お満
け洲
るに
旧地典売の進展と包佃制の形成
石
田
魁
ノ、 崖旗入の生活困窮と旗地政策
㈲貨幣経済と旗人の生活難
清代満洲において広義の旗地を中心とする身分制的・世襲的土地制度は、清朝専制国家の維持、従って皇室、宗室およ
び世襲的軍隊たる満洲八旗の維持を目的としてしかれ、補強されていったのであるが、それは、中国本土に深いつながり
をもつ貨幣経済或は商業資本の進展ないし滲透のため、漸次崩壊の方向をとり、その生産関係も変質ないし推移の過程を
辿ったのである。ところで、このような歴史的過程を問題とするに際し、右に述べた貨幣経済或は商業資本の進展従って
滲透ということが、宗室ないし黒穂の生活を窮乏化せしめ、これを媒介として霊地制度の弛緩ないし崩壊に導くという歴
史的因果の連関はこれを看過することは許されないであろう。されば、この大きな歴史的流れに抗して、清朝の国家権力
を維持するため、清朝自身によってとられた旗地補強政策も、つねに旗人の生活の困窮化との関連によって進められてい
ったのである。いうまでもなく、清朝の軍隊の中核は、満洲八専で、それは武力においては正に一騎当千の強兵であった。康煕帝の如
ぎは、満洲黒旗は一兵たりとも、真に愛惜すべきもので、二十年にして漸くその一人を補充することを得るといい、その
満洲における旗地典売の進展と包佃制の形成 、 一満洲における旗地典売の進展と包佃制の形成 二
垂憐も格別であったといわれる。されぽ、浩朝国家の支柱であった所の、この満洲八旗を構成する旗人の生活の維持とい
うことは二代各朝の重大な問題であり、従って満洲における旗地拡充政策もこの点を主要な考慮に入れてとられていった
ことは右に述べた通りである。しかし旗人の生活の困窮化は年と共に深刻どなって来たことは事実のようである。 雍正五年︵一七二七年号に発せられた陰文によれば、先帝︵康煕帝︶には、兵士の戦功を珍念され、その負債を償還せんがため、 内幣の銀五百四十余万両を発し、﹁家平均数百両を賜給した。然るにも関わらす、不幸、何等置産の事業は、聞くを得ないで、一、 二年を過す聞、既に蕩然として余すところがない。先帝は、その後、また六百五十余万両を賜給したが、之もまた前日の如く立どこ ろに鎖費した。朕は、即位以来、八旗の兵士に、毎回三十五、六万を賜給せること数次に及んだが、彼等は十日ならざるに、早や既 に濃い果して居るのである。彼等は、幣銀が百姓の膏脂たるを知らざるか。将来彼等にして、この悪習を改めざれば加恩ということ も畢寛無意義に終るであろうと述べているという。また乾隆帝の言によれば、満洲旗人は、銀両の入手次第に、径ちに市上に赴きて 狡猜なる市人から綱綴を購い、自ら敢えて愛惜することを知らぬとあるという。右の引用で知られることは旗人の消費生活は貨幣経済に依存して居り、その困窮も貨幣経済との関連において生じてい
るということである。彼等は清朝の入関と共に、北京を取り巻く畿輔地方に移転し、貨幣経済の高度に発達した所で生活
したのであるから、便利にして奢修に流れ易い貨幣的消費生活の慣習は、彼等の生活の中に滲み込んでしまったのであろ
う。やがて、清朝の政策によって満洲の地に転住し、旗雲で農業を営むとしても或はまた北京の附近にあって満洲の旗地
に荘園をもつにしても、荘頭の管理の下に壮丁、家人およびやがて加速度的に流入する漢民人の佃戸︵小作人︶に農耕を
ゆだね、更に、その租糧︵地代︶として牧呈せる農産物の販売についても、また都市的生活資料の入手についても商業資
本の深い媒介を受けねばならなかった。㈲旗人および宗室の入口増加と生活難
旗人の生活困窮の大ぎな原因として旗人の人口増加があげられている。一家のうちでも領事︵軍曹級︶なり、軍艦なりに
ありついたものは、その官職から生ずるところの墨銀をうるが、その選に入らない次男、三男は部屋住とならなければな
らなかった。これは細螺若しくは満洲語でスラ︵蘇拉︶といわれて居る。稲葉博士の﹁増訂満洲発達史﹂に乾隆代の沈起
元という人の次の如ぎ言が引用されている。 ﹁定鼎︵北京遷都︶より以来、四聖︵順治、康煕、雍正、乾煎︶相承け、太平無事なるもの藪に百年なり。深仁厚沢、休養、覆育、生 歯日に繁く、天下の戸口襲昔に数倍す、而して旗人の繁術之に視べり。箱に聞く、世祖︵順治Yの時、上半八万甲、受銀若干両、米 若干石、曾祖︵康煕︶の時に至りて、乃ち増して十二万甲となす。三一甲の丁、今に至って数十丁数百丁となるもの、比々として皆 な是れなり。一甲の糧は、昔以て一家を贈らすに足る者、必ずや以て数十家数百家を購らすに足らざる勢なり。甲は遍ねく及ぶ能わ す、而も徒らに之をして、謝せす、農せす、属せず、商せす、兵せす、拝せす、而して京師数百里の内に環聚せしむ。是に於て其生 は日に壁まり、而も計の為すべきなし﹂と。 旗人の増加したと同様に宗室も増加して来たことはいうまでもない。史家,魏源の言によれば清朝が北京に鄭都したときは宗室の数がご千入であった。ところが道光の末年には三万入を超過しているという。清朝の制では親王の家柄でも世襲
には定数があって、世襲しうる者の外は部屋住み即ち間散宗室となったのである。ここにもまた宗室の生活難があったの
である。
このように宗室および旗人の子孫が益々繁殖し、且つ均等相続制によって家産が細分化する一方、有利な軍職が相対的
