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磯辺地区/地域別構想(素案)

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Academic year: 2021

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(3)磯辺成立以前の検見川地区

①検見川地区の変遷と住民意識 検見川地区の漁民がノリ、アサリなどの養殖をしていた干潟は、汀から約 1,500mもあ りました。これは今の真砂地区に該当し、その先端部を京葉線が走っています。磯辺地区 の位置する所は「打瀬船」が白帆を張って桁網漁を行っていた漁場で、カレイ、カニ、エ ビ、アカ貝、トリ貝などの豊富な魚介が獲れるところでした。 昭和 30 年代、千葉への企業進出と人口増解消のため、ニュータウン建設ならびに公園緑 地整備目的で稲毛、検見川、幕張の公有海面埋め立てが計画され。昭和 40 年(1965)に千葉 市から漁民への漁業権放棄の交渉が始まり、昭和 42 年(1967)3 月の第4次交渉をもって、 3 億 9 千万円の補償金で漁業権放棄妥結。造成工事が進められました。(千葉市史) 当時、400 余名の検見川町漁師は、一丸となって交渉したと伝わっています。 ほかにも、検見川住民の活動があります。大正 6 年(1917)秋、台風で小学校校舎が倒壊 した時、建設費として住民と漁業組合から寄附金が寄せられ、大正 9 年に校舎3棟新築。 また、昭和 30 年頃に婦人会が始めた公民館開設の募金活動が地区全体に広がり、100 万円 の建築資金を集めて千葉市に寄贈し、昭和 35 年(1960)秋に約 200 万円で検見川公民館完成。 もう一つ、鉄道駅の誘致の長年にわたる住民運動があります。 明治 27 年(1894)総武鉄道開通計画当初の駅候補地「八坂神社(現検見川神社)」北側の予 定が、土地が急勾配という理由で「幕張」に作られ、明治 32 年(1899)「稲毛」に新駅がで きる有様でした。後に国有鉄道となり、輸送量増加に従い複線化した総武線が「お茶の水」 で中央線と直結し秋葉原で山の手線、京浜線と立体交差したのが昭和 7 年(1932)。このよ うに東京への利便が増したものの、検見川町は幕張、稲毛両駅の中間で駅が遠いうえ、住 民が幕張駅へ行くには花見川の鉄橋を渡るという危険を冒さねばならない有様でした。 昭和 12 年(1936)千葉市と合併時に新駅設置を陳情。待望の「新検見川駅」完成は、昭和 26 年(1951)7 月。当時の公務員初任給 5,500 円という時代に、駅建設工事費約 905 万円の 内 137 万円余が地元負担でした。(「けみがわ」検見川郷土史)現在の「新検見川駅」乗降客 には 57 年もの長期にわたる検見川地区の苦難の歴史など知られていませんが、多額の賦課 にもめげず初志を貫いた検見川町の先達の<住民力>を忘れてはなりません。 ②絆の存在 検見川町を例にとれば、三峰、尾鷲など神社の氏子集団があり。中でも平安時代に領主 が勧請した八坂神社(現検見川神社)は、毎年八月には神輿渡御を含めて 3 日にわたる例大 祭など、寺社を中心とした祭祀儀礼、年中行事に即した暦と独自文化が地域の<絆>を生 み。漁業や農業など職業集団あるいは姻戚を通じた共通認識もできていました。 全国的にみると、産業の近代化にともなって、祭礼の資金源であった地元産業や富商の 衰退を招き、祭礼維持のため住民への寄付強要の風潮なども生じたほか、生活全般の変化 とともに無形文化への興味を失うに従い後継者不足となり、伝統文化の維持存続が危ぶま れるほど衰退した地域もあります。 近代化の波で地域と人の結束が破れ、祭に伴う「ケ、ハレ」と称された習俗も失われ、 日本三大祭のように観光資源として各界と結託し、支援を受けて存続しているものの人材 を他所のボランティアに頼らざるを得なくなるなど、歴史的地域文化は忘れ去られようと しています。地方によって度合いは異なるとしても、100 年余の時とともに人々の<絆> のよりどころである<住民力>(信頼、尊敬、誇り、連帯、公正)が失われ、社会的規範も 崩れてかけています。マスコミ報道のごとく、表層を捉えて<人心荒廃>と憂え評論する のは簡単ですが、<住民力>を失った街の再生は困難をきわめ、こんにち全国に展開され ているまちづくり事業が乗り越えねばならない大きな壁が、ここにあるようです。

