Title
「精神障害」者に対する刑事「責任化」について
Author(s)
小西, 吉呂
Citation
沖大法学 = Okidai Hōgaku(8): 1-26
Issue Date
1989-08-15
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/6529
(1) 本稿は、注目すべき外国論文〈煕冒ロ。□扇.R①茸)&○昼§行いS厨曾尽頁塵冒屏冒員冨)so.』①霊・ぐ・一・】仁・ロ・・国も』⑦】0く・) (2) に絡ませつつ、「精神障害」者の刑事責任(能力)問題に、従来とは異なる視座からのアプローチを試みようとするも のである。この論文(以下では「オモンテ論文」と略称する)は、「精神障害」者を取り巻くフランスの法制度を批判 的に検討するとともに、「精神障害」を理由に予審免訴あるいは無罪とされた犯罪者の豊富な臨床例を紹介し、このよ 論説 五、精神医療における自己決定とパターナリズムlむすびにかえてI 四、わが国の問題状況 三、オモンテ論文の検討 二、オモンテ論文の紹介 一、はじめに
「精神障害」者に対する刑事「責任化」につ
「精神障害」者に対する刑事「責任化」について 一、はじめに い小
て
西吉呂
うな一見恩恵的・人道的に見える措置が、実際には必ずしも本人の利益にはならないことを示唆する内容となっていろ。 どく大まかには、右のオモンテ論文を、一九六○年から七○年にかけて主張され、また、注目されるようになってきた「反精 神医学」の流れの延長線上に位置づけることができるように思われる。しかし、より具体的には、そうした流れからの 一支流あるいは一帰結として、「精神障害」者に対する刑事「責任化」、つまり「障害」者の刑事責任を肯定的に捉え
ようとする動き、がフランスでは一部に見受けL枢この論文をそうした動向と関連させることも可能である。
ところで、わが国に眼を転じた場合、「精神障害」者に対する「責任化」という問題設定は、やや唐突でもあるせい か、ほとんど関心をひくには至っておらず、わずかに、保安的・社会防衛的観点から「障害」者に対して厳しい対 (4) 応を試みつつある英米の動向などが、紹介される程度ではないかと思われろ。しかし、ここに検討する論文は、そうし た保安的・社会防衛的観点からのアプローチではないことに、まず留意すべきである。確かに、フランスにおいても、 (5) そうした観点から「責任化」を追求する立場もないではないが、いずれにせよ、それらは「精神障宝巳者を十分な根拠 もなく安易に危険視するものであり、本稿の追求しようとする立場とは相容れない。むしろ、われわれの出発点として は、広く流布した「精神障害」者の刑罰からの「解放」論が、必ずしも人道的でも本人のためでもなく、ややもすれば、 (6) 責任あるいは法の主体として「障室巳者の人格の尊厳を軽視するものではないか(「主体の無効化」)、という素朴な 疑問から始めたい。この点に関連して、ある精神医学者は次のように述べていろ。「私が十数年で(精神病の)患者か ら学んだ最大のことは、……誇りが何よりもかけがえのないものであるということであった。誇りが傷つけられた時荒れ 狂い、誇りを失いそうなとき落ち込んだり逆に吹き上がったり、他の何も捨て誇りだけは保とうとする時閉じ込 もるということに、ずっと付き合ってきたように思う……保安処分、強制入院、強制治療、拘禁・拘束・人体実験、 沖大法学第八号 二さらに、先の根本的な疑問は、「精神障害」者には(是非)弁別力とそれにしたがって行動する能力が全体的に欠け ているように見倣す従来の所説ははたして正当であるのか、身体障害ほどには明確でない「精神障害」を剛山にした法 的取り扱い(いわゆる資格制限条項・欠格条項など)は合皿的なものとしてどれほど是認されうるのか、といった刑法 の背景をなすより本質的な疑問にも連なっていくであろう。そして、前者の疑問については、さしあたり、分裂病者で (8) あっても是非善悪の区別をなし声つるとする有力な主張が早くから存在することに注目すべきである。また、この間趣に関連し て、治療に同意したりこれを拒否したりする能力(同意能力)について、「精神障害」者にこれが備わっていない例は、 (9) 少数に過ぎないともいわれる。一方、後者の疑問については、「精神病者にも、国民の一人としての医療と生活を保障 (川) すべき各種の法律から、いや、その法律によって、精神病者は疎外され排除されていろ」といわれる通り、「差別」条項 (、) が深刻な問題を提起していろ。〈可般の精神衛生法「改正」にともない撤廃されたこの種の条項は、法律では、わずかに 「公衆浴場法」のそれのみであると聞く。ここで、一九八七年の京都における精神衛生法改正国際フォーラムが想起さ (皿) れろのである。そこでは「精神障害者は、その精神障害を理由に差別されてはならない」との決議がなされており、わ が国の現状に猛省を迫るものがあろう。 以上のように、「責任化」をめぐる議論の背後には、「精神障害」者からの社会防衛とその者の人格の尊重という二 律背反的で非常にデリケートな内容が隠されていろ。かつて、「障害」者が刑法上の非難に価するという脅え方はその 強制労働、精神外科等精神唇 (7) 題が横たわって」いたと。」 議論を展開したいと考えろ。 「精神障害」者に対する刑事「責任化」について 精神外科等精神医療で問題となったすべてに、病者の同意の不在(一方的誇りの侵害、医療の奴隷化)の問 (7) って」いたと。われわれは、この精神医学者の一百葉を、先の疑問に対する根本的な回答として受けとめつつ、 一一一
