Society for the Study of Pali and Buddhist Culture
NII-Electronic Library Service Soolety for the Study of Pall and Buddhlst Culture
〈
書 評
〉StanIey
Jeyaraja
Tambiah
:Buddhism
、Betrayed
:2
島
岩
L
は じめ
に1993
年5
月1
目, シ ン ハ ラ とタ ミ ル の 民 族 対 立の な か ,Premadasa
大 統 領が暗 殺さ れ, 両者の 民 族 対立は現在
ますます 混迷 を深めてい る。 この よう な事
態に直 面 した とき, わ れ わ れ が まず 思 うの が,次
の 二 つ の 問い で ある、、 (1
)ど うしてこ んな事態になっ て し まっ たの だろう
。 (2
)なん とか和解
の道は な い の だろ うか。 後者の 現 実 的な問い に答 えるの は とて も困 難だ ,,だ が蔚者の 問い には , その 歴 史 的経緯
につ い て考
える こ とで, なん らかの答
えを出 すこ と は 可能だろ う。 そ して こ の 問い に答 えて くれ るの が , こ れ か ら紹 介 しよ う とするTambiah
の 本(
1992
) なの である,,著 者の
Tambiah
は, ジャ フ ナ 生 ま れの タ ミル 人で ,杜会
人類 学 的立場か らの タイ仏教
の 研究
で は, 第 .一・人者 と言
っ てい い 人で あ る。 だが , タ イ仏教 に 関する 三部作 (
Tambiah
1970
,1976
,1984
) を完 成させ たあ と,最
近で は ス リラ ン カの 民 族 問題 に たい して積 極 的に発言
しは じ め て い る よ うに思わ れ る(
Tambiah
1986)
。 そ し て,昨年
彼が 出 版 した本 書 : が, 民族 対立へ の 歴史
的経 緯を ,現 時点で は最 もコ ン パ ク ト に かつ 分 か りやす く説
明して くれ る も の だ と言えるだ ろ う。 皿、所 説
の紹 介
1
.本書の テ ーマ と構 成 『仏 教は裏
切ら れ た か ? ス リ ラ ン カ にお ける宗教 , 政 治,暴
カ ー一一 』 N工 工一Eleotronlo LlbraryL12
ノぐ一リf/’
f
:イ1lft
文:イ匕’亨: とい う書 名が示 す ように, 本 書は, ス リラ ン カ にお ける宗教
的 ・政 治 的 ・民族
的 対 立の 中で勃発す
る暴
力(
た と えば民族 暴 動や テ ロ など) と仏 教 との 関 わ りをテーマ に し た もの で ある。 すなわ ち, 「仏 教が本 来的に は 非暴 力を説 く宗
教で ある に もか かわ らず, ス リ ラ ン カ に は今日 どうし てこ ん なに多
くの 政治的暴力
が存 在
するの か。 もし仏 教が今
日の 民 族 対 立 と集 団 的暴力
に関わ っ て き たとすれば , そ れ は どの ように して なの か。 また, 両者の 関わ りあ る い は民 族 対立や暴 力に関わっ た仏 教 自体に,時代的 な特
徴や変 化が認め ら れ る の だろ うか」 とい う問い に答
えようとする の が, 本書の ね らい なの である。 その さい彼
は, シ ン ハ ラ仏 教
ナ シ ョ ナ リス トの仏 教 解 釈
と は異 な り,Mahavamsa
な どとい うような古
い とこ ろ に まで 遡っ て, シン ハ ラの 民族 的
アイ デ ン テ ィ テ ィーの 問題や シン ハ ラ とタ ミ ル の民 族 対立の 問題 をとらえよ うと は しない 。 こ の 問題 はあ くまで近代
的 な所 産で ある という
立場
をと り,1880
年 代か ら1980
年代の100
年
間に限 っ て, この 民 族 対立 と仏 教 と暴力
の 問 題 を, 歴 史的に説 明 して い こ うとするの であ
る。 その た め本 書は, 内容
的に は大
き く二つ に分か れて い る。 一つ は1880 年代
か らユ980
年代 の1
0
年
間の 民族 対
立 と仏 教 と暴力
の問題 を扱 っ た箇 所 (2
−12
章
,5
−128
頁 )である 。 そ して, も う 一つ は第
13
章
「エ ピロ ーグーシ ンハ ラ ・ア イデ ンテ ィテ ィ ー :過去 の 遺 産」
(
129
−182
頁)
で , こ こ で は次
の2
点
が論 じられ て い る。 (1
) シン ハ ラ ・ア イ デ ン テ ィ テ ィー は,10
世 紀 頃に は じめて成 立 した と考 えられ るが , そ れ は決して 排 他 的 な性 質
の もの で はな く, その後
もタ ミ ル などの異質
な要素
を取
り込み なが ら,確立 さ れて い っ た もの で あ る。 (2
>したが っ て , 「仏 教 的 なヒ エ ラル ヒー を分 断 する もの を , 悪 魔 的な もの と み な して 排 除 し ようとする宇 宙 論が,Mahavamsa
などの年代 記
か ら現 在の 悪 魔払
い の儀 礼
に まで埋 め込 ま れてお り, それ が現 在の民 族 対 立の 中で の タ ミル へ の暴力
に まで 強 力に作 用 して い る(
すな わ ちタ ミ ル の 分離 独立へ の 動き を 悪魔 的な分 断と して暴 力 的に排除 しよ うとす る)」 とするKapferer
(
1988)
の 主 張は 認め ら れ ない 。こ の ように,
2
−12章
と13
章 とで は扱われて い る テ ーマ と時
代が か な り異Society for the Study of Pali and Buddhist Culture
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Stal1]c
}・Jcyaraja Tanibiah:Buddhism Betra}v(・d〜
113
なっ てお り, また , 私の 関心が現 在の 暴 力 的 な民 族 対 立へ の 歴
史
的絳緯
σ)ほ うにある の で , この 書評
で は 以 一 ド2
−−12
章 に隈っ て各 章
の紹 介
を行っ て い き たい 。2
、各章の内容 紹 介第
2
章 「仏教復
興の時代
:1860
−1915
」 で は ,神
智 協 会 とDharmapala
の 活動が取 り一ヒげら れてい る。 そ して , そ こ に シ ンハ ラ仏 教の 復興 運動 とシ ン ハ ラ ・ナシ ョ ナ リ ズム の 起 源が 求め られ, ま た .こ の時 期に シ ンハ ラ意識 とシン ハ ラ と しての 国民 的ア イデ ン テ ィテ ィーが明確
化 した こ とが指
摘 され て い る。 た とえば .神 智 協会に 関 〔、ては . プロ テ ス タ ン トの ミッ シ ョ ン の 教 育独 占に対して・仏教 学 校を設立 した こ との 持つ 意 義が ,1940年
