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児童雑誌『鑑賞文選』の研究: 沖縄地域学リポジトリ

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(1)

Title

児童雑誌『鑑賞文選』の研究

Author(s)

梶村, 光郎

Citation

琉球大学言語文化論叢 = GENGO BUNKA RONSO

TREATISES on LANGUAGE and CULTURE(5): 15-33

Issue Date

2008-03

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/10004

(2)

『言語文化論叢

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.

3

児童雑誌 『

鑑賞文選』の研究

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梶村 光郎

はじめに

明治期 に続 き大正期 にお いて も、児童雑誌が多 く発行 されて いる。 中で も F赤 い鳥』 (鈴木三重 吉主宰

、1

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年創刊) は、大正期 に創刊 され た児童雑誌 の代表的な ものであ り、 生活綴方運動へ の影響 とい う点で も注 目されて いる。 しか し、 生活綴方運動 との関わ りか ら言 えば、 この運動 を 生み出す母胎 ともな り、教員向けの綴方教育雑誌 『綴方生活』 (志垣寛主宰 のち小砂丘忠義主宰、

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年創刊) とともに生活綴方運動 の一翼 を担 った、読方 ・綴方 の学年別 児童雑誌 『読方綴方 鑑賞文選』 (晴藤幸七郎主宰

、1

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年創刊。 以下 『鑑賞文選』 と称す。) の方が、 関係が深 い。 そ のため、 F鑑賞文選J とそ の改題雑誌 『綴方 読本』 (小砂丘忠義主宰

、1

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年創刊) の関係 当事者 による証言'ttl'や、 これ らについての先行研究 (!12)も多 い。 しか し、 F鑑賞文選』や F綴方読本J は、 子 ども向けに発行 された学習雑誌 であるため使用後 の散逸が甚だ しく、 これ らをま とまった形で 保管 している公共 の図書館がなか った。 そ のため、 中内敏夫や太郎良信 の研 究 を除けば、発行 さ れた雑誌 を直接手 に して研 究す る ことができなか ったのである。 よ うや く、緑蔭書房 の 『鑑賞文 選』 と 『綴方読本』 の復刻が

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7

年 に完結 し、 欠号や欠頁はあるものの、直接 これ らの雑誌 を手 に して研究で きる状況が生 まれたので あるoそ こで、 このよ うな研究条件が生 まれたので、 小論 では特 に 『鑑賞文選』 に限定 して、書誌学的な面 を確認 しなが ら、 この雑誌 の性格や発行 の意義 について明 らか にしてい くことにす る。

1

.『鑑 賞 文 選 』 の創 刊 F鑑賞文選』 は、平凡社 (社長 ・下 中弥三郎) の子会社 として創立 された文 園社 (東京 市神 田 区錦町

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3)

か ら

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(大正

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日付で創刊 された、読方 ・綴方 に関す る小学生のた めの学年別 の学習雑誌である。 しか し、尋常 1年か ら高等科 の2学年 までの全学年種が初 めか ら 揃 って創刊 されたのではな く、尋常 四年用、 尋常五年用、 尋常六年用 の三種 のみが創刊 された。 それぞれ定価一部

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銭、 菊判 で

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責立てであった。編集発行兼印刷人は、清藤幸 七郎で、文 園社 の社主で もある。 F鑑賞文選J 改題後 の F'綴方読本1 の編集 を担 当 した ことのある井野川潔 によれば

「『清藤 は 下 中の友 人』 とい うよ りは、下 中が黒 竜会 の内田良平か ら頼 まれて、 面倒 を見 る ことにな ったひ とであって、清藤 はいわゆる F大陸浪 人』 の壮士 の一人で あった。 中国革命運動 (孫文 を中心 と す る) の援助 とか、 フィ リピン独立運動 に武器調達 と輸送 に奔走 (失敗 したが) す るな ど、 いわ ゆる F大 アジア主義者』 で もあった。」(姓3'という人物である。 このよ うな経歴 の持主で ある清藤 が、 無線 と思われ る児童雑誌 『鑑賞文選J を創刊 したのは ど うしてか。井野川は、その理 由を次 のよ うに述べて いる。 「一八七二 (明治

5)

年、熊本生 まれ の清藤 には、漢学 の素養があ り、 かれは 『標準漢字 自習

(3)

16 児童雑誌 『鑑賞文選』の研究 辞典』 (四六判 ・八五〇頁、九五銭) を、一九二三 (大正12)年三月、平凡社か ら出版 して もらっ た。つづいて、 同年六月 F常用国民辞典』

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銭) を、やは り平凡社か ら出 している。/前者はわ りによ く売れて、翌二四 (大正

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)

年四月、その改訂版の F新式漢和辞典』 (四六判 ・七

〇頁、 九五銭)が出版 された。専 ら小学校の学童向けの自学 自習用 の教室必備の辞書 として、 よ く売れ たのであった。そ こか ら 『自学 自習向』 けの出版 をす る文 園社 という構想が生 まれて くる素地が 出来た。」 (Zi4) 「さて、学年別児童雑誌 『鑑賞文選』 (菊判32頁五銭)の発想は、菊池知勇か ら清藤幸七郎に提 案 された ものだった。 --その構想 による 『鑑賞文選』 は、学年別 の児童雑誌で、菊判 (現A5 判)32頁の本文 の前半は、文学的読物や社会科学ない し自然科学的読物 にあて、後半には,全国 児童の綴方 ・童詩 の投稿作品 をあてる- と、 いうものだった。本文32頁のほか に、表紙多色刷 4頁がついて、定価 5銭であった。 --・毎 月5銭な ら、 当時の全国の小学校 の各学年の学級のな かで、数名か ら十数名の読者 をつ くることは、 さして困難な ことではなかった。」(f… つ ま り、 『鑑賞文選』 は、 清藤 にとって経済的な利益が見込 める子供向けの 自学 自習の学習雑 誌であ り、一冊の定価が5銭 ということで採算が とれ るもの と思われた というのである。確かに、 1929 (昭和4)年 3月号 を発行 して一時休刊 した児童文芸雑誌 『赤い鳥』 は、80頁程度で定価40 銭であった。それ と比較すれば、 F鑑賞文選』は32頁で薄いとはいえ、定価5銭 と安価なものであ る。 また、 『鑑賞文選』 を発刊 した文園社 を、平凡社の子会社 として創設 し、社主 を清藤 にした こ とも,下中が滴藤の面倒 をみていた ことを示 している。1925年6月創刊の 『鑑賞文選 第五学年J に、 「値段が安 く、説明がわか りやす く、字解が親切で、熟語の数が多いのは この字引である」 と 清藤の 「小学生用 自習辞典」である F新式漢和辞典』 の広告が出て いるが、その辞典は平凡社か ら発行 された ものである。 この ことは井野川の指摘 どお りである。 『鑑賞文選』 の発想が菊池知勇 によるものだ という井野川の もう一つの指摘は、後述す るよ うに菊池知勇が 『鑑賞文選』 の編集 顧問 となっていることや、彼 自身が1926 (大正15)年 6月に 『児童学習 綴方研究』 (以下 『綴方 研究』 と表記す る。) を創刊 していること、その雑誌の体裁が菊判32頁で定価5銭であること、及 び 『科学文芸 児童読本』 を平凡社か ら1926年 に刊行 していることか らも、 内容的に合致 してお り妥 当な ものだ と思われ る。そ して これ らの井野川の証言は、 『鑑賞文選』 の関係者である 「小砂 丘 とその周辺か ら見 聞 した こと」(祉6)をもとにしているものであ り、清藤が教育の世界 と関わって こなか った ことも加味 して判断すれば、妥当だ と思われ る。仮 に井野川の指摘 を割 り引いて考え たとして も、 『鑑賞文選』は、採算が とれ るという見通 しの もとで、学年別の読方 ・綴方の子 ども の 自習用の雑誌 として、計画 されて創刊 された ということは言えよう。 この ことは、 『鑑賞文選』 の編集顧問 として、創刊 当初か ら同誌 に関係 していた峰地光量の次の言葉か らも裏付 け られるだ ろう。 「この雑誌 は. とにか く初めは、よ く売れた。創刊後半年 もたつ と、 もう発行部数三十万 を越 していた。 当時のデ フレ政策で、不景気が、都市 といわず農村 といわず、お しまくっていたので あるが、それなのに、 こうした成績 を上げえたのは、値段の安 いことと、 内容が比較的充実 して いた ことによるのである。」 (1t7) 次 に 「読方綴方 鑑賞文選」 という誌名であるが、それは どこか ら付 け られたのだろうか。菊 池 の発想 に、 この誌名があった とも考 え られるが、その ことは確認できない。そ こで、その手が か りを、1925年の各 9月号 に掲載 された、次 に掲げる 「本誌発行の趣旨」(E主Mに求めることにする。

