• 検索結果がありません。

智山學報 第60 - 019阿部 貴子「『声聞地』の「ヨーガーチャーラyogacara」」

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "智山學報 第60 - 019阿部 貴子「『声聞地』の「ヨーガーチャーラyogacara」」"

Copied!
27
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

声 聞

yogacara

 

 貴  

  問題の所在

 

ヨー ガー チャ ー ラ (瑜伽 行 者 yogacara )と呼ば れ る者たちが どの よ

修行

者で あっ たのか とい

問題は 、瑜伽

唯識研

範畴

にと どまら

、 これ ま で も実に多 くの先 学たちに よっ て研 究 されて きた1)。 に もか か わ ら

、 な ぜ い ま改めて これ を問わ なけれ ば な ら ない のか。  一つ に は 、大 乗 仏教の起源を問い 直 すな かで 、 再 び 浮 上 してい る 問 題 だ か らで ある。 大乗 仏教 が仏 塔 信仰 を中心とする 出家 菩 薩教 団よ り

形成

され た と

彰博

士に よ る

仏塔教 団

源説

は、

1970

年代

よ り疑 問 視 される よ

に な り、

90

年 代 には

くの批 判が展 開さ れ た。 グ レ ゴ リー ・シ ョ ー は、 大 乗仏教の 起 源には仏 塔信 仰よ りも経 典 信仰 を重視 すべ きだ と主張 し、 ポ ール ・ハ は 、

乗 教 団は部 派 教 団 とは別に起 こっ たの で はな く 諸々 の部派 教 団のな か か ら形

さ れ た と

指摘

した。 国 内

学者

によ る指摘 も枚 挙にい と ま が ない 。 こ

した

動 向

の な かで、 小 谷

氏 は

yogacara

を、 小 乗 と大 乗 を

橋 する

た ち と見な し、 再

そ れ を

考察す

る こ とに よ り、 大 乗 仏教 興 隆 時の 状 況 を具体 的に想

で きるだけの

手掛

るこ がで き る と論 じ、特に禅 経 典に焦 点 を当てて考 察 を行っ た2)。 ジ ョ ナサ ン ・シ ル ク 氏 も

yogacara

を小

乗大乗

に限

さ れ ない ヨ ーガ実践 者 と捉 え、 諸々 の 初 期 大乗 経典や律 経の

証を行っ て い る3)。 そ れ 以

にも、禅

典成 立に関係 す る瑜 伽

た ち を

察 した小玉大 圓 氏 らの

果 や4) 、

論』

的研 究の一環 と して諸

学に よる

yogacara

に関

解 を網 羅 的に

察 し た フ ロ リ ン ・デ レ ア ヌ氏の成果もあ る5> 。 主にシ ル ク 氏の

考察

に依 りな が ら、 こ れ まで の研 究 成 果を強 引に も一文 ま と める な ら ば、

yogacara

は元来、 瑜 (21

(2)

智 山学報 第六十輯 伽

唯識 派 とは 関係 な く、 比 丘教 団に属 しつ つ も阿練 若 など を好み、 原始仏 教 経 典に見 られ るヨ ーガか ら、

仏 や空

とい っ た大 乗 的 な観 法 まで 、 広 く ヨーガ を

践する人 々 であっ た とい うこ とが で きる。 これ を基 盤 と して、今

経 論に お ける

yogacara

つ い て、 さ らなる考 究 が必 要だ と

える。

 

二 の

は 、

伽 師地論』の成立 に 関わ る人々 につ い て で ある。

伽 師

立 の 鍵 を握る ヨ ーガ実 践 者たちの 源 流 は、

サ ウ ン ダラナ ン ダ

S

αundarananda 』の作 者である 馬 鳴 (

ASvaghosa

)に遡る こ とが で き る。 こ の こ とはすで に松 濤 誠 廉博 士によ っ て指 摘 さ れて い た6)。

昨今

で は さ らに経 量 部研 究の方 面か らの 考 察 もなさ れ7) 、 山

能 宣氏 は、

瑜 伽 師地論』 に関わ る

yogacara

は、

一 切

部、 その な かの 一 派で あろ

う経

非常

い 関

修行

た ちである と論 じてい る8) 。

 

小玉大 圓氏 らの研 究によれば、 『サ ウン ダラナ ン ダ』 作 者の馬 鳴は、 『達 磨

羅禅 経 / 痩 伽 遮羅 浮迷(

Yogacdrabhabmi

)』 『坐 禅 三昧経 』 を説い た瑜 伽 師の 一 と さ れお り 、 『

修行

道地経(七巻)/ 偸 伽遮復 彌 經 (

Yogacdrabhabmi

)』の 作 者であ る僧伽 羅 叉 (衆護

SaIhgaraksa

)と も密 接に関係 してい る9) 。 こ れ まで も

諸先

学に よっ て

瑜 伽 師地論

修 行 道 地 経

『達 磨

多羅

経』

との 近 似 性 が 指摘 されてい 、 こ

した

昨今

の研 究に よ

経 典 と瑜 伽

行派

接 点

ら かにな りつ つ る。

 

た だ し 『声 聞地』 と 『サ ウ ン ダラナ ン ダ』 に は、 すで に構 成上の 共通点が

摘さ れてい る もの の10) 、

声 聞 地 』 と禅 経 典の 内 容に 関する十分な 比較 研 究は行わ れて お らず、 『声 聞地』の編 纂 者 ・実践 者グルー プ とそ れ ら瑜 伽師 との関係 も手が か りがつ め てい 。 ちな み に

菩薩

地』 と禅経 典 との共 通 点 もまた

認され てい ない 。

荒牧

氏は

行 道 地経 』に よっ て 『声 聞 地

最古層

成 され 、の ちに

華厳十

地 思想 を実 践 化して

菩 薩地

層が

立 した と推 察 してい る が、 さ ら な る考 究が待 た れ てい る11)。 確 か に

修 行 道地経 』の 章構 成に は声 聞 ・縁

菩 薩

階 が あ り、

瑜伽 師地論 』 の声 聞地 ・独 覚 地 ・菩 薩 地 と相 応 する こと か ら、 『声 聞地

の作 者に は 『

22

(3)

『声 聞地

j

の 「ヨーガーチャーラ yogacara 」 (阿 部) 薩 地

編 集の構 想があっ た と も

えら れるが、 推測の域を出ない 。

 そ

こ で本 稿で は、

瑜 伽 師 地

論』

立にか か わる編

者や ヨ ー ガ実 践

の あ りよ

を 可 能な 限 り明ら か にす る た め、 『

声 聞

に お い て 「

yoga

− cara 」の語がい か な る

脈で使用 さ れ てい る かを

考察

したい 。

 

