特集序文 トランスボーダーとコスモポリタニズム
樫村愛子・片桐雅隆 本特集は、2018 年 9 月 2 日、愛媛大学で開催された本学会第 13 回大会のシンポジウム 「トランスボーダーとコスモポリタニズム」に基づいて編集されたものである。 当日のシンポジウムは、以下の三人の報告によって行われた。べック研究の第一人者で 近年『ウルリッヒ・ベックの社会理論』(2017)を出版した伊藤美登里(大妻女子大学)、 アメリカ民主主義をはじめ移民とトランスナショナリズムの研究者で、今回は、植民地支 配や人種差別、世界規模の戦争を解決・回避するため、黒人の汎アフリカ主義を唱えた黒 人社会学者デュボイスに光を当て彼の仕事を評価した本田量久(東海大学)、コスモポリ タニズム理論の最新の海外の研究状況をふまえてベックの評価を行った鈴木弥香子(慶応 義塾大学大学院・南オーストラリア大学博士課程)である。討論者は、『社会的分断を越 境する――他者と出会いなおす想像力』の編者で、この分野の第一人者塩原良和(慶応義 塾大学)にお願いした。司会は、片桐雅隆(立正大学)、樫村愛子(愛知大学)が務めた。 今日、グローバリゼーションは、格差のさらなる進行、南北問題の激化と債務等を背景 としたネオリベラリズムへの誘導とそれが引き起こす国内の分断・紛争や反発、またIT 化およびモバイル社会化が引き起こすボーダレスの進行とサイバーカスケードやフェイク ニュースに見られる分断の広がりや公共性の解体等、複雑に加速・深化し、その矛盾は、 「移民」の排斥やコミュニティの解体と貧困に見られるように社会統合と民主主義の危機 として現れている。トランプ現象やヘイトクライム、排外的ナショナリズム、紛争と難民 等やグローバリゼーションを背景とした急激な移民の動き等、社会の流動化、不安定化、 分断は社会問題となっており、社会統合や社会秩序を問い近代や民主主義の基礎の上で成 立してきた社会学を揺るがす問題となっている。文化的相対主義だけでは乗り越えられな い現状に対し(西原が唱えるようにむしろ脱文化主義の必要性も指摘される)、トランス ボーダーの現場で起きている人々の交通や交渉、戦略的なコスモポリタニズム(バーバの いう「ヴァナキュラー・コスモポリタニズム」、「批判的コスモポリタニズム」)について 考察し、現状への示唆の可能性を探りたいと企画した。 大会に先立った2018年3月10日(土)に学習院大学で研究例会を行い、理論的にも実 践的(ハワイ・沖縄移民のフィールド)にも精力的な研究活動をしている西原和久(成城 大学)、カルチュラル・スタディーズや異文化コミュニケーションの理論研究の河合優子 (立教大学)、多文化混交地域におけるマイノリティ・アクター間の接触と変容について フィールド研究を行ってきた金南咲季(大阪大学大学院)に報告、鈴木弥香子に討論者を お願いした。 大会報告に連続する議論の蓄積を見るために、ここで研究例会の議論も紹介しておこう。 西原は、これまで流通してきた「多文化主義」という概念はむしろ「文化の固定化」を 招くとし、「間文化主義」、さらには「脱文化主義」を提唱し、「ナショナルな枠を超える こと」として、「方法論的なトランスナショナリズム」(方法論的コスモポリタニズムと関 連する)の有効性を主張した。コスモポリタニズムについては、①カントに見られる法政 治学的コスモポリタニズム、②ベックに見られる国際社会学的コスモポリタニズム、③ロールズやヌスバウムに見られる哲学・倫理学的コスモポリタニズムに加えて、西原の 提唱する④現代国際社会学的な第4のコスモポリタニズム、「学」ではない「日常生活者」 のコスモポリタニズム(ヴァナキュラーなコスモポリタニズム)を提示した。世界市民協 同体や世界政府の形成を目指す理想というよりは、現実に出現しつつあるグローバルな政 治・経済・社会・文化の現実を踏まえた上で、国家や民族、文化や宗教を超えた連帯や共 働を目指す立場が、西原のフィールドの沖縄移民の事例(「間文化的媒介者」の存在等) を通して指摘された。 