2015.4.12 出エジプト20章6~11節 あなたを幸せにする10 の教え(4) ○ 私が教会に初めて教会に行ったのは19才の二月でした。 そして三月の復活節のときにイエス様が私を救いに導いてくださいました。 ジョン・ウェスレー・グレイビル先生が礼拝の最後で「今日イエス様を信じたい方は手 を上げて下さい。あなたの罪のためにイエス様が十字架にかかり三日目によみがえって下 さいました。」聖霊なる神様は、私をそっと助けてくださり、私は手を上げました。 その日私はイエス様を信じることができたのです。 周りの方から「おめでとう」と言われて,嬉しいけれど、何かまだ実感できな自分もい ました。 それから2,3週間後です。礼拝の中で聖霊が、先生の話を通してさらに私にイエス様 の愛を教えてくださいました。私が本当に罪深いもの、この私のためにイエス様が十字架 にかかってくださったことが分かりました。今にも泣きたいのですが、泣くわけにはいき ません。いつもはもっとメッセージが聞きたいと思っていたのに、その日は早く終わらな いか、泣くのをこらえていました。礼拝が終わったらすぐにアパートに帰り、畳に打つ伏 して、泣きました。イエス様、あなたが私の為に十字架にかかって死んで下さったんです ね。この私のために、ありがとう。ああ、イエス様ありがとう。この僕のために。痛かっ たでしょう。つらかったでしょう。ありがとう。天の父なる神様、僕なんです、イエス様 を十字架につけたのは、本当は私が十字架にかからなければならない罪人なのに、イエス 様が代わりに十字架にかかってくださいました。天のお父様、イエス様を送って下さりあ りがとう。ああ、僕の罪の為なんです。イエス様ありがとう」 涙が病んだときに、心の中が晴れやかになりました。聖霊は私に十字架の意味を教えて くださったのです。すでに私はイエス様を信じていましたが、その日からははっきりと分 かったことがあります。それは私が神さまの子であるということ。そして私はイエス様に よって救われたという確信が与えられたことです。 私にとって日曜日、礼拝に行くことが楽しみでした。そして週の半ば、水曜日に祈祷会 があるのが楽しみでした。 余りにも日曜日の礼拝が楽しみなので、土曜日の夜になると心がうきうきして、楽しみ でしょうがありませんでした。 今もそうです。土曜日はこころがうきうきします。日曜日に神さまを礼拝するために教 会に行けるのですから。 さあ、皆さん、この安息日に主を誉めたたえ、主を礼拝しましょう。 ○ 今日は日曜日。キリスト教会にとっての安息日です。 イエス様の時代は安息日は土曜日でした。金曜日の日没から土曜日の日没までです。 イスラエルの首都、エルサレムの映像を見たことがあります。 金曜日の午後遅く、まだ買い物客が沢山いるのですが、ユダヤ教のレビでしょうか。ベ ルを鳴らしながら歩くのです。すると、商店主はお店を片付け、シャッターを閉め始めま す。
安息日が始まるのです。 ホテルに行くと、異邦人用のエレベーターとユダヤ人エレベーターに別れます。 ユダヤ人エレベターは各階止まりで、一番上にあがるとまた、各階に降りて来ます。 それは ボタンを押すことが 労働に当たると考えているからです。 安息日はいかなる労働もしてはいけないという律法にあります。 一方、異邦人は自分が行きたい階のボタンを押して行きます。 ここまででいくつかの質問が出てくると思います。 なぜ、クリスチャンは安息日を日曜日としているのでしょうか。 なぜ、クリスチャンはまことの神様を信じ、旧約聖書を正典としているのに ユダヤ人のように、安息日といわれるひには エレベーターでボタンを押して てもいいのでしょうか。安息日の労働って何ですか。 この答えは後で出したいと思います。 今日は あなたを幸せにする10 の教え(4)として安息日についてお話しをします。 ○ 7 日目に安息日 一体どこから? ・創世記1章 神さまが6 日働かれ、そして 7 日目に休まれた。 ヘブル語では「日」のことをヨームと言います。 日 は 24 時間とは限りません。 また神さまは 時間を自由に扱われるので、45 億年前の石を、たった今お造りにな る事もできます。 