(4)

児童雑誌 f'鑑賞文選』の研究 17 本誌発行 の趣 旨 国語学習上最 も必要なのは,よき文 を鑑賞す る機会 を多 くし、理解 力を深め、発表欲 を盛ん に刺激す ることではないでせ うか。鑑賞文 としては大家の文は勿論、心的発達 の程度 を均 うす る同学年児童の優秀な文 もまた頗 る適切有効 と思ひます。鑑賞文選発刊 の 目的は、適 当なる鑑 賞文を豊富 に供給 し、以て児童の趣味を高めると同時 に、観念連合 を自由に且つ活発 に刺激 し、 その発表欲 を旺盛な らしめや うとす るにあるのです。 全国小学校訓導諸先生の御賛同、御後援 を辱 うすることによって顧 くは所期の目的を達成いた したいと念 じてを りますO 大正十四年 月 日 ここには, 「よき文 を鑑賞す る機会を多 く」すれば、子 ども達の 「理解 力を深め、発表欲 を盛ん に刺激す る」 ことにな り、そ うす ることが 「国語学習上最 も必要」 だ とい う考 え方が示 されてい る。そ して、書 き手が大人 とか子 どもとか関係な く 「よき文」 は、鑑賞文 となるものであ り、そ れを読む ことで理解 力が深 まった り、 自分 も 「よき文」 を書 いてみようとい う気持 ちになった り して、読方 と綴方の力がつ くことが述べ られている。そ ういう立場か ら、 『鑑賞文選』 には 「よき 文」 を鑑賞文 として多 く選んで掲載 していると述べている。 したがって、 「読方綴方 鑑賞文選」 という誌名は、そ ういう意味か ら付いた と考 え られる。その点 を、尋常五年用 の 『鑑賞文選』 の 創刊号の目次を手がか りにして確認 してみよう。 それによれば、作家の鑑賞文は、 「(童話)殿様の茶碗」 (小川未明)、 「(請)若葉」 (島木赤彦)、 「

(

請)麦刈 り」 (山村暮鳥)

、r

(童話)鍛冶屋の息子」 (アミ-テス)、 の

4

点である。子 どもの作 品は、「(綴方) こはい道」 (京都師範附属小学 長尾喜久子)等16点。合わせて20点で、全体19頁 中15貞分 を占める。他 に、 「文 といふ もの」 (東京高等師範学校訓導 千葉春雄) という文話が1 点で、 2頁分。雑記事 として 「新聞室 (国のまじは り/栃木山/ 日本一の年よ り/銀婚式/東郷 大将/アイヌの優等生/子供 を助 ける/珍 しい茸/国際善意 日)」 と 「(雑)記者よ り」 があ り、 合わせて2貢分 となっている。圧倒的に、鑑賞文 に頁数が割かれている。 この ことか らも、 「鑑賞 文選」の名に相応 しい目次構成 になっている。 尋常一年用か ら高等科二年用 まで八種が揃 って発行 されていた時期の尋常四年用 (1927年1月 早) を見ると、作家が執筆 した詩や童話等 の鑑賞文が5点で、15頁分。子 どもが書 いた詩や殺方 等の鑑賞文が、21点で、13頁分。32頁中28頁分が鑑賞文である。他 に、 「綴方合評会」が1点で, 3頁分。奥付に質問コーナーの記事が1頁分。 これ らの ことか ら分かることは、作家の詩や童話、 子 どもの詩や綴方 という鑑賞文 を中心 に据え、 さらに文話や 「綴方合評会」、作品への評語等 を掲 載 して、 『鑑賞文選』は学習雑誌 としての体裁 を整えているということである。以上か らも明 らか なよ うに、 F鑑賞文選』 は、 「よき文」 を多 く集めて編集 した、読方 ・綴方 の学年別 の学習用 の雑 誌であるといえるだろう。

2.

『鑑 賞 文 選 』 の編 集 体 制 と発行 状 況 F鑑賞文選』 の創刊 にあたっては、編集顧問制が採用 されている。編集顧問に名を連ねている 人物の名前 と業績について簡単 に紹介する。 丸山林平 (1891年∼1974年)は、新潟県 出身。1920(大正9)年か ら東京高師附属小の訓導。 『鑑賞文選』創刊の前年 に 『生活表現 と綴方指導』(目黒書店)を出版 している。田中豊太郎 (1895

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児童雑誌 F鑑賞文選.Iの研究

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年 に千葉春雄 と共著で 『童謡 と子供 の生活』 (目黒書店) を出版。翌年 にも 『生 活創造綴方 の教育』 を出版 して いる。 千葉春雄

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は,宮城県 出身

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年か ら東京 高師附属小 の訓導。 『童謡 と綴方』 (厚 生闇

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年)や F児童生活 に則 したる綴方 と其鑑賞』 (冒 黒書店

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年) を出版 して いる。佐藤徳市

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1) は、宮城県 出身

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午 に広 島高等師範附属小訓導.翌年 『生命 の読方教育』 (厚 生閣) を出版 しているO五味義武

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は、長野県 出身

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(大正元) 年東京女高師附属小訓導。 F読み方教授 の刷新』 (目黒 書店

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年) を出版 している。 山路兵-

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は,福岡県 出身

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(大正 7)年 に 奈良女高師附属小訓導。著書 に 『綴方 の 自由教育j (東洋図書

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年)があるD河野伊三郎は、 奈良女高師附属小の訓導。著書 に 『文芸上の国語教育』 (目黒書店

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年)等 がある。秋 田喜三 那

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は、滋賀県 出身

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年 に奈 良女高師附属小訓導。著書 に 『綴方学習 と創作』 (明治図書

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年)等がある。池 田小菊は、奈 良女高師附属小の訓導。著書 に 『文 の指導 と其教 育経営』 (明治図書

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年)等がある。守屋貫秀

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は、神奈川県 出身。 日本大学専 門部宗教科 を卒業後

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年東京府女子師範附属小の訓導。著書 に 『創作本位綴方学 習の指導』 (大 同館

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年)等がある。奥野庄太郎

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は、三重県 出身

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(大正 6)年成城小 (私立) の訓導。後 に文化書房 の教育雑誌 『低学年教育』 の編集主任 を経て、 『教材 王国』 の主幹.著 書 に 『今後 の綴方教授』 (成城 小学校研究叢書

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年)等が あるO 菊池知勇

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は、 岩手県 出身

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年慶応幼稚舎 の訓導

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月 『綴方教育j (文録社) を創刊。 また同年6月に、子 ども向けに 『児童学習 綴方研究』 を三鍾 (低学年用、 中 学年用、高学年用) 発行 して いる。 志垣寛

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は、熊本県 出身。熊本県第二師範附属 小訓導 ・奈良女高師附属小訓導 を経て

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年 に教育雑誌 『小学校』 (同文館) を編集。 その後、

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年 に下 中弥三郎 らと新教育 の研究 と実践の創造 を担 う 「教育 の世紀社」 を創立 し、 機 関誌 『教育 の世紀』 の発行 にも関係。 その後、新教育の実験学校 の児童 の村 小 (池袋) を創設 し、主事 に就任o著書 に 『最近の文学 と綴方教育』 (厚生聞

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年)等がある。峰地光量

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は、鳥取県 出身

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に児童 の村 小 (池袋)訓導。 その後

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年 に鳥取県 に帰郷。 しか し、 F鑑賞文選』 には帰郷後 も関係 を持 ち続 ける。著書 に 『綴方新教授 法』 (教育研 究会

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年)等 がある。桜 井祐男

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は、石川県 出身

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年か ら奈良 女高師附属 ′トの訓導。 そ の後児童の村 小 (御影) の訓導

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年 に教育雑誌 『教育文 芸』 を創刊 す る。下 中弥三郎

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は、兵庫県 出身

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(大正

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年埼玉師範 の教諭 を辞 し嘱託 にな る と同時 に、 平凡社 を創設

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年 には埼玉師範時代 の教 え子達 を組織 して啓明会 (翌年 日 本教員組合啓明会 と改称) を結成。そ の後

