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夏衍『ファッショ細菌』の制作背景とその作品について

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はじめに 五幕六場話劇『法細斯細菌(ファッショ細菌)』は,日中戦争中の1942 年 8 月に,夏衍(1900-1995)によって書かれた。初上演は,約二か月後の 10 月17 日,第二回霧季公演1)1942 年 10 月から 1943 年 5 月)で中華劇芸社 により重慶国泰大戯院で行われた。初日の観客の入りは八割から九割で,こ れは重慶ではいい方であった2)という。監督は洪深(1894-1955)で,十八 回連続で演じられ,観客は三万人近くに達した3)そうである。『ファッショ 細菌』の初出は,1942 年 12 月 15 日発行の『文芸生活』第 3 刊第 3 期である。 『ファッショ細菌』について夏衍が語っている文章には,三つの「あとが きに代えて」と「『ファッショ細菌』に関して」がある。 一つ目は,『ファッショ細菌』上演初日である10 月 17 日に書かれた「ネ ズミ・シラミ・文明―『ファッショ細菌』あとがきに代えて一」である。こ こでは『ファッショ細菌』を執筆した経緯について書かれている。二つ目は, 十一日後の10 月 28 日に書かれた「紅色・油絵・習作―『ファッショ細菌』 あとがきに代えて二」である。この中で夏衍は,『ファッショ細菌』を「作品」 ではなくまだ「習作」の段階であり,絵画であれば,油絵ではなくスケッチ であると書いている。三つ目は,約一年後に書かれた「公式・護符と呪文・ 批判―『ファッショ細菌』あとがきに代えて三」である。ここでは『ファッショ 細菌』への黄蕪菌4)1913-2005)による批判について書かれている。そして, それからさらに十一年後に書かれた「『ファッショ細菌』に関して」では, 『ファッショ細菌』の演出,科学と政治,登場人物などについて書かれている。

その作品について

山本 優子

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本論文では,これらの文章に書かれている事柄について考察し,さらに詳 しく論じていきたい。まず,黄蕪菌が「重要な問題は,作者が兪実夫を様々 な不幸な境遇に置くことに必然性と普遍性があるのだろうかということで ある」5)と書き,もし主人公の兪実夫が戦争の影響が及ばない場所にいたら, 兪実夫は相変わらず研究を続けていたのではないか,と批判していることか ら,実夫が次々と戦争が激しい場所に移ってゆくストーリーが不自然である と黄蕪菌が考えていることがうかがえる。しかし主人公の兪実夫が移動して 行った場所は,夏衍が日中戦争中に『救亡日報』の記者,編集者として移動 した場所とほぼ一致している。夏衍がそれぞれの場所でどんな経験をしたの か,そしてなぜ別の場所に移動しなければならなかったのかその理由を明ら かにし,劇中の実夫のケースと重ね合わせながら論じてみたい。 次に作品の制作背景と登場人物について考察する。『ファッショ細菌』の 先行研究には,主人公のモデルだと思われる人物について論じたものが少な くない。しかし他の登場人物について詳しく述べたり,作品の内容と作者の 体験を照らし合わせて作品を詳細に論じたりしたものは少ない。そこで,先 行研究を踏まえた上で,劇中の出来事と作者の記者時代の経験を照らし合わ せ,主人公の兪実夫,妻の静子,友人の趙安濤と秦正誼など,登場人物のそ れぞれ異なる思想や生き方を作中のセリフや行動から分析する。 最後に,上演当時の評論家の劇評と周恩来のコメントを手掛かりにして, 上演時の演出と観客が劇から受けた印象について述べたい。また,『ファッ ショ細菌』のテーマである「科学と政治」についても,夏衍が影響を受けた クロポトキン6)1842-1921)の『青年に訴う』を通して,夏衍の学生時代の 思想形成と本作品との関連を述べてみたい。 1.戦時中の夏衍  1 − 1.ジャーナリストとしての夏衍 上海,広州時代 夏衍は抗日戦争が始まった1937 年から,十二年間にわたり新聞記者になっ た。この期間は彼にとって「生涯忘れることのできない十二年であり,もっ

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とも楽しい十二年だった」7)という。劇作家,映画脚本家,ルポライター, 翻訳家など様々な顔を持つ夏衍だが,1980 年のインタビューで「わたしは 作家ではない,新聞記者ですよ,ジャーナリスト。自分ではジャーナリスト というてます〔ママ〕」8)と語っているように,新聞記者としての仕事に,最 も思い入れがあるのだろう。 15 歳から 20 歳まで過ごした浙江省立甲種工業学校在学中には,雑誌『双十』 (のちに『浙江新潮』に改名)の創刊に関与し,沈宰白のペンネームで杭州 の新聞批判や新聞検閲に反対する内容の文章を書いた。夏衍は後に当時を振 り返って「十数年にわたりジャーナリストとして過ごしたが,楽しいと感じ ても全く疲れを感じなかったのは,このことが原因となっている,もしくは 縁となっているのかもしれない」9)と回想している。 夏衍の新聞記者生活は,1937 年 8 月 2 日,潘漢年(1906-1977) 10)から連 絡を受け,十年間の日本生活を終え7 月末に上海に戻ったばかりの郭沫若 (1892-1978)11)に会ったことから始まる。そして夏衍はこの時に,「周恩来同 志が,私に郭沫若を助けて統一戦線的な性質をもった新聞をやらせることに 決めていたこと」12)を知った。 潘漢年は1928 年から文化統一戦線の仕事を担当し始めていたが,当時は まだ夏衍は彼に会う機会がなかった。夏衍によると「1924 年,彼が創造社 出版部で働いていた時に私は彼を知った。しかし二十年代の後期になると, 私は彼が上海で仕事をしているのは知っていたが,ずっと会う機会はなかっ た」13)そうである。 夏衍たちが請け負うことになった新聞『救亡日報』は,上海文化界救亡協 会(上海文救)の機関報であり,初めは上海文救が単独で創刊するはずであっ たが,第二次国共合作の初期ということもあり,準備の段階で国民党員も参 加することになった。郭沫若を社長として,総編集は国共双方から一人ずつ 出すことになり,共産党側からは夏衍,国民党側からは樊仲雲14)1901-1989) が選ばれた。編集主任やマネージャーなども双方から選ばれ,経費も双方で 負担することになった。そして1937 年 8 月 24 日に『救亡日報』は出版された。

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この年の11 月 21 日に上海が陥落すると,全上海の中国語新聞は停刊になっ た。夏衍は党の命を受け,その年末に上海を離れ香港を経由して広州に向か い,翌1938 年の 1 月 1 日には広州で『救亡日報』を復刊することが出来た。 1938 年 5 月に日本軍が広州大爆撃を行った時,市街地が爆撃されたため, 被害はとくに甚大で,爆撃による被害者は数千人にもおよんだ。夏衍は「全 社員を動員し,爆撃後の惨状を取材させた。この時,あたり一面が焼け焦げ た死体に蔽われ,私が人生で見た中で最も痛ましい光景であった」15)と当時 を回想して書いている。この爆撃以後,香港に逃れたり,汚職を摘発された りして,『救亡日報』に国民党側の人間がいなくなったという。 1938 年 10 月 21 日に広州が陥落すると,新聞は停刊となった。夏衍は残 りの原稿を整理している時に,広州大爆撃の時に撮った子どもの死体の写真 を見つけたという。その写真を壁に貼り,その傍に日本語で,「これが日本 空軍の『戦果』だ!お前たちにも両親や妻子がいるなら,この写真を見てど う思うのか? 人道のためにも,中日両国民を不幸に陥れる日本ファシスト 軍閥を打倒せよ!」と書き,さらに食堂の壁にも「たとえお前たちが広州や 武漢を占領しても我々の抗戦が終わることはない。お前たちは10 年も 20 年 も戦うつもりか?」16)と書いた。その日の夜,『救亡日報』の同人たちと広 州を離れたのだった。 1 − 2.ジャーナリストとしての夏衍 桂林,香港,重慶時代 夏衍は11 月 7 日に桂林に到着し,『救亡日報』はそれから約一か月後の 1939 年 1 月 10 日に復刊した。桂林に移ってから『救亡日報』のメンバーは 紙面を充実するため,改革を推し進めると,売上部数は五千部を超え,販路 は湖南,江西,広東,四川,ひいては香港から南洋(現在の東南アジア)一 帯へと拡大した。夏衍はこの時から本当に新聞の仕事が好きになったようで ある。その理由を以下のように書いている。   グローバルなことや,社会現象にかかわらず,人民はみな意見を持ち,

