 限 を加え ら れ た。 (,

2

)プ V テ ス タ ン トの ミッ シ ョ ン お よ び最 近の カ ソ ク は , 植民 地 支配 に

した教 育に成功 した が ,サ ン ガ は イギ リス の支 援を得 ら れず, その た め シ ンハ ラ人仏

教徒

の人口の 割 に仏 教

学校

は極め て少 数であ る。 そ して , こ の ような認識 に立っ て, 報 告 書は,

論 的に は ,国 語, 歴

,文 化の 自覚を持 ち, 国の 遺 産を 豊 かに で きる よ うな世代の育成の 必要 を説 き, 具 体 的 に は次 の よ

1

仏 教 復

興 案

て い ,,

Cl

 

li

Buddha

 

Sasana

 

Act

(仏 教 振 興

の 提 案。 す な わ ち , 

Buddha

 

Sasana

Council

(仏教 省 )を設 立 して宗 教 大 臣を任

し, その 省を1†1心 に サ ン ガが ミッ シ ョ ンに対 抗す る よ うな形で 中央 集権 的な

組織

を形 成 し, 仏 教 による国 の 統 一を図る。 そして , 植

時代

の 寺 院財産没収の補 償 と して , 政

はサ ン ガ に金 を支給 し, サ ン ガ は その 年金で教

活 動を宥う。 (

2

)キ リス ト教 ミ ッ シ ョ ン系私

学校

へ の

助 金を取 りやめ ,ミ ッ シ ョ ン

立学 校

仏 教

グ)学校

を 政

接 収 , 政府 に よ る中央 集 権 的な教育 を実

する

その 結 果 シ ンハ 伝 統 仏教 的価

好 意 的現 政 府 の もとで は, シ ン ハ ラ 的 ・仏

教 的

教 育 が 実

さ れ る こ と に な る) 。

な お

Tambiah

は, こ の よ うな

報告 書

の 背 後に ある シ ンハ ラの 没 落 とい う悲 劇 的 N工 工一Eleotronlo  Llbrary  

(8)

 118       パーリ学 仏 教 文化 学 歴

史観

には, 外

に対 する

敵意

な わち

初 はタ ミル の侵入

, そ れ か ら 西 欧の侵入者に じゅ う りん され た とい う見

を生み, 実 際に は シ ンハ ラの ほ うが タ ミル にたい して

数 派なの に, マ イノ リテ ィ ー ・コ ン プレ ッ クス を抱 くとい

う危

険がある ことを

指摘

してい る

 

Dharma

Vijaya

, or 

The

 

Revolt

 

in

 

the

 

1

セ即

1

ε は 仏 教 ス リ ラ ン

カ文 明, シ ンハ

2500

を祝 っ て書か れ た もの で ある。 その 著 者の

D

CVijayawardhana

は, 

Buddhist

 

Commitee

 of 

lnquiry

の メ ン バ

っ た た め, この 著 書に は

員会の 主張がある程 度 反 映 され て い る。 すな わ ち, (

1

)ナ シ ョ ナ リス ト的立場

す なわ ち仏 教とシン ハ ラ の国ス リ ラ ン カ とい う主張

と(

2

>イ ギ リス

教 育

に基づ く教 養味 付 け されて い る

点 (

た とえばマ ル キ シズ ム と左 翼を国と精

利の 興 の とみ なす態 度 )で ある。 そ して, こ の 本の テーマ は 以 卜』の 二 つ で あ る。 (

1

教と し ての 仏 教 とい うテ ー 。 す なわ ち, 王権 に支え られ た国

と して の仏 教の 至高性 とい うテ ー

民 地下 で衰 退 した仏 教 を

興 すべ とする仏 教ナ シ ョ ス トの 「歴

的」 主

を正 当化 する

前提

となっ て い る。   サ ン ガ と出

家僧

の 政 治

加の正当性の 主張。 すな わち,

Dharma

Vij

 aya

勝利

」 を意 味 し, 

The

 revolt  

in

the 

temple

は サ ン ガ と比丘が 国の 平和, 繁 栄,

福 利

の ため に常に政 治 に参

し て い た とするテーマ を意 味 してい る。 比 丘 も

宗教

的 ・社 会 的

すべ き だ とするこ の よう な主

は, すで に

Walpola

 

