Title
ドイツ判例の研究(二の続) ∼不作為による幇助(二)∼
Author(s)
神山, 敏雄
Citation
沖大論叢 = OKIDAI RONSO, 8(1): 1-42
Issue Date
1968-01-31
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/10995
ドイツ判例の研究
(
二
の
続
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J
不作為による帯助(二)
神山
敏
雄
四
学説の検討
) -E A ( シ エ l ンケ・シュレーダーの理論の検討 不作為による智助は法的に可能であるか否かが、本テl
マの問題点であるが、ドイツの学説は、概ねそれを肯定し てきた。しかし、不作為による智助を是認するとしても、その理論構成には区々たるものがある。 不作為による正犯の場合には、不作為者は結果に対して保証義務を有すればよかった。しかし、不作為による帯助 の場合には、第三者の犯罪行為に関与する現象形態である故に、当然、その外に不作為者と犯罪実行者との聞に、 定の人的関係の存在が問題となってくる。 従来のドイツの通説的見解は、不作為者が結果に対してのみ保証議務(結果防止議務)を有し、犯罪行為者とは何 らの人的関係もない場合と、犯罪行為者とは一定の人的関係を有するが、結果に対しては保証関係に立たない場合と を区別することなく、いずれの場合をも不作為による暫助として理論構成してき均吻 通説に対して、シエl
ンケ・シュレーダーは独自の理論を樹立したことが、前号の三において明らかにされた。即 ち、不作為者が保護法益に対して保証関係に立ちながら法益に向けられた第三者による犯罪的攻撃を防止しなけれ ド イ ツ 判 例 の 研 究 ( 二 の 続 )沖大論議 ば、それは不作為による帯助ではなく、不作為による正犯であるとした。然るに、この見解によれば、不作為による 常助の成立範囲は、不作為者が犯罪実行者と一定の人的関係を有する場合に限られる。但し、実行行為者が幼ない子 供か叉は精神病者の場合には、不作為による正犯が成立するとする。従って、 認める。不作為による智助。の成立範囲の一角を塗り変えることになる。 シ エ
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ンケ・シュレーダーは、通説の シ エ 1 ンケ・シュレーダーの理論の根拠は一体奈辺にあるか。それは、法益侵害の危険性の惹起が自然 力によろうと、人聞の犯罪行為によろうと、結果防止義務者が結果発生を認容して不作為簡度に出る点において、両 者には何らの相異点も見出せず、両者は全く同一であるということにある。確かに、此の見解が指摘するが如く、結 そ れ で は 、 果防止義務違反の面から考察すれば、両者を区別する理由はなくなるようにも思われる。しかし、人聞の犯罪行為に より法益を侵害する場合においては、当該行為者が法益侵害の実現を意欲し、結果に致るまで因果関係を現実的に支 配している。これに対し、自然力及びそれと同視され得るような作用(例えば、精神病者による場合)によって法益 侵害の危険性が惹起された場合には、結果に致るまでの因果関係を支配し得る地位は、結果防止義務を有する者にあ り、決して自然力にはない。この点で両者には大きな相違点が見られる。そこで問題となるのは、 かかる相違点を無 視して、た Y 結果ぞ防止しなかったことだけに両者の本質を見出すことが妥当であるか否かである。換言すれば、人 聞の犯罪的行為によって結果が惹起されるのを防止しなかった不作為態度が、自ら作為でもって当該結果を侵害する 場合と同視され得るか否かである。 作為によって犯罪を惹起する場合には、当該犯罪は正犯として作為者自身に帰属することについては何らの異論も あり得ない。ところが、当該犯罪を防止しなかった者が、現実的に犯罪結果を実現した者と同格的地位を得るかにつ いては、価値論的な面から結論は異ってくる余地がある。即ち、少くとも必然的に同一の結論に導くことはあり得なぃ。或る者は、両者は全く同等と評価すべきと主張するだろうし、他の者は、両者は犯罪現象において質的に異なり、 不作為者は封市助者的役割を果しているに過ぎないと主張するだろう。このように両者を価値論的に考察すれば、一一つ 以上の結論が生じ得ることが考えられるが、要はいずれの立場が妥当性を有するかである。そこで、妥当性を決する 素材として考慮されるのは、人間の犯罪行為ぞ防止しない不作為と、既発の結果発生の危険性を利用する不作為とが 全く同一であるか否かである。前述の如く、シエ
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ンケ・シュレーダーの見解は、結果発生の危険性が自然力によろ うと、人閣の犯罪的行為によろうと、不作為者が結果を防止しない点において、全く同一であるという論理的帰結を 一面のみを観察し、それを強調し過ぎるきらいがある。 即ち、人閣の作為によって犯罪を惹起する場合には、現実的に当該犯罪結果を実現するのは作為者自身であり、彼は 当該犯罪結果の原因設定から結果発生まで事件の全体を支配している以上、不作為者には事件の経過の現実的支配が ない。これに対し、人聞の犯罪的行為によらず、自然の因果の流に従って結果発生が進行していく場合及び精神病者 等により結果が惹起されていく場合には、不作為者(保証人)が当該犯罪結果に到るまでの因果関係を支配し得る地位 を有し、それ以外の者には考えられない。このような客観的、外部的事情の相違点を無視して、不作為者の結果発生 素材にして両者を同等と評価している。しかし、この見解は、 を認容する客観的、内部的事情(不作為態度)が同一であるとの理由から両者を同等に評価することは妥当性を欠く。 私見によれば、このような客観的、外部的事情の差異を基にして、第三者の犯罪行為を防止せずに結果発生を認容 する保証人の不作為態度は、作為により当該実行行為者の犯行を容易にする場合と同等に評価すべきであって、自ら 当該結果を実現する作為の場合とは同等に評価すべきではない。即ち、不作為者の態度は、作為者の意図した結果実 現を確実叉は容易ならしめる役割を演ずるものであり、このような結論のみがはじめて一般国民の法感情に合致する も の と 思 わ れ る 。 ド イ ツ 判 例 の 研 究 ( 二 の 続 )神大論叢 四 第二に問題とすべき点は、シエ l ンケ・シュレーダーの見解によると、人聞の作為行為により犯罪結巣を惹起した 場合に、その不防止者たる保証人も同一結果に対して既遂の責任を負わなければならないということである。その場 合に、作為者と不作為者との聞に意思の連絡がなければ、両者は同時犯の関係に立つことになる。 ところが、同時犯の成否を吟味するには、特別規定及ぴ因果関係の存否を厳格に検討した上でなけれぴ、それを論 ずることはできない。それにもかかわらず、彼は無造作に作為行為と不作為行為とが同一結果に対して原因力ありと 認めているところに、一つの問題を残している。 それでは次に作為による同時犯(二