『声 聞 地』で ヨー ガ実 践 者

す 場 合、一 般に 「yogin 」を用い てお り、

yogacara 」

れる箇 所は たっ た 六 ヶ所に過 ぎない 。 (ち なみ に

r

菩 薩地』に

は 「yogacara 」が一ヶ所 も 見 ら れ ない 。)

yogin

」 と 「

yogacara

」は、 玄 奘 訳で

は同じ

く 「

瑜伽

師」

され、 慈 恩

成唯 識 論述 記』で も同

な され る よ

に12)、 こ れ まで

明確

使

分 け は意 識 さ れ て こ か っ た。 し か し 「yogacara 」の箇 所の前 後 に注 目する と、 その

文脈

に は、 『サ ウ ン ダ ラ ナ ン ダ

や禅 経 典、 特に 『修 行 道地経 』

坐禅三昧経 』 との 共通点が見い 出せ る。

 

『修 行 道 地 経』(竺法護訳)は、 序 文に僧 伽 羅 叉(衆 “

ff

 

SaMgarak

a)作 と さ れ、

衆経

っ て、 禅

修 道の階梯 を示し た もの

と示 さ れ る 13) 昧 経

(羅什訳)は、 羅

の 一 北 方 禅 き な影 響 与 え あ り、

出三蔵 記

九 に

め ら れ る 『

中 出禅 経

の 僧 叡の 序

に は、

羅 羅

(童受

Kumaralata

>、 馬 鳴 (

A

§vaghQ §a)、

婆須蜜

(世 友

Vasumitra

)、 僧

伽 羅 叉 (衆護 

Sarhgarak

a

波 崛 (

Upagupta

)、 僧 伽 斯 那 (

SaMghasena

>とい っ

た瑜伽 師た ちの説 を、羅 什が 編

した もの で る と され る14) 。

 

では 、

声 聞地』にお け る 「

yogacara

」の 使 用 箇 所 を順 に参 照 してみ よう。

1

yogicfira

の 五停 心 観

1

『声 聞 地』 「第二 瑜伽 処

 

聞地』

瑜伽

処」

では、 所 縁の説 明をする部分で、 世 尊が レ ー

Revata15

以 下レーヴァ タ経)を引用 す る が、 そ こ で は

度々 丘 で瑜 伽

な る瑜 伽

bhik

§ur  

yogl

 

yogacarah 」

に言 及 し、 修 行

法 と してい わ ゆる五

げてい る 16)

 

とは、 す なわち、

貪 」「

瞋」「

癡」「

慢」

伺 」 を持つ

に とっ

(4)

智 山学報第六十輯 て の 「不 浄 」

慈愍

」 「

」 「

分 別

」「

入 出

息念」

の こ 。 五停 心観は、 『倶舎 論

で三

位の

一 に

け られ 他の ア ビダル マ

文献

に も同

位 置で 示さ れるの で あるが、

倶 舎 論 』

婆 沙 論

、 パ ー 文 献 、 そ の

声 聞地

以前

におい て も、 上の 五種が一セ ッ トと して現れる

所は見 当た ら ない 。

で に小 谷 信千 代 氏は、 五停 心観の 形 成につ い て、パ ー

文献

ア ビ 文 献参 照 して考 察 してい る が 、 三種や 四種や別の

との

み合わ せ な ど様々 な形態各 経

さ れ の の 、 この 五

は見 られ ない と

じてい る17) 。 ち なみ に、

ミ リン ダパ ンハ

には

瑜伽者

な る 瑜 伽

行 者 yogina

 

yogavacarena

に よ る

raga

」「

dosa

」 「

moha

」「

mana 」 「見

ditthi

」の 断滅が説か れてお り18)

、 前二 世 紀に北イ ン ドで

梵語

で記 され た と さ れる原典 成 立の 問 題、

に付 加 され た箇 所の 問題と

せ て考 究 してい か な くて は な らない 。

 

さて、 以下 に

挙 げ

文献

に は、 一 セ ッ トとして で は ない もの の 、

聞地』の 五停心観に相 応 する修 行 法が そ れ ぞ れ

な る

箇所

で説かれて い るの で、 その

分を

討 してみ よう。

2

) 『

サ ウンダラ ナ ンダ』

 

サ ウ ン ダラナ ン ダ』 「聖諦 解 明

XVI

」で は、 第

49

偈よ り

69

偈 まで、 ヨー ガ の 「時

kala

」と 「方 便 abhyupaya 」 を説 く。 周

の よ うに、 この 箇 所はすべ て

坐禅三昧 経

用 さ れて い る。

 

こ の うち第

60

偈 以

は、

行者

の 心 が 「

」の 場 合に は 「不 浄

を、

瞋」

場 合 には

を、

痴」

の場 合に は 「縁 性 」の

習 をする こ と を示 し て い

   

「(

60

心が

ぶ る ときは ragQddhate 、 堅固 さを

て、 反 して不 浄

  

aSubha の相 を修 習 す るべ で あ る。 な ぜ な ら、

性の もの は ragat 〔)−

  

maka 、 この よ

を得るか ら。 …

62

しか し、

が瞋たる過 失に乱

  

れ ると

は vyapadado akSubhite 、 こ の類に随っ て、 

ma

 maitn が 用 い ら

  

れるべ

。 なぜ なら、

の もの に とっ て

dve

atmano

、 慈 は

(5)

      「声聞 地』の 「ヨーガーチ ャーラ yogacara 」 (阿部)

  静 寂

の た め とな る か ら。 …

64

)意

愚痴

性 質

の と きは mohatmi −

  

kayam

、 反 して縁

性 pratityata

に住 する こ とが用い られ るべ

る。

  

な ぜ な ら、 意が迷

である ときma

he

 manasi 、 これ は寂 静へ の 道で あ

  

る か ら。 …

65

)た とえば実に、世 間におい て金工 が

口 にある金 を正 し

  

に吹 き、 正 しい 時に水で灌 ぎ、 順 次に正 しい 時に放 置 する よ

に。」

  

(松濤

p

122

)  こ の ように 「不 浄 」 「慈」 「縁 性 」を一セ ッ トと して挙 げるが、 それ 以外の 「界

「入 出

につ い て も異 なる箇 所で説 明さ れ てい る。 同

の 第

47

偈 で は、 六

の 相 を

るこ とを、 次の よ

く。

   

47

)故に 、友よ、最 善 を な して、速や かに諸 漏の滅尽の た めに修 行

  

しな さい 。 諸

の 、

に して

常 また

無我

なるこ とを、

観察

しつ つ 。

   (

48

なぜ なら、 地

火 など

bhUsalilanaladi

の 六界 を

総 合 的 〔

相〕

か ら、

  