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③埋め立ての推移 【「千葉県の歴史」別編 地誌 3(地図集)平成 14 年 3 月 発行 千葉県 より】 検見川地区は、昭和 12 年(1936)2 月に千葉市との合併以前は、千葉郡検見川町と呼ばれて多 くの小字に分かれ、内陸にある現在の朝日ヶ丘町、浪花町、花園町(花園、南花園はその後の区画整 理等で分離)は、合併以前は旧・検見川町の一部でした。現・検見川町は、千葉市合併の際に小字 を統合して、1 丁目から 5 丁目(4 丁目なし)となりました。昭和 26 年(1951)頃の地図では幕張、検見 川、稲毛の海岸は干潟で「袖浦(そでがうら)」と呼ばれ、岸から沖に幾筋かの澪(みお)が通り、花見 川河口には、防波堤で囲まれた船溜(ふなだまり)が見えます。稲毛地区は別荘地で、幕張まで沿 岸の集落は漁業権を持ちノリ、アサリを養殖するかたわら、海水浴客を受け入れていました。 *オオガハス 昭和 26 年(1951)3 月 30 日夕刻、現在の「東大検見川総合運動場(+印)」で故大賀一郎博士の指 導により古代ハスの実 3 粒を発見。同年 7 月、2000 年ぶりに発芽開花したのが「ライフ」誌に掲載され 一躍世界的に有名となり、「オオガハス」と名付け各地に移植。昭和 29 年に県の天然記念物指定。平 成 5 年、千葉市の花に指定。発見地の隣「東京大学緑地植物実験所」で、毎年 7 月「ハス祭り」開催さ れます。「東大検見川総合運動場」は、東京オリンピックの時に「クロスカントリー会場」となりました。

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*埋め立て開始 昭和 44 年(1969)に、下図のように干潟の埋め立てが始まりました。幕張海岸は花見川の 拡幅直線化工事に伴う残土で埋め立て、船溜を設けて漁業継続(現・幕張舟溜跡公園)、工業 用地として幕張町の一部となりました。平成 19 年現在では、自動車販売店、家電量販店、 スーパーマーケット、住宅展示場、高層マンションになっています。 当時、稲毛海岸の埋め立て工事も行われ、旧海岸線で営業していた海の家は新しい海岸 線まで移動して営業を続けていました。現在の「ちどり支店」がその名残です。 干潟にあった稲毛浅間神社の鳥居は現存していますが、近年「海洋公民館こじま」の撤 去などが行われ、一帯の風景は様変わりしました。 *鉄道沿線の宅地化 昭和 44 年(1969)には、内陸部の総武線、京成線沿線では宅地化が進行し、農地が大きく 残っているのは旧検見川無線送信所付近だけになっていました。稲毛駅付近には、工場な どもできており、「京葉道路」の延長工事が行われていました。