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七条は別) 作為による死因が認定され、ば、他方の作為は未遂とされ、死因が伺ずれの作為によるか Y 不明の際には、両方とも 未遂とされ、致死量の半分ずつの毒を両方が与えて死に導びいた場合も両方とも未遂とされる。更に、両方とも致命 傷を与えたとしても、いずれか一方の作為が時間的にわずかでも死因を早く導ぴいたことが証明され h ば、一方は未 遂とされる。一歩進めて、観念上、同時に死因を与えたとしても、その証明がなされない限り、両方とも未遂とせぎ るを得ない。このように作為における同時犯においては、因果関係の存否の判断が非常に厳格であり、同一結果に対 して両方とも既遂の責任を負うことはほとんど考えられない。これに反し、第三者の犯罪行為による結果発生を防止 しない保証人も正犯であるとする見解によると、作為者も不作為者も常に正犯として同一結果に対して既遂の責任を 負わなければならない。その結果、そこでの因果関係の存否の判断はきわめてル l ズとなり、作為における同時犯の 場合に比較して責任範囲が拡大され、何としてもアンバランスが生ずる。このような点においても、シエl
ンケ・シ ュレーダーの見解には欠点が露見し、妥当でないことが論証される。 について、殺人罪を例にして比較検討してみよう。 ま ず 、 一 方 の 第三に問題となるのは、人的関係に基づく犯罪防止議務が生ずる場合における不作為者は、正犯ではなく常助犯だ とする点である。シエl
ンケ・シュレーダーは不作為者が結果に対して保証義務を有する場合には、正犯として理論構成しながらも、そこでは異った取扱をしているが、果してその区別は妥当であろうか。一定の人的関係に基づく犯 罪を防止すべき義務が法的に課されるということは、一体何ぞ意味するか。その義務というのは、第三者の法益が一 定の人的関係を有する者を通じて侵害されることを防止する保証義務である。従って、作為者の実行終了後、結果発 生の進行過程においても、保証人は結果防止義務を負う。もっとも、作為行為の終了後は作為に対する共犯としてで はなく、独自の犯罪を構成するものと考えれば別であるが、そのような考え方は妥当でないことは既に指摘された。 斯様に考えると、結果防止義務が課される場合と、一定の人的関係より生ずる犯罪防止義務が課される場合とでは、 不作為行為の評価において本質的に何ら異なるものではない。従って、前者においては不作為正犯とし、後者におい ては不作為帯助とする考え方は妥当ではない。 第四に検討を要する点は、いわゆる犯罪防止義務の本質及び類型である。不真正不作為正犯における結果を防止す べき法的義務については、全法秩序の要請に照らし、判例、学説によって類型化され、当該義務違反は独自の正犯形 態として刑法体系の中に確固たる地位を占めてきた。これに反し、犯罪防止義務については、これまで深く論ぜられ ることなく看過されてきたきらいがある。特に犯罪防止義務の類型佑は重要であるにも拘らず、それがなされてな い。この点に関し、シエ l ンケ・シュレーダーもその例に漏れない。 それでは、一体知何なる人的関係によって犯罪防止義務を負うか。犯罪防止義務については、実体法上、一般的に 規定されているわけでもないので、その根拠及び範囲は超法規的に決定せぎるを得ない。原則として一般国民は他人 の犯罪を防止する義務は課きれない。これに対し、親(未成年者に対して警官、税官等は犯罪防止義務が課されるこ 一般国民とは違って犯罪防止義務が課される者の一群を区 とは明らかである。このような特別な地位にあるために、 別する一般的基準を設定することは非常に困難である。敢えてそれを示すならば次の如くになるだろう。即ち、刑罰 をもってしでも犯罪を防止する義務が課されることが全法秩序から要請され、しかも犯罪不防止が当該犯罪を作為で ド イ ツ 判 例 の 研 究 ( 二 の 続 ) 五
沖大論議 ...
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もって促進する場合と同格に評価され得る性質を有するものでなければならない。従って、犯罪防止義務の有無の判 断は具体的諸事情を考慮した上で決する以外にない。そこで、具体的に類型化の基準となるのは次のようなものであ る。第一に、法令上、監督義務が課される場合(例えば、親、教師)、第二に、法令上、犯罪防止義務が課される場合 (例えば、警官、税官)、第三に、契約上、監督義務が課される場合(例えば、家庭教師)、第四に、契約上、犯罪 防止義務が課される場合(例えば、夜警)、第五に、職務上、上命下服関係にある場合等が考えられる。そこで問題 となるのは親子閥、夫婦問、親族聞においての犯罪防止義務の有無である。親が未成年者の子に対してそれを有する ことには異論はない。これに対し、成年者の子に対しては何うか。私見によれば、成年者の子に対しては何ら監督義 務を有するものではないのでそれを否定するのが妥当r
と思う。以上の理由より、夫婦聞及ぴその他の親族聞におい てもそれを否定すべきである。次に問題となるのは、職務上、上命下服関係にある場合に、上級者は配下の犯罪を防 止することが義務づけられることについて一般的に承認されるとすれば、それは何の範囲で認められるかである。上 役は原則として職務に関して配下を監督する権利及び義務を有するのであって、犯罪防止義務までは課されない。し かし、犯罪が職務に関する場合については、それを認めるのが妥当であろう。その際には職務の性質、人的関係その 他の事情を考慮した上で具体的に決定すべきである。 そこで、ついでに犯罪実行者が犯罪の何たるかを知らない精神病者や子供である場合において、監督義務を有す る者の犯罪不防止について検討してみよう。此の場合には、犯罪実行者に行為支砲はなく、背後者たる犯罪不防止者 が事件の全体を支回し得る地位にある。従って、そこに於ける不防止者は犯罪行為を促進するものとして評価される よりは、むしろ精神病者や未成年者を道具として利用する場合と同格的な地位を取得するものとして評価すべきであ る。即ち、そこでは犯罪不防止者は不作為正犯となる。(2) カウフマンの理論の検討 シ エ
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ンケ・シュレーダーの見解においては、義務内容の相違によって不作為行為の評価が異ってきた。換言すれ ば結果に対する保証義務と、 一定の人的関係に基づく犯罪防止義務に分類し、前者の違反は不作為の正犯とし、後者 の違反は不作為による智助とすることにより犯罪態様が異ってくる。 カウフマンは作為による犯罪種類によって異った取扱を試みる。即ち、結果犯と挙動犯とに分けて、 こ れ に 対 し 、 前者においての犯罪不防止は全て不作為による正犯とし、後者における犯罪不防止は不作為による常助であるとす る。この見解は前述のシエ l ンケ・シュレーダーの見解とも随分異なるものであるが、何ずれも通説に矢を向けたも のとして注目すべきである。 カウフマンの理論的根拠となっている点は次のようなことにある。浴場管理人が放置する救助行為の評価におい て、子供が故意叉は過失で水の中に押しやられようと、子供が誤って落ちようとも、 それは完全に同価値であり、落 雷により家屋に火がつけられようが、人間の手で家屋に火がつけられようが、消火すべき保証人の不作為の不法内容 にとって何らの差異もない。従って故意に法益を侵害する正犯者を防止しない者を智助によって非難し、法益侵害が 偶然の作用文は人聞の過失による場合に不防止に出た者を正犯で処罰するということは不合理であるとする。 しかし、私見によれば、斯かる理論構成及び価値評価は是認できない。