• 検索結果がありません。

[巻頭論考]近世奄美船の砂糖樽交易と漂着: 沖縄地域学リポジトリ

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "[巻頭論考]近世奄美船の砂糖樽交易と漂着: 沖縄地域学リポジトリ"

Copied!
39
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

Title

[巻頭論考]近世奄美船の砂糖樽交易と漂着

Author(s)

弓削, 政巳

Citation

琉球王国評定所文書, 10: 6-43

Issue Date

1994-03-18

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/19443

Rights

浦添市立図書館

(2)

」 ー /¥

巻頭論考

近世

奄美

船の砂

糖樽交易

漂着

弓削 政

はじめに これまで奄美史は、薩摩藩による黒糖の生産と流通の収奪、薩摩支配のために奄美、琉球関係が断絶させられたと いう理解が強かった 。 一 方、琉球史においても、グスクや辞令書研究、出稼ぎ、糸満漁民等若干の古代、近代史研究 を除けば、奄美史との関係が希薄であった 。 し か し 、 ﹁ 琉球館文書 ﹂ など沖縄側の史料や近年の ﹁ 琉球資料 ﹂ ﹁ 評定 所文書 ﹂ 刊行で近世奄美の多様な問題が提起され、それは奄美史の理解とともに 、 琉球史の構成要素としても検討を 要する問題である。 近世期の具体的事象として、 ( 1 ) 政治的には、明 ・ 清との関係で奄美が薩摩支配であることを隠蔽する薩摩藩と 琉球 王 府、また、冊封使渡来時に貢物を奄美が届ける制度、朝鮮や中国の漂着船や人員を琉球へ送り届ける規定 。 ( 2 ) 員 租 ・ 専売 制度の面では屋久 島の平木 や奄美の黒砂糖上納の税制で、それらの島への米の支給に、琉球の国頭 米が 一 部割り 当 てられ、琉球内部の搬送などで琉球農民の負担が生じたこと 。 ( 3 ) 琉球の清国に対する交易や藩 ・ 幕府等への芭蕉布は、原料供給地の 一 つとして奄美の糸芭蕉があった。その糸は、民間交易と共に薩摩藩の利潤のた め琉球 王 府に送られたこと 。 ( 4 ) 琉球 ・ 奄美の飢僅時、双方から拝借米を求めたが 、 奄美から多かった 。 (5 ) 刑罰

(3)

で琉球罪人の流刑地や逃亡先としての奄美 。

(

6

)

民衆レベルで、ウコンなど藩や王府の財政に影響した奄美の密貿 易、幕末 、薩 摩藩の公的密貿易構想の 地としての奄 美 、 ( 7 ) いわゆる民衆レベルでの交易や人的交流、治療、漂流 -漂 着 や 人 買 い 。

(

8

)

奄美から藩や琉球在番への情報伝達手段とし て、しばしば琉球の船と人を利用したことなど ① があげられる 。 これらの内容や位置づけについてはこれからの課題である 。 したがって、ここではその 一 つである奄美から琉球へ の漂着 ・ 漂流や交易事 例 の 中 で 、 奄美砂糖生産での砂糖樽材料、材木 に視点をあててみたい 。 従来、奄美砂糖生産に ついては、農民と藩の収奪体制という側面の検討が主であった 。 ここで、搬送用の樽や材木の検討が奄美史内部理解 にとっても新たな像を提示し得るし、琉球へ漂流 ・ 漂着する奄美の船 や 交易の背景の 一 部を理解することができると 考えるからである。 そ の た め に 、 主に琉球 側の史料から奄 美船の漂着事 例を提 示 したうえで、奄 美内部の砂糖樽交易の背景 を明らかに ② したい 。

八世紀後

半漂着史料

にみる砂糖樽資材や材木交易

考 近世期、奄美から琉球への漂着 ・ 漂流や交易記載 はしばしば見 受けら れるが、その原因についてはあまり記載され 舌A E間 て い な い 。 その中で 喜 界 ・ 大島聞の砂糖車材料の車木 や搬送用の樽材料の交易、沖永良部 島 や 与論 と琉球国頭聞の木 頭 材交易の事例がわか っ ている 。 巻 ( 1 ) ま ず 、 ﹃ 歴代宝案 ﹄ 第 二 集巻五 一 (台湾大学本)の乾隆三十三年( 一 七六八)六月十七日 ﹁ 杏文 ﹂ に は 、 ﹁ 難 七

(4)

ー 、 ( 波 ) 夷順流配水梢佐喜口等共十五人。倶係琉球園大番島人。駕海船 一 隻 。 子乾隆 三 十 三 年 二 月初 二 日 。 在大島装載火柴 。 往 麻 姑 山 筈 費 。 ﹂ と あ る 。 すなわち、琉球国 ﹁ 大番島人 ﹂ の順流や配下の水梢佐喜波等共に十五人が、 一 七六八年 月 二 日 、 大 島 で ﹁ 火 柴 ( 薪 ) ﹂ を 載 せ 宮古島 へ商売にいったとある 。 この事例について琉球側史料の ﹁ ︿ 琉球資料七 二 ﹀ 乾隆 三 十 三 年日記七月以降 全 ﹂ ( ﹃ 那 覇 市 史 琉球資料(上) 資料編第 一 巻 一

O

﹄ 一 八 五 頁 ) 、 大 島 船 頭 、 大 勝 の ﹁ 亥 ( 一 七六七年)ノ十月廿九日 ﹂ の ﹁ 口 上 覚 写 ﹂ に よ れ ば 、 ﹁ 私 事大島西間切之内瀬武村之者、当年九月廿八日喜界島罷渡致商売、十月十八日晩彼島ぷ致出帆候処 、 同十九日八ツ時 分風成之方-一相成風波荒立候ニ付、本島江之乗筋相失風偉致漂流長々洋中及難儀候処﹂とある。 ﹃ 平 良市史第 三 巻 ﹄ も含めたこれらの史料により、大島西間切の内、瀬武村 ( 瀬戸内町加計路麻島の瀬武 ︿ せ だ け ﹀ 集 落 ) の 船 頭 大 勝 ら 十 五 人 は 、 一 七六七年九月 二 十 八 日 、 ﹁ 火柴 ﹂ を載せて瀬武村を出帆、喜界島へ渡り商売 し 、 十 月 十 八 日 晩 、 帰 路 の 途 中 十 九 日 漂 流 と な っ た 。 そして、宮古島佐和田村へ漂着し、那覇へ宰領されて行く途中、 再度漂流し、中国へ着き、その後那覇へ送られたというのが真相であった。この事例は、清国に奄美が薩摩支配になっ ③ ていることを隠蔽することを 示 すものである 。 この問題は拙稿で提示しておいた 。 こ こ で 注 目 し た い の は 、 ﹁ 火 柴 ( 薪 ご の交易の存在を示していることである 。 琉 球 王 府としては、喜界島、大島聞にその交易があることを前提にして ﹁ 杏 文 ﹂ を清国に提 示 したと考えらえる 。 ( 2 ) ﹁ ︿ 琉 球資料七 二 ﹀ 乾 隆 三 十 三 年日記七月以降 全 ﹂ ( ﹃ 那覇市史 琉球資料(上 )資 料編第 一 巻 一

O

﹄ 二 二 二 頁)の書 付を提 示 す る 。 一 去四日之夜大島 三 反帆船壱綬喜屋武間切同村之津口江到着ニ付相尋候得者、船頭大島屋喜内間切阿室村郁三与申 者人数拾三人乗込去月十九日為商売喜界島江罷渡り候処、逢逆風間廿二日与論島江漂着同廿七日同所出帆、猶又

(5)

逆風ニ而同廿九日久志間切慶佐次村津口江漂着仕候、当月 三 日那覇之様ニ乗渡考-一而出帆仕候処、向風罷成無是非 当津江潮 掛仕候段申出候、依之荷物等見届候得者砂糖樽八百丁帯竹 三 百筋為積渡候処打捨少々相残り御座候、余者 手廻之道具ニ市通手形ニ違無之候、船者何そ破損所無之候、此段者早々御届可申 ( 初 カ ) 上候得共追付如那覇出帆仕候由申出候付差招為申事御座候、此旨宜様被仰上可被下儀奉頼候、以上 喜屋武間切在番 十 二 月十 二 日 渡嘉敷親雲上 ﹂ れ に よ る と 、 一 七六八年 ( 乾隆 三 十 三 ・ 明和五)十 一 月十九日、屋喜内間切阿室村(現、字検村阿室 ︿あむろ ﹀ 集落)の郁 三 ら十 三 人 は 、 喜 界 島 へ ﹁ 砂糖樽八百丁 ・ 帯竹 三 百 筋 ﹂ をもって商売に行く洋中、逆風に逢って 二 十 二 日 与論島へ漂着している 。 二 十七日同所を出帆 。 また、逆風にあって 二 十九日久志間切慶佐次津口へ漂着 。 十 二 月 三 日 那覇向け出帆した 。 しかし、向風のため喜屋武間切(喜屋武之浦)で潮掛かりしたため、通手形・荷改めをしたが、 ﹁ 砂糖樽・帯竹 ﹂ は少々残り、余は手廻の道具であり、船は破損していなかったという 。 その後、郁 三 ら十 三 人は那覇へ着き、十 二 月十五日薩摩在番の御横目椛山清左衛門らの入津改めを・つけている 。喜 屋武間切在番渡嘉敷親雲上の前掲十 二 日書付は、御鎖之側名嘉原親雲上から御物城阿嘉親雲上 ・ 里主上運天親雲上を 経て、薩摩役人御附衆椛山武左衛門取り次ぎで薩摩在番奉行所へ報告されている。すなわち、諸浦在番、御鎖之側、 考 御物城 ・ 里主、薩摩在番奉行所という伝達手順である。 論 こ の 史 料 で 、 一 七六八年、大島南部から喜界島へ黒砂糖を入れる砂糖樽と樽を締める帯竹を売りに行っていること f iJj が確認できる 。 巻

(

3

)

﹃ 大島噺 ﹄ ( 静 嘉 堂 所 蔵 ) に よ る と 、 一 七七五年(安永四)五月 二 十 三 日、大島西間切古志村(現瀬戸内町古 九

(6)