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発言したがり,褒めたがり,抗議したがる。私たちはその日の夜11 時 までに社説を書きあげれば,次の日の早朝には読者と会える。これは政 治,文章作成,編集技術の上でも最も良い鍛錬の機会となる。17) 桂林での発行期間は二年ほどであったが,部数は八千部の大台にまで迫り, 自社の印刷工場まで有した。しかし皖南事変を機に,国民党から掲載するよ うに言われた記事を掲載しなかったため封鎖されることになり,『救亡日報』 のメンバーは香港に移ることになった。 後に周恩来18)(1898-1976)がなぜ夏衍を香港に行かせたのか,廖承志19) (1908-1983)から聞かされた。それは「『避難』のためだけでなく,香港に『南 洋』(現在の東南アジア)と欧米各国にいる華僑や進歩的な人たちに対する 宣伝拠点を作るため」20)であった。新聞を発行する準備が始まると,廖承志 は新聞を堂々と発行し,南洋各地に郵送できるように『華商報』という名前 を付けた。この名称なら政治色を感じさせず,商工業界の人や一般市民も手 に取りやすいと考えたためであった。 『華商報』は1941 年 4 月 8 日に発行された。だが 12 月 8 日に太平洋戦争 が勃発すると,12 月 12 日に停刊が決まった。その後,12 月 25 日のクリ スマスに香港総督が日本に投降し,夏衍らは1 月 9 日に小艇に乗ってマカ オ,台山等を経由して2 月 5 日桂林に到着した。桂林に着くと,欧陽予倩21) (1889-1962),田漢22)1898-1968),洪深23)1894-1955)など桂林在住の演劇, 文芸界の人たちが迎えてくれた。夏衍が香港での出来事を語り,それを聞い た田漢と洪深が合作で『さらば,香港』を書いた。しかしこの脚本は審査の 結果,上演を禁止されてしまった。大後方の各演劇部隊の状況を把握するた め,彼は桂林で二か月過ごした後,4 月上旬に飛行機で重慶に向かった。 重慶では『新華日報』に寄稿した。夏衍はその当時を振り返って「演劇界 のような自由さはなかったけれど,内部は一致団結していて,仕事は忙しかっ たがとても楽しかった」24)と書いている。そして重慶の地で終戦を迎えた。 「1937 年から 1966 年まで,私は恩来同志の指導のもと三十年働いた。抗

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日戦争と解放戦争期間中に,私が主に行ったのは新聞と統一戦線活動であ る」25)と書いているように,その後も夏衍の活動は続いた。抗日戦争中には 『ファッショ細菌』以外にも『上海の屋根の下』『一年間』『心のまもり』な どの脚本を書いている。 1 − 3.兪実夫と夏衍の移動について 『ファッショ細菌』の時代設定は1931 年の 9 月から 1942 年春まで約十一 年におよぶ。その間戦局は刻々と変化し,登場人物たちはその変化とともに 移動を繰り返すことになる。これは,夏衍が戦況や国内事情の変化とともに 次々と在所を変えざるを得なかったことと重なっている。以下に第一幕から 第五幕までのあらすじと舞台について述べる。 第一幕の舞台は1931 年 9 月,満州事変前の日本である。主人公兪実夫(33 歳)は細菌学の医学博士である。日本に留学し,研究所で研究を行っている。 チフスに関する論文を書き,日本の医科大学の学部生を経ていない中国人と しては,初めて文部省から医学博士号を授与された。彼の日本人の妻,静子(21 歳)は,以前音楽の勉強をしていたが,娘の寿美子(3 歳)が生まれてから はやめてしまっている。その日,実夫が博士号を取得したと知った,友人の 趙安濤(27 歳)と秦正誼(30 歳前後)が実夫の家にお祝いに来ていた。そ の最中に,号外が配られ,中国東北部で日本と中国が戦争を始めるかもしれ ないと知った。安濤は戦争が始まれば安心して日本に住んでいられない,「街 を歩いていると,すべての日本人の視線が刺のように見える」26)という理由 から,中国に帰ることに決め,実夫も上海自然科学研究所の招聘を受け帰国 することにした。同日に,大家が家賃の催促に来ていた。実夫が帰国を決意 した理由の一部には,家賃の支払いに困るなど,金銭的な問題もあったよう である。 第二幕の舞台は六年後の1937 年 8 月下旬,第二次上海事変の一週間後, 上海フランス租界である。実夫は,上海自然科学研究所の予防医学科で発疹 チフスの研究をしている。家にピアノや楽譜が置かれていることから,妻の

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静子がまた音楽を始めたことがうかがえる。娘の寿美子は寿珍という名前に 改名している。実夫の家に友人の趙安濤と妻の銭琴仙,銭琴仙の弟,銭裕が 訪ねてきた。実夫一家は租界に住んでいるので心配は少ないとはいえ,飛 行機や大砲の音が響き,中国人の間では大人から子どもまで排日の風潮が高 まっていた。使用人の張媽が日本人の家で働くのを嫌がって出ていき,娘の 寿珍が近所の子どもたちから「小東洋」と悪口を言われ,叩かれそうになっ たりした上に,お前の父親は「東洋人」と一緒に働いていると言われ,泣き ながら家に帰ってきた。安濤たちからも上海自然科学研究所を辞め,他の場 所に移った方がいいと言われたことから,妻の静子や寿珍が嫌な思いをしな くてもすむように研究所を辞め,香港の病院で働くことにした。 第三幕は1941 年 9 月,太平洋戦争勃発前である。実夫たちは香港に来て から太平洋戦争が勃発するまで平和に過ごしていた。しかし戦争の影は香港 にも近づいてきており,普段研究以外には興味を示さない実夫も珍しく安濤 に現在の情勢について尋ねる。銭裕と寿珍が読んでいる新聞に「日本鬼子が 華北で毒ガスを使い,井戸や川にチフスの菌をまいた・・・」27)と書いてあ ることを聞くと,今まで読むことのなかった新聞に目を走らせた。やがて来 る日本軍による空襲を暗示するかのように,実夫たちのもとには特大の台風 が近づいていた。 第四幕の第一場は,1941 年クリスマスの香港の場面である。日本軍によ る空襲を避け,銭裕と寿珍は度々防空壕に避難するが,実夫は空襲が来ても 避難することなく家で研究を続けている。そこへ日本軍の攻撃により,家も 財産も無くしてしまった安濤夫婦,秦正誼,珍 たちが実夫の家に逃れてき た。 第二場では,実夫の家に小銃を持った三人の日本兵がやってきて,万年筆, 懐中時計,腕時計を奪い,タバコを要求してきた。タバコを受け取り帰ろう としたとき,日本兵のうちの一人が机の上に医療用具があるのに気づき,試 験管を手に取った。実夫は培養している細菌が出てしまわないように止めよ うとするが,日本兵によって押し倒され,試験管は床に捨てられてしまう。