確かにカウフマンが主張する通り、溺死せ んとする子供を救助しない場合と、第三者により子供が殺害されんとするのを防止しない場合とを比較すれば、不作 為者の客観的、主観的態度は結果発生を認容し、不防止態度に出る点において全く同一だと考えられる。従って、彼 はそのことを素材にして何ずれも作為によって人を殺す場合と同等であると評価している。しかし、前者にあって ド イ ツ 判 例 の 研 究 ( ニ の 続 ) 七沖大論叢 /¥ は、当該因果関係の流れを支配し得る地位は保証義務を有する不作為者のみにあるのに対し、後者にあっては、事件の 全体を現実的に支配しているのは当該犯罪実行者である。換言すれば、前者にあっては、当該事象に関与する者は一 人もなく、た Y 不作為者のみが潜在的に当該因果の流れを阻止し得る立場にあり、後者にあっては、当該事象の発生 は作為者の実行行為によって現実的に-もたらされた点に大きな相違点がある。従って、不作為態度が同一性質のもの であっても、当該事象の過程で誰が主たる役割を果していると評価されるかによって不作為態度の法的評価も異って くるべきである。私見によれば、前者においては、不作為者が主たる役割を演じ、後者にあっては、作為実行者が主 カウフマンが斯かる客観的、外部的事情の相違を無視して両者 たる役割を演じているものと評価される。要するに、 は同等に評価することは妥当でない。更に事例でもって検討してみよう。親が自分の子供を水中に投げ込み、女家庭 ③ 教師をしてその子供を救助しないように説き伏せて救助活動をさせない場合、家庭教師の立場は子供を水中に投げ込 ん
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のと同視されるのではなく親の実行行為を手助けしたと評価するのが我々の法感情に合致するものと思われる。 第二に問題とすべき点は、 カウフマンの理論的結論からすると、作為者と不作為者は同時犯の関係に立つことにな るが、その場合、同一結果に対して両者とも既遂の責任そ負わねばならないことである。シエ l ンケ・シュレーダー の理論を批判した際に指摘した如く、 因果関係の存否の認定が厳格なため同一 結果に対して両者とも既遂の責任を負うことは殆んど考えられなかった。それにも拘らず、不作為と作為が同時犯と される場合には、因果関係の存否の確定を軽視してまでも何故に両者が同一結果に対して既遂の責任が追求されねば ならないか。その根拠はカウフマンの理論においても説明不可能となる。当該事象における結果の原因はあくまでも 作為者が設定しているのであり、不作為者の結果に対して仮定的に判断された因果関係は不作為正犯の既遂を認定す 作為犯における同時犯においては、 るためのものではなく、射市助を認めるためのものである。もし、仮定的に判断された因果関係をして、結果を自ら惹起するものとしか解されないとすれば、因果関係の面から理論的に不作為による智助の存立基盤が崩れることにな る。しかし、私見によれば、不作為における因果関係は理論的に又は力学的に解決される・ものではなく、価値的考察 以 上 、 によって初めて解決されるものと思われる。けだし、もと /11 不作為そのものが何もしないという人聞の態度である その態度は作為の知何なる態様に比すべきものであるかの価値的評価を下す以外にないからである。従って、 斯かる点にもカウフマンの理論は欠陥が出ることになる。 第三に問題とすべき点は、カウフマンの理論よりすれば、結巣犯に対しては不作為による常助は認められないこと になるが、果してその理由が成り立ち得るかという点である。不作為により正犯を実現することが可能であるなら ば、それより一段と弱い不作為による智助は何故認められないか。不作為が作為と正犯実現の面で価値論的に同等と 評価されるならば、帯助実現の面においても、不作為は作為と同等と評価される場合があって然るべきである。例え ば、それは次のような事例において、明らかに欠陥が現われる。犯罪実行者が結果を実現せんとする場合、保証人は 犯罪行為を防止する行為に出なかったが、当該不作為者は犯罪行為を完全に防止することはできなかったが、しかし、 不作為者が何らかの行為に出ることにより犯罪実行を困難にしたであろうことが認定されるとしよう。この場合、カ ウフマンからしでも当該不作為者に正犯を認めることは困難であろう。然らば、当該不作為者は不処罰とする以外に ない。これは明らかに不合理である。ところが作為による常助は犯罪行為叉は犯罪結果の発生を促進する性質のもの であればよいのであって、そこでは、結果を自ら実現する程強い行為は要求されず、犯罪行為者の助けになれば十分 である。かかる観点から当該不作為においても右と同じ働きをするものと評価される場合として示されるであろう。 ウェパーはこの点に関して次のように述べている。﹁義務に合致した行為が行為を防止したであろうことは必要と ④ しない。義務に合致した行為が行為を困難にしたであろうことで十分である﹂。ドイツ判例も同じ立場にあり、次の ド イ ツ 判 例 の 研 究 ( 二 の 続 ) 九
拍 押 大 論 叢
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如く論じている。﹁従って、不作為による幣助の構成要件にとって、必然的に義務に合致した干渉によって行為者の行 為が全ての諸事情の下で防止され得ることは必要ではない。むしろ、智助者は彼の活動によって行為の完成を困難に する状態にあることで十分であぬ﹂。 第四に検討すべき点は、挙動犯に対する不作為による常助である。前述した如く、彼の理論によれば、結果犯に対 しでは不作為による常助はあり得ず、不作為による正犯のみが考えられた。しかし、挙動犯においては、保証人の義 務は挙動自体を防止することがその内容となり、性質上、不作為による正犯はあり得ず、 ただ不作為による常助のみ が考えられるとする。勿論、ここにおいても理論的に不作為により他人の行為を促進するという原因設定の作用はな く、刑事政策上、価値論的に作為による常助と同等と評価さるべき場合があることを認めることにより不作為による 封市助を肯定する。換言すれば、挙動犯においては、挙動者自身のみが正犯を犯し得るのであり、不作為者は性質上、 正犯者となり得ないことにより、この場合は不作為による帯助のみしか考えられないことになる。この点に関しては 別に異論はないが、ただこの場合には、不作為による常助の寄在を認めながらも、結果犯に対してはそれを認め得な いとするのは論理的矛盾に逢着する。 第五に検討すべき点は、不作為による封筒助と不作為による正犯とを如何なる基準によって区別するかである。カウ フマンの理論によると、このような問題は不要となるだろう。けだし、結果犯においては、不作為による正犯のみが 考えられ、叉挙動犯陀おいては、不作為のみが考えられるからである。それ故に、この問題がクローズアップされる のは不作為による常助を全般的に認める立場においてである。これは後に検討されるであろう。(3) アンドロウラキスの理論の検討 彼の立場は通説と同じく、第三者により結果が侵害される場合に、これを防止しない保証義務者を帯助でもって処 罰する見解である。そこで、彼の理論においては、不作為による正犯と不作為による智助とは知何なる基準によって 区分されるかが問題となる。周知の通り、正犯と封筒助とを区別する理論には大別して主観理論と客観理論がある。し るカ〉 。し かかる理論は作為において展開されてきた関係上、 そのまま不作為犯に導入することが可能か否かが問題とな 主観動綱にあっては、通常、自己の為に行為するか、他人の為にするかによって正犯と常助とが区別されてきた。 従来までのドイツ判例