Rahula

な どの 活 動 的 比 丘 たちが行っ て き た もの で あるが, そ れ を裕 福 な教 育 ある仏

教在

家が

い だ と こ ろ に, こ の本の

意義

が認め られ るの である。

 

7

章 「

1956

の社会

命 とその

波」 で は ,

1956

年 (

仏 滅

2500

年祭

0)

年)

選 挙に お ける シ ンハ 仏 教 シ ョ ナ リズム の勝 利 と, その の ち

発 した

1956

1958

年の 暴 動に つ い て

じら れ て い る。

 

1956

年の選挙の最 大の争 点は シ ン ハ 語を唯一 公用 語 とする か ど

か とい う問題で あ っ た。 この 問題に関 して , シ ンハ ラ仏 教 ナシ ョ ナ リズム 側 は, (

1

)シ ンハ 語の みの 公用 語 化, (

2

)シ ン ハ ラ に よ る

国民

イ デン テ ィ テ ィ ー と国民

文化

の 育 成, (

3

)仏 教の 植 民 地

時代

の 状

へ の

興 を主

して, シ

(9)

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      .Stanlcy 

L

ya

 ra,

ia

 Tambiah ;β〜ぜ44’爵燗 Berraed        

119

 

ン ハ

用 語化 をた め ら

UNP

政府を批 判 し, 

SLEP

導 者

S

W

R

D

 

Bandaranaike

ひ きい る

MEP

を積 極 的に

援 した。 なか で も,

Eksath

 

Bhikkhu

 

Peramuna

EBP

United

 

Front

 of 

tlle

 

Monks

) を結 成 した

比 丘た ちの

は め ざま しい の が あっ た、, 彼 らは ,反 西 欧 , 反カ ソ リッ ク, 反

UNP

の立場 を と り, 選 挙の さい に仏教 徒が

慮 すべ

と し , 

Z

 The

Betrayal

 of 

Buddhism

提 案の 実

, シンハ ラ語の み の 公用 語

,民 主社

現 などを

げ な が ら, 国会 前で の 断 食, 個 別

問, パ ン フ レ ッ ト配

な どの 熱 心

動を行っ た。 一・ 方.

UNP

は ,サ ン ガの 長 老を 陣引 き 込 ん で対 抗 しよう と した が, こ れ らの 比丘 た ちの活 動を

える こ とはで きな か っ た。 そ の 結 果, 選 挙は

SLFP

Bandaranaike

勝利

し,独 立 以

UNP

政権 に

止符が うたれ たの であっ た (こ の 選

が 比 丘 が 政参 加 して勝 利 を

めた最 高の そ して 一の 瞬 間で あっ た)。

 

選 挙 後,

Bandaranaike

政権は シ ンハ ラ

の み を公 用

とする法 案 立 法 化 を 図っ た だが その さい , タ ミル 語 あるい は英 語に よ る公務 員試 験の

験や地

に お け務 用

L

己決

の形で, タ ミ ル

譲 歩 を

。 だ が, その譲 歩に対 して

EBP

の 比丘 た ち は強 硬に反対 し た . その ため まず

1956年

に は

東 部

州の

Gal

 

Oya

 

Valley

(入植

に よる農 業 開発

画が

られ た 地 域 , な お 入植 聞題立 と につ い て はの ちに

れ る)で暴

が 生 じ た。 しか し, こ の 暴 動が シ ン ハ ラ語 の み を公 用 語 とする法 案の 立を遅 らせ る こ とは な か っ た。 そ の ため

1958

年に, よ り大 規模 な暴動が発 生 する こ とになるの である 。 その 経

通 りで ある。 政府の シ ンハ ラ語の み 政策 (た と え ば 主要な教 員 養 成 大学 シンハ 教 員

とか

6

i

りで シ ンハ ラに奨学 金を

え る など)に対 して まず , タ ミル

Federal

 

