回顧:国際関係教育の開拓 30 年の歩み
名誉教授 小川春男
国際関係学部が創設 30 周年を迎えたことに心より祝意を表したい。私は 1976 年に国際関係学部の前身ともいえる経済学部国際関係学科の増設にあ わせて採用され、初めて教職に就き、以後、2018 年に定年退職するまで同 学科と国際関係学部一筋に歩んできた。そこで、記憶を辿り、とくに組織改 編に関わる歩みを綴ることで祝辞としたい。参考になれば幸いである。1.経済学部国際関係学科の創設
話を経済学部国際関係学科設置時まで遡ると、仄聞によれば、当初、国際 関係学科ではなく、アジア関係学科を設置したかったようだ(設置に奔走し た教員談)。亜細亜大学の設置趣旨からすれば、宜なるかなである。しかし、 当時は、いろいろな意味で日本の影響力がアジア地域で警戒されていたの で、内容はともあれ、名称についてアジア地域に限定することの理解はなか なか得られなかった。そこで、国際関係学科として申請することになったと いう。 さて、経済学部国際関係学科は社会科学の総合を目指すものであり、当 時、国際関係を冠称する学科は文化・言語を中心とする一つのみ(69 年設 置の津田塾大学国際関係学科)であった(後に日本大学が国際関係学部を 79 年に設置)。経済学部国際関係学科では、アジア地域を中心とする地域研究や実践的活動のためには学際的・総合的な知見の涵養が必要と捉え、その ために地域言語習得を重視した。また、現在の国際関係学部の教育課程の基 軸となるゼミを中心とした 4 年一貫教育がすでに組み込まれており、各年次 にオリエンテーションゼミ、基礎ゼミ(最初は英書ゼミだった)、専門ゼミ、 総合ゼミを配し、段階的に教育した。オリエンテーションゼミでは国際関係 学の基本理解のみならず、当時、他ではあまり行っていなかった図書館の利 用法やレポートの書き方などの学修の技法を指導した。そのために実践的に 利用できる小冊子を開発し配布した。それ以降の各年次のゼミの位置づけは そのゼミ名称の通りで、総合ゼミの最後に 4 年間の学修を卒業論文で結実さ せるという体系的枠組みであった。そして、一貫教育の実効性を高めるため に学習相談室を本学で初めて設置した(もっとも、数年で相談者はほとんど いなくなり、常に積極的に働きかけないと機能しないことを痛感した)。 このような内容の国際関係学科はあくまで経済学部の一部であり、いずれ 組織改編が必然だったのかもしれない。学科創設時においては専門科目の半 分以上は経済学系の科目であったが、それですら経済学が専門分化していく につれて経済学部の重心が国際関係学科から離れていき、その入れ物に収ま らなくなっていった。また、ゼミを基軸とした段階的・包括的な 4 年一貫教 育や地域研究・地域言語教育は教養部・専門学部という当時の 2 分割制にそ ぐわない面も多々あった。 経済学部国際関係学科時代の 14 年間の学外環境として、日本はほぼ一貫 して経済成長を謳歌し国際的な存在感を増すばかりだった。貿易・海外直接 投資、金融、海外援助などの国際的展開ばかりでなく、政治や文化など多く の側面での国際交流が拡大・深化し、90 年頃のバブル期まで日本の国際化 に疑問の余地はほとんどなかった。学科設置の頃には何かにつけ欧米に目を 向けがちであった日本がやっとアジア地域に関心を持ち、心理的距離が縮ま り、とくにアジア地域で活躍できる人材の必要性は、実需においても認識に おいてもますます高まった。バブル崩壊まで日本は根本的・趨勢的な蹉跌を 経験してこなかった。当時は大半の卒業生が卒業旅行で海外に向かったもの
である。
2.国際関係学部の創設
国際関係学部設置の前後、学外環境は大きく変化した。創設は 1990 年 4 月で、この時期はバブル絶頂期であった(89 年末にピークをつけた株価は 90 年から、地価は 91 年から下落し始めた)。国際化のなかで国際関係に類 する学部設置の必要性はますます高まったし、実際、91 年の大学設置基準 の大綱化による教養部の廃止が外国語や外国文化などの研究者を中心とした 学部設置を後押ししたので、本国際関係学部に近似したり同趣旨の学部は 90 年以降、全国的に増加した。 その中で、本学のアドバンテージは学部開設 1 年前の 89 年に開始された AUAP(アジア大学アメリカプログラム)だろう。これは、一学年全員が約 半年間アメリカに留学することで、より実際的に異文化を理解し、英語を習 得することを主目的としていた。本学部はアジア地域で活躍できる人材の育 成を重視していたが、AUAP によりアジアをより広い視野で見ることになる 意義も大きい。 留学込みで 4 年間で卒業するには、アメリカの留学先大学で日本の卒業要 件単位を取得できることが前提とならざるを得ず、現在ではよく見かけるダ ブル・ディグリーやジョイント・ディグリーのプログラムが無かった時代に 文部省(当時)の理解を得て前例を作るのは大変だった。AUAP は大学全体 のプログラムだったが、一学年全員参加の国際関係学部では、半年間は学生 がおらず、他方で諸般の事情で留学できない学生に対応するカリキュラムの 構築は未開拓分野だった。また、派遣留学生数の規模は大きく、安全対策や 情報交換など日米双方での派遣・受け入れ体制の構築は大仕事であった。そ のためにパイロット・プログラムを実施し、初期においては期間中ずっと日 本から教員が同行した。これらの時期は、新学部設置の準備や設置後の検討 とも重なり教職員の負担は大きかったが、とくに語学教育の効果は大きく、また国際関係学部の知名度を高めるのにも AUAP は大きく寄与した。 