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一一-一六)も正犯と補助とを区別するために外部的行為寄与の弘之によるのでは ︻ " 4 } なく、意思方向によるとした。これに対し、 一九五六年一月一日のBGH
の判決はこれまでの判例の立場とは違っ て、主観理論を修正するものとして注目すべきことをノヴァコウスキーは次の如く記述している。 ﹁ 第 一 に 、 そ れ は主観理論に対する明白なる告白を避けており、第二に、評価の客観化による主観現論を形成し続け、第三に、それ ③ は正犯の基準としてL E
一 時 、
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を否認し、正犯者意思の他のメルクマールを与えている﹂。ドイツ判例においては、 正犯者の意思の有無の判断は行為者の実際の意思によるのではなく、評価的判断によって確定されるということは、 ③ 一九五五年から判例の中に既に現われてきているといわれる。このようにドイツ判例は概して純主観理論を修正して いく方向にあるといってよい。 一定の構成要件該当行為、結果に対する因果の協力の差異及び危険にさらされ ⑨ た法益に対する関係等におけるが如く、外部的、客観的メルクマールによって関与形態の差異が求められる。 ﹂れに対し、客観理論においては、 更に、このような主観理論と客観理論とを止場することにより打開の道を求める折衷説とも云うべき学説が現在で ド イ ツ 判 例 の 研 究 ( ニ の 続 )沖大論叢 はかなり見られる。例えば、メツガ
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は、個々の関与形態の正当な限界を定めるには、客観的及び主観的メルクマl
⑬ ルの結合によって初めて可能となるとしている。この見解は主観理論に基礎を置いているが、自己のものとして欲す るということは客観的に判断すべきとする。この考え方に属するものとして、ノヴァコウスキーも上げることができ るであろう。彼は次の如く主張している。﹁正犯は行為者をして行為支配者と示し、行為が自己のものとして現われる ところの、行為者の意図された態度を必要とするので、彼と彼の人格はその態度によって責任が負わされる。私自身 な く 、 一九四六年に次のようなことを詳説した。即ち、行為者が行為を実際に自己のものとして体得するか否か Y 問題では それが彼の表象に基づき客観的標準に従って、彼によって期待され、必要とされるか Y 問題であると。私はこ の標準の客観化を自己のものとして叉は他人のものとしての行為の体験の際に、規範的な、そうして故意の非難可能性 ⑬ をい尚め、叉は下げる責任メルクマールが問題であることによって体系的に裏づけられると思った﹂。その他、ボッケ ⑫ ルマンやランゲもその見解に属するといわれる。 この折衷論に属するものとして、もう一派が存在する。これはいうまでもなく、目的々行為論者のグループであ る。この理論は専ら客観的、主観的行為支配によって正犯と共犯とを区別する。例えば、 マウラッハは次の如く論じ ﹁共同正犯は共働者の各々が他人の道具にまで落ちることなく、行為支配の保持者にと Y まるほどに結果を 分業して得ょうと努めることである。この行為支配の下では、構成要件該当の事件経過の、故意によって把握された て い る 。 ﹄- s
えき・岡山吉弘同寺町民営誌が理解されるべきである。全体の結果の実現を常に意思に従って阻止し、叉は経過させるこ ⑬ とができる各々の共働者が行為支配を有している﹂。ヴェルツエルも同じようなことを次の如く述べている。 ﹁ こ れ に対し、故意犯においては、構成要件該当の結果についての因果事象の目的意思の支配によって、結果惹起について の主であるような者のみが正犯者である。事件についての目的々行為支配により、正犯者は、正犯者によって目的活動⑬ 的に支配された行為を支援したか、又はその行為をする決意を起させたところの単なる共犯者に対して鮮明になる﹂。 以上の如く、作為犯において、正犯と智助とを知何なる基準により区別するかについて多くの学説が対立している が、このような理論的思考が直ちに不作為犯において展開することが可能か否か Y ここでは問題となる。不作為犯に おいて、この問題が発生するのは同一結果に対して数人の保証人の不作為が競合する場合か、又は作為により犯罪が 惹起される際に、保証人がその犯罪行為を防止しない場合である。 アンドロウラキスは、正犯の基準として行為支配の代りに、 。行為に対する密接な関係。
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鳴 刷 、 同 尋 問 町 宮 な き ﹃ を設定しているが、その内容が漠然としているので余り役に立たないように恩われる。勿論、行為に対する密 接な関係という形式は、ドイツ判例が従来まで主観理論に従っていた立場を和らげるために持出したものとされてい 持。特に、ドイツ判例において、不作為に関する当該問題が出てくる場合の一つに、自殺に対する保証人の不作為の 場合がある。それは、要するに、自殺に対する不作為は不作為による帯助か、それとも不作為による殺人の正犯︹嘱 同 ヨ ミ ) 託殺人、謀殺、故殺)かという形式で問題となって現われる。ドイツ法では、勿論、前者は不処罰となる。そこで、BGH
は不作為の正犯か封筒助かを決定するに、次の如く論じている。﹁議務づけられた者が自分の不活動に対して内 部的に如何なる任意の意味を与えるかが問題となるのではなく、不活動が盲学物の流れに対して、実際に知何なる意味 ⑬ を有するかの問題である。﹂即ち、主観は少くども区別の基準にならないことを示している。 学説においても、作為犯において、展開された理論がそのま h 不作為に移転できるとすれば、次の知くになるだ ろう。即ち、主観理論にあっては、不作為者が自己のものとして欲したか、叉は他人のものとして欲したかによっ て、正犯と共犯(特に智助)に分けることになる。客観理論にあっては、結果に対する客観的状態により、正犯か否 かを決することになるが、そこでは、構成要件該当の実行行為の態様による区別は不可能となるであろう。けだし、 ド イ ツ 判 例 の 研 究 ( 二 の 続 )沖大論叢 凶 不作為は何ずれも一定の行為をしない形態であるからである。目的々行為論にあっては、行為支配の程度により、正 犯か否かを決定することになるが、 そこでは作為とは異って因果関係を現実的に支配する作用はないので、行為支配 の程度といっても、事象の因果の流れを潜在的に支配し得る程度に置き換えなければならないだろう。 しかし、不作為犯にあっては、全ての主体者が、正犯であろうと智助であろうと、結果発生を認容しつつ不作為態 度をとる点において同一である。それ故に、構成要件該当行為の態様如何によって正犯と常助とを区別することは不 可能である。それでは、不作為者の正犯意思叉は智助意思により、正犯と封巾助を限界づけることはどうか。単なる不 作為者の意思のみによって正犯と常助とを区別することは結果的妥当性を欠く。例えば、第三者の犯罪行為を防止し ない保証人は、正犯意思で不作為すれば、不作為による正犯となり、帯助の意思で不作為すれば、不作為による智助 となるが、客観的事実は両者において、全く同一であり、しかも結果発生の認容までも同一でありながら、不作為者 が自分の為に、叉は他人の為に意図したか否かによって両者を全く異った取扱をすることは伺としても奇妙である。 更 に 、 メツガ