また個 別 的相か ら証 し、 そ れ ら

六界

さ ない もの は、 それ ら

   〔

界〕

によっ て

究極

解脱

を証

る。

(松濤p ,

120

)  こ こ には 「慢 」に対 する修 行 法 と は明記さ れてお らず、厳 密に は 五停 心 観 に位 置 付 ける こ と はで きない が、 『声 聞 地』 と同様に 「界」 を 自己の 身体と 見 なす な らば、 自己の 身体の 苦 ・無 常 ・無 我 を観じて

」 を断

る方

と理

すること

であろ

L9) 。

 

また 「尋 伺

につ い て は、 「尋 伺 捨 断

XV

」の 第

57

偈 か ら第

64

偈に 「入 出息 念 」が説か れ てお り、 続 く第

65

偈か ら第

69

偈には、 こ れを

yogacara

の修 行 法 と して まとめ てい る。

   

64

そ れ ゆえ、 そ れ らの尋伺 vitarka を 総 じて断ず る た めに 、 入 出

  

anapanasm

i

を、

よ 、対

とすべ

68

た と こ    こ で、 順 次に、 水に よっ て洗わ れ、 塵 が 除 かれ た金 を、 金工師が 火で焼

  

き、 また激 しく溶

す る よ

に、 こ こ で 、 瑜 伽

行者

yogacara

は、 諸 煩

  

悩よ り浄めて、 巧み に過

が除か れ た

を、 静め、

中させる。

(松 濤    P , 

114

 

こ こで注 目 し たい は 、第

68

偈 ・第

69

偈に

yogac

弖ra の あ りよ うとして (

25

(6)

智 山学 報第六十 輯

金 喩 を挙 げ る

で あ る。 先 に引 用 した 「聖 諦 解明

XVI

」第

65

偈 に も 「

」 「瞋 」 「愚 痴 」に対

る修

を述べ

に 同

譬喩

さ れ い た。 冶 金 喩は、 『増支

部経

典』

金工 師経

Szavvaititahara

」に も見 られ20)、 禅 定 中 に心が 興奮 する時は 「寂 」、 消 沈する時は 「挙 」、平

の時は 「捨 」を修 すべ きこ と を

した

喩で ある21) 。

 

声 聞地

「第二 瑜 伽 処 」レー ヴァ タ経 引用 箇 所に おい

い たの ちに

比 丘で

なる

伽 行 者

bhik

§ur  

yogl

 

yogacarah

」は冶金 喩

で表 さ れる もの と同 様の 止相

Samathanimitta

・挙 相 pragrahanimitta ・捨 相 upek §

animitta

」 を行 ずるべ と述べ る 22) 。  以 上の こ とか ら、 『サ ウ ン ダ ラナ ン ダ』に は 一 で は の の 心 観 すべ て の 言 及が あ り、 そ れらが

yogacara

修行

と密

に関わ る こ とが

測で きる。

3

) 『

修 行道 地経

 

修行

道地経 』では ど

だ ろ

か。

修行

道地経』で は 、 五停心

に 相応する 五種 を挙げ る もの の 、「界 分 別観 」の代わ りに 「骨 鎖 観 」が 入 っ て い る と さ れて きた 23) 。   なる ほ ど 「分 別 相 品 八 」の所 説 を見て みる と、 「情 欲 熾 盛 」の行 者 に は 「不 淨 之 法 」、 「瞋 怒 而 熾

」の 者 に は 「慈 心 」、 「

愚 癡 」の 修 行 道 者 に は 「十二 因縁 分別」、 「

想 念 」の 修 行 道 者 に は 「出入數 息 」、 「

僑 慢 」の 修 行 道

には

骨鎖

すべ ことが説か れて い る24) 。  しか し 「行空品二 では、 身体が あるか ら 「我」の想が成立するため、 身体の 「空」た る こ と を観 想 する よ

に述べ 、 次の よ

に明 らか に

身体

の 六

観ず

方法

い てい

   「

修行者

吾我

想有 り

て、 空に入 ら

んば 、則 ち

剋責

せ よ。

  吾

えて利 用

く、 心 塁礙 し。 空 慧に順ぜず、 吾 我の想 を楽 しむと。    憂い て 自ら勉め心を誘っ て空に至 り。 或は其 志 を誠め之 を誘 っ て之に向

  

わ しむ。 因 っ て本 無に至 り三界 皆 空、萬 物 無 常な り。 是 計 あ る者 、 その (

26

(7)

『声聞 地の 「ヨーガーチ ャーラ yogacara 」(阿 部 心 を諌 進 して 放 逸 な らざ らしむ。 … …修 行 して 自ら念

らく、

の 本は六事 合 成 なる を觀

。 何 をか謂い て六 と

爲す

。 一に は 曰 く地 、 二 には曰 く水、 三 に は 曰 く火、 四に は 曰 く風、 五 には 曰 く空、 六 には 曰 く

。 … 是 に於い て頌 に曰 く。 地水火風空魂神 と合 して 六 と爲 す。 身に 六 あ り、外 も亦 た 六 な り。 佛 は聖 智 を以 っ て 演 ず」(大正 蔵

205b14

206a12

4

『坐 禅三

昧経』

 

また、

昧経』「

におい ては、

サウ ン ダラ ナ ン ダ

引用 箇 所 以外に も 「五停 心 観 」に対 応 する 「五種 法門」 を説 く。 「学 禅 之人」が初め て師に付 くとき、 「婬 欲」の 多い 者は 「不 浄 観 」 を、 「瞋 恚

慈 心 」 を、 「愚 痴 」の 多 い 者は 「因 縁」を、 「思

覚」

い 者は 「阿那 波 那三 昧」を、 「等

分」

の 者や重

人 は

仏三

昧」

行 う

こ とが

指導

され る。 こ の よ

「界 分別」に

わっ て

念仏三昧

が 入 る点か ら、本 経は菩 薩道 と して の

禅観

をよ

視す

ると見なされて きた。

 

しか し

慢 」に対

界 分別

く、

わ りに

念仏

を入れ た と

的に

えるこ と はで き ない 。

の者と は 、

らの生や

身へ の執 着 を もつ の こ とで あ り、 こ の者は、 それ を制 するため に仏の

体の 三十二相 八 十

好の

々 を順に観 想 するべ とされ る。 「界 分別 」の よ

に、 自己の

身体

常 性を観 ずる とい う方 法で はない の 身体の 相 を

る とい

う方法

に よっ て、 「我 慢 」 を制する こ と と理解で きる。

 