に不足したところに生活困難の大ぎな原因が見られるが、この傾向は貨幣的消費生活に基づく薫修化と当時現われた物価
騰貴の傾向と相侯って彼等の生活を愈々困窮に陥れたところに問題がある。㈲旗入の生活難と旗地政策の甚二調
満洲における旗地典売の進展と包佃制の形成 三満洲における旗地典売の進展と包佃制の形成 四
このように宗室および旗人の汰口増加と貨幣的都市的消費生活に基づく生活難を解決し、以て悪書の基礎の揺ぐのを防
ごうとするところに満洲における旗地政策の基調があるので、この点は、前述の如く康煕帝が旗人に莫大な賜給をする傍
ら、例えば康煕十二年︵﹁六七三年︶に﹁在京の旗人にして盛京︵奉天︶に往ぎて土地を受け、田庄を設けて墳墓を守ろうと欲するものが、北京において受けた壮丁地を退出すれば、盛京の熟地を支給し、其の壮丁地を退出しなければ、盛京の
⑦ 荒地を擾給する﹂と述べ、旗入の盛京への転出を促がしたことからも知られる。 また康煕十九年︵一六八○年︶八月に戸部郎中郡斉理が満洲旗人の新開墾地を踏査しての上奏にその新開墾地が万頃余に及ぶこと 及び奉天将軍安珠護の言によれば、これら旗人の自開地畝を尽く没幽すると旗人は生活が出来なくなるというので、書落帝は、かか ⑥ る自開旗地の没牧もしなければ銭糧も微牧しなかったのである。 更に康煕二十八年︵一六八九年︶六月に見える原潜奉天府府サ金世鑑の上意に﹁奉下等の処の地方に於いては旗人と民人とが田畝 を互に争うから言論の荘頭の余地、荒地を別に丈出して、民人に支給すれば、銭糧も増加し、国用を助けるであろう﹂とある。之に 対して康煕帝は、旗人と民人とが相争うのは、旗界と民界とが明らかでないためであるとなして、この上疏に従わず、戸部侍郎鄭都 ⑨ を奉天に遣して、旗界と民界とを明確にさせた。そうしてその六月庚寅に奉天府府サ王国安が辞任したとき、帝は彼に諭して﹁奉天 田土旗民藪界、早已丈量明白、以旗下余地、付之温語、侯満洲蕃術之時、漸次給与耕種﹂といい、此らの旗下余地は空頭に付し、旗 ⑩ 人の人口が増加したときにこれに給与して耕作させるものであることを明らかにした。従って帝が旗影を民界より広くして多くの余 ⑭ 地、荒地を残しておいたのも、将来旗人の人口が増加した場合に対処するためであったことがわかる。 ①稲葉岩吉著﹁増訂満洲発達史﹂ ②③ 稲葉氏 右著 ④ 稲葉氏 右著 一 ⑤ 稲葉氏 右著 一 三五三頁。 二五〇頁。 二五一頁D 三四八頁。 ㌦⑥内藤湖南著﹁清朝衰亡論﹂。稲葉氏右著三四八頁−三四九頁。 ⑦蟹玉﹁大清幽典﹂巻二八・戸部下・田土三・各綱聖運、﹁八田通志初集﹂巻一八・土田志一・八景土田規制・奉天規制、﹁八旗通 志﹂巻六六・土.田田五・土田規制・奉天規制、 ﹁皇朝交献通考﹂巻五・田賦考五・八旗田制・盛京荘田、 周藤吉之著﹁清代満洲土 地政策の研究﹂一四一−一四二頁。 ⑧ ﹁聖祀実録﹂巻九一・康煕十九年八月中未、 ﹁八景・通志初集﹂巻一八・土田志一・八十土田・奉天規制、 ﹁八旗通志﹂巻六六・ 土田志五・土田規制・奉天規制、 周藤氏 右書 一四三頁。 ⑨⑩ ﹁聖租実録﹁巻一四一・康煕二十八年六月乙酉、 周藤氏 右書 一四五−一四六頁。 ⑪ 周藤氏 右書 一四六頁。
二旗地典売の進展
⑧荘頭の有力化と旗地の典売
前述のように旗人の生活が貨幣経済的関連において困窮化していったので、彼らが満洲の旗地において農業を営むにし
ても、手取り早く漢民屋より小作料を鼠取りして小作させる謂わゆる﹁下甑後種﹂の方法を選好したことも無理からぬと
ころであろう。かくて洋弓においては、漢民人の入満の加速度化に伴ってこの種の生産関係が急激に伝播していった。このことは旗地
を漢民人に佃耕すなわち小作せしむることを禁止し、或は制限する上諭なり法令なりが次々と照せられた所からも了解出
来るであろう。更に点頭の経済力の強化と旗人のそれに対する借財的依存および土地の典売等による実質的土地喪失の傾向も見逃して
はならない。荘頭は荘園の壮丁および佃戸の地代たる丸儲ないし租銀を徴消するのであるが、この際、あらかじめ定めら
満洲における旗地典売の進展と包佃制の形成 五 讐’ 溝洲における旗地典売の進展と包佃制の形成 ノ\
れた額を荘園主に納入すればよい所の一種の請負制が行われ、彼が納入する請負額と彼が実際に曲説する残額との間には
②中間下取の生ずる機会が存したのである。更にその地代が現物納である場合、彼がその農産物を商人に販売して現金化す
ることが多いのであるが、ここにも商業資本との抱合による牧取の機会のあることは見逃してはならない。ここに荘頭が
富裕化する根拠がある。彼等は多く商業資本の洗礼を深くうけた漢入であることも注意すべきである。ここに、生活に困
窮し、濫費することは知っても営利することを知らぬ旗入たちが、地代を幾年分も冒頭から前借して石地を典売するに至