代 と1950
年代 に 再び 生 じ た 仏 教 学 校 設 立運動
と の 関 連 で 注 目 さ れ て い る、 ま たDhamlapala
に関して は, (1
)仏典 時代の仏 教か ら規 範 を選択的 に圖復 する, 〔2
)非 仏教 的 な儀 礼 と魔術 的操作
を非 難 する, 〔3
)シ ンハ ラの 都 市の 中産 階級
に 適 した在 家の行動
の ため の 法 典の 宣 言を行
っ て, ピュ ー リタ ン的性道徳 と家 族生活で の エ チ ケ ッ トを強調 する. ハ4
納 醒 α 刑 ∫α に歌わ れてい る ような{」、 教 とシ ン ハ ラ 文明の 過去の栄 光を賛
美 し , そ れ によっ て イギ リス支配 に対 し て シン ハ ラ人に ナ シ ョ ナ リス テ ィ ク なアイデ ン テ ィ テ ィ ー と白己 尊厳を吹 き 込む, とい う ような特 質 を備 えた彼
の 活 動が, ユ915
年の 反 ム ス リム暴 動で は , タ ミル とム ス リム 排 斥 という
立場
を と るこ とへ とつ なが っ て い っ た とい うこ とが指摘
されて い る。第
3
章 「政治 と合 憲 的 な進 歩 :1915
−1946 年 (
1
)onoughmore法時代
)一 で は , イギ リス によ る反ム ス リム暴動
鎮 圧以降
,過激派
が な り を ひ そ め , そ れ に代わ っ て, 漸進 主義 的な政 治 的権 利の獲 得を 目指 し た西欧 化 さ れ たエ リトた ちが政 治 的主
導
権 を握っ た時代が取
り ト:げ られ , こ の 時代
に お ける政 治 的 ・宗 教 的動
きが紹介
さ れ て い る。 す な わ ち ま ず,1916年
に はCeylon
Rcf
〔〕rmLeaguc
が結成 さ れ , そ れが1919
年 にはCeylon
National
Congress
(CNC
)に衣 替 えを し, 植 民地 支配の 中で エ リー トが よ り代
表権
を得
よ う と す る運動 を展 開する。 そ して , その 成 果が,Donoughmore
法 制 定で , そこ114 /t一リ学
f
.ム教文イヒ学 では(1)普 通 選挙権
の獲得
(1931 年)
と(2
)国会
の 内 的 自治の拡 大(
すな わち61
入の 議 員の うち50
人 が普
通 選挙
で選 ば れ る)
が実 現 さ れた。 だ が, 同 時に シ ンハ ラ とタ ミル の対立点
も次
の2
点
で 浮 き彫 りに なっ て きた。 すな わ ちそ れ は, (1
)多 数の コ ミュ ニ テ ィー が国会
を支配す
る権利
の問
題(
少数派
の保護
の 問 題)
と, (2
)公 共 機 関 へ の 採 用の基準の問 題(
人 口比 の割に タミル 人の 採用率
が高
す ぎる)
で あっ た。 ま たこ の時
期に は以 ドの2
点で 重 要な展 開が認め られ る。す
なわ ち,U
)世俗 的に は左
翼政党
の結成
であ り,宗教 的
には比丘 の政 治参加
の出 現で ある。 まず 前 者 に関 しては ,CNC
主導の政 治 状 況へ の不 満か ら,
1935
年
に は マ ル キ ス ト政 党Lanka
Sama
Samaja
Party
(
LSSP
)
が結 成 され,
1943
年
には こ こ か ら共 産 党(
CP
)
が分 裂 した。一
方,
後
者に関 して は ,
各
地 域 の 仏 教 社 会 を 覆 う 傘の よ う な 組 織 で あ るAll
Ceylon
Buddhist
Congress
(
ACBC
)
とSinhala
Maha
Sabha
(
SMS
,1935
年
にS
.W
.R
.D
.Bandaranaike
に よ り創
設)
が結
成さ れ , その 中で も特にSMS
は, 階級 問の 利 害の対立 を説 く左 翼政党
に対 して , シ ンハ ラ と タ ミル 間の 民 族 的, 宗教 的, 言 語 的 な利害
の対
立を強調
し た。 だ が,SMS
も1930
年代 後半
には,Bandaranaike
の 指導
の もとで穏
健化
して ゆく
。 その た め, そ れ にあ きた ら ない 比 匡た ち(
た とえばSirisena
,Cumaratunga
な ど)
はSMS
か ら脱退 し, こうし て政治的
に ラ デ ィカ ル な比 丘 が 出 現 して くるこ とになっ た,, そして彼 ら は ,極
左の 主張
と シンハ ラ仏 教の 主張を結
び付
け, 両者
の融合
を図ろう
と したの で あっ た。第
4
章 「ラデ ィ カ ル な 比 丘 と比丘 の 政治参
加の 正 当性」 で は, 二 人の ラデ ィカ ル な比 丘 と彼 ら を含
む 政 治 的比 丘の 組織 につ い て論 じ ら れてい る。年
代 的には まず, ラ デ ィ カル な比丘 の 先 駆 者 と して ,1935
年 のLSSP
結 成 を支援
し た比 丘た ち(
なかで もUdakandawela
Siri
Saranankara
が最 も有
名)
の存在が あ っ た。 だ が, その 存 在は ま だ サ ン ガ の 中の ほ ん の 一部にす ぎ な か っ た。 の ちに影響を与える よ
う
なラデ ィ カル な比丘 たちが数 多 く登 場 して くる の は,1940
年代 半ばになっ てか らの こ と で ある。 彼 らは, (1)比 匠の 政 治参 加 の権 利 と責任 を明確 に宣言 し, 政治
活動
に従事
する圧 力 団体 と して 意味がSociety for the Study of Pali and Buddhist Culture
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_S1nnlc}:一』cyR 【
aja
Tambiah:βL44 れな刀z Be”・‘域8‘ノ〜. 115ある だ けの
数
で集
団を結 成 した。 こ うして, この時期
に政治
的比 丘の存在
が確
立 さ れ た の で あ る。 そ して , 彼 らの 中で指 導
的地位 に あっ た の が ,Walpola
Rahula
とK
.Pannasara
であっ た。 前 者 は,Bhiksuvage
Urumaya
(
The
/feritage
of theBhikku
,1946
)を出版 し,
過 去
には比 丘が政 治に参
加してい た こ とを
論
証 し よう
と し た。・方
,
Vidyalankara
Pirivena
の 校 長であっ た
後
者は , ”Bhikkhus
andPolitics
”(
/946
)に お い て , 政 治は公 共福 祉 の すべ て の 側 画 を含む か ら,それ に関わ るの は比1Tz
の 天 職 で ある と主張 して, 既 成の サ ン ガ とUNP
の 政治
家か らの 批判 (すな わち比丘 は 出家なの で 政 治 に関わるべ きで は ない とい う批 判 )に対