コメンテーターの鈴木は、自身もコスモポリタニズムをめぐる議論を紹介し、単一のコ スモスを前提とするエスノセントリックなコスモポリタニズムがすでに批判されている 中、バーバの提唱する「ヴァナキュラー・コスモポリタニズム」やミグノロの「批判的コ スモポリタニズム」が掲げられ、さらには90年代以降、グローバル化が進展し相互依存 が深化する中で、デランティが指摘するように、「歴史的文脈や社会的状況によって様々 な形をとりうる想像力のようなもの」としての、そして「ダイバーシティのただの条件」 ではなく「他者との遭遇の結果生じた自己理解の変化」を射程に入れたコスモポリタニズ ムの重要性が指摘されていることを紹介した。 西原の理論的枠組みと鈴木が紹介するコスモポリタニズムの理論の差異は十分に議論し えなかったが、間主観性をこれまでの理論の核としてきた西原が脱文化性を掲げる固有性 が確認できた。研究例会では、西原の間主観性の議論も含め、ベック理論がコスモポリタ ニズムの理論の核に据えた「他者性」をめぐるフィールド(否応なく「他者」との関わり に巻き込まれている社会)における興味深い議論が展開された。 河合は、異なるカテゴリーが絡むこととして使用される「交差」概念に対し、トランス ナショナル性・ハイブリッド性を含めてカテゴリー内の絡み合いを視野に入れ、構造的関 係について単に交差しているのではなく複雑に絡み合って作用することを表現できるもの として「交錯」概念を提唱したが、この概念は、多文化主義的共感には規範的側面が必要 であること、さらに他者の視点をもちうることを含意するものとして用いられたものであ ることが指摘された。また河合は、他者理解には自己変容を伴うことを主張した。 金南は、コスモポリタニズムを具体的な空間と結びつけ、被差別部落、コリア系外国人 学校、イスラム・モスク、中国帰国者、ニューカマー外国人といったマイノリティが集積 する多文化接触地域の10年間の変容を事例として議論した。「共に投げ込まれている」(選 択不可避性にある)人々が、自明視されてきた認識や実践を問い直し、マイノリティ性が 繋がった連帯が生まれ、その中で不可視の差異が表出され、相互変容を活性化させていく 過程が報告された。 これらの議論の中で、マイノリティの人々の「共に投げ込まれる」状況の中で、主体と しても自己変容し、他者を受容していき、差異のカテゴリーが複雑に絡み合いつつ変わっ ていく現実が想像でき、これを理論化していくことの重要性が、実践のためにも必要であ ることが確認された。フロアも含めた議論でも、傷を抱えるマイノリティにとっての自己 変容や、自己と他者の関わりという間主観的な現象、自己と社会との関係が、コスモポリ タン化社会の現実において深くかかわっていることが確認された。 大会では、以上のような議論を引き継ぎつつ、理論を柱とする学会としては、コスモポ リタニズムを提唱しこの問題を原発等々をめぐる規範的・倫理的実践においても参照して
活躍してきたベックの理論を検証する作業を中心に据え、さらには、アメリカ社会におけ る汎アフリカニズムとデュボイスの歴史的理論的意味を問うことで、コスモポリタニズム を個別歴史的に検証する作業も行おうとした。 伊藤論文「なぜコスモポリタン化の語が造られねばならなかったのか――U. ベックの コスモポリタニズム論――」は、ベック研究の第一人者として、ベック理論のもつ難解さ、 わかりにくさを丁寧に紐解くと共に、ベック理論の歴史的変遷と全体像において、彼のコ スモポリタニズム理論を明らかにした。特に、鈴木や西原、現代のコスモポリタニズム理 論等のベック批判に対し、ベック理論がもっていた再帰的近代化の議論の帰結としてのコ スモポリタニズムの議論の固有性と構造のメカニズムを本誌論文では提示している(大会 後になって、本誌の論文においてこの点ははじめて明確化されているため、大会では十分 議論しえなかった)。 伊藤は、ベックのコスモポリタニズムを理解するための重要な柱として、「事実」とし ての「コスモポリタン化」(トランスボーダーの現状と呼応する。「診断理論」)と「規範」 としての「コスモポリタニズム」(「批判理論」)の差異を強調する。両者の混同によって ベック理論には矛盾があるように見えわからなくなるところを、この切断線によりわれわ れはベックの真意を理解しやすくなる。 一方、ここでの「診断理論」とは、普遍的な法則に還元可能で観察可能な出来事や現象 を解明する「説明理論」とは異なり、急激な歴史変化をとげる社会関係を一般化の形で診 断することにより、方向付けを行うような概念枠組みであるとされる(伊藤があとで指摘 するように、ベック理論が持つこの「診断性」は、事実と規範を上記のように分けつつも、 事実の診断が規範へと方向付けるような性格を持ち、この性格とは、第二の近代 -再帰的 近代社会の帰結であるとする)。