以上 を

る と

の通 りである。

声 聞地』と同 じ五停 心 観は、 小 谷 氏 の 指 摘 通 り

検討

した

文献

に も現れ ない た め 、 こ こに

声聞

る と言っ て よい だろ

。 た だ し、

聞地 』が 「

yogacara 」

と五停 心

びつ こ と

体 は、

サ ウ ン ダラ ナ ン ダ

が 「

yogacara

」の 「不

浄」 「

」「

性」「

阿 那波 那念 」を示 唆 し、

修行 道 地 経

が 「修 行 道 者 」の 五

と 「六 界の相 」 を説 き、

坐 禅三

禅之 人

の 五

げる (

27

(8)

智山学報 第六十 輯

点 を見れ ば、

でに十分 知 られた

であっ たと

え られ る。

 

ち なみ に、

者は かねて レ

ァ タ経 引用 箇

に しか

比丘 で瑜 伽

な る

bhik

爭ur 

yogi

 

yogacarah 」

の ター ム が現れ ない こ とか ら、 レー ヴァ

タ経と して形 成 され た ものが 『声 聞地』 とは別に存 在 する と考え た方が素直 であ り、 シル ク氏が指摘 した 『声 聞地

関係 者に よ る経 典作 成の 可 能性 には どちら か とい

っ た 25)。 しか し、 これ らの こ とを

み る と、

独 自

で レー ヴ ァ タ

存在

して い た とは

えに く く(存 在 して い れ ば 『声 聞地』 成立 以前にもこ の五種に着目 す る経 論があっ てもよい)

停心観

立 に携わる

声 聞 地

に非 常に近い 々 が他の

yogacara

の所 説を意 識 しその 影響 を受け な が らも、 自説の 正当性 を主張 する た め に レ ー 経 引 用

を作 成した と見るほうが妥 当か と思 う。 さらなる検 討 を加 える必 要があろ

。 『声 聞 地 sα 瑚 ゴ邵 砌 砌 ゴα r道 地経』 「分 別 相 品 r坐禅三昧経 貪ragacarita ragatomaka 情 欲 熾盛 婬 欲多人 ↑不浄 おubhalambana ↑a§ubha 14,

60

) ↑不 淨(191c17) ↑不淨観 (271c7) 瞋

dve

串acarita dve$atman 瞋 怒 瞋 恚 偏 多

↑慈 愍 maitrI ↑maitrI 1462v > ↑慈 心(

191c20

) ↑慈心 (

272b2

癡 mohacarita mohatmika 多愚癡 愚 癡 偏 多 ↑縁 性 縁 起 pratitya悟 ↑pratityata(1生64v) ↑十二 因縁 分 別 (192a20) ↑縁 (272cll)

pratityas  utpada

慢 manacarita dhatu 多僑 慢 「 等 分 行 及

↑界 分 別 (bhU −salil恐analadi ) ↑骨鎖 我 想(

205b14

) ↑念 仏 三昧

dhatuprabheda (1生14v> (

192b1

) ↑六事合 成 (地 水 (

276a7

(PτthivL ab  teja vay 火 風 空魂神) aka忌a v nadhatu 206aO7

尋伺 vitarkacarita vitarka 想念 思覚偏多

↑入出 息念 ↑an議panasm τti 出 入 阿 那 般 那三昧

anapanasmτti (1564v > (192a26) (273a13)

(9)

『声 聞地』の 「ヨ ーガーチ ャーラyogacara 」(阿部)

2

, 邪行 者に対す る正 しき yogZcira 『声聞地

「第二 瑜伽 処 」

 

声 聞 地

「第二 瑜 伽

処」

かで、

yogacara 」

が現 れ る

箇所

は、

瑜伽壊 yogabhrathga 」

る。 こ こ で は ヨー ガ を失

こ と として、

 

姓に住してい い こと、

 

縁 を欠い てい ること、

  得

地 を

失 う

こ と、

 

邪行 を為 す こ と を列 挙 する。   〜  につ い ての解説はほ とん ど無 く、 こ こ で の明 は 、

 

邪行に集 中 してい る。

 

邪 行 を為 す 者と は、 ヨー ガを

成させ てい ない の に、

狡知

に長 けてい る た め 、詐 欺行 為の行

を行っ て人々 を

ばせ る。 それ によっ て評 判や布 施 を得 て、 阿

羅漢

の地

に入れるが、 正 しい ヨ ーガにつ い て

問さ れ た ら

ら の不 正が明 らか と なっ て しま うと恐れる。 そ れを隠

た め に、 た だ独 り空閑 処で ヨ ー ガを行 う者の こ とを言

 

そ して、 彼 らの こ

した邪

につ い て、 ヨ ーガが 批 判 し、 「静慮 者で 比 丘 た る瑜 伽行 者 」な らば 退けるべ きと述べ る。

   

「そ して その

の その

は、 経 典 と合 致 しない 。 律に は

ら れ

  

そ して

法性

逆 する。 経 を持 ち、 律 を持 ち、

母 を

ら比 丘 たち

  

して、 その 者はその 瑜伽 処 を隠 して明らかに し ない 。 彼の在 家や出

  

家の 弟 子た ち、 彼らには、 瑜 伽 を隠 密に して お くため にと説 明す る。 …

  

そ して

は施

恭敬

するこ とに

きを おい て 、 非 法におい て法の

  

を生 じ、欲楽を覆い 隠 し 非 法 を

である と顕

し、開示 する。 … 以

  

上、 これ ら四つ の瑜伽

壊 yogabra

Sa

は、

静慮者

で比丘 た る

伽 行

  

よっ て

dhyayina

 

bhik

una  

yogacarena

あま ね く知 らであ り、

  

捨離

i

さ れ るべ き もの で

SBh

 

II

、 pp .

148

151

 

聞地』が 、あえて 「静 慮者で比丘 た る」 と述べ

る の だろ うか。 十分 な検 証が必 要で あるが その 印

を述べ る な ら ば 、当時イ ン ド では、 仏 教 者 と見 なさ れつ つ も比 丘で は な く、 三蔵か ら外れ た

yogacara

が 一

般 的

存 在

して い た。

聞地』の こ の 表 現には、 そ

した

yogacara

と (

29

(10)

智山学報第六十輯 は別に 、 自らの正 当性 を示 すた めの の で あっ た と考 え られ よ う。

 

した 、邪

非法

に関わ る

yogacara

につ い ての 明

述は 『サ ウ ン ダラナン ダ

修 行 道地経

等の禅 経 典には見 当た ら ない 。

3

. yogfic且ra の三 段 階

1

『声 聞 地』 「第二瑜伽 処 」

 

次に

げるべ き箇 所は、 「第二瑜 伽 処 」の なかで 「

yogacara

」の種 類 を説 く部分で ある。 そこ で は、

の よ

yogacara 」

に 三

がある と述べ る。

   