す る反論 を展開
した 。 か くして ラ デ ィ か レな比丘 た ち は ,194碑 6
月に はL
・・k
・Ek
・athBhikkh
・M
・nd ・1
・y
・ (LEBM
, theCcylon
Union
ofBhikkus
)を結 成す る にい た り, 比 丘 の 政治
参
加 を唱 えて, 当時のUNP
資 本 主義
政府の打 倒 を公然
と論 じ,1946
,47年
の ゼネス トにも積 極 的に参 加 して い っ た,, また,1947年
の 最 初の普
通 選挙で は,彼
ら は ,左
翼 政 党 を 支持
して . 選 挙 応 援 を行
っ たが ,UNP
に敗北 を きっ した。 そ し て その後
厂 仏 教をマ ル クス 主義
か ら救
えご という
主張
に抵 抗で きずに消 滅 してい っ たの で あっ た。 だ が, 彼らの運動 は, その の ち 政治 的比 }モがマ ル クス 主義を捨
て て 仏 教ナ シ ョ ナ リス ト的立場 をと る よ うに な り , 雀956 年
の 普通 選挙
で は 政治 的 な勝利
を お さめ るよ うになっ て い く,先駆 的 な 動 き と して, 大 きな意義
を持つ もの で あっ た。第
5
章 「 仏 教の 裹切 りと回復…非
難と対 処一一 .一 と第
6
章 「仏 教の裏
切 り :調 査 委 員 会の 報告
」 で は, イ ギ リス 植 民 地 ドで , 政治との 関わ りを持
つ シン ハ ラ仏教
の指導
者 が かかげたス ロ ーガ ン 「仏教 の正 当な位 置へ の 回復., 「 仏教 の 裏 切 り1 が何 を 意味 して い たか につ い て考
察 さ れ る、、 その さい , そ の 代 表 的な 見解を示 す もの と して,次の 置つ の著
作が表 明 して い る見 解が取り .
L
げ ら れ て い る。 (1)Wa
]pola
Rahula
,Bhil
〈suwage {ノrumaya (The
Uei
’itage
o lthe
Bhikku
,1946
), (2
:]Buddhist
Commitee
ofInquiry
,
The
B
・t・ay・1
・f
・B
・ddhi
・m (1956
)
・ (3
)D
・C
,Vij
・y
・w ・・dh
・n・,Dh
・・ma −Viiaya
,
or
The
Revolt
in
theTemple
(1953 )
。 こ れ らの 著 作 は, 以 下の
3
点に焦
点 を116
パ ーリ学 仏教 文 化 学 あて て い る とい う点
で , イ デオ ロ ギ ー的
な言
明 として重 要 な もの で ある。 (1
> 比 丘 が古
い 時代か ら政治 的活動を行っ て きた とい う点 を積 極 的に評 価 して, 比 丘 の政治参
加 を正当化
してい る。 (2)仏教, サ ン ガ,在家
仏 教 徒に害
を与え る もの と して イギ リス 植 民地 支配 を批 判 し て い る。 (3
)仏教 とサ ン ガの 正当
な 地位へ の 回復
の た め の プロ グラム を提 示 し てい る。これ ら三つ の 著 作の うち
最
も重 要 なの が,Bhiksuwage
Urumaya
で ある。著 者 で あ る 比 匠
Walpola
Rahula
は,IPVhat
the
Buddha
Taught
(
1959
)
,History
()f
Buddhism
in
Ceyton
(1956
)
な ど を著 したす ぐれ た 仏 教学
者である と同時に, 仏教 社 会の 利 益を
代 表
する プロ パ ガ ン テ ィス トで あり活動
家で もあっ た 人で あ る。 彼は まず,パ ー リ聖典
お よび注 釈を根拠
に, 仏 陀や比 丘 たちが過去
におい て は社 会の 福 利お よ び政 治に関わ り, 比 丘 た ち が シン ハ ラ文化
の発 展 に貢献
し たこ とを論 証 して,他者
へ の 社 会 的奉 仕に従事
すべ き比 丘 が政治参
加 するこ との 正当性へ の 理 論 的基 盤 を提
供 した。 そ して ,仏 教が シ ンハ ラ人の 国教
に なれ ばt ナ ショ ナ リ ズム と国民文 化 を宗 教 (仏教)
か ら 切 り離
すこ と はで き ない の だ と説い た。 その た め彼
は, 「宗 教 的 ナシ ョ ナリ ズ ム」, 「宗教
的愛
国主義
」 とい う表現 を好ん で用い て い る。 また彼
は, こ の よう
な比丘 の政治
的 ・社 会 的役割
が骨抜
きになっ たの は , イ ギ リス 植 民 地 支 配下 にお ける比丘 と在 家の分 断政策
, 具体 的に は キ リス ト教
の保護
と仏 教の 弱体化
戦略
の せ い であると も 主張
して い る。 すな わ ち , イ ギ リス植 民 地 政府
は, 一方
では比 丘 を政府
の 高い 地位
につ けて懐 柔 し て寺 院勢 力 を弱
め, 他 方 で は キ リ ス ト教
の伝 道 師に教 育, 社会 福 祉活
動 を取 っ て か わ ら せ る こ とによ っ て , 在 家の 人 々 に比丘へ の 軽蔑 を根
付かせ た。 その た .to
IR
在では, キ リス ト教へ の改宗者
ばか りか上流 階 級の富裕
なシ ンハ ラ人(
彼 ら は西欧キ リス ト 教 的環 境の 中で育っ た)
も, 比 丘 を軽 蔑し,比丘 の 政 治参
加の意義
に つ い て 理 解で きない の である。 こ の よう
に彼は 主張したの である。次の
The
Betrayat
ofBuddhism
は,1953 年12
月に開催され たACBC
の 年次 大 会の決
定
を受
け て 設 置 され たBuddhist
Commitee
ofInquiry
が作
成 しSociety for the Study of Pali and Buddhist Culture
NII-Electronic Library Service Soolety for the Study of Pall and Buddhlst Culture
Sta壟 y Jeya・a}a T・亜 iah:一!/!g,{gbtdhis.f{I Bett…巡 壁一. 117
の あ る
者
が多
く,その ため この 報 告書
は 説 に, 政治 的
比丘 と は異 なる穏健
なリベ ラ リズム の 立場か ら書か れ てい る、, こ の
報告
書は まず,次の よ うな シンハ ラ仏教の 歴史につ い ての 悲劇 的 見解で 始 まっ て い る。 すな わ ち, ス リラ ン
カ は ,過 去に は,
Devanampriya
Tissa
(
Asoka
E
か ら仏 教 を受
け取っ た モ ) ,Dutthagamani
(
タ ミル 王E
】ara を破
り.E
国統
一一してAnuradhapura
時 代のD
,Parakrama
Bahu
・. 肚 (島を統一一した
Polennaruwa
l1
寺代