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年 には野 口援太郎 ・為藤五郎 ・志垣寛 と共 に、 「教育 の世紀社」 を創設 している。 このよ うに高師や女高師等 の附属小の訓導 と、新 教育で名の通 った私立 の小学校 の訓導 を編集 顧 問 に した ことは、雑誌 の宣伝やそれへ の信頼性 とい う点で営業政策 上有効 であるが、それだけ でな く,彼 らは国語教育で も著作等 の実績があ り、適切な人選であった。 こうした人選 を可能 に した のは、 主 に志垣 の力であろ う。清藤が病 に倒れた後

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(昭和

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年5月頃か ら一時 F'鑑賞文選j を主宰す る(Z王9)彼は、奈良女高師附属小の元訓導であ り、 同文館 の 『小学校』 の編集 を担 当, さ らに教育 の世紀社 を創設 して 『教育 の世紀』 の創刊や池袋児童 の村小 の創設 に関わ る等、 教育界 に広 い人脈 を有 して いた。 た とえば、編集顧 問には.奈 良女高師附属 小関係者が5人 (桜井祐男 を含 む)、教育の世紀社 ・児童の村小の関係者が3人 (桜井 を含 む) と 入 ってお り、 いずれ も志垣 と直接職場で関係 のあった人物達で ある。 そ してそれ以外 の 8人の編

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児童雑誌 『鑑賞文選』の研究 19 集顧問とも交流があった ことを志垣 自身が述べている(註lo) それでは、上記の編集顧聞達は、 どのよ うな役割 をもっていたのだろうか。 r鑑賞文選』 に掲載 された彼 らの論稿 と、為藤五郎が主宰す る 『教育週報』 に掲載 された、 『鑑賞文選』 の広告 にある 「本誌の特色」 の中の 「四、毎号顧問諸先生の文話、及び児童心理 に適合する程度の文芸諸大家の 名文を掲載」(1… という一文か らすれば、毎号文話等 を執筆す るのが、編集顧 問の役割であったよ うに思われる。尋常四年用で確認 してみると、創刊号には 「うたの二だん」 (菊池知勇)、 「書 くこ とがない !」 (秋 田喜三郎)、第2号 には 「綴方のお話」 (志垣寛)、第3号には 「文題 を集 めてお くこと」 (奥野庄太郎)等の文話が掲載 されている。 この ことか らも、編集顧問の任務 に、文話等 の執筆があるといえるだろう。 しか し、編集顧問の任務はそれだけではなかったよ うである。192 5年の12月までは四種体制であったが、編集実務に関わる編集顧問 もいたか らである。編集体制に も関わることなので、編集実務の面で編集顧問の名前が誌面 に出て くるのに注 目してみてみよ う。 文話等の原稿執筆以外の部分で、 『鑑賞文選』 に編集顧 問の名前が出て くるのは、 『鑑賞文選 尋常六年』 と 『鑑賞文選 高等科』 の各第4号 (1925年10月) か らである。尋常六年用 の綴方の 評語の欄 に 「清藤」、 「下中」、 「守屋」、 「的間」の4人の名が、高等科用の綴方の評語の棚 に、 「大 村」、 「下中」、 「清藤」の名が、それぞれ出ているのを確認す ることができる。 翌11月の第5号では、 尋常四年用 の選評 に 「志垣」 と 「田村」 の名が、 尋常五年用 の選 評 に 「千葉」、 「大村」、 「的間」、 「田村」の名が、尋常六年用の選評 に 「大村」、 「清藤」、 「田村」の名が、 高等科用 には 「用語略解」の記事 に 「的間」 の名が、評語の欄 に 「志垣」、 「清藤」、 「田村」 の名 が、それぞれ出ている。 1925年12月の第6号では、尋常四年用の評語の欄 に 「下中」、 「的間」、 「志垣」 の名が、 「記者か ら」 の記事に 「的間」 の名が、尋常五年用 の評語の欄 に 「的間」、 「下中」、 「滴藤」、 「大村」、 「志 垣」 の名が、尋常六年用の評請の欄 に 「的間」、 「守屋」、 「滴藤」、 「大村」 の名が、高等科用の評 語の欄 に 「大村」、 「的間」、 「志垣」、 「下中」、 「守屋」の名が、それぞれ出ている。 誌面の上か らは誰であるか を判別できない 「的間」、 「大村」、 「田村」 の名 も、編集顧 問の誰か の筆名の可能性 もある(5112)が、判明 しているところで言えば、 「下 中」 は下中弥三郎、 「志垣」 は志 垣寛、 「守屋」は守屋貫秀、 「千葉」 は千葉春雄、 「清藤」は清藤幸七郎の ことである。 この中で編 集顧問であるのは、下中弥三郎、志垣寛、守屋貫秀、 千葉春雄 の4人である。 ただ し、千葉の場 合は,評語が 自分が勤務 して いる東京高師附属小の子 どもの 「しゃれ」 という作品について しか 書かれていない。作品を編集部 に送 る際に、評語 を付けた可能性 も考 え られ る。そ ういう意味で は、千葉 を編集実務 をして いる顧問 という分類か らは外 してお く。 したがって、1925年段階にお いて、編集顧問の中では、下 中、志垣、守屋の三人が、 『鑑賞文選』 の選評等 の実務 も担 当してい たといえるだろう。 これ ら三人の編集顧問 と、社主の清藤、 「大村」, 「田村」、表紙や挿画を描 いた立野道正、それ に無署名の 「記者よ り」 という記事 を書 いていた記者連、 これ らの人たちによって、1925年段階 の 『鑑賞文選』 は、発行 されていた といえよう。その時期の発行状況 を確認す る と、次のように なる。 1925(大正14)年の7月号は休刊。毎月15日発行 というのを、 1日発行 にす るという理 由か ら である。そのため、 8月 1日付で第 2号が発行 された。 この時、 高等科 1年 と高等科 2年 を合わ せた高等科用の 『鑑賞文選』 が、65頁立て定価1部10銭で発行 された。高等科用は、高等科 の一 年用 と二年用 を合併 した形で、翌9月の第3号か ら12月の第6号 まで定価10銭 の72頁で発行 され

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20 児童雑誌 r鑑賞文選』の研究 た。ただ し、今回発行 された 『鑑賞文選』 の復刻版 に収録 された高等科用の第6号は、64貢 となっ てお り、 目次で示 されている 「国民歌」 (手塚義明) と 「談話室」、その他 に 「奥付」が抜けてお り、欠頁 となっている。以上の ことも含 めて確認す ると、1925 (大正14)年は、第 1号は尋常四 年用、尋常五年用、尋常六年用の三種が創刊 され、続 いて第2号か ら第6号 までは、尋常四年用、 尋常五年用、尋常六年用、高等科用の四種が発行 された ということになる。 ところが、翌1926年の 1月か ら、新たに尋常一年用、尋常二年用、尋常三年用の三種が加わ り、 さ らに高等科用が高等科一年用 と高等科二年用 とそれぞれ分 けて二種発行 された。 この ことによ り、八種の学年別 『鑑賞文選』体制へ と移行する。 この八種 を発行する体制は、1927 (昭和2)午

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月に高等科用が合併 されて一種 とな り、全体で七種 となるまで続 いてい く。そ して、1930(昭 和

5)

年の

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月に 『綴方読本i と改題 され るまで、 この七種体制が続 いてい くのである。それで は、発行の種類 を増や した1926年以降は、 どのよ うな編集体制 を組んだのだろうか。次 に、その 点 を見てみよ う。 八種 の 『鑑賞文選』 を発行す るとなると、編集スタ ッフの増員は避 け られない。そ ういう点か ら誌面を見てい くと、清藤が 『鑑賞文選 尋常三年』 (1926年12月号) に執筆 した 「記者だよ り」 が注 目され る。 この記事 の中で、は じめて 『鑑賞文選』 の編集体制が明示 されたか らである。彼 は、 「かん Lや う文選の記者 の名 とうけもちとをかいておきます」 という文言の後で、次のように 記者の名前 と受持分担 を示 している。 志垣 寛先生 一二年 大川 信義先生 三 年 橋本 憲三先生 四 年 小砂丘忠義先生 五六年 池田 種生先生 高等科 立野 道正先生 挿 画 そ して、 「なは志垣先生は、そのほかの沢山の顧問の先生 と- しょに、全体の学年の ものを、 ご らんにな ります。」 という文言 を付け加えている(zi13)a 『鑑賞文選』 の各学年を担 当する記者の確定 と、志垣 と他の編集顧聞達が全体的 に 『鑑賞文選』 を 「ごらんにな」 るということが、注 目され る。 また翌1927年 1月の各号に掲載 された年頭挨拶 に、 「文園社一同」 として、社主 と編集部のス タ ッフを含 めた文囲社 の全職員の名が示 されている。それ によれば、 「社主清藤幸七郎、編集部 (主任)志垣寛、編集部池 田種生、編集部橋本恵三、編集部大川信義、編集部立野道正、編集部小 砂丘忠義、 (営業部7人は省略)」 となっている(lt14)0 この年頭挨拶は、志垣が編集部の主任であることを新たに明示す るとともに、記者6人の名 と 受持 を示 した、上記の清藤の 「記者だよ り」 にある担 当記者 に変更がないことを窺わせ る。 しか し、1926年12月号では、尋常一年用 に志垣、尋常二年用 に志垣 と 「江渡」 (江渡秋嶺)、尋常三年 用 に清藤、尋常四年用 に橋本、尋常五年用 と六年用 に小砂丘、高等一年用 と同二年用 に池 田と、 それぞれの名が出ている。大川の名は どこにも出ていない。 翌年の1月号では、尋常一年用か ら 三年用 に志垣、尋常四年用 に橋本、尋常五年用 と六年用 に小砂丘、高等一年用 と二年用に池田と、 それぞれ名が出ている。 同年の2月号では、尋常二年用 に 「鶴 岡」 と志垣、尋常三年用 に志垣 と 小砂丘、尋常四年用 に志垣 と橋本、尋常五年用 と六年用 に小砂丘、高等の一年用 と二年用 に池田