O 志 ︿ こ し ﹀ 集落)の船頭中栄ら十人が八丈島大賀郷八重根湊に漂着している。 ﹁ 此度喜界島へ為持罷渡申度御座候 ﹂ と島役人取次で渡航許可をもらっている 。積荷 で交易品は ﹁ 中芭蕉弐百斤、ぎち百本 ﹂ とあるように芭蕉と材木であ 砂糖を取事水車欺亦ハ真木を馬に掛ル、喜界島ぷ馬を調ル、馬代米五石井白拾石位 ﹂ とあるよう ④ に、砂糖生産の動力として馬を持ち帰るとある 。 こ の 中 栄 の 場 合 は 、 ﹁ 此船鬼界ケ島ニ牛口渡ルトテ漂着 ﹂ と牛の購 ⑤ 入、または ﹁ 芭蕉布をつみて行、牛馬と交易せんとす ﹂ というものであった 。 る 。喜 界からは ﹁ ( 4 ) 一 七 八 三 年(天明 三 )、逆に喜界島の清行ら大島に砂糖車と樽板を購入して帰路、勝連に漂着していること が ﹃ 球陽 ﹄ 尚穆王四十 二 年の条(角川書庖本、読み下し編四 二 三 頁 ) に あ る 。 勝連郡地頭代浜親 雲 上 の 善行 を褒賞す 。 ( 中 略 ) 又上届卯年、喜界島船頭清行なるもの有り。通船人数共に八人、大島に至り、砂糖車併びに樽板等件を購買して本 島に収回するの時、逆風に値ひ、楢績を損破し、風に任せて漂流す。遂に比嘉村名浮礁に欄して、船己に沈没す。 浜、小横目と共に指教して、小舟を摺し、以て八人を握ふ。内 二 人は素より病症に染みて、数日放食し、十死に一 生なり。浜焼酎並びに粥薬等の件を与へ、小横目と同に、心を尽くして療治す。亦六人に在りては、 一 顧 食 し 、 共に己 に 生 を 全うす。但 に此れのみならず 。 在 島 の 際 、 薬 餌 ・ 畑 草 及 、 び 味 噌 ・ 盟 ・ 菜肴等の件を観贈し、遂に海路 に熟する者に付して、那覇に解送す 。( 下 略 ) この記事は勝連郡地頭代、漬親 雲上の善行 を褒賞する理由の 一 つとしてあげられたものである 。喜 界島の清行ら八 人 が 、 ﹁ 砂糖車 ( 砂 糖 黍 の 搾 汁 車 ) ﹂ や ﹁ 砂糖樽の樽板 ﹂ 等を大島から購買した帰途逆風に逢い、橋揖を破損し漂流し て勝連郡比嘉村名浮礁に着き、船は沈没した 。 漬親雲上は小横目とともに指図して、小舟で八人を救った。うち二人

(7)

は既に病気で、数日食していず、とうてい生きる見込みがなかったが、潰親雲上は、焼酎 ・ 粥薬等を与え、小横目と 心を尽くして療治した。また、他の六人は食し、八人全員元気になった。これだけでなく、在島の際には薬や滋養の ある食物 ・ 煙草 ・ 味噌 ・ 塩 ・ 菜肴等を贈り、海路に熟達した者を付けて那覇へ送ったというのである。。 以 上 四 点 は 、 一 七七七年(安永六)の奄美の砂糖の専売制である第 一 次惣買入制を挟んだ 一 八世紀後半の喜界島 ・ 大島南部閣の砂糖樽や木材に関する交易状況を示す漂着史料である 。

(

5

)

同時期、与論 ・ 沖永良部島から今帰仁間切に ﹁ 木材 ﹂ を求めにきている 。 一 七五四年(宝暦四)の ﹁ 今帰仁間切柚山方式 ﹂ ( 近世地方経済史料 第九巻 ﹄ 一 九八頁)に ご 与論島沖永良部 島之者、木竹買用来着候は¥承届相射之商売差免、荷物相改鵠島申渡候事 ﹂ とある 。

(

6

)

琉球王府との関係では、 ﹁ 琉球資料 一 四 八 琉球雑記 ﹂ (京都大学文学部所蔵)に以下の文書がある 。 山 川 之利右衛門申出候者、査焼薪木井砂糖樽樽木大嶋 ニ 而相調積下度候得共積船才覚不罷成候問、新米御賦松之内 一 般御手形付ニ市琉球館方江申受候ハパ右船ぷ利右衛門乗下大嶋ニ而右両品相調積下用事可相達由申出候、尤樽木 ハ最前五ヶ年蒙御免 一 往借船ニ市積下候処、其後借船不相違利右衛門ニも及迷惑候次第茂有之候問、四年五年之間 願通被仰付候処御訴可被申上旨段々訳筋申口口摂政 三 司官衆ぷ聞役在番親方江被口口案文 こ の 文 書 は 、 一七八四年(天明四)改称された ﹁ 琉球館 ﹂ という用語があることから、それ以降のものであり、王 考 府から琉球館聞役や在番親方への案文という形である 。 これによると、山川之利右衛門が、査焼用の薪木、砂糖樽の 幸子~ a岡 樽板の材料である樽木を大島で相調えて積み下りたいけれども積船の工面がつかないので、琉球新米船賦の船 一 一 綬 を 頭 ﹁ 御手形付 ﹂ で誘い受けたらそれで大島に下島し、薪木 ・ 樽木の 二 品目を相調え琉球へ積み下りたいと申し出た 。 も っ 巻 とも、樽木については以前五カ年間許可し 一 応借船で積み下ったが、その後借船ができず利右衛門としても困ってし 一 一

(8)

一 一 一

まったところがあったので、四、五年の間願いの通り 言 いつけたいという件に関して、後段で ﹁ いつれ利右衛門申出 通御免被仰付不被下候而ハ砂糖焼酎 差 登 方 差 支相成申候問、何卒別段之御取訳を以前文之振合通御免被仰付被下度 奉 頼候 ﹂ と 許 可することを述べている 。 ﹁ 柏山だけでは需要に足りない ﹂ ということから、商人と結び付いてその解決 策 の 一 つ と し て 大 島 の 材 木 を 意 識していることの反映である 。 以上の琉球 等 の 史 料 か ら 、 一 八世紀後半、生産手段の車木、砂糖樽の樟板、樽のたがに用いる帯竹など、砂糖樽資 材や材木について 喜 界島は大 島 か ら 、 与 論島 ・ 沖永良部島琉球国頭へ木竹を求める交易、 王 府が大島を薪、樽板の資 材である樽木の供給地としてなりうる地として 意 識している 事 が理解できる 。 それでは、なぜこのような交易が 生 ず るのか、奄 美 内部の状況を把握してみたい 。 二 、明治初期、旧慣調 査 から 一 八 七 三 年 ( 治 六 ) に 大 蔵省租税大 属青 山純・同権中 属 久野謙次郎らが調査し、その結果を久野がまとめた ﹃ 南 島 誌 各 島 村 法﹄( 奄 美 社 一 九 五 四 年十 月 ) がある 。 こ れ か ら 各 島 の 自然 、 材 木 、 交易等 の 表 を作成した 。 ( 各 島 における山林資 源 と 交易 の 特 徴 ) 地形.

m

郷・地理

重明湯量

に 或岳湾に 沿 は 八 そ 大 つ 四 九 T

F

E

ー 平t五町旦他Hの、可

T

Z 九 島 話あり Jの点岳山 野 六 な 七 せ ずが、尽村近傍が 乏にし 平原広野な 路官官沿主、

徳 之 た の 安 い

E

S

i

5

2

z

5

E

島 林山な間越自大山は に し。逼w周山 ぞ の 図 沖

余 暴妥造 畑と高さ高さ 為し 四一 材の 原野五十託円 1山な11 く 与 原野な し 島 周茂。樹否 く、高 一 山 上尺以 格一面認大)11 木の (あ 打唱 界 は 、 こ墜傍 し 主 た主 つ) 深 が 野山中 林 ゅ E =繁も士の原lな蹟

(9)