の 英 雄 )とい うよ うな シ ンハ ラ の黄金 時代 を持
っ て い た が , その後
は ポル ト ガ ル, オラ ン ダ, イ ギ リス の侵略
を受
けて, 絶え聞ない 没 落の 道を進ん で きたの で , 独立 を契 機に復興の必要が ある とする見解
である、, そ して 中で も, シ ンハ ラ仏教
の 没 落の 原 因を }モに イ ギ リス植
民地 ドにお ける教育
問題に求め, 当時
のキ リ ス ト教
ミッ シ ョ ン と サ ン ガ を次の二 点で 比 較 して い る。U
)ミ ッ シ ョ ンは効 果 的な続…組 織 を持 ち, かつ その 活 動は 政府の 保護
を受
けた が, サ ンガ は分 裂 し活動に制 限 を加え ら れ た。 (,2
)プ V テ ス タ ン トの ミッ シ ョ ン お よ び最 近の カ ソ リッ ク は , 植民 地 支配 に適
した教 育に成功 した が ,サ ン ガ は イギ リス の支 援を得 ら れず, その た め シ ンハ ラ人仏教徒
の人口の 割 に仏 教学校
は極め て少 数であ る。 そ して , こ の ような認識 に立っ て, 報 告 書は,結
論 的に は ,国 語, 歴史
,文 化の 自覚を持 ち, 国の 遺 産を 豊 かに で きる よ うな世代の育成の 必要 を説 き, 具 体 的 に は次 の よう
な1
つ の 仏 教 復興 案
を提
示 して い る ,,Cl
li
Buddha
Sasana
Act
(仏 教 振 興法
) の 提 案。 す な わ ち ,Buddha
Sasana
Council
(仏教 省 )を設 立 して宗 教 大 臣を任命
し, その 省を1†1心 に サ ン ガが ミッ シ ョ ンに対 抗す る よ うな形で 中央 集権 的な組織
を形 成 し, 仏 教 による国 の 統 一を図る。 そして , 植民
地時代
の 寺 院財産没収の補 償 と して , 政府
はサ ン ガ に年金 を支給 し, サ ン ガ は その 年金で教育
活 動を宥う。 (2
)キ リス ト教 ミ ッ シ ョ ン系私 疏学校
へ の補
助 金を取 りやめ ,ミ ッ シ ョ ン系
が多
い 私立学 校(
仏 教系
グ)学校も含む)
を 政府
が接 収 して , 政府 に よ る中央 集 権 的な教育 を実施
する(
その 結 果, シ ンハ ラ伝 統文化や 仏教 的価値
に対 して好 意 的な現 政 府 の もとで は, シ ン ハ ラ 的 ・仏教 的
教 育 が 実施
さ れ る こ と に な る) 。(
な おTambiah
は, こ の よ うな報告 書
の 背 後に ある シ ンハ ラの 没 落 とい う悲 劇 的 N工 工一Eleotronlo Llbrary118 パーリ学 仏 教 文化 学 歴
史観
には, 外敵
に対 する敵意
,す
な わち最
初 はタ ミル の侵入者
, そ れ か ら 西 欧の侵入者に じゅ う りん され た とい う見解
を生み, 実 際に は シ ンハ ラの ほ うが タ ミル にたい して多
数 派なの に, マ イノ リテ ィ ー ・コ ン プレ ッ クス を抱 くという危
険がある ことを指摘
してい る)
。最
後
にDharma
−Vijaya
, orThe
Revolt
in
the
1
セ即1
ε は, 仏 教, ス リ ラ ンカ文 明, シ ンハ ラ
国
の2500
年 を祝 っ て書か れ た もの で ある。 その 著 者のD
.CVijayawardhana
は,Buddhist
Commitee
oflnquiry
の メ ン バー だ っ た た め, この 著 書に は
委
員会の 主張がある程 度 反 映 され て い る。 すな わ ち, (1
)ナ シ ョ ナ リス ト的立場(
す なわ ち仏 教とシン ハ ラ の国ス リ ラ ン カ とい う主張)
と(2
>イ ギ リス的
な教 育
に基づ く教 養で 味 付 け されて い る点 (
た とえばマ ル キ シズ ム と左 翼を国と精神
的福
利の 復興 の 敵 とみ なす態 度 )で ある。 そ して, こ の 本の テーマ は 以 卜』の 二 つ で あ る。 (1
)国
教と し ての 仏 教 とい うテ ーマ 。 す なわ ち, 王権 に支え られ た国教
と して の仏 教の 至高性 とい うテ ーマ が ,植
民 地下 で衰 退 した仏 教 を復
興 すべ きとする仏 教ナ シ ョ ナ リス トの 「歴史
的」 主張
を正 当化 する前提
となっ て い る。 サ ン ガ と出家僧
の 政 治参
加の正当性の 主張。 すな わち,Dharma
−Vij
aya は 「仏法
の勝利
」 を意 味 し,The
revoltin
thetemple
は サ ン ガ と比丘が 国の 平和, 繁 栄,福 利
の ため に常に政 治 に参加
し て い た とするテーマ を意 味 してい る。 比 丘 も宗教
的 ・社 会 的役
割を果た すべ き だ とするこ の よう な主張
は, すで にWalpola
Rahula
な どの 活 動 的 比 丘 たちが行っ て き た もの で あるが, そ れ を裕 福 な教 育 ある仏教在
家が受
け継
い だ と こ ろ に, こ の本の意義
が認め られ るの である。第
7
章 「1956
年
の社会革
命 とその余
波」 で は ,1956
年 (
仏 滅2500
年祭
0)年)
の 選 挙に お ける シ ンハ ラ仏 教 ナ シ ョ ナ リズム の勝 利 と, その の ち勃
発 した1956
,1958
年の 暴 動に つ い て論
じら れ て い る。1956
年の選挙の最 大の争 点は, シ ン ハ ラ語を唯一の 公用 語 とする か どう
か とい う問題で あ っ た。 この 問題に関 して , シ ンハ ラ仏 教 ナシ ョ ナ リズム 側 は, (1
)シ ンハ ラ語の みの 公用 語 化, (2
)シ ン ハ ラ に よ る国民
的アイ デン テ ィ テ ィ ー と国民文化
の 育 成, (3
)仏 教の 植 民 地時代
以前
の 状態
へ の復
興 を主張
して, シSociety for the Study of Pali and Buddhist Culture
NII-Electronic Library Service Soolety for the Study of Pall and Buddhlst Culture
.Stanlcy
L
■ya
ra,ia
Tambiah ;β〜ぜ44’爵燗 Berraアed ?119
ン ハ ラ 語の み の
公
用 語化 をた め らうUNP
政府を批 判 し,
SLEP
の指
導 者S
.W
.R
,D
.Bandaranaike
ひ きい るMEP
を積 極 的に支
援 した。 なか で も,Eksath
Bhikkhu
Peramuna
(EBP
:United
Front
oftlle
Monks
) を結 成 した比 丘た ちの
活
躍は め ざま しい もの が あっ た、, 彼 らは ,反 西 欧 , 反カ ソ リッ ク, 反UNP