ることも避け難い歴史的傾向となったのである。 [註] 典売につき加藤鉄矢監修の﹁土地用語辞典﹂には、 一に活売とも調い、絶売に対する語、すなわち、言及売の二義に解すべき 場合なきに非ざるも、普通用いられる意味は、一種の条件附売買契約にして物品の原価を備うれば、何時にても回寄することを得る 条件を附して、所有権を譲渡することであると述べている。なお、 ﹁典﹂の意義につき、典とは典当とも謂い、他人より一定せる金 銭の融通を受け、之に対して自己の不動産を使用牧益せしめるが為にして、他日之と同額なる金銭を給付し、其の使用温田を終了せ しめ得べきを謂うとある。典権の客体は一定の不動産である。⋮⋮典権は原地主が典価を返還し謂ゆる三盛を為したときは、直ちに 消滅するのであるが、若し約定の期限ある場合は、期限到来後篇年内に回冒せざるときにのみ、典権人はその不動産の所有権を取得 する。而も典権に期限の定のないときは、典権設定の後三十年以内においては典権設定者が何時でも回贈出来る。典権人は不動産を ③ 占有使用牧益し得るのみでなく碧山存続中他人に典物を転典麗は賃貸することを得る。と述べている。㈲長租前貸による旗地典売と典得の主体
更に嘆民入から幾年分もの商始を得て、実質的にこれに蕃地を典売することも行われたと見える。 すなわち雲雨五十四年版﹁戸部則例﹂巻六、田賦・旗地下・民人肝油には﹁民人租種倒置、預交租銀、以三年為断、学長租至三年 以外、与私典同量、違野業戸・租戸、﹂均治目違禁之罪、於置戸名下話租価入官、無相戸名下山地、悪婦業戸、︵興言旗地同︶しとあっ て、乾隆朝において、民人があらかじめ租濡すなわち小作料を納めて霊地を租種する場合には、三年を期限とし、三年以上に亙る長 租は禁止された。これは当時旗人の民入に旗影を典流することが禁止されたので、旗人は此の長齢を得て、実質的に旗地を典売しょ④ うとしたからであると見られる。そして此の禁は乾隆二十五年︵一七六〇年︶に先ず畿内旗地において施行され、奉天心地において ⑤ は同三十四年︵一七六九年︶より実施されたようであるという。
このように長租を得て旗地を群像することが禁止された所を見れば、このことは既に面輔恩給に行われ、やがて奉天旗
地でも行われるようになって来たことを物語るといわねばならな、い。 この点について稲葉博士の見解を学ぶことも無意味ではなかろう。稲葉博士によれば、既に順治七年における﹁旗民不交産例﹂は 旗人の旗地の直売を禁止すると共に、漢民人の購買をも厳禁している。これは当時すでに、蔓立出売の傾向が見られたために発せら れたと見るべきであるといわれる。併し、この禁止令は実効をもたらさなかった。何故なれば、旗人も、漢民入も禁止令に抵触しな いように典地の方法を選んだからである。この場合、累利の約束も結ばれているのであるから、旗地の負債が累積して、土地を回贈 ⑥ する期を永遠に喪失する。だから、典地の方法は法令をくぐる手段に過ぎないのである。 もともと旗人は農業に親しまないで賜給された土地を漢人の小作人︵佃戸︶に一任し、それから納租を徴することは、宗室王公等 の荘園とことならない。間≧好智に長けた佃戸に出会うと地主と佃戸の主客が顛倒して来る。彼等は地主の要求に応じて、約束以外 の金なり穀類なりを融通する。佃戸は、寧ろ書典者なる形を取り、やがて長租権を霞むるという禍を馴致するに至る。この種の小作 人は、妊佃刀戸ともいうのであろうが、その罪の旗入側にあることは、いうをまたない。戴立十年代に、かって雍正代に採用した典 地贋回の方法を再び施行せんとして、近京五百里の圏地︵即題︶を点検したことがあったが、この事業に関与した赫泰の言によれば 覇州等五十六州県の民典老山地︵民人が典得した癖地たる圏地︶は僅かに九千謡扇とあるが、これは民間の隠匿のためであろう。、何 とならば、康煕二、三十年代より、今日に至るまで露出した土地は極めて多く、それを贋回したことは甚だ少いから、数十年間にお いてかかる僅少の数に止まらぬといい、魏源の説に至っては、乾隆代において、近位の旗地は、大半漢民に典ぜられたと断言して琿 らない程である。かくて清朝は、旗人の愚は土地の放棄に在ることを顧慮して、或は長門権の制限を与え、或は盛期の長短により典 価償却に束縛を加え、或は進んで、七二を支出して土地を贋回したこともあるが、それらは康煕代の加恩と同様で、徒らに旗人その 満洲における旗地典売の進展と包佃制の形成 七O 満洲における旗地典売の進展と包佃制の形成 八 ものの生活に放惰安逸を与うるに外ならなかった。このように稲葉博士は述べて居る。
若し、このように畿輔地方において旗人が下地を溢出し、土地をうしなったことが事実だとすれば、始め満洲の地に帰
ることを好まなかった彼等が満洲において表面的に量地の拡充発展に貢献したように見えるのは、実は畿輔地方で土地を
うしない生活に窮したため、清朝の政策に便乗して満洲の地に旗地を得たので、これをも漢民人に佃作させ、遂にはこれ
を前と同様に典価して行ったのではないかと思われる。畿輔地方で前にやったことは、やがてまた満洲においてくり返さ
れるわけである。それというのも彼等旗人が、貨幣経済的消費における濫費と生活困窮に追いまくられての故であろう。これを政策的に裏書するものは、かって引用した民人長租を制限する法令であろう。而もこの法令も地代の前貸による三
年以上の長点は禁じているが、それにしても、小作料を前渡し金融して、土地の訴権を取得するものは何者であるかが問
題とならざるを得ない。それは、華北から借財のため土地をうしない、置きわまって流れ込んで来た貧農民であろうか。 彼等にして、かかる資力あれば土地をうしない郷村から流亡する筈はないであろう。かように見てくれば、このように幾ヶ野分もの地代を前貸しうるものは、相当資力のある高利貸的商業資本か、これと
