『
声 聞
地
』
の
「
ヨ
ーガ
ーチ
ャ
ーラ
yogacara
」
阿
部
貴
子
問題の所在ヨー ガー チャ ー ラ (瑜伽 行 者 yogacara )と呼ば れ る者たちが どの よ
う
な修行
者で あっ たのか という
問題は 、瑜伽行
唯識研究
の範畴
にと どまらず
、 これ ま で も実に多 くの先 学たちに よっ て研 究 されて きた1)。 に もか か わ らず
、 な ぜ い ま改めて これ を問わ なけれ ば な ら ない のか。 一つ に は 、大 乗 仏教の起源を問い 直 すな かで 、 再 び 浮 上 してい る 問 題 だ か らで ある。 大乗 仏教 が仏 塔 信仰 を中心とする 出家 菩 薩教 団よ り形成
され た とす
る平
川彰博
士に よ る仏塔教 団
起源説
は、1970
年代
よ り疑 問 視 される よう
に な り、90
年 代 には多
くの批 判が展 開さ れ た。 グ レ ゴ リー ・シ ョ ーペ ン氏 は、 大 乗仏教の 起 源には仏 塔信 仰よ りも経 典 信仰 を重視 すべ きだ と主張 し、 ポ ール ・ハ リソ ン氏は 、大
乗 教 団は部 派 教 団 とは別に起 こっ たの で はな く 諸々 の部派 教 団のな か か ら形成
さ れ た と指摘
した。 国 内学者
によ る指摘 も枚 挙にい と ま が ない 。 こう
した動 向
の な かで、 小 谷信
千代
氏 はyogacara
を、 小 乗 と大 乗 を架
橋 する者
た ち と見な し、 再度
そ れ を考察す
る こ とに よ り、 大 乗 仏教 興 隆 時の 状 況 を具体 的に想像
で きるだけの手掛
かり
を得
るこ とがで き る と論 じ、特に禅 経 典に焦 点 を当てて考 察 を行っ た2)。 ジ ョ ナサ ン ・シ ル ク 氏 もyogacara
を小乗大乗
に限定
さ れ ない ヨ ーガ実践 者 と捉 え、 諸々 の 初 期 大乗 経典や律 経の検
証を行っ て い る3)。 そ れ 以外
にも、禅経
典成 立に関係 す る瑜 伽師
た ち を考
察 した小玉大 圓 氏 らの成
果 や4) 、『
瑜
伽師
地論』
の成
立史
的研 究の一環 と して諸先
学に よるyogacara
に関す
る見
解 を網 羅 的に考
察 し た フ ロ リ ン ・デ レ ア ヌ氏の成果もあ る5> 。 主にシ ル ク 氏の考察
に依 りな が ら、 こ れ まで の研 究 成 果を強 引に も一文 ま と める な ら ば、yogacara
は元来、 瑜 (21 )智 山学報 第六十輯 伽
行
唯識 派 とは 関係 な く、 比 丘教 団に属 しつ つ も阿練 若 など を好み、 原始仏 教 経 典に見 られ るヨ ーガか ら、観
仏 や空観
とい っ た大 乗 的 な観 法 まで 、 広 く ヨーガ を実
践する人 々 であっ た とい うこ とが で きる。 これ を基 盤 と して、今後
も各
経 論に お けるyogacara
の扱
い につ い て、 さ らなる考 究 が必 要だ と考
える。第
二 の問
題点
は 、『
瑜
伽 師地論』の成立 に 関わ る人々 につ い て で ある。『
瑜伽 師
地論
』成
立 の 鍵 を握る ヨ ーガ実 践 者たちの 源 流 は、『
サ ウ ン ダラナ ン ダS
αundarananda 』の作 者である 馬 鳴 (ASvaghosa
)に遡る こ とが で き る。 こ の こ とはすで に松 濤 誠 廉博 士によ っ て指 摘 さ れて い た6)。昨今
で は さ らに経 量 部研 究の方 面か らの 考 察 もなさ れ7) 、 山部
能 宣氏 は、『
瑜 伽 師地論』 に関わ るyogacara
は、説
一 切有
部、 その な かの 一 派で あろう経
量部
に非常
に近
い 関係
をも
つ修行
者た ちである と論 じてい る8) 。小玉大 圓氏 らの研 究によれば、 『サ ウン ダラナ ン ダ』 作 者の馬 鳴は、 『達 磨
多
羅禅 経 / 痩 伽 遮羅 浮迷(Yogacdrabhabmi
)』 『坐 禅 三昧経 』 を説い た瑜 伽 師の 一人 と さ れてお り 、 『修行
道地経(七巻)/ 偸 伽遮復 彌 經 (Yogacdrabhabmi
)』の 作 者であ る僧伽 羅 叉 (衆護SaIhgaraksa
)と も密 接に関係 してい る9) 。 こ れ まで も諸先
学に よっ て『
瑜 伽 師地論』
と『
修 行 道 地 経』
『達 磨多羅
禅経』
との 近 似 性 が 指摘 されてい るが、 こう
した昨今
の研 究に より
、経
量部
と禅
経 典 と瑜 伽行派
の接 点
も明
ら かにな りつ つ ある。た だ し 『声 聞地』 と 『サ ウ ン ダラナ ン ダ』 に は、 すで に構 成上の 共通点が
指
摘さ れてい る もの の10) 、『
声 聞 地 』 と禅 経 典の 内 容に 関する十分な 比較 研 究は行わ れて お らず、 『声 聞地』の編 纂 者 ・実践 者グルー プ とそ れ ら瑜 伽師 との関係 も手が か りがつ かめ て い ない 。 ちな み に『
菩薩
地』 と禅経 典 との共 通 点 もまた確
認され てい ない 。荒牧
典俊
氏は『
修
行 道 地経 』に よっ て 『声 聞 地』
の最古層
が形
成 され 、の ちに華厳十
地 思想 を実 践 化して『
菩 薩地』
の古
層が成
立 した と推 察 してい る が、 さ ら な る考 究が待 た れ てい る11)。 確 か に『
修 行 道地経 』の 章構 成に は声 聞 ・縁覚
・菩 薩
の段
階 が あ り、『
瑜伽 師地論 』 の声 聞地 ・独 覚 地 ・菩 薩 地 と相 応 する こと か ら、 『声 聞地』
の作 者に は 『菩
(22
)『声 聞地
j
の 「ヨーガーチャーラ yogacara 」 (阿 部) 薩 地』
編 集の構 想があっ た と も考