の立場 を と り, 選 挙の さい に仏教 徒が考
慮 すべ き点
と して ,Z
TheBetrayal
ofBuddhism
の 提 案の 実行
, シンハ ラ語の み の 公用 語化
,民 主社会
主義
の実
現 などを掲
げ な が ら, 国会 前で の 断 食, 個 別訪
問, パ ン フ レ ッ ト配布
な どの 熱 心な活
動を行っ た。 一・ 方.UNP
は ,サ ン ガの 長 老を 陣営に引 き 込 ん で対 抗 しよう と した が, こ れ らの 比丘 た ちの活 動を抑
える こ とはで きな か っ た。 そ の 結 果, 選 挙はSLFP
のBandaranaike
が勝利
し,独 立 以降
続い たUNP
政権 に終
止符が うたれ たの であっ た (こ の 選挙
が 比 丘 が 政治に参 加 して勝 利 を収
めた最 高の そ して 唯一の 瞬 間で あっ た)。選 挙 後,
Bandaranaike
政権は, シ ンハ ラ語
の み を公 用語
とする法 案の 立 法 化 を 図っ た。 だが その さい , タ ミル 語 あるい は英 語に よ る公務 員試 験の受
験や地方
の委
員会
に お ける公務 用言語のL
]己決定
権を認める等
の形で, タ ミ ル 人に対
する譲 歩 を行
っ た 。 だ が, その譲 歩に対 してEBP
の 比丘 た ち は強 硬に反対 し た . その ため まず1956年
に は,
東 部
州のGal
Oya
Valley
(入植に よる農 業 開発
計
画が進
め られ た 地 域 , な お 入植 聞題と民族対立 との 関わ り につ い て はの ちに触
れ る)で暴動
が 生 じ た。 しか し, こ の 暴 動が シ ン ハ ラ語 の み を公 用 語 とする法 案の 成立を遅 らせ る こ とは な か っ た。 そ の ため再
び1958
年に, よ り大 規模 な暴動が発 生 する こ とになるの である 。 その 経緯
は次
の 通 りで ある。 政府の シ ンハ ラ語の み 政策 (た と え ば 主要な教 員 養 成 大学を シンハ ラ教 員養
成の み にする とか ,6
対i
の割
りで シ ンハ ラに奨学 金を与
え る など)に対 して まず , タ ミル側 (Federal
Party
)は 「自治的
なタ ミル 言 語 州」 の 確立 を宣言 して, 非 暴 力的 運 動(
satyagraha )を展 開し た 。 その 後,Bandaranaike
とタ ミル指導 者 (
Chelvanayagam
)の 話 し合い の結 果, 〔1 )特 に北 部州と東部
州の 地 方政府
機 関で の タ ミル 語の 理 にか なっ た使 用 , (2
’ )中央
集
権 化の しす ぎ是正の ための 地方委 員会
の 設 立 という
2
点で合
意を み た が , N工 工一Eleotronlo Llbrary120
パ ーリ学仏 教 文化学EBM
の 比丘やUNP
が反 対 した ため に, こ の合
意は実 現に はい た らなか っ た (なお当
時UNP
はJ
.R
.Jayawardene
指 導下の も とで 「シ ンハ ラ語のみ」 政 策へ と方向 転 換 してい た。 その後
, 政権
の 推 移に も か か わ らず, 政権
政党
は タ ミル との 妥協
を図 り, 主要な野 党はその 試み の挫
折 を図 っ て シ ン ハ ラ入 のparochialism
を煽る とい うパ ター ンが繰 り返 さ れ るこ とになる)。 こ の よ うなシ ンハ ラ とタミ ル 問の深 ま る政治的危機
を背景
として,1957年
末以来の労働
者ス トラ イ キの 中で の法
的秩 序の 弱ま りとい う雰 囲気
の中
で ,1958
年5
月に暴 動が発生 したの である。 そ し て, こ の 暴動は , まず北中央 州の シン ハ ラ 入多 数 派地 域 と東
部 州の タミ ル 人多
数派
地域で発 生し,次
に コ ロ ン ボな ど の シ ンハ ラ人多数派
地域 で の タ ミ ル人 攻 撃へ , さ らに は ジ ャ フナ をは じめ と する北部 ・東 部州
の タ ミ ル人多数
派地 域にお け るシ ンハ ラ 人攻 撃へ とい う形 で , ス リ ラ ン カ全 土に広 まっ て い っ た の で あっ た。第
8
章
「1960
−70年代
にお ける 仏教の 復 興 と教育
の 変化」 で は, まず, 仏 教 原理主義
と仏教復 興
運 動 が,仏教
ナシ ョ ナ リ ズム へ と変 質 し て ゆ き, 政治
的仏 教 となっ て い っ たこ れ まで の 過程が次
の ように整
理され てい る。 す なわ ち,19
世紀 末
か ら20
世紀 初
頭 の シ ン ハ ラ の 復 古 主義
的 仏 教(
た と え ばDharmapala
の 仏 教)
は,仏典
時代の 仏 教か ら規範
を選択 的に回復 し, 迷 信 を排 除 する とい う仏 教純化
の 方 向を含ん でい た。 だが そ れ は, 新 聞等の メ デ ィ ァの 活用,新
しい 教育
制度
や組織
形 態の活
用 , 地方 語で の 説教や パ ン フ レ ッ ト等に よ る布
教な どの技 法
を用
い なが ら, 大 衆化
の 過 程 を歩む 中で , 仏 教 の イデ オ ロ ギー化を も た ら してい っ た (つ ま り道徳
的 実践 とし て の仏教
か ら シ ンハ ラの文化
的 ・政治 的財産
と して 0)仏 教へ と変 質 して い っ た)
。 その後
そ れは, /950
年代に は, シ ン ハ ラ仏教
ナシ ョ ナ リズムの 立場か ら政治
に参
加 する政治
的仏 教へ と変 化 してゆ き, 政治
的暴 力 と も結
びつ い て い っ た。 そ し て, こ の 政治 的仏教 (
ある い は シ ンハ ラ仏教 ナ シ ョ ナ リズム ) に は,次の よ うな二 つ のイデオロ ギー的特徴
が認
め られ る。す
な わち, (1
)仏典
や神
話 的な年代記
が,神
聖 なもの とし て価値
を持 っ て(
物神化)
, シン ハ ラの 民 族 的 尊 厳や ア イ デ ン テ ィ テ ィーの印
と して作
用 し, その伝統
保 持の た め の政治
的活Society for the Study of Pali and Buddhist Culture
NII-Electronic Library Service Soolety for the Study of Pall and Buddhlst Culture
Sτ蔓lcy jcyaraja Tambiah:Buddhism Betray’ed .7 /
21
動が 正 当化 さ れ, ま た, 〔
2
:私 典 な どに見
られる過 去の 時代に, 輪転
聖 王統 治 下の 理想の時
代, 仏 教 的民 宅 進義 杜 会 「の 平穏 な仏 教 的生活, 平等 な 田舎の 社 会を見い だ し て,そ こ か ら現 代の 政治