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顕微鏡は押収されてしまい,実夫は顕微鏡を取り戻そうとして日本兵に追い すがるが押しのけられる。見かねた銭裕が日本兵に顕微鏡の返却を乞おうと すると逆に殴られてしまう。日本兵は机の上の実験器具を壊し,実夫を数回 蹴った。実夫のうめき声を聞いて,隠れていた静子が飛び出してきて,日本 兵と話をしようとしたが,言葉を飲み込んだ。日本兵は静子を見て卑猥な表 情を浮かべ,頬を撫でた。静子は歯を食いしばってこらえながら,その手を 振り払った。そのとき銭裕が静子の前に立ちふさがり,静子を遮った。日本 兵は銭裕を引っ張っていこうとし,彼は必死に抵抗したが日本兵たちに連行 され,階段から突き落とされてしまう。そして暴行を加えられた末,銃殺さ れた。銭裕が殺された後,実夫は香港を出ることを決心した。 第五幕は1942 年 2 月下旬,旧暦の元宵節の桂林である。実夫は前日に北 方から逃れてきた鄭医師に誘われ,貴陽の赤十字病院に行くことに決めた。 赤十字病院に行ったらこれまでの研究が無駄になってしまう,と安濤に言わ れても,その決心は揺らがない。銭裕と実験器具を失ってしまったことで, 実夫の熱意は科学から抗戦に移ったのだった。 作品の中で主人公の実夫は東京,上海,香港,桂林と移動し,ジャーナリ スト時代の夏衍は上海,広州,桂林,香港,桂林,重慶と移動している。ジャー ナリストになる前の夏衍を見てみると,地元浙江の甲種工業学校を卒業後, 学校の推薦を受け日本に留学している。約半年,補習学校に通ったのち,北 九州にある明治専門学校に合格すると,予科を加え五年間,電気工学科で勉 強した。明治専門学校在学中の1923 年には,博多に郭沫若を訪ねている。 その翌年には来日した孫文28)1866-1925)を門司へ歓迎しに行き,孫文に入 党を勧められ,李烈鈞29)(1882-1946)の推薦で国民党に入党している。明治 専門学校卒業後には,引き続き官費をもらうため九州帝大に入学するが,ほ とんど授業には出ず,東京の神田にある国民党総本部で業務を手伝うように なった。1927 年 2 月に戴季陶30)1890-1949)が来日した際には,随行員と して彼の行動を監視する任務を与えられた。4 月 12 日に蒋介石が上海でクー デターを起こし,南京政府を樹立すると,西山会議派の巣鴨総本部に襲撃さ

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れ,神田総本部は破壊されてしまった。夏衍は帰国して武漢に行き国民党中 央と連絡を取ることにした。夏衍は戴季陶の随行員をしてから,特高や警察 官に監視されるようになっており,4 月下旬に帰国するまで続いた。帰国後 は武漢に行く予定だったが,友人の勧めにより上海に残ることにした。その 一か月後の5 月に蔣介石を批判する文章を書いて国民党を除名されると,間 もなく友人の紹介により共産党に加入している。 このように,夏衍と劇中の実夫は日本に留学し,日本から上海に戻ったと いう点も一致している。夏衍の帰国の理由は,中国国内の政治状況の変化に よるものであり,特高などに監視されるようになったからである。それに対 し実夫の場合は,日中関係の変化によるものである。また,実夫は友人の安 濤に上海自然科学研究所に勤める理由を「そこには著名な学者たちがいて, 書籍や器具もそろっている」31)と語っている。実夫は研究所に勤めることで 金銭的な不安から解放され,設備の整った研究室で研究に打ち込めると考え たのだと思われる。 その後,実夫は上海から香港に移動することになるが,夏衍は上海から広 州,桂林を経て香港に移動している。夏衍が上海から広州,広州から桂林に 移動したのは,日本軍の攻撃によりその地が陥落して,新聞が停刊となった ことが原因である。桂林から香港へ移動した理由は,国民党から掲載するよ うに言われた文章を掲載せず,新聞社が封鎖されることになったからである。 実夫が上海から香港に移った理由は,上海で反日感情が高まっていたことに よるものである。劇中で静子が「上海から香港にきたとき,みんな香港で戦 争は起こらないって言っていたのに・・・」32)と言っているように,香港に 行けば,平和な生活ができると考えていたからである。夏衍が1941 年の旧 暦の大晦日に,香港に着いた時の様子を書いた文章を読むと当時の香港の様 子がよくわかる。   新年を迎える爆竹の音を聞き,香港が相変わらず賑やかで騒がしく, まるで桃源郷のように思えた。香港の街からも,現地の新聞からも戦争

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の雰囲気を感じられなかった。33) このように静子や実夫たちが上海から香港に移った1937 年 9 月頃から, 太平洋戦争が勃発する1941 年頃まで,香港で戦争が起こるとは想像できな いくらい,戦争とは無縁な場所だったのだろう。 そんな香港も戦場になり,劇中の主人公実夫,夏衍ともに香港で日本兵と 対峙することになった。香港陥落後,夏衍が身を寄せた家には度々日本兵が やってきた。   26,27,28 日の三日間で日本兵に五回も『検査』された!ドアをノッ クして部屋に入ってきたのは三人から七人一組の小銃を持った兵士で, 身振りや片言の広東語で腕時計,万年筆,指輪,金,タバコ,服などを 要求し,(中略)気に入ったものがあると持っていったが,気に入った ものがなければ脅して無理やり出させるということはなかった。34) 香港陥落から一週間がたつと,交通も治安も乱れ,食料や水道,電気も供 給できなくなった。人々はみな昼間から賭け事をしていて,夜は町中で略奪 や強姦が起こった。 夏衍も劇中の実夫も香港から桂林へ逃れることになった。そして夏衍は桂 林から重慶へ移りまた記者の仕事を続け,実夫は研究をやめて貴州省貴陽へ 行って赤十字病院で働くことにした。 実夫が移動する経緯を見てみると,すべて戦争が関わっているが,夏衍が 移動した原因は,日中戦争だけではなく,中国国内の政治状況が原因となっ たものもある。 『ファッショ細菌』を批判した黄蕪菌は,主人公の兪実夫を絶えずさまざ まな不幸な境遇に置く必然性と普遍性はあるのだろうか,実夫を絶えず不幸 な境遇に置くことで最後に彼を変わらせたのであり,戦争と無関係な一般的 な環境では彼は変わらなかったのではないかと批判している。例えば四川や

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アメリカのような戦争の影響が直接及ばない場所であったら,彼は変わるこ とがなく,今でも科学至上主義者だったはずであると書いている。 実夫の移動した場所は,夏衍の移動した場所と重なっているだけではなく, 実夫の背景を考えると,それなりの必然性があると考えられる。劇中のこと とは言え,日本で研究をしていた中国人の実夫が,「中国の自然科学の振興 のために努力し,優秀なる中国の学者を研究員の中に加えて事実上中日両国 学者の相提携して研究に従事する」35)ことを目的としていた上海自然科学研 究所に招聘されるのは不思議なことではなく,反日感情が高まっていた上海 で,日本人の妻や娘を守るために,その時点では戦争が起こるとは思ってい なかった香港に移ることもまた不思議なことではない。 確かに,実夫たちは移動するごとに悪い状況に陥ってしまう。しかし,彼 は意図的により良い環境を求めて移動したのであり,結果的に不幸な境遇に 陥ってしまったのに過ぎないのである。後文で述べるように,夏衍の友人で ある医師の丁瓚も日中戦争勃発後,北平の協和病院から長沙,重慶と移動し ており,医療従事者が以上のような移動をするのはそれほど不自然なことで はないはずである。 また,アメリカのような戦争の影響が直接及ばない場所では,実夫は変わ らなかったのではないかという批判に対して,夏衍は『ネズミ・シラミ・文明』 を書いたハンス・ジンザーの弟子たちの例を挙げて「アメリカが参戦してか ら,直接戦争の影響が及ばない科学者たちも,研究室を離れて同盟国の前線 へ行った」と反論している。しかしこの反論は,政治に興味を示さず,戦時 下でも研究を続けていた実夫には当てはまらない。 実夫の移動に関して言えば,第一幕と第二幕で実夫が住居を移動したのは, 自分の意志によるものというよりも,友人の安濤の発言や,戦争の影響を受 けたからであったが,銭裕の死や顕微鏡を失ったことで,受動的な移動から 能動的な移動に変わっていったと考えられよう。