えら れるが、 推測の域を出ない 。そ
こ で本 稿で は、『
瑜 伽 師 地論』
の成
立にか か わる編纂
者や ヨ ー ガ実 践者
の あ りよう
を 可 能な 限 り明ら か にす る た め、 『声 聞
地』
に お い て 「yoga
− cara 」の語がい か な る文
脈で使用 さ れ てい る かを考察
したい 。『声 聞 地』で ヨー ガ実 践 者を
表
す 場 合、一 般に 「yogin 」を用い てお り、「
yogacara 」
が現
れる箇 所は たっ た 六 ヶ所に過 ぎない 。 (ち なみ にr
菩 薩地』には 「yogacara 」が一ヶ所 も 見 ら れ ない 。)
「
yogin
」 と 「yogacara
」は、 玄 奘 訳では同じ
く 「
瑜伽師」
と訳
され、 慈 恩『
成唯 識 論述 記』で も同義
と見
な され る よう
に12)、 こ れ まで明確
な使
い 分 け は意 識 さ れ て こ な か っ た。 し か し 「yogacara 」の箇 所の前 後 に注 目する と、 その文脈
に は、 『サ ウ ン ダ ラ ナ ン ダ』
や禅 経 典、 特に 『修 行 道地経 』『
坐禅三昧経 』 との 共通点が見い 出せ る。『修 行 道 地 経』(竺法護訳)は、 序 文に僧 伽 羅 叉(衆 “
ff
SaMgarak
$a)作 と さ れ、「
衆経
の要
を取
っ て、 禅観
修 道の階梯 を示し た もの」
と示 さ れ る 13)。 『坐禅三 昧 経』
(羅什訳)は、 羅什
の 一 門 をは じめ北 方 禅に大 き な影 響 を与 えた経典 で あ り、『
出三蔵 記集
』巻
九 に収
め ら れ る 『關
中 出禅 経』
の 僧 叡の 序文
に は、究
摩
羅 羅多
(童受Kumaralata
>、 馬 鳴 (A
§vaghQ §a)、婆須蜜
(世 友Vasumitra
)、 僧伽 羅 叉 (衆護
Sarhgarak
$a)、涵
波 崛 (Upagupta
)、 僧 伽 斯 那 (SaMghasena
>とい った瑜伽 師た ちの説 を、羅 什が 編
纂
した もの で ある と され る14) 。では 、
『
声 聞地』にお け る 「yogacara
」の 使 用 箇 所 を順 に参 照 してみ よう。1
.yogicfira
の 五停 心 観(
1
)
『声 聞 地』 「第二 瑜伽 処」
『
声
聞地』「
第
二 瑜伽処」
では、 所 縁の説 明をする部分で、 世 尊が レ ーヴァ タRevata15
)に説法
した 内容
(以 下、レーヴァ タ経)を引用 す る が、 そ こ で は度々 「比丘 で瑜 伽
者
な る瑜 伽行
者bhik
§uryogl
yogacarah 」
に言 及 し、 修 行法 と してい わ ゆる五
停
心観
を挙
げてい る 16)。五
停
心観
とは、 す なわち、「
貪 」「
瞋」「
癡」「
慢」
「尋
伺 」 を持つ者
に とっ智 山学報第六十輯 て の 「不 浄 」
厂
慈愍」 「
縁性
縁起
」 「界
分 別」「
入 出息念」
の こ とで ある 。 五停 心観は、 『倶舎 論』
で三賢
位の第
一 に位
置付
け られ、 他の ア ビダル マ文献
に も同等
の 位 置で 示さ れるの で あるが、『
倶 舎 論 』『
婆 沙 論』
、 パ ー リ文 献 、 そ の 他の『
声 聞地』
以前の 経論
におい て も、 上の 五種が一セ ッ トと して現れる箇
所は見 当た ら ない 。す
で に小 谷 信千 代 氏は、 五停 心観の 形 成につ い て、パ ー リ文献
や ア ビダル マ 文 献を参 照 して考 察 してい る が 、 三種や 四種や別の瞑
想法
との組
み合わ せ な ど様々 な形態が各 経論
で指
示さ れ る もの の 、 この 五種
は見 られ ない と論
じてい る17) 。 ち なみ に、『
ミ リン ダパ ンハ』
には「
瑜伽者
な る 瑜 伽
行 者 yogina
yogavacarena
」に よ る「
貪
raga」「
瞋
dosa
」 「癡moha
」「
慢
mana 」 「見ditthi
」の 断滅が説か れてお り18)、 前二 世 紀に北イ ン ドで
梵語
で記 され た と さ れる原典 成 立の 問 題、後
に付 加 され た箇 所の 問題と併
せ て考 究 してい か な くて は な らない 。さて、 以下 に
取
り挙 げ
る文献
に は、 一 セ ッ トとして で は ない もの の 、『
声
聞地』の 五停心観に相 応 する修 行 法が そ れ ぞ れ異
な る箇所
で説かれて い るの で、 その部
分を検
討 してみ よう。(
2
) 『
サ ウンダラ ナ ンダ』『
サ ウ ン ダラナ ン ダ』 「聖諦 解 明XVI
」で は、 第49
偈よ り第
69
偈 まで、 ヨー ガ の 「時kala
」と 「方 便 abhyupaya 」 を説 く。 周知
の よ うに、 この 箇 所はすべ て『
坐禅三昧 経』
の末
尾に引
用 さ れて い る。こ の うち第
60
偈 以降
は、行者
の 心 が 「貪
」の 場 合に は 「不 浄」
を、「
瞋」
の 場 合 には「
慈」
を、「
愚痴」
の場 合に は 「縁 性 」の修
習 をする こ と を示 し て い る。「(
60
)
心が貪
に高
ぶ る ときは ragQddhate 、 堅固 さを得
て、 反 して不 浄aSubha の相 を修 習 す るべ きで あ る。 な ぜ な ら、
貪
性の もの は ragat 〔)−maka 、 この よ
う
に幸
を得るか ら。 …(
62
)
しか し、心
が瞋たる過 失に乱れ ると
き
は vyapadado $akSubhite 、 こ の類に随っ て、ma
maitn が 用 い られるべ きである
。 なぜ なら、
瞋
恚性
の もの に とっ てdve
$atmano
、 慈 は「声聞 地』の 「ヨーガーチ ャーラ yogacara 」 (阿部)