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児童雑誌 『鑑賞文選』の研究

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と、それぞれ名が出ている。 しか し、 ここにも大川の名が出て こない0滴藤が表明 していた時点 での計画では、大川 に尋常三年用 を担 当させよ うとしていたが、実際は担 当か ら外れた というこ とであろう。清藤、志垣、小砂丘の名が尋常三年用の 「記者よ り」 の欄 にあるのは、その ことを 示 していると思われる。それ を除けば、滴藤が公表 した人事の通 りである。 ところで、編集主任格の志垣は、 「志垣先生は、 こん どいよいよ外国へお立ちにな りました。来 月号にはきつ とロシアか ら面 白い珍 しいお話 をかいて下 さるでせ う」 と、 『鑑賞文選 尋常四年』 第

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月) の 「記者 と読者」欄 に書かれているように、 半年 ほどロシアに出かけてい く。 『鑑賞文選』は、第7号よ り八種発行 されていくが、清藤が記者の名前 と受持 を公表するまで、 編集主任格の志垣 を欠きなが ら、 どのよ うに 『鑑賞文選』 を発行 していったのだろ うか。その解 明の一つの手がか りとなるのは、小砂丘の 「二、綴方読本十年の思ひ出」 という回想である. 「綴方読本 (元の鑑賞文選) の創刊は大正十四年であった--・/最初編集 は志垣寛主任格、橋 本憲三、栗山周一、池臼種生、それ に僕 らが実務 を手伝ってゐた。大正十五年の末、僕が編集 を ひきうけて しば らく池 田君 と、それ に創刊以来の挿絵執筆者立野道正君 と三人で、それ こそ水入 らずの編集 を してきた ものだ。その後野村芳兵衛、峰地光垂、小林かね よ、上田庄三郎君 らの援 助を得て今 日まで来ている.」 (;上15) 「実務」 と 「編集」 という言葉の区分け と、大川信義 という名でな く栗山周一 という名 になっ ていること、そ して池 田種生 も一緒 に 「実務」 をしていた という点 に着 目す ると、後 に 『鑑賞文 選』 を改題 した 『綴方読本』 を郷土社 を起 こして出版する小砂丘 の 『鑑賞文選』 との関わ りは、 清藤が 「記者だよ り」 を執筆 した時点よ りも遡 る可能性がある

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年段階の 『鑑賞文選』 の実 務 と編集 に関わった人物名を、誌面か ら探 ってみよう。

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月号の 『鑑賞文選』 では、尋常二年用 に顧 問の 「奥野」 の名が、尋常三年用 に 「久里

」 の名が、尋常四年用 に 「橋本」、 「下 中」、 「守屋」 の名が、尋常五年用 に 「久里山」、 「的間」 の名が、尋常六年用 に 「橋本」 の名が、高等 (料)一年用 に 「久里 山」 の名が、高等 (料)二年 用に 「久里山」、 「守屋」の名が、それぞれ出ている。同年の2月号では、尋常二年用 に 「久里山」、 「奥野」の名が、尋常三年用か ら六年用 までの四種 に 「久里山」 の名が、高等一年用 に 「守屋」 の 名が、高等二年用 に橋本憲三の名が、それぞれ出ている。 同年3月号では、尋常一年用 に 「久」 (久里山)の名が、尋常二年用 に 「久里山」 と 「奥野」 の名が、高等の一年用 と二年用 に橋本憲三 の名が出ている。 同年4月号では、尋常三年用 に 「JODK」が、尋常四年用 と高等一年用 と二年 用 に橋本意三の名が出ている。 同年5月号では、尋常三年用 に 「小林」 と橋本憲三 の名が、高等 一年用 に 「披是宇」 と橋本憲三の名が、高等二年用 に橋本憲三の名が、それぞれ出ている. 同年 6月号では、尋常三年用 に橋本の名が、尋常六年用 に 「佐藤」 の名が、高等一年用 に 「披是宇」 と橋本の名が、高等二年用 に橋本の名が、それぞれ出ている。 同年7月号では、尋常三年 に橋本 の名が、尋常五年用 に 「宮城」 の名が、高等一年用 に 「小林」 と 「披是宇」 と橋本の名が、高等 二年用 に橋本の名が、それぞれ出ている。 同年8月号では、尋常三年 に志垣の名があるが、編集 や実務 に復帰 していない。その ことは、尋常六年用の 「編集室 よ り」 の中の 「先生は この ごろお 帰 りにな り大に本誌の為 に力を入れて下 さる事 になってゐます」 という言葉か らも明 らかである。 同年

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月号では、尋常四年用 に志垣の名が、尋常五年用 に 「池田」 (池 田種生)の名が、それぞれ 出ている。 同年11月号では、尋常一年用 に 「シガキ」 の名が出てお り、尋常三年用の 「記者だよ り」 に 「こん どのつづ りかた は、 Lがきせんせ いにみて もらいま した」 とある。尋常四年 に 志垣の名が、尋常五年用に小砂丘忠義の名が、それぞれ出ている。

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22 児童雑誌 『鑑賞文選Jの研究 以上よ り分かることは、1926年1月号か ら3月号 までの 『鑑賞文選』 については、下中、守屋, 奥野庄太郎 という顧問が、実務 レベルで も関わっているということである。 しか し、志垣 の復帰 と池 田種生の加わる同年 の10月号 までは、主 に名前が出て くる橋本憲三が中心 となって編集や実 務 を担 当 していた といえる。小砂丘忠義が、 いつ頃か ら 『鑑賞文選』 に関わったのかは不明であ るが、1926年6月号の編集実務 には関与 している可能性がある'=E16)O小砂丘以外 にも、小林、佐藤、 宮城等 の名前 も散見 され るので、複数の編集協力者が加わって,橋本 を中心 に 『鑑賞文選』 の発 行がなされた といえよ う。 1927(昭和2)年3月号 にな ると、選評や編集後記や 「記者だよ り」の著名人は、主に小砂丘 と池 田になる。 尋常四年用 を除 く尋常科用 の五種の編集後記 と 「記者 (だ) よ り」 には、小砂丘 の名が出ている。尋常四年用 と高等一年用の選評 には池 田の名が,高等二年用の編集後記 と見な され る 「卒業生諸君 に 贈 る言葉」 には、 「池」 (-池田)の名が出ている。小砂丘の回想 にある、 池田種生、立野道正 との 「水入 らずの編集」 は、 この3月号の頃か ら始 まった とみてよいだろう。 同年

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月号か ら高等科 の一年用 と二年用 は統合 されて 「高等科」 となるが、担 当記者は引き続 き 池 田種生である。選評 については、 『鑑賞文選 尋常五年』 (1927年3月号) に、池袋児童の村小 の野村芳兵衛が加わった ことが注 目される。 「水入 らずの編集」体制の下での編集主任格は、実質的に志垣か ら小砂丘 に移っていたが, 『高 知教育』(1927年7月号) に掲載 された rF鑑賞文選』 につきて」 という記事の中に 「本誌六月号 広告の通 り本書は本県出身小砂丘忠義君が主任 とな り」 とあ り、小砂丘が編集主任格 となった こ とが分かる。 F高知教育』 の1927年6月号の広告は同号が未発掘のために未確認であるが、同年8 月に発行 された 『高知教育』 の 「『鑑賞文選』 に就きて」 という広告の中で、小砂丘 自身 「鑑賞文 選編集主任 小砂丘忠義」 と名乗ってお り、彼が編集主任 になった ことは間違 いないであろう。 しか し、小砂丘 を編集主任 とす る、 この 「水入 らずの編集」体制 も、池田が高等科用の9月号を 編集 して退職す る こと(ii17)と、 尋常四年用 を9月号か ら別 の担 当者が編集す ること(iH即か ら終止符 が打たれる。 この時、高等科用の9月号 を編集 させなが ら尋常四年用の編集か ら突如池 田が外 され る。 この 行為は不 自然である。その上、それ にとどまらず尋常四年用 にだけ担 当者 を