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2.『ファッショ細菌』の制作背景と登場人物について 2 − 1.『ファッショ細菌』の制作の動機と登場人物について 夏衍はこの作品を書いた動機を,初回上演の日に書いた「ネズミ・シラミ・ 文明―『ファッショ細菌』あとがきに代えて一」という一文の中で語っている。   桂林で,10 年も会っていなかった T に会えた。彼は北平の協和病院 から逃れてきて,大後方で医療活動をしようとしていた。――彼は医者 である。   重慶に着いて友人のY の紹介で,W と知り合った。「接収」されるま で,香港のマリー病院で働いていた。――彼も医者である。   多くの善良で純粋に医学の独立性を信じている医師たちが,日本の ファシスト強盗に象牙の塔から戦乱という現実に追いやられた。彼らは 実験室から離され,顕微鏡から離され,破壊された世界にその目を向け させられた。36) 後に書かれた『懶尋旧夢録』ではT と W の名前が明かされ,さらに詳し い動機が書かれている。   重慶に来てすぐに,長いこと会っていなかった丁瓚と偶然出会い,ま た香港から帰ったばかりの呉在東とも知り合った。二人とも医者である。 彼らと話をするうちに,医学や科学に従事している人で政治に関心を持 つ者が少ないことに話が及んだ。このことが私に「科学と政治」との関 係をテーマとした脚本を書きたいという気持ちを芽生えさせた。37) そこで夏衍は,丁と呉の二人や重慶の図書館から医学書を借り,医学関連 の本を読み始めた。その中で夏衍の心を捉えたのは,細菌学者であり詩人で もあるハンス・ジンザー38)Hans Zinsser)が書いた『ネズミ・シラミ・文明』

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であった。そして善良な細菌学者を悲劇の英雄にすることに決めた。 夏衍が『ファッショ細菌』を書いてから十二年後に書いた「『ファッショ 細菌』に関して」の中で,「この劇では,兪実夫が主要人物であり,その他 は副次的なものである。趙安濤と秦正誼は引き立て役であり,主人公と比較 する作用があるだけである」と語っているが,実際はどの登場人物もそれぞ れに特徴があり,魅力がある。以下,簡単に主要登場人物の紹介をする。 主人公の兪実夫は,研究以外には政治や社会問題などに興味がなく,研究 所が休みである日曜日に研究所に行こうとするなど,うっかりしたところが ある。新聞をとらないことを主義としているが,娘のために自分の主義を曲 げて新聞をとることを許可するなど,とても娘思いである。 趙安濤は,実夫の同郷の友人で政治経済を学んでいる。中学から大学まで ずっと東京の留学生団体に属し,活発に活動している。帰国後も政治の世界 で活動したが,うまくいかず,妻のコネで商売を始めてから,奥さんに頭が 上がらない。 秦正誼は人の気持ちを汲むことに長けていて,話をしていても人を不快に させない。実夫と安濤は正反対の性格だが,正誼はその中間に位置する。総 司令部などの大物と関係があると吹聴して自分を大きく見せようとするとこ ろがある。 兪実夫の妻,静子はおしとやかで教養があり,弱さや繊細なところはある が,家族を守る強さを合わせ持っている。夫の実夫と同じように,静子もあ まり政治に目を向けようとしない。 趙安濤の妻,銭琴仙はとても綺麗で,服装や化粧にも非常に強い自信を持っ ている。メンツを重んじ,交際に長けている。熱しやすく冷めやすい性格。 銭琴仙の弟,銭裕は好奇心旺盛で無邪気。思ったことをそのまま口にして しまうが,時に鋭いことを言う。音楽が好きで彼の演奏を聴いた人は皆,彼 のことを天才だという。姉に反抗することができず,姉の前では小さくなっ てしまう。変わり者の実夫のことを尊敬していて,親密に様々な話をする仲 である。

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銭裕の恋人,珍 は,自由奔放な女性である。厚化粧をして派手に着飾っ ている。琴仙はそんな弟の恋人珍 のことを気に入らない。 主人公の実夫と友人の安濤の二人は会えばいつも言い争いをしていて,安 濤は実夫を世間知らずの学者,実夫は安濤を政治狂いなどと呼ぶこともある。 だが二人は互いのことを思いやっている。実夫が大家に家賃の催促をされて いるのを知った時は,正誼からお金を借りてまで「何か困ったことがあった 時は,言ってくれ。君のように学問に励んでいる人に,こんな小さなことに 気をもんでほしくない」39)と言って,安濤は実夫にお金を渡している。実夫 の方も,貧しい一留学生である安濤と軍閥の娘である銭琴仙との交際を彼女 の父親に反対されている,と知った時は,言うべきことではないかもしれな いが,と前置きしたうえで「他の人が君の人柄や君と銭琴仙との結婚,恋愛 の動機に疑いを抱くことがないようにして欲しい」40)と安濤に忠告をしてい る。さらに実夫が上海自然科学研究所で働くことになった時は,「日本人が 研究所を運営する目的は純粋な科学のためとは限らないから気を付けた方が いい。(中略)現在の状況下で日本人が運営している研究所で働くのは,中 国人の目から見ると,あまり適切ではないと言わざるを得ない」41)と安濤は 実夫に言っている。このように実夫と安濤の2 人は,言いにくいことも率直 に互いに言うことのできる間柄である。 また,趙安濤は実夫に「もう一度言う,これは顕微鏡のせいだ。目を顕微 鏡の中にばかり向けないで,菌や虫なんか以外にも,顕微鏡の外には,更に 広い世界があり,国家があり,民族がいるんだ・・・・・・」42)と言い,研 究一辺倒になりがちな実夫の軌道を修正しようとしている。しかしその後, 安濤は「世界情勢を簡単に考えすぎる上に,我が強すぎて誰に対しても譲歩 しなかった」43)ため政治の世界では上手くいかず,妻のコネで商売を始める ようになると,「政治から商売に方法が変わっただけで,国家のためという 目的は変わっていない。お金はすべての力の源であり,お金がなかったらど んな理想を抱いても,大きな計画を立てても,誰も相手にしてくれない。汚 い話をするけど,今の目的はお金を稼ぐことで,お金があれば,自分で理想

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を叶えられる」44)と言い,政治ではなく商売を始めたことを正当化しようと し,金銭至上主義となってしまった。 正誼は,夏衍によれば,安濤よりも劣った役柄として設定されていると される人物である。正誼は使用人から,もし日本兵に日本語で話したら助 かるかもしれない,と聞くと,実夫に「もし日本兵が来たら,奥さんに日 本語で話してもらうように言ってもらえないだろうか。・・・もしかした ら・・・」45)と頼んで断られている。次に安濤に日本語で話すように提案し, それも妻の琴仙に反対された挙句,自分だって日本語が話せるんじゃないの かと聞かれ,狼狽しながらもう日本語は忘れてしまった,一言も話せないと 答えている。そしてもし話せたとしても日本兵に捕まえられて通訳にされて しまったらたまらない,と独り言のように呟き,銭裕の恋人の珍 に笑われ ている。 また,銭裕を亡くして皆が元気をなくしている時,秦正誼に落ち込んでい る様子はなくかえって活発になり,度々街へ出かけ,安濤夫婦の運転手だっ た阿発が商売で成功していることを知ると,阿発と一緒に商売をやることに する。 実夫の妻,静子と安濤の妻,琴仙は劇中で対照的に描かれている。静子は 夫が帰ってくると,夫の代わりにタオルを絞り,外套を脱がせる。そしてス リッパを出し,夫が革靴を脱ぐと,靴を片付けるなど献身的に夫の世話を焼 くが,琴仙の場合は,夫の世話を焼くのではなく,琴仙がタバコを吸うとき には何も言わなくても夫が火をつけてくれる。静子はいつも簡素な服を着て ほとんど外出もせず,日本人だと知られないようにするためか,あまり家族 以外の人と交際をしていない。琴仙は服装や化粧に気を使い,自身も商売を しているためよく外出もするし交友関係も広い。 珍 は香港が陥落して日本兵が街に出没するようになり,いつも着飾って いた琴仙さえも使用人が着る旧式のぼろぼろの服に身をまとっている時に も,綺麗なチャイナドレスを着て,髪を三つ編みにしている。おしゃれをし ていることを銭裕にとがめられると「どうしてダメなの?死ぬにしても少し