静 寂
の た め とな る か ら。 …(
64
)意
が愚痴
の性 質
の と きは mohatmi −kayam
、 反 して縁性 pratityata
に住 する こ とが用い られ るべき
であ
る。な ぜ な ら、 意が迷
妄
である ときmaす
he
manasi 、 これ は寂 静へ の 道で ある か ら。 …
(
65
)た とえば実に、世 間におい て金工 が盧
口 にある金 を正 しい 時に吹 き、 正 しい 時に水で灌 ぎ、 順 次に正 しい 時に放 置 する よ
う
に。」(松濤
p
.122
) こ の ように 「不 浄 」 「慈」 「縁 性 」を一セ ッ トと して挙 げるが、 それ 以外の 「界」
「入 出息
念」
につ い て も異 なる箇 所で説 明さ れ てい る。 同章
の 第47
偈 で は、 六界
の 相 を観
想す
るこ とを、 次の よう
に説
く。「
(
47
)故に 、友よ、最 善 を な して、速や かに諸 漏の滅尽の た めに修 行しな さい 。 諸
界
の 、苦
に して無
常 また無我
なるこ とを、特
に観察
しつ つ 。(
48
)
なぜ なら、 地水
火 などbhUsalilanaladi
の 六界 を総 合 的 〔
相〕
か ら、また個 別 的相か ら証 し、 そ れ ら
〔
六界〕
以外
を解
さ ない もの は、 それ ら〔
六界〕
によっ て究極
の解脱
を証す
る。」
(松濤p ,120
) こ こ には 「慢 」に対 する修 行 法 と は明記さ れてお らず、厳 密に は 五停 心 観 に位 置 付 ける こ と はで きない が、 『声 聞 地』 と同様に 「界」 を 自己の 身体と 見 なす な らば、 自己の 身体の 苦 ・無 常 ・無 我 を観じて「
我慢
」 を断ず
る方法
と理解
することも
可能
であろう
L9) 。また 「尋 伺
」
につ い て は、 「尋 伺 捨 断XV
」の 第57
偈 か ら第64
偈に 「入 出息 念 」が説か れ てお り、 続 く第65
偈か ら第69
偈には、 こ れをyogacara
の修 行 法 と して まとめ てい る。厂
(
64
)
そ れ ゆえ、 そ れ らの尋伺 vitarka を 総 じて断ず る た めに 、 入 出息
念anapanasm
#i
を、友
よ 、対象
とすべ きで ある。 …(
68
)
た とえば こ こ で、 順 次に、 水に よっ て洗わ れ、 塵 が 除 かれ た金 を、 金工師が 火で焼き、 また激 しく溶
解
す る よう
に、 こ こ で 、 瑜 伽行者
yogacara
は、 諸 煩悩よ り浄めて、 巧み に過
失
が除か れ た意
を、 静め、集
中させる。」
(松 濤 P ,114
)こ こで注 目 し たい 点は 、第
68
偈 ・第69
偈にyogac
弖ra の あ りよ うとして (25
)智 山学 報第六十 輯
冶
金 喩 を挙 げ る点
で あ る。 先 に引 用 した 「聖 諦 解明XVI
」第
65
偈 に も 「貪
」 「瞋 」 「愚 痴 」に対す
る修行
を述べ た後
に 同様
の譬喩
が示 さ れて い た。 冶 金 喩は、 『増支部経
典』「
金工 師経Szavvaititahara
」に も見 られ20)、 禅 定 中 に心が 興奮 する時は 「寂 」、 消 沈する時は 「挙 」、平等
の時は 「捨 」を修 すべ きこ と を表
した譬
喩で ある21) 。『
声 聞地』
「第二 瑜 伽 処 」レー ヴァ タ経 引用 箇 所に おい て も、 五停
心観
を説
い たの ちに
「
比 丘で瑜
伽者
なる瑜
伽 行 者bhik
§uryogl
yogacarah
」は冶金 喩で表 さ れる もの と同 様の 「止相
Samathanimitta
・挙 相 pragrahanimitta ・捨 相 upek §animitta
」 を行 ずるべ きと述べ る 22) 。 以 上の こ とか ら、 『サ ウ ン ダ ラナ ン ダ』に は 一 セ ッ トで は ない もの の 五停 心 観 すべ て の 言 及が あ り、 そ れらがyogacara
の修行
と密接
に関わ る こ とが推
測で きる。(
3
) 『
修 行道 地経』
『
修行
道地経 』では どう
だ ろう
か。従
来『
修行
道地経』で は 、 五停心観
に 相応する 五種 を挙げ る もの の 、「界 分 別観 」の代わ りに 「骨 鎖 観 」が 入 っ て い る と さ れて きた 23) 。 なる ほ ど 「分 別 相 品 八 」の所 説 を見て みる と、 「情 欲 熾 盛 」の行 者 に は 「不 淨 之 法 」、 「瞋 怒 而 熾多
」の 者 に は 「慈 心 」、 「多
愚 癡 」の 修 行 道 者 に は 「十二 因縁 分別」、 「多
想 念 」の 修 行 道 者 に は 「出入數 息 」、 「多
僑 慢 」の 修 行 道者
には「
骨鎖」
を為
すべ きことが説か れて い る24) 。 しか し 「行空品二 十一」では、 身体が あるか ら 「我」の想が成立するため、 身体の 「空」た る こ と を観 想 する よう
に述べ 、 次の よう
に明 らか に身体
の 六界
を観ず
る方法
を説
い てい る。「
設
し修行者
、吾我
の想有 り
て、 空に入 らず
んば 、則 ち自
ら剋責
せ よ。吾
れ衰
えて利 用無
く、 心 塁礙 し。 空 慧に順ぜず、 吾 我の想 を楽 しむと。 憂い て 自ら勉め心を誘っ て空に至 り。 或は其 志 を誠め之 を誘 っ て之に向わ しむ。 因 っ て本 無に至 り三界 皆 空、萬 物 無 常な り。 是 計 あ る者 、 その (
26
)『声聞 地』の 「ヨーガーチ ャーラ yogacara 」(阿 部) 心 を諌 進 して 放 逸 な らざ らしむ。 … …修 行 して 自ら念
ず
らく、當
に身
