『東欧史研究』第 38 号 2016 年 (1 〜 22 頁)
1987年セルビアの党内論争と
ナショナリズムをめぐる議論
─パラチン事件とセルビア党中央委員会第8回総会─
鈴木 健太
論 文
はじめに
第二次世界大戦後に成立した社会主義ユーゴス ラヴィア(1)、およびその構成共和国であるセルビア の政治史において、1987 年という年はひとつの分岐 点として考えられることが多い。この年にスロボダ ン・ミロシェヴィチ(Slobodan Milošević)が台頭し、 9 月の共和国党中央委員会の第 8 回総会(2)を経てセ ルビア政治の実権を握ったためである。これ以後ミ ロシェヴィチは、共和国内で故ティトーと並べられ るほどの人気と支持を獲得し、コソヴォ問題をはじ め、当時の体制が抱える諸問題の解決に積極的に乗 り出した。だが同時に、そうした動きは、他の共和 国の反発を招き、後の連邦解体を導く共和国間対立 の一因となった。 こうしたミロシェヴィチの台頭の背景や要因とし て従来指摘されてきたのは、ナショナリズムに訴え、 政治言説に民族主義的な価値や志向を容認した点で ある(3)。そこでは例えば、ミロシェヴィチが一気に 注目される政治家となった 1987 年 4 月のコソヴォ・ ポーリェ訪問とその演説が、ナショナリズムへの傾 倒を示す最初の契機として取り上げられる。 民族の価値や思想に基礎を置くナショナリズム は、様々な現象や事柄と結びつく概念であり、ユー ゴスラヴィアの体制においても、関連する時代や担 い手の文脈によって異なる意味合いをもつ(4)。この 時期のセルビアに関して言えば、先行研究や一般的 な理解では、主として、国是の「諸民族の平等」に 反して民族的な価値を強調する言動、またより具体 的には、コソヴォ問題の解決のためにセルビアの利 害を専ら追求する主張といった意味内容を含意する だろう。1980 年代末のセルビアやユーゴスラヴィア には、そのようなナショナリズムの傾向を示唆する 現象が散見され、直後の国家崩壊に至る展開に大き な影響を与えたことは、多くの研究で議論されると ころである。 しかしながら同時代の史料や文脈を踏まえる限 り、このような議論は、後の国家崩壊や紛争の結果 をもとに、ナショナリズムの影響力を指摘こそすれ、 諸事象の具体的な過程とナショナリズムの関係につ いての検討があまり十分でなく、一面的な把握に留 まっているように思われる。例えばミロシェヴィチは、 後述のようにこの 1987 年当時、ナショナリズムを批 判する姿勢を少なくとも積極的に表明していた。ま たナショナリズムはしばしば、統一国家解体と紛争 の過程を導き、民族/共和国間の不和をもたらした 要因として想定される。だが、当時の体制下では、 ナショナリズムに類する言動を行うことは反体制的 と見なされ、指導層の政治的手段としても容易に認 められるものでなかった。 したがって、当時のセルビア政治におけるナショ ナリズムの役割をより多面的に考えるには、統一国 家の理念に反し得るような民族主義的な対象に着目 するだけでなく、個々の政治や社会の局面において、 ナショナリズムがどのように現れ、また表現された のかについて、体制下の文脈と論理に基づいて詳し く検討する作業も不可欠である(5)。そのためには、 ナショナリズムを直接的に示す言動や現象を観察す るのみならず、ナショナリズムが当時の政治的な言 説のなかでどのように捉えられ、概念ないしレトリッ クとしてどう用いられたかについても、合わせて考 察する必要があるだろう。 これらの点を踏まえ、本稿では、1987 年 9 月のパ ラチンの事件と、それをきっかけとしたセルビアの共産党指導部の論争を取りあげたい。セルビア中南 部の町パラチン(Paraćin)で発生したこの事件では、 兵役中のアルバニア人青年兵士が自動小銃を乱射 し、セルビア人を含む 4 人の同僚兵士が犠牲になっ た。事件はアルバニア人の犯行であったことから、 当時のコソヴォの情勢と関連付けられて、国内に反 アルバニア人的な論調や民族主義的な言動を生ん だ。そして事件後の状況を受けて、共和国党指導部 内にはナショナリズム批判をめぐる論争が生じ、そ れは先述の第 8 回総会で決着を見ることになる。 第 8 回総会に至るこの論争は、ミロシェヴィチが 共和国党組織の実権を握る契機となったのみなら ず、ユーゴスラヴィア崩壊前の共和国政治において、 セルビアのナショナリズムの問題が党指導部を中心 に大きく議論される機会となった。一連の経緯にお いて、ナショナリズムはどのように争点となり、また いかなる見解の対立が見られたのか。本稿ではこの 点を、パラチン事件から第 8 回総会までの展開を見 ながら、メディアの言論、党指導部の論争の分析を 通じて検討していく。それによって、当時のユーゴ スラヴィア/セルビアの政治的な議論において、ナ ショナリズムがどのように位置づけられ、またレト リックとしてどのように機能していたのかを考察し ていきたい。 冒頭に述べたように、第 8 回総会に至る展開は、 セルビア現代史における重要な事件と見なされ、こ れまで多くの研究や著述で言及されている。そして 第 8 回総会と関連する党会合の会議録の一部が、既 に当時から公になっていることもあって、第 8 回総 会に特化した先行研究も幾つか存在する(6)。これら の研究は、主として、第 8 回総会に至る論争の経緯 や流れを、指導部内の対立する二派の主張を紹介し ながら全体的に描くことに力点を置いている。本稿 では、こうした成果を下敷きに、ナショナリズムを めぐる議論に焦点を当てながら、その構造と二派の 立場の相違を分析することに主眼を置く。 以下、まず第 1 章では、1987 年 9 月の局面の前 史として、1980 年代の体制危機およびセルビア政治 の状況を概観する。続く第 2 章はパラチン事件を取 り上げ、事件の概要、それに対する国内・共和国内 の反応とナショナリズムについて述べる。そしてパ ラチン事件から第 8 回総会に至るまでのセルビア党 指導部の論争を詳しく検討するのが、第 3・第 4 章 である。論争の経緯と構図を示した上で、対立する 2 派の論点を見ながら、議論や論理の特徴とナショ ナリズムをめぐる見解の齟齬について論じる。以上 を通じて、1987 年のセルビア政治とナショナリズム の関係を理解するための、ひとつの視座を提示する ことをめざしたい。
1. 前史── 1987 年までのセルビア政
治と共和国党指導部