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の折衷説も不作為による正犯と帯助とを.区別するに役に立たないと思われる。けだし、 キールヴア インが指摘しているが如く、客観的意味において不作為者により欲せられたことは、まさしく客観的にミ守主が存在 ⑫ するという理由から、単なる帯助に対すると同様に正犯にも同じく表われるからである。即ち、当該不作為が他人の ものとしてか、叉は自己のものとしてから﹄客観的に評価するとしても、 そこにはただ外形が同一である、 一定の作為 をしない不作為のみが存在するのであるから、それだけでは評価のしょうがない。そこでキールヴァインは次の如く 説 い て い る 。 ﹁実質的│客観的共犯理論に基づいて、正犯と共犯の限界設定基準としての行為支配の存在がかくて招 致される場合に、妥当で、そうして保証人の態度の実質的不法内容を完全に扱み尽すゆえの解決が見い出される。そ の場合に、保証人は全ての事実状態に従って、 それが第三者によって故意的にであれ、過失的にであれ、叉は自然の事象によって Y あれ、運動せしめられた因果の事象の流れを手中に収めたか否かを目ぎすべきである。それは刑法上 の結果の発生が専ら保証人の態度に基づくや否やの場合である。保証人が議務に反して結果を防止することを不作為 するならば、彼は全出来事における彼の地位により、犯罪の正犯になる。何故ならば、彼のみが行為完成の=。守=に ⑬ ついて決定するからである。﹂彼の見解は実質的
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客観的共犯理論に基づいて正犯と共犯とを区別するのであるが、 その見解も当該問題を解決するに不十分と思われる。先ず、彼の見解によると、結果発生の危険性が自然現象によろ うと、人聞の犯罪行為によろうと、既発の因果の流れを不作為者の手中に収めた場合に、正犯となるが、 める。ことが何を意味するかが問題となる。そこにおける因果の流れは、自然現象による場合は別として、人聞の作 。 手 中 に 収 為による場合は、実行行為は既に完了したが結果がいまだ発生しない場合においてである。例えば、殺意でもって水 中に人を突き落すとか、ガス栓を聞くとかの場合がそれに該当する。かかる場合に、因果の流れを不作為者の手中に それを更に一歩進めて行為完了と同時に結 収めたということが、結果の防止が容易にできたことを意味するならば、 果が発生するような場合にも、保証人が犯罪行為を容易に防止することが出来たならば、 それも正犯とせざるを得な いだろう。かかる観点からすれば、殆んどの不作為(保証人による)は正犯となる。そうなると、カウフマンやシエ l ンケ・シュレーダーの見解にや、近くなる。彼等の理論は既に批判、検討されたので繰り返さない。それに対し、 因果の流れを手中に収めるということの意味を全く別に解するとしたら、 一体、如何なることが考えられるのか。ど う考えても不作為というものについては右以外の推測は不可能のように思われる。 そこで、私は次の二形態に分けて考察することにする。即ち、第一の形態は人聞の犯罪行為により構成要件的結果 が惹起される際に、保証人が当該結果の発生を防止しない場合である。この形態においては、現実的に身体を操縦 し、因果関係を支配して結果発生を実現したのは作為者であるので、彼が正犯者であることには異論はなかろう。と ド イ ツ 判 例 の 研 究 ( ニ の 続 ) 五沖大論叢 一 六 ころが、これを傍観していた保証人の側からみると、当該結果を容易に防止することができたとすれば、彼は因果関 係の流れを阻止し得る地位にあり、従って、正犯になるのではないかとの疑問が生ずるのも当然であろう。通常、不 真正不作為犯において、不作為により結果を防止しない保証人が作為による結果惹起と同等と評価されるのは、当該 結果を現実的に支配する者が存在しない場合を前提として論じられてきた。しかし、当面の場合には、現実的に結果 原因を設定する作為者が存在する。かかる事象において、主たる役割ぞ果しているのはあくまでも作為者とみられ、 不作為者たる保証人は主たる役者の役がとどこうりなく完了することを傍観することによって消極的面から主たる役 者を助ける従たる役目にあるとみるのが通常人の価値観に合致するように思われる。従って、このような形態にあっ やはり正犯とみるべきではない。事象 の過程において、作為者が出現せず、不作為者のみが存在す忍ならば、自然に対する助力者というよりは、自ら主役 を演じていると評価されても伺らの不自然さもない。これに対して、身体を操縦し、自ら物理的原因を設定するため ては、不作為者が如何に因果の流れを支配し得る潜在的地位にあるとしても、 に登場した作為者と、彼のなすま﹀を傍観する不作為者とが競合する場合には、後者はパイプレイヤーの地位に立つ としか評価されないのではないか。このような解決の仕方は統一的なメルクマールを示すことにより正犯と常助とを 区別する方法とは違って、作為と不作為とが競合する形態においては、不作為者は価値論的判断により、常に智助者 として評価されるのである。 そこで一考を要することがある。それは、作為者が行為を完了した後、結果発生への因果の流れが進行している場合 と、作為者の行為と同時に結果が発生する場合とに分けて、前者における不作為者は正犯とし、後者における不作為 者を智助とすることは考えられないかということである。勿論、両者において、不作為者は結果防止が可能であった ことを前提としなければならない。前者はあたかも自然現象により因果の流れの中に置かれた場合と類似している。
しかも、不作為者は因果関係を支配し得る地位にある。後者においては、作為者によって、既に因果関係及び結果が 支配し尽されている。このような差異を基にすると、正犯と常助に分ける意義があるようにも感じられるが、よく考 えてみると、両者において、不作為者は犯罪結果を同じく防止し得たのであり、その点で作為者の行為の時間的前後 は何らの意味も有しない。従って、両者を異った形で処理することは妥当性が欠けることになる。このように作為と 不作為が競合する場合においては、不作為者が結果を防止し得たという仮定的判断による因果関係の認定は、決して 正犯を認める為のものではなく、常助を認めるためのものであると解すべきである。要するに、作為者が結果を惹起 する場合には、作為者はあくまでも主役者であり、不作為者はそれに奉仕する役割を演じているものと評価すべきで ある。これに対し、自然現象や人閣の過失行為により結果発生の危険性が生じた場合には、不作為者のみが因果関係 を支配し得る地位にあるので、彼のみが主役の座につくことになる。 以上に論じた如く、作為と不作為が競合する場合には、不作為者は常に帯助者の役割を果していることが結論づけ られるのであるが、それとも客観的、外部的事情の相違を考慮した上での価値論的考察に立脚して初めて可能とな る 第二の型態は、結果発生への因果の流れが自然現象又はそれと同視される作用によるときに、数個の不作為が競合 する場合である。その場合に、正犯と帯助とが区別できるか否かが問題である。そこで、先ず、義務の強度により両 者を区別することが一様考えられるが、しかし、何ずれの作為轟務も結果ぞ防止すべき点においては同一であり、そ の強弱により正犯と智助とを区別せんとするのは筋が通らない。主観的共犯理論にあっては、意思の持ちょう如何に より、正犯にもなり、智助にもなるという欠陥があり、妥当でないことは既に指摘してきた。客観的理論にあって も、不作為の構成要件を実現する程度、結果に対する関係、協力の程度等により正犯と帯助とを区別するといって ド イ ツ 判 例 の 研 宛 ( ニ の 続 ) 七