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人配属 させ ること も、編集体制全体の充実が一部 に偏 っていて不 自然である。 また、1928(昭和3)年の 『鑑賞文 選 尋常五年』第

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月号 を小砂丘 に編集 させなが ら、五年用 を

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月号か ら、海野 ら

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人に編集 を させ るということも、不 自然である。 これは、 どういうことだろうか。 「『鑑賞文選』 と小砂丘忠義」 の研究 をしている太郎良信 によれば、 この不 自然で異様な状況の 背景には、 『鑑賞文選』 の編集方針 をめ ぐる路線の対立があるという。 「この

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人による 『鑑賞文選』 の編集方針は、 あ くまで も国語教育の副読本 としてのものであ り、綴方 に関 しては 『佳作』 を追求す るものであったのである。 これは、『鑑賞文選』創刊時に清 藤が明 らか にしていた もの と軌 を一 にす るものであ り、清藤が小砂丘 らによる編集方針 に対抗 し て、創刊時の編集方針 に戻そ うとす る試みであった」 ('119) 確かに小砂丘 と野村芳兵衛は、 F鑑賞文選 尋常六年j の1927年7月号に連名で 「日本の教育家 諸彦 に」 とい う一文 を公表 し、 「生活創造 としての綴 り方科」 を追究 して い く姿勢 を示 してお り(Z120㌧ 先述 した清藤の 「本誌の趣 旨」や5人が編集 した 『鑑賞文選 尋常五年』 の1928年2月号 の 「先生方へ」で示 され る国語教育の副読本的な学習雑誌 としての r鑑賞文選』 の立場(at21)とは異 なっている。その意味で、太郎良の指摘は妥当であろう。 しか し、 このような異様な状態は、192

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児童雑誌 F鑑賞文選』の研究 23 9(昭和4)年 3月号で終 了す る。社主滴藤の病気 とそれ に伴 う文国社 の譲 り渡 しの話 (iE22'が持 ち 上がったか らである。 つ ま り、海野 らの擁護者清藤が病気 とな り、文園社 を譲 り渡す交渉が小砂 丘 となされている以上、小砂丘 と方針の異なる海野 らは手 を引かざるを得なかった と考 え られる。 しか し、海野 らは 『鑑賞文選』 か ら手を引 くことになったが、 この交渉 自体は うまくいかなか っ た。志垣が、 『鑑賞文選』 の主宰者 として文園社 に復帰す るか らである。その ことで 『鑑賞文選』 は新 しい体制に移行 していく。 新 しい体制では、 東京高師附属小主事の佐 々木秀一、東京女高師附属小主事の北洋種-、帝国 教育会事務理事の野 口援太郎の三名を顧問に据え、編集は尋常一年 を児童の村小訓導野村芳兵衛、 尋常二年を児童の村/ト訓導小林かね よ、尋常三年 を前成城小訓導 ・ F教材王国』主幹奥野庄太郎、 尋常四年 を東京高師附属小訓導千葉春雄、尋常五年 を鳥取県上灘小校長峰地光重、尋常六年 を東 京女高師附属小訓導五味義武、高等 を 『高二教育』編集上田庄三郎、挿絵本誌記者 中島喜久夫、 挿絵 を本紙記者立野道正、詩欄 を門脇英鋲、編集 を本誌記者小砂丘忠義、編集 を本誌主幹志垣寛、 というようになった(推2こう)。 文園社 を譲 り受 けることにな っていた小砂丘は,編集 の刷新 のために、尋常一二年 を野村芳兵 衛、尋常三四年 を小林かね よ、尋常五六年 を峰地光量、 高等科 を綴 り方生活社の上田庄三郎 に、 それぞれ担 当執筆 してもらお うとしていた(i上24㌧ その点か ら言えば、 この新体制には、小砂丘 の構 想が一定程度反映 していると言えよ う。それは、編集主任であった小砂丘 と野村等雑誌 の編集協 力者の存在を無視 して 『鑑賞文選』 の編集ができなかったか らであろう。 『鑑賞文選』 の編集か ら 離れていた志垣 にできた ことは、佐 々木秀一、北洋種一、野 口援太郎 を顧問 に据える ことと、元 の編集顧問であった千葉、奥野、五味を学年の編集担 当者 として位置づけることぐらいであった ろう。 『鑑賞文選 尋常五年』1929年5月号 に掲載 された折込広告 には、 「鑑賞文選 の特色」 とし て 「編集の権威」、 「指導 の懇切」、 「内容の豊富」、 「誌代の低廉」 の四つがあげ られている。 そ し て、それ らには次のような説明が付け られている(L王25)。 鑑賞文選の特色 第- 編集の権威 綴方教授界の権威 を網羅する合同編帝のすぼ らしさ。 第二 指導の懇切 児童作品に対 しては勿論教師諸賢 に対する懇切なる相談相手。 第三 内容の豊富 一流大家の作品特別研究の読物、文話、雑録、作品、等々精選 されたる材 料の充実。 第四 誌代の低廉 一部僅かに五銭何れの児童をも購読 しうる・・-・ 「綴方教授界の権威」 とは, この時点では F鑑賞文選』 創刊 当時 に編集顧問であった、奥野庄 太郎、千葉春雄、峰地光重、五味義武 らを指 していると考 え られ る。場合 によっては、志垣は元 編集顧問であった 自分 自身をもそ こに加えているか もしれない。元顧 問を編集者 と位置づける、 新 しい編集体制を考 えたのは志垣である。先述 した小砂丘の構想 にはなかった案だか らである。 「権威」 を名前だけでな く実質的な編集 においても利用 しようという意図が、新 しい編集体制の確 立 と 「編集の権威」 という点か ら窺 うことができる。 第二の 「指導の懇切」 とは, F鑑賞文選』へ投稿 してきた作品に対する選評、質問欄、記者だよ り、談話室、作品研究、文話等、それ まで小砂丘 らが行 ってきた、肌理の細か い対応 の ことにつ いて述べた ものであ り,それ らは今後 も継承 していくことを宣言 した もの と理解できるであろう。

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24 児童雑誌 F鑑賞文選』の研究 第三の 「内容の豊富」 については、それ を特色 と掲 げる理 由を次 のよ うに峰地光重が うま く言 い当てている。 「F赤い鳥』 の花園に泥足で踏み こむ 『生活綴方』 の若い世代は、三重吉や、 白秋 らと、その育 ちか らしてちがっていた。 生活綴方の人々は、西欧流のスマー トな思想の持主ではな く、 日本の 土 のにお いを、ぷんぷんにおわせ るような面々であったO雑誌 『鑑賞文選J の編集者は、 いずれ もそ うした教師あが りの もの、そ のために、 しぜん とその雑誌 の紙面 に、実際に子 どもと取組む 実践的な教育的配慮があ らわれた。 したがってその内容は、文学のみを正面 におかず、児童文学 の外 に、科学記事や、新聞記事な どをも加 え、児童の綴方にも力を注いだ。」(lt26) つ ま り、 『鑑賞文選』 の編集者は、教師上が りであるために、子 どもの教育 にとって必要だ と考 え られるものは、文学以外 にも 「少年新聞」や科学記事等 をも掲載 してきた し、今後 もそれ らを 掲載 していくことを宣言 した もの と理解できるであろう。 第四の 「誌代の低廉」 は、すでに述べてきているか ら、 これ以上は述べない。ただ、 「内容の豊 富」 な 『鑑賞文選』 を一部五銭で販売す るということは、 どの子 もそれ を購入す る ことができる ということであ り、その意味では、子 どもへの愛情があっての ことだ とも考 え られ る。 つま り、 良心的な立場 に立 って、 『鑑賞文選』 を編集 し、販売す るということを宣言 しているとも考え られ るのである。 また、 この折込広告には 「本社の新 しい仕事」 として、「綴方研究会」、 「児童読物研究」、 「教育 相談部」、 「講演及び講習会」、 「月刊 『殺方生活』 の発行」、 「文囲叢書の刊行」 の計画が述べ られ ている。 この仕事 と 『鑑賞文選』 の関係が どのようになるのか、次 に見ていこう。

3.