赤木名方 ・ 利 方 は 他 に 比 し て 一 な い 。 皆 こ れ を 琉 球 国 国 頭 に 求 一 山少ない 。 須野 ・ 字 宿 ・ 万 屋 村 一 め 、 麦 、 粟 で 易 う 。 一 の 近 傍 は 広 原 だ が 地 味 疲 劣 で 耕 一 鎚 山 に 官 林 が あ る が 、 水 源 の た 一 すべからず 。 一 め 伐 木 許 さ ず 一 家屋築造は、制限ないが大抵十 一 家屋の製は沖永良部と同じだが一家屋は 三 四面板で阻む 。 床は竹一家屋は四面多くは板で囲む 。 床一家屋、倉庫の製は大島に同じ 。 三 歩 ( 一 坪)を度とする 。 一 比較すれば 一 層の美を加えてあ一を編んで板に替え鐙をしく。一は竹を編んで板にかえ、鐙をし一山林乏しく、築造の材木は鹿児 四面はみな板で閉ず 。 一 る 。 一 屋 根は茅、貧者は蘇鉄の禁をま一く 。( 以下沖之永良部と同じ )一島、大島 に仰ぐ 。 黍殻を乾かし 戸住があるのは上等の家 田 一 上 等 の 資 産 家 は 、 広 さ 一 五 六 歩 一 ぜ る 。 一 一 編 ん で 天 井 板 に 換 え る も の あ 1 -建築材は、自ら深林に入りて採一坪 ) よ り 二 十歩、中等以下は六一中等以下の屋蜜は大低六七歩、一 一 り 。原因 は材木寡乏のため 。 誠一り、米麦で交易するのは甚だ希一七歩 。 一 宮民は別に五六歩の貧客のため一 、 一 ペ 一 な り 。 一 そ の 材 木 は 自 ら 山 林 に 入 る 採 一 の一室ある 。 た が 、 皆 矯 少 不 潔 、 一 一 直 一 宮濠の者は鹿児島、屋久偽に良一る 。 敢えて米麦と交易しない。一貧者は豚舎のごとし 。 一 一 書 一 材 を 仰 ぎ 、 内 地 の 大 匠 を 呼 ひ て 一 理 由 は 山 林 に 定 主 な き も の 多 い 一 高 倉 は 円 木 住 六 本 、 メ ヌ キ ( 角 一 一 一 巡 ら す 。 太 三 和良 ・ 鋲佐和央 ・ 一 た め 。 一 木 ) を 架 し、板を敷く 。 一 一 一 西 能 永 通 り で あ る 。 倉 庫 は 一 品 一 高 倉 は 沖 永 良 部 の ご と し 、 た だ 一 一 一 一念、角木を架し、板を敷く一円木柱四本、沖永良部は六本周 一 一 一 一 一いる。物置広さ大抵四歩 1 一 一 一 一マサユル(倒木となすもの) 、 一竹は砂糖栂のたがに用い、必要一山羊を琉球に携え、衣、器、材一バショウ、唐バショウ、シヒ、 一 (原本記載なし) 一ヒノキ、カシ、シイ、 一 津 菜 、 一 も の 。 故 に 島 吏 に 竹 木 横 目 等 一 木 に 換 え る 。 一 マ ツ 、 ソ テ ツ 、 ツ グ 、 ガ ズ マ 一 一ガズマル、イチョウ、フク木、一を置き監督さ せ る 。 一 バ シ ョ ウ 、 唐 バ シ ョ ウ 、 シ ヒ 、 一 ル 、 一 一赤モモ、モチノキ白ツグ、アク一嘉永六年( 一 八 五 三)全島 の竹一松、ソテツ、ッグ、ガズマル、一 一 八七 二 年(明五)調査牛五百一 :一チノ木(炭団を製す、木質堅牢一は十 一 万 三 千百本余 。 その後よ二八七 二 年調査の牛一千六百 三 一 四 十 匹 、 馬 九 十 匹 。 一 酌一なり、凶年は実 を食す )ソテ一一つやぺ繁殖に至るが、即今の数一十四匹、一烏百七十匹 1 1 1 1 i 一 一 ・ 一 ツ、バショウ、竹 一 不 明 。 二 八 五 五 年 ( 安 政 二 )調査の牛 一 一 峨 一 一 八 O 四年(文化元)の牛馬一一 一 八七 三 年 ( 明 6 ) 調査の牛四一一壬ハ百四十五匹、馬 一吉士一 一 一 世 一 千 四 百 六 十 八 匹 、 一 八七 三 年 の 一 千 二 百四十六匹、馬 三 百 九 十 五 一 匹 。 一 一 考 一 一 牛 二 千七匹、馬五千 二 百 三 十四一匹、豚五千五百五十 三 匹 。 一 牧畜の内、豚、山羊多い 。 一 一 一 一匹、豚一千六百九十匹 。 牛すべ一牛はすべて耕鋤用、馬は運送用。 一 一 一 論 一 一 て 耕 鋤 、 -馬 は 運 搬 用 。 島 民 毎 年 一 一 一 一 員 一 一 喜 界 島 よ り 馬 を 買 う 。 一 一 一 一 - E ﹁ ll ﹁ I ll ・ - I l l 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 11 ト il l I l l 1 11 1 1 1 1 1 1 1 1 I l l l L i l l i -I l l l 1 1 1 1 l l i -I l l l ﹁ I l l 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 ト 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 I l l i t -一 他 一 竹 三 十八万 二 百本、六尺廻り平 一間前アツカイ手々村、井之川ア一一八五四年(嘉永七)砂糖総お一山林なく、薪は皆蘇鉄 ・ アダン一製埠は沖丞良部島のようで、米 巻 一 初 一 均 一 本米七合換で 二 壬ハ亘ハ土ツカイ山村には、製塩して交易一買い上げの理由として 1 商民・一の禁を使う o l i -客用 。 味噌は大抵蚕一旦でつく

(10)

四 一 石 四 斗 。 を職業とするものあり 。 在番士等無用の玩弄物 を移入一塩は絶えて 産 せ ず 、 皆 琉 球 国 山 一 り 、 大 豆 は 甚 だ ま れ 。 し、島民に交易を強いる 。 島 民 一 原 に 仰 ぐ 。 一 志 戸 桶、東間切の外は、蘇鉄な 砂 糖 を 無 用 品 に か え る た め と い 一 し 。 ぅ 。 製 塩 に 暇 が な い と き は 皆 鹿 一 児島に迎給する 。 この表から奄美各島の旧慣調査での特徴を次のように押さえることができる 。 大島は、山岳は乏しくないが 、北 部笠利は山が他に比べて少ない。大島南部は湯湾岳など山が多い。建築材は深林 で採り、交易で手に入れるのは甚だ希である 。 富 豪 の者は屋久島材で家屋を建築する 。 樽木としてのマサユルがあり、 竹 三 十八万 二 百本などがある。毎年喜界島より運搬用として馬を購入。 徳之島は、山林乏しからず 。建築 材は大島と同じで島内山林から採る 。砂糖楊の たがに用いる竹は 一 八 五 三 年(嘉 永六)には十 一 万 三 千百本、また、製塩して交易する者がいる。 沖永良部島は、山林乏しく麦・粟をもって建築材を、また、山羊で衣・器・材木を琉球国頭から購入している 。 製 塩するが、その暇がないときは鹿児島から購入。 与論島は、山林なく薪は蘇鉄 ・ アダンの葉を使う。塩は琉球山原から購入。 喜界島 は 、 高 山・森林なく、周 一 尺以上の木は甚だ少ない 。 建築材は大島 ・ 鹿児島からである 。 材木が少ないため 天井板も黍殻 を乾かして編んでそれに充てている 。 蘇鉄も少ない 。 各島を地形 ・ 材 木 ・ 薪で区分すると、島内で比較的受給できる大島 ・ 徳之島グループ、不足分を購入しなければな らない沖永良部島 ・ 与論島と喜界島グループになる 。 この表だけでいえばそのグループのうち、沖永良部島 ・ 与論島 は 麦 ・ 粟 ・ 山 羊で 琉 球 北 部 と 、 喜界島 は大 島 ・ 鹿 児島から材木を購入しているし、大島は馬を喜界島から買っている

(11)

交 易 の 構 図 が あ る 。 この中でも特に 喜界島は 、材木、薪に 不足していて、明治初年、大島 ・ 喜界島 ・ 徳 之島 三 島航路の乗組員であった 人 の 一 九 三 五年(昭和十)聞き取り調査にも ﹁ 喜界島は焚く物が無か慮で 、 馬ン糞で焚いてゐた ﹂ ﹁ 喜界島はまっ ⑥ たく木が無く、松の木などはあったか l ﹂ と 言 われるほどである 。 喜界島はこの旧慣調査だけでなく 、 ﹃ 道之島代官記集成 ﹄ ( 一 三 九頁) 一 七七 三 年(安永 二 )の記述には、藩役人用 の薪まで不足していて、その対策が示されている 。 今年木

O

ニ罷成、御偲 屋方績用之薪無之、先年ぷ山 川 之八右衛門江受方相談仕 、 去 ル 亥夏奉願上候慮御免被仰 付、薪七千六百 三 拾武東年々積下リ、寅年迄年限筈合、去々卯年ぷ巳年迄 三 ヶ年御免ニ市山川之袈裟 吉積 下 、 品 回 国 年 迄年限筈合ニ而、来午年ぷ先キ五ヶ年又々御願申上御免相成候、帳留相見得候、 こ れ に よ る と 、 一 七七 三 年には藩役人の役所用の薪がなく、先年より山川の八右衛門へ購入方を相談をし、 一 七 六 七 年 ( 明 和 四 ) 夏 に は 、 一 七七

O

年(明和七)ま で 毎 年薪七千六百 三 十 二 束、ずつ積み下すことで藩より許可になった が、続いて 一 七七 一 年から七 三 年まで 三 カ年許可された 。 さらに来年七四年(安永 三 )より五年間 までも 許されてい る

一 八世紀後半には藩役人用の薪まで島内供給ができず、大和から送られてきている 。 考 そ れ に 比 し て 、 大島では薪 については 困っていなかっ たようだ 。 一 八 五

O

年(嘉永 三 )から一八五五年(安政 二 ) 言ム ロ 間 の五年間、大島に遠島され、その聞の調査 ・ 体験見聞記である名越(なごや)左源太の ﹃ 南島雑話 1 ﹄( 東 洋 文 庫 本 、 頭 一 三

O

頁)に次のように記載されている 。 巻 薪之事 五

(12)

一 、 薪 は 吾 藩 の 如 く 、 一 六 一 時に多く取りたくはへ置く事なく、作帰りに男女共銘々持帰るなり 。 住の如きものを薪の 尺に切、形を付けて軽くなして、 一 本持帰るもあり、或は大抵の程にして長きものを 二 、 三 本持帰るもあり、或は 生木の棒の程にして、長きものを数十本持てるもあり 、或は薪尺に切りて 一 つに結合わせて持帰るもあるなり 。 女 は知図皆テルと云へる手龍に薪を入れて持帰るなり 。 或は枯薪を 一 丈廻り計り、能結びて背に負て女持つ 。是 は 男 の持てるより遥かに多しと云 。 此島大山故に生木を焚く事なく、家々多くは枯薪を取り焚くなり 。 依てよく燃える こと絶妙なり 。 三 、砂糖樽資材と対価 旧慣調査で理解できるように、自然的条件として山林の有無は、居宅用材木 ・ 日常生活や砂糖煎り方の薪・樽資材 ⑦ ・ 砂糖生産段階での搾汁車用の車木等の供給に影響する 。 それだけでなく、砂糖煎方の期日にも支障が出て来るので あ る 。 しかし、その地形条件だけで材木の交易の輿盛に結び付くわけではない 。 前掲の琉球側等史料の漂着関係に出 て 来 る ﹁ 火柴 ﹂ ﹁ 砂糖樽 ・ 帯竹 ﹂ ﹁ 砂糖車 ﹂ や ﹁ 砂糖樽の樽板 ﹂ の交易は、薩摩藩の砂糖生産の政策と相候って生じて 来る事を藩による砂糖博規定、砂糖代米、樽数の増加を通して検討したい。 ( 1 ) 砂糖樽の材木、規格 奄美の貢米に変えて黒糖が上納されたのは、大島 ・ 喜界島は 一 七四五年 ( 延 享二) といわれ、徳之島は 一 七 六