Party

治的

なタ ミル 言 語 州」 の 確立 を宣言 して, 非 暴 力的 運 動

satyagraha )を展 開し た 。 その 後,

Bandaranaike

とタ ミル

指導 者 (

Chelvanayagam

結 果, 〔1 )特 に北 部州と

東部

地 方

機 関で の タ ミル の 理 にか なっ た使 用 , (

2

’ )

権 化の しす ぎ是正の ための 地方

委 員会

設 立 と

2

を み た が , N工 工一Eleotronlo  Llbrary  

(10)

 120      

パ ーリ学仏 教 文化学

EBM

の 比丘や

UNP

が反 対 した ため に, こ の

意は実 現に はい た らなか っ た (なお

UNP

J

R

. 

Jayawardene

指 導下の も とで 「シ ンハ 政 策へ と方向 転 換 してい た。 その

, 政

の 推 移に も か か わ らず, 政

は タ ミル との 妥

を図 り, 主要な野 党はその 試み の

折 を図 っ て シ ン ハ ラ入 の

parochialism

を煽る とい うパ ター ンが繰 り返 さ れ るこ とになる)。 こ の よ うなシ ンハ ミ ル 問の深 ま る政

治的危機

背景

として,

1957年

末以来の

労働

者ス ラ イ キの 中で の

的秩 序ま りとい う雰 囲

で ,

1958

5

月に暴 動が発生 したの である。 そ し て, こ の 暴動は , まず北中央 州の シン ハ ラ 入多 数 派地 域 と

部 州の タミ ル

数派

地域で発 生し,

に コ ロ ン ボな ど の シ ンハ

多数派

地域 で の タ ミ ル人 攻 撃へ , さ らに は ジ ャ フナ をは じめ と する北部 ・東 部

の タ ミ ル人

多数

派地 域にお け るシ ンハ ラ 人攻 撃へ い う形 で , ス リ ラ ン カ全 土に広 まっ て い っ た の で あっ た。

 

8

1960

70年代

にお ける 仏教の 復 興 と教

の 変化 で は, まず, 仏 教 原理主

と仏

教復 興

運 動 が,

仏教

ナシ ョ ナ リ ズム へ と変 質 し て ゆ き, 政

的仏 教 となっ て い っ たこ れ まで の 過程が

の ように

理され てい る。 す なわ ち,

19

紀 末

か ら

20

紀 初

頭 の シ ン ハ ラ の 復 古 主

的 仏 教

た と え ば

Dharmapala

仏 教

は,

仏典

時代の 仏 教か ら

規範

を選択 的に回復 し, 迷 信 を排 除 する とい う仏 教

純化

の 方 向を含ん でい た。 だが そ れ は, 新 聞等の メ デ ィ ァの 活用,

しい 教

組織

形 態の

用 , 地方 語で の 説教や パ ン フ レ ッ ト等に よ る

教な どの

技 法

い なが ら, 大 衆

の 過 程 を歩む 中で , 仏 教 の イデ オ ロ ギー化を も た ら してい っ た (つ ま り

道徳

的 実践 とし て の仏

か ら シ ンハ

文化

的 ・政

治 的財産

と して 0)仏 教へ と変 質 して い っ た

。 その

そ れは, /

950

年代に は, シ ン ハ

仏教

シ ョ ナ リズムの 立場か ら政

加 する政

的仏 教へ と変 化 してゆ き, 政

的暴 力 と も

びつ い て い っ た。 そ し て, こ の 政治 的仏

教 (

ある い シ ンハ ラ仏教 ナ シ ョ ナ リズム ) に は,次の よ うな二 つ のイデオロ

特徴

め られ る。

な わち, (

1

)仏

話 的な

年代記

が,

聖 なもの とし て価

を持 っ て

神化)

, シン ハ 民 族 的 尊 厳や ア イ デ ン テ ィ テ ィーの

と して

用 し, その

伝統

保 持の た め の政

的活

(11)