「こ こ で 瑜伽 行 者

yogacara

何種

あるか。

える。 三 種で ある。 す

  

なわち、 初 業 者 (

adikarmika

初 行 者)、 巳 習

k

;taparicaya 熟 練 した者 )、 已

  

度 作 意(atikratitamanaskara 作 意 を超越した者〉である。

 

そ して、 以下 にまとめ る よ うに、 こ の三種 に(

1

) 「第四瑜 伽 処

で詳述 さ れ る

修行

(以下、 括 弧に示 す)に相 応 する七作 意 と、 (

2

) 一 般 的な修 行 階位 とを配 当する。 (

SBh

 

II

, 

pp

168

171

  

1

初 業 者 :

 

了相 作 意 (順 決択分 以前)

    

巳 習

  勝解

作 意 (順 決 択 分

 

遠 離 作 意 (見 道)

  摂楽作意

          観察

作 意 (修 道)、

 

加行 究竟作 意 (金剛 喩 三昧)

    

已 度作 意 :

  加行究竟

作意

  

2

初 業 者 :順 決 択分

    

習行

:順 決 択分

    

度作

意 :正 性 離性

 

先 学の

指摘

通 り、 こ の 三

は 『

倶 舎論』

沙 論

に も説 か れて お り 26) 、 また

修行道

経』 『

昧経』

『達

磨多羅

禅 経

に も示 されてい 。 た だ し、 そ れ らが説示 する内 容は

声 聞地』 と合致 しない 。

認 して み よ

2

 

修彳〒道地経 』 『修 行 道 地 経』 「分 別 相 品 第八」で は、

行者」

不 浄

法」

を説 く箇 (

30

(11)

               

『声聞 地』の 「ヨ ーガーチ ャーラ

yogacara

」(阿部 ) 所に おい て 「一」か ら 「三」 まで の 「三 品教 」が ある と し、 そ れ ぞ れ に不 浄 観と しての 観 想 対

を示

   

「假 使 行 者、情 欲熾 盛な れば、

に 人

不 淨の

を説 く。 三 品教 有 り。

  

一 に 曰 く

骨は鎖の如 く

挂 して相 連る。 二 に 曰 く適々 法教 を受 け便 ち

  

頭 骨 を觀 ず。 三 に曰 く巳に是の 觀 を了 し、

上 を

心 して

に    著 く。」(大正蔵

191c17

20

  (

3

『坐 禅三昧 経

 

『坐

経』

巻上」に は五停 心観に相 応 する

不 浄

観」

か ら

三昧

まで の

々 に 「初 習行 」 「已 習行 」 「久 習

行」

三品

る と述べ る。 その

ち 「不 浄

観」

では、

修行道

経』

と同

観想

方法

を説 く。

    

次に觀に亦三

品有 り

は已 習行、 或は久習 行 な り。

  

し初習 行な らば當に教へ 想 を作

を除

  

却 し、 當 に赤骨 人 を 觀ずべ し。 意 を繁 して觀行 して外 念せ し めず。 外に

  

を念

れ ば念を攝 して 還ら しむ。 若 し已 習行 な らば當に教へ て言ふ

  

べ し。 想 もて皮 肉を却 け、 盡 く頭

じて

念せ しめ

諸縁

  念ず

れば

して 還ら し む。

し久 習 行 な らば當に教へ て言ふ べ し。

  身

中一寸、 心に て

皮肉

け意を五處に繋 く。 頂 ・額 ・眉 間 ・鼻 端 ・心    處 な り。」(大正蔵

272a8

14

  (

4

『達磨 多羅禅 経

 

『達磨 多 羅禅 経』 「不浄 決定分第十二 」にも

不浄

」を行 う 「修 行 者 」の

種 想」

として

行」「

已 少 習 行 」 「久修 習 」 を挙 げる が、

想 対

で はな く修 行 者の段 階によっ て区

してい る。      「彼の 諸の 修 行 者に 三種の を分 別 す。 或は始 習 行 有 り、 或は 已少 習

  

行 あ り、 或 久 修 習有 り。 …初 業は始め て起こ り、 少習の 心は已 に

し、

  

久學は能 く縁に趣 く、 是れ を三種の 修と説く。 初 業を始

と名 け、第二

  

長養

し、

最後

能 く捨離

けて

決定

す。

(大正

ra

 

317b21

一 (

31

(12)

智山学報 第六十輯

28

  (

5

『倶 舎論』

 

倶 舎 論』 厂賢 聖 品」で は 「

yogacara

」の 「不 浄 観 」を説 明 す る 箇 所 で

adikarmika

」 「

krtaparicaya

」「

atikrantamanaskara 」 を

げ、

る 対

を説明する。

 「

adikarmika 」

で は、

らの

身体

の 一 部に

中し、 そ れ を不 浄 と観 ずる。 続い て 自分の身体のすべ て を骨 鎖 と見る。 さ らに他 人の それ を

じて、

々 に

骨鎖

り海

の辺

まで至るの を

観ず

る。 次に、 そ れ を徐々 に収 歛 させ て い らの 一骨 鎖 を観 ず る に至 る。 「

krtaparicaya

」で は、 自らの骨 鎖 をさらに

歛さ せて い 、 自 らの 足の 骨 を除 く残 りを作 意 する。 さらに進ん で頭

半分

い て

残 り

半分

る。

atikrantamanaskara

で は、 頭 骨の 半分へ 作 意 も取 り除 き 、 た だ心 を眉 間に保つ こ と と説かれてい る。 (

AKBh

338ff

.)

  (

6

) 『

  『

婆 沙論 』 「雑 蘊 第一無

」で は 、

観行者」 「

瑜伽

浄観

位」

る と して

業」「

熟修 」「

げ、 五

解釈

細 に説 明 してい る。 こ こ で は煩

さを

けその

々 の

説を

え、 要

の み を 記 して お く27)

 

こ の

ち 、第一説 と第二 で は観 想の イメー ジ を収 歛 してい く 「

略者 」 イメー ジ を広 げてい く 「楽広 者 」、両 方を行 う 「楽 広 略者 」のそ れ ぞ れ を説 明す る。 第一説 と第二 説に は細 部に相 違はあるもの の 、 骨 子は

倶 舎 論』 と 同様で、 骨 鎖観、 頭 骨 観、 眉 間の 集 中とい う不 浄 観の 方法 を説 く。 しか し第 三説か ら

五説に お い て は

想の プロ セス で は な く、

果 と して の 心の 状 態 に区別 を設 ける。 ち な み に第四の 説 で は、 「初習業 」は 心 に散乱 が有 り明 了 で はない 、 「已 熟修 」は心に散乱は無い が明 了で はない 、 「超 作 意」は心に散

無 く明了

る と

る。 (大正蔵

205bff

.) (

32

(13)