1980 年代の体制危機とナショナリズム 「諸民族の平等」が国是とされたユーゴスラヴィア の体制において、ナショナリズムは党のイデオロギー に反する概念や政治思想であった。だが、実際の政 治過程において、それは完全な否定の対象ではなかっ た。民族の自決に基づく連邦制において、民族ない し共和国は政策決定の諸権限を有する主体であり、 政治や経済の諸問題のなかで民族的な権利や平等を 主張することは常にあり得た。1970 年代初頭に生じ た「クロアチアの春」など、そのような言動が行き過 ぎた場合は処罰の対象となった。しかし、ナショナリ ズムが、政治的な議論や論争において、競合する利 害や対立関係を代弁する手段として体制内で認めら れたものであったこともまた確かである(7)。 ナショナリズムのこのような矛盾した側面は、体 制が安定しているときはさほど問題にならなかった。 だが、体制の求心力や正統性に陰りが見え始め、大 統領ティトーが死去し、経済危機に直面する 1980 年代になると、従来のようなティトーの介入や党指 導部の強権発動によって対応することは難しくなっ た。体制の弱体化とともに、党外では 1980 年代初 頭から反体制の言動が目立ちはじめ、なかでも民族 派知識人の言論や態度には、従来であれば許容され なかったナショナリズムを用いた主張が散見される ようになる。そしてセルビアの場合、コソヴォ問題 の長期化が、そうした反体制派の動きを勢いづけた。セルビア共和国の自治州のひとつコソヴォは、多 数を占めるアルバニア人と少数のセルビア人などが 居住する地域である。社会主義体制下では、自治州 の権限や諸権利をめぐり、住民間で時に議論や軋轢 が生じた。だが、そうした状況は 1980 年代に入っ て急進化する。その契機となったのが、1981 年 3 月 の自治州首都プリシュティナにおけるアルバニア系 住民の暴動である。経済的な不満による学生デモが、 政治的な大規模デモに発展し、ナショナリズムを持 ち出してコソヴォの共和国格上げ要求が唱えられ た。事態はひとまず沈静化したが、一部のアルバニ ア人の不満と要求はその後も継続し、自治州内では アルバニア人とセルビア人・モンテネグロ人のあい だの住民関係が緊張した。そして 80 年代を通じて、 自治州の情勢は次第に不安定さを増し、民族間の関 係悪化や不信と相互のナショナリズム、民族的他者 への差別、抑圧から犯罪行為にまで至る環境・治安 の悪化、それに伴って増大するセルビア人・モンテ ネグロ人のコソヴォ外への退去・移住、アルバニア 人のナショナリストや分離主義者の活動への対処、 といった様々な複合的な問題が常態化した(8)。これ らは全体として、コソヴォの統治と民族間関係をめ ぐる「コソヴォ問題」を構成し、80 年代末には経済 危機と並んで、早急な解決を要する体制の最重要課 題のひとつとなった。 だが、コソヴォの問題をめぐっては、当時の 74 年 憲法体制のもとでは共和国・自治州に大幅な権限が 認められ、自治州が共和国とほぼ同等の権利をもつ ため、セルビア共和国はコソヴォの内政に直接関与 することができなかった。また連邦政府の対応も限 定的であり、アルバニア人が多数を占める当地の自 治州政府からも有効な方策は示されなかった。ゆえ に、セルビアの反体制派のあいだでは民族派知識人 を中心に、コソヴォのセルビア人の境遇を訴えなが ら、74 年憲法体制の改変を要求し、体制批判を展 開する声が高まった。これらの動きにおいては、民 族主義的な自己理解に立ってナショナリズムが公然 と訴えられた。1980 年代中葉には、現行憲法下でセ ルビア人の自己主張が抑えられているという主張や、 セルビア民族全体の危機を訴えるような言説が、反 体制派知識人から一部の報道媒体や世論にまで見ら れるようになった。1986 年 9 月に草稿のまま漏洩し たセルビア科学芸術アカデミー(Srpska akademija nauka i umetnosti –SANU)の「覚書」(Memorandum SANU)は、こうした論調が拡大するなかで登場し、 そこに学術的な根拠を与えた(9)。 1987 年の党指導部内の変化と対立 経済危機とコソヴォの情勢を背景に、ナショナリ ズムに訴えた体制批判が顕在化するなか、セルビア 党指導部は原則的にこの動きをたしなめ、必要に応 じて非難する立場をとった。イヴァン・スタンボリ チ(Ivan Stambolić)を筆頭とする党指導部は、従来 の制度的枠内で経済危機やコソヴォ問題を解決する 方針で一貫しており、反体制派のナショナリズムや 民族派知識人の動向を「ユーゴスラヴィアを破壊す るもの」(10)と見なしていた。しかし、そうした党指 導部に変化が見られ、党内の権力闘争を伴って、派 閥の対抗関係が徐々に表面化するのが 1987 年の前 半である。そこには 2 つの出来事が関係する。 まず、同年 4 月下旬の、当時党指導部のナンバー 2(11)であったミロシェヴィチによるコソヴォ・ポーリェ (Kosovo Polje)訪問である。ミロシェヴィチはそこで、 現地の窮状を訴えるセルビア人デモ隊の予期せぬ直 接行動に立ち会った後、セルビア系地元住民との 13 時間にも及ぶ会合を経て、最後に演説を行った。演 説は後に一部の欧米のジャーナリストや論者のあい だでは、ナショナリズムや憎しみを喚起するものと 解され、ミロシェヴィチのナショナリストとしての側 面を強調する論拠となったが、実際は異なる。内容 にとくに目新しさはなく、従来の共産主義者に見ら れるような、社会主義の精神、「友愛と統一」を強 調し、ナショナリズムや分離主義を批判するもので あった。しかし、演説はミロシェヴィチの評価を一 変させ、当地の聴衆はミロシェヴィチを新たな指導 者として歓迎することになる。演説の中身よりも、 その確固たる姿勢や振る舞いに人びとは印象付けら れたという(12)。そして、コソヴォの民衆の現状を目 の当たりにしたこの訪問を機に、ミロシェヴィチは 「別人」のように、次第に手段よりも結果を優先して
現状の解決を主張するようになった。党内の手続き では総会の時間短縮や非公式会合の解消などを実 施した。そうしたやり方はこれまでミロシェヴィチの 庇護者であったスタンボリチとその派閥の反発を招 いた(13)。 2 つ目が、ベオグラード大学の学生組織が発行す る『学生(Student)』紙の表題をめぐる論争である。「吸 血鬼の夜」というティトー(=「吸血鬼」)批判が込 められた 5 月 2 日号の表題に関して(14)、ベオグラー ド党支部の指導部では、ミロシェヴィチの学友ミー テヴィチ(Dušan Mitević)を中心に、編集部に対す る直接的な処罰を求む声が高まった。当時、ティトー への批判は、よりあからさまなものが反体制知識人 のあいだに見られ、それと比較すれば、表題は極端 に挑発的ではなかった。だが、ミロシェヴィチはティ トーに忠実な姿勢を堅持しており、ミロシェヴィチ 派は強くそれを批判した。一方、ベオグラード党支 部トップでスタンボリチ派の若手ドラギシャ・パヴ ロヴィチ(Dragiša Pavlović)は、ミーテヴィチの見 解に異を唱え、同紙に対する寛容な姿勢を示した。 両者の論議は次第に過熱し、表題の枠を超えて、共 和国党指導部内にスタンボリチ派とミロシェヴィチ 派の対立構図と亀裂を生むことになった。
2. パラチン事件
こうして 1987 年の前半にかけて、セルビア党指 導部内の対立が浮き彫りになるなか、突如発生する のがパラチンの事件である。 事件の概要 1987 年 9 月 3 日未明の 3 時過ぎ、セルビア共和 国中南部の町パラチンにあるユーゴスラヴィア人民 軍(Jugoslovenska narodna armija –JNA)の兵舎「ブ ランコ・クルスマノヴィチ(Branko Krsmanović)」に おいて、当直中の青年兵士のひとりが、弾薬を奪っ て寝室 2 部屋に順に侵入し、自動小銃を乱射した。 大部屋の寝室には、あわせて 30 名ほどの同僚の兵 士が熟睡していたが、そのうち 4 名が死亡、6 名は 負傷し、病院に運ばれた。銃を発射した兵士の名は、 アジズ・ケルメンディ(Aziz Kelmendi)。セルビア 共和国コソヴォ自治州のリプリャン(Lipljan)出身 のアルバニア人で当時 20 歳である。ケルメンディ自 身は同日朝 7 時半頃、兵舎近くの道路脇で、通りが かった老夫妻によって遺体で発見された。死体に 残った喉元の損傷から、自殺したと見られる(15)。 