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NII-Electronic Library Service Soolety  for  the  Study  of  Pall  and  Buddhlst  Culture

      Sτlcy jcyaraja Tambiah:Buddhism Betray’ed  .7       

21

動が 正 当化 さ れ, ま た, 〔

2

:私 典 な どに

られる過 去の 時代に, 輪

聖 王統 治 下の 理想の

代, 仏 教 的民 宅 進義 杜 会 「の 平穏 な仏 教 的生活 平等 な 田舎の 社 会を見い だ し て,そ こ か ら現 代の 政

が 批判 さ れ, 仏 教ナシ ョ ナ リズム , 仏 教民主 主義, 仏教 社

か れ るの で ある,,

 

そ の の ち

1960

70 年代

の 政治 の 動 きが 簡

に述 べ ら れる。

1960

65 年

Srimavo

 

Bhandaranaike

SLFP

政権。

1965

70 年

D

 

Senanayake

UNP

政 権。

1970

77

Srimao

 

Bandaranaikc

SLFP

) 政

1977

87

J

R

Jayawardenc

UNP

)政 権 (

1978

年に憲

を改正 し大統 領 制 とす る)。

196

  一

77

にか けて

SLFP

UNP

が 政

権交

代の シー ソ ーーム を

っ て い た こ の 時代は, 民 族 暴 動の ない 平 穏な

時代

であっ た (た だ,

1971年

に シ ンハ ラの

若 者 〔

Janatha

 

Vimukhti

 

Peramuna

−.・

JVP

が反

SLFP

政 府 暴

を引 き起 こ すが, こ の と き は ま だ反タ ミル で はな か っ た

。 で は, こ の

代は なぜ 平

だ っ たの だろ うか。 その

えは, こ の 時代に は, 仏教 復興を唱 える 比

rn

や 在 家の

望が満た されて い た とい う点 に求め られ る 、, た と え ば まず,

1956 年

Bandaranaike

お よ び

MEP

勝 利 後

の 文 化 省 設 置 と 仏教 保 護 策 の 実 施

Buddha

 

Jayanthi

祝 典成 功

 

経の 校 訂と シ ンハ , 仏歯 寺の 復 興等々 や,

1972年

SLFP

UNP

も憲

の 中で仏教に

多数派

の 宗 教 と して の

の 地位を与 える こ とに同意 したこ と な どが , その 例 と して挙 げ られ るであろ う。 また ,独立後の 政治の 中 心 にあっ た言語 ・教 育問 題 に関 し て は, 二つ の 仏教 大 学の 創 設

Vidyodya

Vidyalankara

1959

60

代 に

現され た ミッ シ ョ ン

を中

とする私 立 学

化 (

す な わちシ ンハ

, シン ハ ラ語の 公 用語 化が挙 げら れ る 。

 

9

章 「

1970

年 代と

1980年

  

深 ま

危機

」 で は, こ の ように シ ン ハ ラ 仏教 徒の

が実現 さ れ たに もかか わ らず、

1970年代

に は どうして シ ンハ ラ とタ ミ ル の

抗 争

が再 発 し,

1977

1981

1983 (

こ れ が 最 も激しい 丿の 暴動が 生 じたの か とい う問題 がれ る ,、 そ して , こ の 問題の

背後

に は次の 二つ の 題 が あ っ た こ とが

指摘

さ れ い る。 す な わ ち , まず 第 一は ,行 政 と 教

にお ける公用語 問題

教 育 を受ける

会と

政へ

闇題 ) N工 工一Eleotronlo  Llbrary  

(12)

122 ノt一

f

!、教 文化 学

る。

な わ ち, シ ン ハ の み を公 用 語 とする政 策の もとで は , タ ミル 人 が損 失を被る ことに な り, その ため教 育 と雇用の

機 会

平等

を求め て タ ミ ル 人の 若 者の 反 乱が 生 じ, そ れ が

1970年

ばに

力 化 して い っ たの である。

一一

1

は, 人日密 度の

い 乾燥 地域 (北 中

州 , 北

州, 東部 州 ) へ 人植 計 画 によ る農民の 入

か ら生 じた

題である。 す なわ ち,

1950年代

か ら農業 開

発 計 画

す な わち

Gal

 