連なる頭領で彼ら流民を統卒して来たものであったとも考えられる。かようにして青地の典権を取得すれば、典権者は前述の如くこれを転典することも出来れば、賃貸することも出来るの
であるから、ここに典権者を実質的地主とする小作関係が成立して来たと見られうるのである。 今はなき若き東洋史の学徒で、満州の植民史の大成を期して研究していた元建国大学助教授の高橋匡四郎氏は、かって筆者に、華 北より渡来せる比較的大きい商業資本が官地ないし芯地の典売をうけて、これを分譲し、或はこれを小作せしめた例も少くないと語 つた。このことはノートに書とどめられているが、ただ史料を聞きただそうとして果さすにしまったことを遺憾に思う。⑥旗地典売の表面化と民典旗地の整理
これまで述べて来た所から窺われるように、満州においても質地の典売は相当以前から既に進展していたと考えられる
、 が、この問題が奉天の地において表面化し、重大化したのは乾隆二十七年︵一七六二年︶より同三十年に互って、奉天の旗 地が丈量されたことに端を発する。 この間の事情は周藤吉之著﹁清代懸軍土地政策の研究﹂に詳しい。それによると次の如くである。すなわち、右の丈量の結果、先 ず北京の旗人の所有する旗地が、その荘頭によって典売されていたことが判明した。そこで乾隆三十年︵一七六五年︶十一月には、 在京旗人の奉天旗地を私かに典着した荘頭および之を典増したもの並びに中保人︵即ち保証人︶を処罪しようとした。ところが、こ れらの十三は、旗地の盗験すなわち字典は、すでに死んだ祖父とか伯広庭が行ったというのである。そこで翌三十一年十二月には、 帝は盛京戸部侍郎駅員達の奏請に従って、奉天における王公荘田の盗犯は宗人府に査明させ、盛京戸部に移題して、これを弁理させ ることとした。そして、在京旗人の奉天における祖遺田島および田屋を盗博した家奴、荘頭人等は、田五十畝は子孫が祖遺杞産を盗 売せる律に照して罪し、五十畝に及ばないものは、宮田房宅を量売せる律に照して罪し、其の中保人も盗売人と同罪に処し、房産は 原主に還し、売価は官に入れることにしたというのである。以上が官庁文書によって述べられている表面のことと見てよいであろう。大体、旗地を荘頭や町奴が典章すれば、その
時から地代の牧入が減る筈である。従って、自己の馬面が聖典されたことがわからぬ筈がないと一応は考えられる。併し
不在地主の聖地が一重荘の場合も同様で睡るが、原下地以上に開墾され、それが小作されて地代のあがるとぎは、この
増加分に相当する土地は聖典されても不在所有者にはわからぬ場合がありうる。真に号車が行われたとすれば恐らくこの
様な仕方でなされたであろう。ただ考えられることは、在京の有力な宗室ないし旗人の場合、自己も承知の上で壮頭に典
売させて、これが発覚したため、これを隠蔽するため表面的に上述の如き処置がとられたと見られないこともない。 ,、次に民典旗地すなわち民人の忘難した旗地の処置について周藤氏の研究は次の如くである。 . 満洲における旗地典売の進展と包佃制の形成 九満洲における旗地典売の進展と包佃制の形成 一〇 すなわち﹁八達通志﹂巻六六・土田志五・土田規制・奉天規制の乾隆三十四年︵一七六九年︶二月の条によると、初め盛京戸部侍 郎瓦節略は奏して、奉天の旗人は生計が戴難であるため、民人に出典した旗地を回虫する力がない。因って典を改めて租とし、年限 を分って租を典価に充て、其の旗地を旗人に還させ、旗産が転じて民業となるのを防がんことを請うた。戸部は之を議覆して、民入 が例に違って請地を典買したのであるから、典買忌地を撤して、旗人に還させようとした。大学直面統勲等も此の戸部の議を採用し た。また戸部は瓦爾達の奏請を議して、奉天の民田畑地はみな口調を用いて居り、其の懸鼻は零細なるものを合計したり、或は什物 ゐ を折価したり、甚しきは随意に定められたものであるから、この典型に基づいて畿輔画地のように年分を按じて典価を逓減し難い、 また畿輔上地においては官が旗地を回亡した後、旗人に五年を限り、俸餉を抵当にして、これを回贈させたが、奉天の寒入は生計に 窮していたから、その限を寛くせんことを請うた。そこで大学士劉統勲等は議して、奉天の旗地は入墨旗地の定価の例に照し、年数 の遠近、同価の多寡を論ずることなく、みな現在の他地の租思︵小作料︶を見て、租息﹁銭のものは典喪心一両を給し、租息の軽重 ⑭ に従って選曲の多寡を定め、官が之を回脅することとした。⋮⋮また官償した民間旗地は原業主の旗人に十年を限って、俸餉より典 ⑫ 価銀を控除させることとした。⋮⋮そしてこの乾隆三十四年︵一七六九年︶十二月には﹁民人が、典買更地を清癒するとき隠匿して 首報せす、後に至って之を察出したときには、其の土地を官に入れ、業主、告主は倶に官田を隠匿した律に照して罪し、又此の清査 を行った後、例に違って讃仰を即売すれば、業主・告主は倶に違制律に照して罪し、土地・価銀は共に撤糊して、官に入れる﹂こと ⑬ とした。また同じ三十四年に﹁議准、盛京民州旗地、凡旗人出租地畝、統以三年為限、違者照長雨例弁理﹂とあるように、奉天の民 典旗地に育て旗人が其の租を典価に充てたものは、みな三年を限り、それ以上の年限のものは、長租の例に照して処罪することとし ⑭ た。このように周藤氏の研究は述べている。前に引用した﹁戸部則例﹂巻六・田賦・旗地下・民入単離の条に述べてある長租禁止令 が乾隆三十四年に奉天地方に実施されたというのは、こうしたことから結論されて来るのであろう。