が 批判 さ れ, 仏 教ナシ ョ ナ リズム , 仏 教民主 主義, 仏教 社会
主義
が説
か れ るの で ある,,そ の の ち
1960
−70 年代
の 政治 の 動 きが 簡単
に述 べ ら れる。1960
−65 年
Srimavo
Bhandaranaike
〔SLFP
)
政権。1965
−70 年
D
,Senanayake
(
UNP
)
政 権。1970
−77
年
Srimao
Bandaranaikc
(
SLFP
) 政権
。1977
−87
年
J
.R
.Jayawardenc
(UNP
)政 権 (1978
年に憲法
を改正 し大統 領 制 とす る)。196
一77
年 にか けてSLFP
とUNP
が 政権交
代の シー ソ ーゲーム を行
っ て い た こ の 時代は, 民 族 暴 動の ない 平 穏な時代
であっ た (た だ,1971年
に シ ンハ ラの若 者 〔
Janatha
Vimukhti
Peramuna
−.・JVP
)が反SLFP
政 府 暴動
を引 き起 こ すが, こ の と き は ま だ反タ ミル で はな か っ た)
。 で は, こ の時
代は なぜ 平穏
だ っ たの だろ うか。 その容
えは, こ の 時代に は, 仏教 復興を唱 える 比rn
や 在 家の希
望が満た されて い た とい う点 に求め られ る 、, た と え ば まず,1956 年
のBandaranaike
お よ びMEP
勝 利 後
の 文 化 省 設 置 と 仏教 保 護 策 の 実 施,Buddha
Jayanthi
の 祝 典の 成 功,{
蔵
経の 校 訂と シ ンハ ラ語へ の 翻訳 , 仏歯 寺の 復 興等々 や,1972年
にSLFP
もUNP
も憲法
の 中で仏教に多数派
の 宗 教 と して の最高
の 地位を与 える こ とに同意 したこ と な どが , その 例 と して挙 げ られ るであろ う。 また ,独立後の 政治の 中 心 にあっ た言語 ・教 育問 題 に関 し て は, 二つ の 仏教 大 学の 創 設(
Vidyodya
とVidyalankara
,1959
),60
年
代 に実
現され た ミッ シ ョ ン系
を中心
とする私 立 学校
の 国立化 (
す な わちシ ンハ ラ 化)
, シン ハ ラ語の 公 用語 化が挙 げら れ る 。第
9
章 「1970
年 代と1980年
代一深 まる
危機
」 で は, こ の ように シ ン ハ ラ 仏教 徒の希
望が実現 さ れ たに もかか わ らず、1970年代
に は どうして シ ンハ ラ とタ ミ ル の抗 争
が再 発 し,1977
,1981
,1983 (
こ れ が 最 も激しい もの 丿年の 暴動が 生 じたの か とい う問題 が扱われ る ,、 そ して , こ の 問題の背後
に は次の 二つ の 問題 が あ っ た こ とが指摘
さ れて い る。 す な わ ち , まず 第 一は ,行 政 と 教育
にお ける公用語 問題(
高等
教 育 を受ける機
会と行
政へ の雇
用の 闇題 )で N工 工一Eleotronlo Llbrary122 ノt一り学
f
!、教 文化 学あ
る。す
な わ ち, シ ン ハ ラ語の み を公 用 語 とする政 策の もとで は , タ ミル 人 が損 失を被る ことに な り, その ため教 育 と雇用の機 会
の平等
を求め て タ ミ ル 人の 若 者の 反 乱が 生 じ, そ れ が1970年
代半
ばに暴
力 化 して い っ たの である。第
一一1
は, 人日密 度の低
い 乾燥 地域 (北 中央
州 , 北部
州, 東部 州 ) へ の 人植 計 画 によ る農民の 入植
か ら生 じた問
題である。 す なわ ち,1950年代
か ら農業 開発 計 画
(
す な わちGal
Oya
計
画やMahavel
爵}
‘画)
の 一貫
として乾 燥 地 域に大 規 模な 入
植
が実 施 され た が, こ の 乾 燥 地域は 古代の シ ン ハ ラ仏 教の 栄 光 ある遺跡 がAnuradhapura
,Polonnaruwa
を中心に存在
す ると こ ろ で あっ た。 そのた め, シ ンハ ラ農民の入植
は シ ン ハ ラ 入に とっ て は過去
の栄光
の復 興
と みなされる傾向
があっ た が, 現 実には現在
この 地域は タ ミル が多数派
で次
に ム ス リム が多
い 地域で あ る。 した が っ て, 中央
州, 南 部 州, 南 西州の 人口密
集地 か らの シ ンハ ラ貧 困農 民の 入植は, タ ミル 人 に とっ て は彼
ら の故
郷 へ の シ ンハ ラ人の侵
入 と とらえられ る こ とに なっ た。 その た め , タ ミル 分離独
立 主 義 過 激 派か ら イー ラム 国分 離 独立 の 主張
が で て くる こ と になっ たの で あ る。この よ うに
言語
問 題 と 入植問 題 を 中心 とす るシ ン ハ ラ とタ ミル の対立 か ら,70
,80
年 代の暴動
が 生 じ て くる こ とにな るの だが, それは次の ような経緯
を た どっ た。 シ ン ハ ラ優位
の 状 況に対 して, タ ミル の若
者たちは,70
年 代 初頭には武力
によ る反 乱 を試
み るようになる。 その背
景には次
の 三つ の 理 由 が あっ た。 す なわ ち, (1
)高 等 教育
にお ける差 別に よる将来
へ の希
望の な さ 。 (2
汐 ミ ル 政治
家に よ る シ ン ハ ラ植
民へ の 反 対。 〔3
)Tamil
United
Liberation
Front
(
TULF
)の イーラム 国分 離 独立の 主張
へ の共 感で ある 。 それ に対 して 政 府は ,一方では タ ミ ル 人の 政 治家や警 察官
を暴動
の協 力
者 と して追 放 し, 他 方で はシ ンハ ラ人か ら なる軍 隊を北部 ・東
部 州に派遣 し鎮圧 を図るとい う 対 応に で た。 そ の 後1977
年 には,SLFP
政権
に代 わ っ て 」.R
.Jayawardene
のUNP
政権
が成 立 し, この政権が1979
年
に テ ロ 防止 法 を成立 させ た。 その後
1981
年
に は地域開
発委
員会
の選挙
が タ ミル人 暴 動に妨 害さ れ , また ジャ フ ナの 国立 図書館
が焼 き討 ちにあう
。 こ の暴
動は政 府の 軍 隊に よ り鎮圧 され るSociety for the Study of Pali and Buddhist Culture
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Staqlg・Jeyaraja Talnbial1:Buddhistn Betra}:ed 2
123
が ,…方では シンハ ラ
市 民
に よ る タミル 市 民へ の 報 復が全 国レベ ル で 発生 し た。 そ し て, この よ うな 政治
的 緊張の 中で1983 年