「パラチン事件(Paraćinski slučaj)」と呼ばれるこ の出来事(16)は、3 日同日から連邦全土に、テレビ、 ラジオ、新聞などの報道を通して驚愕をもって報じ られた。犯行自体の残虐性もさることながら、弱冠 20 歳の青年による、伝統ある人民軍での前代未聞 の事件は、国じゅうに大きな衝撃を与えた。 第二次世界大戦中のパルティザン運動の系譜を継 ぐ人民軍は、社会主義ユーゴスラヴィア建国の軍事 的母体として、諸民族による統一国家を支え、象徴 する存在であった。体制のなかでは、党と同程度に 重要な連邦機関として位置づけられ、「諸民族の平 等」や「友愛と統一」のスローガンを最も教条的に 信奉する組織である。主に 10 代後半から 20 代前半 の成年男子に課せられる人民軍の兵役は、そうした 民族間の平等と統一的な理念を実践する場であっ た。事件当時、ケルメンディを含めて犠牲となった 兵士は全員、兵役に服し、出生共和国・自治州以外 のパラチンで、異なる民族籍の同僚との共同生活を 送っていた(17)。事件で死亡した 4 名の出生地と民族 籍は以下である。 ゴラン・ベギチ(Goran Begić) ザグレブ(クロアチア)、クロアチア人、19 歳 ハジム・ジェナノヴィチ(Hazim Dženanović) ヴィテズ(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ)、ムス リム人、21 歳 サフェト・ドゥダノヴィチ(Safet Dudanović) オラホヴォ(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ)、ム スリム人、21 歳 スルジャン・スィミチ(Srđan Simić) ズレニャニン(ヴォイヴォディナ自治州、セル ビア)、ユーゴスラヴィア人、20 歳(18)このように、犠牲者・負傷者の民族籍は様々で、 ユーゴスラヴィアの主要な 6 つの構成民族がほぼ該 当する。事件は諸民族の統一を体現する兵役の最中 に起きており、それゆえ、ケルメンディの犯行は、 国営通信社「タンユグ(Tanjug)」による事件当日の 見出しのように、「ユーゴスラヴィアへの発砲」とし て捉えられた(19)。ただし、実行者がコソヴォ出身の アルバニア人であった点は、当時のユーゴスラヴィ アとセルビアを取り囲む政治状況のなかで事件の反 響をより大きくし、事件とナショナリズムが結びつく 特定の政治的意味を付加した。 事件への反応・対応 パラチン事件後の新聞・雑誌には、およそ一週間 にわたり、犠牲者の家族、死亡者の葬儀の模様、負 傷者の容体、軍の声明、捜査の結果、事件を非難 する集会、そしてケルメンディの生い立ちや家族環 境などについて関連記事が掲載されており、事件に 対する関心と反響の大きさが窺える。こうした報道 内容に共通するのは、出来事が一青年の乱射事件を 超えて、コソヴォ出身のアルバニア人青年の犯行と いう事実とともに、当時のコソヴォや体制の危機的 状況と結びつけて理解されたことである。事件当日 の報道では既に、ケルメンディの発砲が、「コソヴォ における反革命という非常に慎重を要する深刻な問 題が激化しつつも放置されていることの代償が、い かなるものでどれ程のものかを示している」(20)とあ る。 コソヴォ情勢が 1980 年代を通じて悪化し、経済 危機と並ぶ大きな問題となっていたのは前述の通り である。実際、事件が起きる前の 1987 年 6 月 26 日 には、コソヴォ問題を主要議題としてユーゴスラヴィ ア共産主義者同盟中央委員会第 9 回総会が開かれ、 問題解決のための方策が、連邦党指導部の実質的な 最高機関において初めて「決議」として採択された (21)。この決議は、直後の 7 月 9 日のセルビア共産主 義者同盟中央委員会第 6 回総会で、セルビア党指導 部によっても確認され、決議履行に向けたより具体 的な方策が「直接的課題」として採択された(22)。パ ラチン事件は、コソヴォ問題に関する連邦レベルの 政策がいよいよ着手されてから間もない時期に発生 しており、それゆえ、「コソヴォがこの瞬間において、 その深刻さと複雑さとともにユーゴスラヴィアの問 題を見事に表す」ように受け取られた(23)。 さ ら に、9 月 7 日 の 人 民 防 衛 省(Savezni sekretarijat za narodnu odbranu)の発表は、事件をコ ソヴォ問題の深刻さと結びつける以上に、実行者ケ ルメンディをより具体的にコソヴォ情勢の構図に当 てはめる論調を後押しするものであった。事件の捜 査にあたった同省は、早くも事件翌日の最初の声明 で、ケルメンディが 1983 年にアルバニア本国への 密出国未遂で 15 日間の禁固刑を受けたことや、中 等学校や大学での民族主義的な振る舞いなどに言及 した(24)。7 日の声明ではこれらの事実が確証される とともに、「殺人者アジズ・ケルメンディに民族主義 的な性向があり、人民軍への入隊前に何度もアルバ ニア人のナショナリズムや分離主義の姿勢を示した ことが確認された」と発表された。その証拠として、 実家の家宅捜索で押収されたノートに「コソヴォ共 和国」に関する思想やその実現のための武装闘争を 支持する直接的な言及が発見されたこと、またアル バニア本国の社会主義体制に関する宣伝行為などが 挙げられた。声明に際しては、捜査で明らかになっ た諸事実は、事件がケルメンディの計画的な犯行で あったことを示唆しているとも述べられた(25)。 ケルメンディが自動小銃を発射した寝室 2 部屋に は、アルバニア人民族籍の同僚兵士が 4 人、被害を 受けた同僚と同じように睡眠中であり、この兵士た ちも事件の犠牲者になる可能性があった(26)。その意 味で、実行犯の民族籍をはじめ、事件における民族 的な要因を焦点化しないという選択肢が存在しな かったわけではない。だが、人民防衛省の声明はケ ルメンディをアルバニア人のナショナリストと見な し、各種報道でもアルバニア人の犯行であることが 強調された。セルビアのみならず当時のユーゴスラ ヴィア内では、コソヴォ問題をめぐり、アルバニア 人のナショナリストや分離主義者がその根源的な要 因として絶えず非難されており、国内の言論におい てアルバニア人への風当たりは相対的に強くなって いた。そうしたなか、実際にパラチン事件は、その
突発性と悲劇性も影響し、反アルバニア人的な風潮 を、セルビアだけでなく連邦内でより顕在化させた。 事件から数日後には、アルバニア人が経営主の菓子 屋や商店が何者かに襲撃され、投石されたりショー ウィンドーやガラスなどが破壊されたりする事件が、 セルビアの諸都市をはじめ、各地で発生した(27)。 事件の解釈とナショナリズム こうした反アルバニア人の風潮に対し、セルビア 共和国幹部会(共和国政府)は、9 月 10 日の総会(司 会はミロシェヴィチ)後に声明を出した。声明は、 悲劇の責任の早急かつ断固とした究明の実施を強調 する一方、ここ数日、共和国内で生じているアルバ ニア民族籍の市民に対するあらゆる嫌がらせや虐待 などの行為を非難した。その上で、労働者や市民に 冷静な対応を呼びかけ、中央セルビア(28)には多くの アルバニア人が長らく誠実かつ穏やかに居住してお り、これらの人びとは事件のいかなる責任もなく、 現状の責任を問われるべきでないことを訴えた。ま た憎しみやショーヴィニズムは、同様の憎しみや ショーヴィニズムを用いることによってではなく、そ れらとの闘争によって根絶され、共和国党組織はそ の闘いを現在も率いていることが主張された(29)。 