㈲旗余地の典売と整理の諸形態
民典旗地においては旗紅冊地ばかりでなく、旗余地も典章されていたのである。すなわち乾癬三十五年︵一七七〇年︶には民典旗地を回卜した稽案を査弁して、旗人が余地四万二千余畝を典益せるのを査出した のである。然るに旗余地は乾魚三十↓年以後官に属していたから、これは幣金を出して回廊せす、民人にこれを耕作させて、租銀を ⑮ 出させ、州県にこれを催徴させた。すなわち旗余地の中より目串旗人余地だけは州県の管轄に移した。 なお﹁盛京通志﹂巻三七・田賦一によるとこの乾隆三十五年には民典旗人余地の外に永遠徴租地および暫行徴租地も州県の管轄に 帰したようであるという。このうち永遠微租地は羊歯旗地の中、原業主たる旗人が戸絶して回目するものがないので、典得した民人 にこれを耕作させて、永遠に租銀を徴敗した土地であり、野点徴租地は民典旗地の中、原業主の旗人が明瞭を映くので、民人にこれ を耕作させて、暫く租銀を徴面し、原業主の旗人が明確になった後、これを回贈させる土地であるとしている。従って永遠徴租地と ⑯ 暫行徴租地は元来旗紅地であったのが、右のような事情のため州県の管轄に入ったものである。 ⑰ 民典旗人余地、永遠徴租地、輪行微租地の租銀は所により毎畝銀五分から七分を普通とし、義州には八分の所もあったという。 重奏三十八年︵一七七三年︶二月に欽差尚書油日修は、奉天の民典目地十二万余駒を二二したので上奏して、原業主の旗人が自ら 耕作し得るものは、佃戸より旗地を取上げるのを許し、また、原佃民人の租の滞納は官がこれを催比し、佃戸の租を納めないものは 其の地を取上げて、別の佃戸を招いて耕作させ、また旗人が回贋の価銀を納めない前には、旗地を耕作することを得す、また佃戸が ⑭ 租を滞納しないのに、其の地を取上ぐるものは罪に処せんことを請い、帝もてれに従って施行させたという。ところで指差尚書嚢日 修が去った後には、下京戸部侍郎瓦爾達が民典旗地を処理することになったが、半年を経ても弁理し畢らす、房地の侵占によって職 を罷めさせられたという。房地の晶群ということは具体的にどういうことを指すかは明らかでないが、この民典旗地の処理がはかど らなかったことを想起すれば、彼自身宮地ないし福地を典卜していたのではないかという疑が生じて来る。 かくてその後、戸部侍郎喀爾論義が奉天将軍弘胸、奉天府府サ博郷額等と共にこれを処した。同年八月の彼等の上奏によれば、彼 等が欽差尚書裏自修と共に民典旗日十二万六千百二十六聰を回面した後、民典心地を首報ずるものが五百九十余駒あった。また瓦爾 ⑳ 達が離任した後、民典霊地三白四百二十胸を回心したが、未だ回通しないものが一万四千百六十余駒あった。 翌乾隆三十九年には努金を発して回題した旗地の中、原業主のいないものは、先ず租銀を徴毒して暫行徴租地に入れ、原業主たる 満洲における旗地典売の進展と包佃制の形成 一一
満洲における旗地典売の進展と包佃制の形成 一二 導入がその回贈を請うのを挨って、確実な証拠があれば原価を交賦して回腰させた。また原業主が直ちに塵地を回腰する力がない場 合にも暫くこの項に入れて、彼等が有力となるのを侯って回贈させたものもある。永遠徴租地も壮行徴租地もみな余地の項に入れら ゑ れ、余地の例にならって租銀を徴牧されたので後には永遠余地、とか暫租余地とも呼ばれるようになった。 ゆ ﹁盛京通志﹂巻三七、田賦一によって乾隆四十五年の民典旗人余地、永遠徴租地、暫行徴租地の額をあげると次の如くなっている。
冨典旗人余地
永遠徴租地
誌行徴租地
義広寧錦興i[1由寧復旧開蓋海遼承
寧遠 巌海 三原平城陽徳
州県州県京城県州県県県県州県
計三三五 ニ
ー三三四一四二二
1 1 1 h l N l h 二三、 三二、 二一〇、 畝 [ 四↓七・○. 四〇七・五[ 四八九・五 九九〇⊥ハ⋮ 五〇三・〇 二︻四・六三八丁七
三九四・六 二九八・三 二四四・四 二二四・三 二六三・三 二五二・七 〇八一・五八一 一 四
、 、 、 、二三一九一 九
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… 畝
九〇〇