O

年 ( 宝 麿 一

O

)

からである 。 そ し て 、 一 八 三

O

年(天保元)には、黒糖の島民商売の交易を禁じ、余計糖(上納糖外の 余りの黒糖)を島民に不利な不等価交換率だ諸品に易えて年貢と同様にする﹁惣買入制 ﹂ となった 。 また、沖永良部

(13)

島 ・ 与論島では 一 八 五 三 年(嘉永六)に惣買入制となっている 。 それにともない、砂糖樽の需要が多くなるが、その樽の材木名や規格についてまず触れてみたい 。 一 八

O

五年(文 化 二 ) ﹃ 大島私考 ﹄ ( 流 通経済大学祭魚洞文庫本 ) には次のようになっている 。 砂糖樽之事 砂糖樽はあさころ ・ くろ木 ・ ふく木 ・ あんき ・ しろつく木 ・ す、木 ・ そろめ木 ・ きる木 ・ かしゃ木 ・ しやま木 ・ つ ん木等の木を用ゆ 。 九月十月山に登りて伐 二 東ッ、荷ひ里に帰る也 。 其 一 束廻り凡 三 尺余長壱尺五六寸あり 。 櫓四 丁分ニ市其重き事凡八貫目 。( 下 略 ) 樽 寸 法 の 事 樽の高さ壱尺五六寸、厚サ四部、 口 差渡壱 尺五六寸、蓋 厚 サ五六部、底厚サ七八部、栂角ミ双方立、金釘拾本計を 打、帯竹六筋 。是 寛政元年己酉の春園命有て定る 。 樽の包装は拾 三 斤より拾七斤迄有物也と興人前喜子語れり 。 これによると、砂糖樽は、あさころなど十 一 種類程の木を用い、九、十月山に登り、 一 束廻り 三 尺、長さ五、六寸 の 二 東で樽四丁分、重さ八貫を運ぶ 。 ま た 、 一 樽の樽板の規格は 、 十八世紀後半に規定している 。 す な わ ち 、 一 七八九年(寛政元)に ﹁ 国命ありて定ま ﹂ り、高さ 一 尺 五

1

六寸、側板の厚さ四分、樽の口の直径 一 尺 五 j 六 寸、葦の厚さ五

1

六分 、底板の 厚 さ 七

1

八分であ 考 る 。 外に金釘十本打ち、樽をしめる帯竹が六筋である 。 号d注 目冊 樽のたがに用いる帯竹については、前掲 ﹃ 南島雑話 1 ﹄ に ﹁ 唐竹は砂糖樽の帯竹になる ﹂ とある 。 頭 ( 2 ) 上納砂糖樽への樽代米 巻 この砂糖樽を藩上納との関係で区別すれば、 ﹁ 定式買入、買重 ﹂ と呼ばれる藩への上納糖用の樽、 ﹁ 余計糖 ﹂ という 一 七

(14)

一 八 自己所有分の樽が入用である。また、余計糖は前述の惣買入制になってから、品物と易えるが、その樽と、それでも 余った正余計糖用の樽に分けられる。 このうち、島民の上納樽代は、砂糖上納に対して藩から砂糖代米として米が渡る方式と同じで樽代米が農民に対し て支払われる 。 しかし、各島ごとでは ﹁ シ ウ タ ﹂ とよばれるものの代価は同じだが、樽代価は、各島すべて同 一 と い う わ け で は な か っ た 。 ﹃ 南嶋雑集 ﹄( 松下志朗編、福岡大学 ﹁ 文理論叢 ﹂ 別刷、五六九、五六六、五六二、五五九、五五六頁)には各島 ごとに次のように記載されている 。 (大島)樽代ノ費用亦官ヨリ之ヲ償フ、文政年間以来樽一挺ノ代米 一 升ヲ以テ定数トス、古昔ハ 二 升ナリシト云フ 島 語 ﹁ シ ウ タ ﹂ ト唱へ、藁ヲ以テ之ヲ作リ、砂糖樽ノ頭ヲ蓋フモノアリ、此費用モ亦官ヨリ耕償スルモノトス、文 政十 三 庚寅年以来樽 一 挺ニ先米 一 合三勺宛ヲ下付ス (喜界島)此樽代ノ費用亦官ヨリ之ヲ償フ、文政年間以来起米三升五合ヲ定数トシテ下付ス 島語 ﹁ シ ウ タ ﹂ ト唱へ、藁ヲ以テ之ヲ作リ砂糖樽ノ頭ヲ蓋フモノアリ、此費用(中略)大島ノ部ニ記載スルカ如シ (徳之島)樽代等各島同一般ナリ、其委詳ハ沖永良部島ノ部ニ記載セリ 島 語 ﹁ シ ウ タ ﹂ ト唱へ、藁ヲ以テ之ヲ作リ砂糖得ノ頭ヲ葦フモノアリ、此費用(中略)沖永良部島ノ部-一記載セリ ( 沖永良部島)此 一 挺ノ樽代ハ又官ヨリ之ヲ償フ、嘉永七寅年ヨリ明治 二 巳年マテ樽木底・葦板 ・ 帯竹ニテ代砂糖 ⑧ 十斤充ナリシカ、明治 三 午年ヨリ二斤ヲ増シテ十 二 斤卜為シ、明治五壬申年ニハ十 三 銭ヲ下付スト 云 フ 島語 ﹁ シ ウ タ ﹂ ト唱へ、藁ヲ以テ之ヲ作リ、砂糖得ノ頭ヲ蓋フモノアリ、此費用モ亦官ヨリ弁償ス、嘉永七寅年以 来 一 挺ニ先米 一 合 三 勺充ヲ給ス

(15)

( 銭 カ ) ( 与論島 ) 樽代安政六未年ヨリ十斤、明治 三 午年ヨリ十 二 斤、壬申年ハ十 三 斤 、 ﹁ シ ウ タ ﹂ 代米ハ沖永良部 島 ニ 全 ク 同 シ これによると、大 島 で は 、 樽 一 挺につき文政年間 ( 一 八 一 八

1

二 九年 ) 以来米 一 升、それ以前は 二 升である 。

二 八 年(享 保 十 三 ) の ﹁ 物定 ﹂ ( 盛岡 家 文 書 ) に ﹁ 黒 砂糖 壱 斤ニ付代米 三 合 五 勺、但 壱 樽ニ付口打 六 斤ッ、可申付 イ長 右 樽 壱 丁ニ付代米弐升先、但 百 斤以上入 。 右 者 御買入代米 有 通可相梯候口 ﹂ と あ る 。 これからして理由は 不 明 だ が 、 当 初 一 樽代米 二 升先が文政年間以後は 一 升と下げられている 。 喜 界 島 では、文政 年 間以来は起米 三 升 五 合 で あ る 。 一 九世紀に入って以来大 島 と 喜 界 島 で は 一 樽 二 升 五 合 の 域 内 価 格 差 が あ る 。 ﹃ 道 之 島 代 官 記集成 ﹄ ( 一 三 四 頁 ) の 一 七五九年 ( 宝 暦 九 ) 代 官 上申 書 に次の記載がある 。 始時樽替共大島相求結立候付、透固有之由ニて、目すくいたし候由候問、御嘗地細 工 人被 差 下 、 大 嶋 樽 竹 相 求 、 樽 萱 ツ ニ 付 代 米 三 升ッ、ニ而可然との 一 件 ⑨ これは、樽板資材の樽木を大 島 か ら 求 め て つ く る が 、 ﹁ 透目 ﹂ があり ﹁ 目すく ﹂ のため藩から細工人を呼んで、大 島 から樽木 ・ 帯竹を求め、樽 一 丁に付き代米は 三 升という上申 書 で あ る 。 樽資材交易で漂 着 事例がみられる 一 八世紀 後 半 、 喜 界 島 は 、 大 島 か ら 資 材 を 求 め る が 、 考 格 差 があったといえる 。 一 樽代米 三 升といわれる点で大 島 より樽代米 一 丁あたり 一 合高 い と い う ⑩ 一 九世紀前半には、それが 一 丁あたり 二 升五合も高くなるという状況になった 。 中 日間 徳 之島 ・ 沖永良部 島 ・ 与 論 島 三 島 は 、 一 八五四年 ( 安政元 ) か ら 一 八六九 年 ( 明 治 二 ) まで樽木底 ・ 蓋 板 ・ 帯 竹 で 頭 代砂糖十斤である 。 このころの沖永良部島の藩への上納糖である定式買上糖の代米は、 一 斤につき起米四 合 で あ る か 巻 ら 、これで換 算 すると砂糖十斤は起米四升となる 。 九

(16)

以上の砂糖上納樽代米について各島をみると、 二 O 一 九世紀中ごろは、徳之島・沖永良部島 ・ 与論島 三 島 が 高 く 、

し 、 で喜界島となり、大島は代米が下げられ代米は最も少なかった 。 また、沖永良部島 ・ 与論島に砂糖生産が命じられた 一 八 一 九年以前は、大島・喜界 ・ 徳之島だけに樽代米があった事になる。 自己所有分の樽代は、藩からの代米は理論上ないわけだが、黒糖惣買入制になって、品物と易えて、実際は年貢同 様の黒糖の樽については、藩からの代米があったと考えられる 。 この樽の需要の増加、各島での樽対価の違い、自然的条件の上で、喜界島と大島、沖永良部島や与論島と琉球国頭 ⑪ との竹木交易は増加していったと考える。

(

3

)

得数の増加と資材不足 この砂糖樽は、藩の黒糖上納や生産の強化の中で需要が多くなってくるが、どれほどの樽が必要になっていくかを 把握してみたい 。 砂糖生産量と樽数について 一 九世紀中ごろの記録で、大島は、 百 廿 三 斤、入樽四高九百六拾 三 挺 ﹂ で 、 一 八 三 九年(天保 一

O

)