      

『声 聞地』の 「ヨ ーャーラ

yogacara

」(阿 部) 以 上 を簡 単にま とめ る と、

の 通 りで ある。 『修 行 道 地 経三昧経』 r達磨 多 羅禅 経』 r倶 舎 論』 一 ’ 身 体の骨鎖を観 ず る。 初 習 行:た だ身体の 骨を観 ずる。 始 習 行 ;を始める こと。 adikarmika :自 らの骨 鎖 のイメージ を広 げた後、 収縮 させ自身に戻 す。 二 :頭 骨 を 観ずる。 已 習 行 :た だ 頭 骨 を 観 ずる。 巳 少 習 行 ;す で に始 め 長 く修 するこ と。

krtaparicaya

:自 身の 頭 骨の半 分を作 意 する。 三 :上に集 中 する。 久 習 行 :頂 ・額・眉 間 ・鼻 端 ・心処に集 中する。 久 修 習 :煩 悩の捨 離 に趣 くこ と。 atikrantamanaskara : だ 心 を眉 間に保つ 。

 

『修 行 道 地 経

『坐 禅三 昧 経

『達 磨

羅 禅 経

『倶 舎 論

『婆 沙 論 』に も

聞地』 と同

yogacara

の 三

が説か れてい る が、 その 内

る。

昧経

倶 舎論』 『

婆 沙論

』(第 一 説) 浄観の 観想 対

や プロ セ ス を示 し、 概 ね 身体の 骨鎖、 頭 骨、 眉 間 などの 頭 部 を観

るこ とが 説 か れてい る。 一方 『達磨

羅 禅経 』 と 『婆沙 論 』(第三説〜 第五 説)で は 、

想 対

や プロ ス で は な く

想 した

果 と して の 状 態 や 行 者 の段 階 と 見 なす。 『倶

論』 『婆沙 論』にお け る 「

yogacara

」の三種 が

声 聞地』で は な く、 む しろ

修 行 道地経』

坐禅三昧 経』の所 説に近い 点に は留 意 するべ で あろ う。

 

以 上か ら 『声 聞 地

に お ける 「

yogacara

」の 区分そ れ 自体は、 禅 経 典の 分類 を

で に

っ てい た た めの もの と想

で きるが、 その解 釈が相 違 する点 か らは既

の分 類を取 り入れ な が ら も

説 と して ア レン ジ を加 えた と見なす こ とがで きる。

4

.油 鉢の 譬喩で表 される

yogacara

 

次の箇所 は 『声 聞 地』 「第三瑜伽 処 」に おい 、 「ヨ ー 知 者 yogl yoga −

jfiabj

が 「初 業 者

adikarmika

」に対 して 行者の 心 得 を説 く場 面で現 れ る。 (

33

(14)

智 山学報 第六十輯 初 業者

Zdikarmika

指導

 

これ を論

る前に、 本項の主 旨とは異 なるが、 なぜ 「第三 瑜伽 処 」に なっ て 「初 業 者

adikarmika

」の 入 門 が説か れ るの か につ い て言及 してお き たい 。 デ レ アヌ 氏が 、『声 聞地

の 最 初期 の 形は 「

瑜伽 処

にあると論 究 して い る ように28) 、 「第 一瑜 伽処 」 「

瑜 伽

処」

修行

目 を

然 と列挙 するの に対 し、

三瑜伽

処」

で はヨ ー ガの

知者

初業者

を入 門 さ せ

指導す

場面

が より

際 的に説か れてお り、

声 聞地

の 原初 的 なテ ー が込め られて い る と想 定で きる。

 

その

部分

初に 、 ヨーガ の

知者

初業者

の入 門に際して、 その者の性 質 を

1

)質

問 と、

2

)説

明 と、

3

行為

と、

4

)心の分類 と か ら知るこ と を示す。 その

ち、

1

)質

問では、 最 初に

 

誓 願につ い て、 声 聞 ・独 覚大 乗

れ に

誓願

したの か を

問 し、

  種姓

につ い て と、

 

鈍 ・利 根 れかにつ い て と を質 問 する。 最後 に、

 

行い につ い て は、 厂貪 行者である か、 あるい は瞋行 者で ある か、 ない し尋 伺行 者で あ る か」と

問 をすべ きことが 説か れ る29) 。 そ して

「第

三瑜伽処

の 最

まで、 その行い に対 処 する五停心 観を詳 説 するの で あ る。

 

こ の構 成は 『修行 道 地経

『坐 禅三昧経

と近 似 して い る。 『修 行 道 地経

「集 散 品 第一」に は、 「修 行 者 」に 「凡 夫 」 「学 向道 」 「無所 学 」の三位がある こ とを

き、

本経

業者」

の た めの

る と述べ る 30)。 こ の

不 浄

を は じめ とする五

を説い てい

坐禅三昧 経』 「巻 上」で も、師は初 めて禅を学ぶ者の た めに、 まず持 戒 してそれ を破 して い ない か どうか、 重 罪 悪 邪の もの で ない か どうか を質 問し、 次に 三毒い ずれの タ イ プか につ い て 「三

之 中何 者か偏 重 なるや。 婬 欲

き耶。 瞋恚

き耶。 愚 癡

耶」

問す

る31> 。 この

に、

々の タ イプの

特徴

(相〉を

し、 五

種法

門 を

る。

に こ の

昧経

』の

構成

聞 地』 と相応 してお り、 こ こに 『声 聞地

最 古 層骨格が ある よ

に 思 えて な ら ない 。 (

34

(15)

『声 聞地の 「ヨーガーチャ ーラyegacara 」 (阿部)

1

『声聞 地

「第三

伽 処

」初業者

 

。 「第三 瑜伽 処

に は 、

初業者

不 浄観 」の 「止

Samatha

を解 説 する箇

が あ る。 そ こ で は初 業 者に 「

yegacara 」

の 心

を示 して 、 世 尊が説い た とする

譬喩

」 を明かす。

 

尊説

の 内 容は こ の 通 りで ある。 ある

達 者 に話 を持 ち か ける。 舞

・歌 ・

楽器

に最 も秀でた 国土一の 美 女

janapadakalya

垣 がい て、 そこ に

が集 まるなか、 油 鉢を もっ て行 け。 た だ し

背後

には

客が お り、 油を零せ ば汝の 首 を斬る、 と。 しか し

熟達者

意識

べ て を

中 させて油鉢 を運び、

美女

踏に

ら れ

、 一滴 も零 さ

、 刺

られ るこ とはなかっ た。 そ して世 尊は比 丘 に、 この

喩の よ

四念 処 」 を尊び、 専 心 し、 修 習 す る もの こそ が

声聞

で ある と告 げる。

  『

声聞

は この

説法

して

の よ

な解 説をする32) 。

    「

 