五〇一・〇 二五九・Q 二七四・九 九〇・Ω 一二九・〇 六二九・六⋮ 二三三・〇 九三〇・五. 五八六・〇 五三一・一 合 計 二六九、八九六畝三分︵四四、九八二日 四畝三分︶ この民典引入余地二一〇、○八一畝余は、 乾隆三十五年の余地四二、○○○余畝に比較 すると驚くべき程の多額になっている。そし て、この民典旗人余地は、旗余地の中から除 かれて、州県の管轄に入ったものである。 また永遠徴租地と暫行徴和地の合計五九、 八一四三余はもと紅冊地であったものが、こ れより除かれて、州県の管轄に入ったもので ⑳ ある。更に乾隆三十八年︵一七七三年︶に回 即した民典旗地の紅冊地十二万余胸のうち、 九、九〇〇余情︵五九、四〇〇畝︶だけが州 県の管轄に入ったに過ぎす、大部分は旗人の ⑮ 所有に係る紅凹地となったと考えられる。 ここに州県の管理ということが述べられた が、この点に関して当時、満洲の行政機構が0 軍・民の二元的属人主義をとっていたことに注意しなければならない。すなわち被治者を旗籍と民籍とに大別し、これに基づいて軍 写譜系統の官庁を設け、分管分治を行った。旗籍に編入された者は満洲八旗、蒙古八旗および漢軍八旗の三軍二十四旗であり、総括 してこれを旗戸または旗人と呼び、その統治機関すなわち軍政機関は将軍、都統総管下でこれは俗に旗衙門︵署︶と呼ばれた。民人 すなわち主として漢民人の民政機関は府、庁、州、県等と呼ばれ、俗には民衙門︵署︶と呼んだ。そして、土地も旗人に属した旗地 は右の軍政機関により管轄され、民人に属した民地は民政機関で管轄する建前をとったのである。従って州県等の民政機関が設けら れて行くのは、裏からいえば漢民人の移住が進展し、その支配ないし耕作する土地が増加したことを物語ることにもなるのである。
このように一て民人に椿事された旗落すなわち民典旗地が整理されて行ったが、其後も旗地の歯黒されたことが摘発さ
れ、また自首される毎に色々な名義で整理されていった。既に述べたような清朝の上からの属地設定と下からの漢民人の
蚕食−私墾と典買取得による崩壊、その摘発による整理、この過程の反覆、こうしたことで満洲ことに奉天地方の土地
制度が非當に複雑多岐を極めたのである。これは歴史的生成の過程において理解して行くより外、これを解明する鍵がな
いことは、この道の権威者たる天海謙三郎氏の述べる通りである。われわれの直接の問題は土地制度そのものではなく、農業的生産関係の推移が貨幣経済の進展、従って官僚乃至商業資本の媒介の下に如何に行われたかという点にあるわけだ
が、併し、これは、土地所有関係、従って土地の租借関係の推移を媒介とし、そのうちに表われているのであるから、土
地制度の推移を見ないわけにはいかないのである。 問題がここに至ると非常に困難を極めるが、このことは満鉄、調査部編、 ﹁土地問題関係文献目録﹂を見、その文献目録︵これだ けで二百数十頁を費している︶に目を注いで行くだけでもわかるであろう。ここでは、この文献目録に附録として掲載されている天 海謙三郎氏の論文﹁満洲国土地制度の理解に関する一関鍵﹂に導かれ、天海氏たちが嘗て行った満洲旧慣調査報告、︵これには皇産、 内務府官荘、一般民地上、中、下、蒙地、租権、押、慣習等の各巻がある︶台湾総督府編清国行政法を緯とし、周藤吉之著﹁清代満 満洲における旗地典売の進展と包佃制の形成 =二清代奉天地方における:重要土地制度推移に関する年表 旗 地 学
副民
地 関 係 順治年間 (1644−1661) 康煕28(1689)丈量 1 32 (1693) 墨蹟4(1726)丈量 L 5 (1727) 7 (1729) 牽乞隆5 (1740) 乾臨27(1762)丈量 f 30 (1765) 丈量後 の整理 35 (G770) 38 (1773) 12万璃の回忌 (周,P,229以下) 車乞隆45 (1780) 丈量 46 (1781) 嘉慶4(1799) 5 (1800) 嘉慶10(1805) 同治12(1873) 高地(支給地)の設定 (丁糧,無役の免除) (周,P.23)縣
細螺
民人起科地(民,P.41) 対地畝の賦銀と丁銀(樒銀)を 門地 (周,P.11,23) 地畝毎に粟米と丁毎に黒豆を徴 牧 (周,P.150以下) 康煕後半には銀納又は昏晦が時 と所により行われる (民,P、47) 旗紅冊地となす(周,P,153以下)1民紅冊地となす(周,P.154以下) (紅隔地の制定)5年(1727)銀米(粟)各半 国典旗紅窮地の回晒(民,P.129)1 微牧制行わる (民P,47) 民嵩置紅海地の回駿(民P,129)「 旗 人 余 地 と十二余地の発見(周,P。253) (336, IOOEIt) (74, 700ee)“一
旗 余 地 随 敏 地 (額徴旗人余地) 水沖沙圧地 H(周.P.254) 学田・水手公産 上中下の三則余地 (周,P.254) (周.P.255) 民典皆紅地と民典旗人余地(周,P.228)へ
民典旗地の整理(周,P.225)一一
農←勲冊
暫行徴租地 永遠徴租地 民典旗人余地 (周,P.233) (周, P。22S) (民, P.128以下) 額徴民人余地 (民人徴租地) (民,P.33,101以下) 隠匿令を発し 隠匿地を銀米徴加賦地へ (銀米兼徴地心は加賦余地) (周,P.207,257,民,P.33,103,104) 隠匿地を額徴加賦余地へ (民,P.103,104) 旗人民人の私墾地の自首をすすめ自首せる余地の野馬策を講ず(暫定法令) 旗陞科地とす(周,P.258) 額徴減賦余地とす (民,P.33,34,105,106) 首回新開地に関する永久法令の制定 押脚首報私開地 (民入首報酬開地) 紅冊地の考私開地(又は紅冊両辺滋生地)を首話したものには之を 私産として売買することを許す.