アダムとエバ、アダムは土から造られた。エバは彼のあばら骨から造られました。 二人は一体何歳でしょうか。どこから見ても成人している夫婦、20 才ぐらいとしま しょう。ところが生物学的には0才。20 才なのに0才。神さまは 20 年をも今のよう にして造ることがおできになるのです。 ・神さまは6 日で天地万物を創造されました。 そして7 日目を休まれました。七日目には「神は第七日目を祝福し、この日を聖であ るとされた。それは、その日に神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたから である。」 神さまが第七日目を休まれ、そして聖とされたのです。 モーセが出エジプト20 章を書いたときには、まだ創世記を描いていなかったかもし れませんが、天地万物がどのように造られたかは、ずっと昔から神さまが人に教えて くださり、そして語り告げられてきたものでしょう。そしてモーセは神さまから特別 な啓示を受けて、天地万物がどのように造られたかを正確に記しています。 神さまは天地万物をお造りになったときに、6 日ですべてを造られ、七日目を休 まれ、そしてその日を聖とされたのです。 ・マナの記事 (出エジプト記16章) エジプトから出て来たイスラエルの民は食べるものが無くて困りました。しかし、神
さまは素晴らしい奇跡を起こしてくださいました。毎日マナと呼ばれるようになる食 べ物を与えてくださったのです。 そのときに毎日自分の食べる分だけ取り、6 日目には二日分を集めるように 仰いま す。ちょっとずるをして 6 日目でないのに 二日分のマナを集めた人 がいました。すると二日目にはマナは臭くなってしまって食べられなくなりました。 ところが不思議ですよ。六日目に二日分のマナを集めて,二日目に食べるときには そのマナは臭くなっていなかったのです。それは偶然ではないのです。100万も のイスラエルの民全員同じ事が起こり、また七日ごとに奇跡が起こったのです。 マナが毎日降るのも奇跡の連続ですが、7 日目にマナが腐らないのも奇跡でした。 こして神さまがご自分が生きておられること、イスラエルの民と共に来られること をしめされました。 そして大切なことは神さまがイスラエルの民に対して、ご自分の言葉を聞いて従うか を訓練されたのです。 神さまはイスラエルの民に 七日目はマナが降らないから困らないように六日目には 二日分のマナを集めることを許して下さり、七日目は集めなくてもよいのようにし てくださいました。 神さまは、御自分の言葉に従うようにイスラエルの民を訓練されていきました。 神さまがイスラエルの民に教えてくださったのは 7 日目は聖なる日だということを 教えようとされていたのです。 神さまは「聖」いお方です。イスラエルの民に、七日目は「聖なる日」そして聖 なる方はまことの神様。このような「聖なる恐れ」を持つ事ができるように、わた したちが幸せになるための10の教えの四番目では 「安息日を覚えて、これを聖 としなさい」と仰っています。 皆さん10 の教えの四番目を今日学んでいるのですが 八節 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ このあと9-11節とその説明をしています。 それだけこの安息日は大切で意味が深いことが分かります。 その意味を知らない、形だけが先行して,人を裁くことになってしまいます。 その大切な意味をとらえていないと、せっかく大切な 安息日の 教えが かえ って 人に悪い結果をもたらすこともあるのです。 ・イエス様の時代 安息日をとても大切にしていたことはモーセの時代と少しも変わりはありません。 人が真面目であることは大切なことですが、真面目過ぎると困ります。 律法学者は真面目ですが、安息日を大切にしようと言う、真面目過ぎる思いから 安息日にしてはいけないことで聖書に書いてないことも、まるで聖書に書いてあるか のようにして教えていました。 例えば、安息日に歩いて良い距離 700メートルぐらいです。 安息日に書いて良い文字の数 安息日に病気の人の治療。 このようなことは聖書に書いてありませんが、まことしやかに制限を加えていました。