Oya

Mahavel

‘画

の 一

として乾 燥 地 域

に大 規 模な 入

が実 施 され た が, こ の 乾 燥 地域は 古代の シ ン ハ 仏 教の 栄 光 ある遺跡 が

Anuradhapura

, 

Polonnaruwa

を中心に

存在

す ると こ ろ で あっ た。 そのた め, シ ンハ ラ農民の入

は シ ン ハ に とっ て は

過去

栄光

復 興

と みなされる傾

があっ た が, 現 実には現

この 地域は タ ミル が

多数派

に ム ス リム が

い 地域で あ る。 した が っ て, 中

州, 南 部 州, 南 西州の 人口

集地 か らの シ ンハ 貧 困農 民の 入植は, タ ミル 人 に とっ て は

ら の

郷 へ の シ ンハ 人の

入 と とらえられ る こ とに なっ た。 その た め , タ ミル 分離

立 主 義 過 激 派か ら イー ラム 国分 離 独立 の 主

が で て くる こ と にっ たの で あ る。

 

この よ うに

言語

問 題 と 入植問 題 を 中心 とす るシ ン ハ ラ とタ ミル の対立 か ら,

70

80

年 代の

暴動

が 生 じ て くる こ とにな るの が, それは次の ような経

を た どっ た。 シ ン ハ ラ

優位

の 状 況に対 して, タ ミル の

者たちは,

70

年 代 初頭には

武力

によ る反 乱 を

み るようになる。 その

景には

の 三つ の 理 由 が あっ た。 す なわ ち, (

1

)高 等 教

にお ける差 別に よる将

な さ 。 (

2

汐 ミ ル

に よ る シ ン ハ

民へ の 反 対。 〔

3

Tamil

 

United

 

Liberation

Front

TULF

)の ーラム 国分 離 独立の 主

へ の共 感で ある 。 それ に対 して 政 府は ,一方では タ ミ ル 人の 政 治家や警 察

を暴

協 力

者 と して追 放 し, 他 方で はシ ンハ 人か ら な軍 隊を北部 ・

部 州に派遣 し鎮圧 を図るとい う 対 応に で た。 そ の 後

1977

年 には,

SLFP

に代 わ っ て 」.

R

. 

Jayawardene

UNP

が成 立 し, この政権が

1979

に テ ロ 防止 法 を成立 させ た。 その

1981

に は地域

の選

が タ ミル人 暴 動に妨 害さ れ , また ジャ フ ナの 国立 図

書館

が焼 き討 ちにあ

。 こ の

動は政 府の 軍 隊に よ り鎮圧 され る

(13)

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      Staqlg・Jeyaraja Talnbial1:Buddhistn Betra:ed 2       

123

が ,…方では シンハ

市 民

に よ る タ市 民 報 復全 国ル で 生 し た。 そ し て, この よ うな 政

的 緊張の 中で

1983 年

の 暴

が勃 発 し, その の ち ス リ ラ ン カ は内戦 状 態に なっ てい くこ とに なる。 す な わ ち ,

1985

年に は タ ミル が は じ め て シ ンハ

攻 撃し た , 仏 教

院を破 壊 した

する よ うにな り

なお シンハ に よ る タ ミ

市民

殺害

ヒ ン

院破 壊 は そ れ以 前 にすで に

こ っ て い た

北部 ・東 部 州で 内戦 状態 に人っ た の で ある。

 

その

1987年 6

月に はイン ド政

が タ ミ ル 入 を 攴援 して, ジャ フ ナの 経

済封 鎖

をや め る よ うにス リラ ン カ に圧 力かけ, イン ド軍

55

000

人程

度)