文園社の新 しい仕事 と 『

鑑賞文選』

「綴方研究会」 については、 「前記同人を中心 として毎月一回開催実地授業児童作品につき研究」 と説明されている。 この試みは、1927 (昭和2)年 1月に発行 された F鑑賞文選 尋常五年』 に 掲載の 「文 の味ひ方 合評会」、 同月発行の 『鑑賞文選 尋常六年』 に掲載の 「合評会 父さん母 さん方の為に」、同月発行の 『鑑賞文選 高等一年』 と F鑑賞文選 高等二年』 にそれぞれ掲載 さ れた 「児童作品合評会」 ですでに行われていたが、その後中断 したままになっていたものを、今 後は毎月継続 して行 うとい う計画である。 この計画が実行 されれば、教師等大人に対す る作品の 見方や綴方指導 について参考 となる ことが期待 されるものである。 ところが、 この計画 の具体化 は 『鑑賞文選』 ではなされなかった。 しか し、新 しい仕事の一つ として掲 げ られている、教師向 けの綴方教育雑誌 『綴方生活』 が、1929年10に創刊 されると、 ほとん ど毎号 に 「綴方研究会」 の 報告が掲載 されるようになる。た とえば、1929年の 『綴方生活』 においては、 「綴方の母胎 として の児童の生活」 (創刊号)、 「綴方の素材 とその表現」 (第 1巻第2号)

、「

(

移動座談)綴方 に於ける 道徳的要求」 (第1巻第 3号)が掲載 されている。ついで1930年の 『綴方生活』では 「児童作品令 評会」 (第2巻第 1号).「(座談会)綴方教育 を如何 に打開すべきか」 (第2巻第 3号)、 「講習回顧 座談 新時代への動き」 (第2巻第 5号)、「校長座談 僕達 はか う見 る」 (第2巻第 6号)、 「座談 会 生活様相の転換 と文章形態 の変化」 (第

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巻第

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号)、 「座談会 地方の新人に聴 く」 (第

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巻 第8号)、 「座談会 教育 に於 ける綴方の位置」 (第2巻10号)、 「座談会 自然観察 と綴方」 (第2 巻第11号)、 「座談会 農村の子供 と綴方」 (第2巻第12号)が、掲載 されているのである。 ここで 『綴方生活』 と F鑑賞文選』 の関係が問題 となるが、上述 の折込広告の 「月刊 F綴方生

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児童雑誌 『鑑賞文選』の研究 25 括』の発行」 に関する説明によれば、「来九月を期 して、鑑賞文選 と並行 して用ふべき新雑誌 F綴 方生活』 を発行 し、綴方教育 に対す る大運動 を起す」 とあ り、両者は並行 して用 い られ る関係 に あることが分かる。つま り、教員用の綴方教育雑誌 として 『綴方生活』があ り、子 ども用 の学習 雑誌 として 『鑑賞文選』があるという関係である。そのため、両者の関係は、親雑誌 と子雑誌 と いう関係にあると理解 され、両者相侯 って生活綴方運動 を担 うという役割 にあった。 だか ら、 『鑑 賞文選』 に 「綴方研究会」や 「児童読物研究」、 「教育相談部」や 「講演及び講習会」 の仕事や成 果が掲載 されていな くて も、何 も不思議ではない。それ らは、 『綴方生活』 に役割分担 されて掲載 されているか らである。 この点 について、小砂丘 と志垣 の F鑑賞文選』 に対 して もった役割 を理 解するために、 もう少 し言及 しておきたい。 もう一度繰 り返すが、 F綴方生活』 は、教員向けの綴方 中心の教育雑誌である。それは、 『鑑賞 文選』 の編集や選評等 を通 して 「生活創造の綴 り方科」 を追求 していた/ト砂丘、野村、峰地、上 田庄三郎、小林かね よの間で計画 されていた ものだった。志垣 も 「時は来た- 綴方生活 の発刊 まで- 」 (『綴方生活』創刊号) の中で 「実 にもう三年前か らの計画であった。野村、峰地、上 田、小砂丘、′ト林の五人がい く度か計画 して」 と、その ことを認めている。小砂丘が 「最近の教 育界を見 る」 という 『綴方生活』(1931年2月号) に掲載 された座談会で、志垣 と 『綴方生活』 の 関係について、次のように回想 しているo 「いよいよ文園社 を経営す る契約がな りたって、事務 の引きつぎを了 した翌 日だった。 ひ ょっ とやって来て、僕 も一緒 にや るといふんだよ。困ったね あの時は。 で、たふ とう、僕たちは出資(ママ) して くれ ることになっていた友人 とわかれて、 あの人をはいって もらったわけだったよ。所がい ふ事が面白い。 小砂丘、野村、上田な どよ りよ り計画はすすめていたが中々ものにな らぬ。 いよ いよ俺が山を下ると、忽 ちにして出来上がった とか何 とかいってるんだ。何で もかんで も乃公出 でずんばと思ひつめてゐるのだか ら叶はない。」 ここには、小砂丘 らが困 り果てなが ら、志垣 を文園社 に迎え入れ、 『綴方生活』 を発行 した こと が述べ られている。そ して翌1930年 7月に文園社 の赤字経営 をめ ぐって、経営 を握 っている志垣 が、小砂丘 ら社員 を解雇 しようとす る 「文園社争議」 が起 こる。平凡社の下中をも交 えなが ら、 小砂丘 らと志垣の間で解決のための交渉が継続 され る。 同年

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月30日の小砂丘の 日記 には、 「最後 の会議/志垣氏昨 日の意見 とちがって平凡社へ返上スル事」 とあ り、志垣が文園社 の再建 を断念 した ことが示 されている。その結果、小砂丘 らが郷土社 を創設 し、文園社の事業 を継承す る こと になったのである(己t27).そ して文圃社の経営権が小砂丘 に譲渡されて、妹土社か ら 『綴方読本』 と 改題 されて発行 される1930 (昭和5)年 9月の前月号 (最 も長 く発行 された もので第58号 を数え る) まで、編集兼発行人の名義は滴藤であることは基本的 に変わ らなか った。 ただ し、志垣が担 当していた 『鑑賞文選』の尋常五年用だけが、1929年 5月号か ら翌年の 7月号 まで (ただ し、1929 年6月号 と8月号、翌年の4月号を除 く)編集兼発行 人として 「志垣寛」 の名前 を掲 げていた。 このような事実 を見 ると、志垣以外は、主宰者 の変更 を認めていなかった と考 え られ る。 この こ とか らも言えるように、F鑑賞文選』 において、志垣の果たすべき役割は特 になかったのである。 ここで F鑑賞文選』 の発行状況 と形態を確認 してお く。1925年6月創刊時 に発行 された 『鑑賞 文選』 は、尋常四年、尋常五年、尋常六年の子 どもを対象 に した三種であ り、それぞれ定価一部 5銭、菊版19貢であった。 しか し、 同年の 8月 1日付で発行 された第 2号か ら増頁 とな り、前記 の各学年用の 『鑑賞文選』 は、25頁 となった。 ついで同年 9月 1日付発行の第 3号 よ り32頁体制 となった。 また、 同年8月 1日付で高等科用が、定価 1部10銭、菊版65頁で発行 された。 この四

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26 児童雑誌 『鑑賞文選』の研究 種体制は、1925年の12月の第 6号 まで続 き、翌1926年の 1月以降 には尋常 1年か ら高等科 2学年 まで八種 の体制 となった。 高等科 の2学年用の二種の 『鑑賞文選』 は、1927 (昭和2年) 3月ま で維持 されたが、年度が変わると元 の一種1冊の体制 に戻った。その結果、尋常 1年用か ら高等 科用 1冊の全体で七種 という体制が、 『鑑賞文選』か ら 『綴方読本』 に改題 され る昭和6年 8月ま で続 け られたのである。 4月号は、年度変わ りのために原則 として休刊 となっているが、1926年 の尋常一年用は、尋常五年用 の奥付 に 「尋常一年 九月迄休刊」 とあ り、 4月号か ら8月号 まで 休刊 となっている。1928年11月発行の各学年用は、10月号第38号か ら12月号第39号 となってお り、 休刊 と考え られ る。 「社告」 (高等科用の1928年12月号) に、東京市の区画整理 による事務所や印 刷所の移転があ り、 「すべての仕事が一時停頓 して雑誌の発行 も意外 に遅延 し、大変迷惑 をかけて 来 ました」 というのが、休刊の原因 と考え られる。 発行部数 については、後述す るが、最盛期 には50万部 に届 く勢 いであったo しか し、小砂丘が 『鑑賞文選』 を譲 り受 ける頃 には、 5万 7千 5百部程度であった。 小砂丘がつけていた ノー トの 1930年 8月22日の 日付の記述 には、 「九月号印刷部数」 として 『鑑賞文選』 の発行部数が 「一 五