一 樽平均砂糖 一 二 七斤強 。 徳之島各間切 ﹁ 正砂糖 ﹂ 総 計 で は 、 ﹁ 島中出来五百 二 十試万 三 一 八五七年 ( 安 政 凹 ) は ﹁ 合正砂糖 三 百四十万五百 二 十六斤、合入樽 二 万七千四百 二 十六挺 ﹂ で 、 一 櫓平均砂糖 一 二 四 斤 弱 。 与論島では 一 八五九年(安政六)出来砂糖見込 ﹁ 拾四高五千六拾 三 斤 ﹂ に 対 し て 、 ﹁ 入得千百四拾萱挺 ﹂ で 、 ⑫ 平均砂糖 一 二 七 斤 強 で あ る 。 樽 一 つの目安として前述の 一 七八九 ⑬ 年の規格による大島 ・ 与論島の 一 樽平均砂糖 一 二 七斤を基にした計算で樽数を把握してみたい 。 それでは、奄美全体として毎年の栂の数量はどれぐらい必要であっただろうか 。 ヘ e 匂 ゃ , 日 、 f#J+J 一 七八九年以前の樽の規格は明確でなく、また島役人層の自己所有である余計糖の棒や贈答用の音信小樽

(17)

巻 頭 論 考 1¥ ム ~ 五 。 八 1¥

/

0九

年 九 四 七

文 久 久文 安政 保 文天政 文化 天明 明日平 延享 正徳 一 三2禄八E ) フ(9 (9ーV (9 (9 ) ~,~ 樽~八産糖出 三神 定式 樽 定 時 八 、ー一定式買入 ハ九八O ー =式 七五買入 、万 二 二O斤万0重貿・ 五、万。 八九三万 大 ム

-

/

五斤 七斤 黍 検 者 二八 四 九 丁 島 丁四斤 丁 丁 丁 』 れ 樽二産糖出 、 七 よ 七八 始まり 万 九九八四 る 界 0二 丁八 重買 島 了二 斤 栂二産糖出 五産 糖出 檎八一翼式定λ 樽五七式定 得五七式定 一~

/

八二 、。 、三買入 、三賀 徳 五 四 、 万七六 五八九斤万・七四万斤・ 二 丁 貿重 丁八 買重 八 之 五 九 島 丁五斤 了 樽ー産糖出 憎 六一二O産糖出 一 一七四

部沖 六 、 万八 五四九五 丁二 丁 で 斤 、 役 人藩 待 一 七二二産糖出 樽産糖出 が 来 与 三 八万八 、五 る 了。 四

2

雲伺4聞』 斤四 丁斤

(18)

一 一 二 などもある 。 その点で誤 差 はあるとしても概略的数値として押さえることができるからである 。 なお、以下の表は ﹃ 道之島代官記集成 ﹄ ﹃ 南 嶋 雑集 ﹂ 史料で、各島出産糖が最初にわかる年代と、奄美全体の上納糖、品物に易える 年貢同様分の 出産糖がわかる年代を記載した 。 また、それまでは藩への上納糖斤数しか把握できないので、それを 示 し た 。 ) ﹃ 道之島代官記集成 ﹄ ( 十 五 頁 ) に ﹁ 喜界島 ・ 大島黍検者是ヨリ始ル ﹂ とある 一 六九五年(元禄八)から奄美の砂 糖生産は本格化するわけだが、右表によると、大島では 一 七 一 三 年に上納砂糖の樽は約八千八百樽ほど入用となり、 上納用樽として毎年この樽数が必要となる。 一 七八七年には上納糖用樽は約 三 千六百樽ほどとなる。出産糖がわかる 年 は 一 七 八 一 年であるが、それは六百万斤であり上納糖の定式 ・ 買重糖、自己保有の余計糖用の得は約四万七千樽が 必 要 と さ れ る 。 徳 之 島 で は 、 一 七 一 二 年(正徳 二 ) に 砂 糖 買 入 が 命 じ ら れ た が 、 一 七六六年には上納糖用で約五千七百樽、 八

O

年の出産糖は 三 百五十万斤で 二 万 七 千 樽 で あ る 。 こ の 二 島は、前掲明治の旧慣調査の表から材木の多い地域である。 一 方、材木の少ない地域である喜界島の 一 七八七年の上納糖は、徳之島と同じ七 三 万斤であり約 五 千四百樽 となる 。 出産糖は史料により若干違うが、 一 八 六 三 年 に樽数は約 一 万 七 千 樽 と な る 。 大島 ・ 喜界 ・ 徳之島の 三 島全 体の上納糖がわかるのは、 一 七八七年(天明七)であり、樽数は約 四 万 七千栂 ほ ど で あり、これはほぼ 一 七 八 年の大島出産糖の樽数と同じである 。 この中でも、山林資材の少ない喜界がそれより多い徳之島と同じ上納糖用樽数が必要であるということは、締資材 の島内供給力に差がでてくることになる 。 沖永良部島に ⑬ 八 一 九年 ( 文 政 二 )に砂糖黍植え付け御用で藩役人が来ているが、 一 八六 ( 文 久 元 ) 、出産糖樽

(19)

数は、沖永良部島で約 一 万六千樽、与論島で 一 八五九年(安政六)約 一 千 一 百 樽 と な る 。 奄 美全 体 で 一 八 六 三 年には計算上約 二 一 万九千得となるように、砂糖生産にともなって各島の必要な栂数が毎年増 円 U J e ﹄ 0 ・ 判H ' L 手 J その結果は、奄美各島内で山林資源の多い大島 ・ 徳之島でも砂糖樽資材調達の困難さが生じ、ただでさえ砂糖炊き 方や日常生活用の薪も不足する喜界 ・ 沖永良部島 ・ 与論島ではその対応に苦心するのである 。 一 八

O

五年(文 化 二 ) の時期であるが、前掲引用の ﹃ 大島私考 ﹄ がそのことを ﹁ 砂糖多く増シ、山は漸々薄く成故 な り ﹂ と明らかにしている 。 笠 利間切山林なきゅへ、樽木に隙を費す事多シ 。 他間切迫も廿 年 以 前 ハ 一 二 里にて木を得其日帰りしも、今は 二 三 里 も行て是を得其日帰る事能す 。 民、隙を費す事むかしに倍せり 。 砂糖多く増シ、山は漸々薄く成故なり 。 また、閉じ年の四月、沖永良部 島、与論島に郡奉行鎌田曽右衛門らが黍差 し付けのためにきているがこれに対し、 五 月 、与論 島提喜左行ら島の役人が十二名連名で黍 作を免れることを藩役人で与論島 詰 の 付役山本源七郎へ願った口 上 書 が 、 ﹃ 道之島代官記集成 ﹄ ( 四 三 四 頁 ) に あ る 。 その島役人らの申し出の理由に砂糖製法と稲作との競合と共に、砂糖樽や砂糖煎り方の竹木 ・ 薪がないことをあげ て い る 。 考 (前略)役々井百姓中段々吟味仕候次第 、 左申上候 、此節被仰渡候通、嶋中御団地之内ニも黍作可仕候得共、富嶋 ユA 日間 之儀竹木無御座場所ニ而、沖永良部嶋井諸島江適用口御用船等茂調兼申事ニ御座候 、 其上御偲屋方 ・ 御蔵方、役所 頭 井島中役々百姓迄茂、居宅 ・ 農具等作用之諸木、明用之松節等迄皆以山原方江相掛買求、公私之用物相達申事御座 巻 候、然者此節黍作被仰付候市者御請申上植付申事御座候得共、砂糖仕調之儀薪大分無之候而者相調不申候由及承申

一 一 一 一 一

(20)

二 四 候得者、首嶋之儀枯草・牛糞類ハ朝夕之焚用乍漸仕事御座候得者、砂糖仕調上納仕御勝手相成申程ニ者出来不仕、 却而御厄害之筋罷成可申哉与奉存候、有来申候通之用物連他嶋へ相掛相調申事御座候得ハ、容易ニ者難相調御座候、 砂糖調方之諸入具迄相求申候ニ付而者、砂糖調方之時分間ニ合候儀無費束存申候得者、往々押通相調申間敷与奉存 候(後略) 与論島は、砂糖黍をつくっても竹木がなく、 他 島へいく御用船も調達できない。役所や役人、百姓までも家や農業 用の木、照明用の松までも琉球の山原へ行って買い求めて公私の用物 を調達している 。砂糖は薪が多くなくてはでき ないと聞いているのだが、当島は枯草 ・ 牛糞類は朝夕の焚き用にかろうじて使っている程である、砂糖生産に必要な 諸入具迄 他に求めていては製糖時に間に 合わないとしている。 従来竹木が不足している自然的条件の中で、砂糖生産により日常生活に必要なものも含めて竹木調達が困難になる ことを島役人たちは認識していたのである。

一 九世紀前半の藩や島役人の対応 これまで、琉球等史料で奄美船の漂着事例を手がかりに、 一 八世紀後半に砂糖樽材料、薪などが喜界島に搬入され る大島 ・ 喜界島交易が存在し、また、沖永良部島、与論は恒常的に材木を琉球国頭に求めていたことを明らかにした 。 そして、山林などの自然的条件の違いを前提にしつつも、藩の砂糖生産の増強が ﹁ 民、隙を費す事むかしに倍せり 。 砂糖多く増シ、山は漸々薄く成故なり ﹂というほどに、砂糖生産と樽、山林資源、島民の労苦の関係が密接につながっ て い た 。

(21)

さらに、砂糖生産の中心であった大島と最も離れた与論島の島役人も、砂糖生産が樽資材の確保や煎り用の薪、生 活用の竹木に影響を及ぼすことを認識していたのである 。 それでは次に、農民に労苦をもた・りした砂糖樽に対して、薩摩や島役人はどのような対応をしていたか検討したい 。 ( 1 ) 藩の樽資材 ・ 東木供給方 そ の 一 つとして、もともと山林が少なく材木に不足する喜界島、 一 八

OO

年前後には、大島でも樽資材確保に難渋 してきたが、藩はその不足にどのように対処したのであろうか 。 憎の樽木についてまず検討したい 。 ﹃ 道之島代官記集成 ﹄ ( 一 七 五 頁 ) 、 一 八四