等々 (民,P.107以下) 民人亭亭の民典旗地21万畝 続増額徴首報序開地 (周,P.233) (続増民人首報私開地) 嘉慶5年の法令に殆ど同じ (民,P.107) 満洲における旗地典売の進展と包佃制の形成 四 《備考》 旗陞科地は属人の主徴減甲余地,曜日首報私開地及び粧増額部首報新開地に相当す(土地用語辞典,Pユ27 旗地余地の項) ( )内の周は周藤吉之著「清代満洲土地政策の研究の略,民は満洲旧慣調査報告 一般民地上巻の略.洲土地政策の研究Lを経として、前頁の如き重要土地制度推移に関する年表を作成し、研究の指針としたが、これは、また、ここで の叙述を理解する助けとなると思うので、ここに掲げることとする。もとより完全を期することは出来ないが、これを足場として将 来より完全なものが作成され、また差当りとしては、ここでの理解を少しでも助けるのに役立てぱ幸である。 ①周藤吉之著﹁清代満州土地政策の研究﹂二=一頁。 ②大上末広氏﹁清朝時代に於ける満洲の農業関係﹂一〇〇.頁。 ③加藤鉄矢監修﹁土地用語辞典﹂典売︵四七三頁︶および典︵四七一頁︶の項参照。
④周藤氏右書二一二頁、二二二頁。
⑤ 周藤氏 右書 二一三頁。 ” ⑥稲葉氏﹁増訂満州発達史﹂三五四頁。⑦稲葉氏右書三五五頁。
⑧ ﹁高宗実録﹂巻七四八・乾隆三十年十一且払子。 周藤氏 右書 二二六頁。⑨右巻七七五。乾隆三十一年十二月発亥。周藤氏右書二二六頁。
⑩乾隆五十四年版﹁戸部則例﹂巻一七・二二・重典重売、周藤氏右書二二六頁。 ⑪⑫ 周藤氏 右書 二二七頁。 ⑬乾隆五十四年版﹁戸部則例﹂巻六・田賦・旗地下・民人典麗、周藤氏ニニ八頁。 ⑭嘉慶﹁大量会典事例﹂巻コニ六,田賦。唖蝉官兵荘田二、これは民典旗地に於て旗人が毎年旗地の租を出して、典章に充て、其の 旗地を回順しょうとする場合を指したものであるという。 周藤氏 右書 二二八頁、二九六頁。⑮周藤氏右書二二八頁。
⑯﹁満洲旧慣調査報告﹂一般民地上=旧事ー=二四頁。周藤氏右書二二八一二二九頁。
⑰周藤氏右書一=一九頁。 ⑱﹁高宗実録﹂巻九二六・乾隆三十八年二月乙丑、周藤氏右書一ご一九−二三〇頁。⑲周藤氏右書二三〇頁。
満洲における旗地典売の進展と包佃制の形成 一五満洲における旗地典売の進展と包佃制の形成 一六 ⑳﹁高屋実録﹂巻九四〇・乾隆三十八年八月丑寅、﹁半旗通志﹂巻六六・土田志五・土田規制・奉天規制、周藤氏右書 ⑳ 嘉慶﹁大清会典事例﹂巻二三二・盛京戸部・目地。 周藤氏 右書 二三〇一二一一=頁。
⑫前掲報告一般民地上=二三頁、=二五頁。周藤氏右書一夏二頁。
㊧ 周藤氏 右書 二三二頁−二三匹頁。 @⑳ 周藤氏 右書 二三三頁。 ⑳ 天海謙三郎氏﹁満洲国土地制度の理解に関する﹁関鍵﹂ ︵満鉄調査部編 土地問題文献目録 附︶四〇頁。 ⑳ 天海氏 右論文︵右書 附︶ 二三〇頁。三荘頭、壮丁の地、主化と包佃野の形成
㈲ 旗入間の旗地売買と荘頭、壮丁の地主化
﹂⊥焦した所から見て来ると旗地の漢民入への澄池が如何に広汎に行われたかということが了解されるであろう。 ところが嘉慶十年︵一八〇五年目八月の条によると、当時再び戸部の議によって、民典旗地を精査させ、旗人および民人に翌年ご月を限って、自首させてその罪を赦し、且つ上価および租息を追及するのを免じたという。そしてこの時、旗人
む および民人が首悪した民営旗地は二十一万余畝に及んでいたという。すなわち、乾隆三十八年︵一七七三年︶に民典野地十 二万六千余鴫︵七五六、七五六畝︶を回早した後、三十余年にして民典速断は再びご十一万畝に達したのである。かくて量地の典売による崩壊への大勢は止まる所を知らぬ有様であった。これはまた次の如ぎ現象にも見られるところ
である。すなわち、旗地の民人への典売は既に述べたように禁ぜられていたが、旗入聞における売買は、康煕九年︵一六
七〇年︶からは同仁の旗人の聞に行われることが許され、乾隆二十三年︵[七五八年︶ に至って,この制限は廃されて各旗 地を通じて典売買することを認めた。 Oそこで旗人間において旗地の売買が盛んに行われ、ことに盛京内務府地義軍撹によると乾隆朝より嘉慶朝にかけて旗人
が生活難から盛んに旗地を煮売し、富裕な旗人ぱ多くの旗地を買取るに至ったといわれる。更に官需の荘頭や壮丁にも経
済的に有力なものが生じ、一般聖地と旗紅甘地の売買を行い自ら地主となっているものも少くなかった。彼等もまた漢人
で、既に述べた如く、官荘の糧穀の売買について商人とつながりをもち、ことに荘頭は租糧の徴牧に関して中飽する機会
があったからであろう。周藤氏の述べる所によれば、盛京内務堅地畝主面を見ても園丁、魚丁、豊凶、荘頭、倉軍、並丁、 ⑤礼部六品官下の壮丁等も紅冊地を所有し、一般旗人と旗紅菊醤を売買していたという。彼等は大体において旗籍に入れら
れていたので、それが出来るわけである。そこで、これらの人出の地畝も旗雲に入れられていた。八旗通志初七飯一二、土田志四、奉天黒旗土田に載せられている所のこれら荘頭、壮丁の所有地の表が周藤氏の著書に引用されているが驚くべ