が 北部 ・東 部 州 閉廷の た めス リ ラ ン カ に入 る。 そ して , 翌

7

月に は, ス リ ラ ン カ ・イ ン ド和 平 協 定締

される こ とになる. こ の

協定

は ,(

1

.)ス リラ ン カを

民族

言 語 国 家 と とらえ, (

2咯

民 族 集 団が別 個の 文

的 ・言 語 的ア イデ ン テ ィテ ィー をつ こ とを認め, 側 北 部 ・

東部

が 歴

ラ ン タ ミ居 住 地であっ たこ と を認め る , とい う内容を含む もの で あっ た。 その た め シ ンハ シ ョ ナ リス ト た ちは , こ の

定に強硬 に反

した。 そ れば か りか ,政府 聞で結ば れ た こ の協

交渉

加で な かっ た タ ミル側 も, こ の

脇定

を不 満と し て 反対 した。 そ して, 大 規模 な 反対 運 動が ,

MEP

JVP

え ら れて

SLFP

わ れ た。 その 反

の 理 由は次の 二 つ で あ る。 (

1

に の協 定 は タ ミル 過

激派

の 「 故 国 」 とい

主 張を認め る こ と に な る。 (

2

以 リ ラ ン カが イン ドに

属す る州の ように なるu す な わち , イン ド軍 隊の

駐 留は シンハ 教 國家

。 第

10

章 「

M

vb {m

Surakim

Vy

paraya

MSV

・母 国ρ)守 護の運 動、 で は,

戦 闘 的仏 教 徒の 組織の代 表と して,

Mavbimba

 

Surakime

 

Vyaparaya

1

二げら れ その 組

イデ オ ロギ ー, 運

につ い て 紹 介さ れ る。 まず,戦 闘 的 仏教 徒の運 動 組

80

る が そ れ らは, シン ハ ラ , 国の 遺産 ,仏 教の 守

者の 権利 を

る た めの 運動 を展開 してい る。 すな わ ち, そ れ ら は ,

 

一 方で は ,

Mahavamsa

, 

Dutthagamani

モ下 の 国の

一一 , シ ン ハ ラ仏教ナ シ ョ ナ リ ズム

Dharmapala

主義を称 揚 し,

他 方

で は, 「

な」 タ ミ ル分

N工 工一Eleotronlo  Llbrary  

(14)

 

124

      バ ーリ学 仏教 文化 学 主 義 者に対 する

譲によ る民 族対立 の

解決

一国家の 分 割 と解釈 し, イン ド ・ラ ン カ

和平協 定

に対 して は イン ド帝国主 義の 所 産 と して 反 対 してい る の で ある。 こ こ で紹

する

MSV

は, その よ う な組 織の 代 表 的な もの で ,

1986

6

月に

設 さ れ た。 こ れ は

く の 仏 教

徒 組織 (

た とえば

Sinhala

 

Bala

 

Mandalaya

, 

Jatika

 

Peramuna

など

を覆 う傘の よ うな組

で あ り, 現在, ス リラ ン カ の 「

一」 と 「主権」 を守るた め キャ ン ペ ー ン を

的に展 開してい る。 こ の

MSV

の メ ン バ ー , 反マ ル クス 主

, 反

UNP

の立

る仏 教 徒たちで , その 中には比丘 も

家 もい るが, 有

な比 丘 と

し て は

 

Sobhita

 

Thero

 

Palipane

 

Chandananda

 

Thero

 

Muruttetuve

Ananda

 

Thero

の 三 入が挙 げられ る。

 