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でもきれいに死にたいの」46)と答えている。琴仙に注意されても着替えず, チャイナドレスのまま実夫の家を出ていこうとする。どんなに危険が迫って いる状況であってもおしゃれをしたいという彼女の奔放さがこの行動に表れ ている。 琴仙の弟,銭裕はこの劇の中で大きな役割を担っている。『ファッショ細菌』 の題名と直接関連のある重要な場面は,銭裕によって語られる。   この細菌は最近発見された世界でもっとも恐ろしい細菌で(中略)今 年の6 月から今までに東ヨーロッパの独ソ戦線で一千万人も死んでいる のです。この病気はすでに全世界に広がって長い時間が経っています。 (中略)細菌を広めるのはネズミでもシラミでもノミでもなく,私たち 自身――人類で,細菌が寄生するのは人の脳膜の表面であり,チフス菌 よりずっと小さく,600 倍の顕微鏡でも見ることができません。培養す る方法もなく,これは・・・抽象的な細菌です。(中略)この細菌の名 前は法西茲姆,翻訳するとファシズムと言います。この細菌によって感 染する病気がファシズム侵略戦争なのです・・・・・・47) 主人公以外の登場人物は,単なる引き立て役以上の役割を担い,生き生き と描かれている。彼らのうち一人でも欠けると『ファッショ細菌』は違った 作品になってしまっていたかもしれない。 2 − 2.『ファッショ細菌』の主人公のモデルについて 日本に滞在経験があり日本人の妻を持ち,上海自然科学研究所で働いてい る主人公の経歴から,陶晶孫(1897-1952)を思い浮かべる人は少なくない だろう。主人公の年齢も1931 年時点で 33 歳という設定は,陶晶孫の当時の 年齢34 歳とほぼ変わらない。さねとうけいしゅうの「夏衍の戯曲『ファッショ 細菌』について―中国新劇の った道―」や武継平の「戯曲『ファッショ細 菌』の成立について:原作主人公のモデルに関する考察を中心に」などでも

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主人公の兪実夫と陶晶孫を重ねて論じている。中村みどりの「『対支文化事業』 と陶晶孫―特選学生としての軌跡」を読むと,九州帝大卒業後,東北大学に 進んだ陶晶孫が特選留学生に選ばれており,特選留学生制度は上海自然科学 研究所と同じように,義和団事件賠償金の一部を財源とし,「対支文化事業」 の一環として1924 年に新設された制度であるということがわかる。特選留 学生制度は「1931 年に開設する上海自然科学研究所の中国人研究員の養成 の役割を兼ね」「所属機関の長が推薦する,成績優秀かつ政治には関与しな い温厚な人物が選ばれ,厚遇が与えられていた」48)そうである。そんな特選 留学生に選ばれていた陶晶孫は,実夫と同じように「政治には関与しない温 厚な人物」とみなされていたことになる。実際の晶孫に対して妻のみさをが 抱いた印象も,「優しくて親切な『いい人』であった。この印象を死ぬまで 裏切らなかった」49)というものであった。 だが,陶晶孫と主人公の兪実夫は異なる点も少なくない。 陶晶孫の日本滞在期間は,1906 年に 9 歳で日本に留学してから,1929 年 に32 歳で帰国するまで二十三年にも及ぶ。晶孫は九州帝国大学医学部を卒 業したが,実夫は,「日本の文部省が日本の医科大学の学部生を卒業してい ない学生に医学博士を授与したのは初めて」50)と書かれていることから,日 本の医科大学を出ていないようである。晶孫は妻の佐藤みさをと九州帝国大 学在学中に彼女の姉を通して知り合った。彼女の姉は郭沫若の二番目の妻, 佐藤をとみである。主人公夫婦の間にいる子どもは娘の寿美子だけだが,晶 孫には棣土,坊資,易王という三人の息子がいた。晶孫が中国に戻った時, すでに二人の子どもは生まれていて,妻のお腹に三番目の子どもがいた。 『ファッショ細菌』の中では主人公の妻が音楽の勉強をしているが,晶孫の 妻のみさをは女子英学塾(現津田塾大学)で英語の勉強をし,その後母校で ある尚絅女学校で英語の教師をしていた。主人公は音楽を聴くのは好きだが 自分で演奏をすることはない。だが晶孫はピアノやチェロの名手であり音楽 に精通していた。 夏衍は晶孫と会った当時について次のように書いている。

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  私が晶孫と知り合ったのは1929 年である。彼は初期創造社のメンバー であり,積極的に創造社の文学活動に参加した。上海芸術劇社の創作に 身を投じ,演出と音響などを担当していた。51) 上海芸術劇社は1929 年に鄭伯奇52)(1895-1979)を社長として設立された 左翼劇団である。1930 年 1 月に行われた芸術劇社第一回座談会に演出部の 夏衍と音楽部の陶晶孫も参加している。晶孫は第一回公演でロマン・ロラン の『愛と死の戯れ』が演じられた際,劇中歌『自由の花』をピアノ演奏した。 その時のことを座談会の中で「オリジナルの楽譜が見つからなかったから, 適当に弾いてみたけど,まあまあよかったと思う」53)と語っている。晶孫が 文学だけでなく,音楽に造詣が深いこともよく知られていたため,劇の音響 やピアノの演奏なども担当していたのだと思われる。 また,実夫は第二次上海事変が始まると上海自然科学研究所を辞め上海を 離れたが,晶孫は上海に残り研究所で研究を続けた。晶孫は第二次上海事変 後,上海自然科学研究所に籠城することになり,しばらく留守にしていた自 宅を見に行こうとした時,「虹口に住居するには許可が必要で,許可証をも らうためには日本人の女房の雇い人にならなければならない」54)といわれる など,嫌な思いをしているが,上海を離れなかった。夏衍は,晶孫が上海を 離れなかった理由を後に潘漢年から「陶晶孫を残すのは,彼が長期間日本に 留学し,日本の文壇にも幅広い交友があることから,陶を潜伏させ我々のた めに仕事をさせるためだった」55)と聞いた。そして,「これは党の秘密であり, 外部の人は誰も知らない。彼を『漢奸』という人もいて,無実の罪を着せら れている。(中略)彼の行動は潘漢年の命を受けたものである」56)と書いて いる。 次に,夏衍が『ファッショ細菌』を書く際に影響を与えたと思われる丁瓚 と呉在東の経歴を見てみよう。 丁瓚(1910-1968)は,心理学者である。アメリカの支援で建てられた北 平の協和病院で働いていたが,日中戦争が始まると長沙に向かい,傷病員を