の 本は六事 合 成 なる を觀ず
べ し。 何 をか謂い て六 と爲す
。 一に は 曰 く地 、 二 には曰 く水、 三 に は 曰 く火、 四に は 曰 く風、 五 には 曰 く空、 六 には 曰 く神
。 … 是 に於い て頌 に曰 く。 地水火風空魂神 と合 して 六 と爲 す。 身に 六 あ り、外 も亦 た 六 な り。 佛 は聖 智 を以 っ て 演 ず」(大正 蔵205b14
−206a12
)(
4
)
『坐 禅三昧経』
また、
『
坐禅
三昧経』「
巻
上」
におい ては、『
サウ ン ダラ ナ ン ダ』
引用 箇 所 以外に も 「五停 心 観 」に対 応 する 「五種 法門」 を説 く。 「学 禅 之人」が初め て師に付 くとき、 「婬 欲」の 多い 者は 「不 浄 観 」 を、 「瞋 恚」
の多
い者
は「
慈 心 」 を、 「愚 痴 」の 多 い 者は 「因 縁」を、 「思覚」
の多
い 者は 「阿那 波 那三 昧」を、 「等分」
の 者や重罪
人 は「
念
仏三昧」
を行 う
こ とが指導
され る。 こ の よう
に 「界 分別」に代
わっ て「
念仏三昧」
が 入 る点か ら、本 経は菩 薩道 と して の禅観
をより
重視す
ると見なされて きた。しか し
「
慢 」に対す
る「
界 分別」
が無
く、代
わ りに「
念仏」
を入れ た と機
械
的に考
えるこ と はで き ない 。厂
等
分」
の者と は 、自
らの生や自
身へ の執 着 を もつ 者の こ とで あ り、 こ の者は、 それ を制 するため に仏の身
体の 三十二相 八 十種
好の各
々 を順に観 想 するべ きとされ る。 「界 分別 」の よう
に、 自己の身体
の無
常 性を観 ずる とい う方 法で はない が、 仏の 身体の 相 を観
想す
る という方法
に よっ て、 「我 慢 」 を制する こ と と理解で きる。以上 を
表
記す
る と次
の通 りである。『
声 聞地』と同 じ五停 心 観は、 小 谷 氏 の 指 摘 通 り、今
回検討
した文献
に も現れ ない た め 、 こ こに『
声聞
地』
の特
異性
があ
る と言っ て よい だろう
。 た だ し、『
声
聞地 』が 「yogacara 」
と五停 心観
を結
びつ ける こ と自
体 は、『
サ ウ ン ダラ ナ ン ダ』
が 「yogacara
」の 「不浄」 「
慈」「
縁性」「
阿 那波 那念 」を示 唆 し、『
修行 道 地 経』
が 「修 行 道 者 」の 五種
と 「六 界の相 」 を説 き、『
坐 禅三昧
経』
が「
学
禅之 人」
の 五種
を挙
げる (27
)智山学報 第六十 輯
点 を見れ ば、
す
でに十分 知 られた説
であっ たと考
え られ る。ち なみ に、
筆
者は かねて レーヴ
ァ タ経 引用 箇
所
に しか「
比丘 で瑜 伽者
な る瑜
伽行
者bhik
爭uryogi
yogacarah 」
の ター ム が現れ ない こ とか ら、 レー ヴァタ経と して形 成 され た ものが 『声 聞地』 とは別に存 在 する と考え た方が素直 であ り、 シル ク氏が指摘 した 『声 聞地
』
関係 者に よ る経 典作 成の 可 能性 には どちら か とい えば慎
重的
であ
っ た 25)。 しか し、 これ らの こ とを鑑
み る と、先
に独 自
の形
で レー ヴ ァ タ経
が存在
して い た とは考
えに く く(存 在 して い れ ば 『声 聞地』 成立 以前にもこ の五種に着目 す る経 論があっ てもよい)、 五停心観
の確
立 に携わる『
声 聞 地』
に非 常に近い 人々 が他のyogacara
の所 説を意 識 しその 影響 を受け な が らも、 自説の 正当性 を主張 する た め に レ ーヴ ァ タ経 引 用の箇所
を作 成した と見るほうが妥 当か と思 う。 さらなる検 討 を加 える必 要があろう
。 『声 聞 地』 sα 瑚 ゴ邵 砌 砌 ゴα r道 地経』 「分 別 相 品」 r坐禅三昧経』 貪ragacarita ragatomaka 情 欲 熾盛 婬 欲多人 ↑不浄 おubhalambana ↑a§ubha (14,60
) ↑不 淨(191c17) ↑不淨観 (271c7) 瞋dve
串acarita dve$atman 瞋 怒 瞋 恚 偏 多↑慈 愍 maitrI ↑maitrI (1462v > ↑慈 心(
191c20
) ↑慈心 (272b2
>癡 mohacarita mohatmika 多愚癡 愚 癡 偏 多 ↑縁 性 縁 起 pratitya悟 ↑pratityata(1生64v) ↑十二 因縁 分 別 (192a20) ↑縁 (272cll)
pratityas utpada
慢 manacarita dhatu 多僑 慢 「行空品」 等 分 行 及重罪人
↑界 分 別 (bhU −salil恐analadi ) ↑骨鎖 我 想(
205b14
) ↑念 仏 三昧dhatuprabheda (1生14v> (
192b1
) ↑六事合 成 (地 水 (276a7
)(PτthivL ab , teja vay “ 火 風 空魂神) aka忌a v晦 nadhatu ) (206aO7)
尋伺 vitarkacarita vitarka 想念 思覚偏多
↑入出 息念 ↑an議panasm τti ↑出 入息 ↑阿 那 般 那三昧
anapanasmτti (1564v > (192a26) (273a13)
『声 聞地』の 「ヨ ーガーチ ャーラyogacara 」(阿部)
2
, 邪行 者に対す る正 しき yogZcira 『声聞地』
「第二 瑜伽 処 」『
声 聞 地』
「第二 瑜 伽処」
の なかで、次
に「
yogacara 」
が現 れ る箇所
は、「
瑜伽壊 yogabhrathga 」
の節
であ
る。 こ こ で は ヨー ガ を失う
こ と として、種