沖大法学第八号 四 (旧) 者を危険視する考え方と表裏一体であるとの主張も見られたが、それは以上のような複雑な事情を物語っていろ。勿論、 「責任化」という問題設定が、「精神障害」者に対する安易な処罰の追求に終始することは、決してわれわれの望むところ ではない。この意味において、「日常的な社会生活上の責任をもてる人たちであることを強調することと、刑事責任能 (M) 力を厳密に問うこととを、明確に区別しつつ、その関係を明らかにすることは、△丁後の大きな課題といえるでしょう」と いう精神医学者の指摘には、大いに傾聴すべきものがある。われわれの意図としては、むしろ、ある意味で極端ともい える右の問題設定(「コペルニクス的転回」)から、罪を犯した「精神障害」者の側に身を置きつつ、今日の様々な刑 事法上の問題点を浮かび上がらせることにある。 あらかじめ以上の事柄を深く心に刻みつつ、まず、オモンテ論文の要約から始めたい。 (1)本論文は、精神医学の専門家によって書かれているところから、フランスの「反精神医学」的立場の一端を知るうえでも有益 であると思われろ。なお、われわれは、とくに精神医学上の議論に注目しつつ、本稿での考察を進めたいと考えろ。 (2)「精神障害」という語は論者によって用いられ方が必ずしも一様ではない。精神保健法三条は、精神衛生法同条の定義を何ら 改めることなく、「精神障害」者として、精神病者・精神薄弱者・精神病質者を掲げたが、たとえば、「精神病質」をめぐっ ては、周知の通り多くの疑義が出されており、問題がある。本稿では、これらの状況を踏まえつつ、便宜的にこの語を用いる が、主としては(狭義の)精神病と呼ばれてきたものを念頭に置いていろ。なお、オモンテ論文の紹介に際しては、翻訳の関 係上、「精神病」という語も多用している。 (3)拙稿「フランスにおける精神病者の刑事『責任化(円のので。□⑫、ロ]】の島:)』をめぐる動向-ポンセラ論文を契機としてI」法 と政治一一一八巻一号一六九頁以下参照。 勿論、フランス以外にも、この種の主張は古くから見られる。たとえば、「反精神医学」の代表的論者とされるサズは「精神病 (日のロ国巨]一口のの、)を免責条件と考えるのをやめよう。犯罪者を責任ある人間として扱うことによって。…:われわれは人間
(4)たとえば、林美月子「責任能力規定をめぐってl模範刑法典修正アプローチとメンズ・レァァプローチの対立I」神奈川法学 二二巻二号一一一一一一頁以下、同「精神障害犯罪者に対する有罪判決-ミシガン州の立法をめぐってI」神奈川大学法学研究所研 究年報九号七七頁以下、岩井宜子「責任無能力抗弁廃止論とその問題点」金沢法学二九巻一・二合併号一一一七一一一頁以下参照。 もっとも、精神医学者や「精神障害」者は、比較的早くから本稿とほぼ同様の観点に立ちつつ、問題を論じていた。たとえば、 精神医学の専門家として、山本巌夫「精神鑑定について」精神医学一一○巻一二号一一一一六一一一頁以下、中山宏太郎「刑事精神鑑定 についての一考察」精神医学一一○巻一二号一一一一七一一一頁以下など。また、「精神障害」者の千になるものとして、吉田おさみ 「〃狂気〃からの反撃I精神医療解体運動への視点-』(’九八○年)、同『「精神障害者」の解放と連帯』(’九八三年) など。なお、この点にかんする近時の興味深い議論として、木村敏他「共同討議〈分裂病〉をめぐって-固有名詞の欠如。不成 立-」季刊思潮一一号(’九八八年)一一七頁以下参照。さらに、|連の佐藤論文(佐藤直樹「責任能力判断における生物学的/ 心理学的構成批判序説l分裂病問題を中心に1」九大法学四七号一頁以下、同「責任能力概念の再検討-分裂病問題を中心 にI」精神医療一四巻一一一号七五頁以下、同「責任能力判断の『心理学的』再構成lわが国の分裂病判例の批判的検討を契機と してI」九大法学五六号二一一七頁以下)は、本稿とやや視点を異にするものの、やはり責任能力概念の再検討を促す注目すべ (5)前掲拙稿一七六頁参照。 (6)岡上和雄他『市民の精神医療I心の病いを理解するために-』(’九八八年)三一一一一頁参照。 (7)花岡秀人「矯正から治療へlいま精神病院で求められていること-」精神医療一五巻三号一一一頁。 (8)福島章「精神鑑定-犯罪心理と責任能カー』(’九八五年)三○○-一一一○|頁。また、保崎秀夫「精神分裂病と躁うつ病の責 任能力」臨床精神医学一一一巻九号一○八九頁以下、山本巌夫。前掲論文一一一一七○頁参照。 (9)西山詮『精神衛生鑑定の実際』(’九八四年)六八頁。意識障害や重度の精神遅滞の場合などが、同意能力に欠ける事例であ ると思われる。なお、先に「改正」された精神保健法が新たに「任意入院」の規定を設けたのも、「障害」者の同意能力を前 提としてのことであろう。いずれにせよ、医学のレヴェルでは、その同意なり不同意なりを「障害」者の真意と見倣すかどう かIとくに治療の拒否はまさに疾病(症状)のあらわれではないのか-、また、その真意か否かをどのような解釈用法によっ ろ 。
であり続ける唯一の機会をかれらに与えるのである」(の閏のい)トロg》諄国ご》§&、ご〉&旨『q》后$〉b」弓・)と述べてい
きものである。 「精神障害」者に対する刑事「責任化」について 五われわれは、冒頭に掲げたテーマ、すなわち、「精神病者、法、きまり」を、今日ではもはや古くなってしまった薙
別的な二つの法、つまり、一八一一一八年六月一一一○日法と一八一○年刑法典六四条、に焦点をあてて展開したい。しかし、
それに先立ち、精神病者に直接かかわりのある主要な法を、公布された順序で概観しておく。
て理解するか、といった種々の微妙な疑問がさらに問われることになろう。ただし、たとえば「治療の拒否」を安易に強制治 療の糸口とすることは、大きな問題である。以上の点につき熊倉伸宏「精神科治療におけるbgの日呂の日と自己決定に関する 文献的な考察」精神神経学雑誌八九巻八号五九三頁以下、同「服薬拒否をする一精神分裂病患者の治療例の報告I『知らされ た同意』と「治療のための強制』の関連性をめぐって-」精神神経学雑誌九一巻二号七三頁以下参照。 (Ⅷ)田原明夫「精神衛生法と関連法」精神医療一五巻二号四八頁。なお、安田好弘「精神障害者に対する資格制限」(戸塚悦朗、 広田伊蘇夫編『精神医療と人権[2]人権後進国日本」(一九八五年)’一一二頁以下所載)をも参照。 (、)条令レヴェルでも、議会の傍聴制限、公民館・図書館・公立プール等公的施設の入場制限、観光施設や公園の入場制限、公的 役職の欠格条項など、多数が存在する。 (皿)中山宏太郎「精神衛生法改正国際フォーラムの決議と法改正に関する私見」精神神経学雑誌八九巻一号一頁以下参照。 (旧)吉田哲雄、西山詮「脳器質患者の刑事責任能力について1狂犬病予防注射による脳炎後の一例に関する内村。吉益鑑定の批判 をふくめてl」精神神経学雑誌七四巻一号一三頁。 (u)田原明夫「第三回法と精神医療学会報告」精神医療一七巻一一号一○七頁。 本章では、オモンテ論文を要約して紹介する。なお、(注)は紹介者が付したものである。 沖大法学第八号 二、オモンテ論文の紹介 未来来来米来米 六ていろ。 (3) ③白[由サーヴィスまたは開かれたサーヴィス この入院様式は、一八三八年法には規定されておらず、通達によって規制されてきた。 (4) ④危険なアルコール中毒者についての一九五四年四日二五日法 (5) |⑤成年無能力者の権利を改正する一九六八年一月一二日法 この法により、禁治産の制度にかえて、司法救助、保佐、それに後見の制度が新たに設けられた。 (6) ⑥麻薬中毒、および有毒物質の不正取引・不正使用にかんする一八七○年一二月一一二日法 (7) 一⑦ハンディキャップを,もつ成年への援助措置を定めた一九七五年六月一一一○日法、およびその適用にかんするデクレ では、こうした法は何をもたらすのであろうか。そこにみられる善意とは裏腹に、それらの,もつ差別的性格は「寛大 な」世論をいやがうえにDも映し出していろ。そして、その世論の「同情(哀れみ)」はハンディキャップをもつ人に対す る優越感(あるいは軽蔑?)の変形であるといえよう。ハンディキャップをもつ人は「他の人と同じではなく」、また (1) ①一八一○年刑法典六四条 「被告人が行為の時心神喪失(忌日①ロ・の)の状態にあったとき、または抵抗不能の力によって犯行を強制されたと き、重罪または軽罪とならない」。 (2) ②一八一一一八年六月三○日法 この法は、今日では、公衆衛生法L・’一一二六条からL・一一一五五条に取り入れられていろ。この一八一一一八年法の精神は、 援助と慈悲である。立法者は、個人の自由と人身の保護を保障するために、病院への収容手続きをコントロールし 「精神障害」者に対する刑事「責任化」について 七
「われわれにとって幸いなことには、われわれは彼らのようではない」のである。精神病者にかんする諸法がもたらす のは、このような(差別的)帰結である。 精神病者には、彼が罪を犯していようといまいと狂人({○口)および狂気({・房)に対する時代遅れの恐怖がつき まとう。(われわれの)無意識の奥底にしまい込まれたこの狂気が、われわれを怯えさせろ。つまり狂人は危険である、 と。この点については、一八三八年法を引用すれば足りろであろう。同法によれば、措置入院は「公の秩序および人身 の安全にとって危険である」個人を収容するものである。この法のもとでは、精神病者は話したり要求したりする主体 としてではなく、もはや人格をもたない気の触れた者(四]爾急の)として扱われろ。ここから次のような帰結が導きだ されろ。 ③責任の喪失(およびこの観念の減少と消滅)。 ④他者との関係の喪失。 ②公民権や法的権利の喪失。 ①街から遠く隔たり、高い塀で囲まれた精神病院への封じ込め。 ⑥アイデンティティーの喪失。 ⑦願望の取り下げ。本人は自分の意向を抑圧される。その者の要求は認められえない。確かに、彼は話すことはでき るが、その申し入れは「妄想に冒され、非現実的で、理解できないもの」、したがって誤っているもの、として受 け取られろ。気の触れた者はことばをもたず、もはやその境遇を左右することはできない。(病院への)封じ込め ⑤社会目標の喪失。 沖大法学第八号 八
煙精神病者の地位、つまり、願望の取り下げや自分自身の否定をともなう地位、を結局は強化するものである。 以上が、’八三八年法からの帰結である。 一方、’八一○年刑法典六四条についてはどうか。この法により、犯罪者は自由の身となるか‐これは例外である-、 措置入院に付きれ精神科医およびその配下の者の恐意に委ねられるか、のどちらかである。そこにみられるイデオロギーは、 表面的には(やはり)善意ということである。つまり、犯罪者は司法の手から免れ、罰せられずに済む。しかも、患者 は治療を受けろ。これも、やはり積極的な事柄である。しかし、(それにもかかわらず)この古くなってしまった六四 条の消極的効果を認めないわけにはいかない。その消極的効果とは、話すことのできない者、ことばをもたない者、に 耳をかさず、その者を理解しようとしないことである‐「理性を欠いているがゆえに」その者にはことばが通じず、ま たコミュニケーションもできない(とされろ)1.刑法六四条による犯罪行為の否定(「重罪または軽罪とならない」) は、犯罪行為者の否定、したがって、患者自身の否定・その者のアイデンティティーの否定、にまで至りうる。以下で は、このようにして刑事裁判を免れた者が、これを不思議な処罰で代替する事例を紹介したい。ローゼン(”・の:) によれば、実際に制裁(処罰)が加えられない事態が生じた場合、精神病者は、その制裁に代えて架空の処罰‐それは 自滅に追いやられるほど、極めて恐ろしいものであるIを引き受けろという。ローゼンによれば、精神病者はこうする ことで罪責を負担していると考えられろ。 事例一類破瓜病者のデーースは、彼の内妻の子供を、何度も暴行を加えた末に殺害した。彼は、(その殺害行為に対 する)無意識下の罪責感から、数多くの自傷行為に走る。その意味するところは、被害者との同一化である。しかし、 「精神障害」者に対する刑事「責任化」について 九
そうした自己処罰は、犯罪行為に対する制裁をうまく代替するものとはならず、このため、彼は、処罰を受けるために、 病院の保安区画に移されることを要求する。 事例二母親を殺害したパラノイア性精神分裂病者のR・Bは、刑法六四条により予審免訴となり、措置入院に付 された。しかし、犯罪の動機はせん妄(精神錯乱)によるものではなかった。彼は、母親に多くの不満を抱いていたの であるl母親への復讐の念にかられての犯行であった1.彼は手紙で裁判を受けたいと申し入れたが、その文面には、彼 を犯罪へと駆り立てた実際の理由、つまり、父親と自分を虐待する母親への復讐心、が述べられていろ。 事例三M・Wは斧で母親を殺害した。彼には幻聴があり、その声は彼に「母親を殺害するよう告げていた」。彼 は病院に収容されろ。事件の背景としては、母親が彼の小遣いを制限するなど、ふたりの間の不仲がみられろ。この場 合、せん妄は、問題を覆い隠す鍋蓋のような役割を演じていろ。つまり、人はせん妄患者とその幻聴だけを理解するの であって、患者自身や彼の重要なことばを理解していないのである。 事例四,。Eはポケットナイフでチュニジア人を刺し殺そうとした。彼は「(ドイツ)第五帝国をうちたて、そ こで要人になるはずであるが、そのためには、すべてのアラブ人とユダヤ人を殺害しなければならない」という。,。 Eは無罪となり、病院に収容された。故人である彼の父親はナチであり、人種差別主義者であった‐,。Eと父親 との同一化-。彼は、自分の名前をドイツ語風に発音し、あらゆるフランス語の発音をドイツ語読みに訂正していろ。 彼には、人種差別を促したドイツ法とこれを禁止し処罰するフランス法との間の、葛藤が見られろ。彼は、自己の国家 的・文化的同一性、つまり「ドイツ人の」父親グループへの帰属とフランス出身であった母親グループへの帰属Iこの 母親は名前も言語もフランス語圏であったl、をめぐる動揺から永遠に免れることはない。 沖大法学第八号 一 ○