こ の

ち、 国土 一 美 女

の は、 愛 欲 等の 随 煩 悩に相 応 する

   諸

々 の

えで

る。

  舞

踏 ・歌 ・

器に最 も秀でて い る とい うの は、

  

尋 伺 ・戯論 ・興 奮に相応 す る諸々 の 法の 譬 えである。

 

大 衆とい

の は 、

  

色 相 などの 十相の譬 えで ある。

  塾達一

えである。

 

油鉢とい うのは、 止に安 住 した 心の

えで あ

心の 軽安 となめ らか さを目的とする か らで

る。

 

剣 を抜い た刺客とい うの

  

は、 相 ・尋 伺 ・ 随

悩に関 して

挙 げ

た過患の

えで ある 。

 

心の す

  

を向 け

油鉢 を

び、 一

滴 も

さ な

、 乱 不 乱

  

の 了 知へ 専 心 に よっ て得 ら れ た止の 道につ い て の

えで ある。」33)     (

Ms

109b3ff

., 

Sh

, 

418ff

, 

D

154bsff

 

こ の

譬喩

の テーマ は、 傍 線 部の ように、 「熟 達者 」で ある 「

yogacara 」

が、

癡等

の 随煩 悩に惑 わされ るこ とな く、

に お い て心の

軽安

に専 心 するこ である。

 

「油 鉢の譬 喩 」は、

相 応 部経 典』

国土経

JanaPadahalyduisutta

」(

SN

. 

V

32

10

;『雑阿含経』(

623

174b

−c)に相応す る。 「国土経

で は、 国土 一 美 女

jana

padakalyapl

見 物に訪れ た大 衆の なか を、 人

puruSa

が油 鉢

telapatta

を も

(16)

智 山学報 第六十輯 ち、

衆と

美女

の 間を

る。

刺客

を もち、

しで も油 を零せ ば

ろ に随 うが、 人は油鉢に

専念す

る。 人 が

油鉢

る よ

に、 比丘 は

身念

kayagata

−sati を

で ある、 と説か れてい る。 こ の比

は 「

71

¢ゆ α’彪畆α加

Jataka

, 

1

, 

96

)に も引 用され てい る34)。

 

しか し、

声 聞地

国土

経」

な る顕 著 な 点は、 油 鉢 を もつ 者 が

yogacara 」

とされる点、 「

念 」で はな く

止」

が示 され る

る。 そ こ で 、

修行道

経亅

箇所

て み よ

2

) 『

修 行

道 地 経

 

『修 行 道 地経 』 「勧 意 品第九」では 「油 鉢 の譬喩 」 を詳細 かつ ドラ ィ ッ ク に

い てい る。

 

を示

とこの

である。 昔、国王 がい て 、 国で 一 智 者 を従 者 しよ

とある

試す

こ とに した。 そこ で 臣

じて、 この

智者

に油 鉢を

たせ て、 城の北 門 か ら

門へ

かわせ、 そこか ら

を出て二 十 里の

所にある園へ

か わ せ る一滴 も油を零せ ば、

刺客

に首 を

らせ る とい 。 その間に 智者は、   大 勢の 見 物 人、

 

噂を聞きつ けた家 族

族、

  美

女の歌 舞、

  荒

れ 狂 っ た

の 大 群、

 

大 火、

 

暴 風 雷電 とい っ た妨 げに あ うが、 油 鉢に

心 して、

に 一

も油 を

すこ とな く、園に辿 りつ の で ある。

 

この段 落の最

に、 本 経は

を次

の よ

解説す

る。

   

「修 行 道 者、 心 を

御す

る こと是の 如 し。

諸患

癡來 り

  

を乱 すこ とあ りと雖 も、 心護っ て隨 わず、 意 を摂 して 第 一 、 其の

  

じ、 外の 他の 身を

す。 痛

・心 ・法 亦復た 是 くの 如 し。」(大正     蔵

198a23

25

 

こ の一

か ら、 この

喩 が 「修 行 道

(yogacara )

の 心の制 御 を説 くもの であ り、 見

人や

家族

美女等

・癡の 三

であ り、

油鉢

へ の 集 中は

」 をは じめ とす る 「四

な さ れて い る こ とが分か る。 (

36

(17)

『声聞地』の 「ヨ ーガーチャーラ yogacara 」(阿部)

 

以 上の よ

に 『修 行 道 地 経』 と

聞地

は ともに、 「

yogacara

」の心

を示

す点

で一

致 す

る。 た だ 「国土経 」が 「身念 」 を説 き 35) 、 『修 行 道地経』 が 「四

に言 及

る一方、

声 聞 地』で は世

尊 説

四念 処 」と し た箇 所 を

Samatha

置 き換

えてい る。

 

声 聞

は世 尊 説の 引 用 と明 示 してい る が、

yogacara

」を

用 し ない

声 聞地』が こ の

脈で この 語 を使 用 する の は、 油鉢の

譬喩

によっ て 「

yoga

− cara 」の 教 訓を

表す

こ とがすで に認 知 されてい た

景がある よ うに思わ れる。

5

yogficara

道」

出世 間道 」

1

『声 聞地

「第四瑜 伽 処

 

こ こ では

yogacara 」の 用 例 を二 ヵ所 挙 げて み たい 。 「

四瑜 伽

」の 冒 頭 部に は 、すで に五停 心観 を行 じた初 業 者が 、 次に進むべ き道 と して

世 間 道 」か 「出世 間道 」を選 択すべ こ と が示 され る。

   

「そ こ で、

すで に説 か れた 五

停心観

作意

を もっ た こ の初 業 者た る

  

瑜伽行者 adikarmiko

 

yogacarah

は、

私は世 間

か、 あるい は

  

出 世 間 道か」と

考 え

、 ま さ にこの 作 意 を

す。

Sh

, p .