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救護するために赤十字会の救護総隊に身を投じた。1942 年には重慶の中央 衛生実験院で心理衛生室主任を務めた。57) 呉在東(1905-1983)は,病理学者である。中学卒業後,協和病院や聖ヨ ハネ病院予科で学んだ。上海医学院を卒業後,そのまま学校に残り病理学科 の助教授になった。第一次上海事変が勃発すると抗日戦地で手術部隊に参加 した。日中戦争が始まると留学先のドイツから帰国し,広州孫逸仙医学院病 理学科の教授となり,1941 年には学生たちを連れて重慶に向かい,重慶で 上海医学院病理科の主任となった。58) 第五幕で言及される実夫の友人,鄧医師は,専門が戦時精神病学で「北平 から逃れてきて,この度赤十字病院の招聘を受けて貴陽へ行った」59)という 経歴から,丁瓚がモデルであると考えられる。 主人公の兪実夫が上海自然科学研究所で研究を行う中国人研究員であり, 日本人の妻がいること,さらに『ファッショ細菌』を書くきっかけになった 『ネズミ・シラミ・文明』の著者,ハンス・ジンザーが医学博士であり文学 博士でもあることから,医学にも文学にも造詣が深い陶晶孫が実夫のモデル に最も近い人物だと考えられる。しかし,モデルと考えられるのは陶晶孫だ けではない。丁瓚と呉在東の二人も脚本の完成に協力していることと,この 二人の戦時中の経歴――日中戦争が始まると丁瓚は日本占領下の北平から逃 れ,呉在東は留学先のドイツから帰国して,戦地で活動するといった経歴を 考えれば,この二人もモデルに近いと言える。夏衍も「彼らがいなければこ の戯曲を書くことが出来なかった」と言っている。陶のほかにこの二人も重 なり合って実夫像が形作られたのは間違いないであろう。 2 − 3.上海自然科学研究所について 『ファッショ細菌』に登場する上海科学研究所が正式に開所したのは1931 年4 月 1 日で,陶晶孫は同年 11 月に専任研究員として赴任し,病理学科(の ち衛生学科)の研究員となった。研究所が開所した1931 年は満州事変が起 こった年であり,『ファッショ細菌』の第一幕の舞台と同じ年である。

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創立後まもなく満州事変が起こり,第一次上海事変(1932 年),第二次上 海事変(1937 年)と続いた。1931 年の 5 月から終戦まで十五年間研究所に 勤め,陶晶孫と一緒に衛生学科で研究に従事していた小宮義孝は,「思えば 上海自然科学研究所は,その創設から終戦にいたるその終焉まで,平和時代 は初めの一年と,中間の昭和9 年から 11 年にいたる足かけ三年をのぞいて, その全十五年の歴史の大半は,戦争また戦争の連続のさなかに始終したわけ である」60)と書いている。さらに,「いたるところで,当時の排日風潮の使 嗾者たる旧蒋政権の官吏達の干渉に遭遇し,之に躍らせられた民衆の妨害に 突き当たった。或る研究員が目的を達せずして体よく護送され,或る研究員 はついにスパイの嫌疑を以て投獄されるに至った。その間行方不明となった 中国側研究者もあった」61)という。 この研究所の研究方針も「創設の当初は,純アカデミックに,という方針 であった。それが戦争,とりわけ戦場に近い研究所だけに,うるさい小じゅ うとがふえた。まず本来のスポンサーだった外務省,それに陸軍の現地軍, 海軍のそれ,当時新しく設立された大東亜省,それらが勝手にいろいろな注 文をつけてきた」62)というように,外部から影響を受けるようになり,上海 科学研究所はさまざまな困難にさらされた。 もともと上海科学研究所は,義和団事件の賠償金を各国ともに,「対支文 化事業」に投じることになったことがきっかけで作られた。上海のフランス 租界のはずれに「約2 万坪の土地を日本政府が買収し,ここにネオ・ゴチッ ク鉄筋コンクリート3 階建,室数 170 余の本館」63)が建築された。研究所は, 大きく理学部と医学部とにわかれ,理学部は物理,化学,地質,生物の4 科 に,医学部には病理,細菌,漢薬,それに新しく衛生を加えて同じく4 つの 科にわかれていた。小宮は晶孫について次のように書いている。   衛生学科には,筆者(小宮)と陶,楊の三研究員が居って主として大 陸における衛生学寄生虫病学の研究に従事している。陶氏は同時に社会 衛生,公共衛生的方面に研鑽深く,将来新支那における衛生建設になく

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てはならない人であろう。64) 上海自然科学研究所彙報には陶晶孫の本名,陶熾の名で「蠅ニヨル寄生虫 卵伝播ニ就テ」65)や小宮義孝,川名浩,陶熾の連名で「上海地方日華人間ニ 於ケル腸内寄生蠕虫蔓延状態ニ就テ」66)などの研究が発表されている。 先に述べた,小宮が研究所の平和時代と称した昭和9 年(1934 年)から 11 年(1936 年)は,初代所長横手千代之助から第二代所長(署理)新城新 蔵(就任は1935 年 2 月 26 日)に移行した時期である。新城は研究所倶楽部 の機関紙『自然』の創刊を実現し,晶孫も文章を寄せている。 二代目所長の新城博士は,第二次上海事変の際,戦火がフランス租界にあ る研究所にも及び,一時閉鎖か籠城かの岐路に立った時,「『假令身に若干の 危険が及ぶとも,研究の事は瞬時もゆるがせにすべからず』となし,所員を 激励し,断固籠城を遂行し,この科学の殿堂とその研究事業とを挺身守備し 得た」67)というように,どんな環境下にあっても研究を続けていくことをモッ トーとしていたことがうかがえる。晶孫も『自然』に掲載された文章の中で 「新城所長が遺訓『大砲の弾が飛んできても泰然として勉強しなければなら ぬ』と云うのを思い出す」68)と書いている。危険が近くまで迫ってはいたが, フランス租界にあったこの研究所には,「戦争の末期には,上海にも空襲が あって,この研究所の附近にも爆弾も落ちたこともあった。が,郊内〔ママ〕 には一つも落ちなかった」69)。上海自然科学研究所は,終戦後の1945 年 9 月, 中国側に接収され,十五年の歴史を閉じた。 3.作品について 3 − 1.作品に対する評価 演出について 1953 年に人民出版社が夏衍劇作選集を作る際,夏衍は多くの友人からこ の劇を選んだ方が良いと言われ,悩みつつも「この劇の『演出』は――演出 だけが――観衆の受けが良く,上演回数も多いから」70)という理由で選集に 入れることに同意した。夏衍は自分の作品を自虐的に語ったり,必要以上に

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謙遜したりする傾向があるので,文字通りに受け取るわけにはいかないが, まずその演出についてみてみることにする。 夏衍に脚本の執筆を頼んだ応雲衛71)(1904-1967)は,「中華戯劇社にはた くさん俳優がいるし,最近また香港から帰ってきた俳優もいるから,好きな ように書いてください。配役が多くても,衣装や背景が多くなっても気にし ないでください。私が責任を取りますから」72)と伝え,夏衍が脚本を書き終 えると,応雲衛は約束を守り「最高の俳優と舞台関係者を選りすぐった」73) そうである。 実際に1942 年当時,重慶で『ファッショ細菌』を観劇した演劇評論家の 劉念渠74)は,次のように語っている。   演技はかなり熟達しており,効果や配置もきちんとしていて,一般的 な観客を満足させることができるだろう。   第一幕の舞台は日本らしさがとてもよく表現されている。第三幕第二 場は簡単すぎ,病院勤務を辞めて長年家で研究していた場所をあまり表 現できていない。75) さらに改善する余地はあるものの,当時の俳優陣の演技や効果,舞台装置 などが評価されていたこと,とりわけ日本を舞台とする第一幕が高く評価さ れていることがここからわかる。 また,『ファッショ細菌』には,音楽や服装に関連する描写が頻繁に登場 する。日本では戦時中に音楽を演奏したり,おしゃれを楽しんだりすること は良しとされなかったが,この劇中では音楽やファッションが効果的に使わ れている。 香港で日本軍の空襲が始まり,実夫の家に第四幕の第一場では,銭裕は小 さく口笛でAuld Lang syne76)を吹き,寿珍はそれに合わせてハーモニカを吹