姓に住してい ない こと、縁 を欠い てい ること、
得
た境
地 を失 う
こ と、邪行 を為 す こ と を列 挙 する。 〜 につ い ての解説はほ とん ど無 く、 こ こ で の説明 は 、
邪行に集 中 してい る。
邪 行 を為 す 者と は、 ヨー ガを
完
成させ てい ない の に、狡知
に長 けてい る た め 、詐 欺行 為の行為
を行っ て人々 を喜
ばせ る。 それ によっ て評 判や布 施 を得 て、 阿羅漢
の地位
も手
に入れるが、 正 しい ヨ ーガにつ い て質
問さ れ た ら自
ら の不 正が明 らか と なっ て しま うと恐れる。 そ れを隠す
た め に、 た だ独 り空閑 処で ヨ ー ガを行 う者の こ とを言う
。そ して、 彼 らの こ
う
した邪行
につ い て、 ヨ ーガが三蔵に基づ い てい ない と 批 判 し、 「静慮 者で 比 丘 た る瑜 伽行 者 」な らば 退けるべ きと述べ る。「そ して その
者
の その瑜
伽は、 経 典 と合 致 しない 。 律に は見
ら れず
、そ して
法性
に違
逆 する。 経 を持 ち、 律 を持 ち、論
母 を持
つ彼
ら比 丘 たちに
対
して、 その 者はその 瑜伽 処 を隠 して明らかに し ない 。 彼の在 家や出家の 弟 子た ち、 彼らには、 瑜 伽 を隠 密に して お くため にと説 明す る。 …
そ して
彼
は施物
・恭敬
を欲
するこ とに重
きを おい て 、 非 法におい て法の想
を生 じ、欲楽を覆い 隠 し、 非 法 を法
である と顕示
し、開示 する。 … 以上、 これ ら四つ の瑜伽
壊 yogabra
血Sa
は、静慮者
で比丘 た る瑜
伽 行者
によっ て
dhyayina
bhik
$unayogacarena
、 あま ね く知 られるべ きであ り、捨離
i
さ れ るべ き もの であ
る。」
(SBh
II
、 pp .148
−151
)『
声
聞地』が 、あえて 「静 慮者で比丘 た る」 と述べ る背
景には何がある の だろ うか。 十分 な検 証が必 要で あるが その 印象
を述べ る な ら ば 、当時イ ン ド では、 仏 教 者 と見 なさ れつ つ も比 丘で は な く、 三蔵か ら外れ たyogacara
が 一般 的
に存 在
して い た。『
声
聞地』の こ の 表 現には、 そう
したyogacara
と (29
)智山学報第六十輯 は別に 、 自らの正 当性 を示 すた めの もの で あっ た と考 え られ よ う。
こ
う
した 、邪行
、非法
に関わ るyogacara
につ い ての 明確
な記
述は 『サ ウ ン ダラナン ダ』
や『
修 行 道地経』
等の禅 経 典には見 当た ら ない 。3
. yogfic且ra の三 段 階(
1
)
『声 聞 地』 「第二瑜伽 処 」次に
挙
げるべ き箇 所は、 「第二瑜 伽 処 」の なかで 「yogacara
」の種 類 を説 く部分で ある。 そこ で は、次
の よう
に「
yogacara 」
に 三種
がある と述べ る。「こ こ で 瑜伽 行 者
yogacara
は何種
あるか。答
える。 三 種で ある。 すなわち、 初 業 者 (
adikarmika
初 行 者)、 巳 習行
(k
;taparicaya 熟 練 した者 )、 已度 作 意(atikratitamanaskara 作 意 を超越した者〉である。
」
そ して、 以下 にまとめ る よ うに、 こ の三種 に(
1
) 「第四瑜 伽 処」
で詳述 さ れ る修行
階位
(以下、 括 弧に示 す)に相 応 する七作 意 と、 (2
) 一 般 的な修 行 階位 とを配 当する。 (SBh
II
,pp
,168
−171
)(
1
)
初 業 者 :了相 作 意 (順 決択分 以前)
巳 習
行
:勝解
作 意 (順 決 択 分)、遠 離 作 意 (見 道)、
摂楽作意
、観察
作 意 (修 道)、加行 究竟作 意 (金剛 喩 三昧)
已 度作 意 :
加行究竟
果作意
(
2
)
初 業 者 :順 決 択分以前
已
習行
:順 決 択分已
度作
意 :正 性 離性先 学の
指摘
通 り、 こ の 三種
は 『倶 舎論』
『婆
沙 論』
に も説 か れて お り 26) 、 また『
修行道
地経』 『
坐禅
三昧経』
『達磨多羅
禅 経』
に も示 されてい る。 た だ し、 そ れ らが説示 する内 容は『
声 聞地』 と合致 しない 。確
認 して み よう
。(
2
)
『
修彳〒道地経 』 『修 行 道 地 経』 「分 別 相 品 第八」で は、「
行者」
の「
人身
不 浄法」
を説 く箇 (30
)『声聞 地』の 「ヨ ーガーチ ャーラ
yogacara
」(阿部 ) 所に おい て 「一」か ら 「三」 まで の 「三 品教 」が ある と し、 そ れ ぞ れ に不 浄 観と しての 観 想 対象
を示す
。「假 使 行 者、情 欲熾 盛な れば、
爲
に 人身
不 淨の法
を説 く。 三 品教 有 り。一 に 曰 く
身
骨は鎖の如 く支
挂 して相 連る。 二 に 曰 く適々 法教 を受 け便 ち頭 骨 を觀 ず。 三 に曰 く巳に是の 觀 を了 し、
復
た額
上 を察
し係
心 して頭
に 著 く。」(大正蔵191c17
−20
)(
3
)
『坐 禅三昧 経』
『坐
禅
三昧
経』「
巻上」に は五停 心観に相 応 する「
不 浄観」
か ら「
阿那
般那
三昧」
まで の各
々 に 「初 習行 」 「已 習行 」 「久 習行」
の「
三品」
があ
る と述べ る。 そのう
ち 「不 浄観」
では、『
修行道
地経』
と同様
に観想
の方法
を説 く。「
復
次に觀に亦三品有 り
。或
は初
習行
、或
は已 習行、 或は久習 行 な り。若
し初習 行な らば當に教へ て言ふ べ し。 皮を破 るの 想 を作 して不淨