声明は、「ナショナリズム」という言葉こそ使って いないが、反アルバニア人的な言動を「憎しみ」 「ショーヴィニズム」として批判し、行き過ぎた行為 や感情的な反応の抑制を求めた。けれども、先の人 民防衛省の声明のように、ケルメンディがアルバニ ア人のナショナリストや分離主義者と断定された以 上、コソヴォ情勢を含めた体制危機への不満と懸念、 事件による衝撃と不安、これらの矛先が国内のアル バニア人一般に向けられたり、アルバニア民族全体 がナショナリズムの担い手と見なされたりする状況 は、当時ある程度想定し得る事態であったと言える。 セルビアでは 2 年前のある事件(30)をきっかけに、 コソヴォ問題と関連づけて、アルバニア人によるコ ソヴォのセルビア人(・モンテネグロ人)に対する 抑圧の事実を強調し、アルバニア人の「脅威」を訴 える報道が増え始めた(31)。その結果、報道や世論 のなかで、コソヴォをめぐるセルビア人とアルバニ ア人の対立図式を以前よりも一層強調し、固定化す る論調が高まった。また 1986 年の中頃から、コソヴォ のセルビア人活動家の嘆願や抗議、反体制派知識 人の請願や言論活動が次第に活発になった。こうし た動きのなかでは、メディア媒体が大きな役割を果 たし、一部の新聞・雑誌の報道は以前と比べてより 「劇場」型の傾向を強めた。その代表格がセルビア の日刊紙『ポリティカ(Politika)』である。パラチン 事件についても一番多くの紙面を割き、全国的に読 まれた唯一の連邦の日刊紙『ボルバ(Borba)』と比 しても、事件報道の仕方はより感情的で、反アルバ ニア人的傾向が見られた。 ゆえに事件前の数年のあいだに、コソヴォ問題を めぐる言説では、何らかの事象が事実関係以上に民 族的、さらに民族主義的に解釈される素地が生まれ ていた。加えて先述のように、セルビアはおろか連 邦の党公式見解において、アルバニア人のナショナ リストや分離主義者はコソヴォ問題の元凶として常 に厳しく非難されている。そしてコソヴォ問題への 対処が連邦の党中央委第 9 回総会を機に本格的に 着手されたその矢先、アルバニア人による殺傷事件 が起こった。もちろん、共和国幹部会の声明が述べ るように、反アルバニア人的傾向や襲撃行為などは 全く許容されなかった。しかし、パラチン事件を通 して、事態を民族的、民族主義的に解釈し、アルバ ニア人全体への非難と懸念が助長されていく風潮は 現実に高まった。 そして、事件の解釈が民族(主義)的になる場合、 その背後にはコソヴォ問題のもう一方の当事者、セ ルビア(人)のナショナリズムの表出も関わってくる。 明示的には、先のアルバニア人経営店舗への攻撃、 また広い意味で、報道媒体や世論に見られる反アル バニア人感情も、セルビア人の民族主義的な言動と 考えることができるだろう。最も端的な例は、9 月 5 日にベオグラードで開かれた故スルジャン・スィミ チの葬儀である。事件で悲運の死を遂げたこのセル ビア人兵士(32)の弔いには、家族や親族、知人・友 人をはじめ、軍や党の関係者に一般の市民も参列し、 およそ 2 万の群集が集まった(33)。式は厳かにとり行 われたが、最後の別れの際、軍関係者の代表挨拶
が終わって花輪が献花されると(34)、その場から「コ ソヴォはセルビア」、「ユーゴスラヴィアにアルバニ ア人はいらない」、「コソヴォは渡さない」など、葬 儀にはおよそ似つかわしくないシュプレヒコールが 連呼された(35)。これに対して兵士の父親はマイクに 近づき、「息子の墓の上に民族主義的な衝動を発露 させるのはやめてください」とたしなめた(36)。この 一幕は、葬儀の場を通じてパラチン事件とコソヴォ 問題が結びつき、ナショナリズムを示す感情が表出 される瞬間を映し出していた。 ところで、こうしたパラチン事件の反響を考える と、事件への異なる対処として、例えば事件を秘匿 したり、情報を統制したりする方法もあり得たよう に思える。事件直後、国内の動向を批判的に報じた ある記事は、数年前にクロアチアの町の兵舎で起き た、アルバニア人兵士による水道毒物混入の未遂事 件が公にならなかった点を指摘する(37)。これに関し ては、ひとつの仮説として人民軍内部の事情が挙げ られよう。軍の兵役では 1981 年のプリシュティナの 暴動以降、80 年代を通してアルバニア人兵士の素 行が度々問題視され、違反や破壊・挑発行為が起き たり、兵役が非合法集団の温床になったりした。ま た事件当時はちょうど軍の組織改革が進められ、こ れを通じて軍が、体制危機やイデオロギーの弱体化 に晒された国家の主導権を握ることを模索した時期 であった(38)。したがって、アルバニア人兵士の懸案 への対処としても、ケルメンディの民族主義的な過 去を公にし、アルバニア人ナショナリストの犯行の 側面を強調し、アルバニア人ナショナリズムへの非 難を明示しながら、国内の引き締めと軍の威信回復 を狙ったというのは考えられ得る理由である。 いずれにせよ、人民軍の兵役中に一青年が起こし た無差別乱射事件は、ケルメンディというアルバニ ア人ナショナリストの犯行として理解された。その ような民族(主義)的な解釈を受け、国内には反ア ルバニア人の論調が広がり、セルビアではそれが最 も顕著な形で現れて、時にセルビア側のナショナリ ズムを誘発する現象をもたらした。そしてパラチン 事件後のまさにこうした状況が、セルビア党指導部 内の論争の呼び水となった。
3. 共和国党指導部内の論争と第 8 回
総会
パラチン事件直後から、各地で感情的、民族主義 的な言動が広がるなか、そうした動きを危惧し、批 判する声も少なくなかった。セルビアにおいてそれ に最も直接的な形で言及したのが、ベオグラード党 支部トップのパヴロヴィチである。これをきっかけ に、事件に対する反応とその対応をめぐる見解の相 違が共和国党指導部に見られ始め、第 1 章で述べた 派閥間の対立と重なり合いながら、激しい論争に発 展した。事件以前のスタンボリチ派とミロシェヴィ チ派の対抗関係は、事件が提起したナショナリズム をめぐる考え方にも現れ、議論の応酬は、党指導部 を二分させながら、第 8 回総会まで続いた。 以下、本章では、まず第 8 回総会までの論争の経 緯と構図、また論争の趨勢に影響を与えた「統一」 の論理について検討する。それを踏まえ、次の第 4 章では、この論争におけるナショナリズム(ないし その批判)をめぐる議論に焦点を絞って考察を進め ていく。 論争の経緯と構図 まず、論争の経緯を確認しつつ、その展開と主な 論点を見たい。パラチン事件から 1 週間後の 9 月 11 日金曜、スタンボリチ派の若手有望株でベオグラー ド共産主義者同盟組織市委員会(Gradski komitet Organizacije Saveza komunista)(39)議長のパヴロヴィ チは、同委員会で開かれた新聞記者や編集長、党内 の新聞管轄担当者を集めた会合において次のように 述べた。 民族ないし共和国間の関係、および連邦構成民 族と少数民族(narodnost)の平等をめぐる政策の 実現において、セルビア社会主義共和国の共産主 義者とすべての進歩的な人々は、今日自らの、こ とによると近年最も困難で複雑で責任ある課題に 立ち会っている。 コソヴォの情勢全体、これは必要な速度、望まれた速度、また簡単に約束された速度0 0 0 0 0 0 0 0 0 0などでは修 復されないものであるが、この情勢全体は、危険 な雰囲気をつくり出している。