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*花見川放水路について 往昔、印旛沼には出口がなく、利根川の水量が増えるたびに周辺は水浸しになりました。 花見川の拡幅工事により印旛沼の放水路としての機能を担わす案が、江戸中期以降何回か 計画が立てられましたが、ことごとく失敗に終わっています。 千葉県「県民だより」2007 年 1 月号『ふるさとの歴史を訪ねて(52)/染谷源右衛門(八 千代市)印旛沼の治水工事に貢献』等、文献によれば、 享保 9 年(1724)、平戸(ひらど)村(現八千代市)の染谷源右衛門は、沼の水害で苦しん でいる農民を見て、「平戸川(現在の新川)と花見川を繋ぎ、沼の水を江戸の海(東京湾)に流す 工事を幕府に願い出よう」と考えた。幕府の許可を得、村で作業を請け負う条件で公金 6000 両を借りて工事に着手。ところが、周辺の地盤は軟らかく、掘ってもすぐに崩れる難工事。 源右衛門は自分の土地を売り、農民への手間賃にして工事を進めた。それでも、平戸と検 見川の間に長さ約 10.7km の掘割を作る途中で 30 万両の費用を使い切り、資金不足のため 中断となりました。 第 2 回目は、天明 3 年(1783 年)に浅間山噴火の火山灰で利根川が氾濫する恐れがあるた め、老中・田沼意次の命令で同じ区間に幅約 11m の掘割を作るべく着工。3 年後の天明 6 年 6 月、殆ど仕上がるところで大洪水に見舞われ堤防が決壊。さらに田沼の失脚により計 画は中止されました。続いて、天保 14 年(1843 年)7 月、老中・水野忠邦はこれまでの失敗 を参考に十分な準備をし、異国船による海運妨害を想定して利根川~印旛沼~検見川~江 戸迄のルートを確保する狙いもあって、工事区間を分けたうえで大名 5 名に割当て、11 月 に完成させるよう工夫しました。工事も順調に進みましたが、その年の 9 月に水野忠邦自 身が老中を罷免され、急遽中止。結局、源右衛門の計画をさらに発展させた印旛沼開発事 業が完成したのは、昭和 44 年(1969)。源右衛門の願いはおよそ 240 年後に、ようやくかな えられました。 *花見川という名称 源頼朝が千葉から鎌倉に向う折、検見川村に着き在名を尋ねると、六郎大夫(地元有力者) が「この川上に櫻の林があり花盛りには吉野にも優り、橋から眺めれば流れる花は水面を 覆い南風が花を吹き戻し、川上に花が往来する景色は喩えようもございません」と申し上 げると、興を思し召され、ご機嫌に乗じて六郎大夫が和歌二種を奉った。 水上の藻にやさくらん谷川の 花見にけらし峰の春風 行く水の色もあやなる花見川 櫻波よる岸の夕風 殿、甚だ御感ありて暫く逗留・・・(千葉実録)という故事。が有力と。

(4)海浜ニュータウン

平成 12 年(2000)の地図(次ページ)では、開発時期により街の表情が異るのが分ります。 先行して開発された幸町地区から稲毛海岸駅付近までは、住宅不足が著しい時期の開発で あるため中層集合住宅が多く、また、道路は直交して作られています。 その後、首都圏からの流入人口の減速時に開発された検見川浜駅周辺に中高層集合住宅、 少し離れた地域に戸建住宅域が配置されています。道路は自動車通過を排除して住民の快 適環境を維持するため、道が複雑に取り廻されていることも分ります。この住宅地内では、 時にはドラマやCMなどのロケ風景と遭遇するようになりました。 海辺の干潟は消滅し、海岸線はふたたび直線的に整えられて広大な「稲毛海浜公園」を 整備、人工海浜「いなげの浜」「検見川の浜」が建設され、船溜はありません。代わりにヨ ットハーバーが建設され、海岸に沿って高等学校、病院が並び、終末処理場では「美浜ふ れあい広場」を施設屋上に、また「とんぼ池」を設けて<中水>を循環させいます。

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人工海浜ながらも検見川の浜は、稀少種とされる「コアジサシ」の営巣繁殖地になり、 毎年夏にはヒナの姿が見られます。この縁で、平成5年に市の鳥に指定されました。 また、背後の公園緑地には潮風に強い黒松などの苗を、寄贈した市民自身で植樹を行い、 「想い出の森」と名付けられました。それは、往古の白砂青松の再興がねらいで、今や、 昼は海風が夜は陸から海に吹く風が、松風を聴かせてくれます。園内には稲毛民間航空記 念館、稲毛記念館、日本庭園と茶室、花の美術館、芝生広場、人工池と小川、野外ステー ジのほかに、プール、テニスコート、野球場などスポーツ施設も整備され、いまや四季を とわず市民が多様に楽しめる公園になっています。 *幕張地区 花見川を挟む海浜幕張地区の開発では、商業ビル、ホテル群、幕張メッセ、千葉マリン スタジアム、幕張の浜、幕張海浜公園、公・私立学校の進出もあって文教地区の性格も持 つ街づくりが進行しました。住宅地としては、斬新なデザインのベイタウン各棟が並んで います。また、湾岸習志野インターチェンジにより、東関東自動車道による東京・横浜方 面と成田空港との交通の中間点としても位置づけられています。