ぎ程度を示している。 更に、例えば、盛京内務府地覆稿棺の乾隆三十七年︵一七七二年︶六月の梢案によると、内務府会計司属下の革退軍頭杜喜章は彼 の父が、地黒三十二年に銀三百両を以て買取った鉄嶺黒白迷界陳戸屯の陳義虎昌盛下の紅冊地八十九日三三及び鑓白旗界安心台の陳 有士名下の紅望地七十日三聖を小制銭八百吊で以て皓丁慰撫に売渡して、其の業とした。とある如く、この内務府荘頭が紅冊地を所 ⑨ 有したこと及びこれを売買したことがわかる。また同じ年の六月の禧案に、内務府会計司所属の荘頭施恵仲、壮丁施美は称して、曽 祖施自先の北嶺錘黄尊書皇家屯の当差響冊官地の一段三百七十四畝︵六十二日二畝︶の中十五日を墨入李二、李三、李四等に佃種す ⑨ なわち小作させていたといった。この当差紅冊官地は内務府官撰を指すもので、これが又貸しされていたことが看取される。 また満州旧慣調査報告﹁皇産﹂によると盛京戸軍官荘の各荘頭は、多くの土地を支配し、これを自種するも出租するも全く自由で あったというている。二、三の例を引用して見ると、 高塚声 荘地を合計八股︵一理 二百四十畝︶に分って、親王、壮丁に分光せしめ残額一千百八十畝は総て荘頭の経営に帰し自種 するも出租するも全く自由であるという。 満洲における旗地典売の進展と包佃制の形成 一七満洲における旗地典売の進展と包佃制の形成 一八 郭景明 郭、馬両姓の壮丁十ご戸の承汗するもの四百二十畝にして、其他の荘地一千九百八十畝は皆荘頭の管理に帰す⋮⋮ 季春田 荘地二百日を十二に分ち毎壮丁をして一面即ち十六日︵九十六畝︶を承種せしめ、其他の残額四十日︵二百四十畝︶を荘 頭の喫租地と定む。 農書華 ’荘地三千畝を七股に分ちて一面を三百畝となす。是れ皆壮丁の分裏地にして寓言は爾余の荘地約一千畝を選管す。 三殿魁 荘地三百五十日中鳶頭の車種するもの百二十日︵七百二十畝︶内に余地五十四半を含み女臼の養購地に充つ、他は皆丁佃 が租耕す。 このように鳶頭は、自分で自由になる多くの土地を支配したのであるから、これを小作せしめたでもあろうし、又有力な商業資本 関係者などに地代の前納︵先租︶或は押雨垂︵租借保証金︶の前納の形で資金の提供を、うけ、その実質的支配権を委ねたことも考え 得られる次第である。所謂私兇盗典がやかましく問題になったのもこの辺の消息を物語るものであろう。
㈲旗地典売と包佃制の形成
このようにして見ると、旗地は清朝政府の凡ゆる努力にも拘らず、漸次漢人に典売されて止まる所を知らず、清朝が旗
人の生活を支えるたあ、その増血旗紅冊地は回亡して、力ある旗人には買戻さしめたが、その力なぎものおよび民典旗人
唱余n等は凡て官有地としてもとの典得者からは租診たる地を徴することとし、この牧入を以て旗人に手当として、例えば
旗余地の租銀を冬囲の兵丁に支給するとか、或はその余の話説を恩賞銀として賞給するとか、という風に、旗入の生計保
護に用いたのである。かくて、かかる処置の以前に、典得者の下に小作された所では、前の実質的地主たる典得者は新な
る処置の下では、包率由たる地位にたたされ、官を地主とする又小作関係すなわち包佃制が出来上ったのである。かくて、このような旗地制度の崩壊は、貨幣経済従って商業資本の媒介による旗人の生活の困窮化と荘頭、壮丁ないし
佃戸の有力化、或は商業資本ないしこれと関連ある官僚その他の進出に基づく旗地の典売買によって具体化し、後者の地
主化をもたらし.た。そして、この典得者を実質的地主とする小作闘係が形成されて行ったが、それのあばかれたものは、
清朝専制国家の旗人生活の維持を目的とする旗地補強政策の下に、或は回陵され、或は官地に強引に編入されて地代すな
わち租銀を徴牧され、後の場合は右の地主は﹁煮転人﹂の地位におし下げられ、今までの黒馬による実質的所有権は永租
権に変更され、ここに﹁包佃制﹂すなわち﹁又小作﹂の関係が形成されるに至った。かように満洲の土地制度ないし農業的生産関係は、一方、中国経済につながる貨幣経済或は商業資本の破壊的作用と他
方、このために生ずる旗入生活の貧窮化および旗地制度の崩壊化に対処せんとする清朝専制国家の旗地補強工作との相剋
のうちに展開し推移して行ったと見ることが出来る。 このようにして、漢民人に典売された旗地は、清朝政府の強引.な旗人保護政策によって、・或は回陵され、或は官地に取 上げられて減租︵税金と地代︶を徴牧され、一応整理された形になったのであるが、これで属地の典売がなくなり、旗地の崩壊が阻止されたであろうか。大体上述の研究は基礎資料としては主に公的な記録に基づいてなされたものであるが、漢
楽聖に実質的に売渡された旗地で、公文書に現われて来るものは、禁止例を潜りそこねた一部のものに過ぎないであろ
う。満洲土地制度研究の権威者たる天海謙三郎氏のいう如くコ自然、旗地は挙げて之を勤勉なる漢書佃戸又は旗下農奴の
﹁経営・租耕に委ね去るのが実情であったから、富裕なる民人が貧乏旗人と勾結し、私かに法条を潜りて、旗地の違禁譲渡 を行ふ機会は、必ずしもその乏しきを憂へなかったのである。乃ち ω典一1殊に要素︵無期限の典︶又は火焼契、拭樟子契等と称する計画的の黒髪権拗棄手毅を用ふる仮装典の売買、②表面永小作権の譲渡に擬せる党名義の売買、鋤長期間小
作料︵租︶の一括前納を迷彩とせる思至名義の売買、㈲一面巨額の賃借料保証金︵即ち売価︶を牧受し、他面極めて軽微なる名目的租︵小作料︶を年納せしむるやう作為ぜる押、又は大押小聖形式の売買、㈲不交響例の例外たる三園︵房園即ち
宅地、菜園即ち宅地に近接せる疏菜園及び墳園又は螢園といわれる墓地︶の譲渡に仮託せる農耕地の売買等、種々の異想
満洲における旗地典売の進展と包佃制の形成 一九
満洲における旗地典売の進展と包佃制の形成 二〇