〇〇〇/

二 六

〇〇〇/

三 一,

二〇〇〇/

四 一,二

〇〇〇/

五 一

,〇〇〇〇/

六 一

,〇

〇〇〇/

高 二五

〇〇

」であることが示 されている。 この程度 にまで、発行部数が減少 していた のである。平凡社 の社長である下中や、文園社 の社長である清藤 にとって、 この時期 には 『鑑賞 文選』 は魅力のある商品ではな くなっていたのである。 その ことが、小砂丘への譲 り渡 しの原因 の一つであった と考え られ る。

4.『

鑑賞文選』 と生活綴方運動

親雑誌 『綴方生活』 の創刊号では、綴方教育の事実 に即 しなが ら 「教育生活の新建設」 を目指 すために、教育における 「生活」 を重視 し、 「生活重視」 をス ローガンに掲げていた。 この立場は, 『鑑賞文選 尋常五年』 (1927年 7月号) に小砂丘 と野村が連名で 「日本の教育家諸彦 に」 という 呼びかけ文を書いて 「生活創造 としての綴 り方科」の樹立を呼びかけた立場を継承するものであっ た。 この呼びかけの中で二人は、 「鑑賞文選 を通 して、皆様のお力添へを得て、皆様のお子様方の 生活のよ くなるや うに、又、文のよ くなるや うに、働 いてみたいと思っています」 と述べていた。 単 に 「文のよ くなるや うに」ではな く、その前 に子 どもの 「生活のよ くなるや うに」 しよ うと考 えていたのである。 この呼びかけは、 これまであまり注 目されて こなかったけれ ども、 「佳作」 を 求めがちな綴方科の立場 とは異な り、子 どもを生活者 として捉 え、彼 らの生活 と文章表現力を育 てる生活綴方 の立場 を表明す るものであった。 しか し、そのためには綴方 を指導 している教員に 対す る教育が必要であった。 ここに 『鑑賞文選』 の親雑誌 『綴方生活』が創刊 され る契機があっ た. 『綴方 生活』 の発行 の話が、 この雑誌 を主宰す る ことになった志垣か らではな く、 /ト砂丘 ら F鑑賞文選』 の編集や選評 に関わってきた人間達の間で検討 されてきた ことの理由がそ こにある。 小砂丘の 「作品に表はれたる現代綴方の功罪」 (F綴方生活』1929年10月創刊号) にある次の言葉 か らも、その ことは窺われるだろう。 「毎月綴方に目を通 して感ず ることは、第一に、実 に達者にかけてゐるにも拘 らず、その中に子 供 の生活がないといふ ことである。個性がない。考へ方見方が一様 に概念的、抽象的であって、 画然 と既成 の形式の中に固め られてる。第二 に思ふのは、現在 の小学校の先生に、何等綴方 に対 する指導原理 をもたぬ人々が案外 に多いといふ ことである。」

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児童雑誌 r鑑賞文選』の研究 27 しか し、 「吾等の使命」でいう 「生活重視」 について、編集同人の間で も共通の見解はなかったo 「綴方の母胎 としての児童の生活」 とい う座談会が

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年の秋 にや られていたにも関わ らず再び 実施 され、 『綴方生活』 の創刊号 に掲載 された ことか らもその ことが窺 える。 また、 『綴方生活』 の創刊号には、上記の小砂丘の論稿以外 に野村 の 「綴文欲求の発生 とその指導」、峰地光重 の 「綴 方に於ける動物描写の意味 と其取扱」、上田庄三郎の 「教師への降伏状 としての綴 り方」が掲載 さ れたが、それぞれの視点か ら 「生活重視」 の具体化が語 られている。そ ういう面では、子供向け の 『鑑賞文選』ではや りきれなかった、 「生活創造 としての綴 り方科」 の追究が、 このような論文 による対話 をも通 して行われて いた と言 えるだろう。その上で、小砂丘の リーダー シップが発揮 されたのが、志垣 と決別 した後の 『綴方生活』

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月号) に発表された 「宣言」である。 この宣言の中には、 「教育は無力であるか。果た して教育は無力であるか。真実 に生活教育の原 則を握 り、その実現力 としての技術 を練 るの道、 これ こそ若き 日本教育家のなすべ き仕事中の仕 事であ らねばな らぬ」 と自閉 しつつ、教育 による社会改造 を信 じる姿が窺 えるが、その姿は まさ に小砂丘の姿である。(3r2洪)と同時に、 「吾々同人は、綴方が生活教育の中心教科である ことを信 じ、 共感の士 とともに綴方教育 を中心 として、生活教育の原則 とその方法 とを創造せん と意企す る者 である。」 と述べ、綴方が生活教育の中心教科であることを信 じるとしているのである。信 じるた めには、信 じるに足 るだけの ことがなければな らない。小砂丘は、 「人生 これ綴 り方だ と見 るのが 私の教師 としてのスター トだった。 各 自めいめいの綴 り方 I.-へ までの役 目をつ とめる修身であ り、そのための歴史であ り、--・であるべきはずである。その見地か ら私 はあ らゆる教師の仕事 をな し、又最 も綴 り方の仕事 を熱心 にさう思 ってや ってきた。」(さも29)という経験 をしてきていたので ある。そ こか ら、生活教育の中心教科 として綴方 を位置づけるという立場が鮮明にされたのである。 この立場に立って、 『綴方生活』

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月号)では、 「教育 に於ける綴方 の位置」 という座談 会が組まれた り、野村の 「生活科 としての綴方」等が掲載されたのである。 『綴方生活』 と 『鑑賞文選』 の関係は,親雑誌 と子雑誌の関係であ り、子 どもの綴方 に現れた 諸問題の解決 として親雑誌があると同時 に、親雑誌 における理論的な研究が教員 に受 け入れ られ、 それが指導に反映 して綴方 にも現れるということだったのであろうO 『綴方生活』が発行 されて も、 r鑑賞文選』 の方 には掲載記事において これ といった変化は見 られないのはそのためであろう。そ の変化は、作品の質 に現れるはずであ り、その意味で作品の質 を吟味 しなければな らないだろう. この点の分析については、今後の課題 としておきたい。

5.

鑑賞文選』発行の意義

F鑑賞文選』 は、大正期 に発行 された、学年別 の読方 ・綴方 に関する子 ども向けの学習雑誌で ある。大正期 に発行 された、読方 ・綴方 に関す る子 ども向けの学習雑誌 としては、 『児童の綴方』 と 『綴方研究』 (菊池知勇主宰

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年創刊)があったが、その他 に読方 ・綴方 に関係する子 ども 向けの雑誌 としては、 『赤 い鳥』 (鈴木三重苦主宰)や 『伸びて行 く』 (奈良女高師付属小内学習研 究会

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年創刊)があった。上記の雑誌の定価 は、 『赤 い鳥』 が

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銭、 『児童の綴方』 が

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銭、 F伸びて行 く』が

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銭であった。 『鑑賞文選』 の発想者だ と言われる菊池知勇 の主宰す る F綴方研究』は、 r鑑賞文選J の後 に発行 された雑誌であ り,両者が子 ども向けの綴方 関係雑誌 として競合す ることを考えれば、 『鑑賞文選』 と同 じ

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頁で、それよ りも高い値段 をつけ ることはできなかっただ ろう。 また r鑑賞文選』 の発行部数は、 「本誌 も大発展 して今や正 に五十

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28 児童雑誌 r鑑賞文選』の研究 万 を突破 しや うとして居 ります」 (無署名 「選評