④判決に対しては、誤りがあり不備があるとする。また、措置入院とそれにともなう収容期間を、この「わずかな過 ち」に照らして、不正かつ法外であると考えている。 論文を終えるにあたり、刑法六四条にもとづいて予審免訴を言い渡された後、措置入院に付された九七名の殺人者に ついての所見を要約し、われわれの研究を補足しておきたい。 ①全体として、彼らは後悔を感じていない。つまり、彼らは数多くの弁解を工夫し、事実を過小評価し、口実をもっ ていろ。こうした態度は、自己の絶対視に連なる。 ②通例、世をすねた態度、自慢癖が見受けられろ。被害者に対して非常に強い軽蔑をあからさまにする者もいる。 ③行為の否認がしばしば行なわれろ。加害者が被害者のように振る舞うことで、両者の地位が逆転させられる場合ま (2)この法のどく簡単な紹介として、拙稿「フランス刑法における責任能力論の変遷と限定責任能力問題’一九世紀を中心にし て-」法と政治三六巻一号一五八頁参照。 (3)エーら(国のロ1厘》勺・因の『:aの【○ヶ・国国、の①【》』昏冒⑯一号、ごs国辱計。mのaJご田・ロ・巨召)によれば、’八一一一八年法l 基本的に施設内治療をめざす収容主義的法律-に服さない(自由診療中心の)入院様式がこのように呼ばれ、’九一一一一年にア ンリ・ルセル(国のロ『】0用・ロの⑪の]]の)病院でトゥルーズ(目・巳・息の)が始めたという。 (4)この法は、現在、公衆衛生法(Caのeの一四切目扇でロニロロ①)L・一一一五五-|条以下に取り入れられている。 (5)この法は、民法典一編一一章を全面的に改正するものであり、同時に、一八一一一八年六月三○日法を廃止するものであった。 (6)この法は、現在、公衆衛生法L・六一一六条以下に取り入れられていろ。なお、同法L・一一一五五1一四条以下が、麻薬中毒者に (1)この条文については、拙稿「フランスにおける刑事責任能力論I責任能力基準の問題を中心にしてI」法と政治一一一三巻一一一号 で見受けられる。 一四七頁以下参照。 「精神障害」者に対する刑事「責任化」について
前章で紹介したオモンテ論文には、犯罪が本人の心理的葛藤を解決しようとする手だてとして犯されることを力動精 神医学的に巧みに描きだすなど、種々の興味深い点が見られるが、以下では、本摘の主題である「責任化」の問題に焦 点を合わせつつ、若干の考察を試みたい。 オモンテ論文は、「精神障害」者を取り巻く諸法(法制度)、とりわけ、わが国の精神保健法に相当する一八三八年 法、が「障害」者を疎外する役割を演じていると厳しく指摘する。その根底には、今日の法と精神医療全般に対する不 信感・猜疑心が横たわっていることを窺わせる。この意味で、本論文は「反精神医学」の立場にも親近性を示すもので (1) あるが、フランスでは、|部の医療関係者から同様の自己批判的主張が久しく提起されてきた。 さらに、この場合、刑事責任能力制度は、たとえば、精神医療施設への強制入院といった治安・医療政策と血結してい るところから、やはり医療関係者の厳しい批判にさらされてきた。この点は、オモンテ論文にもはっきりあらわれてい たところである。とくに本論文では、わが国の刑法三九条一項に類似する刑法六四条の消極的・否定的効果として、そ れが「精神障害」者のことばに耳を傾けないことや「障害」者を理解しようとしないことが指摘され、また、同条によ 対する治療処分関連の規定となっていろ。 (7)この法は、障害者基本法(㈲・】9..回の日呂○コのロずぐのこ『」のの己の『の○口目の⑫宮口&8つ、の叩)と呼ばれ、「それまで個別に発展して
きた障害者制度の関連を見直し、統合と簡素化を図ろことが目的とされた」。社会保障研究所編『フランスの社会保障』(一九八九
年)一一一○七’一一一一一頁、とくに一一一○八頁参照。 沖大法学第八号 三、オモンテ論文の検討 一一ろ犯罪行為の否定が、結局、本人のアイデンティティーの否定にまで至りうることが指摘されていた。この指摘の意味 を、オモンテが紹介していた事例三に則して具体化してみるならば、本人がせん妄に冒されていることばかりに関心が向け られ、彼が母親に恨みを抱いていること、つまり通常の犯罪者と変わらない犯行動機を備えていること、が軽視された ようである。ここから、筆者のオモンテは、せん妄を、問題をおおい隠す「鍋蓋」にたとえていたわけである。そこに 潜む論点は、次のような典型的事例を想起すれば、一層鮮明にあらわれるであろう。すなわち、「精神障害」者が確固 たる決意のうえで罪を犯し、さらに、この罪に対する責任を負担したいと真剣に望んでいるような事例である。オモン テ論文で紹介されていた事例一・二が、これに該当するであろう。このような事例を「病理的な受罰欲求」による例外など と規定し、真面目に取り合わないのはたやすいが、そうすることによって、「精神障害」者が責任(自己決定)の主体 として軽視されているのではないかという、深刻な疑問はまったくかえりみられないことになる。確かに、刑罰を受け たいという欲求自身、一般人の理解を越えろ「不幸な」心理状態であるともいえるのであり、したがって、心理療法的・ 精神分析的な働きかけによって、その原因を探り解消することが、本人の利益にかなうともいいうる。また、「障害」 者の言分を額面通り受け取ることにも問題がないわけではなく、むしろ一定期間静観する‐この間に心理的変化が生じ るかもしれない‐といった態度が必要な場合もあろう。しかし、およそ「障害」者の言動を疾病のあらわれとして、 安易に無視・軽視することの危険性は、やはり否定しようがない。この意味から、たとえば「裁判官が鑑定人の(責 任無能力を示唆する)主張を採用しない場合、被鑑定人の言動の中に示す見せかけの意思自由、そういうものに裁 (2) 判官や検察官が幻惑されやすい。そのために双方の意見の食い違いを生ずるのだ」との精神医学者の嘆きは、「精神 障害」者が「障害」のゆえに意思自由を喪失し、「見せかけの意思自由」しかもちえないように見倣すものであり、疑 「精神障害」者に対する刑事「責任化」について 一一一