イエス様はその心を失って、安息日、安息日、安息日は聖であると言っている人達を 悲しまれました。 福音書を読むと、一つ気づくことがあります。 それはイエス様が安息日に人を癒やされたということです。 (マタイ12:8 ルカ6:5) 安息日にユダヤ教の礼拝堂に入って行かれ 礼拝を守っておられたイエス様は、そこ に片方の手がなえた人がいるのをお気づきになりました。イエス様の周りには、厳しい目 で見ている人がいました。安息日以外の日にイエス様は御自分の所に来られるすべての人 を癒やしてくださっていました。それですからひょっとしてこの、聖なる日、安息日にも 人を癒やしてしまうかもしれない。 手のなえた人がそこにいたので、イエス様に反対する彼らはこう聞きます 「安息日に癒やすのは正しい事でしょうか」 イエス様は、真面目過ぎて間違った方向に行ってしまった人に、「理性」を用いて考 えるように導かれます。そう、以前お話しした私たちが大切にしている、聖書、伝統、理 性、そして経験 の4つの中の一つです。 イエス様は仰いました。 「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴二落ち たらそれを引き揚げてやならないでしょうか。」 「人間は羊より、はるかに値打ちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことを することは、正しいのです」 イエス様は知恵があります。安息日にいやすのはどうかと聞かれたのに対して 安息日に良いことをする と言い換えながら、彼らの理性に訴えています。 イエス様は片方の手がなえたひとに「手を伸ばしなさい」と仰いました。どちらの方 の手だと思いますか。そう、彼はなえていた手を伸ばしたのです。奇跡が起こりました。 癒やされたのです。周りの人達は感嘆の声をあげた人もいますが、腹が煮えくりかえりそ うになっている人達もいました。この人達はイエス様は神さまの聖を汚している、冒涜だ と考えたのです。 私たち日本人にはマタイ12:14 にある「どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した」 という意味が分かりにくいと思います。手のなえた方が癒やされて、喜ぶべき所なぜ、癒 やしてくださったイエスを滅ぼそう、即ち殺そうと思ったのか。それは医療行為は労働で あって、イエスは手のなえた人を癒やしたのだから、安息日を汚している、つまり神を冒 涜していると考えていたのです。真面目過ぎて,間違った方向に行っていたしまったので す。 もう一度言いますが、真面目であることは大切です。しかし真面目過ぎると、ゆとりが 無くなってかえって自分を窮屈にしてしまうことがあるのです。また相手に自分の狭い価 値基準を押し付けることになります。そしてしばしば、神さまの願いよりも、自分の思い が上になってしまうことがあるのです。 本田弘慈先生「なっとくクリスチャンはいけません」 と仰いました。 クリスチャンになったあと、いつの間にか、神さまの恵みを忘れてくると、「ねば、
ねば」したクリスチャンになってしまうのですって。そして納豆のようにねばねばしてい る。「これをせねばならる、あれもせねばらなる」恵みがあるときに、喜んでさせていた だけるのです。安息日に礼拝に行ける恵み、神さまの臨在に触れる事の出来る恵み。この 恵みをいつの間にか忘れてしまうと、礼拝にでねばらなない・・とそうねばねばがでてき ます。そして礼拝にいろいろな事情で来られない方に対して、このねばねばを押し付ける ような思いになります。「あなたも礼拝にでねばならない」 恵みを知っていると違います。礼拝に出たくなるのです。聖書が読みたくなるのです。 祈りがしたくなるのです。そして礼拝にでて、神さまからの安息に喜びを感じるのです。 礼拝に出られない方の為には、この恵みに預かられないのは本当にもったいないこと、 この恵みにいっしょに与れるようにと愛を持って祈るようになるのですね。 ある2 人のクリスチャンを知っています。 1 人はからだが悪く、なかなか礼拝に行くことができません。