新学部設置時には政治・法制、経済、社会、文化・言語の学問領域による 学際的教育を趣旨とする国際関係学というものが理解されておらず、大学設 置基準でそれぞれの学問領域学部ごとに厳密に必要教員数が規定されてい た。国際関係学部はそれらの学問領域からなる複合学部とみなされ、単純合 計で専門教育の教員数は都合 30 余名になった。概ね、従来から重視されて いた地域研究(含む英語・地域言語)に必要な研究者は教養部(当時)から 移籍し、従来よりも拡張した法制領域の研究者は学外から受け入れた。しか し、はやくも 91 年の大学設置基準の改正(大学設置基準の大綱化)により 学部名称や内容などは大幅に緩和され、「学部は、専攻により教育研究の必 要に応じ組織されるもの」とされ、国際関係学部においても国際関係学の教 育に必要な教員数は他の学問領域と同様で良くなった。その結果、欠員教員 採用は厳しいものにならざるを得なかった。時代は、この学部名称の緩和と 同時に、いわゆる一般教育・専門教育という組織的垣根がなくなり、全国的 に 4 年一貫の教育体制に移行していった。 他方、バブル崩壊で日本経済は失われた 10 年、20 年、そして 30 年と続 いてきたが、とりあえず失われた 10 年と認識されるのは 90 年代末であり、 日本の失われた停滞期間に東南アジアや中国ばかりでなく、アメリカや EU などの先進国も成長していき、徐々にではあるが経済規模などで日本の国際 的地位は低下していった。その中で、とくに、国際と名の付くものが縮小す るか海外から撤退するなど、多くの側面で拡大主義が終焉していった。たと えば、ヤオハン百貨店の海外進出のピークは 95 年の上海開業だったが、は やくも 97 年には日本本社が破綻している。各分野の実態は停滞していった が、認識はバブル期以前とあまり変わらないというパーセプション・ギャッ プが進んでいった。バブル崩壊後も日本人学生の海外留学も 90 年代は増加 していたが、就職氷河期や就職協定廃止(96 年)などの混乱の中で、2000 年代になると内向き志向になり、海外留学も徐々に減少していった。政治・ 経済の国際的展開の縮小・萎縮に加え、派遣労働や非正規雇用など若年層が
不利化し、留学と就活の時期が重なった場合、就活を優先せざるを得なく なったからである。 加えて、エイズ騒動(80 年代から)、狂牛病(92 年)、同時多発テロ(01 年)、SARS 騒動(03 年)、鳥インフルエンザ(05 年)、東日本大震災や原発 事故(11 年)、MARS(12 年)などが数年ごとに発生し、今度こそ、世界に 出て活躍する夢を持つ人材が結集するだろうという期待が削がれた。
3.国際際関係学部の 2 学科制への改組
2012 年 4 月、国際関係学部に多文化コミュニケーション学科が開設され、 国際関係学科と併せて 2 学科制になり、入学定員も増えた。この経緯につい ては、当時、私は亜細亜大学の学長を務めていたので、その立場からの記憶 となる。設置の数年前より新学部構想や併設の短期大学部の将来構想を全学 執行部内で検討しており、それとは別に新学科設置検討委員会を設け、新学 科構想ごとに分科会を設けて検討していた。当初は経営学部の観光関連の学 科と、国際関係学部の国際観光関連の学科が提唱され、それぞれが検討され た。両構想は近接領域であり、当然重複は避けなければならないが、幸い、 それぞれの学部が特色をより鮮明に打ち出すことで、これを回避できた。結 果的に、経営学部がより実務的な観光ビジネスを鮮明にしたホスピタル・マ ネージメント学科を先行して設置した(09 年)。経営学部では以前からホテ ル観光学講座が開設されており、安定的に受講生を確保して実績を積んでい たからである。国際関係学部はより文化に重点を置き、「異なる文化間のコ ミュニケーションを促進する能力、国際的視野と総合的判断力を養い、ます ます深化するわが国とアジアをはじめとする世界諸地域との交流と協力の担 い手となる有為な人材を育成する多文化コミュニケーション学科」として設 置された(12 年)。学部教育の内容がそれぞれ社会科学と人文科学に重点を 置く学科に分化し、ある意味では教育内容がより明確化されたとも言える。 もちろん、亜細亜大学の基本的ミッションとも合致したものである。以上、3 つの組織改編に纏わる話を簡単に紹介した。とくにこの 30 年間、 情報・通信・運輸などの進歩で国外へのアクセスが容易になり、そのことで 国内外の違いがかなり消滅した。普段通りに外国に行き来し付き合うように なったが、外国への特段の関心は薄くなり実際に出向く情熱や動機は弱く なってきたように思う。しかも、国際的経済活動は縮小し、対外比較の相対 的所得は低下し、加えてグローバリズムの問題点やパンデミックに類する問 題点も顕在化してきた。今般のコロナ禍など、国際的に雄飛する人材を育成 したい国際関係学部にとっては逆境が続くかもしれない。 国際関係学部では当初より 4 年一貫のきめ細かい指導を行ってきたし、多 くの点で他大学に先行してきた。それが国際関係学部の伝統的な優位性だと 思う。これらは多くの先人が努力した結果であるし、それらの先生からは私 自身も在職中に多大なご指導を賜り影響を受けた。忘れじのお名前が余りに も多いので、ここでは心の中に仕舞っておく。ともあれ、相互に頼もしさを 感ずるほどの信頼を置くことは楽しくさえあった。これが学部外への力の源 泉に繋がり、外部からの逆風を跳ね返すに違いない。楽しい学部が末永く続 くことを願っている。