の 暴動
が勃 発 し, その の ち ス リ ラ ン カ は内戦 状 態に なっ てい くこ とに なる。 す な わ ち ,1985
年に は, タ ミル 軍が は じ め て シ ンハ ラ市
民を攻 撃し た り , 仏 教寺
院を破 壊 したり
する よ うにな り(
なお シンハ ラ軍に よ る タ ミル市民
の殺害
お よびヒ ン ドゥー寺
院破 壊 は そ れ以 前 にすで に起
こ っ て い た)
, 北部 ・東 部 州で 内戦 状態 に人っ た の で ある。その
後
,1987年 6
月に はイン ド政府
が タ ミ ル 入 を 攴援 して, ジャ フ ナの 経済封 鎖
をや め る よ うにス リラ ン カ に圧 力かけ, イン ド軍(
55
,000
人程度)
が 北部 ・東 部 州 閉廷の た めス リ ラ ン カ に入 る。 そ して , 翌7
月に は, ス リ ラ ン カ ・イ ン ド和 平 協 定締結
される こ とになる. こ の協定
は ,(1
.)ス リラ ン カを多
民族
・多
言 語 国 家 と とらえ, (2咯
民 族 集 団が別 個の 文化
的 ・言 語 的ア イデ ン テ ィテ ィー を持つ こ とを認め, 側 北 部 ・東部
州が 歴史
的にス リラ ン カ ・タ ミ ル 人の 居 住 地であっ たこ と を認め る , とい う内容を含む もの で あっ た。 その た め シ ンハ ラ ・ナ シ ョ ナ リス ト た ちは , こ の協
定に強硬 に反対
した。 そ れば か りか ,政府 聞で結ば れ た こ の協定
の交渉
の場
に参
加で きな かっ た タ ミル側 も, こ の脇定
を不 満と し て 反対 した。 そ して, 大 規模 な 反対 運 動が ,MEP
,JVP
に支
え ら れてSLFP
主導
で行
わ れ た。 その 反対
の 理 由は次の 二 つ で あ る。 (1
に の協 定 は タ ミル 過激派
の 「別の 故 国 」 という
主 張を認め る こ と に な る。 (2
以 リ ラ ン カが イン ドに従
属す る州の ように なるu す な わち , イン ド軍 隊の 現実
の 駐 留は シンハ ラ仏教 國家の 統一 と主権
を脅
かす 。 第10
章 「M
・vb {m ・Surakim
・Vy
・paraya
(
MSV
)
・母 国ρ)守 護の運 動、 で は,戦 闘 的仏 教 徒の 組織の代 表と して,
Mavbimba
Surakime
Vyaparaya
が取
り1
二げら れ, その 組織
イデ オ ロギ ー, 運動
につ い て 紹 介さ れ る。 まず,戦 闘 的 仏教 徒の運 動 組織
は80
ある が, そ れ らは, シン ハ ラ , 国の 遺産 ,仏 教の 守護
者の 権利 を守
る た めの 運動 を展開 してい る。 すな わ ち, そ れ ら は ,一 方で は ,
Mahavamsa
,Dutthagamani
モ下 の 国の統
一一 , シ ン ハ ラ仏教ナ シ ョ ナ リ ズム ,Dharmapala
の復
興主義を称 揚 し,他 方
で は, 「残虐
な」 タ ミ ル分離
N工 工一Eleotronlo Llbrary
124
バ ーリ学 仏教 文化 学 主 義 者に対 する旛
限委
譲によ る民 族対立 の解決
を統
一国家の 分 割 と解釈 し, イン ド ・ス リラ ン カ和平協 定
締結
に対 して は イン ド帝国主 義の 所 産 と して 反 対 してい る の で ある。 こ こ で紹介
するMSV
は, その よ う な組 織の 代 表 的な もの で ,1986
年
6
月に創
設 さ れ た。 こ れ は多
く の 仏 教徒 組織 (
た とえばSinhala
Bala
Mandalaya
,Jatika
Peramuna
など)
を覆 う傘の よ うな組織
で あ り, 現在, ス リラ ン カ の 「統
一」 と 「主権」 を守るた め キャ ン ペ ー ン を精
力
的に展 開してい る。 こ のMSV
の メ ン バ ーは , 反マ ル クス 主義
, 反UNP
の立場
を取
る仏 教 徒たちで , その 中には比丘 も在
家 もい るが, 有名
な比 丘 とし て は
Sobhita
Thero
,Palipane
Chandananda
Thero
,Muruttetuve
Ananda
Thero
の 三 入が挙 げられ る。こ の
MSV
に は イ デ オロ ギー的には次
の よう
な特
徴が.認め られる。 すな わ ち, タ ミル へ の権
限委
譲によ る民族対
立の解決
に対
して, そ れは国家の分 割 と主権の 弱体 化
を生ず
るもの で あ り, さ らに は 仏教
と シ ン ハ ラ文 化 を衰 退さ せ る もの である と反対
してい る 。 そ して , 次の 四 つ の ス ロ ー ガ ン ある い は象
徴 を揚 げて,反対運動を展開 して い る。す なわち,(1
) 厂大
地の 子 」(
bhumiputra
, 上着
の シ ン ハ ラが外 来の タ ミ ル に優 先 する とする 主張)
, (2
) 「統
一一と主権
」(
ekiyabhavaya
& svairibhavaya
,Dutthagamani
王 下の 国家
の よう
な統
一
と主権の 回復 ) (
3
)その 統一 と主権
を象
徴 する 「獅 子の 旗」(
すな わ ちム ス リ1
、 と タ ミ ル を表 す 緑 と オ レ ンジの ス トラ イ プの ない 国旗 )の使 用,故
国の統
一 と非 分 割 を表 現 するも
の と してのtun
sinhalaya(
キ ャ ン デ ィ ー王 国を構
成 してい たRajarata
,Mayarata
,Ruhunarata
の3
県
を表 す)
で ある。 そして, こ の よ
う
なス ローガ ン
,
象
徴を挙 げな が ら,MSV
は主 に, 大 衆デモによ り政治へ 圧
力
を か ける とい う形の 運動
を展
開してい るの で ある。第
11
章
「比rr
.と暴 力」 で は ,
Janatha
Vimukhti
Peramuna
(
JVP )
に属 した 比 丘 た ちの
暴力
の 問題が取 り上 げられ てい る。 まず, 比 丘 たちは ,1980
年 代 後 半には , タ ミ ル の イー ラ ム 国分 離 独立の 主張
や タ ミル へ の権
限譲 渡 に よ る紛争解 決 に反 対 して,儀礼,説 教 等を行い , 反 タ ミル 運動
を正当化 しよ う と した。 そ し て, こ の 頃か ら比 丘 た ちは, 「仏 陀の 子 」 か ら 「大地 の 子」 へSociety for the Study of Pali and Buddhist Culture
NII-Electronic Library Service Soolety for the Study of Pall and Buddhlst Culture
遮 gy J皇ンaraja Tambtalユl Bttddhism Beit’a.ved ?