問を禁じえない。事実、「鑑定人は裁判官の『疾病』概念に対する無理解を嘆く前に、自らの信奉する神話体系が現実 (3) や常識とどれほど食い違ってほころびつつあるかを反省すべきであろう」と別の精神医学者は述べているほどである。 要するに、「精神障害」者も通常の犯罪者同様、犯行に至った動機や経緯を表明したい場合であっても、十分に取 り合われないまま医療施設に送られてしまい、裁判への道が閉ざされてしまうとすれば、問題の根は随分深いといわな ければならないのである。精神医学者も、責任無能力制度が「それ(自己の犯罪行為)を刑罰をうけることになって償な おうとしている人に、その途を閉ざし、ひいては、時に、自殺に導く」、「法を犯しても、あるいは、犯すことによっ (4) て主張しようとする思想を抹殺する」と指摘していろ。 加えて、罪を犯した「精神障害」者は、刑事司法の手に委ねられないときも、自由の身となるわけではなく、精神病 院への強制入院に回されることが多いのは周知の通りであるが、安易なマスコミの取り上げ方も手伝って、「障害」 者に対する偏見が根強くみられる現状では、精神医療施設への入院(歴)は、「刑務所帰り」とかわらず、あるいはそれ以 (5) 上に、本人の将来にわたる生活を破損する原因たりうることにも、留意すべきである。さらに、入院(歴)は、四○○ にものぼるといわれる資格制限条項や欠格条項に形をかえて「障害」者を取り囲む。確かに、これらの問題は「精神障
害」者全般について妥当するものであり、何も罪を犯した「障害」者に限られるわけではないとはいえ、犯罪者でしか
も「精神障害」者であるというレッテルは、本人にとって二重の厳しい足伽になるといえよう。 このように考えてくると、罪を犯した「精神障害」者は無罪あるいは不起訴とされ、しかるべき医療施設での治療に (6) 付されるべきであるという、|見「人間愛に発するものである」かのように主張される見解には、「障轆巳者が法と対 時する機会を奪ってしまい、本人を忌み嫌われる対象にしてしまうという、消極的な一面が含まれていろともいえる。 沖大法学第八号 一 四精神医学者も「刑事責任無能力とされろと、あらゆる人格性が無に帰せられたように考える風潮が世間にあり、この現実
(7) は侮り難い力をもっていろ」と述べ、また「このように心神喪失あるいは耗弱として扱われ罪を減免されることが同時 に精神異常の烙印となり、ときには被鑑定者が信念をもって行動したことが精神異常に帰せられ、社会的に無価値とみ (8) なされて行くことがありうる」と述べていろ。そして、実際にも、こうした観点から、様々な刑事法上の問題点を摘出 することができるように思われろ。次章では、これらの若干を提示してみたい。まず、罪を犯した「精神障害」者が不起訴(あるいは起訴猶予)とされる場合の問題は、無罪の事例と比較して、従
(1)拙稿「フランスにおける精神病者の刑事『責任化(Hの:目の四三尉呂・ロ)」をめぐる動向-ポンセラ論文を契機として-」法 と政治一一一八巻一号一六九頁以下、とくに一七七頁参照。 (2)第七四回日本精神神経学会総会「シンポジウムⅡ『司法精神鑑定』」における小田晋氏の「発言」精神神経学雑誌八一巻四号 (3)福島章『犯罪心理学研究I』二九七七年)二八五頁。 (4)中山宏太郎「刑事精神鑑定についての一考察」精神医学二○巻一二号一一一一七四頁。 (5)「長期にわたる措置入院の中で自殺していく、責任無能力犯罪者の例はいくつも知っている」との精神医学者の指摘(中山宏 太郎・前掲論文二一一七五頁)にも傾聴すべきものがある。 (6)中田修「司法精神鑑定の争点」臨床精神医学一○巻七号七九三頁。 (7)西山詮「刑事責任能力と保安処分」精神医療一一巻一号六九-七○頁。 (8)吉田哲雄「精神鑑定論の最近の動向」精神医療一一巻三号一○頁。なお、第七四回日本精神神経学会総会「シンポジウムⅡ 『司法精神鑑定』」における同氏の「発言」精神神経学雑誌八一巻四号一一四一頁をも参照。 二六六頁。 「精神障者」者に対する刑事「責任化」について 四、わが国の問題状況 一 五一一ハ(2)
沖大法学第八号 (1)来、必ずしjb注目されてこなかったように思われろ。しかし、心神喪失で(第一審)無罪が年間一○名弱であるのに対
して、不起訴は四○○名前後にものぼるのを見ても、その重要性は再認識されるべきであろう。その際、起訴前鑑定
(簡易鑑定・嘱託鑑定)のはたす役割には、とくに留意しなければならないと思われる。 起訴前鑑定のもとでは、鑑定人が一定の人に限られ検察官と鑑定人との癒着が著しいなど、種々の弊害が指摘され (3)てきたが、むしろ、本稿との関連でより根本的な問題は、|般に犯罪事実がはっきりしないにもかかわらず、「奇妙な
(4) 人物がおかした理解し難い事件」として穏密裡に事件が処理される恐れである。精神医学者は実際に起きた事件をもと に、次のように述べていろ。「起訴前鑑定により、心神喪失になった被疑者が、裁判を受ける権利も喪失するというの は、|つ問題があると思う。特に、犯行事実が暖昧であったり、疑惑がもたれる場合は、余計に問題があると思われ ろ。……この(事件の)場合、不起訴となることで真実は争われず、犯人とされた精神障害者は、措置入院させられろ (5) ことで口封じが行われるのである」と。「精神障害」者自身jb、当然この問題を深く危棋しており「起訴前鑑定の問題 は私たちが非常に恐れていたことです……法廷で、病気を押してでも言いたい正当防衛論はあるはずですけれども、E (6) 当防衛を含めて冤罪まで、私たちは争う権利を剥奪されていく」と。 (7) このように、起訴前鑑定は、反証不可能な「冤罪による不定期の強制入院」に寄与しているのではないかと疑われ4℃ (8) するのである。勿論、ここからただちに「精神障害」者を努めて起訴すべきであるとの一般的結論を導くのは、非術に 短絡的で危険である1突き詰めていえば、各事例ごとにケース・バイ・ケースで考えなければならない問迦である‐。 国家刑罰権を軽視してはならない。われわれにとって重要なことは、「精神障宵」肴にとっての、起訴前鑑定の問越点 を浮かび上がらせることにある。