き始める。また,銭裕が亡くなり,香港から桂林へ逃れた第五幕では,寿珍 が小さな竹の椅子に座って日向ぼっこをしながら遠くの山を眺めている。銭

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裕を思い出したかのようにポケットからハーモニカを取り出して吹き始め る。安濤に話しかけられても返事をせずに,吹き続けている。劇中で音楽を 演奏することで沈黙を埋め,登場人物の感情をより効果的に観客に伝える効 果があったと考えられる。 次に劇中の登場人物の服装についても注目すべき点が多々ある。たとえば, 実夫の親友安濤の妻,銭琴仙の服装は,第二幕の上海のシーンでは,襟飾り から,チャイナドレス,手袋,ハンドバック,ストッキング,革靴まで,す べてがコーディネートされている。そして第三幕の香港のシーンでは,琴仙 の服装と化粧は第二幕の時よりも豪華で派手になっている。豊富なアクセサ リー(イアリング,胸のボタン,ダイアモンドの指輪,金のブレスレット, 腕時計)を身に着けている。銭裕の恋人,珍 のきれいなチャイナドレスな ども大後方,重慶にいる観客の目を楽しませただろう。 夏衍は『ファッショ細菌』はまだ作品になる前の練習文であり,絵に譬え ればスケッチの段階だとしている。そしてスケッチには,「時間によって簡 単に薄れていってしまう姿を保存する」77)役割もあると書いている。 『ファッショ細菌』には,夏衍自身が体験した日本軍占領下の生活状況も リアルに描かれている。『ファッショ細菌』の登場人物に日本語のできる人 物が多いのにもかかわらず,劇中で彼らが日本兵と日本語で話す場面はない。 夏衍も,日本占領下で日本兵の前で日本語を話すことはなかった(彼が日本 兵に日本語で話しかけたのは,香港脱出の際に,同行者を助けたときだけで あった)。彼は,その理由を以下のように書いている。   香港陥落後,蔡という台湾人がこっそりと忠告してくれました。日本 語が話せることを絶対に日本の兵隊に知らせてはいけない,さもないと 逮捕連行されて通訳にされるに決まっている,と。ですから日本の兵隊 がいく度か家さがしに来ましたし,時計,万年筆,それに身に着けてい るスーツの上着まで強奪されても,ひと言も口にしませんでした。78)

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このように夏衍自身の緊迫した体験が作品に反映されているのである。当 時の劇評では日本を舞台とした箇所ばかりが評価されているが,総じていえ ば,夏衍がこの劇の舞台である日本,上海,香港,桂林で生活したことがあ り,それぞれの土地の状況を身をもって知っているからこそ,作品にこうし たリアリティをもたらしているのではないだろうか。また,劇評ではとくに 具体的に触れられていないが,音楽などの効果や服装その他の小道具も観客 を楽しませたことであろう。 3 − 2.作品に対する評価 「淡々とした風格」について 『ファッショ細菌』を見た周恩来は,夏衍に「延安で『上海の屋根の下』 を見て,ここ重慶で『一年間』も見ましたが,私はやはり今度の劇が好きで すね。淡々としているというのは一つの風格だとは思いますが,あなたの戯 曲は少し冷静すぎるような気がしますね」79)と伝えている。夏衍はその後に 書いた「紅色・油絵・習作―『ファッショ細菌』あとがきに代えて二」の中 で,自分の力量不足を認識し,スケッチの段階を早く卒業する必要を痛感し ている。そして「人物が突出していない,性格の書き分けがはっきりしてい ない,構成が固まっていない,表現に強さが足りない。これらすべてを風格 などという美名で弁解することもできない」80)と書いている。 少し冷静すぎる,と周恩来が言う原因には,夏衍が書いているように力量 の問題もあるかもしれないが,日本人である静子の存在が原因の一つになっ ているのではないだろうか。確かに,劇中で安濤たちは日本人である静子に 気を使い,戦争に関する話題をできるだけ避け話題を変えるようにしている。     静子  (心配そうに)今回は本当に戦争が始まってしまいました。 趙さんのお考えは・・・。   趙安濤 (よく考えないで)当然,今回は絶対に戦わなくちゃいけま せん。戦わなければ大変なことになる!(ふと話をしている 相手に気づいて,急いで口調を変え)でも,ここは租界だか

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ら大丈夫ですよ。81) このように,日本人を前にしてなかなか本音を言うことができない場面と なっている。また,別のシーンでも話題が変えられている。   静子  (話を遮って)もしかしたら私の考えすぎかもしれませんが, どうしてかわからないけれど,誰かが中国と日本の話を始め て,日本人の凶暴さに話が及ぶと私はとてもつらいのです。 (中略)   秦正誼  (この問題の話を打ち切ることを決め)こんな問題を考える のはやめましょう。私たちだけで解決できる問題ではありま せんから。そうでしょう?(タバコを吸う)あ,忘れていま した。兪さんの研究に何か進展はありましたか?82) この場面では,静子と日本軍の話をすることから生ずる不穏な空気を打ち 消すために話題を変えている。友人たちだけではなく実夫も静子の前で日本 人を悪く言うのは避けている。   静子   上海から香港にきたとき,みんな香港で戦争は起こらないっ て言っていたのに・・・   兪実夫  (不注意で)日本人は本当に狂っている・・・(中断する)       (静子はうなだれる。)   兪実夫  (言葉を発せず,静子の肩をそっとたたいて,少しの沈黙の後) お前・・・・・・83) 安濤と正誼は友人の妻である静子を傷つけることになる話題を避けようと するため,静子の前では日本や日本兵をあまり悪く言うことはなく,夫も妻 に対して日本や日本兵に関する話題を避けようとしている。

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また実夫,安濤,正誼の三人は日本に留学をしていたため,正誼が「私た ちが日本にいた時,日本兵はとても堂々としていて,黄色の軍服にオーバー を着ていた。でも今は,ぼろぼろで中国兵と変わらない」84)と言っている ように,日本人や日本兵に対して単純に憎むだけではない特別な感情があっ たのではないだろうか。また銭裕は静子に対し次のように言っている。   銭裕   僕は日本人を悪く言ったことはないよ。僕が悪口を言ってい るのは日本軍閥や帝国主義だから。85) 夏衍は,東京にいた時は差別を受けていたけれど,北九州の明治専門学校 で過ごした五年間は,「校長や教授から学生に至るまで,中国人留学生に対 して平等に接してくれ,差別されることなかった。中には私たちの面倒をよ く見てくれて,祝日に家に招待してくれる教授もいた」86)そうである。「明専」 卒業後,九州帝国大学に入学して数か月がたった時,夏衍は病気をしたが,「家 主の奥さんがとても親切にしてくれた」87)と書いているように,日本人に対 して良い印象も持っていて,日本人の友人もいる夏衍も銭裕と同じような考 え方を持っていたのだろう。夏衍には,「日本人民と日本軍国主義の区別が 非常に明らかである。何もかも一緒くたにして,かっとなりすべてを抹殺す る」88)というようなところはなく,その点で『ファッショ細菌』も同様である。 銭裕が日本兵に殺された時も,登場人物たちはそれぞれに想いを抱えては いるが,それを前面に出すことはない。人の死を前にして悲しみの感情をあ らわにしないのは決して冷淡さを表わすものではない。逆に,本作品は,銭 裕の死が冷静に語られていることで,よけいに日本兵の残虐さが際立ち,銭 裕がいなくなってしまった悲しさを強く感じさせる。 観客から見て登場人物たちが冷静に見えるのには,それだけの理由がある。 それに関連したことを夏衍は以下のように書いている。   私はずっと,死んだ人や人の血を見るのが怖かった。でも今は死体置