この診断理論により、ベックは先進国が第二の近代に変 化しつつあり、第二の近代の三つの柱には、個人化、リスク社会、コスモポリタン化があ ることを指摘していた(この構造変化が再帰的近代化)。 「事実」としての「コスモポリタン化」は、どこか外側で起こっている一面的過程とし て記述される「グローバル化」とは異なり、国家等の明確な境界線が浸食され異質な他者 との意図せざる衝突が起きている状況である。 これに対し、「規範」としての「コスモポリタニズム」は、ベックにおいては、古代お よび啓蒙主義等の伝統を受け継ぎつつも、文化の異なる者との社会的交流のある特殊な形 態に対して用いられ、「他者性の承認」を格率とするものとされる。他者を「異なりかつ 同等なもの」として認める意味において、ポストモダン分権主義と違い、異なる価値観の 架橋が試みられる。それは普遍主義や相対主義との差異化において「コンテクスト的普遍 主義」と表現される。 また、コスモポリタニズムの実践的立場を示す言葉として、「コスモポリタン現実政治」 があり、理念やアイデンティティに訴えるのではなく、権力と利害関心を担ぎ出すことを 促す。 そして世界の現実がすでにコスモポリタン化しており、「方法的ナショナリズム」を放 棄して「方法的コスモポリタニズム」を構築しなくてはならない(「コスモポリタン的命令」 =協同せよ、さもなくば失敗する)とベックは指摘する。 ベックの議論に対して最もわかりやすい批判は、ベックの「ユーロセントリズム」であっ
た。伊藤は、ベックが三部作執筆以降、彼のコスモポリタニズム論の欧米偏向がユーロセ ントリズムと批判され、これを受けて彼がアフリカ、アジアへ目を向けていったことを指 摘する。ベックが来日し日本の社会学者とも多くの議論を行ったことにも端的に見られる ように(鈴木論文の参考文献参照)、ベックは、彼の従来の再帰的近代化論の改訂も含む ような、再帰的近代化の多様な経路や多様な再帰的近代の存在を認めることを強調するよ うになり(方法論的コスモポリタニズム)、欧州の歴史を一般化する単一的な歴史観から 「コスモポリタンな諸モダニティ」の理論へと変更した。 事実と規範が混同されていると批判されがちなベック理論に対しては、先述したよう に、両者を明確に区分した上で、両者が密接な関係をもつことを伊藤は指摘する。ベック のコスモポリタン化の概念は、読者に社会のコスモポリタン化を認識させ、この概念それ 自体が、「一種、望ましいとベックが考える状態へと人々(の認識)を誘う、あるいは人 類が生き残るにはコスモポリタニズムへの道しかないと思わせる機能を付与されていると 考えられる。この意味で、コスモポリタン化の概念は、現実における機能という点で単な る記述概念の域を超え出ている。それは『存在』について記述しながら、人びとをベック が善いと考える『当為』へと促す働きを持つ」と伊藤は指摘し、「ベックにおいて存在と 当為は明確に区別されるものではない」と述べる。 また、コスモポリタン化は、一部「理想」も示しているとする。「制度化されたコスモ ポリタニズムは、コスモポリタニズムという理念がすでに実際の制度や個人の道徳的な生 活世界の一部になっていることを示す用語であるため、『理想』でありながら『事実』で もある」。そして、「再帰的近代化論では、第二の近代において社会は目的–手段図式によっ て変革されるよりも、むしろ副次的帰結として変容していくものとされ」、コスモポリタ ン化という概念を用いて社会の変化を記述しつつ、「副次的帰結として社会が変化してゆ く第二の近代においてコスモポリタニズムを招来させようとする彼の意図が存在したと考 えられる」。結局、ベックにとって、「コスモポリタン化の語を新たに造り出した事は、コ スモポリタニズム論の展開のために必要不可欠な過程であり、彼の再帰的近代化論の当然 の帰結であった。」としている。 本田論文「W.E.B. デュボイスと汎アフリカ主義――20 世紀半ばの国際情勢を背景に」 では、これまでアメリカにおける黒人解放運動において重要な影響力を持ちながら歴史・ 政治研究等において評価されてこなかったデュボイスの活動や問題意識、当時のアメリカ における彼の位置づけ等を示した。