O

年(天保十 一 )の記録によると、藩は喜界島島役人を大島へ行かせて 樽木確保にあたらせる事を決めている。 喜界嶋砂糖入樽樽木、先年ぷ自分才覚ヲ以用耕仕来候得共、近年大嶋ぷ渡方相少、自分才覚難溢罷成候趣ヲ以、 樽木武万挺丈ケ大和ぷ御下方之御願、島役共ぷ御願申出、詰役次書ヲ以申出候慮、御園元御吟味之上、嘗嶋砂糖入 樽代米之内、上米 三 百石萱斗六升宛大嶋江差下、御米引替樽木萱丁ニ付米萱升六合ツ﹄ニ而、大島代官計ヲ以大嶋 役々取納之上、樽木寛万挺喜界嶋黍横目両人、錠四人ツ L 八 ・ 九月之頃

S

差渡候節、大和船雨般ぷ喜界嶋江差績相 ( マ マ ) 成候様、御謹文を以天保十 二 丑八月晦日被仰渡候、尤、右 三 百石萱斗六升之犠は直ニ大嶋江被差下、大島代官取納 之上喜界嶋江間越相成候市、喜界嶋勘定帳本立ニ相懸候事 考 島役人共は、喜界島樽資材の樽木は先年より自分才覚で調達しているが、近年大島から樽木の渡り方が少なくなり、 論 自分才覚では難渋になったので、大和から下方をお願いしてきた。国元で吟味をし、喜界島への樽は、大島代官の処 頭 置で大島役人共が取り納める 。 ことにした 。 その代米は、喜界島用の樽代米のうちから上米 三 百石 一 斗 六 升 を あ て 、 巻 米 一 升六合を得 一 丁分の樽木の代米とした。その樽木 二 万丁分を喜界島黍横目 二 名 、 提 四 名 が 八 ・ 九 月 に 大 島 へ 渡 り 、 二 五

(22)

二 六 大和船 二 般で喜界に運ぶことを 一 八四 一 年(天保十 二 )八月末日の謹文で決定している 。 すなわち、樽資材確保で藩の対応として、大和からの積み下しでなく、その確保に難渋してきでいた大島からさら に搬入させた 。 そのため、大島上納糖の樟代 一 丁につき代は米 一 升であるのに、喜界島用として準備する 一 丁分の樽 資材は代米 一 升六合とした 。 すなわち 一 丁あたり代米六合高くすることにより 、確保しようというのである 。 この喜界島島役人六名が八・九月に大島へ渡り樽木確保していることについて、その後も時々あった 。 一 八五六年 ( 安政 三 )十月九日から翌年 一 月 二 十七日まで、喜界島錠役の行春ら六名が名瀬、笠利、竜郷、大和浜、西、東、加 計呂麻島まで出かけ、恵久丸で九千 三 百九十四丁、福得丸に百五十 三 丁、合計九千五百四十七丁分の樽木 ・ 底蓋を喜 界島に送っている 。 ⑬ 一 八 六 一 年(文久元)にも 、 七 月から十 二 月にかけて六名の喜界島島役人が派遣され七千六百八十 二 丁確保し て い る なお、恵久丸 ・ 福得丸など大和船利用の仕組みは、 ﹁ 道之島賦 ﹂ ( ﹃ 阿久根の古文書 ﹄)の大島の項によると 、 ﹁ 一 、厚生 丸試拾 三 反帆、船 主 坂元為次郎、但、御品物積船ニ而罷下、大島ぷ喜界島砂糖樽々木積届、帰船之上西東之間早船 ﹂ と あ る 。 藩 か ら 大 島 へ ﹁ 御品物 ﹂ を積み下り、その後、大島から喜界へ樽木を運ぶ役割であり、終了後西間切 ・ 東間 切聞の早船となっている 。 その後、砂糖を藩へ積み上せるのであろう 。 藩は大和船を有効に利用している 。 また、前掲 ﹁ 大蔵省出張官へ提出書 ﹂ によると、明治初期、沖永良部島では、樽材料の樽木・底蓋 ・ 帯竹を鹿児 島 から持ってきている 。 ( 前略 ) 尤右見賦糖ヲ以テ 島 中入用ノ諸品弁樽樽調文仕候へハ樽木底蓋帯竹相添 差 下サレ候ニ付、御詰役様方は勿論 島 役々出張取納致置、銘々出来糖見富ヲ以テ 筆 子方ニテ印形帳為相認、御在番所ニテ清算ノ御詰役様井戸長副戸長黍

(23)

横目筆子提出張面通無親疎配当仕候へハ、銘々受取ノ上樽工共へ栂壷挺ニ付賃米八合宛ニテ為詰調 。 ( 後 略 ) 明治期史料ではあるが、もともと山林資材の少ない沖永良部島や与論島の樽資材は、当初から琉球国頭や大和からの 積み下しで対処したと考えられる 。 次に砂糖黍搾汁用の草木 ・ 帯竹について触れてみたい 。 車 木 に つ い て は 、 一 八

O

四 年 以 前 か ら 喜 界 に 、 一 八

O

四 年 に 大 島 へ 、 ま た 、 一 八 三

O

年の記録には帯竹が藩から 喜 界島へきていることがわかる 。 ⑬ 一 八

O

四年(文化 元 ) と考えられる ﹁ 差図 ﹂ に よ れ ば 、 大島砂糖車本木近年木絶相成別テ差支候段相聞得候付、去夏罷登候興人へ被相札候処、漸ク木絶故遠山ニ相掛取下 島中 一 統不耕利ニ罷成候問、御物御計ヲ以木々御嘗地ヨリ年々御下方被仰付事候ハ、難有仕合御座候段委曲申出候 付、入用次第嘗冬便ヨリ被差下筈候。 ( マ マ ) 左 候 へ ハ 一 ヶ年何程被 差下可然哉嶋中相シラへ寸尺等委曲相記住文ヲ以嘗夏早 松ヨリ何分可被申越候、尤代米ノ儀 ( 7 7 ) ハ嘗分喜界島へ車木被差下事候処壱組ニ付米壱石 二 斗八舛四合 三 勺六文嘗ヲ以砂糖ニテ上納被仰付置候問、大島ノ 儀ハ右同様ノ仕向ヲ以引給候様可被仰付候僚芳得其意取組イタシ同案試通ニテ可被申渡候、此旨御差図ニテ候巳上 但同案託通ヲ以申渡候 考 二 月廿 三 日 相 良 兎 毛 論 これによると、大島は砂糖車の本木が近年絶えて差し支えていると聞いているので、昨年夏藩へ来た与人役人へ札 頭 したところ、与人は漸く木が絶え遠い山まで行って採るため、島中が不便になっているので、藩の方で計らって木々 巻 をくだされたらありがたいと詳しく申し出ている 。 これに対し藩は今年の冬便でも 差 し下すので 一 カ年どれほど必要 二 七

(24)

J¥ か島中の木の寸勺まで詳しく記して夏早船で届けるように指図している。 この車木は喜界島同様の値段で、 一 組米 一 石 二 斗八升四合 三 勺余の砂糖換算で島民が講入するのであり、上納樽資 材へ藩が代米を下すのとは違っている。大島の車木への対応というのは砂糖生産への藩の意図の反映であるが、この 文書からみれば、喜界島へは以前から藩から車木がもた、りされている事がわかる。 島中砂糖代米差引を以被差下候、車木、帯 ⑪ 竹、鋤、鍬、釘等配当方ニ付而ハ、以来間切村々御高ニ割合相渡、其届時々可申出候 ﹂ と 記 録 さ れ て い る 。 一 八 三

O

年(文政十 三 )には、藩より喜界島への諭達によれば、 ﹁ 一 一 八 五

O

年(嘉年 三 ) の ﹁ 日帳写 ﹂ の大島砂糖を積み上る船をみると、下り時の積載は、大島への ﹁ 帯竹積船 ﹂ 一 一 ⑬ 隻 、 ﹁ 喜界島樽木積船 ﹂ 二 隻 、 ﹁ 徳之島帯竹積船 ﹂ と な っ て い る 。 前掲 ﹁ 薩 州 山 川 、 は い 船 聞 書 ﹂ によれば、栂樽船(たるぐれせん)は ﹁ 下島の際穀類雑貨を積むかはりに樽木を積む 慮から其名 ﹂ があったという 。 このように、大島、徳之島も含めて樽木 ・ 帯竹 ・ 車木が大和から積み下ってきていることがわかる 。 以上の事を見ると、喜界島の樽木不足については、藩は 一 八 四

O

年、大島から調達させる方法を取った 。 し か し 、 大島も 一 八

OO

年前後から樽木確保が難渋になってきていたのである 。 そのためであろうか、大島島民へ喜界島用樽 木分は 一 樽代米を六合高くしていた 。 また、車木については、喜界島へは 一 八

O

四年以前から、それ以後は大島へも藩から砂糖代米相殺という島民負担 で積み下している 。 帯竹については 一 八 三

O

年のころには大和より喜界島へ積み下している 。 そして、いつから不明であるが、 一 八 五

O

年のころには大島、徳之島へも ﹁ 帯竹船 ﹂ が、喜界島へは ﹁ 樽木積船 ﹂ が藩から積み下っている 。

(25)

こ の よ う に 、 藩 は 、 一 九世紀にはいると、樽資材の供給の対策に乗り出してきた 。 ( 2 ) 藩の山仕立てや竹木取締り 一 七 二 八年︿享保十 三 )、大島代官宛の ﹃ 大島御規模帳 ﹄ に 、 ﹁ 一 大 島 諸 用 木 山 奉 行 支 配 申 渡 置 候 条 山 奉 f丁 無

形伐取候儀可為停止、併嶋人共家作用之伐木之儀者各別候市代官承達可差免事 ﹂ とある 。 こ の ﹁ 諸用木 ﹂ は砂糖樽木 や車木用のためのの保存ではなく、前条に ﹁ 桑木近年木絶成之由 ﹂ ﹁ 黄楊之木伐取候儀従前々禁止 ﹂ や ﹁ 於大鳥大舵 可造調旨願出 ﹂ ﹁ 所之者小松造用本木 ﹂ などとあるように、桑木や造船材木を念頭に、これを山奉行の監督下におい た も の で あ る 。 藩が砂糖樽資材 ・ 車木確保に力を注ぐよう に な ったのは、特にそれらの不足が出されてきた 一 八