沖大論叢 八 も、不作為態度は結果を認容する点において、 それは全く同一であるので、 その解決には何らの役割をも果さない。 折衷説においても、同じく正犯と封筒助との限界設定に何らの基準も示し得ないと思われる。 シ エ l ンケ・シュレーダーは別の面から次の知く述べている。﹁叉、ある枠内で不作為による不作為犯に 対する共犯も可能である。不作為による智助は、不作為の正犯者に対する監督義務
(
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言 師 、hR
静 岡 ) が 補 助 者 に 課 そ こ で 、 される場合に可能である。例えば、未成年者が先行行為から保証人として第三者の危険に3
らされている死を防止す べきことが義務づけられている場合、父親が結果防止へ息子を誘因しない場合には、二一一条以下による智助者とし て処罰され得る。且つ、文三三O
条C
による特別な救助議務が父親にあたる限りにおいては、三三O
条C
は帯助の背 後に退く。勿論、全ての関与者が行為する同一の法的義務を有しているならば、ーそれが保証人としてであれ、真正 不作為犯からであれ│各人は正犯者である。 (例えば、母親が相互の子供を餓死させる場合に、父親が伺もしない場 合)。これらの場合は、叉より多くの保証人が関与する際に、正犯者と共犯者とを区別することは不可能であること を = お ﹂ 。 これに対し、グリユンドヴアルトは二個以上の競合する不作為において、 一方が他方に対して暫助としてあり得る かに関して次のように否定する。 ﹁若干の不作為者は同じ方法で、即ち結果防止の可能性によって事象を支配する。 一人の不作為者による事象の支配に関し、他人が結果を防止することを不作為することによって何も変らな岬﹂ 0 も っとも、彼は不作為による結果不防止という現象は作為犯の正犯及び智助よりもその無価値性において、@
のとみる立場である。彼の理論の紹介及び検討は別の機会に詳細にする積りなので、本稿ではそれ以上、突込まない より軽いも ﹂ と に す る 。 きて、数個の不作為が競合する場合に、果して正犯と補助とが区別されるかが問題となるが、理論的面からはそれが導びかれないことについては前述した。かかる場合には、因果関係を現実的に支配する作為者は存在しないので、 専ら数人の不作為者が結果を防止しない状態があるのみである。従って、当該者の各々が結果に対して保証人的地位 にあるならば、不作為による単独正犯の形態と全く同一現象であることが分る。それ故に、かかる場合には、不作為 者が結果発生を認容する限りにおいては、全て不作為による正犯とせまるを得ない。この点ではシエ
l
ンケ・シュレ ーダーが論ずるととくである。但し、同一結果に対して既遂の責任を問うのは疑問である。 問題となるのは、監督載務やその他の一定の人的関係に基づいて犯罪を防止すべき義務を有する者が、不作為によ る犯罪を防止しない場合に帯助となるか否かである。犯罪防止義務者は、不作為正犯者に対レて結果ぞ防止するよう に誘因することが通常の防止方法であろう。しかし、作為正犯を防止する際には、一定の作為によりそれを防止する ことが可能であるのに対して、不作為正犯の場合には、正犯者に対して結果を防止せよと云ったって、本人がその決 かかる方法では防止しょうがない。例えば、未成年者たる息子が先行行為により子供を川に落して 意 を し な け れ ば 、 しまったとする。彼はそれを率いに思い、子供を救助しないことを決心した。父親が息子に対して救助せよと云った って、本人が耳をかきないような場合である。これに対して、作為正犯においては、作為者が犯意を放棄しない場合 それを防止することが可能でなければならない。その点に両者の相違があるが、その反面、両者に共通する点 で も 、 もある。例えば、作為正犯で作為者が行為を完了した後、結果発生への因果が流れている際に、不作為者が結果を防 止しない場合と、不作為正犯での不作為者の不作為中に因果が流れている際に、犯罪防止義務者が結果を防止しない 場合とは全く同一現象であるといってよい。 そこで、前者において、不作為による帯助が認められるならば、後者に おいてもそれぞ認めるのでなければ、不均衡が生ずることになるだろう。従って、結果犯において、自らの保証義務 による不作為正犯者が結果を防止しないときには、当該者に対して一定の人的関係により犯罪防止義務を負う者が結 ド イ ツ 判 例 の 研 究 ( ニ の 続 ) 九神大論議
ニ
O 果を防止しない場合には、不作為に対する不作為による智助とみるべきである。 同 マウラッハ及ぴペッテルスの理論の検討 マウラッハにあっては、不作為による暫助は一般的に認められることになるが、その理由ずけが乏しいように思わ れ る 。 彼の論述で問題点となるような面を検討してみよう。先ず第一に問題となるのは、不作為の正犯と共犯の区別の基 準である。彼は行為支配の程度によりそれを区分せんとするが、これはもともと作為には妥当するが、不作為には当 依めることはできない。彼による行為支配は構成要件該当の事件経過を掌中に収めることであり、即ち目的々な構成 ⑫ 要件的形成の操縦行為者に認識された可能性である。不作為は一定の行為をしない状態であり、そこには原因を積極 的に設定し、因果関係の流れを現実的に支配していく現象はみられない。それ故に、現実的な行為支配を何らの吟味 もなく、直ちに不作為による共犯に導入することは妥当ではない。要するに、ここでは行為支配の存否によって正犯 と共犯とを区別することは不可能であり、不作為現象が作為の正犯叉は共犯と同等に評価され得るか否かの価値的考 察が施されるべきであることは既に前述されたので繰り返さない。 第二に問題となるのは、不作為による智助の可能な時点である。彼は、不作為による常助の実行は正犯者が実行し ている最中のみならず、 その以前にも可能であるとしている。作為においては、正犯者の予備行為の段階でも帯助は 可能であることは認められている。不作為においても同一の結論を認めてもよいと思われる。例えば、息子が他人を 殺す目的でその準備中κ
何らの防止策も講じない場合がその典形的な事例に該当するだろう。 第三に問題となるのは、不作為による智助における作為義務の類型である。就中、先行行為による作為義務が問題と な っ て く る 。 彼は、無造作に暫助の場合にも、先行行為から発生する結果防止義務の存在を認め、 その義務違反による。不作為 による常助。を認めているが、これには多くの難聞が含まれている。ドイツ判例の中には、 その問題を取扱ったもの が あ る が 、 その検討は後に詳しく論ずることにする。そこでは、 ハインツ・ピンドカ
l