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き場をゆっくりと歩けるし,血まみれの街道「血の道」も歩いたことが ある。同胞の血を踏まなければ,罹災区域を通り抜けることはできない。 残酷だろうか。いや,これは感覚が麻痺してしまったのだ。これは恐怖 の感情に対する疲れと慣れなのだ!89) 登場人物たちも長い戦争の中で,死ということに対して疲れ,慣れてし まっているのである。安濤は銭裕のことを考えている寿珍に「もう考えるな, あいつはもう死んでしまったんだから,考えたってしょうがない(自身も感 傷的になるのを禁じ得ず,タバコを吸い,ため息をつく)」90)と声をかける。 作中の登場人物たちは,戦時下で人が死んでしまうことに悲しみとあきらめ に似た感情を抱えながら,目の前にある困難な日々を過ごすのに精一杯なの である。 3 − 3.科学と政治について 趙安濤が兪実夫に対し「自然科学,特に科学の一部門である微生物学は専 門知識だが,政治経済は普遍的で,すべての人が知らなければならない近代 人の常識である」91)と言い,「国がしっかりしていなければ,科学は単独で 存在も発展も繁栄もすることが出来ない」92)と言っている。このように『ファ シズム細菌』では,科学と政治は無関係ではいられず,科学者も社会的問題 に関心を持たないわけにはいかないという認識が示されている。1954 年に 夏衍が「原子科学家の研究成果は大量殺人に利用され,細菌研究者の研究成 果は細菌爆弾制作に利用される。これらの『善良な』科学者は人類の罪人に なってしまう」93)と書いているように,夏衍は科学者の社会的責任を重視す る立場を明らかにしている。こうした考えは第二次世界大戦後に始まったの ではなく,19 歳の時にクロポトキンの『青年に訴う』を読んで影響を受け たことに始まると考えられる。夏衍は晩年,「この本は私の思想に大きな衝 撃を与え(中略)この冊子は私に問題の核心は社会改造にあることを気づか せた」94)と回想している。以下に『青年に訴う』の一部を抜粋する。

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  貧窮と無知との中にうごめいている人達に対して病気を治すばかりで は役に立たない。病気の予防をするのが肝心だ。生活状態が少し向上し て,人類の知識が少し発達すれば,病人の数の半分は容易に統計表の中 から取り除かるべきものである。薬などはどうでもいい。新しい空気を 吸い,いい食い物を食い,そしてもっと静かな労働をするのが一番の必 要だ。これができなければ医者という職業は詐偽である。瞞着である。   もし人間が今日の生活状態の下に続いていくなら,人間は衰滅にむ かって急いでゆくのだということ,(中略)そして,まず根こそぎにし なければならぬのはこの病気の原因であること。   青年技術者諸君。諸君は科学の発明を工学に適用して,そして労働者 の地位を改善しようと夢見るだろう。けれども,ああ,かくして諸君が 得るところのものは,ただ悲しい絶望と失敗とがあるのみだ。諸君は 青年の活気と活力とを以て(中略)鉄道の設計に熱中して,自然が離し た二つの国を結びつけることもあるだろう。しかしその工事を始めるや いなや,諸君はただちに,(中略)激しい労働と苦しみと病とのために, ほとんど死にたえてゆく労働者を見るだろう。(中略)この鉄道ができ あがった時に,それが侵略者の大砲を運搬する道になるのを見るだろ う。95) 夏衍は,六人兄弟の末っ子で,三歳で父親を亡くし,小学校卒業後は学業 を中断して徒弟奉公に出るなど,裕福ではない家庭で育ったため,この本を 読んで社会改造の重要性に気づき始めたのであろう。 しかし甲種工業学校在学中は,工業による救国,科学による救国という考 えを彼は強く抱いていた。典型的な「実業救国主義者」の校長から,「学生 は学業に専念するべきであり,政治に口出しをしてはならない」96)と常に言 われ,夏衍が学校の推薦により日本留学に行けることになった時も,校長に 「よく勉強して,二度と学業に関係ないことをしてはいけないよ」97)と言わ れたという。

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夏衍が社会改造に重きを置くようになり,工業による救国を目指すことを 脱却したのは,明治専門学校留学中の1923 年の夏休みに,朝鮮を経由して 東北,華北へ旅行をした時だった。夏衍は朝鮮と東北の状況を見て,心が押 しつぶされるようだった。夏衍は日本の制服を着ていたため,釜山やソウル で無言の敵意を向けられ,奉天の駅では,満鉄の鉄道警護隊員が中国人苦力 に向けた凶暴な怒鳴り声を聞き,北京では売り物であることの印である枯草 の茎を挿した子供や女性が売られている惨状を見た。その後,夏衍の心は平 穏ではいられなくなった。 旅行を終え,故郷の杭州に戻ると,甲種工業学校の校長に挨拶に行った。 旅行で感じたことを校長に伝えたが,やはり校長は「実業による救国」を強 調するばかりであった。それに対して夏衍は心の中で「現在の中国の状況で, 無駄な勉強をして,卒業証書をもらい,学歴を手にすることで,本当に国が 救えるのだろうか」98)と考えるようになった。そして日本留学を終えるころ には「『工業による救国』という考え方も消滅していた」99)という。 クロポトキンの『青年に訴う』を見てみると,科学や医学を学ぶことも大 切だが,政治的状況に無関心でいると,得られるものは悲しい絶望や失敗の みとなるという箇所が,『ファッショ細菌』の実夫の状況と類似している。 夏衍は,「私は自分の出した,ファシストと科学が両立することができない という結論を信じている。私のこの拙劣な練習文が人類の幸福を目的とし ている医学の学徒たちの人生の中で参考になることを望んでいる」100)と書い ている。かつて夏衍が『青年に訴う』を読んで大きな衝撃を受けたように, 『ファッショ細菌』が科学や医学を学ぶ学生たちの思想形成に資することを 願っていたのかもしれない。 おわりに 本論文では,『ファッショ細菌』に関する三つの「あとがきに代えて」と 「『ファッショ細菌』に関して」という文章を通して『ファッショ細菌』に考 察を加えた。

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まず黄蕪菌が,兪実夫が次々と戦争による不幸に見舞われるストーリーに 必然性がないという批判をしている点について。劇中で実夫が移動している コースと夏衍が移動したコースがほぼ一致していることから,実夫が不幸に 見舞われるストーリーにはそれなりの必然性があることを明らかにした。 次に,『ファッショ細菌』の登場人物たちについてとりあげ,主人公だけ でなく登場人物は皆それぞれに特徴があり,この作品を豊かにしていること を示した。それぞれの登場人物は,科学者である実夫にない様々な特徴をそ なえ,作品世界を充実させている。また,主人公兪実夫のモデルとされる陶 晶孫や作品にも出てくる上海自然科学研究所に関する資料を通して,陶晶孫 ら上海の研究所に勤務する科学者たちと彼らを取り巻く社会状況が本作品に 比較的忠実に再現されていることを明らかにすることができた。 最後に作品の演出と「淡々とした風格」,この作品のテーマである「科学 と政治」について考察した。劇の演出については,上演当時の劇評で,俳優 陣の演技,効果,舞台装置が評価され,とくに日本を舞台とした場面が高く 評価されているが,それだけでなく本作品の全編にわたり音楽やファッショ ン,その他の小道具が効果的に用いられていることを指摘した。「淡々とし た風格」,すなわち劇中の登場人物が激昂せず「冷静である」ことについては, 日本人妻の存在と,夏衍が日本の人民と軍国主義を分けて考えていること, そして夏衍が戦争で傷つき亡くなった人をたくさん見てきたことが理由とし て考えられることを述べた。「科学と政治」では,クロポトキンの『青年に 訴う』を取り上げ,『ファッショ細菌』との関連を指摘し,夏衍の思想から「実 業による救国」という考え方が消滅していく過程を示した。 今回は夏衍が『ファッショ細菌』について書いた文章からこの作品を検討 したが,今後は,『ファッショ細菌』と同時期に書かれた『上海の屋根の下』,『一 年間』,『心のまもり』などの作品と『ファッショ細菌』との共通点や相違点 を考察し,また,日中戦争中に書かれた他の作家の作品との比較も行ってい きたい。

参照

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