OO

年前後からで あ ろ ・ っ 。 喜界島では、直接砂糖樽資材対策と結びつくわけではないが、車木の本木となる樫の木の実を大島から取り寄せ、 造林にも力を注いでいる 。 ﹃ 加 島家文書 ﹄ に よ れ ば 、 一 七六九年(明和六)には、 ﹁ 喜界鳥之儀諸木等無之、鳥中差支候段相聞候条 、 諸作職 不差障場所竹木口者且文大鳥江樫実大分有之由候間取寄諸障無之場所江年々実はへ申付、往々致生長候様申渡年々其 首尾申出候様可申渡候。村々口居近遜等へ茂自分仕立方可致者ハ勝手次第可差免候(下略) ﹂ とある 。 喜界島は諸木 考 がないので差支があると聞いている 。 作職の差障りのない場所に竹木を植え、また、大島は樫の木の実が大部あるの 論 で取り寄せ、障害にならない場所で樫の木の実を植え生長させるように申し渡し、その首尾を申し出るように 。 ま た 、 頭 自分で山仕立て方をする者も許可するという 。 こ れ は 、 ﹃ 道之島代官記集成 ﹄ 一 三 七頁にある、ため池、井桶、尺八 巻 の造り替えの時期に材木を国元と大島から取り寄せていて、それが島民困窮のため藩から無償で下された事と関係す 二 九

(26)

るのであろう 。 ま た 、 一 八

OO

年前後から ﹁ 竹木横目 ﹂ の記録が散見される。いつから竹木横目が設置されたか不明だが、 ﹃ 道 之 島 代官記集成 ﹄ ( 一 五 六 、 二 九 八 、 三 九 三 頁)によれば、大島では 一 七九四年 (寛政六)真武美が宇検方竹木横目 に ⑬ なっている。喜界島では 一 八 一

O

年 ( 文 化 七 ) に 、 ﹁ 一 竹木横目 喜 界嶋白水村之荘淳・西日村之貫 喜 志 ・ 坂嶺村 ( 感 ) 之倫春、右は先年ぷ竹木仕立方申渡置候慮、漸々致口長御用立由候慮、取締不行届段見聞役申出趣有之、此節ぷ右之 通被仰付候旨、午十月廿六日被仰渡候 ﹂ と あ る 。 先年より竹木仕立て方を申し渡していたが、取締り不行届きである の で 、 今 回 こ の 三 名を竹木横目とするとしている 。 また、徳之島では 一 八五五年(安政 二 )に竹木横目がいる 。 藩は、取締の島役人を設置しながら、 一 八

O

四年正月 二 十六日付け 川 上九戸から大島代官米良藤右衛門へ車木用等 の樫の木について ﹁ 竹木横目受持ニテ実ハへ又ハ植此等イタシ ﹂ ﹁ 向後砂糖車外ハ狼ニ薪等ニ不成候 ﹂ ( ﹃ 大島要文 集 ﹄ ) と指図している 。 ま た 、 こ の 時 期 、 ﹃ 南島雑話 1 ﹄ ( 七四、七九頁 ) は 、 ﹁ 唐竹は砂糖栂の帯竹になる故、取締りの役人欠取る事を禁ず る故、白からの山の生る、努も欠取る事能はさるなり 。 ﹂ と あ る 。 このように、藩は 一 八

OO

年前後から、竹木横目職への指導、樫の木の植林の指図、薪用の伐採の禁止、または帯 竹になる唐竹、たけのこを切ることを禁じている 。 そ の 結 果 、 一 八 五 三 年七月の大島への ﹁ 島中申渡 一 冊 ﹂ ( 鹿児島県立図書館蔵)は、以下のように述べている 。 竹木致減少樽木帯竹等遠方へ相掛手 当 不致候得ハ不相済問切村々も有之由嘗分通召置候而者往々砂糖樽調方難 渋可罷成賦差見得候ニ付而ハ掛役々を被仰付置候間取締可致候処是迄大形召置右通 ニ も 為 相 成 筈候ニ付当分通竹木 立居作障不相成場所之儀ハ村々仕立方申渡請込役々曽廻調敷致見締且年々竹之子生立候時分かき不取様可取締尤諸

(27)

間切竹木改帳之儀ハ毎年五月廿九日限竹木間切横目格へ取揃可曽出儀共申渡置候慮竹之儀ハ近年余程致成長候ニ付 御買下ニも不相及別而御都合之至候-一付猶文掛役々致見締先年通喜界島御用分ニも相成候様可致精勤候 竹木が減少し、樽木 ・ 帯竹等が遠方へ行かないと手当できない村もあり、砂糖樽調え方が難渋しているようにもみ え る こ と に つ い て は 、 言 いつけられた掛かり役々が取締りをするべきところ、これまでいいかげんにしてきでこのよ うになったので、竹木があり、作職のさしさわりのない場所は、村々で仕立て方をし、引き受けた役々は、厳しく監 督し、かっ、竹の子を取らないように取り締まる 。 ⑫ 間切の竹木改帳は毎年五月 二 十九日限りで竹木間切横目格へ提出を言い渡してきたところ、竹については、近年成長 し藩から買い下しもせず、とりわけ都合よくなったので、猶また、掛かりの役々は取締って、先年通り喜界島用もで きるようにさらに精勤いたすべしとの申し渡しである 。 すなわち、藩のこのような対応の結果、近年、大島用の帯竹分は島内で供給できるようになったので、さらに喜界 島の分もできるようにせよということである。ただ、すべて島内供給できたのではなく、前引の河南文書をみると、 こ の ﹁ 島中申渡 一 冊 ﹂ 以後も、大島にも藩は、帯竹を積み下している 。 ( 3 ) 島役人の動向 島役人は、藩の砂糖樽資材対策に合わせて、独自に自らもその確保に動いている。 考 大 島 で は 、 ﹃ 南島雑話 2 ﹄ ( 一 五 六 頁 ) に 、 ﹁

O

知名瀬の有度、物産に心懸、草木薬種の類毎々自ら畠地に仕立、島 論 中に流行させ度志なれ共、依物左程も無之、併唐竹は島中の用分不足、有度が仕立る処の竹は、方数十丁の畠地竹山 頭 あ り 。生 る所の竹大さ尺余なるものあり 。島 中竹山と云程の処、此山に限る 。 ﹂ とある 。 巻 ﹁ 前 里 家 家 諮 問 ﹂ によれば、前渡喜について ﹁ 文久 三 亥年竹枯之節、砂糖樽帯竹用島中無多事、去ル丑冬ヨリ辰冬二

一 一 一 一

(28)

@ 至リ凡千四百 三 十萱挺分帯竹思勝村外村江配分仕候也 ﹂ とある 。 一 一 一 二 一 八 六 三 年竹が枯れた年、帯竹が少ないため四年に わたり現大和村思勝集落やその他へ帯竹を ﹁ 配分 ﹂ している 。 これも与人役昇進となる事績理由の 一 つ で あ る 。 年代不明だが、喜界島では島役人の与人、貞民が唐竹植え付けで報償されている 。 喜界島輿人 貞 民 右は初役より引績、四拾萱ケ年正道致精勤者候慮、(中略)且荒木間切嘉錨村之内(中略)其外荒地ニ相成居候大山 野等江自分以失脚、唐竹井松苗植付置候慮、追々致繁茂候付、往々村中為筋相成、其外伊砂間切瀧川村大山野地江 先年唐竹植付有之候得共、近年伐禿候付代官所江届申出候上、調敷致取締候慮、追々致繁茂候付、砂糖樽帯竹用嶋 中差支候節は時々伐取、他村江も責渡候代、正砂糖萱万 三 千六百四拾武斤齢ニ相及、村中至極之飴勢ニ相成、(中略) 且又湾問切山田村之儀、(中略)且同村之内作職不相調大山野江古来より雑木素立居候慮、薪用ニ伐禿候付村中申談、 薪伐 一 往 差 留欄敷致取締候慮追々致繁茂近年間引伐ニ而砂糖小屋垂木用口費梯候、是迄之代正砂糖千五拾斤儀ニ相 ⑫ 及、右砂糖之儀は村中御高ニ割 合 致配嘗候付、別市村中飴勢相成 (下略 ) 与人貞民は、嘉鉄村、そのほかの荒れ地になっている山野を自分費用で唐竹 ・ 松苗を植え付け、瀧川村大山野での 植え付け、取締りをし、砂糖樽帯竹が 差 し 支 えている時は帯竹を伐り取り他村へ売り渡し、代 金 が砂糖にして 一 万 三 千 六 百四十 二 斤 余 になった、また、山田村においてもその大山野の木は、薪切り用を止めさせ、繁茂した木を ﹁ 砂糖 小 屋 垂木用 ﹂ として 売 り払い、その代砂糖千 五 十斤余を村中で 高 に応じて配 当 したという 。 貞 民は代々郷 土 格 、 一 字名 字 、帯万御免とな っ たが、その報償の大きな理由の 一 つを占めているのが、この砂糖樽 帯 竹 、 材 木 の 植 え 付 け 、 監 督取締り、他村への供給である 。 とともに、そのことは、帯竹不足の中でそれが 島 内で商 売 の対象であったことも 示 すものである 。

(29)