こ の

MSV

に は イ デ オロ ギー的には

の よ

徴が.認め られる。 すな わ ち, タ ミル へ の

譲によ る民

族対

立の

解決

して, そ れは国家の分 割 と主権の

体 化

を生

るもの で あ り, さ らに は 仏

と シ ン ハ 文 化 を衰 退 せ る もの である と反

してい 。 そ して , 次の 四 つ の ス ロ ー ガ ン ある い は

徴 を揚 げて,反対運動を展開 して い る。す なわち,(

1

) 厂

bhumiputra

, 上

の シ ン ハ 外 来の タ ミ ル に優 先 する とする 主張

, (

2

) 「

一一と主

ekiya  

bhavaya

& svairi 

bhavaya

, 

Dutthagamani

王 下の 国

の よ

と主権の 回復 ) (

3

)その 一 と主

徴 する 「獅 子の

な わ ちム ス リ

1

、 と タ ミ ル を表 す 緑 と オ レ ンジの ス トラ イ プの ない 国旗 )の使 用, 

国の

一 と非 分 割 を表 現 する

の と しての

tun

 sinhalaya

ン デ ィ ー王 国を

成 してい た

Rajarata

, 

Mayarata

, 

Ruhunarata

3

を表 す

で ある。 そ

して, こ の よ

なス ロ

徴を挙 げな が ら,

MSV

は主 に, 大 衆デモ

によ り政治へ

を か ける とい う形の 運

開してい るの で ある。

 

11

rr

.と暴 力」 で は , 

Janatha

 

Vimukhti

 

Peramuna

JVP )

に属 し

た 比 丘 た ちの

暴力

の 問題が取 り上 げられ てい る。 まず, 比 丘 たちは ,

1980

年 代 後 半には , タ ミ ル の イー ラ ム 国分 離 独立の

や タ ミル へ

限譲 渡 に よ る紛争解 決 に反 対 して,儀礼,説 教 等を行い タ ミル 運

を正当化 しよ う と した。 そ し て, こ の 頃か ら比 丘 た ちは, 「仏 陀 」 か ら 「大地 の 子」 へ

(15)

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遮 gy Jンaraja Tambtalユl Bttddhism Beit’aved  ?

         

125

 

と転 換 し て い っ た、, こ の転 換 を もっ とも

劇的

に示 してい る の が

1982

の メの パ レ であっ た。 そ こで は [ 地 の 一一

とい ス ロ ーガ ンが 主に

げられ,比 丘がタ ミル 圧の 成功 を願 っ て菩提 樹

供養

を行い , また 仏 歯寺 に もうで無

と勝利を祈る 人 を比丘

CAsgiriya

派 と

Malvatta

長 老) が祝 福 し たの であっ た。

 

こ の よ う な状 況の 中で,

JVP

, 比 匠 を戦 闘 的 支援 集 団と し 組 織 的 ・意識 的に動 員 して い っ た 、 そ して

1980 年代 後

半に は

JVP

の 内部 構 成 員と な る 比 }モも生 まれ て きた。 彼 ら

JVP

EF

.た ちは, 

JVP

が ,

1983年

の 反 タ ミル

に参 加 し た か どで 封

され たの ち ,革 命

II

暴 力

〔すな わ ちテ ロ

用する よ うになっ てい っ た ときに ,

深刻

なジ レ ン マ (つ ま り非暴

を説 く仏 教 とテ ロ の 矛 盾 )る こ と に っ た。 特 に

JVP

の テ ロ は ,主に

UNP

官 (す なわ ち ンハ トと れ た た め に, 反

UNP

集団内部 に分 裂が 生ずる よ うに なっ たの である 。 た と え ば 

SLFP

お よ び

MEP

代 表 者 (た と

Asgiriya

Chandananda

)は

MSV

JVP

か ら離れ て い っ た。 この ような長 老の

反 に対 して,若い 比丘 た ちは 反発 し, 彼 ら をイ ン ド ・ス リラ ン カ和 平 協 定を容 認 する

UNP

, 

SLFP

とつ なが る

と して 批 判 し,

JVP

る テ

る よ

っ て い t,た そ れ に対して政

は ,

JVP

圧 し, 

JVP

比 丘の 逮 捕, と きには殺 害 を

っ た そ れ に

JVP

丘 は仏 教 寺 断 食

い ,

非暴

力で 抵 抗 し,

そ うする ことで

Asgiriya

, 

Malvatta

, 

Sialn

派の長 老 た ちに 圧

をか け よ う

と した。 だ が,

1989

年 末か ら

1990

年 初め に は ,

JVP

全体 に悲 劇的結 末が

れ る こ とに な っ た。 す な わ ち,

Prcmadasa

政 権は, 治安

隊を出

させ ,

JVP

導 力 を崩 壊 さ せ る こ とに成 功 し, 

JVP

は壊 滅 し たの で あ っ た そ して この と き,の 比 丘 が殺 され .還 俗 させ られ , また ジャ ン グル に逃亡 した。

 