他方、弘前事件の丸井鑑定のように、被疑者を真犯人であるかのように記載し、冤罪(起訴1公判維持の根拠作り) (9) に導いた起訴前鑑定もあり、、右に述べたこととは違った意味で留意する必要がある。近時、静岡地裁で再審無罪が決定 (、) した「島田事件」における林・鈴木鑑定‐これは起訴後の鑑定ではあるが‐にも、やはり同様の問題が認められろ。 以上から、簡易鑑定については、被疑者の同意を鑑定実施の要件としてとくに重視しなければならない。また、嘱託 鑑定についても、立法上、被疑者の鑑定拒否権や鑑定人選択権などへの考慮が必要になってくるようにも思われろ。そ (Ⅲ) して、いずれの場合にも、犯行の有無すら疑わしいときに鑑定を実施することは慎むべきであろう。 ただし、起訴前鑑定にはこのような消極面ばかりでなく、それが場合によっては被疑者に救急的医療を提供するとい う意味において、一定の積極的意義をもちうることにも留意する必要がある。 裁判段階での鑑定(公判での鑑定)に関連しても、やはり同様の問題がある。精神医学者は次のように述べていろ。 「裁判の過程で、弁護側が無罪をかちとる手段として精神鑑定を用いようとするとすれば、これは危険な企図である。 現状では、鑑定に付されて異常(『異常性格』を含めて)とされればなおのこと、単に鑑定に付されるだけでも、その 被鑑定者は精神とくに『理性』の欠陥を有するものとして世人に印象づけられるであろう。その結果、被鑑定者が何ら かの思想、主義主張を言動にあらわしたとしても、その言動の意味が世人から軽んぜられろことになるであろう。かく (皿) して、手段としての鑑定申請は、かえって被鑑定者の一一一一口論を圧迫する危険があるのである」と。 勿論、この場合にも、たとえば、鑑定申請を極力避けるべきであるという結論を安易に導き出してはならない。それは、 とくに死刑事件を想起すれば明白であろう。また、鑑定が国家刑罰権に対する一定の抑制力をもちうるとも考えられろ。 ただ、先にも触れた通り、鑑定が冤罪に寄与するという皮肉な一面を備えていることや、さらには、右の精神医学者に 「精神障害」者に対する刑事「責任化」について 一 七
見られる見解が、従来、法律家の等閑視してきた重大な核心を突いていることだけは、確認しうるであろう。「障害」 者自身も「鑑定で精神障害ありとされることによって、訴訟上は責任がないということで有利にはなるが、精神障害の烙 印を押されることによって社会的に抹殺されろ。だから一概に精神障害ありとすることによって刑が減免されるのが (旧) 被告人にとってよいとは限らない」と述べていろ。 さらに、この公判での鑑定をめぐっては、「コンベンション」の確立や鑑定結果の拘束力などが問題にされたりもす る。しかし、後述する通り、精神医学の実状に眼を向けるならば、なお慎重な態度が必要であるように思われろ。むし ろ、鑑定手続きの適性化をはかるなどのほうが先決であろう。この意味から、たとえば、鑑定人の偏りを防ぎあるいは (皿) 鑑定の公平さやその質を確保するための「鑑定人リスト」の作成なども一考に価しよう。 しかし、そもそも人が人を鑑定するという営み自身が大きな問題であることを、あらためて銘記したい。「鑑定する 側の判定基準や診断的枠組で、『される』側を一方的に評価判定し、『される』側はただ観察対象として客体化されつづ (脂) けるという構造は、すべての精神鑑定状況に辻〈通する」ものであってみれば、鑑定とは、このような構造のもとに、相手 (応) を自己の管理支配下に置くものではないかが、根本的に問われなければならないように思われるのである。 つぎに、責任能力の判定基準にかんしても、大きな反省が求められるのではないだろうか。判例・通説とされる混合的 方法の「生物学的要件」(「精神の障害」)をめぐっては、しばしば議論されてきたことではあるが、その枠組みを提 示すべき精神医療実務や精神医学概念の混乱が気にかかる。極端な例では、A、B、C、一一一名の医師が同一の「障害」 者を診断し、Aが分裂病、Bが神経症の一種、Cが思春期危機、との結論を下すこともあるという。勿論、鑑定のレヴ ェルにおいても、結論のくい違いはしばしば確認・指摘されるところである。また、「生物学的要件」のみならず、「心理学 沖大法学第八号  ̄ 八
的要件(事実)」の鑑定もさらに困難を極めるのは、周知の通りである‐ただし、鑑定と診断とは、前者が一瞬の出来 事を把握しようとするのに対して、後者が当事者の生活全体を比較的長期間にわたって問題にする点で異なることに 注目しなければならないI。加えて、かつての「精神病質」や現代の「人格障害」(DSMlⅢRの分類)、さらには (Ⅳ) (旧)
「ボーダーラインケース」あるいは非定型精神病のように、各人によって用いられ方が異なる争いのある概念では、そ
こに医療を越えた社会的意味、たとえば、「障害」者の社会的危険性や社会的不適応性、が入り込むおそれは否定しえ ないであろう。これらの問題は、精神医学的知識の刑法学あるいは刑事実務への導入に、|定のためらいを抱かせろI 勿論、広く「精神障害」自身にそうした問題性が含まれていろともいいうるのであるがI。確かに、「精神障害」の存 在まで否定し去ることはできないが、そのあいまいさを再確認するとともに、さらに、そこでの「障害」とは、基本的 に、他者に対する関係、たとえば「あしでまとい」になるとか不安・危険を与えるとか、からではなく、本人自身が社 会生活に支障をきたすという観点から、理解されるべきであろう。 (旧) もっとも、以上から、さらに進んで「精神医学が未発達な、発展途上にある学問であること」を、ことさら強調する (卯) つもりはない。刑法学を含めて、およそすべての学問が未熟であるともいえよう。 いずれにせよ、おそらくは、右のようにあいまいな「精神障害」にもとづく免責基準を放棄する方向がめざされるべ きであるように思われるが、その具体的方法に触れることは本稿のよくするところではない。ただ、刑法三九条は「精 (皿)神障害」者と「健常」者とを差別するものであるとし、期待可能性の存否に照らして責任を吟味すればよいとの主張や、