また、この事例は資力のある島役人層が樽資材の商売でも蓄財していることを伺わせる 。 八六九年(明治 二 )十月には、喜界島与人の長嘉は、 ﹁ 先年砂糖栂 口 竹 不 足 之 節 、 萱 寓武百筋自分失脚を以大嶋 より買入、困窮之者共江無代ニ市配分 ﹂している 。 こ れ も 一 つの理由に上げられ、長嘉は ﹁ 嫡々迄代々生 産方 附士格 ﹂ と な る 。 この時期、砂糖樽資材確保での島役人の行動が増え、また、それにともなって報償を受け、官職の昇進となる者も で て き た 。 この点では、従来の藩への砂糖 ・ 米献納、自分費用での土木普請、通訳官や役目評価での報償の役職取り 立て理由のなか に砂糖栂資材確保の役割も付加されなければな ら な い 。 四、島民の樽商売、交易と藩の対応 ( l ) 島内部での代価 これまで砂糖樽資材不足に対して、藩や 島役人の対応 をみてきた 。 しかし、得資材確保はこれで足りるものではな く、島民の交易を促がしたのである 。 そのことを幕末から明治初期の史料をもとにして検討する 。 前述した喜界島与人、島民の事例か冒りして、喜界島で帯竹代金が砂糖にして 一 万 三 千六百四十二斤余になったこと にみられるように、そのことは、各 島内部で砂糖樽 や資材の商売が 生ずる こ と を 示 し て い る 。 考 大 島 で い え ば 、 ﹁ 盛岡家文書 ﹂ の 一 八六六年(慶応 二 ) 、 六七年(慶応三) 、 六八年(明治元)、七

O

年(明治三) 、 論 七 一 年(明治四)の ﹁ 春砂糖出入帳 ﹂ ( 山 下 文 武 写 本 ) で そ の こ と が 明 ら か に な る 。 頭 ﹁ 慶応 三 年卯正月吉田 卯春糖出入帳 黍横目機 前 口 口 ﹂ に よ れ ば 、 ﹁ 福 米 為 兄 出 入 取 分 、 砂糖五拾七斤(中 巻 略 ) 、 右 之 内 、 一 H 五拾七斤、但右之行来日春御物明樽五丁ニ市清算致 呉候様相談有之樽取入候-一 付 引 合 ﹂ とある 。

一 一 一 一 一 一

(30)

三 四 これは、盛岡家の黍横目格の前口口が、福米為兄から砂糖五十七斤取り分であるが、福米為兄からこの分を 一 八六九 年の上納砂糖用の樽五丁で清算してくれと相談され、そうしたのである。 一 樽 あ た り 砂 糖 十 一 ・ 四斤である。このこ ろ大島では藩の 一 樽対価は代米 一 升であった 。 大島での低い方の定式買上高 一 斤につき起米 三 合 と し て 換 算 し て も 、 一 樽代米は起 三 升四合二勺となる。藩対価の 三 倍以上である。また、喜界島での 一 樽の藩対価 三 升五合とほぼ同じで あ る 。 ( 凌 ) ﹁ 口応四年辰 三 月吉日、辰春砂糖出入帳、輿人格、前武仁 ﹂ によれば、帯竹は ﹁ 阿 具 過 出 入 梯 分 、 ( 中 略 ) H 弐拾五 斤半、帯竹拾七丁代、但右之行買入候ニ付本行摘分、(後略) ﹂ とあるように 、 一 八六八年、与人格の前武仁は、阿具 過から平均して樽 一 丁分の帯竹、砂糖 一 ・ 五庁、高 一 斤につき起米 三 合として起米四合五勺で買っている 。 一 方 、 松下志朗 ﹃ 近世奄美の支配と社会 ﹄ ( 二 四八頁)が既に指摘しているが、与人格の前 二 志 は 、 一 八 七

O

年(明治 三 ) の ﹁ 出入帳 ﹂ によれば、知名瀬村(現名瀬市集落)島民六名に帯竹を渡し、代は籾で取る事になっている 。 利息は 一 年 で 三 割 で あ る 。 例 え ば 、 与 人 前 二 志は、栄賢に 一 八 七

O

年に帯竹を渡し、それを籾換算 三

O

斤の貸付斤数(午秋元) ム ﹂ 1 し 、 一 年後に利息 三 割を含めて籾 三 九斤の取り分である 。 六名合計で帯竹の籾換算で 一 三 五斤貸付、翌年(未秋) 籾 一 七五・五斤の取り分である。以下この史料を次に提示しておきたい。 ﹁ 明 治 三 年 午 三 月吉日 ﹂ 午春砂糖出入帳 H 弐拾六斤 輿人格 内 午秋元 斗 剛 一 一 士 芯 ﹂ 弐拾斤 知名瀬村 実武仁方

(31)

銘 H ぷ出入取分 H 拾 三 斤 栄賢方 内 午秋元 籾 三 拾九斤 拾 斤 内 午秋元 吉屋方 三 拾 斤 ヱハ斤半 栄名方 内 午秋元 H 五拾弐斤 五 斤 内 午秋元 但右行 四 拾 斤 H 冬帯竹所望 之段承 、右銘々 江直 ニ相渡候付、代籾 本行当未 嘉美納方 秋取分 H 三 拾九斤 内 午秋元 拾 斤 西久保方 考 すなわち、大 島島民 間では砂糖樽や資材が藩対価より高くで売買され、また、砂糖貸借決裁を樽でも行っている 。 善s. 西岡 ま た 、 ﹁ 文久弐年成口 、弐月 亥春上 納砂糖 差 引 ︹ ︺ ﹂ ( 与 論 町徳田家文 書 ) をみると、与論 島 で は 、 一 八 六 頭 三 年(文久 三 )春の品 物 差 し引きでしばしば ﹁ 樽木弐丁代 ( 砂糖 ) 弐 拾四斤 ﹂ ﹁ 樽木四丁代 ( 砂 糖 ) 四 拾 八 巻 斤 ﹂ と あ る 。 樽 一 丁に対し砂糖十 二 斤 で あ る 。 五

(32)

~ /'¥ この時期の与論島での藩の対価の十斤と比較して、大和船からの購入は砂糖 二 斤分高いのである 。 このように島内での島役人や農民の樽や資材売買、大和船からの購入は藩対価より高い 。 また、大島より 三 倍高い 藩の対価がある喜界島は、民間交易でさらに高価格であることを推測させるのである 。 こういう状況に対して、島民 の間で、特に大島、喜界島間の樽資材交易の動きは活発化していたようで、藩として黙過できない状況であった 。

(

2

)

樽資材商売の禁止 一 八 七 一 年(明治四)正月 二 十九日、薩摩役人である大島在番、伊東仙太夫による古見方、住用間切、東方、渡連 方の与人、横目宛の ﹁ 申渡 ﹂( 津 島 家 文 書 ﹃ 御廻文留写 ﹄) が あ る 。 ( 候 カ ) 渡連方之儀喜界嶋用分樽木銘々 当合 外、他間切ぷ受負いたし 口 者手隙ヲ以働出シ代米受相成候得者格別為筋相 ( 江 l 原 口 写 本 ) ( 而 原 口 写 本 ) 成候与之趣意与者相聞得候得共、夫丈ケ之手隙ヲ以作職 口 振リ向候得者其上之為筋二 口 心得違之事候間他間切 ぷ受負舵与 差 留候 渡連方は、喜界島用の樽木を各自が手当り次第にしている外に、また、他間切からも請け負って手暇をもって代米 を受け取っている 。 それは、為になっているという考えだというが、樽木に費やす手隙を農業に振り向ける方がもっ と利益になる方法なので、心得違いがないようにし、他間切よりの請負を禁止とした 。 この伊東仙太夫の ﹁ 申渡 ﹂ を承けたとみられる四月 二 十 一 日 付 の ﹁ 住用間切中吟味 興 人 俊良衆 ﹂ ( ﹃ 今川流脹方 ﹄ 鹿児 島県立 図書館蔵 ) という文書がある 。 住用間切之儀喜界島用分樽木弁尺箆請負其外材木等伐下し商売致候哉ニ相聞得、農暇之時節ニハ不苦事候へ共 専諸 作手入仕付之瑚首坐之利欲ニ迷右通之仕形甚不可然事ニ而、右式喰料之唐芋年分不引足諸作手入も届兼年 追難渋来立候儀ハ眼前之事候条、以来ハ 一 切 差留 候間可得其意候

(33)

これによると、住用間切は、 喜 界島用分の樽木 ・ 尺涯の請負、材木等を伐下して商売しているやに聞いている。農 業が暇な時にはよくないことではないが、諸作手入れをする時期に当座の利欲に迷って今までのように商売をするこ とはよろしくない 。 食料 一 年分の唐芋不足し、諸作手入れもおろそかになり、年々生活が苦しくなって来ることは明 らかなことであるので、以後は、このような商売は 一 切禁止するというのである 。 大島南部の山林資源を前提に、島腕域内価格差の情報のもと、得資材確保と商売、交易で島民の動きが盛んになっ たことに対して、落は、 ﹁ 食料に難渋する ﹂ ﹁ 作職に振り向けるほうがもっと利益になる方法である ﹂ として、島内他 間切からの請負や喜界島との交易禁止を打ち出すが、実際は砂糖増産に力を注げということである。それは、この大 島在番 伊東仙太 夫 、与人俊良衆の ﹁ 申渡 ﹂ 各十四ケ条のうち、それぞれ十カ条、八カ条は砂糖増産への指示であり、 そ の 一 つとして樽商売の禁止を示しているのである。 しかし、これは、砂糖専売制による自己矛盾である 。 砂糖増産を申し渡せば渡すほど、樽需要は増加するし、島民 の商売への行動も活発化するわけである。 おわりに 考 こ れ ま で 、 主 に琉球側漂 着 史料で 一 八世紀後半、大島 ・ 喜 界島聞の樽資材の交易の存在を確認し、そして、それを 論 手がかりに奄美側史料で、奄美各島の自然、的特徴、藩や島役人、島民の樽資材確保の対応や動向をみ、さらに、幕末 頭 -明治初期の史料でより具体的に島内部の動向や各島の価格差を明らかにして、域内交易の生じる原因をみてきた。 巻 以下その点をまとめてみたい 。 七

参照

関連したドキュメント

学校の PC などにソフトのインストールを禁じていることがある そのため絵本を内蔵した iPad

Abstract: Mine (“me-nay”) district, Yamaguchi prefecture, Japan, has once been known for its production of marble, which furnished many of the historic buildings in Japan during

世紀転換期フランスの史学論争(‑‑)

、「新たに特例輸入者となつた者については」とあるのは「新たに申告納税

[r]

本稿は、江戸時代の儒学者で経世論者の太宰春台(1680-1747)が 1729 年に刊行した『経 済録』の第 5 巻「食貨」の現代語訳とその解説である。ただし、第 5

Secretary (Ports, ADMN) & Parliament.. Development