その雰囲気のなか ではまるで、セルビアのナショナリズムに反対を 述べたどんな言葉も、アルバニア人の分離主義的 なナショナリズムに際しては大目に見られるかの ような経験をしている。 (中略) 今日、アルバニアのナショナリズムとの闘いに おいて、セルビアのナショナリズムとの不断の闘 いが同じく何を意味するのかを理解できない、あ るいは理解しようとしない新聞機関の編集部や記 者は、実際のところ、民族的な感情に火をつける 編集方針をとっている。一方、積極的な民族の感 覚とナショナリズムのあいだの危険な境界がどこ にあるかを考えようとする、あるいは考えること のできる編集部や記者は、今日、セルビア民族の 名誉も、自らの職業的な名誉も、そして社会主義 ユーゴスラヴィアの政策も守ることができるので ある(40)。 パラチン事件後、国内で高まる反アルバニア人感 情や民族主義的な論調に対し、パヴロヴィチはこう 最初に警鐘を鳴らした。共和国内の報道関係者を前 にした演説であり、そうした国内の動向の一因を、 パラチン事件とその後をめぐる新聞などの報道の仕 方に求めているのは明らかであった。コソヴォ問題 が「簡単に約束された速度」では改善できないこと を指摘しつつ、新聞機関の編集部や記者が、民族的 な感情に火をつけるような報道を行い、セルビアの ナショナリズムとの闘いを理解していないことを批 判した。特筆すべきは、パラチン事件後のセルビア の状況を、「ナショナリズム」という言葉で説明して いることである。そしてナショナリズムとの闘いに関 して、事件後の反アルバニア人的、報復的な言動が、 誘発された結果に過ぎないとする見方を念頭に置い て次のようにも述べる。 このような主張が見過ごしているのは、まさに 次の点である。ユーゴスラヴィアのどの地域にお いても、ナショナリズムを無力化することに最も 成功した手段は、ナショナリズムを自らの境遇、 自らの民族において無力化すること。そして、一 方のナショナリズムと他方のナショナリズムの衝 突は、その衝突においてどちらかのナショナリズ ムが単に誘発されたに過ぎないと見なされるか否 かにかかわらず、兄弟殺しに至るような憎しみや、 また兄弟殺しさえも導くということである(41)。 つまり、アルバニア人のナショナリズムとの闘争 はセルビアのナショナリズムとの闘争であり、どちら が先かに関係なくナショナリズム自体が問題になる ことが明確に指摘された。 パヴロヴィチの主張は、ナショナリズムに対して 共産主義者と党が従来伝統的に保持してきた立場 に、全く一致するものであった。だが、週明けの 14 日月曜、ミロシェヴィチ派の影響力が強い『ポリティ カ』紙の夕刊『ポリティカ・エクスプレス(Politika ekspres)』には、「ドラギシャ・パヴロヴィチの簡単0 0 な0評価」と題した記事が掲載された(42)。表題が明 示するように、それはパヴロヴィチの先の発言を痛 烈に批判するものであった。 記事は、パヴロヴィチによるセルビアのナショナ リズムに関する批判を受け、その発言の一節(43)を直 接引きながら、「新聞は共和国内のアルバニア人商 店に対する破壊行為のひとつも黙って見過ごしてお らず、報道、ラジオ、テレビの反応では、そうした 憎悪と狂気の行動すべてが非難の論評を受けた」と 反論し、現在の状況の原因をどこに見ているのか、 何よりもパヴロヴィチに問う必要があるとする。次 いで、パヴロヴィチがコソヴォ情勢を説明する際に 用いた「簡単に約束された速度」という表現に対し て、「一体誰が、コソヴォ情勢の早急な変化を簡単 に約束したのか」と問いかけながら、先述のユーゴ スラヴィア共産主義者同盟中央委員会第 9 回総会の 「決議」を引用する。同決議では、コソヴォ情勢を「遅 延なく抜本的に改善に向けて着手する」ことが義務 づけられ、そのために「ユーゴスラヴィア共産主義 者同盟とすべての社会主義的志向の諸勢力による、 より一層の精力的で、十分に効果的で、統一的な行
動」が不可欠であることが明記された。よって、コ ソヴォ問題の「遅延なき」解決という義務と約束は、 セルビアのナショナリストではなく、党の中央委員 会が提示し、人民が支持したものであって、第 9 回 総会決議は「簡単な約束」ではない。そして最後は、 「議論されるべきは、ドラギシャ・パヴロヴィチによ るお粗末に約束された速度、あるいはパヴロヴィチ による簡単な評価なのではなかろうか」というパヴ ロヴィチの言葉を逆手にとった皮肉たっぷりの一文 で記事は締めくくられた(44)。 パヴロヴィチの演説は、パラチン事件後に見られ たセルビアのナショナリズムの兆候を非難したもの であった。だがミロシェヴィチ派は、パヴロヴィチ の「簡単に約束された速度」という批判的な表現を 取り上げ、それが連邦の党中央委員会に向けられた ことを問題視した。両者の主張を見れば、議論はす れ違っており、演説が提起した主旨をずらしながら、 批判記事は演説を非難する。だが、論争の展開にお いて重要となったのは、議論がかみ合うことではな く、パヴロヴィチ演説が連邦の党中央委員会に向け られていると見なされた点であった。『ポリティカ・ エクスプレス』の批判記事に従えば、「簡単に約束 された速度」という発言に留まらず、パヴロヴィチ が批判を行った行動自体が、コソヴォ情勢に関する 連邦の第 9 回総会と共和国の第 6 回総会の決定に反 するものとして捉えられた。なぜなら、第 9 回総会 決議および第 6 回総会で採択された「直接的課題」 では、コソヴォ情勢の解決として、まずもって党の「統 一」、つまり党の「統一的な行動」や「十分な思想的、 行動的な統一」が必須とされることが決まっていた からである(45)。 ユーゴスラヴィアの社会主義体制において、下か ら上へ積み上がった「民意」の決定に対する批判は 認められないという「民主集中制」に基づく考え方は、 この時代ももちろん基本的な党内手続きの原則で あった。決定を討議する際の見解の差異は許容され、 それは時に「自主管理的利害の複数主義」として強 調された。だが、一度決定された政策事項の実行段 階における相違は許容されないと考えられた(46)。こ の意味で、「簡単に約束された速度」という理解、 党の「統一」に逸脱する行為、そのいずれの点にお いても、パヴロヴィチ演説は「民主集中制」に基づ いて決定された第 9 回総会決議に反していた。9 月 18-19 日に開かれたセルビア共和国党中央委員会幹 部会では、パヴロヴィチ演説の原因と結果が討議さ れ、パヴロヴィチの幹部会委員職の解任が検討され た(47)。その結果、賛成 11、反対 5、棄権 4 の採決 によって(48)、解任に関する議案が承認され、それは 9 月 23-24 日に予定されていたセルビア共産主義者 同盟中央委員会第 8 回総会の議題のひとつとして引 き継がれた(49)。第 8 回総会では、幹部会の採決か ら一転、参加した 90 名の中央委委員のうち、反対 は 8、棄権は 18 に留まり、残る大多数の賛成によっ てパヴロヴィチの幹部会委員職の解任が決定された (50)。 さて、以上概観した第 8 回総会に至る論争におい て、議論の中心的な争点を簡潔に示すなら、パヴロ ヴィチが提起したセルビアのナショナリズムに対す る批判、そして『ポリティカ・エクスプレス』の記 事が発した党の「統一」に反する行為への批判とい う 2 点にまとめられる。党内の勢力に即せば、前者 がスタンボリチ派、後者がミロシェヴィチ派の主張 を構成した(51)。双方の批判は、一方がナショナリズ ムに対する態度を、他方が党の決定事項に対する言 動を取り上げるように、問題の対象が本質的に異な る。よって論争は基本的に、それぞれの批判点を両 者が互いに議論するというよりは、どちらの批判が 優勢を占め、より正当であるかを戦わせる形となっ た。 従来の著述や研究では、ミロシェヴィチがコソヴォ 問題やナショナリズムに専ら依拠した側面が強調さ れる傾向があり、ナショナリズム批判を投じたパヴ ロヴィチが第 8 回総会で解任され、スタンボリチ派 が敗北したことは、それ自体がナショナリズムへの 賛否を決したように捉えられる場合がある(52)。だが、 前章で見たパラチン事件後の共和国幹部会の声明 が示すように、ナショナリズムや民族主義的な傾向 を批判する姿勢は、党指導部内で一貫している。ミ ロシェヴィチ派にしても、「諸民族の平等」という体 制の根幹部分を反故にしたり、第 8 回総会でナショ