(犯行の)「了解不能」をもちだして免責することに反対し、「障害」者の行為状況を情状の問題として捉えることを (犯) 示唆する主張も見受けられることは、注目に価する。 「精神障害」者に対する刑事「責任化」について 一 九要するに、精神分裂病者Ⅱ責任無能力者といった一般的・画一的免責を主張するのではなく、「障害」者も「健常」 (妬) 者も、具体的状況における個別的検討に応じてその刑事責任を判断すれば足りるであろう。そして、包括的・一般的な 欠格条項(「障害」者差別条項)などに対する批判も同様の視点から可能となる。もっとも、これも問題を単に裏返した (”) |時的解決に過ぎないようにも見え、将来的には国家刑罰権にまで射程を及ぼした考察が必要であるようにも思われろ。 なお、判例が混合的方法に依りつつも「精神の障害」(「生物学的要件」)を必ずしも重視せず、いわゆる「総合的 たい。まず、「『分裂病』という暖昧で偏見の多い、権力側の作った言葉は結局患者の全体像を歪め、民衆同士が分裂 ここで、右の問題が典型的な形で争われろ、精神分裂病者Ⅱ責任無能力者という主張を例にして、若干の検討を行ない (鋼) しP憎しみ合うように作用しやすく、つねに患者の主体的立場を尊重しようとする側は使うべきではないといいたい」 という精神医学者の主張に注目しなければならない。この場合にも、精神分裂病という概念のあいまいさが、やはり問 題になる。分裂病といっても、幻覚・妄想などの病勢の場合と、自閉・感情鈍麻などの病勢の場合とでは、かなりニュ アンスに差が出てこよう。また、しばしば指摘されてきたことではあるが、分裂病者Ⅱ無能力者的主張が、分裂病者不治 論と結びつきうるとか、生物主義的な分裂病観を前提にしているとか、あるいは疾病以外の外的・社会的要因の重要性 を軽視しているとか、の問題を抱えていることにも留意したい。さらに、本稿との関連でより根本的な問題は「分裂病 、 責任無能力論は、.…・・これらの人々の市民としての権利を法的には否定することにつながる危険が大きいように (別) 思われろ」という点である。少なくとも「分裂病責任無能力委細は病者の責任を不問に付するととによって、病者を保 (顔) 護し、その人権侵害を防ぐものである」との主張が必ずしも説得的ではないのは、これまでの本稿の検討からも十分に 明らかであろう。 沖大法学第八号 一 一 ○
判断方法」あるいは「了解的構成」に従っていることはつとに指摘されているところがあるが、その内実は依然あいま いといわざるをえない。今後、さらに検討を要するであろう。 ともかくも、突き詰めれば、責任能力の判定が「病的状態故に無罪あるいは減刑という形で人格を抹殺した上で現実 (犯) 面における利得をあたえるという屈折した構造になっていろ」点を、終始、考慮に入れなければならない。 本稿を終えるにあたり、刑法の分野からはややそれるものの、以上のような諸問題を考察するうえで極めて重要な意 義をもつと思われる自己決定とパターナリズムの問題を、オモンテ論文の背景ともなっていた「反精神医学」の議論に 関連させつつ考察し、筆を置く。 (7)吉田哲雄「精神鑑定論の最近の動向」精神医療一一巻一一一号二七頁。 (8)なお、責任能力と訴訟能力の区別に留意しなければならない。両者は密接に関連しつつも、別個の意義をもつ。訴訟能力に欠 (2)起訴前鑑定については、「鑑定留置の手続をとって行われるいわゆる本鑑定(正式鑑定)が、実施されることは少ないようで (1)保崎秀夫「司法精神医学の問題点」精神医学三○巻四号四六一一一頁参照。 ある。これに代って、より簡便ないわゆる簡易鑑定(精神衛生診断、起訴前鑑定などとも呼ばれていろ)が、ひろく行われて j いる」(青木紀博「責任能力の鑑定一一」同志社法学一一一五巻一一一号七五頁)とされろ。本稿でも、主として簡易鑑定を念頭に置い く ている。 (3)中山宏太郎「刑事精神鑑定の基本的問題」精神神経学雑誌八一巻四号一一五三頁参照。 (4)逸見武光「起訴前精神鑑定の意味と問題点」精神神経学雑誌八三巻一一号七一一八頁。 (5)第七七回日本精神神経学会総会「シンポジウムⅡ『精神鑑定』」における、藤本囲三氏の「追加発言」精神神経学雑誌八一一一巻 一一号七三○’七一一一一頁。 (6)前注「シンポジウムⅡ『精神鑑定』」における、大野萠子氏(「『病」者集団」)の「発言」精神神経学雑誌八一一一巻一一号 七三四頁。 「精神障害」者に対する刑事「責任化」について 一一一
(昭)なお、柴田洋子編「分裂病犯罪の精神鑑定」二九八七年)’八1一九頁参照の j (四)青木紀博「責任能力の鑑定一」同志社法学一一一五巻一号五九-六○頁。 く (卯)中村秀次「刑事責任能力判断と精神鑑定との関連性についての一般的考察」熊本法学一一一八号一八一一頁以下参照。 (皿)吉田おさみ『「精神障害者」の解放と連帯』(’九八三年)一一一一一一’一一一一一四頁。 けるであろう者を起訴した場合、通常、その者は裁判で非常に不利な立場に置かれるが、この能力の有無は、責任能力のそれ と比較して容易に判断できるであろうところから、問題は少ないと思われろ。 (9)青木正芳「いわゆる弘前事件における丸井鑑定について」精神神経学雑誌八二巻一一号六九四頁以下、塚崎直樹「弘前事件に おける丸井鑑定の批判」精神神経学雑誌八三巻一一号一○九頁以下参照。 (、)「弘前事件」、「島田事件」の鑑定をめぐる問題点の総合的分析として、塚崎直樹他「司法精神鑑定と裁判」精神神経学雑誌 八一巻四号一一四一一頁以下参照。 (u)この点は、裁判段階での鑑定にもいいうるところである。鈴木淳二「刑事裁判における精神鑑定の機能-精神鑑定の異常性格 との判断が否定され、心神耗弱が認定された一事例をめぐってI」精神神経学雑誌八一一巻二号七○一頁参照。 (⑫)吉田哲雄「司法精神鑑定と刑事責任能力」精神医療一一巻一一号一一一五頁。同旨として、中山宏太郎・前掲論文二五二頁。 危)第七四回日本精神神経学会総会「シンポジウムⅡ『司法精神鑑定』」における、吉田氏(名前不詳・「『病』者集団」)の「発 一一一一巳精神神経学雑誌八一巻四号二六七頁。 (皿)荒川正三郎「刑事事件における精神鑑定の問題点」精神医学一一○巻一一一号一一一几九’一一一一○○頁参照。 (迫)鈴木伸治「赤堀裁判における精神鑑定に象徴される精神鑑定状況」精神神経学雑誌八一巻四号二六一一頁。また、「精神鑑定 とは〃人間鑑定〃であり、〃世間の期待〃を物差にして、人間を計ることであった」とし、「精神鑑定は、本来、被疑者、被 告人を〃救済〃する制度とされているが、現実には、精神障害者差別をより拡大し、法医学鑑定がそうであったと同様に「検 事や警察の希望する鑑定」として機能してきたのであった」との主張もなされている。佐藤友之『ドキュメント精神鑑定』 (一九七九年)一一一○|、三○五頁。 (咽)鈴木伸治・前掲論文二六二頁参照。 (Ⅳ)保崎秀夫・前掲論文四六七頁、さらには、宮崎隆吉「『ボーダーライン』概念の歴史的変遷について」精神医療一五巻四号 沖大法学第八号 二六頁以下参照。  ̄ - - -