トの注目すべき見解が出され それを検討せぎるを得ない。彼は。消極的常助と先行行為。という論文の中で、先行行為から生ずる 作為議務違反による暫助の存在を次の知く否定する。 て い る 関 係 上 、 ( a ) ﹁ h s - h h 喝 、 h w S Nに つ い て の 理 論 は 、 その考えによれば、た Y 、不作為の正犯者に妥当し、常助者には妥当しない。 そうして彼の保証人義務に反し 伺故ならば、先行行為に基づいて他人の利益の無傷に対して責任を負うべきであり、 て、この利益を故意的叉は過失的に顧慮しない者は、まさしく、正犯であり、叉はこのような者と同等に立つからで ある。彼は身分犯を行っており、 そ の 上 hv 自手。正犯者である。けだし、他人ではなくして、保証人的地位@
を有する彼のみが不作為により保証人義務を侵害することができるからである﹂。しかも、善意で先行行為した場合 に、不作為による智助を認めると不都合が生ずることを例をもって次の知く説明している。 し か も 、(
b
)
﹁何も知らずに窃盗犯人を行為場所に運んだタクシー運転手は、例えば、乗客の意図を認識するや否や窃盗に 対して干渉する義務が存在することになるだろう。吾人がこの義務ぞ肯定しようとするならば、窃盗が市街電車を利@
用した場合に、如伺なる正当性でこれを否定することができるか﹂。 の部分については、如何なる事例があるか Y 明らかではないが、少くとも、次のような二つの類型が 考えられる。第一の形態は、先行行為により結果発生の危険性が生じ、当該結果に対して更に第三の独自の保証人が 前述の ( a ) いる場合で、第二の型態は、先行行為により、第三者に犯罪惹起の危険性を生ぜしめた場合である。そこで、第一の ド イ ツ 判 例 の 研 究 ( 一 一 の 続 ﹀神大論叢 形態においては、先行行為者もその他の保証人も等しく不真正不作為正犯を実現するものとしてみられることについ ては、既に論述したので繰り返す必要はない。問題となるのは後者の場合である。先行行為による、偽証に対する智 助については、後に検討する
BGH
二│一二九において論ずることにして、そこではその他に考え得る形態について 吟 味 し て み よ う 。 先ず、第一に考えられるのは、作為により犯罪を教唆する場合である。教唆者は教唆することにより、犯罪結果の 発生の危険性を惹起せしめている故に、正犯者の犯罪実行を防止すべき義務が課されるかが問題となる。従来までの 学説はこの間題を不聞に附してきた。その理由は、暗黙の中に教唆行為自体は教唆犯でもって評価されていることを 前提としているのであろう。しかし、広く先行行為による作為義務を認める立場に立っと、右の犯罪防止議務は肯定 しても差支えないように思われる。けだし、当該教唆行為はその他の先行行為の場合に比して、犯罪結果の発生の危 険性において、決して劣るものとは思われないからである。従って、作為義務者が実行行為者の犯罪を防止しない場 合にも、不作為による正犯が成立するとの立場に立脚するならば、かかる場合の教唆者も当然、不作為による正犯と して理論構成されることになろう。それにも拘らず、かかる見解を一人として展開する者はいない。しかし、私見に よれば、作為義務者が他人の犯罪行為を防止しないのは正犯ではなく、帯助だとすれば、大なる教唆行為自体のみが 可罰的評価を受けることになる。それ故に、教唆行為による作為義務は問題とする必要はない。 第二に考えられるのは、先行行為によって第三者の責任なき行為を誘因し、結果発生の危険性令生ぜしめる場合で ある。例えば、甲は日頃から惜んでいる乙を懲らしめてやろうと思って、暗夜に乗じ、乙に向って強盗だと叫んだ。 そこで、通行人丙が乙を逮捕するために彼に襲いかかった結果、乙は軽い傷を負うた。この場合、傍観していた申 は、理論構成としては作為による正犯か、叉は不作為による正犯かは別として、結論的には正犯であることには異論はないように思われる。従って、斯かる場合には、不作為による帯助は問題となり得ない。 第三に考えられるのは、第三者に犯罪を惹起せしめる誘因を設定した者が、その毘にかかった第三者の犯罪を防止 しない場合である。その誘因行為が教唆とみられない限り、それは当該行為の実行以前に、作為でもって犯罪を容易 に惹起せしめる役割を漬じているものと解すべきであり、不作為による帯助を持出する余地はないように思われる。 以上のように ( a ) の分野においては、先行行為による、不作為による常助は考えられ得なかったのであるが、次 にピンドカ
l
ト の(
b
)
の論述を検討してみよう。 善意で行為したのが、結果的には犯罪行為に便宜を与えたことになったからと云って、犯罪防止義務が法的に課さ れる理由は我々の法社会では見出すことはできない。それを肯定するならば、社会構成員の各々は一般的に不特定の 者の犯罪を防止すべき重い義務が課されることになり、それはどうみても我々の法感情に合致しないだろう。従っ て、ピンドカl
トの見解は妥当である。 以上のように先行行為による場合に、不作為による封筒助があり得るかについての帰納的考察から得られる結論は、 マウラッハが無造作にその形態があり得ることを認めているのは今一度再吟味する必要 その否定であった。従って、 があるように思われる。 ペッテルスI
プライゼンダンツの見解は、別に検討すべき問題点を提起していないので触れる必要はないであろ h A J。
ド イ ツ 判 例 の 研 究 ( 一 一 の 続 )沖大論議 二 四
五
判
例
の
検
討
ドイツ判例は前号で詳細に分析した積りなので、その内容については繰り返さず、直ちに問題点を検討することに す る 。 付RG
一 一t
一 三 三 の 検 討 当該判例における事例の特色は、正犯者と帯助者との聞には意思の連絡があることである。被告人は正犯実行者と 窃盗の不防止を約束したのであるが、かかる約束行為は作為であり、その作為は、正犯実行者をして犯罪実行に際 し、精神的強化をする役割を果しているのであるから、作為による智助として理論構成すれば足るのであって、これ を不作為による帯助とするのは疑問である。周知の通り、帯助行為は有形的に行われるだけでなく、無形的にも行わ れる。特に意思の連絡により犯罪実行者が犯意において強佑されるならば、それは作為による無形的帯助とすれば足 るのである。従って、智助者と実行者との聞に意思の連絡がある場合には‘不作為による帯助で以って理論構成する 余地がなく、端的に作為による帯助として理論構成すべきである。しかも、かかる場合には、結果防止義務を有する か否かに関係なく、作為による帯助犯が成立する。勿論、そこにおける意思の連絡は、例えば、当該犯行を他人に知 らさない約束、犯罪防止しない約束、庖員がスリに目くぱせして財物奪取の同意を与える場合等のように明確に犯罪 実行者に意思が通じ、それによって犯罪意思を強化したり、犯罪実行に便宜を与えることが必要である。 以上のことからして、本判例は結論的に帯助犯だとすることは正しいとしても、その理論構成の過程に不備が露見し た 。 同
RG
五 三J