125
と転 換 し て い っ た、, こ の転 換 を もっ とも
劇的
に示 してい る の が ,1982
年の メ ーデーの パ レー ド であっ た。 そ こで は [大 地 の 一一1
とい うス ロ ーガ ンが 主に掲
げられ,比 丘がタ ミル 鎮圧の 成功 を願 っ て菩提 樹供養
を行い , また 仏 歯寺 に もうで無事
と勝利を祈る 軍人 を比丘CAsgiriya
派 とMalvatta
派
の 長 老) が祝 福 し たの であっ た。こ の よ う な状 況の 中で,
JVP
は, 比 匠 を戦 闘 的 支援 集 団と して 最 も組 織 的 ・意識 的に動 員 して い っ た 、 そ して1980 年代 後
半に は,JVP
の 内部 構 成 員と な る 比 }モも生 まれ て きた。 彼 らJVP
比EF
.た ちは,JVP
が ,1983年
の 反 タ ミル暴
動に参 加 し た か どで 封鎖
され たの ち ,革 命II
勺暴 力
〔すな わ ちテ ロ) を採
用する よ うになっ てい っ た ときに ,深刻
なジ レ ン マ (つ ま り非暴力
を説 く仏 教 とテ ロ の 矛 盾 )に直面する こ と にな っ た。 特 にJVP
の テ ロ は ,主にUNP
政府
の高
官 (す なわ ちシ ンハ ラ)を ターゲ ッ トと して 行われ た た め に, 反UNP
集団内部 に分 裂が 生ずる よ うに なっ たの である 。 た と え ば,SLFP
お よ び
MEP
の 代 表 者 (た とえばAsgiriya
派の 長老Chandananda
)は
MSV
,JVP
か ら離れ て い っ た。 この ような長 老の離
反 に対 して,若い 比丘 た ちは 反発 し, 彼 ら をイ ン ド ・ス リラ ン カ和 平 協 定を容 認 するUNP
,SLFP
とつ なが る者
と して 批 判 し,JVP
に よる テ ロ を容
認す る よう
にな っ て い t,た。 そ れ に対して政府
は ,JVP
を弾
圧 し,JVP
比 丘の 逮 捕, と きには殺 害 を行
っ た。 そ れ に対
してJVP
の 比 丘 は仏 教 寺院内で 断 食を行
い ,非暴
力で 抵 抗 し,そ うする ことで
Asgiriya
,Malvatta
,Sialn
派の長 老 た ちに 圧力
をか け よ うと した。 だ が,
1989
年 末か ら1990
年 初め に は ,JVP
全体 に悲 劇的結 末が訪
れ る こ とに な っ た。 す な わ ち,Prcmadasa
政 権は, 治安部
隊を出動
させ ,JVP
の指
導 力 を崩 壊 さ せ る こ とに成 功 し,JVP
は壊 滅 し たの で あ っ た。 そ して この と き,多くの 比 丘 が殺 され .還 俗 させ られ , また ジャ ン グル に逃亡 した。な お, 著
者
は ,政 治に参
加する こ と に よっ て在
家と変わ ら な くなっ,て きた 現 在の 比 圧 た ちの 状 況をふ まえた 上で, この章
の 最 後で , 次の よ う な1
こつ の 疑 問を眠してい る。q
:靦存
す る長老た t5が亡 くな っ たの ち , サ ン ガは どの よ N工 工一Eleotronlo Llbrary
126
パ ーリ学 仏教 文 化 学う
に再
生さ れ, どん な変
化し た形態
を と るよ うになるの だろう
か。 (2
)サ ン ガ の構造
や比 丘の 使命
は どの よ うになる のだろ うか。 (3
)寺 院の 機 能 と活動,お よ び 比 丘 と在 家の 関係は どの ような もの になる のだろう
か。 そ して , こ の よ うな疑
問 を提 示 したの ち, 著 者は, 裕福 な階層
出身
の 既 成の サ ンガの長老
た ちと は異
な り, 田舎
の貧
困層
出身
の比丘 た ち が, ラデ ィ カル な形で政治に参
加 する よう
に なっ てい っ た事
情に対
する一定の理 解 を示
しな が らも,最
終 的 に は, 次の よう
に結
論づ けて い る。 す なわち, 仏 教 には非 暴 力の思想が根 本 にある はずだ か ら, 比 丘(
あるい は仏 教)
が政 治 的 暴 力に関わ るの は, やは り好 ましくない こ と である と。第
12
章 「仏教
ナシ ョ ナ リズ ム と仏教民主 主 義の パ ラ メーター」 では ,現在
の 政治 的 比丘 に も共有
されて い る シ ンハ ラ仏教ナ シ ョ ナ リズ ム の基本
的な考
え方 を 代 表 す る もの と して,
Madihe
Pannasiha
Thero
とHenpitagedera
Gnanasiha
Thero
の 思 想 が, 以下の四
点
に絞
っ て紹 介さ れ て い る。 まず第
一 は 国
家
の 統 一に 関す
る もの で ある。彼
ら は,Mahavamsa
に 登 場 す るDhatthagamani
王やParakrama
Bahu
I
世に よる統
一国家
の 時代 を, 仏 教が保