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*防災への課題 今後30年以内に、震度6弱以上の揺れに見舞われる確率 「千葉」 27.1% (2007 年 1 月 1 日、平均ケース) (2007 年 1 月 1 日、平均ケース) 地震長期推進本部 地震調査委員会(平成 19 年 4 月 18 日 発表) 地震長期推進本部 地震調査委員会(平成 19 年 4 月 18 日 発表) ‘hhttp://www.jishin.go.jp/ より ‘hhttp://www.jishin.go.jp/ より 今後30年以内に震度6弱以上確率 今後30年以内に震度6弱以上確率 県庁所在地 2007 年 (2006 年) 水戸 8.3 % (8.3 %) 宇都宮 0.3 % (0.3 %) 前橋 0.9 % (0.9 %) さいたま 12.0 % (11.9 %) 千葉 27.1 % (27.0 %) 東京 11.4 % (11.3 %) 横浜 32.7 % (32.5 %) その他の 30 年以内に個人が災難に遭遇する確率と比較してみても、高い。(朝日新聞) 大雨災害 0.50 % すり 0.58 % 強盗 0.16 %

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*磯辺の立地 埋め立て工事前、1951 年頃の地図から海岸線と干潟の形状を写し、2000 年頃の地図に 重ねあわせると、現在までの約 60 年の歴史が浮かび上がるようです。干潟の澪(赤線) は河川や水路で処理され。京葉線は稲毛海岸駅から検見川浜駅、海浜幕張駅と干潟の先端 を走っています。磯辺地区の位置する所は「打瀬船」が白帆を張って桁網漁を行っていた 共同漁場で、カレイ、カニ、エビ、アカ貝、トリ貝などが豊富に獲れたという昔の話も真 実味を帯びてきます。