F鑑賞文選 尋常五年』1926年5月号、31頁) とあるように、50万部 に手が届 こうとしていたD この ことは、他 の児童学習雑誌 を圧倒する勢い であった と言えるだろう。 この発行部数 と価格 の安 さに注 目して言えば、先 にも述べたよ うに、 F鑑賞文選』は低価格で多 くの子 ども達 に綴方 ・読方の学習雑誌 を提供 した と言えるだろう。そ し て、 この雑誌で読方 ・綴方の学習を した子 どもの中か ら、学校の教員になるものもいたのだか ら、 その影響は大 きいものがあった と考 え られ る。特 に、綴方 の指導な どは、師範学校で も充分 にな されていな い し、師範 を出た教員か らも組織的な ・系統的な綴方の指導が受 け られなかったのだ か ら、その指導 を行 う 『鑑賞文選j の発行 の意義は大 きい。 小砂丘か ら高等科用の F鑑賞文選j で指導 された、高山市 の住 田ちよ (後 の早船 ちよ)が作家 になっていることか らも、その意義 は 察せ られるだろう。 次 に指摘できることは、 『鑑賞文選』 が学年別 の雑誌であ り、尋常一年用か ら高等科の一年用 ・ 二年用 まで、多 いときで八種発行 されていた ことである。 『鑑賞文選』 の後 に発行 された 『綴方研 究』 でさえ、低学年用 ・高学年用 ・高等科用の三種3冊発行なのである。比較すれば、 同 じ頁数 の雑誌であるが 『鑑賞文選』 の場合は種別が多 く、それ に伴 い作家の書 いた童話や子 どもの書い た綴方等の鑑賞文の数量は 『綴方研究』 よ りも全体 として多 い ことは明 らかである。 また作家の 書 いた童話は、各学年 に配 当されているが、子 どもの発達段階を考慮 した形で掲載 されている。 このよ うに鑑賞文 として、童話 も教育性 を配慮 して掲載 されているという点 も、 『鑑賞文選』 の特 色の一つ として見逃せない ことである。 と同時 に、教員及び教員出身者が子 どもの実態 に合わせ て創作 した童話 ・童謡等 も掲載 されているが、大人の殺方 として も、 また綴方 を指導す る者 とし ての資質の向上 とい う点で も注 目され る。 さ らに、子 どもの作品が、毎号かな りの分量で紹介さ れてお り、その学年の綴方 の水準が分かって くるという特徴がある。前 に掲載 された ことのある 作品が、剰窃 されて投稿 され、それが掲載 され るという事態は、その作品な らば掲載 されるとい う見通 しを、 それ を投稿 した子 どもが もっていた ということである。 自分の綴方の力量を考えた 時、掲載 され る可能性が少ないと判断 し、 しか も作品の掲載 を求める故に、他人の作品を自分の ものとして投稿す るのである。 F鑑賞文選』が期待 している綴方の水準 を分かった上での行動 と考 え られる。 この ことは、皮肉な ことだが、文話や評語な どでよい綴方の書き方が子 ども達に伝わっ ていることを教えて くれている。 と同時 に、 これは 『鑑賞文選』 だけに限 らないことだが、教員 にとっては掲載 された文話や評語 を読む ことで、作品の見方が分かった り、児童文 の研究が進む よ うになった りす るという恩恵がある。 r鑑賞文選』 のスケールの大きさは、 この点で も他の追随 を許 さないものである。 『鑑賞文選』だけが、各学年別 に対応 した ものを八種一冊づつ発行 されて いるか らである。肌理 の細かい、綴方の系統的な指導 の研究材料 として役立つ と言えるだろう。 さ らに言 えば、子 どもの綴方は、北海道か ら沖縄、 当時植民地であった樺太 ・朝鮮 ・台湾 ・満州 まで を含 めて、各地か ら投稿 されてきた。大正末期か ら昭和初期 にいたる帝国 「日本」 の各地の 実情が.子 どもによって書かれ、報告 されてきたのである。 マス ・メデ ィアや交通手段が未発達 な当時 にお いて、子 どもの目に映 り、 あ りのままに表現 された各地の姿は、活 き活き とした リア ルタイムに近い情報であ り、 「日本」の自然や文化や社会の認識を広げた り深めた りするのに役立っ たであろう。 また、 F鑑賞文選』 には、 「談話室」 が設け られているものがあ り、記者 と子 どもや、子 ども同 士の交流が生まれている。 このような試みは、異なる地域 に住む他者 との出会いの場 を開いた も のであ り、子 どもの 自他意識 を深めるのに役立つ ものである。

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児童雑誌 r鑑賞文選』の研究 29 この点 に付 け加 えて言 えば,高等科用か ら発展 して、卒業生 を対象 に した交流 と創作 のための 雑誌 F第一歩』 が、1930年 4月に文園社か ら創刊 された。 高等科や尋常科 を卒業 した後 も引き続 いて指導す る ことを考 えて創刊 された、綴方関係 の学習雑誌はは じめてで ある。 この雑誌 は、 同 年の11月まで7号はど続 き、12月号か ら 『若 き旗』 と改題 され、1931年4月号 まで発行 された。 この後、女性文学 人が寄稿 して いる雑誌 『麗人』 か ら合 同の 申 し入れがあ り, それ を受 け入れ る 形で廃刊 となった(Z川)0 内容面か ら言えば、 『鑑賞文選』 は、 「佳作」 を求 める綴方科 の文章表現指導の立場か ら転換 し、 生活者 として子 どもを捉 え、その生活 を指導す る 「生活創造 としての綴 り方科」 を主張 してい く。 そ して、親雑誌 『殺方生活』 を創刊 し、 「生活重視」 を掲 げ、綴方 を生活教育 の中心教科 とす る立 場 を鮮明 に してい く。 この一連 の流れか ら、思想的、 人脈 的 に繋が り、 生活綴方運動が推進 され ていくことになる。 『鑑賞文選』 は、直接 この生活綴方運動 を生み出す役割 を担 った雑誌であ り、 その歴史 にお いて しっか りと位置づけ られなけれ ばな らない ものである。 そ の点 が、他 の学習雑 誌 との違 いであろう。それでは児童文芸雑誌 『赤 い鳥』 との違 いは何であろ うか。 『鑑賞文選 高等科i (1929年 3月号)の r通信」欄 で小砂丘 は、 『赤 い鳥』 の休刊 につ いて、 次のよ うな感想 を吐露 しているO 「我国の童話や童謡等 の さきが けを して来た、古 い歴史 をもって をる雑誌 『赤 い鳥』 が、 この 三月号限 り、休刊す る ことになった。僕 は、全然 この雑誌 に共鳴す る ものではな いが赤 い鳥 は流 石 にいい仕事 を してゐたOや める となると、惜 しい気がす るo」 小砂丘は、 「全然 この雑誌 に共鳴す るものではない」 と述べなが ら、そ の一方で 「赤 い鳥 は流石 にいい仕事 を してゐた」 と評価 して いる。 『赤 い烏』 は、作家 の童話や童謡 を掲載す る一方、子 ど もの綴方 ・童謡 ・自由画 を掲載 してきた。そ こに掲載 されている作品の一例 を次 に示 してみる(言ittl). コウセン (推奨) 長野県下伊那郡龍丘小学校尋二 下平みきゑ イツウカ、ブタシハウデ、コウセンヲヒキマシタ。オバアチャガ、へンナムギヲ、ヤキナベ ノナカニイ レテ、イツテヰマス。マツカナヒガ、ボウボウ トモエテヰマス。ヤキナベノシキタ 二、キズガアツテ、コハケテヰマス/ソコカラ、ヤハラカナケムガ、ハイツテキマス。オバア チャハ、ヤキナベノツルヲモツテジブンハウへヨセテ、イツテヰマスo ソノムギガ、工へカン タツタラ、ハラヲキツタヤウニナツテ、 ヒバタノグルラニ トビマシタ。 ソノ トビデタヤツヲ、 ワタクシガ、 ヒロッテ夕べマシタ。 ワタクシガ、 ヒロッテ夕べマシタ。 ワタクシガタベテヰマ ス ト、ソノムギノカハガ、 ノ ドニ ヒツカラミマシタ。イツショウケンメイこ、ダサツ トシテモ、 ダセマセン。 ヨワッテヲツタガ,イイアンバイニデタノデ、 ワタクシハ、ニコニコ トシテワラ ヒマシタ

(以 下解) この作 品には、祖母が麦 を煎 って いる時 に、 麦が いろ りに飛 び跳ね、傍 でそ の仕事 を見 て いた 作者が、そ の麦 を食べての どに殻が 引っかか り、それ を取 り除 こうとして もなかなか取 り除 けな いので困 った ことが,時間の順序 に従 って、見た ことは見た とお りに、 した ことは した とお りに、 自分 の気持 ち も入れて、普段使 って いる方言 -地域語 を交 えて、 あ りの ままに表現 されて いる。 表現意欲 を損なわな いよ うに普段使用 して いる地域語 の使用 をも肯定 し、 生活 をあ りの ままに叙

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