を除却 し、 當 に赤骨 人 を 觀ずべ し。 意 を繁 して觀行 して外 念せ し めず。 外に
諸
縁
を念ず
れ ば念を攝 して 還ら しむ。 若 し已 習行 な らば當に教へ て言ふべ し。 想 もて皮 肉を却 け、 盡 く頭
骨
を觀
じて外
念せ しめず
、外
に諸縁
を念ず
れば念
を攝
して 還ら し む。若
し久 習 行 な らば當に教へ て言ふ べ し。身
中一寸、 心に て皮肉
を却
け意を五處に繋 く。 頂 ・額 ・眉 間 ・鼻 端 ・心 處 な り。」(大正蔵272a8
−14
)(
4
)
『達磨 多羅禅 経』
『達磨 多 羅禅 経』 「不浄 決定分第十二 」にも
「
不浄観
」を行 う 「修 行 者 」の厂
三種 想」
として「
始
習行」「
已 少 習 行 」 「久修 習 」 を挙 げる が、観
想 対象
で はな く修 行 者の段 階によっ て区別
してい る。 「彼の 諸の 修 行 者に 三種の 想を分 別 す。 或は始 習 行 有 り、 或は 已少 習行 あ り、 或 久 修 習有 り。 …初 業は始め て起こ り、 少習の 心は已 に
住
し、久學は能 く縁に趣 く、 是れ を三種の 修と説く。 初 業を始
種
と名 け、第二を
長養
と為
し、最後
に能 く捨離
を名
けて決定
と為
す。」
(大正ra
317b21
一 (31
)智山学報 第六十輯
28
)(
5
)
『倶 舎論』『
倶 舎 論』 厂賢 聖 品」で は 「yogacara
」の 「不 浄 観 」を説 明 す る 箇 所 で「
adikarmika
」 「
krtaparicaya
」「
atikrantamanaskara 」 を挙
げ、観
想す
る 対象
を説明する。「
adikarmika 」
で は、自
らの身体
の 一 部に集
中し、 そ れ を不 浄 と観 ずる。 続い て 自分の身体のすべ て を骨 鎖 と見る。 さ らに他 人の それ を観
じて、徐
々 に骨鎖
が広
がり海
の辺際
まで至るの を観ず
る。 次に、 そ れ を徐々 に収 歛 させ て い き、 自らの 一骨 鎖 を観 ず る に至 る。 「krtaparicaya
」で は、 自らの骨 鎖 をさらに収
歛さ せて い き、 自 らの 足の 骨 を除 く残 りを作 意 する。 さらに進ん で頭骨
の半分
を除
い て残 り
の半分
を作
意す
る。「
atikrantamanaskara」
で は、 頭 骨の 半分へ の 作 意 も取 り除 き 、 た だ心 を眉 間に保つ こ と と説かれてい る。 (AKBh
,338ff
.)(
6
) 『
婆
沙論
』『
婆 沙論 』 「雑 蘊 第一無義
能息
」で は 、「
観行者」 「
瑜伽
師」
の 不浄観
に「
三位」
が有
る と して「
初
習業」「
已熟修 」「
超作
意」
を挙
げ、 五種
の解釈
を詳
細 に説 明 してい る。 こ こ で は煩雑
さを避
けその各
々 の解
説を控
え、 要点
の み を 記 して お く27)。こ の
う
ち 、第一説 と第二 説で は観 想の イメー ジ を収 歛 してい く 「楽
略者 」、 イメー ジ を広 げてい く 「楽広 者 」、両 方を行 う 「楽 広 略者 」のそ れ ぞ れ を説 明す る。 第一説 と第二 説に は細 部に相 違はあるもの の 、 骨 子は『
倶 舎 論』 と 同様で、 骨 鎖観、 頭 骨 観、 眉 間の 集 中とい う不 浄 観の 方法 を説 く。 しか し第 三説か ら第
五説に お い て は観
想の プロ セス で は な く、結
果 と して の 心の 状 態 に区別 を設 ける。 ち な み に第四の 説 で は、 「初習業 」は 心 に散乱 が有 り明 了 で はない 、 「已 熟修 」は心に散乱は無い が明 了で はない 、 「超 作 意」は心に散乱
が無 く明了
であ
る とす
る。 (大正蔵205bff
.) (32
)『声 聞地』の 「ヨ ーガーチャーラ
yogacara
」(阿 部) 以 上 を簡 単にま とめ る と、次
の 通 りで ある。 『修 行 道 地 経』 『坐禅三昧経』 r達磨 多 羅禅 経』 r倶 舎 論』 一 ’ 身 体の骨鎖を観 ず る。 初 習 行:た だ身体の 骨を観 ずる。 始 習 行 ;行を始める こと。 adikarmika :自 らの骨 鎖 のイメージ を広 げた後、 収縮 させ自身に戻 す。 二 :頭 骨 を 観ずる。 已 習 行 :た だ 頭 骨 を 観 ずる。 巳 少 習 行 ;す で に始 め 長 く修 するこ と。krtaparicaya
:自 身の 頭 骨の半 分を作 意 する。 三 :額上に集 中 する。 久 習 行 :頂 ・額・眉 間 ・鼻 端 ・心処に集 中する。 久 修 習 :煩 悩の捨 離 に趣 くこ と。 atikrantamanaskara :た だ 心 を眉 間に保つ 。『修 行 道 地 経
』
『坐 禅三 昧 経』
『達 磨多
羅 禅 経』
『倶 舎 論』
『婆 沙 論 』に も『
声
聞地』 と同様
にyogacara
の 三種
が説か れてい る が、 その 内容
は相
違す
る。『
修
行道
地経
』『
坐禅
三昧経
』『
倶 舎論』 『
婆 沙論
』(第 一説 ・第二 説)で は不 浄観の 観想 対象
や プロ セ ス を示 し、 概 ね 身体の 骨鎖、 頭 骨、 眉 間 などの 頭 部 を観ず
るこ とが 説 か れてい る。 一方 『達磨多
羅 禅経 』 と 『婆沙 論 』(第三説〜 第五 説)で は 、観
想 対象
や プロ セ ス で は な く観
想 した結
果 と して の 心の 状 態 や 行 者 の段 階 と 見 なす。 『倶舎
論』 『婆沙 論』にお け る 「yogacara
」の三種 が『
声 聞地』で は な く、 む しろ『
修 行 道地経』『
坐禅三昧 経』の所 説に近い 点に は留 意 するべ きで あろ う。以 上か ら 『声 聞 地
』