特にその汎アフリカ主義が当時の文脈において持った 固有性と可能性が示唆され、反差別運動とされた黒人運動が貧困の観点から今日再評価さ れうる点が指摘された。本田は、デュボイスの人種差別批判はマルクス主義に立脚し、マ ルクスは「資本主義の源泉はアフリカの奴隷制にある」と述べたことを指摘する。この支 配は、軍事力、キリスト教の宗教的権威、博愛的な白人の「責務の言説」等によって強め られ、経済的動機を隠蔽したとする。戦後は、プランテーション農業等モノカルチャーが 経済支配を強め、北からの資金援助が経済統制を強めるとして、デュボイスは、ネオコロ ニアリズムのリスクも先見的に指摘していた。フロアからは、デュボイスが共産主義の観 点でアメリカ社会学から排除された可能性が指摘され、アメリカ社会学における重要性が 評価された。 鈴木論文「ウルリッヒ・ベックのコスモポリタン理論の射程と限界――批判的継承に向
けて――」は、ベックのコスモポリタン理論を「新しいコスモポリタニズム」の文脈から 批判・評価した。「新しいコスモポリタニズム」は、①ローカル/グローバル二分法を批判 し、②アクチュアリティを強調し、③ユーロセントリズムを批判する(=複数のコスモポ リタニズム)。ベックのコスモポリタン理論もこれらの要素を色濃く反映したものになっ ていると鈴木は評価しながらも、ベックは、コスモポリタン化(現実の混淆)という今進 行しているプロセスを強調することで、実際にコスモポリタニズムが実現されていると いった議論にスライドさせる傾向にあり、①植民地支配の歴史、歴史的・地理的差異を軽 視する傾向、②他者とどう向き合うかという規範的問いを避ける傾向にあることを指摘し ている。 先に伊藤の議論で見たように、事実と規範が混同されているというベックへの批判は、 そのまま、伊藤が指摘するように、むしろべック理論の固有性であると、本特集論文では 伊藤から回答されていると言えるだろう。 大会では、討論者の塩原から以下のコメントがなされた。現在、世界で目立つ動きはむ しろボーダーを閉じる排外主義であり、コスモポリタニズムは、ナショナリズム、レイシ ズム、ネオリベラリズムの3つの挑戦を受けている。①リベラルナショナリズムのような、 むしろリベラルな観点からボーダーを引くマイルドな排外主義、②古典的レイシズムに対 する現代のレイシズムとして、イスラモフォビアに見られるような差異の共約不可能性の 強調(謙虚さのないコスモポリタニズム)、③自己責任論と市場原理主義を振りかざすネ オリベラリズムの、自己責任規範に基づく連帯の拒否である。こういった現実の状況にコ スモポリタニズムはどう応えられるのかが問われた。 報告者からは、これらの問いかけに対して、明確な回答は困難であるように思われた。 またフロアからは、現実のこれらの問題に対して答えられないとしたらコスモポリタニズ ムの理論は有効なのかという厳しい批判もあった。社会学は、社会の変容を分析し記述し ていくと同時に、社会の病理を鋭く指摘しその分析の中から解決策を見出していく様相も 持っており、鈴木の言うような、差異や歴史的文脈から立ち上がり、それを背景に他者と 敵対する様相を真正面に据えているのか、外から見る限りではわかりにくい。 しかし、ベックがチェルノブイリ等原発を論じ、現代社会的・倫理的な問題をテーマに 据えてきたように、彼の議論はむしろ常に現実の参照点を持ってきたようにも思われる。 フロアからは、油井の指摘による、油井や姜尚中が日本からチームメンバーに入ってベッ クが構成していた気候変動に関する国際チームがリスクの共通性のもとでプロジェクトを 進めていたこと等も紹介されていた。 これらの批判については、先の研究例会報告で見たように、現実にコスモポリタン化し た状況で行われている人々の実践を観察しその意味を確認する作業によって、問題を解決 していく方法を見出すことも可能なはずである。そして、研究例会で触れられたように、 他者とのかかわりにおける主体の変容等について、本大会では十分検討することはできな かったが、ネオコロニアリズムやマイノリティの議論のただ中に、サバルタンをはじめ もっとも豊かなアイデンティティ・ポリティクスの議論があり、今後、このコスモポリタ ニズムの議論がさらに豊かなものとなっていく可能性を持っていると思われる。