お友達の教会員が毎週 礼拝が終わると、彼女にハガキを書くのです。礼拝の恵みのメッセージをそのハガキに書 いてお祈りしていますよ。と書いてお祈りしてから投函されていました。 それを受けとったお友達は、毎週そのハガキを楽しみにしています。この日曜日はこ のようなお話しがあったのか。恵みだなあ。感謝だなあ。と神さまを崇めていたのです。 2000 年前のユダヤ人だけではなく、私たちクリスチャンも、神さまの本当の意図を 忘れて恵みではなく、別のものを大切にして、自分を縛って、窮屈にしてしまうことがあ るのです。大切なのは 恵みです。神の愛です。 ○ さて、皆さん 私たちが道路を歩くとき、いろいろな道路標識を目にします。 駐車禁止であったり、一方通行、進入禁止であったりあったりします。 ところがこの標識を見たことがありますか。 皆さんの中には、これが一体なんというのかご存じな い方もいるかもしれません。 大八車といいます。 これは京都の太秦映画村にある大八車の写真です。 こんな大八車を探そうにも、私たちは特別な所に行か ない限り見られるものではありません。それなのにいま も大八車は行けませんよという標識があるのです。 今は大八車はリヤカーに変わっています。時々豆腐屋 さんがリヤカーでまわってくることがありますし、クロ ネコヤマトさんが自転車に小型のリヤカーを引いている
*1 民 15:32 イスラエル人が荒野にいたとき、 安息日に、たきぎを集めている男を見つけた。 15:35 すると、【主】はモーセに言われた。 「この者は必ず殺されなければならない。 全会衆は宿営の外で、彼を石で打ち殺さなければならない。」 こともあります。 大八車禁止のように見えた標識は、 「自転車以外の車両通行止め」ということです。 大八車は今は無いから、あの標識自体は意味がないとは私たちは考えません。 そこには意味があります。 安息日を覚えてこれを聖としなさい。 これは2000 年以上前に神さまがイスラエルの民に教えて下さった教えです。 民数記を見てみましょう。 安息日に薪を拾っていた人がいたのです。 彼は安息日に労働をしていました。どうなったでしょうか。 主は彼を石打ちにせよと命じられた。*1 厳しいですね。 神さまはせっかく民のために安息日を与えてくださっているのにそれを敢えて犯してい る人がいたのです。 この記事を、そのまま現代に適応できますか。 今日休日出勤している方がいます。その方が疲れて帰ってきたときに、道であったら、 「あなたは安息日なのに労働をしていた。民数記からするとそのいうひとは石で打ち殺さ れていた。だからあなたはいけない事をした・・・」などと言いますか。決して言わない でしょう。 しかし、民数記のあの箇所で聖書が私たちに語っているその「大切な意味」を私たち は忘れてはいけないのですね。 そんな古い。今は意味が無いでしょう。と思うでしょうか。 安息日を覚えてこれを聖とする。この意味はとても大切なものです。 イエス様は安息日にも人々を癒やされました。 それに疑問を持つ人達に向かって、 人が安息日のためにあるのではなく、安息日が人の為にあるのだ。 わたしは 安息日の主だ。 と仰いました。 真面目過ぎる人達は勘違いをしていました。 安息日のために人があるかのように考え ていたのです。 わたしは安息日の主 これは 真面目過ぎる宗教家達にとっては耳を防ぎたくなるよう なことばでした。安息日の主 これはヤーウェー以外の何物でも無いからです。 こうしてイエス様は、ご自身が まことの神である事を ユダヤ人が分かる形で話して
おられるのです。 皆さん、安息日についてどう考えておられますか。 その真意を正しくとらえると 私たちは幸せになります。 しかし真意を正しくとらえないと、 安息日を軽んじていくようになります。 アンチノミアン・趣味と同列の信仰 また真意を正しくとらえていないと 自己満足や人を裁く基準になってしまします。 律法主義 ユダヤ教では金曜日の日没から土曜日の日没までが安息日です。 私たちクリスチャンは 主イエス様が復活された日、週の初めの日を安息日として守っ ています。 土曜日が日曜日に移ったことですが、意味は変わりません。 