に お ける 「yogacara
」の 区分そ れ 自体は、 禅 経 典の 分類 をす
で に知
っ てい た た めの もの と想定
で きるが、 その解 釈が相 違 する点 か らは既存
の分 類を取 り入れ な が ら も自
説 と して ア レン ジ を加 えた と見なす こ とがで きる。4
.油 鉢の 譬喩で表 されるyogacara
次の箇所 は 『声 聞 地』 「第三瑜伽 処 」に おい て、 「ヨ ーガの 知 者 yogl yoga −
jfiabj
が 「初 業 者adikarmika
」に対 して 行者の 心 得 を説 く場 面で現 れ る。 (33
)智 山学報 第六十輯 初 業者
Zdikarmika
へ の指導
これ を論
ず
る前に、 本項の主 旨とは異 なるが、 なぜ 「第三 瑜伽 処 」に なっ て 「初 業 者adikarmika
」の 入 門 が説か れ るの か につ い て言及 してお き たい 。 デ レ アヌ 氏が 、『声 聞地』
の 最 初期 の 形は 「第
三 瑜伽 処」
にあると論 究 して い る ように28) 、 「第 一瑜 伽処 」 「第
二瑜 伽処」
が修行
をめ ぐる様
々 な項目 を整
然 と列挙 するの に対 し、「
第
三瑜伽処」
で はヨ ー ガの知者
が初業者
を入 門 さ せ指導す
る場面
が より実
際 的に説か れてお り、『
声 聞地』
の 原初 的 なテ ーマ が込め られて い る と想 定で きる。その
部分
の最
初に 、 ヨーガ の知者
は初業者
の入 門に際して、 その者の性 質 を(
1
)質
問 と、(
2
)説
明 と、(
3
)
行為
と、(
4
)心の分類 と か ら知るこ と を示す。 そのう
ち、(
1
)質
問では、 最 初に誓 願につ い て、 声 聞 ・独 覚 ・大 乗の い
ず
れ に誓願
を為
したの か を質
問 し、種姓
につ い て と、鈍 ・中 ・利 根の い ず れかにつ い て と を質 問 する。 最後 に、
行い につ い て は、 厂貪 行者である か、 あるい は瞋行 者で ある か、 ない し尋 伺行 者で あ る か」と
質
問 をすべ きことが 説か れ る29) 。 そ して「第
三瑜伽処」
の 最後
まで、 その行い に対 処 する五停心 観を詳 説 するの で あ る。こ の構 成は 『修行 道 地経
』
『坐 禅三昧経』
と近 似 して い る。 『修 行 道 地経』
「集 散 品 第一」に は、 「修 行 者 」に 「凡 夫 」 「学 向道 」 「無所 学 」の三位がある こ とを説
き、本経
が「
初業者」
の た めの経
であ
る と述べ る 30)。 こ の後
に「
不 浄」
を は じめ とする五種
を説い てい く。『
坐禅三昧 経』 「巻 上」で も、師は初 めて禅を学ぶ者の た めに、 まず持 戒 してそれ を破 して い ない か どうか、 重 罪 悪 邪の もの で ない か どうか を質 問し、 次に 三毒い ずれの タ イ プか につ い て 「三毒
之 中何 者か偏 重 なるや。 婬 欲多
き耶。 瞋恚多
き耶。 愚 癡多
き耶」
と質
問す
る31> 。 この後
に、師
は各
々の タ イプの特徴
(相〉を示
し、 五種法
門 を詳
説す
る。特
に こ の『
坐禅
三昧経
』の構成
は『
声
聞 地』 と相応 してお り、 こ こに 『声 聞地』
の 最 古 層の 骨格が ある よう
に 思 えて な ら ない 。 (34
)『声 聞地』の 「ヨーガーチャ ーラyegacara 」 (阿部)
(
1
)
『声聞 地』
「第三瑜
伽 処」初業者
へ の指
導本
論
に戻
ろう
。 「第三 瑜伽 処」
に は 、初業者
に「
不 浄観 」の 「止Samatha
」
を解 説 する箇所
が あ る。 そ こ で は初 業 者に 「yegacara 」
の 心得
を示 して 、 世 尊が説い た とする「
油鉢
の譬喩
」 を明かす。世
尊説
の 内 容は こ の 通 りで ある。 ある者
が熟
達 者 に話 を持 ち か ける。 舞踏
・歌 ・楽器
に最 も秀でた 国土一の 美 女janapadakalya
垣 がい て、 そこ に大
衆
が集 まるなか、 油 鉢を もっ て行 け。 た だ し背後
には刺
客が お り、 油を零せ ば汝の 首 を斬る、 と。 しか し熟達者
は意識
のす
べ て を集
中 させて油鉢 を運び、美女
や舞
踏に気
を取
ら れず
、 一滴 も零 さず
、 刺客
に斬
られ るこ とはなかっ た。 そ して世 尊は比 丘 に、 この譬
喩の よう
に「
四念 処 」 を尊び、 専 心 し、 修 習 す る もの こそ が声聞
で ある と告 げる。『
声聞
地』
は この説法
に対
して次
の よう
な解 説をする32) 。「
こ の
う
ち、 国土 一の 美 女 という
の は、 愛 欲 等の 随 煩 悩に相 応 する諸
々 の法
の譬
えであ
る。舞
踏 ・歌 ・楽
器に最 も秀でて い る とい うの は、尋 伺 ・戯論 ・興 奮に相応 す る諸々 の 法の 譬 えである。
大 衆とい
う
の は 、色 相 などの 十相の譬 えで ある。
塾達一
譬
えである。油鉢とい うのは、 止に安 住 した 心の
譬
えで あり
、身
心の 軽安 となめ らか さを目的とする か らであ
る。剣 を抜い た刺客とい うの
は、 相 ・尋 伺 ・ 随
煩
悩に関 して前
に挙 げ
た過患の譬
えで ある 。心の す
べ て を向 けて
〔
油鉢 を〕
運び、 一滴 も
地面
に零さ ない という
の は 、 乱 不 乱の 了 知へ の 専 心 に よっ て得 ら れ た止の 道につ い て の
譬
えで ある。」33) (Ms
,109b3ff
.,Sh
,418ff
,D
.154bsff
.)こ の
譬喩
の テーマ は、 傍 線 部の ように、 「熟 達者 」で ある 「yogacara 」