ナリズムを容認する姿勢を示したりしたわけではな い。論争ではスタンボリチ派もミロシェヴィチ派も、 体制の枠内で互いの主張を展開し、最終的に決着が つくときの論理も、従来の共産主義者が保持してき た伝統的な考え方に規定された。 「統一」の論理 もっとも、一連の論争はそれ自体、スタンボリチ 派とミロシェヴィチ派のあいだのセルビア党指導部 内の実権をめぐる権力闘争を代弁していた。論争が、 相互の議論の積み重ねやどちらが説得的であるかと いう中身より、どちらの批判が多く支持されるかに 左右されたのもこのためである。そこには、従来の 党内の権力闘争や派閥争いと同様、議場の外や舞台 裏の駆け引き、個人的な利害、人間関係なども大き く影響した。ゆえに、論争における発言とそのやり 取りが、権力闘争の趨勢を制度的に裏付けるという 儀礼的な側面をもっていたのも確かである(53)。 実際、パヴロヴィチ解任をめぐる採決を見ても、 9 月 18-19 日の共和国党中央委員会幹部会では、賛 成は過半数を若干上回るに過ぎなかったが、23-24 日の第 8 回総会では一転して大差がついた。このこ とは、第 8 回総会までの短期間にスタンボリチ派の 中央委員会委員の多くがミロシェヴィチ派へ転向し たことを物語る。だが一方、事前の舞台裏の駆け引 きとは別に、中央委委員のなかには総会当日まで、 またその最中でさえ態度を決めあぐねる者も存在し た。「ポケットに 2 つの演説内容を携えて」総会に 臨み、会議の推移を慎重に窺ったり、「その日のあい だに何度も一方から他方へ泳いだ」りする委員もい たという(54)。 こうした流動的な動きも残された状況において、 ミロシェヴィチ派が主張するパヴロヴィチの言動へ の批判点は、多数がミロシェヴィチ派に「流れる」 趨勢を生み出すことに寄与したと言える。パヴロヴィ チが訴えたセルビアのナショナリズムへの批判は、 これ自体、前章で見たような、パラチン事件後の国 内の動向を踏まえていた。だが、その妥当性にかか わらず、パヴロヴィチの行動と一部の発言が第 9 回 総会決議に反し、決議の実行を進める党の「統一」 を妨げたことは、先に見た党内の論理に則って、確 かな論拠として主張された(55)。党指導部に反した行 為という裁定は、共産主義者にとって重い意味をも つだけでなく、その責任が現に解任議案として討議 されるなかで、異議を唱える者の同様の処遇が暗に 仄めかされる場面もあった(56)。 とりわけ、ミロシェヴィチ派が主張する争点が支 持される背景に重要であったのは、第 9 回総会決議 にも明記された「統一」の言葉とそのレトリックで ある。そもそもこれは、ユーゴスラヴィアの建国期 から統一国家を支える国是として、広く社会に流布 したスローガン、「友愛と統一」の一方をなす。セル ビア共和国に限らず、それまでも、典型的には共和 国/民族間の政治や経済をめぐる対立のように、党 内の見解の相違が露わになったとき、事態の解決に 向けて強調されてきた概念でありイデオロギーで あった。この第 8 回総会に至るセルビア党指導部内 の対立も、例外なく、そうした体制の伝統的な価値 に反し、またそれを損なう党の分裂として考えられ た。 加えて、「統一」への志向を従来から一貫して明 示してきたのがミロシェヴィチである。ミロシェヴィ チは、以前からユーゴスラヴィアやセルビアにおけ る「不統一」を明確に批判し、「友愛と統一」の代 表的な発言者であったティトーに倣いながら、党の 「統一」こそが体制の抱える様々な問題解決の重要 な条件であるとしていた(57)。従来の著述や研究では、 ミロシェヴィチが 4 月のコソヴォ・ポーリェ訪問以 降に党内で台頭し、人びとの支持を獲得した要因と して、ナショナリズムを用いた手法がしばしば指摘 される。しかし、ミロシェヴィチの政治的経歴の上 昇において、その綱領の中心を成したのは、コソヴォ 問題や体制危機に際して、党を中心にいかなる態度 で変革に臨むかという主張であり、その不可欠な要 件としてこの党の「統一」が唱えられた。そこでは、 変化のための決断や断固たる姿勢といった鷹派の考 え方が強調され、ティトーが率いた第二次大戦中の 社会主義「革命」の時代との連続性、またその時代 への回帰が訴えられたりした(58)。 このように「統一」が問題視され、その回復が要
求される場合、党内の両派は妥協を計るか、あるい はどちらかに傾いて立場を選択せねばならない。そ してこの時、ミロシェヴィチ派が主張する争点にお いて、パヴロヴィチやその支持基盤のベオグラード 党支部は、既に決定された党の決議に異を唱え、求 められるセルビア共産主義者同盟の「統一」を損な う元凶として訴えられた。第 8 回総会の議論のなか でも、ミロシェヴィチ派を支持する委員はそれぞれ に、パヴロヴィチが「不統一」を生み出した点を強 く非難し、解任議案への賛同に同調した。そこでは 建国期の「革命」のように断固として、パヴロヴィ チの解任をもって党の「統一」を達成することが要 求された。その姿勢は、先立つ共和国党中央委幹部 会において「理性、寛容」を呼びかけ、両者の対立 に「平和的に冷静に橋をかける方法を探した」こと を総会の演説で語ったスタンボリチとは全く対照的 であった(59)。 そして、「統一」のレトリックとともに喚起される ミロシェヴィチ派の争点を、実際に後押ししたのが、 1987 年 9 月当時のセルビアをめぐる状況であった。 ヨーヴィチが指摘するように、「統一への要請は、エ リート内だけでなく人びとにとって、時代の主たる 要請であった」(60)。その「時代」を形づくったのは、 依然出口の見えないコソヴォ情勢や体制危機はもち ろん、その最中に突如生じたパラチン事件であり、 第 2 章で見たように、事件が国内に緊張と危機意識 を高め、さらに反アルバニア人感情や民族主義的な 言動をもたらしたことである。そうした事態は、党 指導部や党内に何らかの対応や決断を迫る空気を生 み出した。例えば、『ポリティカ・エクスプレス』の 批判記事の後、パヴロヴィチが主導した 9 月 17 日 のベオグラード党支部の幹部会では、ミロシェヴィ チ派の中央委委員ラドシュ・スミリコヴィチ(Radoš Smiljković)が、党の会合には珍しく直接的な調子 で訴えた。 ……皆さんにお願いしたい。今は、……綺麗ご とに留まってほしくはない。もしもっと断固として 行動するなら、状況はもっと悪くなる、という議 論には賛同しかねる。これ以上どんな悪いことが 起きるのでしょうか。 もうひとつ。熟睡したままの兵士の死体が…… 床に転がったときに、忍耐、待機、頭を冷やすな どと呼びかけることが何を意味するのでしょうか。 