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(5)磯辺は<完成した街>と人はいう 人と人の絆の希薄化に伴って家庭、学校、地域の機能が衰え、隣人とのトラブルやタチ の悪いイジメ問題がとりあげられます。そこには、日本では皆が同じであることが前提で、 それぞれの違いを認めたがらない社会ができあがっているためもあるようです。 磯辺では、これらのトラブルと無縁で、人間関係も良好という人もいます。そこに、勤 勉で善良な市民として育ててきた家があり、幼少時から文化や生活の多様性や自分と他人 の違いを知り、その子もまた社会の基本を身につけているためかもしれません。反面では、 互いの領域を侵すまいとするデリケートさに、もう一歩踏み込んで互いに支え合い助け合 える気安い関係が、結ばれにくいことにもなりそうです。 かつてない規模の埋め立て地に開発された新興住宅地で暮らすには、新たな秩序とコミ ュニティの基盤を一から積み上げる覚悟とともに、ある種の開拓者精神も必要です。しか し、全国の町村あるいは海外から集まり、過去と無縁な状態で住んだもののソフト面につ いてどう調整すべきか迷い、問題を先送りしながら互いに様子見を続けてきました。 旧市街地、故郷では、地縁や血縁が保たれ、小・中学校を中心とした友達や知人が自然 にできあがって、子どもの頃から遊んだ友達や先輩後輩がいて道端で出会えば立ち話もで き、縁側に腰を下ろして四方山ばなしもできていました。ところが、新しい街にはシガラ ミの悪弊がないかわりに支えてくれる友もいません。また、住民の間に共通認識がないば かりか、街のどの家に誰が住んでいるか、あるいは道端や公園で遊ぶ子どもたちを見てそ の親が誰か、見分けられる人などいません。それでも、混沌に陥るのを防いでいるのは、 善良な住民個々の持っている理性によるともいえそうです。心を許して暮らせる知人もい ない街は、自主的で開かれた真のコミュニティにはなり得ず、街としての文化が未成熟と いわれるのも、やむを得ないことです。 地図上で、一帯の地形変遷のあらましを見てきたとおり、都市計画としてはすでに完成 済ともいわれています。しかし、30 年も経過すれば時代に沿わないところもでてくるほ かに、このようなソフト面の脆さが残されたままになっています。 *磯辺の課題 入居時の世帯主の多くは給与所得者で、1日の大半が職場で費やされ、居住地が磯辺に あるものの地域の動きにほとんど関わることもなく過してきました。定年退職後、高齢化 に向かって老後対策を考えるにも、隣人関係が希薄な状態では孤立せざるを得ません。 特に、福祉活動においては、日頃から高齢者など要支援者の情報把握が大切ですが、そ の収集の核となるべき町内自治会の役員のなり手がなく、存在感も薄れかけています。 千葉市は平成 15 年 4 月に施行された社会福祉法の改正に基づき、「千葉市地域福祉計画」 を平成 18 年 3 月に策定しました。計画策定当初から市民が参加し、地域の様々な福祉に 関する問題から課題を設定、その課題を解決するための必要なサービスを検討し、市民、 ボランティア・NPO法人、民間事業者と行政が協働し「支え合い助け合うまち」の実現 に向けた仕組みをつくろうとしています。 この理念に沿って、福祉面で支援する役割を負う「支え合いネット」や「ボランティア センター」等の仕組作りを、磯辺の街にも勧められたとしても、いまだに見知らぬ人の集 まりではおのずから限界があり、磯辺地区住民には<画餅>と化しかねません。 つまり、高齢者など要支援者が支援の仕組みを利用したいとしても、地域の絆が脆弱で あれば助けを貰うことを遠慮し、また支援の手を差し伸べられたとしても信頼感が不十分 であれば拒絶反応さえ起きかねません。従って、未成熟な磯辺には<交流と福祉>は一体 である点が他の街と異なるところで、この街づくり活動の前途が既存の街と比較にならぬ ほど難しいのもそのためです。

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*絆のみなもと<信頼、尊敬、誇り、連帯、公正> 磯辺には、当初から人と人との絆の元となるべき地域文化などもありませんので、地域 の絆と<住民力>を、この街づくりの第一の課題としました。 第1世代が生まれ故郷へのこだわりを捨て、磯辺への愛と誇りを抱くまでには、さらに 年月が必要で、時代にふさわしい纏まりある街に成熟するには新たな工夫も必要です。 その一つが<祭>に代わる新たな仕組みによって、第2、第3世代をターゲットに魅力 的なイベントを創出しながら人々を結集してエネルギーを引き出し、年代層の壁を超えた コミュニティとしての地域文化、<住民力>の基盤をつくることです。 試行錯誤の努力の末に、磯辺への愛と誇りと希望を持ち、いきいきと生活する集団が実 現するのではないでしょうか。 ところで、磯辺街づくり研究会の創立にあたって設けた、活動上のルールがあります。 ① 発言は自由に、簡潔に ② 発言内容は、制約しない(但し、宗教的、政治的発言は排除される) ③ 発言に対し、真意が理解できるまで冷静に聞く ④ 意見・反論も自由 ⑤ 個人批評はしない ⑥ 議題の説明資料は開催日前に配布(出席者が考えを纏める時間を作る) ⑦ 決定した事は必ず守る(後で文句を言わない) ごく簡単な約束事ですが、この中には<信頼、尊敬、誇り、連帯、公正>といった要素 が、しっかり盛り込まれています。それぞれの人と人の間に生まれる<信頼、尊敬、誇り、 連帯、公正>が、地域の絆や住民力の源ととらえれば分かりやすいかもしれません。 磯辺街づくり研究会の活動目的は、単に街のハード面や見かけの景観を変えることだけ ではなく、たしかな絆を礎として人と人を結びつけ<住民力>のある街をつくろうとする ところにあるのです。 なお、これまでのところ、働き盛りや子育て中の人たちの参加が少ないため、その年代 からの視点が欠けており、いずれ追加挿入もあり得ることを予めお断りしておきます。

参照

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