な お, 著

は ,政 治に

加する こ と に よっ て

家と変わ ら な く,て きた 現 在の 比 圧 た ちの 状 況をふ まえた 上で, この

の 最 後で , 次の よ う な

1

こつ の 疑 問を眠してい る。

q

:靦

す る長老た t5が亡 くな たの ち , サ ン ガは どの よ N工 工一Eleotronlo  Llbrary  

(16)

 

126

        パ ーリ学 仏教 文 化 学

生さ れ, どん な

化し た形

を と るよ うになるの だろ

か。 (

2

)サ ン ガ の

構造

や比 丘の 使

は どの よ うになる のだろ うか。 (

3

)寺 院の 機 能 と活動,お よ び 比 丘 と在 家の 関係は どの ような もの になる のだろ

か。 そ して , こ の よ うな

問 を提 示 したの ち, 著 者は, 裕福 な階

の 既 成の サ ンガの

長老

た ちと は

な り, 田

の比丘 た ち が, ラデ ィ カル な形で政治に

加 する よ

に なっ てい っ た

情に

する一定の理 解 を

しな が らも,

終 的 に は, 次の よ

論づ けて い る。 す なわち, 仏 教 には非 暴 力の思想が根 本 にある はずだ か ら, 比 丘

あるい は仏 教

が政 治 的 暴 力に関わ るの は, やは り好 ましくない こ と である と。

 

12

章 「仏

ナシ ョ ナ リズ ム と仏教民主 主 義の パ ラ メーター」 では ,現

の 政治 的 比丘 に も

共有

されて い る シ ンハ 仏教 ョ ナ リズ ム の基

的な

え方 を 代 表 す る もの と して,

Madihe

 

Pannasiha

 

Thero

Henpitagedera

Gnanasiha

 

Thero

思 想 が

, 以下の四

っ て紹 介さ れ て い る。 まず

一 は 国

一に 関

る もの で ある。

ら は,

Mahavamsa

に 登 場 す る

Dhatthagamani

王や

Parakrama

 

Bahu

 

I

世に よる

一国

の 時代 を, 仏 教が

され

土の 回復 と統一一が

実現

され てい た黄金

時代

と と らえてい る。 そ し て, こ の ようなコ ス モ ロ ジーが シンハ 仏教 ナシ ョ ナ リズム に深い 影 響 を与 えて お り, シ ン ハ ラ人と仏

によ る統 一 が 正

復 を も す もの で あるとする主

を生み出して きたの で ある。 第二 は, こ の ような過 去の ユ ー トピ ア に, (

1

)理想の 統

治者 (

輪 転

聖 王

, (

2

)平 等 な農 村

社 会

とい

理想, 〔

3

) 比丘の 政

的 関 字の 正当性 とい

, 仏教ナ シ ョ ナ リズ ム の イデオ ロ ギ ー い だ し, そ れを未 来に

けて

現して ゆこ

とする

で ある。 そ し て そ こか ら仏 教 民主主

あるい は仏 教

社会

とい う主張が展 開さ れて くるの で

る。

三 は 政

政 治批 判に関 する もの で , 現

の 政党 政 治が仏 教 民主 主 義の 考え方に基づ い 次の よ うに批 判 さ れる

1

洒 欧型民主 主義に基づ く政 党 政 治は , 政

間の 権 力 闘

伴 う

た め,

りも対立 を た ら

と に な り,

民 族 ・

多宗

の ス カ に しな 。 し たが っ て, ダル マ に基 づ く仏教 民 主 主

に よ る一党 政

の ほ

が望 ましい 。(

2

>現 在 都 市 部で は

に,

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