聖なる神さまが、私たちの為に 安息日を造ってくださった。 だからこの安息日を神さまに喜ばれる形で過ごすのです。 神さまが喜ばれる形は、 安息日に神さまを礼拝することです。 ・日曜日に教会で神さまを讃美できます。 ・日曜日に神さまのもとで憩い、からだを休めることができます。 大草原の小さな家 日曜日には野良着ではなく、自分にご褒美するかのように教会 に行くためだけに用意してあった服で教会に向かい、神さまを讃美する。 出エジプト20:10 には どんな仕事もしてはならない、あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷 や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みにいる在留異国人も とあります。自分だけではなく、家族も使用人、家畜も休ませる日です。 アメリカ 先に入植した人ひとから、土地を所有する事ができる。 二つの家族、それぞれ馬車にのって目的地に、 一つの家族は休みもなく、ひたすら進んだ。やがて車輪に不具合、家族の心にもゆと りがなく、動物も疲れてしまった。 もう一つの家族は 日曜日ごとに 馬車を止め、神さまを讃美し,礼拝をし、家族も 休み、馬も休ませた。その結果、日曜日ごとに安息日を守った家族が一番先に目的につい た。 あるご高齢の方、日曜日を目標にして体調を整えていく。 尊いことだと思います。 私たちのために神さまは安息日を用意してくださっています。 そしてこの安息日に神さまを覚え心から礼拝するものを神様は祝福してくださいま す。 もう一つの質問 私たちクリスチャンは安息日にエレベーターのボタンを押してもいいのか。
ボタンを押すことが神さまの聖さを汚すような労働である科という質問に変えたら答 えが分かりやすいでしょう。日曜日に教会に行くときに、駅のエレベーターにのってボタ ンを押す。これが神さまの聖を汚すことになるでしょうか。理性的に考えれば、答えがで ます。 安息日、それは神さまを礼拝する日です。 安息日に教会に来られない人もいます。 今日お仕事のまっただ中の人もいます。 出勤前に神さまと親しい時をいつもより少し長めにとって、神さまを礼拝して出勤。 教会のホームページにその日の週報、日々のみことば、メッセージが掲載されます のでそれを読んで、礼拝にでらない欠けを補うことができます。 日曜日に趣味、旅行、家族のお付き合い、法事、記念会、地域の行事が入ることもあ る。まず 安息日を守るとういことが第一でそ、それを優先して戦ってみる。そして祈る。 日曜日を開ける事になったら、礼拝にでられないことはとても残念なことですが、神 さまにゆだねて、使わされたところ、世の光、地の塩として過ごす 富士見台教会60年、そのように安息日を守ることを必死に戦った人達によって守られ ている。キリスト教の歴史においても 安息日を守り、礼拝を守ることに生命をかけてき たひとたちによって今あるのです。 安息日に礼拝に行けるとうことは特権です。ですからこの特権に与ることができなか った方々の為に、少しでも祝福があり、またやがていっしょに礼拝で主を讃美できるよう に祈りましょう。病野中、ご高齢のためにベッドから出ることができない方もいっしゃい ます。その方々の為に祈り、また訪問して神さまからの祝福をお届けしましょう。 ○ 安息日の主はだれでしょうか。あなたのために十字架にかかってくださった主イエス様 です。この安息日に一週間羽ばたいてきた翼を閉じるようにして、神さまの前にで、神さ まを礼拝しましょう。 安息日の心得 聖なる神さまが私たちの為に安息日を用意して下さった事に感謝 ・礼拝に来たとき 先ず静かにお祈りをしましょう。 疲れていたり、思い煩いがあると思想がさまよう そうすると礼拝のときにも,神さまの言葉をキャッチできな い。 誰かを赦せない気持ちがあったら 主の祈り、我らに罪を犯す者を赦すごとく、われらの対を も赦し給え こうして魂が調整されていく ・礼拝にでれれないとき 時間をとって、神さまを礼拝、讃美、祈り
礼拝にでられるように祈りましょう 安息日の主はあなたに安息をあたえてくださいます。 安息に日の主を誉めたたえましょう。