が、貪
・瞋
・癡等
の 随煩 悩に惑 わされ るこ とな く、「
止」
に お い て心の軽安
に専 心 するこ とである。「油 鉢の譬 喩 」は、
『
相 応 部経 典』「
国土経JanaPadahalyduisutta
」(SN
.V
,32
.10
;『雑阿含経』(623
)174b
−c)に相応す る。 「国土経」
で は、 国土 一の 美 女jana
−padakalyapl
の 見 物に訪れ た大 衆の なか を、 人puruSa
が油 鉢telapatta
を も智 山学報 第六十輯 ち、
大
衆と美女
の 間を通
る。刺客
が剣
を もち、少
しで も油 を零せ ば首
を斬
ろう
と彼
の後
ろ に随 うが、 人は油鉢に専念す
る。 人 が油鉢
に専
念す
る よう
に、 比丘 は身念
kayagata
−sati を修
習す
べ きで ある、 と説か れてい る。 こ の比喩
は 「71
¢ゆ α’彪ヴ畆α加」
(Jataka
,1
,96
)に も引 用され てい る34)。しか し、
『
声 聞地』
が「
国土経」
と異
な る顕 著 な 点は、 油 鉢 を もつ 者 が「
yogacara 」
とされる点、 「身
念 」で はな く「
止」
が示 され る点
であ
る。 そ こ で 、『
修行道
地経亅
の引
用箇所
も見
て み よう
。(
2
) 『
修 行
道 地 経』
『修 行 道 地経 』 「勧 意 品第九」では 「油 鉢 の譬喩 」 を詳細 かつ ドラマ テ ィ ッ ク に
描
い てい る。要
点
を示す
とこの 通り
である。 昔、国王 がい て 、 国で 一番の 智 者 を従 者に しよう
とある者
の力
を試す
こ とに した。 そこ で 臣吏
に命
じて、 この智者
に油 鉢を持
たせ て、 城の北 門 か ら南
門へ向
かわせ、 そこか ら城
を出て二 十 里の場
所にある園へ向
か わ せ る。 もし彼が一滴で も油を零せ ば、刺客
に首 を斬
らせ る とい う。 その間に 智者は、 大 勢の 見 物 人、噂を聞きつ けた家 族
親
族、美
女の歌 舞、荒
れ 狂 っ た象
の 大 群、大 火、
暴 風 雷電 とい っ た妨 げに あ うが、 油 鉢に
専
心 して、終
に 一滴
も油 を零
すこ とな く、園に辿 りつ くの で ある。この段 落の最
後
に、 本 経は譬
喩を次
の よう
に解説す
る。「修 行 道 者、 心 を
御す
る こと是の 如 し。諸患
及婬
・怒
・癡來 り
て諸根
を乱 すこ とあ りと雖 も、 心護っ て隨 わず、 意 を摂 して 第 一 に 、 其の
内
の體
を観
じ、 外の 他の 身を察
す。 痛痒
・心 ・法 亦復た 是 くの 如 し。」(大正 蔵198a23
−25
)こ の一
節
か ら、 この譬
喩 が 「修 行 道者
(yogacara )」
の 心の制 御 を説 くもの であ り、 見物
人や家族
や美女等
は貪
・瞋
・癡の 三毒
であ り、油鉢
へ の 集 中は「
身
念処
」 をは じめ とす る 「四念
処」
と見
な さ れて い る こ とが分か る。 (36
)『声聞地』の 「ヨ ーガーチャーラ yogacara 」(阿部)
以 上の よ
う
に 『修 行 道 地 経』 と『
声
聞地』
は ともに、 「yogacara
」の心得
を示す点
で一致 す
る。 た だ 「国土経 」が 「身念 」 を説 き 35) 、 『修 行 道地経』 が 「四念
処」
に言 及す
る一方、『
声 聞 地』で は世尊 説
で「
四念 処 」と し た箇 所 を「
止
Samatha
」
に置 き換
えてい る。『
声 聞
地』
は世 尊 説の 引 用 と明 示 してい る が、「
yogacara
」を多
用 し ない『
声 聞地』が こ の文
脈で この 語 を使 用 する の は、 油鉢の譬喩
によっ て 「yoga
− cara 」の 教 訓を表す
こ とがすで に認 知 されてい た背
景がある よ うに思わ れる。5
.yogficara
の「
世
間道」
と「
出世 間道 」(
1
)
『声 聞地』
「第四瑜 伽 処」
こ こ では
「
yogacara 」の 用 例 を二 ヵ所 挙 げて み たい 。 「第
四瑜 伽処
」の 冒 頭 部に は 、すで に五停 心観 を行 じた初 業 者が 、 次に進むべ き道 と して「
世 間 道 」か 「出世 間道 」を選 択すべ きこ と が示 され る。「そ こ で、
〔
すで に説 か れた 五停心観
の〕
作意
を もっ た こ の初 業 者た る瑜伽行者 adikarmiko
yogacarah
は、「
私は世 間道
に趣
こう
か、 あるい は出 世 間 道か」と
〔
考 え〕
、 ま さ にこの 作 意 を多
く修
す。」
(Sh
, p .437
,De
−leanu
l
,327
)36)この 後に、 「世 問 道 」の修 行が 詳 説 さ れ る。 「世 間 道」 と は、 了 相 作 意 (煩悩を 浄化 する)、
勝 解 作意 (止観を行 う)、
遠 離作 意(善く多く修習 す る)、
摂楽
作 意傾 悩の麁重 を離れ、 遠離によっ て喜 楽する)、観 察作 意(未 断の 随 眠 を観察する)、
加行 究竟
作 意(欲界の 一 切の煩 悩 を離れ る)、加行究竟
果作 意 (根本 初静慮に入 る)を修
習 し、 そこか ら非想非非
想 処 まで の八 定 を経て、 五通 を修 習 し、無想
天 に生ず
る道の ことである。「世 間 道」の説 明が終わ る と、 次 に 「出世 間道」に入る 「
yogacara
」が 説 か れ る。 「出世 間 道 」の 最初 に は、了相 作 意で苦 諦 以下 の 四諦 十六行 相 を 修 する こ とを述べ て 、 以下の よ
う
に示す
。「そこ で、 四聖 諦の
略
説 と広
説 を、聴聞す
ることによっ て受
持 した瑜 (37
)智山学報第六十輯