もちろん私も、刃物をもった攻撃を呼びかけるべ きだとは思いません…。党が何をすべきか、他の 組織が何をすべきか分かるはずです……(61)。 ミロシェヴィチ派が訴えるパヴロヴィチの解任要 求と「統一」のレトリックは、こうした不安と懸念 が高まった状況下で掲げられた。そこに妥協や中立 を許容する余地はほとんど残されておらず、第 8 回 総会は、双方の争点を主張する場でありながら、党 内の「統一」に加わるか否かの立場を問う場となった。 この点は、総会における各委員の演説内容にも表れ ている。多数がミロシェヴィチ派に回ったことを受 け、演説の議論は、「統一」の問題、党内手続きの 原則に触れながら、そこから逸脱したパヴロヴィチ 個人や派閥主義の責任を問う論調が多くを占めた。 反面、パヴロヴィチが批判したパラチン事件後の報 道や反応、セルビア・ナショナリズムの問題を直接 取り上げる議論は、パヴロヴィチ支持の一部の委員 に留まった。長時間に及んだパヴロヴィチ自身の演 説を除いて、その問題は必ずしも総会の議論の中心 にはならなかった。最終的な採決もそうした趨勢を そのまま反映した。パヴロヴィチを擁護し、解任議 案への反対や棄権を投じる委員も少なからず存在し たが、ミロシェヴィチ派の争点を支持し、パヴロヴィ チ解任に賛同する者が圧倒的に優勢となった(62)。
4. ナショナリズムをめぐる議論
では一方、第 8 回総会までの論争におけるもうひ とつの争点、パヴロヴィチが提起したセルビアのナ ショナリズムに対する批判は、どのように議論され たのだろうか。 『ポリティカ』編集評議会の議論 先述のように、9 月 11 日のベオグラード党支部における報道関係者との会合において、パヴロヴィチ は、パラチン事件後の反アルバニア人的、また民族 主義的な傾向を批判し、そうした動向を(セルビアの) ナショナリズムと位置付けながら、ナショナリズムと 闘う姿勢を喚起した。同様の主張は、『ポリティカ・ エクスプレス』の批判記事を受けて 17 日に開かれ た先のベオグラード党支部幹部会における自身の導 入演説においても一貫して引き継がれた(63)。 パヴロヴィチの主張において、ナショナリズムや 反アルバニア人的な傾向の高まりの背景としてとり わけ注意が向けられたのが一部の新聞報道であっ た。これに対し、批判の対象のひとつとなった『ポ リティカ』紙内部でも議論が持ち上がっている。『ポ リティカ・エクスプレス』の批判記事が登場する 14 日には、『ポリティカ』の編集評議会が急遽開かれた。 会議の冒頭、同評議会議長のジヴァナ・オルビナ (Živana Olbina)は、当時の紙面に関して、報道姿 勢の変化、同紙の独自性、夕刊紙への接近、コソヴォ に関する扇情的な文芸欄の記事の過剰な増大、ナ ショナリズムとの戦いにおいて常に引かれるべき正 しい境界線など、様々な問題を提起した(64)。ポリティ カ 社 社 長 の イヴ ァン・ スト ヤ ノヴ ィチ(Ivan Stojanović)も、オルビナの指摘に同調した。同紙の 記事の多くが勇敢に証拠だてて書かれているとしな がら、とりわけ昨今の紙面に発表された投書や連載 はナショナリズムの境界線上にあり、自分はそうし た幾つかの文章に関係していないと述べた(65)。 だが、長時間に及んだ会議では、こうした見解に 異を立て、当時の紙面や編集方針を支持する意見が 多くを占めた。その理由として、同紙が共和国ない し民族の新聞であること、現在の書き方で人びとが 勇気づけられていること、また個人の印象や限られ た事例による批判ではなく、十分かつ客観的な分析 に基づく総合的な判断が求められるといった主張が 展開された(66)。なかでも『ポリティカ』紙の責任編 集 長 で あるジ ヴ ォラド・ミノヴ ィチ(Živorad Minović)は、オルビナが指摘する問題に真っ向か ら対峙した。ミノヴィチは、『ポリティカ』の部数が 過去最大に匹敵し、それが公の人びとの評価を物 語っている点に言及しながら、同紙の報道姿勢に変 化はなく、独自性も失っていないと反論する。そして、 方法に何か違いがあるのは当然だとしても、『ポリ ティカ』は扇情主義の側ではなく、それとは正反対 の事実尊重と真実の側にあるのであって、「我々が コソヴォに関して扇情的に、また民族主義的に書い たことは決してなく、そのような評価は拒否する」 と述べた(67)。 ミノヴィチはナショナリズムについても同様に、自 らの見解に即して反論した。そこでは、コソヴォが 慎重を期す問題であり、共産主義者同盟がナショナ リズムに対して明確な一線を引く必要があることに 同意して、次のように主張する。「曖昧にする理由は ない。なぜなら、『ポリティカ』の立場は常に反ナショ ナリズムであったし、本紙は常に精力的にセルビア のナショナリズムに反対した新聞であり、反共産主 義と戦ってきたのである。『ポリティカ』はナショナ リズムに関わらなかったのでない。ナショナリズム を攻撃してきたのである(68)。」そしてミノヴィチは、 同紙の一貫した反ナショナリズムを強調しつつ、パ ラチン事件前後の状況の変化についても述べる。「そ れ[ナショナリズムをめぐる問題]について話をす る場合にはもう、私が思うに、パラチンの前とパラ チンの後では、同じではない。状況はますます悪く なっている。誰がそれを静めるのか。新聞が静める 必要もあることに同意はするが、同じように、何も 隠す必要がないことにも同意する(69)。」 扇情主義の批判に対して、『ポリティカ』は「真実」 の側にあると反論したミノヴィチは、ここで、パラ チン事件後の現況であるからこそ新聞が何も隠すべ きでない、つまりは「真実」を伝える必要があると の見解を示した。オルビナやストヤノヴィチが懸念 する『ポリティカ』紙の煽動的傾向やナショナリズ ムは、ミノヴィチや編集評議会の多くの者にとって、 そのようには捉えられていない。逆にミノヴィチは、 同紙が旧来から反ナショナリズムの立場を保持して いることを力説し、それゆえに、客観的、総合的な 分析に必ずしも拠らないそうした懸念を考えるので はなく、「真実」を包み隠さず提示する姿勢を積極 的に訴えようとする。そこにはいわば、全体の反ナ ショナリズムの立場を示して様々な事実を隠さず伝
える必要を説く側と、個々の事例や傾向から全体の ナショナリズムへの傾倒を批判する側という、双方 の見解の相違が見てとれる。だがその溝は埋まるこ となく、議論は平行線を辿った。会議の最後、オル ビナは「同評議会の活動を周縁化する動きに反対で きなかった」責任を理由に議長職の辞表を提出し、 それを受理して編集評議会は終了した(70)。 反ナショナリズムの伝統 このような『ポリティカ』の編集方針をめぐる意 見の相違は、もちろんそのまま第 8 回総会に至る論 争の対立軸に重なっている。オルビナやストヤノヴィ チはパヴロヴィチを支持した(スタンボリチ派)一方、 ミノヴィチはミロシェヴィチ派を成した。ナショナリ ズムに関する両派の見解を端的に示すなら、パヴロ ヴィチの争点であるナショナリズム批判を認めるか 否かがまず立場の違いとなる。その上で、前項で見 たような、一方で、個々の事例から全体のナショナ リズムを危惧する立場、他方で、反ナショナリズム を主張する全体の見地から個別の事例を不問にする 立場という構図が指摘できる。数の上では後者が多 数を占めたが、それぞれの論点は、第 8 回総会まで の党指導部の論争において、ナショナリズムに関す るパヴロヴィチ側とミロシェヴィチ派双方の相反す る主張を構成した。 