「反精神医学」のもとでは、心理療法的な働きかけはともかくとして、基本的に実際の臨床の場における(生物学的) 治療は成立しがたいが、それは、はたして妥当であろうか。勿論、かつてのように、「精神障害」者をマイナスのイ メージでのみ捉え、これに治療を施すことによって「健常」者に近づけようとする権威的発想に反発することは重要で も好ましいことではない。 その成立にともなう歴史的・社会思想史的限界にもかかわらず、「反精神医学」が精神医学の「加害者性」を問題に しつつ、「精神障害」者の解放と復権、具体的には「障害」者の自由や主体性の尊重、に一定の貢献をしたことは否定 すべきでないと思われろ。しかし、それがややもすれば、正常性の神話を批判するかわりに排除された者についての神
話をうちたてるものであったら凸にも、留意する必要がある・それは、以下に述べる通り、「障害」者にとって必ずし
(配)その際、精神医学者が一定の役割を如 (躯)武村信義「精神分裂病者の責任能力 常に考慮されるべきものと思われる。 (麺)山本巌夫「精神鑑定について」精神医学一一○巻一一一号一三七○頁。 (羽)栗本藤基「『精神分裂病』という概念の批判-『陰陽原理』を軸にしての試み-」精神医療一七巻一一号八九頁。 (型)福島章『犯罪心理学研究I」(一九七七年)二八五頁。 (妬)武村信義「精神分裂病者の責任能カー福島論文の批判と社会復帰した病者の場合について-」犯罪学雑誌四五巻一一号一一一一一頁。 (妬)その際、精神医学者が一定の役割を担うであろうことは否定しえないものの、本章の本文で論じた精神医学の不確かな実情は、 (”)西山詮「刑事責任能力と基本的人権」精神医療三巻四号六一頁参照。 (躯)鈴木伸治・前掲論文一一六○頁。 「精神障害」者に対する刑事「責任化」について 五、精神医療における自己決定とパターナリズムlむすびにかえてI  ̄ =  ̄  ̄以上は、主とし一 難な問題が生じる。 何よりもまず、 も、治療(行為)を否定するのは、やはり問題であろう。前述したような限界にもかかわらず、・治療や医療の意 は残る。典型的には、本人自身が幻覚・妄想などで非常な不安や恐怖に怯えている場合などである。このような場合に しかし、こうした事情にもかかわらず、本人のための治療(医療)ということを、どうしても考えざるをえない事例 (3), 義・重要性を決して軽視すべきではない。ただ、何が本人のための治療かは当然慎重・厳密に判断されねばなら ない。そして、場合によっては、何もしないことが本人のためであると判断せざるをえないことも起りうる‐い わば「表の」(治療を施す)パターナリズムと「裏の」(治療を控えろ)パターナリズムの葛藤‐。 以上は、主として非強制治療を前提としての議論であるが、強制治療をめぐっては、さらに、以下に述べるような困 療が「暗く淀んだ世俗的社会」に連れ戻そうとするだけのものであるならば、「病気が治ろっていうのは、まったくつ 療による自由回復の可能性、医師の権限の絶対化、など多くの問題があろう。また、社会復帰という美名のもとに、治 の領域でも暗黙の前提とされているように見えろ。しかし、「障害」者をそのような不自由者と見徹すことの妥当性、治 ある。この点、「精神障害」者を疾病による「不自由」者と規定し、治療によりその自由の回復をはかることが、医学 (2) まらない人間になるみたいで、いやに思うときもある」というある分裂病者の止口白には、考えさせられるものがある16 つとも、これはきわめて特殊な例であって一般化しえないうえに、病気(分裂病)をあまりにも美化しすぎてはいる がI。さらに、「精神障害」として治療されてきた事例の中には、明らかに治療になじまない状態・症状が存在するか もしれない。 沖大法学第八号 過度の医学的介入に警戒を怠ってはならないのは、疑いえない。「障害」者の口己決定を問題にす 一 一 四
以上、若干の基本的問題を指摘してきたが、本稿では、これらを詳しく展開する余裕はない。また、たとえば「精神 (7) 障害」者に対する措置など触れることのできなかった問題も多い。いずれも△丁後の課題としたい。 もなりかねない。具体的には,「患者が明らかに自己に不利益な主張をしている場合でさえも、自己決定をしているか ろひとつの理由も、ここにある。しかし、自己決定の重視・尊重は、他面、医学的決断を患者の責任に転嫁する口実に (4) らという理由で放置される危険を含んでいることである」。おそらく、このような場〈ロには、「障害」者の自己決定 (能力)を尊重しつつも、パターナリスティックな強制的介入-行動制限や強制投薬など‐が否定しえないように思わ れる。また、混迷状態や意識障害の場合なども、同様に考えることができよう。要するに、「障害」者の自己決定を過 度に強調するあまり、「障害」者が治療を受ける機会を喪失してしまうことのないよう、常に留意すべきである。ただし、 こうした強制的介入は、種々の条件を満たさなければならないのはいうまでもない。 なお、本人の利益と無関係に強制的治療を云々することも勿論可能であるが、ここでは視野の外に置かざるをえない。 また、いずれの場合においても、「適切な治療」が当然の前提とされなければならないであろう。おそらく、強制入院 (5) が正当化されうるのは、突き詰めれば、「(本人の利益のための)緊急入院」くらいではないかと思われる。 要するに、「反精神医学」以来の「狂気」肯定論も、伝統的な「狂気」否定論同様、|面的であろう。われわれの立 場から後者が受け入れ難いのはいうまでもないが、前者についても、「健常」者を否定することによって、「障害」者 の「健常」者社会とのダイナミックな交流(連帯・融和)を阻害し、主張を独善的・排他的なものへと転落させてしま (6) うおそれは否定しえない。「反精神医学」にかえて「批判的精神医学」が主張されるようになったのも、このような配 盧からかもしれない。 「精神障害」者に対する刑事「責任化」について 一 一一 五
j