二九二の検討 本判例における事例を検討してみるに、智助者と正犯者等の聞に何らの意思の連絡もないように思われる。すると 本事例は、所調片面的従犯の問題として取扱われることになるだろう。 作為及び不作為による片面的従犯を認めるのが、現在の通説、判例の立場であるが、これに対し、片面的従犯を否 定する小数諭もある。作為においては、意思の連絡なくして有形的に犯罪結果の惹起を容易ならしめる作用があると いう理由で常助の可能性を肯定するにしても、不作為においては、現実的にか L る作用を果すことは出来ない。従っ @ て、かかる観点から不作為による片面的従犯巻否定する立場が現に主張されている。 前述した如く、不作為による帯助は意思の連絡がある場合にはそれが否定され、原則として作為による智助とすべ きだというのが私見の立場である。その結果、不作為による常助はほとんどが片面的従犯の形態となる。ただ、例外 として考えられるのは、意思の疎通はあっても実行者の犯意を強化したり、犯行の便宜を与えたりする役割が否定さ れ る 場 合 で あ る 。 それは共犯の本質を関与者聞に意思の疎通が存在するこ とに求め、共犯論を体系的に認職することにある。しかし、刑法六二条の﹁正犯を智助したる者﹂という文言は、常 助の形態は意思の連絡がなければならないことに限定しているものとは解されない。叉、現実的に意思の連絡ある場 合に劣らずに他人の正犯を支援する有形的な違法行為があることも否定できない。かかる行為を可罰の外に置くこと 問題なのは、片面的従犯を否定する立場の根拠であるが、 は、刑事政策上好ましくない。要するに、共犯の中の智助犯には、 それ自体の固有の犯罪行為があるのであり、 そ こ ド イ ツ 判 例 の 研 究 ( 二 の 続 ) 二 五沖大論叢 一 一 六 では関与者聞に意思の疎通が必要だとは思われない。従って肯定説の立場が妥当と思われる。それにしても、不作為 による智助においては多少事情は異ってくる。前述した如く、作為においては、片面的であれ、有形的に他人の犯罪 行為を容易にする作用が見られるが、不作為にはそれがない。か﹀る観点から作為においては片面的従犯を肯定しな がら、不作為による片面的従犯を否定する立場にも一理はあるように思われる。しかし、不作為の存在的特質は、も ともと一定の行為をしないこと、即ち結果ぞ防止しないとか、犯罪を防止しないような消極的なものである。そうし て保証人的地位にある者がか L る不作為態度に出た場合に、作為犯との価値論的な考察が試みられるのが、不作為犯 論のアプローチの方法とみるならば、右の作為と不作為の存在的特質の差は問題にならないと思われる。けだし、犯 罪防止義務を有する者が、容易に犯行を防止できるにも拘らず、それを放置することは、作為によって当該犯行を容 易にするのと無価値判断において質的に同等であるか否か Y 問題となるからである。従って、私見によれば、不作為 による片面的従犯を否定する立場の根拠は失われ、不作為においては、むしろ片面的従犯が主たる地位を占め、意思 の連絡ある場合は例外となる。 日
RG
六 九J
三四九の検討 この事例においては、指揮者代理と自動車運転手との聞に牒き逃げについての意思の連絡があったか否か Y 不明確 である。被告人が口頭又はその他の方法で運転手の逃亡行為の意思を強佑したものとみられるならば、 それは作為に よる智助となり、これに対し、運転手が逃亡するのをなすがま﹀に放置したならば、 それは不作為による智助であ る。前者の場合に該当するならば、犯罪防止義務の存否の認定は不要となり、後者の場合には勿論犯罪防止義務がな ければならない。そこで被告人には犯罪防止義務があったか否か Y 問題となる。判決はそれを品同定しているが、妥当と思われる。しかし、上命下服の関係にある場合には、 一般に当該職務叉はそれと密接な関係を有する事柄について の犯罪防止義務でなければならないだろう。従って、当該事例は用務に赴く際の事故であるので、 それを認めてもよ い と 思 わ れ る 。 帥
RG
七 一J
一七六の検討 無電技師は、水夫A
とK
が関税着服をするのを認識し危がら、 それを防止するために何らの方策も講じなかった。 そこで彼は不作為による智助として処罰された。 先ず問題となるのは、被告人の犯罪防止義務の根拠である。判例は、無電技師は船員士宮であり、全ての船員士宮 と同様に士宮として船の操縦において船長を補佐しなければならず、この議務は個々の士宮に与えられる。特別な勤 務部門だけに限定されず、水夫全体の上役であり、従って、特別な勤務部門に該当しない場合にも職務上の命令をす る権能が一般的に与えられ、水夫はその命令に従わなければならないことから、被告人はA
とK
の密輸出入を防止す べき義務が課されるとする。 しかし、果して無電技師にかかる犯罪防止義務が課されるか疑問である。この場合に税官ならば職務上の義務とし て異論はあるまい。無電技師に一般的な職務上の命令権があるからといって、一般下級船員の密輸出入の防止義務ま で認めることはその職務の性質からして酷ではないかと思われる。けだし、特別に密輸出入に対して監督する地位に いぎ知らず、無電技師に刑罰をもってしてまで当該犯罪の防止義務を課することは当該職務の範囲を逸 あ る な ら ば 、 脱するきらいがあるからである。従って意思の連絡が、無電技師とA
及 びK
との聞にない限り、不作為による帯助を 認めるのは疑問の余地がある。意思の連絡により、犯意を強化したり、犯行の便宜が与えられたりしたら、それは作 ド イ ツ 判 例 の 研 究 ( 二 の 続 ) 二 七沖大論叢 二八 為による常助である。 〈司
RG
七 一J
一八九の検討S
女が夫を殺す目的でガス栓を聞き、夫の死因を設定した後、彼女の恋人である被告人は、彼女に頼まれて部屋の 様子を見に行ったが、ガスは正常に漏出し、夫は眠ったま﹀の状態であることぞ確めた。そこで被告人は作為及び不 作為による常助として処罰されたのである。 この事件の特徴は、正犯者が殺人行為を完了した後、被告人がこの事件に関与してきたことである。しかも作為者 はただ様子を見るだけであり、現実的に結果発生の促進作用を何ら為してないことである。 そこで第一に問題となるのは、不作為による殺人智助が果して成立するかである。当該判例は、独刑法三三O
条C
の緊急救助義務にその根拠を求めている。即ち、被告人は睡眠中のS
男が漏出しているガスにより生命が危険にさら されていることを発見したときには、承認された国民感情によってガス栓を閉めるとか、窓を開けるとか、 その他の 方法によりS
男を救助することが義務づけられるとした。しかし、我国では、独刑法三三O
条C
に該当する条文がな いので緊急救助義務は認められない。従って、被告人には結果防止義務が課されることはないので、不作為による智 助は問題とならない。 第二に問題となるのは、この事件において作為による智助が成立するかである。被告人と正犯との聞には意思の連 絡 が あ り 、 しかも懐中電灯でもって因果関係が正常に進行していることを確める行為は、作為であることには異論は なかろう。ところがこのような作為は因果関係の流れを強化するとか、何らかの形で結果発生を容易にしているとは 考えられない。即ち、被告人が当該事件に作為で関与したとしても、当該結果の発生に何らの影響も与えていない。従 っ て 、 かかる観点から当該作為を、封市助でもって評価することに異論も主張され得るであろう。 これに対し、私見によれば、当該作為は犯罪結果の惹起を確実にする働きをしているものと評価される。けだし、 因果の流れが正常に進行しているか否かを調査する行為には、万一、因果の流れに異常が発生した場合には、結果発 生を確実げ比するためにそれを正犯者に報告するなり、自らの手で正常に戻す可能性が含まれているのが通常だとすれ ば、因果の流れが偶々、正常であったために、正犯者にその旨を報告する行為も、結果発生の確実性を保証するもの として右の行為に比較して何の遜色もないように思われるからである。従って、 かかる観点に立つならば、当該事件 における被告人の責任は作為による殺人智助とすればよい。 内