もっとも、両派の論点を個別に見た場合、11 日の 演説でパヴロヴィチが切り出したセルビアのナショ ナリズムに対する懸念と批判は、第 2 章で述べたよ うな、パラチン事件後の国内の状況に多少なりとも 対応すると考えられる。他方、ミノヴィチが主張す る一貫した反ナショナリズムの姿勢には、一見、そ の頑な姿勢とは別に、ナショナリズム批判自体への 反駁となり得る何らかの前提が乏しいようにも思え る。この点は、先の『ポリティカ・エクスプレス』 の批判記事を見ても同様である。記事では、パヴロ ヴィチのナショナリズム批判が直接反論されるので はなく、「すべてのそれは誰に送られ、また意図され ているのか。どこで誰に放たれているのか」という ように(71)、誰を指してナショナリズムを批判してい るのかが厳しく問われた。確かにこの記事は、前述 のように、第 9 回総会決議に則ってパヴロヴィチを 非難することに主眼がある。だが、ナショナリズム 批判の論点をずらしつつ、逆に「誰に」という言葉 で批判の矛先を問題視する姿勢には、党の「統一」 に反する問題とは別に、その「誰」こそは、従来か らナショナリズムに関してことさら注意を払ってきた 共和国党組織であるという前提が暗に含まれている と言えるだろう。 ユーゴスラヴィアにおいてセルビア共和国は、連 邦首都が置かれて国家の政治・経済の中心を成すと ともに、その領域とセルビア人の民族別人口が国内 最大を占める立場にあった。そして共産党政権のも とでは、戦前の最初のユーゴスラヴィア国家は、セ ルビア人による覇権主義の体制として否定的に解釈 される傾向にあった。そのため、社会主義時代、セ ルビアの共和国ないし民族の言動は、何らかの場合 に、中央集権主義やセルビアの覇権主義と結びつけ て批判されたり、ナショナリズムとして否定的に理 解されたりする可能性を常に孕んだ。ゆえに共和国 の党指導部は、他の共和国/民族との関係において、 自らの民族主義的な動向に絶えず慎重に配慮した。 またそうであるからこそ、極度の分権化に基づく 74 年憲法を、共和国党組織に向けられるそうした潜在 的な「批判」から解き放ち、規模の大小に関係なく、 他の共和国や諸民族と平等の地位を享受する体制と して進んで受け入れた(72)。 したがって、「セルビアの指導部において、我々 が[祖国]解放から今日までずっと、何かに決断的 で統一的であったとするなら、それは自らのナショ ナリズムとの闘いである」(73)──ミロシェヴィチが 1986 年 12 月の時点でこう述べたように、セルビア 共産主義者同盟にとって、セルビアのナショナリズ ムとの闘いは、党指導部が常に徹して取り組み、ま たそうする必要があった問題であった。こうした共 和国党指導部が自負する長年の伝統的な立場からす れば、ミロシェヴィチ派にとって、パヴロヴィチらの ナショナリズム批判は、合意を経た党の「統一」に 逸脱するだけでなく、その伝統を軽視するかのよう な言動として反論と非難を免れ得なかった。先のミ ノヴィチが、ナショナリズム批判自体が想定され得
ないかのように、『ポリティカ』の反ナショナリズム の立場を頑なに主張するのも、この文脈のなかで理 解できるだろう。 実際、第 8 回総会の議論においても、そうした旧 来からの一貫性を訴える姿勢は、ミロシェヴィチ派 の面々がナショナリズム批判への反論を行う際に、 しばしば見受けられる論調である。例えば、共和国 の党トップや幹部会議長の経歴をもち、当時ミロシェ ヴィチを支持した老年幹部ドゥシャン・チュクレビ チ(Dušan Čkrebić)は演説で次のように述べた。「ひ とつのナショナリズムとの同盟も我々のところにある はずがなく、我々のところにとりわけ、なかでもセル ビアのナショナリズムとの同盟はあるはずがない。 セルビア共産主義者同盟は、ここでもコソヴォでも、 セルビアのナショナリストを限定する明確な境界を 保持することができるし、またそうしなくてはならな い(74)。」 もちろん、このようなナショナリズム批判を受け つけないミロシェヴィチ派の態度には、現実の利害 に即した実際的な理由も見え隠れすると言える。ユー ゴスラヴィアの体制において、ナショナリズムの存 在を認めることは、共産主義者としてそれに対する 対処や統制を行う義務を意味し、何らかの対応を示 さなければならない。またとりわけ 1980 年代の体制 危機やコソヴォ問題に際してアルバニア人のナショ ナリズムが取り沙汰される状況においては、自身の 側にその存在を認めること自体、自らの政治的立場 を危うくする恐れがあった。ゆえに、ナショナリズ ムの存在を認めず、その説得的な根拠として反ナ ショナリズムの伝統に訴え、個別の事例には目をつ ぶる(75)。そうした対応はとくに、パラチン事件以後 に党の「統一」がしきりに唱えられる状況からしても、 実際に反ナショナリズムの確たる伝統を有するセル ビア党指導部の立ち位置からしても、方便以上の一 定の効果をもつ選択であったと考えられる。 ナショナリズムをめぐる相違 反ナショナリズムの伝統と自負に依拠したミロ シェヴィチ派に対し、ナショナリズム批判を主導し たパヴロヴィチは、自らの発言と主張を最後まで貫 いた。第 8 回総会では、多くの演説が自身への非難 と責任追及に及ぶなか、最長の演説を通じて、ミロ シェヴィチ派の批判に反論した(76)。演説では、自ら の見解が誤って解釈されたことに言及し、「先の発 言に関して、私をユーゴスラヴィア共産主義者同盟 の政策への反対者と公表することを意図する、いか なる解釈ないし形容も断固として拒否」すると訴え た(77)。パヴロヴィチの主張では、報道関係者への呼 びかけは、コソヴォに関する連邦と共和国党指導部 の姿勢に一致するものであった。そしてパラチン事 件後の一連の経緯について、首都の政治生活に関し てベオグラード党支部が行った検討と評価を説明し ながらこう述べる。「我々は……不可欠の、実質的な、 差し迫った必要性を実感した。既にこのように過熱 した風潮における民族主義的な諸現象を緊急に限定 し、それらと戦う必要があった。もし怒りには怒りで、 力には力で、ナショナリズムにはナショナリズムで 応えるなら、それが何を導くのかを承知していたの である。我々はそれを決して許容するつもりはなかっ た(78)。」 こうした主張の裏付けとしてパヴロヴィチは、当 時の『ポリティカ』をはじめとする一部の新聞雑誌 に見られる具体的な例を、時に紙面本文を読み上げ て示した。とくに時間を割いたのが、『ポリティカ』 のトルナヴツィの連載(79)に対する投書である。その 幾つかには、アルバニア人への侮蔑的な俗称、「復讐」 の言葉とそれを示唆する文章、アルバニア人の後進 性を皮肉った表現など、コソヴォをめぐって「非常 に巧妙に」人びとの感情を刺激し、緊張を高めるよ うな論調が見られ、コソヴォの劇的状況に関する「あ らゆる民族主義的な決まり文句」が実際含まれると する。ここには、先のオルビナやストヤノヴィチの ように、個々の事例を踏まえて全体のナショナリズ ムを懸念する姿勢が見てとれる。パヴロヴィチは、 読者の投書は基本的には政治生活の周縁的な見解 であるとしながらも、それらがこのように体系化さ れ、感情に火を点けて大衆的風潮を生むように意図 されれば、事態は異なり、社会の大きな流れのひと つになる恐れがあると主張した。その意味で、連載 欄の投書は、「重大な、しかし狡猾な世論操作の一例」