437

, 

De

−    

leanu

 

l

327

36)

 

この 後に、 「世 問 道 」の修 行が 詳 説 さ れ る。 「世 間 道」 と は、   了 相 作 意 (煩悩を 浄化 する)、

 

勝 解 作意 (止観を行 う)、

 

遠 離作 意(善く多く修習 す る)、

  摂楽

作 意傾 悩の麁重 を離れ、 遠離によっ て喜 楽する)、

 

観 察作 意(未 断の 随 眠 を観察する

  加行 究竟

作 意(欲界の 一 切の煩 悩 を離れ る

  加行究竟

果作 意 (根本 初静慮に入 る)を

習 し、 そこか ら

非想非非

想 処 まで の八 定 を経て、 五通 を修 習 し、

無想

天 に生

る道の ことである。

 

「世 間 道」の説 明が終わ る と、 次 に 「出世 間道」に入る 「

yogacara

」が 説 か れ る。 「出世 間 道 」の 最初 に は、

 

了相 作 意で苦 諦 以下 の 四諦 十六行 相 を 修 する こ とを述べ 、 以下の よ

に示

   

「そこ で、 四聖 諦の

説 と

説 を、

聴聞す

ることによっ て

持 した瑜 (

37

(18)

智山学報第六十輯

  

行 者 yogacara

は、 よ く行 じられた 作 意 を も ち、 根 本 静 慮 と

色 (界)

  

て お

、 四種の行 相に よっ て、

諦の相を了

する。 すな わち、無

  常 行

相 ・

行 相 ・空 行 相 ・無 我 行 相で ある。」 (

Sh

, p ,

470

−10, 

Wayman

, 

p

−    

130

3

)37〕

 

そ して

出世 間 道

に 入 る 「

yogacara

」の 七作 意 をこの よ

に説 明する。 一

 

了相 作 意 (善 根位前諦+行 相 を行ず

 

勝 解作 意(四善根位におい て四諦を 「尽所 有性 」「如所 有 性 」か ら修 す )、

 

離作

意(見道 所 断の煩 悩を断ず る

  観察作 意

(修道に 入 る)、

 

摂 楽 作 意 (歓ぶべ き法 を喜ぶ )、

  加行 究

(修道所 断の煩 悩を断 じて金剛喩三昧を修 す)、

 

加 行 究

作 意 (阿羅 漢果 を得る)。

 

以上 の よ うに 「

yogacara 」

世 間

道」

出世 間 道

を選ぶ とい

、 「出世 間

道」

で四諦

行相

行 ず

るとい

う構

成は、 『

修行

道 地

経』 『

坐 禅三昧経

とも共通 する の で 、 比 較 してみ よ

2

修 行 道地

  『

行 道 地経

』 「数息品

で は、

数息観」

凡 夫」

仏 弟 子 」 の 二 種の 道 が ある とい

   

行 者、 出入息 を觀

る所 以は

寂 を求

む るを

て の

に、 心 を して

  

住せ しむ。

の 寂然た る に從っ て 二

を獲。 一

、 二 には

佛弟子

  

な り。 何を か凡

に して寂然 を求 む と謂 う。 心 をして止住 して 五陰の蓋

  

を除か しめん と欲す。 何

蓋之患 を除 か んと欲 する や。 第一禪 定 を

  

ん と欲

るが故な り。 何 故に第 一 め ん と欲る や 。 五 通を

  

ん と

欲す

   

をか仏弟 子、 寂然 を求めん と欲 するや。 求む る所以 は温 和 を

ん と

  

欲 す。 何

に温

を求 むる や。 頂 法 を致 さん と

す。 五

空に して

悉 く

  

皆 我 所に非ざる を見る。 是を頂

と謂ふ。 何 故に頂 法 を求 むるや。 四諦

  

を見て法忍 に順

する を以っ て な り。 何 故に

忍 を順 求

る や。 世 閭

  

上 の法 を

ん と

す。

(大正蔵

217a1

9

 

こ の

「凡夫

」と は 五通 を求め る

であ り、

は入出息 念に (

38

(19)

      

『声 聞地』の 「ヨーガーチ ャーラ yogacara 」 (阿部) おい て四

を念 じ、

・世

地 を

るこ とである と

。 さ ら に、

見道

入 り

菩提

し、

無漏

六心 を

て、 阿

漢となる こ とを

述 す る。 「凡

夫」

「仏 弟 子

の区 分が

聞地

間 道 」 「出世 間道」に相 応す る点につ い ては、 すで に デレアヌ氏が

じてい る が38)

前者

を 、

後者

諦観

を 配

も同

相 似 い る。

3

『坐禅三 昧経

  『

坐禅三昧 経』 「巻 下

におい 五停 心 観 を得 た後の ス テ ッ プと して

行 者 」と

弟子

修行法

を説 明 し、

前者

に は 五通を、

後者

には 四

行相

を配 してい る。   「行 者 」は一心 を得 たとはい い まだ禅 定の力が達 成さ れ てい ない た め、 さ らに禅

続 け

非想非非想処

行者

は 四禅 におい て 四

量三

行 う

。 そして

に五通を学び、 身体を飛 行 させ た り、 身体の

変化

を 自

行 う

と述べ る 39)。

 

方 「

尊弟

は 、五

門を

学 して、 定を

の はま

禅 定を

し て か ら涅

に趣 き、智を好む ものは直 ちに涅 槃に 向 か う。 「世 尊 弟 子 」は、 まず煩 悩 を断

る た め に 四念処八 正道 等 を

修す

。 そ し て、

に おい て 四

十六

相を

し、

漏 の 十六 心 を得て、金 剛三

におい て 一 の結を断 じ阿羅 漢 果 を得る40)。

 

本経で は、

瑜 伽 師 地 論

が 「出世 間道 」の 説 明 を もっ て 『声

に 『

独覚

地』に入 るの と同

に、 この

明の

直後

聞 道

え、

支仏」 を

き、 続い て

薩 道

の 説 明に入 る。

 

四善根 位における四諦の

観想

は、 ア ビ ダルマ の行

体系

で も広 く認め られて お り、

声 聞地

の所

がこれ ら禅

典の みの

影響

る と は

え ない 。 し か し、 以上の よ

に、

行者

を入 門させて五

指導

する

箇所

か ら

世 間

道」 「

出世 間

道」

選 択

と その

修 行 内

容に至 る まで の

開 を

る と、

声 聞

地』 と禅 経 典の 骨子に相 似 性を認める こ とがで きる。 (

39

参照

関連したドキュメント

平 成十年 度(第二 十一回 ) ・剣舞の部幼年の部 深谷俊文(愛知)少年の部 天野由希子(愛知)青年の部 林 季永子(茨城) ○

原子力・立地本部 広報グループ 03-6373-1111

瀬戸内千代:第 章第 節、コラム 、コラム 、第 部編集、第 部編集 海洋ジャーナリスト. 柳谷 牧子:第

アジアにおける人権保障機構の構想(‑)

Faced with the phenomenon that should be called “the trend away from the papers”, which is spreading rap- idly across generations, particularly among youth in their twenties,

あり、各産地ごとの比重、屈折率等の物理的性質をは じめ、色々の特徴を調査して、それにあてはまらない ものを、Chatham

本報告書は、 「平成 23 年東北地方太平洋沖地震における福島第一原子力 発電所及び福島第二原子力発電所の地震観測記録の分析結果を踏まえた

その上で、第一地区、第二地区、第三地区とあるなか、今回の第一地区がその3つの地